曖昧なものの、その先に。


 窓からは燦々と眩しい光が差していた。見事なまでの晴天だ。
 私はカーテンをさっと開け、振りかえって、後ろのソファーで雑誌に顔を向けたまま少しも頑なに動こうとしない恋人に声を掛けた。

「ねえ類。やっぱりどっか行こうよ」
「嫌だ」

 すぱっと切り返されたが、彼の単語での拒絶の言葉に慣れている私は面食らうことはない。

「何で? こんな天気の日に出掛けないなんて、バチが当たるよ」
「天気の良い日には出かけなきゃいけないなんて決まってない。目的があるならいいけど、どこか行きたいところでもあるわけ?」
「ないけど。外に散歩とか、ぶらっとお店に行ってみたいじゃない」

 類は黙って雑誌に顔を戻した。私は溜息をつく。
 目的がなければ行かない。そして自分の意見は曲げない。いかにも彼らしい思考と行動であった。


 出会った高校のときから、類は少し変わっていた。
 行事にしろ日常生活にしろ、彼はとにかく何事にもきっちりとしなかれば気が済まなかった。
 日本人特有の曖昧さ、学生にありがちな人間関係における謙虚さというものを、進んで排除しようという敵意さえ感じた。お世辞を言おうものならどういうつもりでそんなことを言ったのかと説教され、適当にしようと私たちがさぼろうとすれば、無言の圧力でそれを制した。普通の高校生で思春期だった私たちは、彼の揺るぎない志に、あるいは頑固さに、ただただ圧倒され、彼をはじきものにすることすら選択肢から外し、むしろ感心すらしていた。
 『定規男』――そんな渾名がついたのは、入学してこのクラスになってから半年ほど経ってからだった。
 それはある数学の授業のときだった。先生が黒板に丸の図形を描き、そこに直線を引いた。しかしそのとき教室に教師用の大きな定規がなく、先生は自分で直線を引いた。それで授業が進むはずだったのだけど、すぐに手を上げたのが類だった。先生、僕、定規持ってきます。それは提案ではなく、報告だった。実際、いきなりのことに目をむいてしまった先生が何かいう前に、すでにいつものごとくきびきびとした動きで、教室を出て行った。面喰ったクラスの全員は、彼が職員室から戻ってくるまで、ざわめきをやめなかった。
 定規のように正確に。それが彼の信念だったことは間違いない。

 しかし勿論――それが災いになることだってたくさんあった。
 それは私と類が初めて関わったときのことだ。
 あれは一年も終わりに近づいた、十一月。文化祭が行われ、その準備が三日間行われた。いろいろな分担をして、それぞれが準備をした。だけど、私の友達が作業を間違えて、やり直しをさせられた。それを指摘したのが類だった。
「これは駄目だよ。間違いすぎてる。こんなの出したら恥をかくだけだ」
 それは責めているような口調ではなかったのだけど、その友達は大人しい子で、すぐに泣いてしまった。
 私は知っていた。その子は部活が吹奏楽部で、しかも試合が近いから、なかなか時間が取れなかったのだ。だけどそれでも一生懸命に終わらせようと、朝早くに学校に来て、ずっと自分の机で作業をしていた。だが、類はそれを考慮する気配もなく、泣いている彼女に淡々と、どこが間違えているのかと教え、彼女にやり直しすることを迫った。そのときはさすがに、隣で見守っていた私も、脳に血が上った。
 私は気が付くと、類の頬を張っていた。ぱしん、と思った以上に大きな音がして、教室はしん、と静まり返った。それから黙って睨みつけると、類は驚いたように目を見開いて私を見つめていた。こんな顔を彼をしたのを見たのは、そのときがはじめてだった。
 高校を卒業して、同窓会で再会したときに、そんな『定規男』から付き合ってくれといわれ、それから三年後には同棲することになるなんて、当時の私には想像もしていなかった。


 私は不思議に思い、付き合い初めに彼に訊いた。

「なんで私に告白したの? 私、むしろ嫌われてるんだと思ってた」

 すると類は少し考え込んだ。そしていつものように毅然とした話し方で流れるように言葉をつむぐ。

「僕は曖昧なものが嫌いだ。あのときも誰かが彼女をかばって、『彼女が可哀そう』だとか『お前は冷たい』だとか言うんだろうと思ってたけど、それは別に気にしなかった。だけど君は何も言わずに、暴力でかたをつけようとしていた。それが潔いと思ったんだ。それに君が何も言わずにただ僕を睨みつけているのを見た時に、それが僕には真似ができないな、とも思った」
 そして付け加えた。「単純に、君を尊敬したんだよ」

 はあ、と私は間抜けな声を出すしかなかった。
 付き合う前から分かっていたことだけど、類はとても率直に物をいう。
 なので私は結構な頻度で赤面をしたり、気恥ずかしさにうつむくことがある。



 どうしてそんなそんなに曖昧なものが嫌いなのか、それについてはなかなか教えてくれなかった。
 それを私がようやく知ったのは付き合って二年が経ってからだった。
 おそらく母の影響だと思う、と類にしては珍しく、歯切れの悪い話し方だった。

「僕の母親は、とても優しかった。看護婦をしていたんだけど、職場でも『いい人』っていわれて、好かれていた。僕の前 でもいつも笑顔で、仕事が辛いだとか、嫌だとか、したくないだとか、一度も口にしなかった。僕の父親はいわゆる亭主関白で、母さんはいつも親父のためにせかせか動いてた。その上で僕の世話もしてくれて、だけど、辛いなんてことは言わなかった。一度も。それどころか、僕にいつも言っていた。『類がいるから、私は頑張れる。類がいてくれたから、全然辛くないわ』。僕は間抜けにもそれを真に受けていた」

 類はすらすらと話していった。

「あれは僕が小学五年のときだった。夏休みに入る直前で、僕はその休みを楽しみにしながら、眠っていた。とても穏やかな夜だったよ。だけどしばらくして、肩をたたかれて起こされた。母さんだった。母さんは珍しくちょっと疲れたような顔をして、でも僕の髪を優しくなでた。僕は眠かったからされるがままになっていたんだけど、そんな僕に母さんは笑って、『愛してる』っていったんだ。そしてその次の日に、母さんはいなくなった。あとから父さんに聞いたら、若い男と駆け落ちしたんだって。それが本当かは分からないけど、とにかく母さんが嘘をついたんだってことは分かった。多分、ずっと、母さんは僕らに嘘をついていた。母さんは僕たちに、言えばよかったんだ。今日は疲れただとか、親父の世話なんてしたくないとか、仕事が辛いんだとか。そしてあの日の夜、僕に愛してるなんて言わず、『お前なんか邪魔だった』っていうべきだったんだよ」


 類の母親はすべてを曖昧にした。
 自分の気持ちも、夫に対する気持ちも、息子に対する愛情も。だからはっきりさせることを放棄して、すべてを捨てた。
 残された息子は、母親の言葉に愛情が残されていたことを信じることもできず、かといって忘れることもできずに、胸に残すことしかできなかった。
 類の瞳は怒りに満ちているわけでも、悲しみに陶酔しているわけでもなく、とても穏やかだった。
 彼はただ、いきなりいなくなった母親に戸惑い、そしてその答えを未だに探している。


 だけど類の部屋には、一枚の写真が飾られている。
 唯一残されていた、母親との二人で撮った写真。公園で、親子は仲睦まじく、肩を並べて写真に写っている。
 それははっきりとさせる彼ならば、一番に捨ててしまうそうなものなのに、ずっとそこにある。



「ねえ、やっぱり出かけようよ」

 私は提案した。彼が眉をひそめて顔をあげる。

「目的ならあるよ。この写真の公園って、ここから一時間ぐらいでしょ? 行ってみようよ」

 類はその言葉が予想外であったのか、珍しく言葉を失っていた。

「なんで?」

 分からない。別に何もないかもしれない。だけどそこには何かあるかもしれない。
 それを説明することは出来ないけれど、そんな曖昧なことがあってもいいような、そんな気がする。

「ねえ、行こうよ」

 類は嫌そうな顔をしながら、だけどすぐには否定しない。出会ったばかりの頃ならば、すぐに断っていただろう。
 変わることはあるのだ。そしてそれはきっと、物事が曖昧であるから、なのだろう。それを類も気付き始めているのなら、こんなに嬉しいことはない。
 その先に見えるものがあるなら、一緒に見よう。そのために、私はいつだって貴方の隣にいるから。

曖昧なものの、その先に。

曖昧なものの、その先に。

昔に書いた短編です。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-09

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