娼婦O

26~27。

  1

 Oが、娼婦の世界に身を置いたのは、いうなれば、ひとの欲望への潔癖がすぎたからだった。
 十八の頃、少女は、無垢なくらいに優しいひとになりたかった、悲しい奉仕、それをほんのすこしの下心もなしに捧げるひとになりたかった。エゴが、どうしても後ろめたかった。無償の愛、それこそOには美しかったのだ。
 そんな当時のOにとって、みずからが得る快楽なくして、男たちを悦ばせることに身を砕き、かれらの情欲に躰をゆだねながらも、その肉体はあらゆる悦楽を撥ねかえす、そんな、むしろ清廉潔白なイメージがこの仕事にあったのだった。それは少女の感覚では、みずからの理想、いわゆる、奉仕の姿にちかいようにおもった。
 が、その意欲で働いていたのも、はや昔のことであった。他の仕事と、大差はなかった。
 二十六歳。だんだん艶を失っていく髪が、必要に迫られ少し濃くなった化粧が、目元にやや帯びる陰影が、なんだか侘びしかった。うら若き美への哀惜、それもたしかにあるけれど、けっしてそれだけにかぎる話ではなかった。女性の美しさ、男性もそうであるけれど、それは、それぞれの年齢に収穫できる果実があるように、女にはおもわれるから。
 しかし女は、いまを生きていたかったのだった、その一瞬一瞬の生を、抱きしめていたかったのだ。だが、薄明さながらの現在の一時一時は、つぎつぎとわが掌で喪われて往き、刹那刹那のわが体温、蛍のそれのように淡い光り、それは地平線の向こうへ流れ去って、やがては黄昏に沈んで往く、そんな、ほうっと果敢ない喪失の情景の連続が、女には淋しかったのだ。
 女はみずからに、無償の愛を待ち望むのをとっくにやめた、自分の心に期待をするのが、虚しくなったのだった。みずからに美を求めるその態度は、たいてい自分への落胆や苛だちをもたらした、そして、自分のことを恨むようにもなった。それに、はや疲れた。しかしどうにも、愛することへの憧れは消えることがないのだった。
 女は、少女時代からの憧れと、はや成熟し老いへむかっていく自分の肉体が、砂の曳くような淋しい音を立てて、乖離して往くような感覚をおぼえていた。

  *

 きょうの客は、予約して来店した中年の男だった。
「洋子ちゃん、きょうも可愛いね」
 彼女を指名した男は、源氏名でOのことを呼びながらいった。
 お世辞。
 Oはそう考えた、女には、みずからの容貌の美しさに、ほとんどうごかしようもない認識があった。その認識は、この職業をつづけたなかでなんとなしに得てしまった、ある種哀しいものなのであった。
 彼女のそれでは、自分はそれほど美しくもなく、アイテープと研究をかさねた化粧、念入りに手入れされた肌と黒髪ありきの、そこそこの魅力をもっているにすぎないのだった。
 男は好いサービスを望んでいる、それゆえに、安易にもまず容姿を誉め、機嫌を良くしようとしているのだろう、そう憎々しげに、心情をおしはかった。
 愛してもいない男に躰をひらく、海にでもなった気分だ。
 生命の故郷として、なにもかもをどうとうに抱く、理不尽な慈愛。Oは客には不感である、けれど演技によって、彼女の肌は海のおもてさながら波うち、男の情欲は、まるで寄せ波が逆行するように、海の裸体へ打ち寄せる。…
 不意に男が倒れかかった、もの憂い瞳でOを見つめ、そっと唇を重ねる。
 …男はOから、躰を離した。
「…好かったよ」
 かれは煙草へ手をのばす、Oは、部屋にいつも置いてある客用のライターをとり、慣れた手付で火をつけた。
 水商売らしいこなれた気遣い、これはむろんかれの為ではなかった、自分の為でしかなかった。気遣いできる人間だと思われたいという虚栄心、そうじゃないと思われることへの臆病な焦燥、そして結局は、こういった行為がリピートに繋がり、店長から褒めてもらうことができるからなのだった。空白を満たしてほしかった、Oには、こんな心のうごきがあった。
 女らしい気遣い、その「らしい」というのは、かれらの願望の投影にすぎないけれども、それに満足げな表情をし、男は煙を吐きだした。この後も仕事があるOに、香りが付くことへの配慮がない。たしかに部屋での喫煙はゆるされている、しかしそれを発想してもいいはずだ、Oにはそう思われた。
 女は男を軽蔑した、かれはエゴイストだ、しかしその後に、自らの軽蔑心への自責と、どっと後ろめたい気持に蔽われ、こうみずからへ問いかけるのだった。
 かれのエゴイズムと私のそれ、果して、双方のなにが違うだろう?

  *

 幼い頃から生きづらかった、それを誇るのも、タフなひとに逆恨みするのも嫌だった。他人の心の機微にやや敏感なだけで、自分のことを繊細だなんて、あんまりおもえなかった。
 けれどこのままでは生き抜けない、それにようやく気がついた。その生きづらさは、自意識過剰というものに由来しているようにおもった。しかしこの悪癖、すぐに治るものではないようにおもわれた。
 そこで、Oはある生き方を、みずからへ提案したのであった。
 それは、「他者に愛情や理解を期待しない」というそれであった。
 Oは折に触れて、それを意識することにした。するとだんだん、わっと叫びだしたくなるような妄想的な羞恥、神経を轢くような臆病な焦燥、他人の態度に見えない裏側の心情への恐怖、そんなものから、ある程度は解放された。すこしだけ、生きやすくなった。
 が、この転換によって、Oはそれらの痛みを殺した代わりに、べつの痛みに蔽われるようになったのだった。

  *

 その青年は、上司との付き合いで、初めて風俗店を訪れたといっていた。
 客のそういった言葉は、とても信用に足るものではないのだけれど、たしかにかれは、どこか純情な印象で、あまり遊んでいるタイプには見えなかった。ひとが良さそうだった。
 行為を終えると、
「こういうお店にも、洋子さんのように素敵なひとがいるんですね」
 といった。誉め言葉のつもりだろうか。
 こんな、職業差別そのものの言葉で、私が喜ぶとでもおもっているのか。Oは冷めた気持で、それを聞きながした。
「洋子さん、なんだか雰囲気も、性格も好きだなあ。趣味とかあるんですか」
 いったい貴方が、私の性格の何を知っているのだろう。
 女は詩や小説を好んでいた、とくに、久坂葉子が好きであった。洋子という源氏名も、みずから希み、彼女のそれからとったのだった。しかし、そういった趣味は、あまり客好きのするものではないらしい。
 Oはこういうとき、旅行と答えることにしていた。訊かれるたびに、女は、一度だって行ったことのない地名を上げ、ネットで調べた知識と、ただの想像による、いくぶん愚かで、可愛らしい印象の感想を披露していた。
 仮面が喋る、このくらいで、丁度よかった。
「恋人はいらっしゃるんですか」
 このようなプライベートに関する詰問は、Oの嫌うところであった。本名を訊くひとも多かった、本当のことなんていうわけない、うんざりだった。彼氏がいたとして、どうして私が正直に答えるとおもうのだろう。
 女はこの仕事を、ある種の夢の中の出来事だと認識している。プライベートだけが現実で、労働の時間を幻の時間として、双方を切りはなしているのだ。
 部屋が仄暗い、それを夢である証拠、一つの条件としてかんがえていた。この理由もあって、彼女は部屋の電灯を最大にされるのが嫌であった。現実と幻、それらが灯の光りでもって繋がって、自己欺瞞が明るめられるような気がした。
 たとえ善いひとそうな客がいたとしても、かれらはみな、夢のなかで邂逅した、魅力的な幻であるというふうに認識しており、その幻影が、自らの現実へなんらかの影響を働きかけてくることに、女には、はなはだしい拒絶感があるのであった。
 これらの処世術によって、Oは、なるたけ仕事で傷つかないようになった。
 二十代もはや後半、店では二十三といっているけれど、生き抜く為に、だんだん強かに、少女時代の私からいわせれば、卑俗な人間になっていく。
 しかし、私が傷つきにくくなるということは、労働に力が入ることにも繋がるし、客にとっても最善であるはずだ。嘘も方便、客もそれで喜んでいる、私たちは、ひろい意味において、男性を喜ばせるのが仕事。自分にいいきかせるように、これを頭で、呪文のようにくりかえした。本当は、客にも自分にも、嘘なんてつきたくなかったから。
「いませんよ。この仕事をしている間は、恋人をつくらないと決めています」
 そういって微笑んだ、恋人がいないことは嘘ではなかった。数か月前に、別れたのだ。
 別れ際、「風俗嬢風情が」と吐き棄てられたこと、それをOは、どうにも忘れることができなかった。かれのなかで、私たちは対等ではなかったのだと、そこで解って了った。
 この言葉は、いまでも彼女の内部に這う神経に睡っていて、そこになんらかの刺激が流れてくるたびに、わっと甦り、叫びだしたくなるような心持にさせる、この記憶は、いくども、いくども女を傷つけた。はや、愛されることさえ、怖くなった。
「また来ていいですか」
 男は尋ねる、いったい、この業界のどこにそれを直接拒む娼婦がいるだろう、いや、少しはいるかもしれないけれど。けれども、本当に嫌だったら、後でスタッフに、NGに入れてもらえば済む話なのだ。
「勿論。嬉しいです。また来てくださいね」
 そういって、かれと唇を重ねる。
 無感覚のキス、それはほとんど、痛みに酷似している。
 女は、まだ、キスだけでも、恋人とだけしたかった。そんなロマンチシズムくらいは、もちつづけたかった。痛みを感じるたび、変に安心するところがあった。そんな自分を、ほんのすこしだけ、可憐におもっていた。

  *

 誠二と名乗るその青年は、その後もOの元をたびたび訪れた、週に一度、いや二度来ることさえあった。それっぽく、はっきりしない好意を伝えられつづけた。
 経済的に大丈夫なのだろうか、女はすこし心配したが、しかし自分が、「もう来ちゃダメよ」などと、やや古めかしい美辞麗句を吐くことに、肌があわだつような虚栄を感じ、こんな自意識過剰はなかなか治るものではない、とりあえずは、かれのアプローチを避わしつつ、他の客とどうように接した。
 客からの求愛、それは昔から、彼女には負担でしかなかった。まずもってOは、店で男好きのするキャラクターを演じていた、それは他の、たいていの娼婦もやっているはずであった。
 接客中の自分しか知らない相手に愛されること、それは女優が、「あの役で貴女に恋をしました」といわれたときの、拍子抜けするような無感動をひき起こすのである、なぜってその「私」は、けっして「私」ではないから。
 臆病ではっきりしない求愛、かれはきっと、私に期待しているのであろう、そのように、Oには推測された。なにを? 愛情、そして理解を。
 他者に、みずからが欲する感情を期待し態度に出す、それは人間として当然の欲望によるものかもしれないが、なんて迷惑で、傲慢で、怠惰なことであろうと女には思われた。
 みずからの心にある理想、それを不連続な、けっして自分の心と交わることのない他者の心に勝手に投影して、ワガママに希んで、そして、勿論全員ではないけれど、その行為が報われなかったとき、かれらは掌ひるがえして、私たちに逆恨みをもすることがある。「風俗嬢の癖に」、それを客にいわれたのは、数年もこの仕事をつづけていれば、一度や二度ではないのである。
 娼婦を下に見る風潮、それはOにとって、はや気に掛けるにあたらない、そのように、頭ではおもえていた。女は、すでに述べたように、職業へのそれにかぎらず、他者に、理解を期待するのを諦めていたから。
 他人に期待しない、ただ、そっちのほうが、気楽だった。しかし、胸の底にじんと染みいる、鉛のように重たい淋しさ、それがつねに巣食うようになった。かつての空白のようなそれとは、愛されたい、愛されたい、そんな、渇望のような孤独感とは、ちがうものであった。むしろ、愛されてもたかが知れている、自分はどうしようもなく、なにをしても独りなのだ、そんな意識がつよまった。
 Oがかれの求愛のなにを嫌うかといって、それは他者へ期待の態度を発する、それじたいにたいしてである。そういった要求は、学生時代の自分のように、他者の期待にこたえることで、それで褒めてもらうことで空白を満たしていたような、そんな臆病で淋しがりやの人間を、神経を裂くようにくるしめることがあるからである。
 人間は、他者の期待にこたえられなくても、生きていて好いに決まっている、そのように、女はいまかんがえていた。

  *

 仕事を紹介すると、青年は提案したのだった。貴女の為に、とかれはいった。女はその言葉が、大嫌いであった。
 それは女にとって聖域であった、遥かから硬く照りかえす、月さながら青みがかる聖地の言葉なのであった。
 しかし転職、これに興味はあった。
 Oは、もうこの仕事をしたくなかった。想えば、本当にやりたいとおもっていたのは、十代の頃だけの話であった。
 やりたい仕事なら、娼婦でもなんでもやって好いと思うし、それを他人がどうこう否定するのを女は毛嫌いする、貧困に悩む女性たちに、売りたくない躰を売らせる世の中であるならば、それは憂わしいけれど。けれど女は、正直な気持から、もう娼婦をしたくなかったのだ。
 娼婦、私たちはむしろ、努力への意欲が清潔で、自らの全身全霊のみを頼るがゆえに、サービスに一途な心の在りかたを持ちがちであるとおもうけれど。
 Oは、青年と、連絡先を交換することにした。

  *

 かれは仕事を紹介してくれた、面接で、経歴の質問にはざっくり水商売だとこたえ、履歴書に記入したのは、飲み屋も経営するXグループに、アルバイトで入社というものだけ、とくにそれ以上、質問もされなかった。無事、内定はいただけた。女は、穏便に店をやめられた。
「僕の家に来てくれませんか」
 かれからLINEで誘われた、女は、それを断ってはならないようにおもった。お礼くらいは、しなければいけないだろう。
 かれの家はよく片づけられていた、いい匂いの配慮もあった。心遣いのある、想像どおりのもてなしだった。
 Oはかれに、人柄への好感はもっていたのだった、肉体的な拒絶感も、それほどにはなかった。善いひとそうだった。時と場合がちがえば、これから愛情を育んでいくことも可能なはずだった。しかし、次の恋人は、どうしても前職を知らないひとでなければいけなかった。隠し遂せねばならなかった。
 次の仕事で、ある程度キャリアを積んだら、Oは、かれの目の届かないところへ、ふたたび転職をするつもりであった。
「あかりさん、」
 とかれは呼んだ。
 女の名は、「あかり」ではなかった。
 履歴書に書いた本当の名を、男は知らなかった。もしかれがOに執着心を持ったなら、本名くらい、後から調べれば容易に解るだろう、しかしその時、かれへの女の本心にもきっと気づくだろう。
 恨まれるのはたしかに怖かった、青年の、温和で、ひとの良さそうな印象にすべてがゆだねられていた。これはOの甘さであるかもしれなかった、まだ、他人の善意を信じ、期待してしまうところがあった。
「就職おめでとうございます」
「ありがとうございます。誠二さんのおかげです」
 この言葉は、本心であった。
「あかりさん、」
 と青年は女の肩をつかんだ。
「僕は貴女が好きです。付き合ってもらえませんか」
 案の定だった、はっきりと告白をされたのは、これが初めてである。
「ありがとう」
 そして、負い目のあるように視線を逸らし、後ろめたげな眼をした。
 これは女の狙った、かれを怒らせない為の印象効果であった。内心、Oは恐怖で、ふるえていたのだった。
「でも私、しばらく恋人はいらないの。誠二さんのことはとっても好き、でもそれは人間として。仕事を紹介してくれたのも感謝してる、けれど、それには応えられません。ごめんなさい」
 なんて勝手ないいぐさ。女は、自分のあまりに自己本位ないいかたに、ぞっとしたのだった。彼女の臆病な心ゆえに、酷い女らしい印象を、ちょっとだけ強調しようと、前日から、一言一句かんがえ、吟味し、暗記してきた言葉であるのだけれど。
 だが、こちらに気持がないのも事実なのである、ただ、自分は、恩を受けとってしまったのだ。それは、返さなければいけないだろう。
 Oは、失恋し傷ついた男の、蒼ざめた頬へ、そっと手をあてた。そして、いくどもかれと交わしたように、しずかに唇を重ね、優美なるさまで、誘うように艶やかなうごきをし、そうして、「せめてお礼だけさせてね」、と、耳元で囁いた。
 女性が優美に見えるとき、それはもしやすると、様式美に、本心が蔽い隠されているときではないだろうか。優美は、高貴に似ている。
 女は、かれに、抱かれた。
 この行為が正しいことなのかどうか、彼女にはそれが判らなかった。
 それをさせたのは、たしかに、かつての理想、他者に捧げようとする感情なのだった、狂気じみたそれの操縦した、劇しい、燃ゆるような情事がそこにあった。
 しかしそこに、一切の愛はなかった。情欲もなかった。罪滅ぼしのそれにも似た焦燥、借金を返済しようとする心のうごきのみがあった。女の心は終始氷りついていた、冷然と、情事に耽るわが肉体のうごきをさえも、見すくめていた。

  *

 女は男の家から出た、かれの連絡先をブロックした。LINEのアカウントを削除した。スマートフォンを溝に浸し、一滴の憎悪もなしにつよく踏みつけ、機械を壊した。明日、新しいスマホを買いに行こうとおもった。
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 そう心中で謝っていた、それがすべて、自己満足であると自覚しながら。
 私はまだ、臆病なのです、現実と、かの幻を繋ぐ、真実の光りが怖いのです。はや、誰かと愛し合うことさえ、肌があわだつほど恐怖してしまうのです。
 私のもっとも深刻な病、それは自意識過剰ではなくて、内気な臆病さではないかしら。
 けれどOは、ほんとうは、誰かと愛し合いたかった、心と心は融け合えないと識っても、誰かに理解され、誰かを理解したかった。
 ひとに愛情や理解を期待しない、その生きかたは、けっして弱さの克服なんかではなかった。女は識っていた、みずからのそれは、どうにか自分が生き抜く為に選びとられた、切ない、憐れな、カラクリめいた処世術にすぎないと。

  2

 Oは、みょうに透きとおった光りを、その瞳に残していたのだった。
 てばなしに褒めるようなものではなかった、それは、女の淋しい意識があたえた、いたましい透徹性であるのかもしれなかった。
 その青玻璃さながら澄んだ瞳はあやうかった、いつ破滅へかたむくかもわからない、神経的で、無垢なものが秘められているようだった。その奥には、いつかしら虚無の深い暗さが宿るようになり、時々、さみしくも瑞々しい藍いろを放った。
 その反映は、ひとりぼっちの不遜な少女が放つ、拒絶の瞳のそれにも似ていた。

  *

 まだオトナに、なりきれなかった。
 齢二十七、けれども、あとすこし生きられそうだった。あとすこし、あとすこし、それをくりかえしていた。どうにか工夫を施し、生きづらさという、その不明瞭なものに抵抗して、生き抜こうとしていた。
 Oは自分を凝視め抜こうとし、たとえカラクリであろうと、コジツケのようなものにさえなろうと、くるしみを産みだす心を操作しようとし、死へとかたむきかねないあやうさのなか、他の人間がそうであるように、懸命に、現実とかかわろうとしていたのだった。女は、そうまでして生き切る意味とはなんなのだろうかと訝り、しかし、どうせそんなものはないのだと、はや識っているのだった。
 無償の愛、かつての宿願、それを、女はついに絞め殺した。
 そうするしかなかったのだ、そんなふうに、自分を納得させたくはなかった。
 無償の愛を発したい、そうみずから希むのは、私の、極端な自己愛の現れであったのではないか。私は客ではなく、自尊心に身を捧げたかったのではないか。
 私はその衝動に殉って、やがては肉体をなげうちたかった、それによって、ほうっと透明化した魂を天へ昇らせ、人魚姫さながら、躰は泡沫となって霧消する、ああ、かの自己犠牲、しかし、つまるところ、私はそれによって、自尊心をきわみまで満たし、空で他者と連続することにより、淋しささえ霧消させて、そうして、あまりにくるしいこの生から、投げだされたかったにすぎないのではないか。
 どっとのしかかり、しかも音もなく吹き荒れるような淋しさは、つねにOの身をさいなんでいた、いたましいほど澄んだ眼をした少年少女どうように、世界にふくまれているという実感を、まだもてないのであった。病であった。ときに破れかぶれにもなった。
 しかし生きるということ、これに、女は精一杯しがみついた、自殺をしては不可ないのだ、そうして、しばしば他者を冷笑するにもかかわらず、人間というものに、どうしようもなくこい焦がれた。たとえ無償の愛なんかなくても、女にとって、もっとも愛すべきものはやはり人間なのだった。ひとと素直に交流したかった、しかし、それが怖かった。
 Oからすれば、人間はひとしく孤独で憐れであった、それゆえに、そのなかで生き切ろうとする者は、はや、平等に可憐さをもつようにおもった。自殺、ただその行為だけが、ひとを林立した可憐さから切りはなすのだとかんがえていた。
 無辺際な海辺に添う、風景の色彩に染まりもしない、かの真白のアネモネ、そんな花にも似ているような。
 Oが、なんとかこれまで生きられたのは、みずからに、この可憐さを信じていたからかもしれない、これによって、ややでも生きるのに必要な程度の自負をえられた。しかしそれは、Oのかんがえの甘さであるのかもしれなかった。

  *

 朝九時。Oはオフィスに出勤していた。
 転職活動を始めたタイミングで、いそいでPCのスキルを得て、Oは、一般事務のパート社員として勤務していたのだった。仕事は、初心者でもできるような、簡単なデータ入力が主であった。
 怠け心を殺し、目の前の仕事にただ没頭していると、なにか、ふだん自分をふりまわすエゴから解放されたかのような安心を感じ、また会社に貢献しているという嬉しい所属感が、さみしさを感じる隙間も埋めてくれて、前職とどうよう、働くことにはむしろ気楽さがあるのだった。
 Oはほとんど職場で、自分の考えというものを発さなかった、もとめられて、はじめておそるおそるといった様子で、それを口にするのだった。皆Oのことを、自分の考えというものに乏しい、大人しい女性だとおもっているようだった。ストレートの黒髪と、大人らしく巧みでありながら、楚々たる印象のメイクも、そのイメージをかたちづくるのを助けた。しかし女は、自分の心と世界との繋がりが、ぱっと明るめられるのがただ怖いのだった。人一倍シニカルな性格でありながら、ひとを傷つけることに、ほとんど強迫的な恐怖さえあった。
 そんな、一見従順そうな性格を好まれたのか、それはOの邪推であるかもしれないけれど、ある男性社員から、しばしば食事に誘われるようになった。
 あれ以来、仕事を紹介してくれた誠二さんから、音沙汰はなかった。女は、かれの善人ぶりに安堵し、感謝もして、けれど自分の狡い心・行いには、はや慄然としたのだった。他人行儀な自己嫌悪、この心のうごきだって、狡いそれのはずであった。もっと優しく、素直に生きられないものか、そう心中でおもい悩んだ。自分は客の恋愛感情を利用し、自分が欲しいものだけを得て、恩返し、それは形式的にはできたけれど、かれの気持を踏みにじったともいえるのだ。
 こんな意識は、不穏な彗星が神経を轢き散らし、ずたずたに傷つけながら光芒を曳くように、女の心に、いつまでも残りつづけた。恩を返さなければいけないという義務感、これは一度の情事では消えなかった。ごめんなさい、ごめんなさい、いまでも心中で謝っていた、罪の意識をもてる自分に、心のどこかで安堵をしながら。しかしかれとふたたび邂逅すること、これをずっと避けつづけていたのだ。なぜって、やはり現在の自分と、幻の前職との繋がりの糸が、明瞭な光りで露わになることを、そのあと自分へ投げられる差別を、心から怖れていたから。
 自分はただ、労働を頑張っていただけなのに、娼婦が軽蔑すべき人格をもつだなんて、私じしんは納得したこともないのに、なぜこんなにも世間にたいし、後ろめたい気持をもたねばいけないのか、これを、理不尽であるとおもった。しかし、はや怒りは湧かなかった。理不尽は厳然としてある、差別は娼婦にたいするそれのみではない、世の中そんなものだ、そんなふうに、自分にかんがえさせていたのだった。おそらくそれは、適応のためになされた、あざとい心の操作であった。
 女は、現実の理不尽にたいして、奴隷根性にも似た忠実さがあったのだった。どうにもならない、そう諦めがちなのだった。選挙にも行かなかった、なぜって、それはたしかに女の無精さからでもあったのだけれど、どうせ、勝手にできあがって往く秩序には、従うしかないというような無力感があったから。現実の根、それは理不尽というものではないかとまでかんがえた。
 誠二さんへの、私の行動。内気な臆病さとエゴイズムというのは、こんなにも親しいものなのかというふうに感じ、Oは少女の頃に読んだ、コンスタンの「アドルフ」を想起した。後ろめたい小説であった。

  *

「今夜はお暇ですか」
 男の名は、平井といった。年下の先輩で、営業課の若手社員であった。
 誘いは結構しつこく、あまりOへの慮りのない強引さがあった。女が受けた印象からして、女性一般を下に見ているような言動も、時折みられたのだった。それらのかれの特徴は、ともすれば男らしさの印象にも転じえる、ある種の美徳なのだろう、女は、こんな冷めた気持でいたのだった。
 その後に心で操作される、なにかを補おうとするような自己嫌悪、その堂々巡り。私、いつも自分ばかり凝視めてる。だから優しくなれず、淋しさにさいなまれるのだろうか。
 Oは訝って了う、自分に好意をもつ男性は、なぜ皆どこか似ているのかと。そして、かれらの希み、みずからへ期待・投影された像が、なぜ私の自画像とこんなにも乖離するのかと。
 Oは、男に引っ張られたいと願うタイプではなかった、強引さは、女には疎ましくさえあった。女はたしかに、表面上慎ましい性格ともいえたが、自分の行動は、自分で決めたかった。仕事を除いて、ひとに命令されることが好きではなく、自分の命令に服すことに、昇るようなよろこびをおぼえた。だから周囲の反発を撥ねのけ、十八の頃、ひとり理想の為に、娼婦の道を選べたのだった。最近は諦めてばかりだけれども、むしろワガママ、我が強いのだ。恋愛関係では、ただ対等の立場を願い、希む以上に干渉されることもきらった。
「きょうは家事が溜まっているんです。ごめんなさい」
 水商売。冷然と突き放すことを、覚えてしまう。
「家事かあ。でも明日休日ですよね? 恋人いらっしゃるんですか」
「いないですけど、きょうは無理です」
 冷たく素っ気ない口調、たいしたことではない断りの理由の、敢えての選択。この拒絶のメッセージが通じない、デジャ・ヴだった。恋愛のそれにかぎらず、こちらの気持を理解してくれない積極的なアプローチを受けるとき、いつも、胸が不穏にざわつく。断るのが、怖いのだ。
 刈り込まれたうなじの跡が涼しげである。引き締まった体躯、その体格に似つかわしい細身のスーツ、快活な口調、けっこう、女性にモテてきたのだろうと推測される。Oと接する時の、自信に満ちた態度からも、それを想像できる。
 しかしOは、自信満々な男性といると、なんだか居心地が悪いのだった。なぜかしら、どこか後ろめたげな雰囲気をした、疲れた貌をしている、いつも独りでいる男性に惹かれがちなのだった。
 ふだん仕事は頑張っているけれど、ひとには甘えまいと努力しているけれど、時々、背中を抱き締めてあげたくなるような、するとふりむいて、さみしさを秘めた瞳を私に向けてくれるのだ、疲弊した貌をやさしく微笑ませる、その美しい表情を、自分にだけ見せてくれるような、けっしてガツガツしていない、そんな男性が好かった。そんな男に、共感もした。
 女は経験から識っていた、この好みは、自分を不幸にしがちだということを。
 くわえて、これは自己愛の投影であるのではないか、そう疑ってもいたのだった。こんな男は、私の認識のなかの自己を美化し、もっと素敵に変えたものにすぎないじゃないか。
 そもそも私の自画像が正しいのかも、私には判らないのだけれど。
「つれないなあ。年下苦手ですか?」
 鬱陶しかった。はっきりと拒みたかったが、それで傷つけることを女は恐れていたし、なにより、逆上が怖かった。男性が怖かった、そんな男たちが、ともすれば暴力性をもふくむ好意や欲情を、自分にむけることへの、恐怖もあった。われながら、よくあの仕事をつづけられたなとかんがえた。大変だった。男たちの理想を反映するかの仮面、それはいつだって、現在の仮面と取り換え、付け直すことができるようにおもった。
 ところで、一度くらいは食事に行ったほうが、この頻繁な誘いも止むのではないかともおもっていた。それをしなかったのは、好きでもないひとと食事に行くのが面倒、そんな気持からでもあるのだった。
 Oの、他者を傷つけないための配慮をさせる意欲の正体は、ほとんど忖度過剰の臆病さ、そして、対立を避けたがる無精さなのかもしれなかった。それを自覚し、そんな自分を嫌悪しているがために、女は、たいていの悪口よりも、「優しいね」に傷つくのだった。騙していることを、突きつけられた気分にもなった。
「そんなことないですけど、きょうは忙しいので…」
 やや苛立ちはじめた、この感情が、ある種の心の高揚をもたらし、ふだんシニカルに閉ざされた心身の調和をかき乱して、それが彼女のふだんの臆病さ・無精さをもうわまわり、わりきった勇気を与えたのかもしれなかった。
 労力は使うけれど、ああこれ、嫌ないいかた、食事へ行き、そこでその気のないことをはっきり示したほうが、後々、自分の得になるかもしれない。男女関係にこなれたような、嫌な発想だとおもった。
「七時に帰るのなら、いいですよ」
「お、やった。じゃあビルの入り口のところで待ち合わせですからね。美味しいイタリアレストランを知ってるんですよねえ。女性が喜びそうな。予約しときますね」
 女性が喜びそうなレストラン。そういう場所が、女は苦手だった。もっと光りを避け、世界の外れを選んで建てたような、いうなれば、無法者の集まりそうなカフェが好きだった。ちょうど、以前働いていた風俗街のビルにあった、うす汚れてほの暗い、しかし女には好い雰囲気であった、懐かしき、かの喫茶店のような。
 デカダン、その翳りのある芳醇な悪臭は、誇りの意味において、まるで自分にはこれだけが残されているかのような、そんな気もして、女の官能をいつもくすぐるのだった。が、そっちへ突き進む勇気はなかった。
 私に希望を訊かないのね、と、ややかれを軽蔑したのだった。まあ、好き好きだとはおもった、なぜって、男性の選ぶ場所へ行きたい女性もいるだろうから。しかしOは、自分に好意があるのなら、私のタイプというものを、すこしは理解しようとして欲しかった。これは、つい生まれてしまった、他者への「期待」である。
 だが、もはや技巧めいてきた「期待の放棄」によって、それらの感情はすぐさま影をひそめた。残されたのは平穏であった。
 さみしくまっさらな平穏が、荒野のように心にひろがっていた。ほとんどのことを、すっかり女は諦め切っていた。

  *

「…さんのこと、初めから凄くキレイだとおもっていて、こうやって食事できるのがすごく嬉しいんですよ」
 最近本名で呼ばれること、それが、どうも居心地悪い。
 かつては、永かった娼婦の生活で、時々しか、自分の名を想いださなくなっていた。病院でフルネームを呼ばれる時、女は、まるで真夜中に鶏鳴が鳴ったかのように、ある違和感をともなって、忽然となにかにひきもどされるのだった。洋子、これが、はやしっくりきた。このいくぶん古風な、単調なエレガンスの薫り立つ、セピアいろした、花のそれのような呼び名。夕陽さながら褪せた橙いろ、優美にしてそっけない、まるで琴の響きをあとに曳かせるような、私のかつての源氏名。
 娼婦時代は、それと切っても切りはなせない職業だからと割り切っていたが、女は、仕事の関係の人間に、容姿のことをどうこういわれるのが好きではない。特に、異性からはそうだった。容姿なんて、いまの仕事と関係ないだろうとおもっていたし、べつに自信だってなかったし、気のない男性からルックス云々で見られていることじたいを、たとえ好意的なそれであろうと、とくべつ知りたくはなかった。内心おもうのは仕方がないし、それを表にださない誠実さ、そんな態度は素敵だとおもうけれど。
 人間として、対等に接してくれさえすれば、それだけで、頬がゆるむほど嬉しいくらいなのに、わざわざ、キレイだなんて、いわれたくない。
 Oははや、美しさで測られ、仕分けされ、値踏みの眼で眺めまわされ、価値をさだめられることに、すっかり疲れていたのだ。
「ありがとうございます」
 女の皮膚に、なみうつ緊張を伴ってはりつめる、不可視の仮面が、かれに微笑んでみせていた。時々こう褒められる、「奥ゆかしいね」、優美の背後に秘められた、視えない心情への期待の投影。私はそんなんじゃない、後ろめたい。
 そのレストランは瀟洒であった、たしかに、女性を喜ばせそうな感じであった。
 ブラウンを基調にした内装、照明はほの暗く、オレンジの効果的な光りが配置され、空や海などの、ブルーの絵画がそこかしこに掛かっている。アズーロ・エ・マローネ、そんな言葉を想いだし、そういえば、ふだんのかれの、明るいネイビーのスーツも、イタリアの伊達男風であるかもしれないとおもった。やはり、平井の日焼けした肌、スポーツマンのような躰つきに、よく似合っている。量販店の、チープな黒のスーツを着た私は、場違いではないだろうか。ここを配慮してほしかったな。
 男性と居ると、つい「期待」が生まれてしまうように感じ、とくに男女関係というのは、これと切っても切りはなせないような気がした。私、恋愛じたいが向いていないかもしれない。
 不意に、平井が顔を近づけ、小声でいった。
「…さん、前職は、風俗店勤務だったみたいですね」
 戦慄が奔った、これは、けっして大袈裟ないいかたではなかった。心臓を、細い針で一突きされ、おおく秘密と欺瞞に構成された全身の調和が、どっと乱された感じをおぼえた、喉がざらつき、息ができなくなった。
 娼婦としての労働中、とつぜん部屋がぱっと明るめられ、しかも壁という壁、天井が雲散霧消し、青空の下で、情事につとめる自分の姿が、ぐいと世間へ突き出された心地がした。
「どっ、どっ、どうしてそれを?」
「安心してください、俺は偏見なんかないですよ。過酷だっただろうな、とむしろ尊敬しているんです」
 それが偏見であると、女はかんがえている。
 娼婦という職業でくくって、彼女達一般に、「過酷」だとか「尊敬」だとか勝手にいい放たれること、それだってOには不快なのだ。私のワガママなのかもしれない、けれど、できれば個人をみてほしい、そして、私が間違っているかもしれないけれど、他の仕事と、同等にみてほしいのだ。勝手な尊敬なんて、私はいらない。
「だから、」
 Oは感情的になっていた。
「どうしてそれを知っているんですか」
「え、いや、友人に誠二ってひとがいるんですけど、かれから会社を紹介してもらったんですよね? だからかれに聞いたんですけど。すいません、怒りました?」
 ここで初めて、誠二さんといまの会社の繋がりのわけを知った、そういうことだったのか。なぜかれは平井に、このことを教えたのだろう。復讐だろうか、いや、そんなことをするひとだとおもいたくない。
「そっか、そっか、…さんはそれを公にしたくないのか。そうですよね、ごめん! 本当にごめんなさい、クソ、あいつ、一言言ってやらなきゃ。俺、いまからあいつの家に行ってきます」
「え?」
 直情型、わが美学に忠実なタイプ、こんなところだろうか。
 勝手な推測、これ、私の癖。かれにだって、視えない苦しみや過去、かんがえがあるに違いないのに。
 決めつける手前の複雑さに佇んで、不可視の事情を注意ぶかく想像する、これを隅々にまでおこなえば、他者への軽蔑を打ち消すことができるようにおもうけれど、こんな心のうごきは、自分のことだって、どこまでも許してしまうようにおもう。みずからのそれは、視えた気にもなりやすいから。自分のことだけ突き放し、厳しくする態度、それだって私には、大切なものが自分しかない人間のそれのようで、なんだか狡いとおもってしまう。
 男のこういう対応、実はキライじゃない感じだった。ちょっと好いなとおもった。が、そんなことはして欲しくない。かれらの友情に、自分が原因でヒビが入るだなんて、なんとしてでも避けたい。なぜって、私は誠二さんに借金があるのだ。…それだけだろうか?
 自分へのつっこみ、あらゆる角度から投げこまれる注釈、女の心では、それがいつもかまびすしい。それに夢中になり、つい自分の心ばかりに眼をむけて、独りで喋って、ふと現在の現実に視線を投げると、しばしばそれはほつれて了っていて、はや修正が利かなくなっている。
「いえ、」
 女は、毅然とした態度でいった。
「ちょっとびっくりしただけで、誠二さんに秘密にするようには特別いってないですし、もう、いいんです。気にしないでください。ただ、他のひとにはいわないでくださいね。ほら、平井さん、このパスタ美味しい。緑いろがキレイですよね。こういうのがバジル? バジルってなんなんですかね。知ってます?」
 みょうに早口になっていた。
 少女の頃から、Oは臆病さゆえに、自分の感情を押し殺してしまうところがあり、その反動で、自分じしんの理想に突っ走り、娼婦の世界に身を置いたといえるかもしれなかった。が、そういうものもあったのだけれど、この場合、Oの心にもっとも働きかけていたのは、やはり罪悪感だったのかもしれなかった。「巨大な借金を返す為、このくらいは」、そんな意識で、Oはこの振る舞いを選んだのかもしれなかった。
「いや、実は…」
 嫌な予感がした、Oはかれを、おそるおそる見た。
「もう、社内のひと、皆知っているんです。俺が噂を流したとかじゃなくて、本当に、最初のほうから。だから、さっき伝えたのも、…さんは隠してないのかなって思っちゃってて…」
 さっと血の気が引いた。

  *

 真夜中、遥かな銀の星々は、果たされなかった約束さながらに恨めしく照りかがやき、そのほの暗い絵画にほうっと浮かんでいるのは、広大無辺な藍いろの海、空に胸をいっぱいにひらく、不感症の母、潮風が冷たい、歩くたび、こぼれるようにさらさらとした音を立てる砂浜に、女は立っていた。果てのない群青の空に、脚がすくんだ。
 自己憐憫、たとえおのずからこれが生まれてしまったとしても、それに浸ってはならないとかんがえていた。みずからの憐れは、突き放すものだとおもっていた。
 すべてを自己責任に帰するかんがえではなかった。他者に責任を負わせてはいけない、自分の責任を探しだし、そこに自責を叩き込むこと、しかし宿命という存在だって信じていた、そういう星の元に産まれてきたのだ、そうも時折かんがえた。が、宿命と関係し、けっしてみずからへの同情に閉じ籠らず、世間に逆恨みせず、そして、せいいっぱい自分の弱さに抵抗するのだと、私の人生とはそれなのだと、女はかんがえたかったのだ。
 つまりは、社内の風紀を理由に、女は会社から辞職を要求されたのだった。平井との連絡も絶たれた、また元にもどったような感じだった。経歴詐称と指摘され、みずから辞表を出すように求められた。
 しかし娼婦の経歴の他、根も葉もない噂が社内に蔓延しており、はやOじしんだって、ここに居つづけたくなかった。娼婦とは、伝えたとおりの水商売である、会社を訴えたら、慰謝料くらい出るかもしれない、しかし女に、そんな気はなかった。女は、軽蔑や冷笑こそするけれど、憎悪や怒りの感情に乏しいのかもしれない、それにくわえ、娼婦であることをやんわりと誤魔化し、誠二さんを利用してしまった自分も卑怯で、悪かったとしかおもえなかった。
 反逆心、なにかそういうものを、Oはどこかで諦め、置いてきたような気がしていた。
 ポケットには、まだ、銀に燦るピストルのようなものがあった。エゴを憎み、無償の愛を信じて、大人しく従順だと周囲に信じられていた少女が、暴走するように娼婦の世界に身を置いた、その頃の、自他への劇しい怒り、悲しみ、親や教師の期待も裏切った、むしろ自己中だと罵られた、親はOを医者にさせたかったのだ、その追憶の染みる銃に、そっと指を触れると、とおく、冷たさが張りつめているよう。しかし、弾は数年不在なのである。はやそれが、火花を散らすことはない。
 前の店にもどっていた、傷ついた心が、馴染みの仕事をしながら、ゆっくり次をかんがえようという、やや気力の欠けた選択をさせたのだった。しかし店長はあたたかく迎えてくれ、それにより、女は自分が娼婦として、けっこう頑張っていたんだなと感じた。甘ったるい認識、しかしその自負を、みずからに許した。
 社会が娼婦を軽蔑しても、会社が自分を追い出しても、誰と比較したわけでもない自負、これさえあれば、生きていけるとおもった。生きづらく弱い自分へ抵抗しつづけること、その継続から得る自負を抱き、それでどうにか心の空白を満たそうとすること、現実感に乏しく、幻のように生をみてしまうことがあっても、できるかぎり現実と対応すること。
 この生きかたが善いのか判断もつかない、巧いそれがいまいち解らない、自分の正しさにいっさいの自信がもてない、けれど私には、まだそれをしかできないとおもった。
 また、胸かきむしるような淋しさに駆られていた。

  3

 ひさびさの恋であった。
 Oは、朝洋服をえらぶような心持で、ひさしく奥に仕舞ってあった仮面をひきよせ、皮肉な愛情のまま、それに頬をうずめるのだった。かずある仮面のなかでも、女はこれが、いちばん好きであった。
 女によく似合う、シックな仮面であった。どこか甘美な、しかし毒っけのある香水の薫がした。しばらくかがない匂いであった。ふかい芳香の奥には、悲劇のそれが秘められていて、時折、ふっとそらに散るのだった。くるしい追憶をもたらした、けれども、くらくらと色めきだった。
 生きる意味ができた、とおもった。それが幻にすぎないということを、女は知っていた。

  *

 女にはこの世界が、社会秩序の機械のはりめぐった、表面を冷たく燦らせる、非情な硝子盤のように視える時があった。
 それはたくさんの命を宿し、有機的に運動していた。生命の故郷、そしてそれの往きつくところ、空の青みを反映する広大無辺な海、そんなふうにも、世界の根の姿をみていた。
 しかしその、Oと切りはなされた風景画は、こつぜんと無機的な光りを帯びはじめ、すべては等価にはりつめられて、いま、のっぺりと硬いおもてを耀かせているのだ。闇に浮かぶ鉄の城、月と吹雪を照りかえす雪女の瞳、そんな印象、それは、ぞっと肌あわだたせる恐怖をOにもたらした。
 以前、自分を守るため、楽にするために構築された、もっとも俗悪な意欲に引きずられたニヒリズム、それによって視覚した世界が、Oの根ぶかい淋しさと、姿を重ねたのかもしれなかった。
 この苦しみの報い、それはむしろ、足りないくらいなのかもしれない。釣合さえ、とれていないようにおもう。
 この硝子盤の照りかえし、そいつは、つややかな蛇のまなこにも似て、冷然と女を眺めやり、その不感な光りで、女の躰を、硬質な音を立て撥ねかえす。
 この撥ねかえすうごき、それはしばしばOへ投げられる、そして彼女じしんの習慣ともなっていた、「軽蔑」のそれにも似ているとおもった。
 秘められたものへの注意ぶかい思慮もなく、ただ「あなたは卑しい」と突き放すこと。昔は比較によるプライドが高かった、だから蔑まれると、人一倍怒りを感じた。ときに、高圧的に怒った。
 しかしいまとなっては、この軽蔑はただ「独り」を感じさせた、自分が他者と、あるいは硝子盤の世界と、不連続であることを心から実感した。
 女は、深いところにある他者との連続性をさがすために、私たちは同胞だ、そうおもいたいがために、詩や小説を読んでいるのかもしれない、女の淋しさが霧消するのは、仕事に没頭しているときと、芸術に接していて、心の琴線にふれる共感をしたときだけであった。
 つまるところ、私は他者に理解されたい、そのうえで、愛されもしたい、これ、おそらく甘えた気持。やっぱり克服なんて、全然できていない。
 軽蔑はさみしい、理解への意欲の欠けた尊敬だって、つまりはおんなじなのである。
 臆病なOは、この硝子盤の光りを怖れた。小さくちぢこまった。消極的に閉じ籠りたくなんかない、しかし、なりたくないオトナになっている気がした。優しくもなれなかった、私は客への感謝の気持にだって乏しいのだ、他者から、できるだけ理解され愛されたいのなら、自分もそうなるしかないのだろう、けれども、私が優しくなんてなれるのだろうか。
 無償でひとを愛せない、もしやすると、愛せるひともいるのかもしれない、けれど私にはできない、それでもいい、せめて、つよく、優しくなりたい。
 女は、この非情な風景を視界からふりはらうかのように、いま眼の前にある、恋愛の幻に縋ったのだった。しかし恋愛、これはいつまでもつづくものではない。女ははや二十七であった、それくらいは、識っていた。

  *

 釣合をとらなくちゃダメなのだ、と、自分にいいきかせていた。
 待合せにはやく着きすぎていた。Oは、約束の時間に遅れるのが怖いタイプである。男はまだ来ない、時刻はもう、予定の数十分をすぎている。しかし遅刻なんかとるにたらなかった、男にもうすぐ逢えるというだけで、女の心は浮き立つのだった。待っている感じなんてしなかった。
 しかし気掛かりなのは、男のラインははや消されていて、しかもその他の連絡先を、女は知らないのだった。危険な立場にあるひとなのは知っている、だから事情があって、いったんそれを消したのだろう。しかし約束どおり、きっと来てくれると信じていた。
 信じて待つということ、これはなによりも、少女時代の気持を想い起こした。来るかどうかも判らない、不可解なものを待つというのは、少年少女の特権であるというふうにもおもわれていた。無償の愛、果たされなかった約束、私はその発現を信じ、そして待っていた。
 女には、この態度がなつかしくもあり、やはり憎らしくもあって、ふたたび、皮肉な気持で微笑するのだった。

  *

 男は、怖いひとだった、それが、美しくおもえた。
 グレーゾーン、アウトロー、詳らかには聞いていなかったが、そんな言葉で形容できそうな立場であるらしかった。しかしそんなレッテルめいた名の、なにに意味があるだろう。水原は、水原だった。女は、男を愛していた。
 水原に出会ったのは、かつてのお気に入り、風俗街のビルにあるうす汚れた喫茶店だった。かれはいまおもえば、笑ってしまうほどそこにふさわしい身形をしていた。
 たっぷりとした黒のスーツを着て、インナーには開襟シャツ、ほとんどヤクザ然とした雰囲気で、もし本職であるのなら、今時こんなにも解りやすい服装では外出しないのではとおもわれた。しかしややあどけなさの残る貌、ほそい体躯、二十代前半だろうか、威圧感のある切れ長の眼の奥には、いまにもちかと閃くかのような暗鬱な光りが、月のようにぎらぎらと燦やいていた。
 関わってはいけないひと、そうおもった。顔を逸らした。眼の内に残ったのは、唇の、みょうな紅さである。それは蒼白に沈みこんでいるようにこけた頬と、色っぽくも、不吉な際立ちを示していた。甘く、肉が沸き立つような感覚をおぼえた。
 すでに男に惹かれていたのだ、そんな気持をふりはらう意欲もあって、不自然なくらいに、ぱっと顔を離していたのだった。いまのうごきバレたかな、内心、慌てていた。
 後になって、かれのどこに惹かれたのだろうとかんがえた。冷たい頬、硬い瞳、そして、唇に充溢した非情さであった。暴力の匂いがした、この予感は、後になって事実となるのだった。
「なに当てつけみたいに眼逸らしてんだよ」
 ぞっとするほど低い、傲然な声が投げられた。否定の言葉が、引き裂くような音韻が、なにより似つかわしい響きだとおもった。Oを睨みつけていた、ほとんど、威嚇であった。
 ふっと身をふるわせる恐怖が喉元を昇り、いまにも悲鳴を上げそう、しかしその感情の奥には、ある悦びの期待が秘められていたのだった。
 この男にふりまわされたい、かれに、私のあらゆる欲望を否定され、情事の話にかぎらず、暴行されるようになすがままになりたい。この男は、私をさいなむものから解放してくれる。この危険な男の意欲に、殉いたい。
 男の冷酷な瞳が、女を、軽蔑するように見すえていた。Oはそれに突き放された、しかし、その視線には、情欲が混じっているようにもおもわれた。Oの直感であった。

  *

 交際すると、水原はすぐさまOを束縛した。が、気まぐれに長期間連絡を放置することも、珍しくはないのだった。
 しばしばホテルで暴力も振るった、かれは、恐怖政治で恋人にいうことを聞かせようとする、幼稚で残虐な人間であった。他者をうごかすのに、このやりかたをしか知らないのではないかとおもわれた。これは不幸なことなのかもしれない、しかしOは、軽蔑をしなかったのだ。彼女は、男を、はや信じていた。この恋愛が与える気持は、ある種の信仰のそれに似ていたのかもしれなかった。
 男の恐怖の支配は、まるで厳しい戒律に身をゆだねるかのような悦びを、女にもたらしたのである。男を絶対的なものとみて、自分の意欲が、四肢が、かれの欲望に縛り上げられたような気持がした。ふだん自分をふりまわすエゴから解き放たれたかのような、そんな悦び、さらなる平穏、いや、安心立命といってもいいくらいの心情が、そこにあった。
 こんなことで善いのだろうか。しかし女は、自分の意欲で生きる心を、いま失っていたのである。外へ働きかける、積極的な自分の気持がなくても許される、絶対的なものからの命令にただ服す状態、そこに、心の安定をおぼえるようになっていた。
 果して、私は愛されているだろうか、理解されているだろうか。
 そんなわけがなかった。それくらいは解った。ただOの気持を突き放し、求めるものだけを得て、自己本位に従わせていただけだった。

  *

 かれとの邂逅は、ほとんどホテルの前が待ち合わせであった。
 大切にされていないことは明らか、その後利己的な、暴行めいた情事を強要され、事を終えると煙草に火をつける、そして満足すると、女を送りもせず一人で帰ってしまう。
 私たち付き合っているのかな、しかし「恋人」であると、かれはいっていたのだ。愛の言葉はなかった、他にも女がいるのではと疑うのは自然なことだった。しかし「恋人」だといってくれたことを想うだけで、頬がゆるみ、少女さながら、ひそかに枕をたたくほど嬉しいのだった。
 Oはいま、恋人に優しさなんか求めない、それを期待もしない、男の暴力的な肉欲が、それだけを求められることが、女にははや心地好く、しかも純粋に信じられるようにおもう。さっぱりとして、一途にさえおもえる。

  *

 初対面の時、水原は女を脅した後、なぜかOの席の前に、なにもいわずどかと座り込んだのだった。まったく嫌じゃなかった。他の男性ならぜったい嫌だった、水原のように怖い雰囲気のひとでなくとも、本来、ナンパだって怖れてしまう性格をしていた。なぜ道徳的にそれをしていいとおもっているのだろう、そう感じるくらいに、徹底的にきらってもいた。
 とすると、すでに恋といえる感情があったのだろうか。この氷の廃墟のような男を、女は渇望していた。これは、彼女の心の空白が欲したのかもしれなかった。
 水原は、淋しがりやの女性にモテる気がする。渇いた心の空白を、ラフに躰ごとぐいと誘拐してくれるような、そんな雰囲気がある。
「この後暇?」
 男は相手の眼を、きっと睨みつけながら話す。Oにはそれが信じられないくらいだ、彼女は、まだひとの眼を巧く見ることができない。
「きょうは、ずっと暇」
 やはり視線は膝の上、しかしその声には、草木が萌えるような期待のこもった、甘やかな響きがあるのだった。私こんな声だったっけ、いま、客にはぜったいにみせない顔をしている。女はそれを意識した、すでに、かの仮面を被っていた。
 私は、自己によって禁じられた感情を、いま、自分に許している。その禁止を破らせるくらいの高揚があるのだろうか。
 しかしその心のうごき一連を、女は、一種冷めた気持で、終始観察し批判をくわえている。自分の感情を、仕分けしている。女の心のある部分、そこはどんな時だって、氷のように冷めきっているのだった。
「飲み行かない? こんな、酒も飲めないような汚ねえところじゃなくて」
 店員がいるのに、よく大きな声で、そんな失礼なことをいえるなとおもった。酷い。しかし私がこういうことを控えるのは、ひとを不快にさせると、相手の気持を想像してしまって、胸がざわつき怖くなるのと、消極的な虚栄からであるようにおもう。むしろ、男のこういう言動が、屈託のない感じにもおもえた。
「うん」
 おのずと笑みがこぼれていた、正直な感情のままに表情をつくれるのは、とても楽しい。
 しかし女は、まだ自分を凝視していた、いま、私の眼は喜びにかっとみひらき、眼光は期待に照りかがやいて、口元は幸福の予感に、ほんのりと緩んでいるのだろうと。
 かれにどう映っているだろう、ふしだらな女だとおもわれないだろうか。愛されなかったら、どうしよう。
 女は、こんな心のうごき、それへ打ちすえる鞭の痛みと決別するために、他者からの愛情・理解への期待をやめようとしたはずだ。
 しかし、かれに愛されるかもと期待していた。頬は紅潮していた。嘘の自分でいい、男に、可愛くみられたかった。それが後ろめたかった。
 ある種の愛、それはOが自分にばかり向けているように、凝視し潜り明るめようとする、たとえなにかを損なわせても、それをどうしようもなく為して了う、眼の衝動のことではないだろうか。
「行こっか」
 男にぐいと腕をつかまれる、嫌じゃない、むしろ、嬉しかった。

  *

 そのままホテルへ連れていかれた。
 ぜんぜん感じなかった、かれに、そんな配慮はなかった。
 魂なんてはや信じていない、女は、憂鬱や倦怠を、セロトニン・アセチルコリンの欠如だとみて、食事や運動等で、一種モダンな対処をほどこしている。
 けれど情事の際、肉体の得るそれでなくして、魂の得る快楽のようなものを、Oは想起したのだった。それは女の心の空白を、たっぷりと満たした。男に全身をゆだね、尽くしきっているような感覚が、さながら、聖女のそれのような充実を与えたのだった。
 その感覚は、その後のいくたびの逢引にも共通することであった。しかし、女の深いところで押し殺されている心が、「私はそうは生きたくなかった」と、ぼそぼそ愚痴をいっているのだった。
 時を経ると、ふだんの安心立命は影をひそめた。男への信頼なんて生まれるわけがない、やがて、女は日々に疲れ果てた。
 愛らしい仮面を身につけ逢いにいく、その時、自分が世界で一番幸せな人間であるかのようにおもう、しかし帰り道、後ろめたい感情と淋しさに蔽われ、胸が引き裂かれるような気持になる。
 転職も先延ばしにしていた、仕事に力が入らなくなり、店長に注意をされた。生活上の釣合を、とれていなかった。自負は削がれた、空白がさらに深く穿った、ただ仮面を被り換え男に逢っているときだけ、この存在を忘れられた。やはり、Oの生きる意味にはなっていたのかもしれない。
 数か月そんな生活をしていて、約束だけとりつけた後、水原は、急にラインを消したのだった。
 それでも女は待っていた、ずっと待っていた、もう来ないのではないかという、脳裏でとびまわる不穏な予感を払いのけ、きっと来てくれると、そう信じようとした。

  *

 男は、待ち合せ場所に来なかった。

  *

 その後も音沙汰はなかった。
 この別れは救いなのかもしれない、なぜってかれは酷い男、そういう行いをせざるをえない事情が、かれにあるのかもしれないけれど。
 息も絶え絶えになるような空虚感が、Oを襲っていた。いま、そいつに全身を蔽われ、神経を轢き散らすような痛みにのたうっていた。
 幻は霧消したのだ、これまでの恋愛が、すべてそう終わったように。
 私には、生きる意味をなにかに負わせることを向かないとおもった、なぜって、そういうものはたいてい、幻滅に終わってしまうから。
 女は、眼の前にある、空ろな風景画を眺めやった。それを、真正面から見すえようとした。
 硝子盤。現実の根。身も蓋もない虚無の照りかえし。誰とだって不連続な、冷たく無機的な世界。冷たかった。硬かった。非情だった。身がすくんだ。
 女はそれを、かわいた瞳で、しかしいまこそはと、全力の意欲をはたらかせ、きっと睨みつけた。凝視し潜り、すみずみまで明るめようとした。
 せつな、硝子盤の非情にして壮大な光り、虚空の反映、それは、月さながらぞっと青く炎えあがったのである。澄みきった鏡面には、とざされた永遠の海がなみうち、燦爛な銀と青の陰影はうつろって、かつて断末魔の叫びに火を放たれたことにより、みずからの道徳のみを空に残し、ひしめく虚無の粒子に呑み込まれた、ことごとくは火花を散らし摩擦して、幻の燐光に燃ゆる、硝子は混じりあったからこそ透徹するのだ、いまそれは、空降らす涙の光りと、波音の綾織る壁画のよう。
 はや、硝子盤の光りは美しい。なぜって、それが理不尽だからだった。冷たいからだった。恐ろしいからだった。人間を、軽蔑さながら、絶対的な立場から突き放すからだった。
 女はこの硝子盤を、その美しさゆえに、愛した。
 Oはこの無機的な光りを、甘ったれた愛の衝動のままに、つよく、つよく抱き締めようとした。するとそいつは、なべてをひとしく照らせる娼婦の瞳で、茫然と女を照りかえしたかとおもうと、すべての人間にたいしそうするように、そして幾度もOへそうしたように、きんと硬く撥ねかえすのだった。
 倒れ込んだ、破れかぶれ、しかし、絶えず現実と折り合いのとれない、理想への意欲、自負へ捧ぐエゴを、切なくも胸に抱き締めて、さながら、壮麗な神殿を見すえるように、そいつをふたたび仰いだ。
 するとみょうなことには、女にひさしく現れなかった感情、幼稚な、しかしそのぶん根深く強い、現在の現実を乗り越えようとする意欲が湧きあがったのだった。火のような反逆心であった。

  *

 私の生きる意味は、はや生きることそのものにしかない。
 いまを抵抗し、いまを生き抜こうとおもった。
 私は、ありとある花々のなかでもっとも平凡なそれを、かの硝子盤の神殿に祀り、わが不連続なさみしい躰を、その林立した可憐に捧げ、横臥える。

  *

 この世界のどこかに在る匿名の女、娼婦O、茫洋な海辺に添う真白のアネモネ、女は、こんなふうにして生きていた。

娼婦O

娼婦O

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-05-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted