信用




 例えば、日常の場面でアルバムに収まる写真を手に取って思い出を語る時にそこに写る風光明媚な景色が撮影者独自のものであり、撮影されたその日、その時、その場所で私がシャッターを切ればかかる景色は全く違うものになるのでないかと疑ったりするだろうか。いや、目の前に広がる景色に抱く感情に違いはあっても、光学作用に基づき人の身体の一部である目が受容した情報を処理した結果としての「景色」はきっと同じだ。そう信じる判断が自然に為されている、少なくとも筆者はそうしてしまっていると自覚する。
 かかる判断の根拠は人の身体を成り立たせる物理法則と身体機能に基づく外界の情報取得の方法及びその処理過程に認められる共通性ないし一般性なのだろう。その構造と機能が概ね一緒なら、見るもの、知れるものもまた同じという素朴な信用。かかる信用は身体機能と同じ構造を持ち、かつその機能を拡張する機械一般に対しても向けられ、手に馴染む愛着として心中無邪気にはしゃいだりもするのだから邪険に扱えない。視認できる対象との距離又は視認できる対象の動きの捉え方等の点で人の目が有する性能を超えるカメラは、だから視ることに重きを置く世界認識の元で生きる我々が特に愛着を抱き易い機器の一つでないかと筆者は想像する。
 それはきっと私(たち)も見れる世界。この近しさを、記録行為から飛躍して行われる全ての写真作品に対して鑑賞者が覚えてしまうのだとすれば、写真を撮る者と見る者との間で存在に関わるコンフリクトが不思議と生じないと感じるのにもまた理由がある。例えばポートレートの被写体が撮影者に向ける心開いた感情表現を鑑賞する私(たち)はしばしばシャッターを切った個別具体的な撮影者という存在をすっかり忘れ、その笑顔やアンニュイな仕草が私(たち)に向けられたものと即断して夢を見る素敵な時間を過ごせたりするが、かかる心情を抱くのに寄与する信用ないし愛着は規格化された性能を発揮するカメラが記録した表現であるという事実に基づいて確かなものになる。
 要するに私(たち)は、可能なことの全てと共に好奇心を抱いてこの「世界」を識り続けたいのだ。



 拙い知識で記述することを試みれば、アンセル・アダムスがフレッド・アーチャーと考案したゾーンシステムはカメラで撮影するにあたってその日の天気や周辺環境、または画角内に収まる被写体の位置関係、材質に由来する反射率の違い等により生まれる明暗を数値化してコントロールし、プリントする際の媒体の性質なども可能な限り検証し尽くして写真作品の仕上がりの最適化を目指す撮影方法であると理解している。
 その狙いの成否は東京都写真美術館で開催中のコレクション展、『光のメディア』で拝見できるアンセル・アダムスの各作品を前にすればひと目で分かる。モノクロの風景が捉える対象の鮮明な形と外的時間が排除された瞬間の美が暴露する存在の劇的な分断、言葉の分節を大きく見失った人の意識が直観する世界の強き現れ、同時的な迫り方、語りなき語り。比較的大きなサイズで視界に飛び込んでくるその表現のクオリティはこれぞ写真作品!と膝を打ちたくなるものばかりで、後世に影響を与えたと評されるゾーンシステムの凄みを知れる。この延長線上で発光するシルエットで裸の神秘を浮き彫りにする、ロール・アルバン=ギヨーの「ヌード」もまた意識する生き物としての人の両目を覚ます点でゾーンシステムの写真作品に続くものとして位置付けたくなる。
 他方で作品としての表現ぶりを見る限りはその対極にあると思えるスーザン・ダージェスの「ハーフ・ムーン・ブロッサム・ブルー」はイマジネーションの新鮮さを常に保つ。川に沈めた大判の印画紙に向けて月が地上に返す自然光と表現者が手にする懐中電灯を使って露光する手法が現す無時間な世界の儚さ、月の調べ、波紋の囁き、「もの」の残像。最低限の物理法則に従うそのアプローチに認められる手間と時間がひっくり返されたかの様な表現作品の包括的な仕上がりが辿り着く、五官の外にあって欲しいと今でも願う幻想の境位とその静けさもまた、私(たち)人がこの目で見たいと願ってしまう「世界」に他ならない。



 「世界」のために写真から離れてでも記したい高尾岳央さんが描いた「井戸の中で」の奥行きは、その濃さから完成間近に垂れされたのでないかと想像する画面上の点描の跡に意識を合わせれば一気に開ける。作品タイトルにある井戸がどういうものかを概念的にも知る私(たち)という器の中で提示され、喚起され、描かれたものとして動き出す未分化のイメージは循環という決まり事を守って漂い、線形の質感を窺わせて描かれていないものの抵抗感を瞬時に連想させる。何層もの重なりとなったそれらが目の前で「絵」と化し、それを想像として保持し続ける最も抽象的で無名な人格を引き受ける喜びを鑑賞者に届けてくれる。
 同様の体験は「Intoro」を前にしても味わえる。画面真ん中をやや斜めに走る太い直線と対比可能な他の直線の細さ、ぼやけ方を認識し全く無関係に描かれたかもしれないその直線の数々に画面上の関係性を見出してしまう私(たち)は、「Intoro」を構成する格子の背後に角度のついた空間を幻視する。鑑賞者という生き物の目の奥で完成するその一枚のシャープさに数学的な心地良さを覚えた私(たち)は、固有名を重しに使って試みる想像と一般化への道程をもう恐れない。
 その建物の二階で観られる偶像として愛される為のデフォルメを施された動物や、現世と異なるリアルを求められた彼女たちの表面が放つ光沢の滑らかさはbiSCUiT galleryで開催中の『SOLO SOLO SOLO』で展示されている山中雪乃さんの絵画作品に認められる魅力であるけれど、かかる光沢を展示会場で目にすれば実に生々しく、触れれば五指のどれにも泥の様に纏わり付きそうな感触を覚えてしまう。そうなれば最後、目に入るモチーフの可愛らしさや美しさを前にどんなに頑張っても、意識的に振り解くことは叶わない。
 それでも、と作品を見続ければ所々で真っ白な地を露わにしているキャンバスが鑑賞行為に突き付ける私(たち)というクオリアの虚実の狭間にあって曖昧になる自他の区別が恐ろしくなり、そっと力を入れて、ずっと抱き締めたくなる。それを「LOVE」と呼ぶのなら、そこで説かれるべき根拠を改めて感じる。情報を統合した結果としての世界に生きる私(たち)と名乗れる存在の表現を、愛の根拠を、道具と技術を駆使する画家が一定の水準を保って形にする。それを口にしようとする意思が対象に向ける生温かいものの全てを何一つ、逃すことなく。
 他方で、総合的だと感じたのは展示会場の最上階で出会える井上りか子さんの表現だった。
 河の流れを思わせて、展示会場の入り口から奥に向かって床に置かれる大量の「それら」に頭は無いし、四つ足で立っているから人でないのだろうと合理的には推測できる。けれど大胆にもこちらに向けるその大臀筋に(尻尾らしきものが視界に入ってきても)妙なニンゲンらしさを覚えてしまい、「それら」に対してコミュニケーションに似た意識の構えを自然と取ってしまう。詳細は明らかでないが三本の枝で組まれて「それら」と一緒に床に設置されている何か、真四角な絵の様なものがそこに打ち付けられたその何かに向けて既に行われている「それら」の儀式めいた行いを邪魔しないように恐る恐る展示会場を移動する、異邦人の様な構え。
 長方形の会場を構成する三方の壁に展示された絵画表現にある広大な色彩とイラスト的モチーフは大きな歯車となって噛み合わさり、画面上に認められる窪みとしての痕跡と共に「アナザー」な存在の気配を示唆する。会場のあちこちにある奇妙さは異邦人な肌に触れてくるし、じわじわとにじり寄る様な関心と警戒は姿なき視線が行う一方的な評定を想像させて、過ちを決して犯さないよう心掛ける自制の背骨をこちらの背中に打ち込んでくる。変成された展示空間で接し合う私(たち)の境界とあちらの境界。異質が呼び込む第三の可能性を探して、観る私(たち)は内なる世界と外なる世界を彷徨い歩く。



 身体機能の内部で営まれる「世界」認識の表現という点で写真と絵画を対比してみれば前者は仕上がった状態で別「世界」の可能性を提示し、後者は目前の表現を触媒にして別「世界」が存在するという根拠をその場で鑑賞者に経験させる。言い換えるなら規格化された性能をもって常日頃、私(たち)が行なっている身体的な認識以上のものを写真作品がしかと捉え、一方で人の「世界」認識の生成過程に踏み込んだ表現をもって、そこにある無限定な感触を絵画表現が生き生きと持ち帰って来る。
 静的にも動的にも表される、人という生き物に内包された可能性。それをイメージする意義などという大義名分を放り投げて、遊び尽くす覚悟を一個人として持ちたい。

信用

信用

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-13

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