父。


 私の父はろくでもない両親に育てられ、ろくでもない環境で生活をし、見事なまでにろくでもない人間へと成長した。
 金だけはあったがその金も両親の両親、そのまた両親という代々受け継がれてきた家柄が、悪い金を引き寄せたということに他ならなかった。
 父は狡猾であった。頭脳を駆使し、何でも自分の利益を得るための手段とした。それは人脈であったり人望であったり人自身であったりした。人の善意すらも金に換える男。
 不思議とその周りに人は集まった。だがそれも父と同じ種類の人間であり、ろくなものではなかった。
 私はそんな父の背中を見て育ち、その生き方というものを自然と叩き込まれた。父と同じ道を歩むのだという予感は幼い頃から自分の身に沁みついていた。それはまるで呪いのように私を襲った。
 だがいつしか私はそんな父に嫌気が差し、その呪いを振り切るようになった。父のようにはならない。そんな誓いを、私は心の中で固く立てた。


 しかしそんな父も一年前の夏、五十歳を目前にして癌になり、一週間前にあっけなく死んだ。
 葬式は盛大に執り行うことにした。それが父の遺言であり、最期の父の威厳を守ることが、私の最初で最後の親孝行であると思った。
 葬式には何十人という父の会社の人間が参列した。多くの人間が、父の死を悼み涙を流していた。
 だがもし父が生きていたら、悲しんでいるようなふりをしている人間の、その嘘をすぐに見破ったであろう。父は人間の本質を見破ることだけはとても優れていた。
 父の会社は一人息子の私が継ぐことになっていた。そのことを気に食わないと思っている人間も多かった。
 私は邪な感情を向ける人間の視線を受けながら、幼い頃に出て行った母を無意識に探していた。しかし勿論、その影は少しもなかった。



 すると入口で、肩身が狭そうに立っている女性を見つけた。その横顔は凛として、その場で浮くほどの美しさを持っていた。
 昔、この屋敷で働いていた使用人の登子だった。彼女は私に気づくと、深く頭を下げた。

「お久しぶりです、坊ちゃん。お呼びくださり、ありがとうございます」

 もうこの家からいなくなって何年も経っているというのに、とても自然な笑顔と口調だった。
 まるでこの空白の数年間がなかったかのような、そんな錯覚に私は陥った。登子がこの屋敷を出て行ったのは、私が二十歳過ぎのときだ。
 あれからもう何年も経つのか。妙な感慨に襲われ、私は自然と言葉を口にしていた。

「憎んでいるか? 私の父を」

 美しかった登子。当時母と上手くいっていなかった父が、若い登子に手を出すのに時間は掛からなかった。
 しかし私の問いに、登子はただゆっくりと首を横に振った。そうかと応えた。
 少しの沈黙が落ちた後、私は切り出した。

「私が君を呼んだのは、またこの屋敷に働いてほしいと思ったからだ。勿論、嫌なら断ってくれていい」

 登子は驚いたように顔を上げた。私は続けた。

「私の顔は父に似ているだろう。これからこの屋敷で暮らしていき、周りの人間に染まっていくうちに、私は見た目だけでなく心も、父と同じような人間になってしまうかもしれない。それでも君は、私のそばにいてくれるか」



 自分は決して父と同じにはならないと誓い、呪いを振り切ったつもりでいても、私は間違いなく父に育てられた。それは逃れられない事実であった。
 いつしか私も父と同じようになってしまうのではないか。私にはそのことが、何より恐ろしかった。
 しかし登子は強く首をふって、それを否定した。

「貴方は怒ってくれたではありませんか。私の代わりに、私の無念を晴らしてくださったではありませんか」

 私は一度だけ、登子が父に犯されている現場に居合わせたことがあった。
 あのとき父の無骨な手が登子を辱め、まるで当然という顔でその尊厳を奪っていた。
 呆然としていた私は、登子と一瞬、目が合った。彼女は抵抗をしていなかった。だがそのときの彼女の瞳の色を、おそらく私は一生忘れないだろう。
 何を見ても何が起こっても何も感じないと思っていた感情は、その瞬間、暴力となって父を襲った。

 父を殴った私は一週間、手厳しく父から叱咤を受けた。しかし私の胸は、異様な高揚に満ちていた。
 そこで私は気がついたのだ。登子の尊厳を守ることで、私は自分の尊厳を取り戻したということに。それは幼い頃からただ与えられることだけしかしなかった私にとって、初めての経験であった。
 父は私に奪うことしか教えなかった。しかし奪うだけでなく、与えることで、自分が得ることもあるのだ。そしてそれはおそらく、父も知り得ないことだったのだ。
 父が知らないことを、私は知っている。それは確かに私の誇りとなって、心に深く留まった。
 思えばあの日からだった。私が父と違う道を歩み始めたのは。



「坊ちゃんは旦那様とは違います。貴方は貴方です」

 本当だろうか。私は父とは違うのか。その言葉を頼りに、生きていてもいいのだろうか。

「登子」

 呼び掛けると、登子はじっと私の顔を見つめた。その瞳には、もうあのときのような濁りは片隅にもなかった。

「私が死んだら、私のために涙を流してくれるか」

 そう問い掛けた自分に、ただ頷いてくれる人間がいる、美しさ。そこには利害も何もない。
 その素晴らしさを、きっと貴方は知らなかったであろう。思えば、父さん、貴方には知らないことが多すぎた。

「……ありがとう」


 父と同じ環境に育ち、しかし父とは違う道を歩んだ私に、何があったのかといえば、登子、それはお前の存在だよ。

父。

父。

昔に書いた短編です。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-09

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