たましいの死んだ日。


 俺はひとのたましいが死ぬ瞬間を見たことがある。

 それは激しくも寂しく、もの哀しいものだった。



 俺の父親は売れない画家で、そのせいでうちの家族はかなり苦労した。

 ただ、家族といっても、その苦労を担ったのは主に俺の母親だった。だから俺は画家にだけはなるまいと決めていた。

 それでも小さい頃はよく美術館に連れられ、『俺も画家になる』なんてほざいていたこともあった。そのとき親父は嬉しそうな顔をしていたと思うが、もしかしたらそれは俺の気のせいで、不安な顔をしていただけだったのかもしれない。親父は芸術の世界の厳しさというものを痛いほど知っていたし、売れない絵ばかりを描いていたが、絵を見る目は持っていた。俺の絵を見て、親父がそこに才能を感じることはなかっただろう。まぁ、俺は親父の息子なわけだからそれも仕方なのないことだったのかもしれないが。



 小学生のうちはよかった。何度か絵の賞を取ったことがあり、周りからはさすが画家の息子だと賞賛され、俺も有頂天。まったく、子供とは単純なものだ。すぐに中学で本当に上手いやつの絵を見て、ああ、これが親父の言っていた、才能の壁というやつかと思った。一度は画家として売れていたこともあった親父だったが、それでも毎日、その壁にぶつかりながら、若い頃には死に物狂いで絵を描いていたという。だが、俺には無理だと思った。俺には、壁にぶつかるときの苦しさに耐え切れない。その実力もない。俺ははっきりと思った。絵を見る才能だけは、親父から引き継いだのだろう。

 それから俺は画家になるなんて夢はさっさと捨て、休日も休み時間も、サッカーや野球をするなど、スポーツに打ち込み、絵なんて無縁な生活を送るようになった。父親は寂しそうでもあったが、それ以上に安心をしていたような気がする。


 だから俺が彼女の絵を見つけたのは、本当に偶然だったのだ。

 あれは高校三年の文化祭のときだ。俺は友達と廊下で待ち合わせをしていたが、携帯にメールが入り、少し遅れるという連絡が入った。俺は息をついて、顔を上げると、すぐ近くの教室が、美術部の展示室になっていた。俺は何気なく――本当に何気なく、ふらりとそこに入った。

 美術部といっても、美術コースもないこの高校の美術部員の絵レベルなんてたかがしれてる。俺はほんの暇つぶしのつもりで、流すように飾られた絵を眺めていた。



 ――だが、ある絵を見た瞬間、俺はぴたりと足を止め、目を見開いた。

 あのときの衝撃を、今、俺は言葉にしろといわれても無理だった。

 その絵だけ、明らかに周りと違っていた。絵の描き方、惹きつけ方、何より、うったえてくるものが、圧倒的に違う。これが才能だ。俺は直感的に思った。この絵を描いた人間には、絵の描く才能がある。それは確信に近かった。

 俺はすばやく名前を見た。

 ――須藤綾子。

 俺は驚いた。それは同じクラスの女子の名前だった。


 須藤綾子は目立たない女子だった。特にいじめられているわけでもクラスで浮いているわけでもないが、クラスに溶け込んでいて気づかないほどの存在感しかなかったはずだった。

 須藤は放課後、毎日美術室に行っているようだった。

 俺は意を決してそれについていき、美術室に入った。



 まだそこには彼女しかいなかった。キャンパスに前に座って、筆を持って、今にも絵を描こうとしているところだった。

 彼女は、いきなり入ってきた俺に、驚いたような目を向けた。

 俺はすたすたと歩いていき、近くにあった木製の椅子を持って、須藤の横の邪魔にならない距離を保ってそこに置いた。



「ここで描くの、見ててもいいか?」



 彼女は意外そうな顔を俺に向けながらも、拒否はしなかった。うん、べつにいいけど、と不思議なほどあっさりと言い、すぐに筆を再開させた。

 俺は彼女が絵を描く姿を間近で見て、驚いた。やはり自分の目が狂っていなかったことを確信した。何て自然なタッチだろう。激しくも、なんて柔らかな絵を描くのだろう。彼女が筆をふるえば、白いキャンパスに、何と優しい世界を造りだすのだろう。気が付いたら二時間近く経っており、数人の他の美術員も入ってきていたが、俺は気にならなかった。

 どうすれば、どんな目をすれば、世界がこんな風に見えるのか、どう手を持っていれば、こんな世界を創りだせるのか。きっと考えたところで俺にはたどり着けないであろう答えを、彼女の創る世界は持っていた。


 それから俺は、放課後に暇な日にはふらりと美術室に行くようになった。

 須藤はいつに行っても必ず美術室で、絵を描いていた。俺が行っても、最初こそ少し気にする素振りはあったものの、絵を描き始めれば、俺はまるで空気になったような気分になった。

 彼女は孤独な子供を描くのがとことん上手かった。俺が最初に見た絵も子供の絵で、たった一人の世界で佇んでいた。だが見つめる先、その遠くに見える背中。あれは母親だろうか。何かうったえるものがありつつも、それは決して押し付けがましくなく、さらりとしていてだけど心に残る。彼女の絵はそんな感じだった。

 だが、須藤の絵を見れば見るほど、どうして彼女がこんなところで燻っているのかが疑問だった。

 美術部も廃れかけ、顧問は絵の分からないただのじーさんで、文化祭の展示会だって、人はほとんどいなかった。

 前に一度、何気なく聞いてみたことがある。何故この高校を選んだのか。



「え? やっぱり、家が近いからかな。それに、私の成績じゃ、ここにしか来れなくて」



 それも、彼女ほどの力があれば推薦だって有り得たかもしれない。今までどこの展覧会にも作品を出したことがないと聞いたときには本当に驚いた。



「いいんだ、私は、自分で楽しめれば」 



 そう言って彼女は笑った。そんな彼女に、俺は苛立ちが隠せなかった。

 そういう台詞は、俺みたいな人間が言うものだ。才能がないと分かりつつ、それでも絵を描くのをやめられない。評価されればあっけなく落とされる、そう分かっているからその現実から逃げるために言う台詞だ。それはあきらかに須藤ほどの実力を持った人間の言う言葉ではなかった。

 前から須藤にはどうもちぐはぐなところがあった。毎日美術室で、遅くなるまで絵を描き、キャンパスから溢れ出すのは、絵に対する揺るぎない愛情や情熱だった。かと思えば、こんなふうにふと絵なんてそれほど自分にとって重要なものではない、という発言をする。まるでわざと自分から絵を描くことから遠ざけるように。


 それでも俺は心のどこかで、彼女は美術の道に進むのでは、と思っていた。

 俺が文化祭で須藤の絵を見つけたのは十一月の終わりで、卒業するまであと四ヶ月ほどしかなかった。 ある日、俺は須藤に、これからのことを聞いた。

 だが、須藤は首を振った。



「先生にも、美術の大学に進学することを勧められたんだけどね。断った」



 俺は驚いた。あのやる気のないじーさんにも少しは人の絵を見る目があったのか。いや、それくらい、須藤の絵は圧倒的に上手かっただけなのかもしれないが。



「私、母子家庭だから、迷惑かけられないの。大学なんて、行く余裕、ないんだ」



 さらりと言った事実。俺は目を見開く。



 ――そうか、だから彼女はあんなにも、子供の孤独を描くのが上手かったのか。



 親に寄り添いながらも、どこか親を邪魔だと思い、だけどそれを必死に隠そうとしている息苦しさ。そんな印象を抱いたのはそのせいか。それでも世界のすべてである親を嫌いになるなんて考えられない。捨てないで、捨てないで、貴方の言うとおりにするから。そんなことを無言でうったえている小さな子供の背中。

 母親は、今まで彼女に何を言っていたのだろう。いや、たとえ何を言わなくとも、彼女にどんな無言のメッセージを送っていたのだろう。



 ――私は今まで、貴方を育てるのに苦労した。そしてここまで育て上げた。だから貴方には、これから私を楽させて欲しい。安全な道に進んで、私を安心させて欲しい。変な道に進んで、私を不安にさせないで欲しい。



 それとも、彼女の母親は直接、彼女に言ったのだろうか。



 ――貴方には、絵の才能なんかないのよ。あったとしても、プロの世界は厳しい。才能だけじゃ生きていけないの。夢みたいなことを言っていないで、私を救けてちょうだい。



 俺は、直接親に言われたわけではなかったが、それでも才能があるかないかぐらい、絵が好きならば、何となく分かるものだ。人の才能。才能の違いというものは、理屈ではなく、感覚でわかってしまうものなのだ。



 そうだ、須藤、お前だってわかっているんだろう?

 お前は絵が大好きなはずだ。だから、絵を見る目だってきっとある。 だからこそ、自分の才能にも、薄々気付いているはずだ。ここで辞めたら、きっと自分は後悔する。

  だが、それでももう彼女は心に決めている。俺がいくら才能があると説き伏せても、彼女の心は動かないだろう。それだけは分かっていた。


 卒業式を数日後に控えたある日の放課後。俺は美術室に向かった。

 夕暮れの差し込む美術室を覗くと、その教室の真ん中に立っている須藤が見えた。

 どうやら道具を片付けにきたらしい。俺は入ろうとして、足を止めた。

 須藤の前には、大量のキャンパスが並んでいた。あれは、全部須藤の絵だった。彼女の足元に無造作に置かれた彼女の、何十枚という絵。あれは彼女が高校の三年間で描いた絵のすべてだろう。

 不意に、彼女が手を振り上げた。それはキャンパスナイフだった。

 それを彼女は目の前の自分の絵に叩きつけた。キャンパスに置かれた絵に、大きな亀裂が入る。

 彼女はそのまま何度も何度もナイフを振った。

 びりびりに切り裂かれて紙となった彼女の作品は足元に無造作に散らばったが、彼女は気にかけることもなく、まるで狂ったかのように淡々と自分の絵を破り、壊した。

 俺は黙ってその光景を見ていた。



 ――何も知らないやつが見れば、それは異様な光景に見えたかもしれない。

 だが俺は、彼女は自分の命を殺すより辛いことをしているのだ、と思った。

 だかが絵ぐらいで、何を大袈裟な、と他の人間は笑うかもしれない。

 だが、違う。あの絵の一枚一枚は、彼女のたましいだった。彼女はそのとき、自分のたましいを殺していたのだ。

 それは須藤が子供だった頃から、彼女を支えていたものであり、そしてきっと彼女のすべてだった。

 だがそのたましいは彼女の母親によって、少しずつ、まるでゆっくりと首を絞めるように、殺されていた。それでも彼女はそれを何とか救っていた。死なないように、死なないように、彼女は逃げ続けた。それでも今日、彼女は自分の手でそれにとどめを刺したのだ。

 彼女は激しく手を振り上げながら、泣いていた。そしてそれが、彼女のたましいの終焉を静かに告げていた。




 

 俺は高校を卒業し、大学に行き、一般企業に就職した。二十年のときが経ち、高校三年のクラスで同窓会をやるという連絡がきた。

 そこには三年のときの同級生が集まっていたが、須藤は来ていなかった。

 他のやつに聞くと、彼女は卒業したあと、すぐにOLになって働き、何年か後に職場の人間と結婚して寿退社をし、専業主婦になって、今は二児の母だという。今日は子供の用事で、どうしても来れなかったらしい。



 同級生の情報によれば、彼女は今、実家にいるという。もしかしたらどこかで偶然会うかもね、と同級生は言ったが、俺はそれはない気がした。

 たとえすれ違ったとしても、俺は彼女だと気付かないだろう。



 彼女のたましいは死んでしまったのだ。それだけが彼女を彼女として形取り、他の雑多な人間から、彼女だけを区別する大切なものだった。それがなくなってしまった今、もう俺は、彼女を見つけることもないだろう。

 彼女は芸術の世界に進まなかった。だからこそ、平凡ながらに安定した生活を送り、結婚をして子供を授かり、幸せを手にしたのだ。それは厳しい芸術の世界に進んでいれば、手に入らなかった幸せかもしれない。これで本当によかったのかもしれない。


 だが、俺は酒を飲みながらふと今でも、思い出してしまうのだ。

 彼女の絵を最初に見たときの、あの一目惚れにも近い衝撃を。そしてこれから先、何十枚、何百枚と白いキャンパスに描かれるはずだったであろう、あの素晴らしい彼女の創りだす世界を。

たましいの死んだ日。

たましいの死んだ日。

昔に書いた短編です。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-09

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