柴田敏雄と鈴木理策 その一


『柴田敏雄と鈴木理策』


 アーティゾン美術館で開催中の『柴田敏雄と鈴木理策』は二人の写真家が感銘を受けたセザンヌの絵画表現からそれぞれの手法で抽出するエッセンスを写真作品に落とし込み、記録を超えた表現への昇華を試みる興味深い歩みが紹介される。
 展示されるのは勿論、展示会のタイトルを飾る柴田敏雄さんと鈴木理策さんの写真作品であるが、その要所、要所ではセザンヌの他にモネやギュスターブ・クールべ、ピエール・ボナール又は藤島武二などの絵画が挟まれ、隣り合う写真表現との対比を常に行える。その往復を重ねることにより写真と絵画双方の表現の本質が浮き彫りになり、その良さが増していく相乗効果を発揮する。この点が本展の白眉な一面であり、まだ半年以上あることを承知で今年ベスト3に入る素晴らしい展示だと筆者が評価したい大きな理由となっている。



柴田敏雄



 筆者が敬愛するセザンヌの絵画表現に認められる不安定なモチーフが保つ均衡の力点が、キャンバスの奥に向かって画家が「世界」のイメージを広げる過程で保つ多角的な視点と、それらを結んだ線で捉え得る数学的図形の枠組みにより齎されるのだとしたら、かかる要素を写真に収めることは難しくないのでないかと一素人は想像する。なぜなら、人は数学的図形のパターンの組み合わせに基づいて対象を認識する。それ故に被写体の選択やそれを撮る角度等に工夫を施し、自然風景を図形として把握し易い様に仕上げることは可能といえる。また自然風景と対比される人工物は法令の制限内で敷地面積を最大限に活用し、費用や使用目的に沿って実現可能な建築物の規模、構造、機能性等の選択を数学的計算に基づいて行い、適切な材料と技術を用いて建設されるに至る。故に、自然風景以上にそのシルエットが有する数学的図形のパターンを強調してセザンヌらしさを前面に押し出した写真作品を仕上げることが可能である。
 という理屈は、やはり実際の作品を目の当たりにすると木っ端微塵に吹き飛ばされるから展示会場に足を運ぶことの大事さを改めて思い知り、その有難さをもって学芸員等の美術館関係者の方々に筆者は感謝するばかりである。




 人がその身体をもって知れる「世界」を記述するだけでは、人が実感をもって生きているこの「世界」に触れた事にはならない。かかる一文に確かな根拠を与えてくれると筆者が考えるのは、本展会場内で鑑賞できる藤島武二のパステル画である「日の出」と油絵の「青富士」である。
 東京国立近代美術館のMOMATコレクションで鑑賞できた「港の朝陽」とはまた違う、こちらの「日の出」が伝えて来るのは海に潜んだ宵の冷たさであり、覚めない時間の終わりを予感させる朝陽の遠い存在感であるが、それを目で知り、この世における真実であると述べる個人的な確信は画家の手による最小限の色の動きと、形を得た柔らかなものの存在によって生まれている。そのことを「青富士」の山肌に施された勢いのある厚塗りが、また天から降り注ぐ陽光の重なりと侵食が、向こう正面の遠景として捉える富士山とこちらの間にある空気が反射して見せる青色と、画面両端に垣間見えるエメラルドな空模様との対比を効かせながら、より物らしさを強調して額縁の小さな殻を割り、命の身振りを表していく。
 数学的図形を下敷きにして外界を認識し、覚えた言葉で意味を付与して、その間にある関係性等を見て取り、ときに主観的な感情の色を乗せて私と名乗れる地点から死ぬまで生きる、その「世界」の存在感を立ち上げていく。筆者が想定するこの認識過程において「印象主義を堅固で永続的なものにしたかった」という、セザンヌの没後にナビ派の一人であるモーリス・ドニが雑誌で紹介した生前の言葉が果たすのは、探求する画家の主たる関心が鑑賞する個々人の内心で生まれる(はず)の「世界」の契機を如何にして確保するか、もっと言えば如何にして絵画表現がなし得るものとして位置付けるかという点にあったという推測である。
 アカデミックな評価軸に対する確かな理論的根拠として対外的に説明できるものを打ち立てる試みは、けれどそれ以上に画面奥に広がっていく表現の可能性に満ちていたと筆者は考える。なぜなら、セザンヌという画家の上記関心は描く者又は見る者それぞれが抱く心象風景を直接取り扱える画面表現を可能とする道を目指す。同じヒト科に属する生き物として認識可能なパターンを元に「私」たちが思うこと、感じることの在り方を思うまま、感じるままに表現する。そういう自由なイメージへの関心を、誰よりもセザンヌという画家が表現していた。それ故に、絵画世界独自の表現を探求することを掲げたナビ派に強い影響力を与える等の射程の長さを有していた。
 かかる画家の関心を柴田敏雄さんの写真作品に投げ掛ければ、朧げながらもその本質が浮かび上がる。自然風景又は人工物に向けたレンズが捉える被写体の数学的図形及びその関係性が生む差異とリズム、遠近を活かした画面の奥行き、偶然性を備えた色彩の数々は前述した写真表現におけるセザンヌらしさを表す。しかしながら、かかる諸要素を取り纏めてひとつの固まりとし、詳細を聞き取れない程に大きな声で語り続けている何者かの存在が伝わってくる。「柴田敏雄という固有名を捨てた写真家のそれ」とでも記さなければ収まらないし受け止められない、その迫り方に圧倒される経験が筆者の小賢しい「らしさ」などという言葉を見事に破壊する。
 それは正しく「本質的に非決定的な瞬間」であり、「鑑賞者の共感も拒絶する」。会場内で紹介されていた柴田敏雄さんの写真作品に対するかかる批評は、だから実に的を得ていると筆者は思う。そこに言葉を加える愚行を恐れずに犯すなら以下の通りになる。すなわち柴田敏雄さんの表現には確かにこちらが入り込める余地はない。なのに「とても良くわかる」とこちら側から宣いたくなる。間違いなく個人的であるのに、正しく一般的でもある作品だからこそ「あなた」の様に、そして「あなた」と違って「わたし」も知れると述懐できる人の可能性に満ちた、その写真表現なのだと。
 一方で、柴田敏雄さんの写真作品を識るために欠かせない別の要素として挙げる被写体の質感は岩などの表面のざらつき以外にも、コンクリートを流れ落ちる水の流れが静止する瞬間にこそ見せる速度の違い又は飛沫の現れとして表現されもする。
 セクションⅠの冒頭を飾る「山形県尾花沢市2018」及びセクションⅥで雪舟の水墨画と並んで展示される「グランドクーリーダム、ダグラス郡(ワシントン州)」に共通する瞬間的風景の幻想化は、言葉が付与すべき意味内容の枠内に上手く収まらない。その理由(わけ)に近付くためにここで持ち出したいセクションⅣの会場に設置された円空の仏像は、その土台や表面に彫られる前の木材の様子を強く残す。と同時に作者の手によって人が辿り着ける究極の境地に至った信仰の姿を愛嬌良く表してもいる。つまり円空の仏像は私たち「人」が見るからこそ、木材という物性と仏の姿という想像とが渾然一体となった姿を成す。
 私たち「人」はきっと、何も知らずに何かをイメージすることができないと筆者は思う。「それ」が何かを知ってこそ、「それ」以外ではない何かを思い浮かべることが可能となり、五官の作用を統覚して立ち上げる「世界」をさらに捏ね上げて、想像するという行為を私たちが成し遂げられる。
 ひと目では了解できない幻想的な写真風景の前に立ち、時間を掛けて掬い取るコンクリートの質感や流れる水量、その速度を現実に沿って捉え直す。しかしその作業は幻想に引っ張られてぎこちなく終わる。結果として得られる言葉で編んだ現実の、歪な枠組みをさきの二枚の写真表現に当て嵌めるしかない。そうして「私」たちが抱けるイメージが本当の意味で逸脱する。独自性を獲得したイメージが現実めいて動き出す。そこで覚える感覚は観念のコリが解すセザンヌのそれに似る。筆者の素直な感想である。




 数学的図形を把握し易い被写体にレンズを向けて、撮影する。そこに何の歴史的又は社会的背景を置くことなく、一人の画家が生涯を掛けて試みた道と交わるように、それぞれが扱う道具や材料の違いを越えて高みある表現を目指す表現者とした肩を並べられるように、一心に邁進し続けて。
 筆者は作品を見て「難しい」と口にするのは避けようと心掛けてきた。鑑賞する表現作品の良さが分からないなら分からないなりに時間を置いて思えること、気付けることを探っていくのが面白いだろうなと考え、有難い事にその面白さを実感できる機会も数少ないながらに、また個人的な錯覚としてでも得ることができたからだ。
 しかし今回、展示会場を離れて思い返す柴田敏雄さんの写真作品から受けた衝撃ほど言葉にするのが難しいと感じたものはない。見なければ分からない、目の前に立って実感しなければ触れられない。写真という記録装置が機械的かつ化学的作用によって焼き付けたその瞬間の「実際」を表す展示会場にある作品の全てから想像し、その都度一所懸命に立ち上げなければその表現世界の一端も見えはしない。
 ここまで記してきた言葉が柴田敏雄さんの表現に肉薄できているのか、自信は全くない。足りない感覚だけがずっと残っている。適すると直感して記した言葉を何度も消して、何度も飲み込んだ。挑戦する気満々だった分だけ、悔しくて仕方ない。
 柴田敏雄さんの表現に触れて、筆者はもう純粋にセザンヌの絵画表現が好きだと述べるだけでは満足できなくなった。お陰で意識の鍋は沸々と煮えたぎるばかりである。今回、言葉に出来ずに歯を食いしばって飲み込んだものをいつかまた言葉にして表現してみたい。この意欲を力に変えて、両手で握った櫂を使って意識の鍋を掻き混ぜ続ける。そういう想像上の運動を通して、いつかまた柴田さんの表現に、セザンヌにチャレンジしたい(以上のようにここで力尽きた為、柴田さんの写真作品と匹敵するぐらいのインパクトを覚えた鈴木理策さんについてはまた改めて別の機会にて記したい)。

柴田敏雄と鈴木理策 その一

柴田敏雄と鈴木理策 その一

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-05-05

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