雨の娘

雨の娘

七五調から普通文に切り替えてから初の長編です。神話感強めです。ファンタジーお好きな方がいましたらどうぞお読みになってください。

プロローグ

  全ての水の女王なる
  ジェルドララ 天の水瓶に
  この世の全ての水をしまって
  翡翠の栓を閉めていた…


 雨脚が強くなった。
 
 白い石畳の通りに幼い女の子二人。弾んで歌い、水を蹴散らかし、上手の方へと走り去って行く。その鄙びた旋律は雨音の中一瞬の光彩を放って通り過ぎた。

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 ヒルドの村の小高い丘に立って見上げると、四方をまるく囲む山並みが望まれるだろう。
 東にはマルド山。大地の女神グリオーダのふくよかな乳房。嫋やかな立ち姿にかかわらず十年に一度その乳は溶岩として溢れ出る。年に三たび、黒百合咲く大地は揺れその振動ははるか海の果てピッテの西海岸にまで津波を送るという。西に目を転ずれば峻厳なグラウスの峰が雪を被りぎざぎざの頭を天に突き立てている。この山は風神スタウンの住処であったという。山が風神を慕いその横顔を模したというのだ。その頂きの上では風はスタウンを慕っていまだ泣き声をあげる。そこから北を回り込むイルムの山脈が、グラウスに比べれば子供のような背丈で連なりゆるゆるとしたマルドのすそ野に収斂していく。
 南に連なるのはアホームの小山の群れ。青く木を茂らせ、幾筋もの渓川を這わせて冷たい霧をまとって奥深く広がる。その手前、この小さな盆地の中央に神聖なるヒルドの湖が湛えられている。深く青く穿たれた水は一説によると百丈。あやしげな言い伝えは人がこの地に鍬を入れてより伝わる。

 ある晩数名の若者たちが湖のそばの森で酒盛りをしていた。月は嫋々、酒は上撰、皆上機嫌で叫んだ。
 「綺麗どころよ、来て踊れ!」
 するとどこからともなく髪にひめゆりを飾った乙女たちが金の柄杓を持って現れた。平素なら怪しむところを、若者らは酔いに任せて誘われるがままともに踊る。乙女たちは柄杓で月の光をすくって盃に注いだ。とろけるような美酒であったと云う。それから後三月の間に彼らの体は光り輝くようになり背には白い翼が生えて次々と昇天していった。

 また云う。初老の漁師二人がアホームの山の西岸まで舟で流された。小川の河口に一夜宿り、新月の満天の星のもとに寝転がった。夜さ、不思議な気配に目覚めてみれば、まだ歩けぬ年頃の赤ん坊の三(メートル)程の巨体がむっくり座り、大きな頭で天を見上げている。そのぽかんと開いた口から燦然と光る蝶が飛び出してはちらちらと銀河を目指していたというのだ。その時川床から幽遠なる笑い声が響くのを聞いた。その日を境に二人の抜けた歯は生え頭は黒くつやつやと生え変わり行き、一年後には二十歳の若者に生まれ変わった。

 また最近も、夜の湖に夥しい鬼火が映るのを見たとか、聖域の森に木が根を抜いて立ち上がったような巨人を見たとか、口さがない人々の噂の種は後を絶たない。どれもこれも、この神々の廃都、ジスーダの水の聖域の口伝えとしてはふさわしいものではないだろうか。

 云々(うんぬん)

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 雨が降っている。雨が集落の家々の深緑色の(いらか)を流れるように洗う。そのきの傾斜のゆえかヒルドの村の家々は雨にも雪にも強い。壁はそろってベンガラの赤。赤は魔よけの色、ナータン様の魂の色。赤褐色の外壁の中の白い窓枠も屋根と同色の太い煙突も、ヒルドの村の建築様式はおおむね統一されている。
 人口約百人の村の中心的集落に建っている家は十軒ほど。残りは周りの丘の上に小さな茂みと牧場をまとって皆一様に南の湖の方を向いて建っていた。見上げれば集落の通りからも、牧草の斜面の中に置かれた白い石の柵とベンガラで彩られた赤い家々がつづれ織りに、蕭々と打つ雨にけぶり立って夢のように浮かび上がっているのが見えた。
 集落の中央に村の要のように建てられた「八彩廟」の緑の屋根には、カロナ焼の釉薬に艶めく八色の小鳥がじっとむ。赤、青、黄、緑、白、黒、灰、菫、八人の英雄たちの魂の色。小鳥を洗い屋根を洗う水は、白い持ち送りの軒にリズムをとって基礎石に注ぐ。
 硝子も羽目板もはまっていない赤い格子戸の隙間、水色の小さな影が動いた。影は濡れたフードを外して持ち送りの方を見上げる。裾から雫を滴らせてぼんやりと、だが瞳に水と光りの揺らぎを映して、レニーは雨だれの音に耳を澄ませる。ぽっつんぽっつんぽっつんぽっつん、規則的な音は心地よく響きだが時より破調が悪戯っぽくまぜっかえす。ぽっつんたたた、たたたたぽつん。レニーの朱鷺色の唇はきゅっとほころぶ。脳裏に無数の雨粒が降り注ぐ様を浮かべて青い目が震えるように揺らめく。
 
 深紅に塗られた天井からは金糸が下がり、色とりどりに刺繍を施された掌ほどの大きさの鳥の人形が数えきれないほど吊るされている。良縁子宝に恵まれるという。村の女性たちはこぞって捧げた。レニーはまだそれを供えたことはない。誘われたことはあるがまだ十三歳になったばかり。自分には少し早い気がする。過ぎ去った神代の冒険に思いを馳せ、廟に飾られている「八羽の小鳥」の英雄たちのまだ筆跡鮮やかなテンペラ画を眺め見た。

 中央正面、一際大きな祭壇に、深紅の狩人服をまとった姿で描かれているのは赤い小鳥ナータン様だ。今しも魔の将軍ハマリヤットに弓引き絞り、矯めた力は成程、世の理を変えるのに十分。地上の民の名代として「未来」と契約をなした英雄中の英雄。タシンの山に生い、征きて帰ってきた幸運児。
 このヒルド村を拓いたのはナータン様の末の弟、ゴロー様である。彼は狩猟と炭焼きを生業としていたナータン様の一族にあってこのヒルドの湖畔に移り住み、漁と牧畜を生活の糧に求めた「変わり種」であった。

 レニーは祭壇の一番右端、薄紫の後光輝く白銀の鎧の女性の絵姿に目をやった。静かに哀しみを湛えた菫色の瞳。右手は祈るように胸の前に捧げられているが、左の腕は無残に肘先から食いちぎられている。背景は紺碧の海に浮かぶ船の広い甲板。生きて昇天せんかというほど崇高な立ち姿の彼女の傍らには、剣で頭を突き通された大蛇グラノウスが真っ赤な舌を出して息絶えている。この構図は、菫の小鳥、シュミノウ様の絵姿にはありふれたものだ。
 赤き砂金産するユテン川の水精と大蛇の魔物との間に生まれたシュミノウ様。その肉体は最凶の魔鏡、「氷河の鏡」を封印して、今もモトバのうず巻く海峡の海に死ぬことなく眠り続けているとう。

 レニーは小さいころ、この絵が怖くて仕方なかった。この無残な姿が明日の自分のように思われてならなかったのだ。いつも目に入らないように気を付けていたのに、ふと見てしまったときには決まって悪夢にうなされた。

 「あんたがこうなるなんて訳ないじゃない」
 そんな時サニーは何時もレニーのベッドに潜り込んできてそう言ったものだ。同じ日に生まれたのに年上ぶってレニーの亜麻色の髪をさらさらと撫でつけた。心地よく乾いた瞳は青く輝き、その息からは母ミュリアの焼いた干し葡萄のパンの匂いが香った。
 「あたしがそんなことする?むしろ、あんたを傷つけようとする奴がいたら懲らしめてやるんだから」

 雨が僅かに弱まる。

 レニーは色彩渦巻く八彩廟を後にする。そのまま通りの一番西端に構える一際小さな店の湿気につぶされそうな低い戸をくぐった。戸を開けた途端つんと鼻を衝く薬の匂い。狭い店内にはびっしりと細かな引き出しが並んでいる。その戸棚という戸棚に生薬が収まり、壁という壁には乾燥させたハーブが吊るされている。

 「ロカお婆さん、こんにちは」
 「あれ、レニー一人かい?ああそうか、サニーは頭痛か」
 番台の奥にはまるで薬に埋もれるように、小さく縮んだ老女が皺くちゃの目元の皺をにっこりと深くした。
 「うん」
 レニーは頷いて要件を続ける。
 「雨降りなのにうっかり薬切らしちゃってたの」
 「はい、はい、分かったよ。乾燥サッジャとカロモの実だね」
 ロカ婆さんは慣れた手つきで天秤に薬草と重りを乗せる。ばっとんばっとんばっとんばらばら、店の屋根をたたく音。また雨脚が強くなった。
 
 レニーは半ジュエラ銅貨を二枚払って店を出た。そのまま宿ることもなく雨の中を行く。油を塗ったウールの雨合羽を被ってはいるが、灰色のの袖も裾も雨粒を吸い込んでじっとりと重くなった。春もたけなわとは言え日が射さなければ空気は冷たい。息は湿気と冷気に曇る。だがレニーは微笑んで空を見上げた。
 降注ぐ雨はまさに春のものだ。灰色の雲が空を覆っている。西のグラウスも東のマルドも仰ぐことは出来ない。それなのに光は確かに降って来た。ごおおっと、重い圧迫感を持って、暗い色の空全体が鈍く発光している。影の色をまとって後から後から降り注ぐぬるい雨粒。
 レニーは温もりに包まれる。
 濡れた肌には何故に呼吸が楽なのだろう?
 フードをぱっと跳ね上げて頬に雨粒を感じる。

 歌が、レニーの体の中で歌が鳴っていた。
 懐かしい歌が、雨の物語が。

黄色いお家

  五月、ここジスーダ島は春の盛りにあった。
 
 北から抱きかかえるように半島を伸ばす属州ピッテと海峡の荒波、北風はその向こうへ、その更に奥、狼住まうモウラリアの高い山へと帰って行った。
 代わりに、南大陸東端、人の子の父祖の地ジスティーチアから海を越えて南西の風が暖かい吐息を吐き、このやや寒冷な島にもようやく陽気をもたらす。
 その湿気は中部ジスーダの東嶺マルドにぶつかって雲を生み、ヒルドの村にも恵みの雨を降らせる。

 レニーは湖の反対側から坂道を上る。傾斜面は若草に覆われている。秋の暮れにはあれほど物悲しい雨も五月の暖かな大気の中では全てが輝かしい。草は慈雨に洗われて青さを増しゆき、恩寵を吸い込んでむくむくと力を溜める。太陽が顔を出せば芽吹きは一斉に茂りゆき、夏の装いへその彩を変えて行くだろう。見下ろせば湖の岸辺の胡桃の森も白味がかった萌黄の色に目覚め始めている。そのうっとりと夢見るような色合い。
 ヒルド湖畔には胡桃の樹が多い。水気の多い土地のせいなのか、気候が合っているためなのか。秋になるとレニーも、サニーと麻袋を持って胡桃拾いに出かける。その実はもちろん自家用にもなるが、町へ持っていって売るといい収入になった。

レニーが目指す丘の上には、「黄色いお家」の鮮やかな板葺き屋根が一軒だけぽつんと佇んでいる。
「黄色いお家」は木造平屋、形としては典型的なヒルドの民家だ。だが、赤いはずの壁から、緑のはずの屋根から、色を持たないはずの家畜小屋までもが黄色い塗料で塗りつぶされている。それがこの家が、「黄色いお家」と呼び習わされる所以だった。
 東に面した庭に、花を終えたミモザの木が常緑の風切り羽根にも似た葉を雨にしっとりとうつ向かせていた。その下のアプローチでは黄水仙が濡れ、菜の花がそぼち、山吹が潤む。玄関脇のエニシダは雨空に高く黄色い花を掲げ、差し向かいのキングサリは黄の花房を水晶に閉じ込めたような透明な雫を吊り下げていた。夏になれば南の傾斜地一面に植えられた向日葵畑が改めて鑑賞にやって来る村人たちを楽しませることだろう。
 何故かレニーの母、ミュリアは黄色い花ばかりを植えた。

 ぽつり、ぽつり、ぱらりんとん。雫が連なって落ちかかる。黄色い玄関の黄色い軒端の雨だれが、黄水仙の花びらにぶつかってぱとんとはじけた。レニーは家の戸を開けるや否や弾んで歌いだす。

 「全ての水の 女王なる
  ジェルドララ 天の水瓶に
  この世の全ての 水をしまって
  翡翠の栓を しめていた

  水のお番は双子の子蛇 
  おかっぱ 三つ編み 白と黒
  一人はけちんぼ も一人堅物
  翡翠の栓は ぎっちぎち

  岸の胡桃が雨をねだった
  『雨降らさませ 女神様』
  『川に芽を出せ 根っこ出せ』
  池のカエルがチャポンチャポ
  『雨降らせませ お恵みを』
  『池は千尋 水はまんまん』

丘の向日葵 くるくる回る
『雨下さりませ 雨を下され
  日は父なるよ 雨は母御よ
  右足だけでは歩けぬものを』

  ジェルドララ淡く微微笑みて
  翡翠の栓をそっと外した
たちまち地上は ザンザンザン
虹の橋なら二十八
  丘の向日葵うつむきて…」

 レニーの声は雨だれと屋根叩く雨音を伴奏に、暗く陰った家の中を朗らかな響きで照らした。歌いながら玄関を行き過ぎ短い廊下を抜け、湖に面した部屋の戸を弾んで開ける。青く低い窓枠の中から差し込む光は弱く、どんよりとした静けさが室内に満ちていた。
 黄色い絨毯の上には赤いニスに輝く手織り機が二台、窓に向かって囲むように並んでいる。その右側の機の前に、レニーの鏡像のような少女が黄金の髪をはらはらと乱してぐったりと伏していた。
 「ああっ、頭が痛ーい…レニーお帰り。薬買ってきた?」
 一抱え以上ある桜材の足踏みの織機の上、湿った薄暗がりにも鮮やかな金の髪の間から、熱っぽくとも乾いた青い目がとろんとこちらに注がれる。
 「雨の日って嫌いよ。頭痛がするんだもの。レニーは水が怖いのに雨の日は元気ね」
 「どうしてかしら?多分、雨の日の湖の色のせいね」
 レニーはぼんやりと窓の外に目を送る。
 
 窓の向こうには狭い南の庭の向こう側いっぱいに幾千重の胡桃の森に護られたヒルドの湖が静謐と広がっている。その森も水面も打ち付ける雨に白くけぶり、ねずみ色にその鮮やかなはずの青を落としこんでいた。レニーはその鈍い色を確かめてほっと息をつく。
 ヒルドの湖は水の女神ジェルドララ様の泉を水源に持つ神聖な湖水だ。アホームの丘の頂きからその手前の湿地帯から、この世で最も清らかな水が季節の別無くこんこんと湧き出でる。それはマルドやグラウスから流れ込む雪解けの水と合わさり宝石のように美しい湖水を生む。
 母なるヒルド、青い水晶。その澄んだ硬い水、豊かな漁場をヒルドの村人は恩寵と浴した。彼らの生活の隅々にまでこの湖水は優しき手を差し伸べて糧となっていた。

だがレニーにはその吸い込まれるような青さが恐ろしかった。どうとも説明のしようがない。ただ見ていると自分がずんずんそこへ入って行き、二度と地上のこの暖かい家に村に戻れないという恐ろしい空想が湧き上がって来るのだ。
 
 今、雨の湖面は灰色に波立ち、ひっそりと自閉していた。そこから伸ばされてくる形のない触手も今日は感じられない。レニーの青い目は、濁った湖の色を映して三回まばたきをした。
「今日は大丈夫。今日はこの色だったら」

 レニーは台所で熾火(おきび)を焚きつけて薬草とリンゴ茶を煎じると、素焼きのマグに薬湯を注いでサニーに手渡した。鼻の付け根に皺を寄せて、サニーは「苦ーい」とぼやいた。
 自分のマグにはリンゴ茶を注いで、レニーも左の機の前に座る。(おさ)を渡して端を整え、ペダルを踏み踏みを引いてゆく。見る見るうちに手前には藍染めの毛織物が織りあがって行く。一方、サニーの機には鮮やかなクチナシ染めの布地が生み出されつつある。
 
 寝室兼作業部屋には羊毛の厚織の黄色い絨毯が敷かれ、二人はその上の揃いの織機で機を織っている。真ん中のサイドテーブルの上に中身の違うマグが二つ、ベッドも西側に揃えて二つ。その頭の変色した無垢材の板壁にも、お揃いの黄と青の帽子が二つ並んで掛かっている。二人は機を織る間小鳥がさえずるようにおしゃべりし合った。

 「どうしてあたしだけ雨の日は頭が痛くなるのかしら」
 「分からないわ」
 「雨の神様に憎まれているのかしら?」
 「そんな筈ないわよ。あなたを憎む神様なんていないわ。きっとサニーは向日葵と一緒なのよ。人よりもっとお日様が必要なのよ」
 「曇って来るとね、こめかみがピーンとしてくるの。その度雨なんてなければいいと思うのよ。水なんて大嫌いだわ」
 「水がなかったらみんな困るわ」
 サニーは再び機にがばり伏して溜息まじりに言った。
 「そうなのよね…。あたしは一人尊い犠牲に耐えることにするわ。ああでも、双子なのにどうしてレニーは痛くならないのかしら?ああレニーはずるいわ」
サニーはふてくされて眉を寄せた。レニーは鏡像のようなサニーの白い顔に向かって曖昧に微笑んだ。同じ日に生まれた二人はともに美人と評判の母、ミュリアによく似た典雅な顔だちをしている。見開いたように大きな瞳と小さめの唇、白く華奢な首。
 だが、妹のレニーが繊細な亜麻色の髪を真っすぐ垂らしているのに比べて、姉サニーは夏の太陽のような輝かしい金の毛を豊かになびかせていた。瞳もサニーの青が晴れた青空の高い所の色であるのに対して、レニーの青は、水をしっとりと含んだ露草を思わせる色合いだった。

 「ねえ、何か歌って、レニー、あんたの歌を聞くと頭痛がよくなるの。不思議よね」
 サニーはレニーと揃いのの肘を機の枠に付いて、人懐っこい眼差しに木漏れ日を思わせる光をまとわせて投げかけた。レニーははにかんでまばたきをした。
 「あたし下手よ」
 「下手じゃないわよ。雨の日に聞くのはレニーの歌が一番」
 レニーは再び落ち着かなくまばたきをする。その瞳は風に揺らぐ水面のように揺れる。その後でレニーは開け放された窓の向こうを見やると声を放った。青い小鳥ネリ様が説得して連れ帰った商船団を率いて大降りの雨の中ムスト港に帰航するくだり。雨が船団の掲げる群青の旗を濡らす。凪いだ空から不意に現れるかのように降ってくる透明な雨粒。マストに上ってネリ様はウミネコの歌をうたう。波止場では黒い小鳥アシル様が大剣に寄りかかって待っている。レニーの声は繊細に物語を伝えた。サニーはを置き頬杖をついてそれに聞き入った。

 「あらあら、今日は歌うのはレニーだけなの?」
 家畜小屋の羊を見に行っていた母ミュリアが牧羊犬のダーダを引き連れて、亜麻色の髪となだらかな肩についた雨粒を払いながら入って来た。灰色の袖口に敷き藁の干し草がくっついてぶら下がっていた。
 その声に消し難い含みを感じてレニーの歌声は止んだ。

 「母さんサニーの歌が聞きたいわ。あなたの歌は元気が出る。まるでそう、お日様が歌っているみたいに。サニー、ミスレノア族の牡牛の歌をうたって」
 レニーの歌などなかったかのようにミュリアの目はサニーの青空の色の瞳に注がれる。その空色の奥にミュリアは遠い何かを痛ましく夢見ているようにも見えた。レニーとそっくりの露草の水っぽい目が浮かされたように潤む。その眼差しを見るとレニーの胸は痛み、亜麻色のまつげは落ち着きを失った。

 「レニーの歌もいいじゃない」
 「サニーの声が好きなのに」
 「あたし、雨の日は歌わないの。さ、歌ってレニー、今度はナータン様が『未来』と契約する話にして」
 ミュリアはふうと息を吐いてなだらかな眉を悲しく寄せた。
 「あなたはその物語ほんと好きね」
 サニーお気に入りの叙事詩は何といっても「八羽の小鳥」たちの物語だ。神代を閉じ新たな時代を開いた胸躍る冒険の数々。特に赤い小鳥ナータン様の結んだ「未来契約」にサニーの若い憧れはかきたてられている。湿り気を帯びた雨の日の空気の中に空色の瞳が眩い光を放射した。瞳だけでなく、サニーの全身が湧き起る希望に光り輝くかのようだった。その声も、何物にも臆することのないきらめきをまとって真っ直ぐと放たれる。
 
「だって素敵じゃない?命限りあるあたしたちだけが、自分の未来を選び取る権利を持っているのよ。不死にして全能の神々は、天界の王セクィナ様だって夜の王者マナン様だって、一度宿命の指名を受ければ濁流にのまれる葦と変わらない。どんどん削られていく地面になす術無く根を下ろしているいるしかないの。『気高く』、『悲壮に』、その宿命を演じ切るしかない」
 
「サニー罰当たりだわ」
 レニーがおろおろとサニーの言葉を遮った。ミュリアの瞳は不可思議な翳りを見せた。震えながら開きかけた唇はすぐにすぼめられ、そして眩しいものでも見るようにサニーを見つめ、古い物語をそらんじるように語りかけるのだった。
「サニー、『未来』を選んで宿命を乗り越えられるのは何時でも誰にでも出来る事じゃないわ。意志の力、望みの強さ、そうして『未来』の機嫌を損ねないこと…」
「それの全部があたしにあるって思わない?あたし将来は都へ上がって、歌唱劇の女優になって、貴人と結婚して子供を五人産むんだ」

 サニーの宣言はまるで芽吹いた植物が天を目指すかのようだった。
 ミュリアの唇は一瞬何か言いたげに開かれた。それを顔色を変えて飲み込む。
 「そう…。働き者のレニー、後でパン種を取りに行ってちょうだい。サニーは濡れたくないでしょうから」
 落ち着いた顔を無理やりに取り戻した後、改めてそう告げてミュリアは奥へと下がって行った。
 レニーはぎゅっと目を閉じて開き、もう一度まばたきして低く声を響かせた。不安定な短調の調べ。それは祈りのために連ねたかのような歌声だった。

 「『我と契約なすならば
  地上の民は やがて滅びる 
  無限の『未来』は対価なり 
  赤い小鳥よ ナータンよ
  お前は地上の名代に
  滅びを選ぶ 覚悟はあるか』

  耳幅広き ナータンは
  肉裁くように答えたり

 『死が避け得ぬから 我らはあがく
  その手に希望をつかまんと
  神々は 
これほど必死にあがくだろうか
宿命の夢に 操られ
永久の命を生きる神には
我が契約の根拠とは
必ず滅ぶ その確信よ
  必ず滅びるものだけが
  未来を選ぶに能うもの』
  
『分かった 宜しい これよりは
  そなたらは二つ神を持つ
  不死の神々 そして未来
  宿命祭る 神々と
  希望を示す『未来』の合間
  戦いせめぎ合うことが
  地上の民の生となるのだ』…」

 「あれ?誰が歌っているの?」
 窓の外に見慣れた顔ぶれがのぞいた。友達のリーナやカーデルたちだ。こってりと油を塗った雨合羽に黒髪を隠して、低い窓枠から手を伸ばす。
 とたんにレニーの音程は乱れ、声は蚊の鳴くように細く途切れ途切れとなった。レニーは真っ赤になって歌を止めた。

 「サニー、魚獲って来たよ。お父さんが持って行けって。頭痛がするからって食べないと駄目だよ」
 リーナが開いた窓から手を伸ばして、草紐に結んだ肥ったニジマスを四尾も差し出した。立ち上がって窓へ向かったサニーは、頭痛にあえぎながらも目の端をきらりとさせた。サニーはこれに目がない。
 「雨、早く上がるといいね」
みんなは口々にサニーにお見舞いを言った。

「ねえ、サニー知ってる?開拓団長のブリズ様の所に避難民が預けられるらしいよ」
「避難民?何処で戦をやっているの?飢饉のうわさも全然聞かないけど」
「それがさ、モウラリアだって」
「モウラリアなんて人が住んでるの?狼と魔物しかいないんじゃないの」
サニーは膝をついて、分厚い青の窓枠に右手をもたれさせて、その頬を支えた。少し後ろの椅子に座るレニーの目からは、サニーの髪が厚い雨雲から漏れる陽光にも黄金に光っているのが見えた。
「それがさ、いっぱいいるんだって。しかもピッテだけだと溢れそうだから、ジスーダにも受け入れるんだって」
「謎の病気がはやっているらしいよ」
「そんなの受け入れて大丈夫なの?」
「それがさ、モウラリアを出て、よその土地の水や食べ物を口にして、一月も休んでいれば快癒するんだって」
「特にヒルド水系の水が期待されているの」
「なんでも、都の大地母教会のおばさん達からの圧力がすごいって。ブリズ様も本当は嫌なんだけども」
「嫌ねえ、蛮族の姿なんて見たくないわ」

「ええ、あたし、狼と魔物にも屈しない、未開の人々を見てみたいわ」
 かますびしい少女達のさえずりを圧して、サニーが夢見る瞳で一声放った。頬を右手から離して、分厚い雨雲の向こうに確かに輝く太陽を真っすぐに見つめる。背中しか見えないレニーにも分かった、サニーの額がどんなに明るく薔薇色に輝いているのかがはっきりと。リーナもカーデルも息をついて黙った。頬を染めて憧憬の眼差しをこの特別な友達に向ける。

 レニーは一人黙って機に向かった。いつも、誰といても、光輝く太陽のようなサニーの傍らで自分は小さく透明な雨粒だ。逃げるように会話から耳を塞ぎ、綾織の中に意識を集中させた。
独り機に向かってペダルとの動きにかまけていると、織り目綾目の模様の中に、この半年の間人知れず反芻していた悩みが浮かび上がって来るのだった。

 レニーとサニーは去年の秋、リーナとその父親に連れられて、西のグラウス山の向こう側の、聖都リュリオンに遊びに出かけた。

 リュリオンは新しい街だ。リュリオンに限らず、ジスーダの街や村は皆まだ時の澱が濃密には沈殿していない。動乱の時代の最後、神々が彼らの都、このジスーダを人間達に明け渡して以来百年の歴史なのである。
人々が聖地と呼ぶこの地に鍬を入れたのは、高位の聖職者と八羽の小鳥ゆかりの人々だった。ヒルドの村を拓いたのが赤い小鳥ナータン様の弟の一族であるのなら、聖都リュリオンを築き上げたのは、八羽のおびと、白い小鳥ヨギニ様に縁ある人々だった。

レニーとサニーは揃ってこの聖都、人族の父祖の地であるであるジスティーチアを中心とする十の王国、七の属州、三の教化地に冠たる地位を占める、輝きの都リュリオンに降り立ったわけである。

白亜の五階建てがひしめき合いながら続く街の大辻で、レニーはひたすらおどおどしていた。
まだ槌音の響く街の整然と整えられた区画の中で、道は血管が脈動するように膨れ上がっていた。市場でもないのに露店が並び、四方から荷馬車が行き交ってゆく。
浅黒い者が多いナータン様の末裔とは違う、白い顔の群衆は乱雑に見える道の上でも何処か上品な振る舞いだった。
カラフルなサボの石畳に響く音が、各地の訛りを交えた言葉が、荷馬の鳴らす鈴が、空気にざわざわと満ちていた。後ろでは竪琴が、右横では笛が鳴らされ、靴音と歓声がその周りに渦を巻いて跳ねた。
絨毯を屋根にかけた露店では、まがい物の細工類が並び、解禁されたばかりのジビエの焼き肉がもうもうとを上げている。それを求める人、呼び込む人、人、人、人。
目が廻りそうなレニーをしり目に、サニーは堂々と値切っているのだった。

その時道の先の方で万歳の声が唱えられた。言祝ぎの波は赤く陽が沈みゆく先からこちらに広がって来る。聖王ヨギニ五世を乗せた輿が横切ったのだ。太陽神セクィナ様の御殿だった王宮から、衛兵の掲げる槍の林と立ち並ぶ穂先に守られ、巨大な帽子を頭に載せた王がゆっくりと横切った。その場の誰もが大仰に叩頭した。だが一人サニーだけは違った。その青い目で真っ直ぐにその人を観察した。
「まあ、結構頭が大きいわ」
そうして、まだ年若い彼が白っぽい金髪であること、金の綸子織のガウンに真珠の縫い込めてあった事、ガウンやズボンの刺繍は初代ヨギニ様の乳母の名前にちなんで乳香(アッテルポア)であったことを皆に伝えた。不敬じゃないかと諭されると平然としてこう答えた。

 「元はと言えば聖王様の祖先も、白い小鳥ヨギニ様だったわけよね。赤い小鳥ナータン様と同格、いいえ、『未来』と契約を交わしたのが彼ならば、ナータン様の方が上だわ。あたしたちはそのナータン様の一族から連なるもの。何を気後れする必要があるの」
 皆唖然としていた。レニーは自分たちだけがナータン様の一族とは違う出自であることを言いそびれてしまった。

 このサニーの矜持は、前日観に行った歌唱劇の演目で強化されたものらしかった。都に着いたその午後、サニーたっての希望で野外劇場を訪れた一行は、緑の小鳥グラフィア様が言葉を失い、赤い小鳥ナータン様と運命の出会いを果たすを観劇した。

 「レニー、あたしも未来を見つけたわ」
 宿屋の硬い布団の上で枕を抱き、サニーは感動の余韻に酔いしれて熱っぽく瞳を輝かせた。
 「あたし女優になる、歌唱劇の主役を張りたい」
 「お母さんはなんて言うかしら」
 「お母さんは関係ないわ。あたしの『未来』がここから呼んでいるのよ」
 「サニー、だって呼ぶのは『未来』じゃなくって『宿命』の方だわ…」
 言いつつレニーは、そのサニーの瞳から激流となって放たれる生命の輝きを神殿にく心持で眺めていた。何があっても願いを叶えてあげたい、それが自分の使命だと思った。
それなのに思いもしなかった不安が胸を揺るがすのだ。もしサニーが女優になるために都へ出るのだったら、自分はどうするのだろう?あたしは?サニーが光ならその影のように寄り添ってきたあたしは?
サニーに従って都へ出ても自分には場違いだ。やって行けっこない。サニーにしてこの村から一人離れて遠くで暮らすことになっても平気なのだろうか?あたしと離れてしまっても平気なのだろうか?
この時初めてレニーは、サニーとはいつか別々の人生を歩まねばならないということに思いが至ったのだった。サニーの傍らにいては小さく透明な雨粒だと嘆いてもいるというのに、一人生きる不安はその嘆きを圧していた。
それ以来心に溜めてきた迷いを押し込めて、レニーは深くため息をついた。

 「ええっ!どうしよっかなあ」
 一人物思いの世界に沈みこんでいたレニーの耳に、サニーの弾んだ声が飛び込んできた。
 「ねえ、レニー、あんたはどうする?」
 「何の話?」
 「聞いてなかったの。明日雨が晴れたら、湖の対岸にピクニックに行こうって。舟に乗って行くんだって。どうする?レニー、水が怖いんでしょ」
 レニーの胸は波立った。曇り空の灰色を映した水面が一瞬で嵐の気配をまとう。唇は声も出ないまま、瞳は素早く浅くまばたきをした。どうしたというのだろう?心臓は早鐘打っている。手の中に汗が冷たくにじむ。サニーは真っすぐレニーを見つめて答えを待った。
サーサーと雨の音が騒ぐ。その音がやけに大きく聞こえる。それがレニーの体を包みこむかのように奇妙な現実感を伴って響いていた。本当にどうしたというのだろう?外では友達もじっとレニーを見つめていた。
 
「サニーこそ、水が嫌いでしょ。今まで湖には寄り付かなかったじゃない」
 「舟に乗ってみたいの。濡れなきゃいいかな」
 さっきまで頭痛に潤んでいた空色の目は、くるくると陽気に輝いた。雨が、何か訴えかけるようにレニーに囁いた。 
  
 「行くわ」
 レニーはためらいながら答えた。黒雲のような不安がどうどうと押し寄せてレニーの頭上を圧した。その声にレニーは従う。どうしてもサニーから離れてはいけない、雨がそうささやいているのだ。
 
 「じゃあ決まりね。朝、雨が止んだら船着き場に集合ね」
 リーナが声を弾ませた。サニーの横顔は楽しい明日への期待に一層輝きを増す。窓の外には重く垂れこめた灰色の空が湖に不穏な影を落とし、サニーの黄金の髪に冷めたような光を投げた。おくれ毛が麦わらのように弱弱しく黄色く透かされていた。レニーは睫をはらはらさせながらそれを眺めていた。
   

 「まあ、湖に入るの、二人とも大丈夫?」
 晩御飯の時、ミュリアはそう言って、おろおろと二人を交互に見た。言いながらパンを置き、両指を卓に引っかけるようにした。ミュリアの腕の震えで、素焼きの混酒器のなかの葡萄酒に軽いさざ波が立った。
 「黄色いお家」の食事は簡素に台所で行われる。調理台にもパンね台にもなる胡桃材の一枚板のテーブルをはさんで、レニー、サニーと、ミュリアが相対峙している。台の上には錫の燭台に蝋燭が一つ。ミュリアの肩越しに白い石を積み重ねた(かまど)熾火(おきび)が、蠟燭の照らしきれない隅っこに赤く輝いていた。
 「お母さん、何をそんなに騒いでいるのよ」
 サニーはそう言って手で母親に食事を続けるように促した。
 
ミュリアはとても食が細い。リーナが持って来たニジマスは、香草と白葡萄酒で蒸し焼きにされ湯気を立てている。だがミュリアは手を付けない。ミュリアはニジマスに限らず魚類を一切摂らなかった。荒く挽いた小麦のパンと葡萄酒、そして蜂蜜と胡桃を使った菓子の類だけを食べて生きている。
 
「湖は最近鬼火が出るって噂だわ」
 「平気よ。昼間は皆漁に出ているじゃない。それにあたしたちもう十三歳よ。子供じゃないわ。ね、レニー」
 急に水を向けられたレニーは、干し葡萄の入った硬いパンを噛みながらとっさに頷いてしまった。自分もこの「ピクニック」に不安を感じていることを無言で反芻し、頷いてしまってから後悔する。レニーは目を落ち着かなく揺らしてミュリアとサニーを交互に見た。サニーの瞳は挑戦するように蝋燭の灯りを鋭く反射する。

「お母さんこそ、こんな湖畔に住んでて、一回も湖に近づかないけどなんで?」
 「あなたと同じよ、水が嫌いなの」

 ミュリアの視線はうろうろと泳ぎ、空曇る日の湖の様に翳った。そうして納得いかない口ぶりで、あっと言う間にニジマスを片付けたサニーにこう尋ねた。
 「嫌いな水の上にどうして行ってみたいの?」
 「嫌いだからよ。嫌いなものを知ってみたいの」
 自家製のねっとりとした羊のチーズを切り分けていたサニーは、その汚れた指先をぺろり舐めた。
 ミュリアは消え入りそうな声でつぶやいた。
 「あなたはお父さんそっくり…」

 レニーとサニーは顔を見合わせた。父親の素性や人となりについて母に尋ねてはいけないことは、二人の共通認識だった。

 ミュリアはヒルドの村の出ではない。乳飲み子の双子を抱えてこの村にふらり現れた。そうして出所の分からない資金で羊を買い、「黄色いお家」を建て、ここで二人を育てあげた。ナータン様の血を引くおおらかな村人たちは、彼女らを暖かく迎え入れた。
一家はもう百年前からここに居た様な顔をしているが、実は三人ともどこの誰ともわからない人間なのだ。レニーはそのことをひっそりと胸の内に噛みしめる時があった。

 ミュリアは双子の父親については、娘たちにすら口を割らなかった。無理に聞き出そうとすれば黙って泣き出す。母親の気分を害さないために、二人ともその話題を避けるようにしていた。
 
それでも関心が無かったわけではない。ある時サニーはレニーに言ったことがある。
 「あたしたち案外やんごとない血筋をひいているに違いないわ。そう易々とは明かせない身分のお父さんなのかもしれない」
 うっとりと夢見る瞳のサニーに対し、レニーはそうだとも違うとも言えずに、眉を寄せてただ曖昧に微笑んだ。レニーの父への憧れは複雑な陰影を帯びていた。
もちろん会ってみたい。自らの半分を作ったのがどんな人なのか並々ならぬ興味もある。確かに事情があるのだろう、サニーの言う通り「そう易々とは明かせない身分」の可能性も否定はしない。でも、もしそうなら、親子の名乗りを上げることとよりも、体面の方を重んじているはずの父親に、恨み言の一つや二つでも言ってやりたくもある。どうして迎えに来てくれないの?名前を明かしてくれないの?あたしたちのような娘では恥ずかしいの?
裕福な暮らしがしたい訳じゃないのだ。自らに連なるルーツが知りたかった。ちょうどこの村の人々が赤い小鳥ナータン様を誇りとするように。

ミュリアはうなだれていた。自分の説得の虚しいことをすぐに感じ取り、目にじんわりと涙を浮かべた。サニーに向けたまま眼差しを虚ろに漂わせてここにないはずの何かを見つめた。
「何だか嫌な感じがするのよ…」
ミュリアの目に涙の気配が兆した。

サニーがはっと目を見開く。素早くチーズをのせたパンを木皿に置いてミュリアの前に手をひらひらと振った。
「大丈夫よお母さん。リーナやカーデルやお兄さんたちも一緒だし、お兄さんたちは舟にも慣れてるし」
 「そうよ、ただちょっと対岸まで行って、お昼を食べて戻って来るだけよ」
 レニーも口の中のパンを慌てて飲み込む。不安で不安でたまらないのにどうしてもサニーに合わせてしまう。レニーには自分でもどうとも説明のできない癖だった。それでも合わせながら自分の意見を心の中に反芻する。本当に大丈夫かしら?
 食事を忘れて言葉厚くなだめすかす二人に、ミュリアは沈んだ瞳のまま微笑んだ。
 「そうね、リュリオンに遊びに行くのよりずっと近いのよね。それなのにどうしてなの?どうして胸騒ぎが止まらないのかしら…どうして…」

 ミュリアの語尾はどうしてどうしてと三回彷徨った。古い宗教音楽の様な神寂びた翳りがそこには宿っていた。ミュリアの瞳は蝋燭の灯りに暗い水面に赤い月が輝くかのような光を帯びて揺れた。その表情に、レニーは自分自身を見た。ミュリアはサニーよりもずっとレニーに似ている。髪や目の色がどうという問題ではない。まるで同じ中身の焼き菓子を、大きさだけ違う型でかたどったかのように。

小さく浅く息を飲み心の中でつぶやいてみる。
「ああ、お母さんはあたしと似ているのだ。あたしと同じ響き方を知っているのだ」
 
雨がばらばらと屋根を叩いている。


 その晩レニーは夢を見た。

 夢の中でレニーの意識は水に遊んでいた。
 薄水色の水中に、天上から照らす太陽とは別の光球が輝いていた。それは粒こそ小さかったが、お日様と比べても決して見劣りしない。我が身を見やればレニーは小さな魚だった。レニーは眩い光の周りをくるくると旋回する。きらきらと笑う光の周りを。

 レニーは尾ひれを踊らせた。この周りを泳ぐことの何という喜び。だが悲しみに魚眼を瞬いた。銀の鱗は決して自ら光らない。何かに惹きつけられ、また拒まれ、レニーはくるくると回った。

 夢の中のレニーはまた鳥の目を持っていた。レニーの池は丘の上の草地に見開いた小さな青い瞳だった。丘の下には胡桃の森に抱かれたヒルドの湖が群青の水を滔々と湛えて微笑んでいる。東にはマルドのなだらかな尾根が、西にはグラウスの峻厳な峰が、まだ雪を高いところに被ったままそびえている。北には二つの秀峰をつなぐイルムの低い山脈が伸び、南も神域の湿地帯の向こう側に、アホームの小山の群れが緑にゆるゆると連なっている。
 湖のほとりの小さな砂地のこちらから広がる草原に白や黒の羊たちが群れ集い、平和に大人しく草をんでいた。小鳥の囀り(さえずり)と蜜蜂の羽音が眠たげに空気に満ちている。

 不意にどす黒い影が湧きあがった。輝くようだった新緑が、湖の向こう側の方から腐った黒緑色に侵されてゆく。影の広がりには音も無かった。どんな鳥の飛翔よりも早く、風の速さで、それはどんどんこちらへと迫って来た。湖を回り込みのどかな牧場の草までもがあっと言う間に黒く侵された。黒くなった草を食んだ羊たちは甲高く鳴き声を漏らした。悶えて血を吐き、泡を吐き、やがて力尽きてその場に動かなくなった。蜜蜂も小鳥も歌を止めた。青空だけが嘘寒く輝いている。

 池の縁まで侵食した黒い草は、根を伸ばして青黒い液を注いだ。清らかな水は禍々しく染まった。レニーは狂ったように光の周りを泳いだ。光の笑い声は無邪気なものからぞっとするような調子に半音階上ずった。

 冷たい汗をかいてレニーは目を覚ました。軒からは、揃わないリズムでまだ雫の垂れる音が響いているが、窓からは薄雲の向こうのぼやけた月光が部屋にほんのりと射し込んでいた。
寝る時には閉めたはずなのに誰が開けたのだろう?まだ慄いた瞳の先に、暢気な様子でサニーが眠っている。
 その枕にふと目を置いた。起きあがり近寄ってそれを指でつまむ。赤黒い杉の葉のようなものが、しっとりと雨を含んでそこに落ちていたのだ。

毒の木

 
  翌朝天気はすっかりと晴れ上がった。雨は大気の塵を洗い流し、浄化された五月の陽が、軒から垂れる雫に光を屈曲させて小さな空を映し出す。庭先のエニシダの屈託のない黄色も、新鮮な緑弾けるその葉の色も、一粒一粒に結晶した透明な輝きの小宇宙。季節は一歩、また一歩、夏へと近づいてゆくのだ。
 
 二人が南に面したドアを開けると湖を覆う霧が目を埋めた。白い湿気の塊が太陽から水を隠している。しかしそれは悠然と動いて既に西の山風に吹き払われる途中である。切れ間にのぞく湖面は吸い込まれるような色をしていた。今日の快晴の空を映しこんだ色。レニーは血の気が引くのを感じた。

 「じゃあ、お母さん、行ってきます」
 サニーはあくまでも元気いっぱい。晴れ渡った天気のせいか頭痛はすっかり良くなったようだ。薔薇色に頬を染めて湖の色に怖気づくレニーなど知らぬ顔だ。
 「レニー、お弁当の籠よ。パンとチーズとお菓子が入っているわ。あんたが持っていきなさい。何しろサニーじゃ湖に落っことしかねないから」
 渡された籠はずしりと重かった。昨日レニーが貰って来たパン種でミュリアは夜明けにはパンを焼いていた。
 「あたしはそんなにじゃないわ」
 サニーが口をとんがらせ弱弱しく言った。レニーは不安を押し殺しなるべく気丈な声を出した。
 「夕方までには戻って来るから…」
 
 サニーの後をついて門を出て振り返る。母の姿が黄色い煉瓦塀の向こうに小さくなってゆく。右手のマルドの山の上から、朝の太陽がミュリアの淡い色の髪を強く照らした。
レニーはまた振り返って見やる。母は置物のように動かなかった。レニーが前に向き直っても、村へ降りる小径が丘の陰に隠れてしまうまでミュリアはそこを動かなかった。

「レニーはいいわね」
不意にサニーがいつになく殊勝な顔でそうつぶやいた。レニーはサニーのそんな表情を、時たま見ることを思い出した。ここ一二年、本当にまれにではあるが、サニーはレニーを遠い峰の雪を眺めるように見た。
「何のこと?」
「うううん、何でもない」
サニーは笑みを含まない目で真っすぐ空を見上げたまま、口の中だけで言って会話を閉じた。レニーは心に疑問符をとどめたままそれきりそれには触れなかった。

「黄色いお家」から続く小道は新緑に覆われたの中をくねって伸びていく。脇に点々と、ミュリアが植えた胡桃の幼木があどけない緑の新芽を萌えさせていた。道はこの辺りで採れる白い丸石を敷き詰めた砂利道だ。小石は水を通し昨日の雨にもぬかるんでいない。サニーは濡れる心配もなくサンダルの足を大股に進める。レニーが急ぎ足にならないと追いつけないほどだ。
「サニー、ちょっと待ってよ」
「あんたが急ぎなさい。だって駆けだしたくなるほどのお天気だわ」

湖を覆っていた最後の薄い霧が追い払われた。折しも太陽が地平四十五度をさす。世界は鮮烈に輝いた。空のデルフィニウムを思わせる清澄な色合い、どこまでも深く無邪気な湖の青、健やかに背伸びする若草の萌黄。雲が東のマルド山のなだらかな中腹をゆっくりと横切る。峰の雪も低いところは大方解けた。透き通るような青の山肌に雲の影がくっきりと横たわっている。
春の匂いがした。雨にふつふつと薫り立つ若い草の予感に満ちたいい匂い。柵の中には羊たちはいない。放牧にはまだ早いのだ。忙しい毛刈りの季節はもうすぐである。黒い毛並みのマルド犬ダーダが、こちらへ向かって甘えたように一声吠えて村の中までとことこと付いてきた。

村の中心へと向かう小径は一旦丘を下り、そうしてまた新たな丘を登る。たまの水害を避け、集落は高台の谷間に建っていた。緑色の屋根も赤く塗られた壁も雨に洗われて生乾きになり、けだるそうな木目をぼんやり浮かび上がらせている。軒にはひもが掛けられ、今日のお天気を当て込んで洗濯物が吊るされていた。顔なじみの住人達とあいさつを交わしながら村の通りをとおって湖に降り、船着き場で仲間たちと合流する。
波止場では仲間たちが舟を用意して待っていた。入れ替わりに今朝夜明けとともに漁に出た舟が、淡水魚を上げた網を銀に光らせて戻ってくるところだった。
「お前たち、今日は働かんのか」
「ジェルドララ様に祈って来るんですよ」

風は穏やかだった。舟でこぎ出すにはいい気候。一行は十七人、三(そう)に分かれて行く。舟は木材をはめて赤く磨いた長さ七(メートル)の漁師舟だった。両脇に二人ずつ、四人の若者が櫂を取る。魚をすくう投網はの先の方に丸めて置かれていた。
もやいが解かれ若者たちがを入れる。舳先(へさき)に立つ波は白く騒ぎ、息を揃えて漕ぎあげる動きに合わせてゆらりゆらりと進みゆく。
レニーは息を震わせながら舟に乗り、一番真ん中に目を閉じて座った。波を超え、水を分けるうねりが不安定に体を揺らした。
目を閉じていると水中の様子が頭に浮かんだ。魚たちが冷たい腹をくねらせ、銀のひれで真水を掻き、降り注ぐ陽光に遊び戯れる。水精の乙女がその鼻先に人差し指を当ててあどけなく微笑む。その頭の上に舟の影が落ち、光の水面に木の葉のように小さな船が、ゆっくりと聖域を目指して進むのを見上げる…。

 目指す対岸は、髪しろがねのジェルドララの神域である。人の子の住むことを許されぬ地。鳥が奔放に飛び獣は悠々と駆ける。細密画の様な森と、どこまでも柔らかく光る泉の数々。そこでは森に住まう軽やかな足の樹精と、湖の声麗しき水精が、鳥獣と戯れて踊っているのだという。
 沢山のお伽噺を、二人は祈りを捧げに行った村人から伝え聞いていた。

 漕ぎ手の若者たちが座興に歌い始めた。彼らの祖先がジスティーチアから携えてきた天地創造の物語。

 「縦に貫く時の中 
闇は宇宙を満たしたり
  形のあるも 無きものも
  全てが闇の胎の中
  
知れず一つの夢が生まれた
  それはやがては対となり
  二つの夢は抱き合いて
  互いに頬を寄せ合いぬ

  闇の凝りのいや重く
  光がそこに煌めいた
  双頭頂く光神の 
  若き名乗りが立てられた
  
『我が名はマナン・セクィナなり
  理解する者 分かつ者』
  闇にまどろむ二つの夢は
  大地と海と目覚めたり

  土グリオーダと 海ユーラプネ
  双子は初めて 向き合いて
互いに互いの声を聞き合う
  『私とあなたは二人であった!』

  双頭頂く光神が
  次に宇宙に見出したるは
  大地の陰にわだかまる
  混沌の闇であったのだ

  マナン・セクィナは激しく憎む
  明らかざること許せぬ気性
  全てを胎に抱え込む
  闇に向かって矢を放つ

  大地に逃げ込み闇はうめいた
  どす黒い血をどくどく流し
  熾烈な光の双頭に
  目玉を抜いて差し出した

  光神の怒り凄まじく
  尚も光の矢を放つ
  闇は大地に叩頭し
  マナン・セクィナの許しを請うた
  
  『私があなたの望むまま
  神を一柱お産みしよう
  猛き男神に 優しき女神
  それを服する証しとしたい』
 
  『男か女かこだわらぬ  
  全ての英知を司り
  闇も光も見抜く目と
  偏り嫌う気性の主を』

  『それには一つ難がある
  めしいの胎から生まれるものは
  やはりめしいとなるだろう
一旦目玉を返してくれぬか』 

セクィナの首は許さなかった  
マナンの首は哀れを感じ
半身に黙り自らの 
目玉を抜いて 闇に渡した

セクィナの首はいぶかしむ
左の仕草の緩慢なこと
空を飛ぶのも 矢を射るも
目当てが見当外れであるのだ

その時大地の割れ目から
最初の真水が湧き出でた
髪しろがねのジェルドララ
全ての水の女王が生まれた

ジェルドララ 淡く微笑んで
光神に手を差し出した
『手をお貸ししてくださいますか
甘露の水を差し上げましょう』

セクィナの馬手(めて)は水を得て
マナンの弓手(ゆんで)は水をこぼした
セクィナは怒りと共に知る
『マナン お前の目玉はどうした!』
    
  セクィナは荒ぶり矢を放つ
  痛みにのたうち回った闇は
  恨みの中で女神を産みぬ
  『光に仇なす 闇の子となれ』

  闇の胎から飛びでたのは
  全ての英知と 思想の持主
  星の瞳の女神キアラ―
  大地に立ちて名乗りを上げる

  女神の瞳が光であるので
  セクィナの首も矛を収めた
  闇は企み失したことを
知りて呪詛して 大地に伏した…」

 村の訓導所「星聴館」ではこう教える。
 
 セクィナの首とマナンの首はやがて決別することとなる。光熾烈なるセクィナは昼の王者太陽となり、優しきマナンは夜を嫋々と照らす月となった。
 朝の太陽に励まされ、夜の月に見守られ、世界のあちらこちから新たな神々が続々と生まれる。水に魚が湧くように、土に混じった種が芽吹くように。草から花びらから火を噴く山から、後から後から。
 こうして神々の社会が生まれた。
 しかし神々が神々であるからには支配する種族がいなくては格好がつかない。その力を恐れ敬い、嵐に叩頭する草の穂のようにひれ伏す者たちが必要だった。その嘆きを受け止めたセクィナはキアラーに相談した。キアラーは言った。
 「ユーラプネと交わるがよい」
 こうしてセクィナとユーラプネの間に新たな種族が生まれた。生き物である。
 
 虫、鳥、獣、魚類、蜥蜴、そして人の子。人の王ウォルーンと人の女王アドベッサは、一日に一人の子を儲けた。そこから連なる人族が、虫の王からなる虫が、鳥の王からなる鳥が、獣の王からなる獣が、魚の王からなる魚が、蜥蜴の王からなる蜥蜴が、後から後から増えてゆく。世界は賑やかな声に満ちた。
 狩るものが生まれる、狩られるものが生まれる。恋するものが生まれる、育むものが生まれる、愛する者が生まれる、憎むものが生まれる。そうして彼らは最後は必ず滅び去るのだ。神々はその様子を珍しい座興のように楽しんだ。神々にとって生き物の生き死にとは芝居のようなものであった。
 
 そしてかつて強かった大地や水の気に生き物が感応して「五大の民」が生まれた。すなわち、水精、樹精、土精、風精、海精、である。人と近しい意識を持ちながら彼らははぐれた所に営みを持っていた。

 やがて不穏な時代がやって来る。奸智の神オセが暗躍する。セクィナを篭絡し、キアラーを幽閉させ、ユーラプネを追放させた。激しく対立するセクィナとマナン。多くの神々の奔走をあざ笑うかのように戦が起きる。人間たちをも巻き込んで世界は真っ二つに割れた。頃は良しと北の魔物が介入する。彼らは最凶の魔鏡「氷河の鏡」を鋳造し、姦計を巡らせてセクィナとマナン、二人の光神を封印してしまった。これが地上に生きる者にとって最もつらい日々であった。
 
 幾人かの英雄が「未来」の存在を感じ取りその手に掴む夢を見た。混乱を収めようと、新しい生き方をなそうと戦いを挑んだ。だが血の縛り、世のしがらみ、足元をからめとる宿命に阻まれて果たすことは出来なかった。彼らはむごい最期を迎える。

 星の瞳のキアラーは、体は女であったが、心は男でも女でもなかった。しかし幽閉の光閉ざされた身で、霊体の卵を八個産む。そこからは八色の小鳥が飛び出して、それぞれ違う女の胎へと羽ばたいていった。

 「飛べ、小鳥、最後の希望よ、そして最初の未来へのたづきよ。そなたらが集うとき、真に新しい時代が始まるだろう、本当の人の子の歴史が」
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 「きっとそうよ。ジェルドララ様がマナン・セクィナ様に、手ずから甘露の水を差し出されたのは、きっとそこの泉よ。行ってみたくない?」
 歌を聴いているうちにサニーは顔を火照らせ言い出した。右手で前方に近づく低地の森を示し、舟の中央に揺られながら、声を弾ませる。
レニーは目を開け風にたなびくサニーの金の髪を見上げた。嫌な予感が膨れて行く心地がした。暴走する車の車輪に必死につっかえ棒を立てているようだった。
 「でもきっとそこは禁域よ。人の身では入ってはいけない所」
 「平気よ、ちょっとだけなら」
 サニーは何時もの真っ直ぐな目でレニーを見た。サニーにとっては何でもない事なのだろうか。レニーは何時も慎重な自分の意見が押し切られていくことに、諦めと焦燥の入り混じった溜息をついた。

 「いい天気ね。空が明るくて乾いていると、とても気持ちがいいわ」
そう言いながらサニーは青空に高く昇りゆく太陽を、目を歪めたり顔を背けたりすることもなく微笑みさえ浮かべて見上げた。これはサニーの癖である。レニーには目を焼く熾烈な光もサニーにとっては親しい友であるらしい。
 レニーは溜息をついてわくわくと息を震わせた。恐怖と戦いながら船側にいざり寄り揺らぎ戯れる水面を見つめる。サニーが太陽を見ている。自分は水を見なくてはいけない。何故かはっきりそう思った。

 浅瀬では水底の砂も見分けられるほど澄んでいる水に、東のマルドの山並みが白い峰の雪も尾根の岩筋も、か細い三(そう)の舟を覆いつくすようにくっきり映し出されていた。その鏡像の山の中腹にあっては、群青とエメラルドグリーンの筆遣いの奔流にその深淵は覗かれない。水は夥しく、果てなく、巨きかった。きらめく銀の波は揺らめきあい、重なりあい、融合しあい、大きな光の投網でレニーを引きずり込むかのようだ。湖面から、無数の見えない触手がレニーに向かって伸ばされている。
 だが何と美しい。レニーはぶるっと背筋を震わせた。この美しさが水の魔性を雄弁に物語っているのではないか。
 見つめていると、憧れが抑えきれなくなりそうだ。水面に揺らめく銀の網はレニーを手招きする。綺羅を尽くして飾った光の奥に真珠のように守った秘密を隠しながら。この湖底に、人が決してたどり着いてはいけない死の場所に秘密はじっと眠っている。きっとそれを知ったら自分は死ぬのだろう。見ているうちにそれすらどうでもよくなりそうだ…。レニーは憑かれたように湖面を見つめた。

 ふと、視線を感じて目を上げた。群青の綾なす水面の少し先、白いしぶきが上がっていた。誰かが馬に乗って湖上を駆けている。馬は村で見るものよりも大きく形の整った漆黒の色をしていた。金の打ち出しの馬具にまたがり巧みに操っているのは亜麻色の髪を長く垂らし、三日月のように細身でしなやかな美しい人だった。臙脂のふち模様の濃緑(のうりょく)色の筒衣(トゥニカ)をぴっちりと纏い、男性なのか女性なのかは分からない。その人が馬を舟に並走させながらレニーにの瞳を注いでいるのだった。敵意も熱意もなくただ不思議そうな顔をしていた。漕ぎ手の若者たちの視界に入っているはずなのに誰一人反応しない。

 レニーは思わず目を見開いて瞬いた。再び瞳を開けた時にはもう馬も人影も跡かたなかった。レニーは目をしばたいた。幻を見たと思った。

 一行が対岸に到着したのは、まだ太陽が昇り切らないうちだった。舟が繋がれるとレニーは大急ぎで桟橋に降りて、大地を足で踏みしめてほっと息をついた。
 船着き場のすぐ奥には小さな広場が広がっていた。周りには胡桃の木々やミズナラが茂り、芽吹きに解けだした枝がたんぽぽや勿忘草の明るい陽だまりにまばらな影を落としていた。昨日の雨が乾いて若草のみずみずしい匂いがする。サンダルの足にひんやりと滑らかな草が口づけした。葉脈の一筋一筋まで新鮮な水を吸い込んで、ぱりっとだが柔らかなその勢い。広場の南側には三つの泉がある。こんこんと湧き出る透明な水。その底には、白い花の咲く水草が鮮緑色の葉を水の吹き上がりになびかせていた。岸にはびっしりと可愛らしい蕗の若芽が密生し、菖蒲の葉がにょきにょきと水面から突き出してきている。
その後一行はカーデルのお兄さんが丸めて持って来た絨毯を敷いてその広場でお弁当を食べた。

「ねえ、今朝方焼いたパンよ。まだ何時間も経ってないんだから。絶対に美味しいわ」
サニーはまるで自分で焼いたかのような口ぶりでパンを配る。器用に切り分けているのはレニーである。ミュリアの焼くパンは大きな楕円形をして表面にも薄く粉がまぶしてある。
「あんたん家のパンって硬いわね」
リーナが言った。言いながらもサニーにミュリアのパンを追加で貰う。ヒルドの村の一般的なパンは、バターとミルクと塩だけで仕上げて大体もっと柔らかい。だが粗めの小麦粉を使うところだけは共通だ。
小麦はヒルドの産物ではない。男達たちが舟で出ている間、女たちは牧畜と機織りにいそしんでいる。穀物は魚や羊毛や乳製品と引き換えに下流の市から買って来るのだ。
「いやでも、歯が丈夫なうちは旨いぜ。干し葡萄と胡桃がどっさり入ってるんだな。それにこれは何だ、蜂蜜か?サニー、今のうちに教わっとけよ」
アダンの言葉には明らかに含みがあった。こぞって切り分ける我が家自慢のパンに、屑が盛大にこぼれ落ちる。レニーは気を回してを束ねた箒で絨毯の上を掃き集めていた。
束の間の饗宴にレニーも帰り道の恐怖を忘れた。カーデルはヒルドでは珍しい牛の白黴チーズをくれた。リーナからはナータン様の本家一族の住む山里の、「薄めない」山葡萄酒を木のマグに注いでもらった。普段近くの市で買う物よりも渋くて酸っぱくて甘かった。
 
誰が始めるともなく歌と踊りが始まった。ナータン様の一族が父祖の地から持って来た、踊りと身振りを交えた相聞歌だ。

 サニーは歌って踊る。澄んだ声は聖域の風を揺らし、しなやかな体が浮き浮きと躍動する。数人の若者がそれに合わせて誘いの文句を投げかける。荒々しさと媚との間、自らが一番魅力的に見えるように図って、彼らはサニーと踊った。そしてサニーの青空の瞳に、ありったけとばかり笑みを投げかける。
 レニーはサニーが誘われた理由を悟った。リーナもカーデルもアスダも踊りの輪に加わるなか、レニーは一人頼まれて拍子の笛を吹いていた。

 太陽が黄色くなり埃の匂いがする。ほかほかと汗ばむ春の午後。神域の広場には弛緩の空気が広がっていた。舟を漕ぐのに疲れた若者たちは酒が入りうたた寝を始める。リーナもカーデルも腹がくちくなり半分瞼を閉じかけている。草地の花々をめぐる蜜蜂たちだけが生き生きと働いていた。だがその羽音ほど人に眠気をもたらす音楽もあるまい。レニーも太い木に寄りかかって一瞬目を閉じかけた。

 だがすぐに、サニーがレニーの袖をきゅきゅっと引っ張って耳打ちした。
 「レニー、行くわよ。あの神話の舞台に実際に立つの」
 「サニー、本気?」
 「当然よ」
  サニーはレニーの賛同を待つ気は無いらしい。聖域の奥の森へずんずん分け入って行く。自分の抑制が虚しいことに溜息をつき、レニーは逡巡したものの結局はサニーを追った。

 二人は聖域の奥に足を踏み入れる。目覚めたばかりの真新しい胡桃の森はまだ光を燦燦と通した。抜けるような青空を背景に、硝子じみた木の芽がきらきらと輝いている。地面には真珠の様に清らかな池や泉が連なって続き、水面が若い緑を抽象的に反映していた。それに入り交じり、群青の空が、五月の光が眩く乱反射する。その色は気紛れに絵の具を塗ったくったようにだが決して均衡を失うことなく、揺れ動きながら刻々と移ろっていくのだった。
 水を好む菖蒲や勿忘草や芹の類がぬかるみを支えて根を伸ばしていた。大小の石にからまる苔の類も金緑色に色を改め黒茶けた去年の衣を脱ぎ捨てているところだった。二人は牛皮のサンダルを濡らし半ばその苔に足を沈ませながら進んだ。

不安に胸をつぶされながらもレニーは泉の美しさに陶然となった。何と清い水!冷たくまた温もりある水音!緑の藻草のなよやかで輝かしい事。水面に浮かぶ睡蓮の葉は、村で見るものよりもずっと大きく鮮烈な色をしている。レニーの皮膚の下を走る血液は歓びで沸騰した。それはいつも感じる心のもっと深いところ、魂の根源から湧き出る感情だった。あんなに水の溜まりを恐れていたのはいったい誰だ!
 あちこちで鳥の鳴く声が響き、群青と緑の、尾羽長い鳥のつがいが低くよぎった。レニーの肩に翡翠の羽根がふわり頬をなでて舞い降りた。
 
 やかな景色に心は高まり、だが何かが沸点に達する緊張がひしひしと胸を焼いた。レニーは先を行くサニーが途中で気を変えて戻ると言い出さないかと願いながら付いて行った。きっと帰り道にはこの素晴らしい景色を楽しむ心の余裕が出来ている。

 二人は幾つもの泉のほとりを歩いた。
 「いいや、ここじゃないわね。もっと奥よ」
 「サニー、もう戻りましょう」
 「神話の舞台に辿り着くまでは帰らないわ」

 レニーはどんどん退路を断たれていく心地がした。目の前の泉は相変わらず柔らかく光り、緑は嫋と揺れた。風は向こうから吹いてきて不安の歌を奏でた。これは根拠のない妄想だ、気のせいだ。サニーは滅茶苦茶なことはするけれども最後にはいつもどうにかなったじゃない。
 「きっとあたしは、日暮れまでに帰れるかどうかを心配しているんだわ」
 えもいわれぬ金の幸福感に満ちていた陽光が、オレンジ色がかってきた。.

 見上げればぽつぽつと柔らかな芽吹きの森が黒ずんだ見慣れない種類の木々に取って代わられつつあった。マルドの山麓でもグラウスの山道でもイルムの山脈でも見たことのない木である。幹は太く赤黒くひび割れ、直線的に伸びた枝はぼろ着のような葉を密生させながらぶら下げている。木々の連なり密なその森の下では陽は遮られ、下草も黒茶けた、重苦しいほどに肉厚な、冷たい悪意を感じさせるものに変っていた。その季節を問わぬ暗さにレニーの不安はいや増す。夢で見た光景が胸をかすめた。

 何処からか絃の煽情的にかき鳴らされる音が聞こえた気がした。甲高い合唱の声もまた。
 「誰かが歌っているわ」
 サニーはふと立ち止まる。好奇心にあふれた目をくるくると回して音の方角を確かめると、そちらへとずんずん進んで行く。

 「サニー、止めましょう」
 サニーの眼は輝いていたが何処か虚ろに一点だけを見つめている。レニーは深い轍にはまり込んでしまったように心騒いだ。辺りの森は一層陰惨に影に覆われてゆく。
 足元の泉は影の下でも澄んだ水を湧きあげていたが、水面は濁った葉色を映しこんで毒々しい緑に染まっていた。よく見れば水藻はそんな陰りの下でも健気に白い花を咲かせて水流になびいているのだった。
 
 レニーはサニーの背中を追ってどす黒い森のただなかを一直線によぎった。濡れるのを厭うているはずのサニーはばしゃばしゃとしぶきを上げて浅い水溜まりを横切る。レニーは戸惑いを感じる。サニーなら絶対に回り道するはずなのに。だがそれを尋ねる暇をサニーは与えなかった。追いつくのがやっとの速さでサニーは密生した葉陰を行った。

 不意に森が途切れた。西に見上げるのはなだらかな丘。頂の一際大きな泉から、さらさらと急ぐ浅葱の水が、十重、二十重と丸みのある段を作って流れ落ちている。水に透いて覗く匠の彫り上げた装飾のような泉の縁の沈殿物は純潔の女神の肌を思わせる白い輝きだ。麗かな春の午後、騒ぐ瀬音の楽しさに透明なせせらぎが冷たいしぶきをまき散らす。
 レニーはふと気づいた。先程まで絶えることの無かった鳥の鳴き声が聞こえない。芽吹きの森も遠のいた。泉の周りにはもはや黒い木々しか生えていなかった。眠たげに囁いていた蜜蜂の歌もない。
 
頂の泉の中心に、神聖な地であることを示す文字で飾られた石柱が立っている。ヒルドの村にはこの石柱の建立に携わった職人の記録が残されていた。確かにここはあの神話の舞台となった地であった。
 その横に辺りの風景の調和を一層乱すように、赤黒い、一際大きな糸杉の樹が生えていた。石柱が建てられた時代にこんな樹があった記録は無い筈だ。だが、それは何時からなのか石柱の丈を超えて日光から暗く覆うように冷たく石柱を見下していた。風が吹き樹はレニーにも嘲りの笑い声をかける。何だか臭い。ああ、これは木酢液の匂いだ。

 森から泉にせり出した小さな半島のような場所には、黒い材木に掛けられ緑の布が二等辺三角形の屋根をなしていた。それは戦で使われるテントであるように見えた。屋根の周りでは濃い緑色の、異国のマントにズボンを着けた人々が素焼きの甕から浴びるように酒を飲んでいた。正体なく酔っぱらう者、声高に笑いあう者、奇声を上げては踊りまわる者。見慣れぬ弦がかき鳴らされて歌が歌われ、その歌う言葉は二人には聞き取れない。緑の裾が揺れる。舞い手の足に虐げられた大地が鳴る。レニーの胸には怖れと共に憤りの気持ちが湧きあがった。我が物顔の異国の人々が神聖な泉で踊っているのである。

 テントの奥には鮮やかな黄色い絹に、濃緑(のうりょく)色の山に似た形を染め抜いたタペストリーがかけられていた。その前、一段高くなったところに金の装飾も豪奢な椅子が据えられている。そこに座るのは力強く痩せ、赤黒くちじれた髪の女性だ。黄金の冠を被って真っすぐに背筋を伸ばし、両の手をひじ掛けに置いている。彼女の顔からは年齢を推し量ることが出来ない。そのこけた頬と輝く瞳は二十歳にも六十歳にも見えるのだった。

 サニーの口元には微笑みが浮かんだ。引き留めようと伸ばしたレニーの手を払ってずんずん異国の人々に近づいてゆく。レニーはそれでも必死に何かを繋ぎ止めようとした。
 「駄目よ、悪い人たちかもしれない」
 
 だが彼らは既に二人に気付いていた。酒の入った甕から顔をあげ、絃の手を休め、足を踏み鳴らすのを止め、こちらへ甲高く歓声を上げた。辺りの黒い木々の枝葉がごうと鳴った。

 サニーはもうテントの手前のところまで近づいた。後ろに続くレニーは、甕から顔をあげた人の粉を吹いたようにガサガサの肌と、白く開いた瞳孔ににぞっとなった。絃をかき鳴らしていた人の指は異様に細く第一関節が不自然に長かった。踊り手たちの表情も、ただ異国の人だからというのではない、埃と垢にまみれているようなのに全く体温を感じなかった。そのぼうっきれのような表情には凍りつくような悪意を感じる。だが、サニーの方は気にも留めない。

 「ようこそ、ジスーダの娘」
 女王のような人が立ち上がった。彼女はばんと肩を張りアルトの声を朗々と鳴らしてジスーダの言葉で言った。近くで見ると彼女の目玉は魚のように大きく突き出ている。その白目は澄んだ白でも血走った赤でもない。濁った緑色をしている。黒目の部分はというと純度の高い金の色をして爛々と輝いている。レニーの背筋に震えが走る。しかし、

 「何処の国の方々ですか?」
 サニーは臆さず問いかけた。
 「北の方、モウラリアの覇者の一族である」
 「まあ、モウラリア!疫病から逃げてこられたのですか?」
 「我らは疫病などに屈せぬ」
 「では、何の用向きで?」
 「戦をしに参ったのだ。戦をしておるのだ」
 「まあ!」
 サニーの快活な顔に好奇の色が浮かんだ。
 「戦の噂なぞ聞いていないわ。都には聖王ヨギニ五世が金の玉座におわします。属国の王たちも皆大人しくジスーダに従っていますよ」
 「我らは確かに戦をしておる」
 「なんのために戦っておられるの?」
 「一つの種の王として生まれたからにはその限りない繁栄を願うものではないか。我が一族が水と火に覆われぬ大地の全てに広がるさまを見てみたい」
 「広がる?広がるですって!あなたは二本の足で歩く生き物でしょう」
 「生き物も草木も子孫を残そうとする者の性はそう変わらん」
 サニーはころころと笑い転げた。モウラリアの女も低く歌うように笑い唇を舐めた。赤い舌が蛇の舌のようにちろちろと覗く。
 「この地で何よりの味方を得たからには負けはない」
 レニーは涙ぐみサニーの袖口を掴んで横にゆすぶる。その顔、唇からはすっかり血の気が失せていた。だがそんなことなどお構いなしにサニーが問いかけた。
 「味方とは?」
 「ジスーダの娘、それは『宿命』だ」
 
 誇りに火をつけられたサニーの目が嬉々として輝く。不敵に右眉を上げ、胸を張りこう宣した。
 「この地で宿命より強いものを知っていまして?」
 「サニー、駄目!」
 「それは私達です。地上の民です。何を得ようと戦うかはよく分からないけれど、私達の機嫌を損ねないことが一番肝心ですよ」
 モウラリアの女は唇だけで笑った。その目はじっとサニーに注がれ、既にその矢を迷子の小鳥に定めたかのように酷薄に光った。
 「ではその手強い地上の民にお近づき願おうか。モウラリア産の特製の薬酒を振舞おう。我が名はムンダリー、糸杉の女王。そなたらは?」
 「私の名はサニー、ミュリアの娘、こっちはレニー、双子の妹」
 「ミュリアの娘たちよ、さあ、こちらへ来てともに楽しもう」

 サニーはムンダリーに膝を折って一礼し、無防備に近づいて行った。水気の多い土地でテントの中にも幾つか水溜りが出来ていた。サニーは足が沈むのも避けずに大股で行く。レニーはためらって目を揺らし、サニーの後姿と自分の足を交互に見たが結局はサニーに従った。

 間近で見るムンダリーは薄い唇に酷薄な笑みを浮かべていた。家来から二杯の玻璃の盃を受け取る。薄暗い天幕の中でその硝子の器は水中の気泡にも似た抑制された輝きを見せていた。
ムンダリーは細長い素焼きの瓶から青い酒をどろどろと注ぐ。
その酒の色はお世辞にも美しいものとは言えない。今日渡って来た湖の色とも、聖域の泉の色とも似ても似つかない。どす黒く、毒々しく、不吉な青だった。こんなもの呑むのか!レニーは震えあがった。サニーの方はと言うとただただ好奇心に袖を引かれている。ムンダリーはなみなみと満たされたそれを二人に手渡す。
 「呑む時は二人同時に、それが客人に対するモウラリアの礼だ。くれぐれも同時に」

 レニーは蒼ざめて、目線でサニーに助けを求めた。『ねえ、お願い、こんなもの呑めないと言って!』だがサニーの瞳は浮き浮きと煌めいている。口を付ける前に鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅いでいる。―「煎じ薬みたいな匂いがするわ」―そう囁いた後でレニーにお茶目に目配せして、タイミングを知らせた。
 二人は同時に杯をあけた。

 刹那、うつろに天を仰いだかと思うとサニーの体はゆらりとぎ、全身を脱力させて崩れ落ちた。

 足元の水溜りにしぶきを上げて濡れることをうていたサニーの顔が半分浸る。その血色の良かった頬は蒼白となり、薔薇色だった唇は一瞬で青くなった。

レニーは一瞬何が起こったか分からずぽかんとしていたが、ぴくりとも動かないサニーの頬の蒼さに、やがて声をひっくり返して半狂乱で助け起こす。

「サニー!サニー!サニー!」

なぜ自分だけが無事なのか?そういう疑問にかかずらっている余裕すらなかった。悪い予感が的中してしまったことに対する勝利感も湧きあがって来ない。
 異国の人々が甲高く叫び声をあげる。
 「太陽の娘が手に入った!太陽の娘が手に入った!これでこのジスーダも我らのものだ!」

 風が唸る。森が吠える。その叫びはテントの周りにたむろっていた人たちから溢れ出し、今まで気味悪いほど静かだった周りの黒い木々も轟々と声を上げてそれに合わせた。レニーは呆然として正体なく頽れるレニーの体を支えていた。
 ムンダリーががばと立ち上がる。勝ち誇り薄く赤い唇を横に引き上げ、節くれ立った拳骨を高くつきあげた。
 
 「太陽の娘の力で、我らは明日にも総攻撃を仕掛ける」
 
 レニーはサニーの体から手を放した。掌の中に残った体温に一縷の望みをつないだ。立ち上がり全力で駆けだす。
 「サニー、きっと助けを呼ぶから!」

 異国の人々は、レニーを追いかけるそぶりも見せなかった。サニーを囲んで何事か奇声を上げて再び足を踏み鳴らし始めた。それを圧する強さでムンダリーの哄笑が背中を追って来た。
 「おまえのような小娘に何が出来る」

 レニーは走った。走って走って走った。不気味な黒い森を抜け、再び辺りは清らかな水音の響く柔らかい空気に包まれる。さっき不安と陶酔に揺れ動きながらサニーと歩いて来た森は、密かにその身を邪に蝕まれながら満ち足りて赤い斜陽にまどろもうとしていた。泉の表には赤みを帯びた光に透かされた木々の枝葉が薄紫の淡い影を落としている。レニーのサンダルはその平和をバシャバシャと壊して駆け去る。
レニーの涙は眼の下に湧いてそこにとどまっていた。潤んだ目を見開き息をわななかせて、レニーは神域の森を胸が痛くなるほど走った。

 薄暗い空に木立がより黒い影となって浮かびだす頃に、ようやく元の船着き場に戻った。
 「リーナ、カーデル、アダン、リットン!」
 レニーは仲間たちを呼んだ。
 泉の湧く広場はしんとしていた。見回せど誰もいない。
広場の片隅に絨毯が広げられたままになっている。その上にはさっき食べ散らかした通りにお弁当のバスケットが幾つも投げ出されていた。舟も元の通り三(そう)、桟橋の所につないであった。
 
 「リーナ、カーデル、アスダ、コリッド、アダン、ベスヘル!」
 レニーは再び声を張り上げた。返事はない。足元に目をやってぎょっとした。草が黒い!それが、元の青い下草を侵食しているのだ。見上げれば薄暗い中にも辺りの木々もどす黒いものに変わっているのが見て取れた。
 「リーナ、カーデル、アダン、リットン…」
 レニーの声は弱弱しく震えた。沈みゆく陽光が水を菫色に染めた。ゆらりゆらり、その柔らかな色の水が無人の船を洗っていた。

 太陽がグラウスの山並みに沈んでゆく。風神の横顔の稜線が赤く染まる。太陽がジスーダに惜別の光を投げかける。赤く輝いていた雲が曖昧な菫色に色を落とし、徐々に闇に飲まれてゆく。空はまだほんのりと明るい。だが、グラウスの稜線は炭火が消えるように冷え込んでいった。レニーはその様子に突っ伏して一人泣いた。

 一体どれぐらいそうして泣いていただろう。涙を拭う指先が白く光って見え、レニーは見上げた。心細げな三日月がレニーに微笑みかけている。そこは完全な闇にはなっていなかったのだ。東のマルドの稜線が、ぼんぼりのような木立が、ほんのりと金色に染まっている。
「マナン様はあたしを見捨ててはいない…」
我に返ったレニーは手の甲でごしごしと頬を拭った。月から目を下ろす。湖の対岸には小さな赤い灯りが点々と燈っていた。

 レニーは閃きに打たれた。
「あの光の一つ一つが、あたしたちの村の人たちの灯りなんだ!」
あの中の一つにお母さんがいる。「黄色いお家」の炉端に火を焚いて今も二人を待っている。こうして目に見えているのだ。その距離が、空間が、克服し難いものではないように思われた。

 レニーはサンダルを脱いだ。灰色の筒衣(トゥニカ)も脱ぎ捨てた。白い麻の下着だけとなる。
 夜の水面は暗く黒く、月明かりにとぷりとぷりと揺れて僅かに波が金に染まっていた。湖は静かに夢見て謎かけの歌をうたっている。陸と水の境はまぎれて見えなかった。

 再び恐怖が胸を捕らえる。
 水に入れは取り返しがつかないことをずっと前からレニーは知っていた。
 
 だが…。

 大きく息を吸い込む。震えを抑え、天の月を仰いだ後、レニーは飛び込んだ。
 「サニー、きっと助けを呼んで戻るから!」

 小さな娘の飛び込む音は、暗闇の中に忽然と響いてまた静かになった。レニーは夜の湖とはもっと冷たく死の匂いがするのだと信じていた。だが、真っ黒な水はレニーを優しく抱き留めた。
 今まで癒されることの無かった乾きが癒される。水は肌に柔らかく温かかった。僅かさえも泳いだことの無いレニーは、まっしぐらに対岸へと進む。目当ては橙色の瞬いて消え入りそうな灯りだけ。

湖底城

  黒い水面をかき分けて進むレニー。手を搔き、足で蹴り、潜水の姿勢で胴をしならせる。その速さ熟達ぶりに無駄なところは一切ない。
 最初のうちこそは、若者たちの泳ぎを思い出しながら必死に顔を出して息継ぎをしていたものの、泳ぎながら急激に自分なりの泳ぎを解っていく。それは人間のものはない、淡水に遊ぶ魚の泳ぎだ。
 
 「苦しくない!水の中でも息が出来るんだ」

 レニーは真っ黒い水底に目を凝らした。辺りに火を焚く舟もない。空にはの月光と散らかった星屑だけ。それなのにレニーの目にははっきりと捉えることが出来た、透明で、輪郭ばかりが闇に浮かび上がる大きく細長い魚たちが悠然と尾ひれを揺らしているのが。こちらの下から向こう側まで、魚たちの発する淡い灯りがずっと続いている。それは光源が近い分月影よりも頼りあるものに思われた。
これは幻なのか?レニーの恐れが生み出したまやかしなのか?レニーの心は否と叫ぶ。自分はもうちっとも恐れてはいない。湖は親しい世界となった。あえて言うならば、そう感じるようになった自分の心の中に畏怖を覚える。

 虹色に光る魚はゆらゆらと湖中を彩る。群れ、重なり合い、はじき合い、優雅に楽し気に泳ぎ遊ぶ。その間に美しい娘たちの姿が幾人ものぞいた。
 「水精だ」
 水に漂う長い髪はやはり虹に発光し、揃いの白いひだの付いた長衣をまとって、レニーの下の方で少し肩を寄せこちらを指さし何事か囁き合っている。青い目が、碧の目が、しげしげとレニーに注がれる。
 
村の言い伝えによるなら、レニーは引きずり込まれるのだろうか?夜、水精に捕まれば命はない、長老たちは口を酸っぱくして夜の湖に近づくことを禁じていた。だが、彼女らはただ珍しそうに邪気なく微笑みかけるだけだ。

 「顔をあげよ、ミュリアの娘」
 不意に湖上から、中性的な若者の声が響いた。
 レニーの体は電流が流れたみたいに弾かれた。ぎゅっと目をつむり、逃がれようと手掻きを強める。

 「ごめんなさい、今捕まるわけにはいかないの。ヒルドの村まで行かせてください。その後だったら、この魂も喜んで差し出しますから!」

 「おまえを捕らえて何になる。お前は同族だ。お前も水精だ」
 レニーは口を開け、ぎょっと手掻きを止めた。体に震えが走る。まさかと思う一方、それはずっと前から予想してたことにも思える。レニーは水の上に顔を出した。
 
それは朝のうちに湖上で見たあの黒馬に乗った美しい人だった。今も月光にも鮮やかな金の馬具に腰掛けて、濃紺の宵に浮かぶ三日月の下に端然と背筋を伸ばしている。その人は左の眉を少し上げた。
 
「もしや、何も知らされてはおらぬのか?」
 
 レニーは自分自身に怯え震えながらその人を改めて見つめた。
 それは素直な亜麻色の髪の毛を女性のように長く垂らした少し年上の少年と分かった。松葉色の鱗を縫い合わせたような鎧を身に着け、青いマントの飾りにヒルドの湖にしかいない鱒の七宝を飾っている。頑丈そうな手綱を引き締め、馬をいなし、月光にも鮮やかで切れ長のの目を親しみ込めてレニーに注ぐ。

 「分からぬか?もう湖の中ほどだ。人の娘が夜の湖をこれほど泳げるはずはない」

 レニーは尚も黙ってその人を見つめた。
 「まあ良い。ところで、朝一緒に船に乗っていたお前の姉と仲間はどうした。なぜこんな時間に一人泳いでいる」

 レニーの濡れた頬に大粒の涙がこぼれる。さっきのあのサニーの蒼白な顔、空っぽの舟と放り出されたままの籠…。

 「禁域の奥に異国の人々がいて…、その中の女王におかしなお酒を飲まされて…、サニーは倒れて、あたしだけが何ともなくて…そうして助けを呼ぼうとしたら、皆はいなくて…」
 「何!それは本当か!」
 
 レニーは堰が切れた様に泣きじゃくった。もうそれ以上言葉を続けることが出来なかった。水精の若者はしなやかな眉を歪め、見開いたままの目できっと空を仰いだ。そうしてレニーにの底から真剣な声を向ける。
「これは全く由々しき事態だ。確かレニーと言ったな、付いて参れ。我が居城に案内しよう。今おまえが助けを求めるべきは、ヒルドの村人ではなく、私が率いる軍勢であることだ」
 「それはサニーや友達を助けてくれるってことですか?」
 「無論だ」
 
 美しい人はレニーの泣き腫らした目に揺ぎ無い眼差しを注いだ。レニーは涙をのみ込み、彼に怒ったように強張った瞳を投げて答えた。
 
 「分かりました。案内に従います」
 
 「宜しい。申し遅れた。我が名はアバルの子バーザー、ヒルドの湖の王である」
 バーザーと名乗る少年は馬をいなし、駆け足の体制をとった。
 「付いて参れ」

 バーザーの馬はざぶりと水中に潜った。馬は水面を駆けている時と全く変わらず、支えがあるとは思えない水に蹄を突き立てて駆けて行く。バーザーの長い髪が、整えられた馬のたてがみが、なよめく水草のようにたなびいている。

レニーは潜って行くことに少し逡巡した。水中でも息は出来る。だが、湖面が遠くなっていくことに幾ばくかの恐怖も覚える。
とはいえ、ここはバーザーに従っていくしかない。レニーは深く深く潜った。いくら潜っても、レニーの体は苦しみを訴えることはなかった。あの幻のような魚がレニーに親し気に体をすり寄せてきた。すべらかな鱗、水と同じ体温がレニーの背筋を駆け抜けた。ああ今自分は水に放された魚なのだ!


虹の魚影の群れの中、レニーは水底に尖塔の影を見た。大小含めて三つ、尖った錐のような形だ。それがこの闇にも魚たちの放つ光に黄金色に輝いている。
尖塔を挟んで棟が三つに分かれ、左手の一番端には透明なドームのようなものも見える。そこから盛んに泡が吐き出され、水中では珍しい暖かな色合いの灯りが漏れ出ていた。
近づいて見ると、城の主な建材は神々の遺構によく使われている白い。柱に壁に刻まれた彫刻は、月光と光る魚の明かりに半ば浮かび上がり、黄金の象嵌文様は優雅な曲線を冷たい輝きにやつしていた。その偉容と言ったらリュリオンの王宮もかくやというほどのものである。真ん中の尖塔の付け根のこちら側に、小さな円形の屋上のある建物が張り付いていた。
バーザーの馬は静かに、円形の建物の屋上に蹄を着けてギャロップを止めた。レニーはそれが城の正面門であると気づいた。ここは水中、地上の城につきものの城壁や堀などは意味が無いのだ。

バーザーは馬方に馬を預け、出迎えた侍従に早口で指示を出していた。
「今宵にも兵を出すかもしれん。将軍たちを集めて置け。それからコラモも呼び出すように」
指示を受けた侍従がレニーを見てぱっと顔を背けた。彼の乙女のように白い顔に朱が走っている。レニーははっとした。慌てて自分の体を見下ろす。
麻の下着の一枚切り。腕も腹も太腿も、全て素肌はあらわである。羞恥に頬がかっと火照った。バーザーが思い出したかのように付け加えた。
「それと乙女の衣服を一着持ってまいれ」
侍従が逃げるように奥へと泳ぎ去っていく。レニーは、
「どうして教えてくれなかったのですか!」
と、思わず声を荒げた。
バーザーは涼しい顔だ。足元からつむじまでレニーを臆面もなく眺めて、こう言った。
「子供に毛が生えたようなものではないか」
「もう十三です、子供ではありません!」
「十分子供ではないか。我が湖底では十六にならないと結婚は許されん。であるからな、いっそ開き直れ」
だがレニーは羞恥と屈辱で自分で自分の両膝を抱きぎゅっと目をつぶった。バーザーが苦笑しながらその肩にまとっていた青いマントをかけてくれたが、優雅なひだを寄せた純白の衣に袖を通してからもレニーの頬は火照ったままだった。

建物へ潜っていくと、思ったよりも高い伽藍が広がっていた。ここでも虹色の魚が照明の代わりを担っている様だ。ゆらゆら、円柱のホールの中を気ままに泳いでいる。
上面を覆いつくすような窓には色付きの水晶がはまり、僅かな月光を淡く投影している。壁のモザイク画は聖域の森の風景を描いたものだった。泉の連なり、森の木漏れ日、雪に閉ざされた日、鹿や栗鼠、カワセミに白鳥、それらの光景が四面に春夏秋冬と円環を巡らせていた。
その中の一つに目が引き寄せられる。
泉の流れ落ちる丘…。

レニーはバーザーに導かれ、上下左右に続く廊下を抜け彼の執務室へと招かれた。バーザーは鎧のまま黄金の椅子に座り、ひじ掛けにつかせた右の手に頭を持たせた。そうして左隣の椅子にレニーを促した。二人の亜麻色の髪が、水藻の様にたなびいた。

レニーが椅子につくと一瞬、彼は水を吸って小さく気泡を吐き瞳だけで笑った。
「何から話せばよいかな。そうだ、お前と姉の出生から話そうか」
「あたしは水精なんですって?じゃあサニーは、サニーもそうなの?」
「おまえの姉は違う。あれは神だ。光の神だ」
あんまり意外な答えにレニーはバーザーの顔をぽかんと見つめるばかりだった。

「まあ驚くのも無理はない。順を追って話そう。お前たちの母ミュリアは、我らの同胞、この湖の水精だった。十四年前、彼女は太陽の神セクィナ様の愛を得てお前たち二人を身籠った。そうして生まれた姉はセクィナ様の血を引いて神である。一方お前は、ミュリアの血を継いで水精なのだ」
 バーザーはレニーの目をの瞳で釘づけにして一息に明かした。

 レニーは全身に震えが走るのが分かった。そうだ、あたしが水精ならお母さんも水精と言うのはある話だ。だけれども…
 「あのお母さんが水精? …だってお母さんは…、お母さんは一度も湖に入ろうとしないのよ!」

 「それはリクカーチャの嫉妬のせいだ。セクィナ様の後妻、リクカーチャは妬み深い。あの大女神、海のユーラプネ様との間に生まれた『海の娘たち』ですら迫害される有様なのだ。かの女神の怒りを反らすために我が一族はミュリアを湖から干した。一切入ることを禁じたのだ。セクィナ様はもう十四年もミュリアに会われていない」

 やはり、バーザーはレニーの目を逸らさずに続ける.。全身が泡立つのを感じた。
 「じゃあ本当に、あたしたちのお父さんはセクィナ様なの?」
 太陽とそれを見上げるサニーの姿がよみがえる。それを見つめるミュリアの眼差しも。
 屋根も壁も黄色に塗られた家、黄水仙、キングサリ、ミモザ、南の斜面いっぱいの向日葵畑…。
 身震いするほど驚いているというのにレニーは何故か安堵していた。その顔はひどくすっきりとした収まりのいい諦観に微笑みさえ浮かべた。
 
 ああ、サニーは神だったのだ。あたしなんかとはわけが違ったのだ。サニーは神様だったのだ…お母さんはサニーの向こうに、お父さん、セクィナ様を見ていたのだ…。

 「だが問題なのはここからだ。おまえはムンダリーを見たな。あの者の手にお前の姉が渡ったことがまず過ぎるのだ」
 「あの異国の女王ですか。あれは一体何なのですか?」
 「毒杉の君、北方の魔に染まった植物たちの女王だ。奴らはこの地、ジスーダまでも自らの版図に収めようと、ここで最も神聖な水を持つ、ジェルドララ様の神域に根を広げている。ムンダリーたちにとっての邪魔は、ジェルドララ様の清らかな水だ。故にこの水を毒そのものに染めてしまおうとしておるのだ。ヒルド水系が毒に染まれば、それを飲む獣や鳥、人の子の全てが毒にやられる。お前はモウラリアの疫病の噂を知らぬか?」
 「はい…。モウラリアで悪い病がはやっていると…。では、その病と言うのは…」
 「そうだ、ムンダリーらに大地が覆われたことが原因である。あやつらが覇権を握れば地の生き物は死に絶えるだろう」
 レニーの唇はひきつって蒼ざめた。世界を飲み込む大きく邪悪な存在に、サニーは捕まってしまったというのか…。バーザーは非情な現実をたたみかけた。
 「お前たちが飲んだ毒は飲んだ者を悪に染める。人も神も、皆心の奥底には邪な面を隠し持っているものだ。あの毒はその邪悪な部分を表面に持って来る。そうして儀式を行い自らに都合のいい正義を刷り込み操る。我らの軍からも数人武将がからめとられた。お前の姉も明日、朝陽と共に目覚めれば邪悪な光の神として、奴らの草木の成長を爆発的に速めることとなろう」
 
自分の手が足が、遥かに遠のいて感じられた。周囲の水の温度はしんと下がった。心臓すら凍ったように思った。
レニーはしばらく口を開くことが出来なかった。彼の言っていることを理解したくない。サニーが、あのサニーが、太陽のように朗らかなサニーが…、友達を、村の人たちを苦しめるの?
 
「神々は、神様たちはどうなさっているの?どうして地上のためにムンダリーを誅して下さらないの?」
特にセクィナ様があたしたちのお父さんだというならば、囚われたサニーを一番に救ってくれたっていいものなのに…。
 「この地にムンダリーが現れてすぐ、宿命の女神ウシャトネは一つの予言を行った。このジスーダの大地は奴らの草木に覆われて、地の生き物は死に絶えることとなるというものだ。お前も知っているだろう。神々というものは一度宿命の託宣を受ければそれを受け入れるしかない。  
だが、同時にもう一つの予言も行われた。我ら水精樹精の軍に事を任せよ、というものだ。何故人の王に援軍を求めぬのかは聞いてくれるな。全て人の子の知らぬうちにことが決されねば未来のしっぽを掴む権利が消えるというのだ。故に神々は、我ら水精樹精の未来を掴む可能性にかけておられるのだ。神々のため、全ての地の民のため、我らは戦っている」
 「じゃあ、バーザー様、地上のために戦っているというなら…、サニーを助けて下さい…、どうかどうか、力を貸して…」
レニーは震えて椅子から降りた。声をがくがくとさせ跪き叩頭し両手を床につけた。
再び涙が溢れてきそうになる。レニーは震えて目を抑えひたすらバーザーに頭を下げた。
 「無論、お前の姉を救いに行くことは頼まれるでもなくそうする。だが、レニーよ、力を貸して欲しいのは我らの方でも同じなのだよ。ミュリアの娘レニー、節に協力を乞う」
 「力って、あたしには何にも出来ません」
 レニーは弾かれたように仰ぎ見る。声を彷徨わせて戸惑いに首を振った。
「お前も、あの毒を飲んだな」
 バーザーは口元からにやり、白い歯をのぞかせた。レニーははっと目を見張る。
 「あの毒をお前も飲んだこと、そのことが幸いだった。水精の女は体内で毒を浄化する。お前の血にはあれに対する解毒作用が出来ている筈だ。つまり、お前の血を姉の口に入れることが出来れば彼女も浄化されることだろう。その血が一コロンもあればこの湖一つ分の水を浄化できるという。一ゴウラの血液を提供してくれ。その後は、我が精鋭たちがお前の姉を救いに行く。どうか協力願えないだろうか?」
 
 レニーはゆらゆら揺らしていたを眼をぱちぱちとさせた。それぐらいのことでサニーが助かるのだろうか?本当に可能かしら?レニーは自らの中に答えを探した。
 
 胸の内に雨音が響く。昨日レニーに語りかけ響いて来た何かが再び耳打ちする。
 
「あたしも行きます、ぜひ連れて行って下さい!」

 レニーは「何か」の命ずるままに声を上げた。無理な申し出であることは解っている。バーザーが困るであろうことも。
 だが、胸の中で星が一つ閃いた。
 
 「おまえは剣を持ったこともないであろう」
 バーザーは予想通りに声をひっくり返した。レニーは食い下がる。
 「でも…、どうしてだろう?あたし自身がサニーに会いに行かないといけない気がするの…。ごめんなさい、上手く説明できないわ。お願いします。足手まといには絶対にならなから!」

 普段水の様に揺らめいているレニーの瞳は、真空に浮かぶ星の様に硬質な輝きを放った。しばしの沈黙が二人の間に流れた。
 
 バーザーは打たれたようにレニーの瞳を見詰め、嘆息して、しばし何かを考えていた。やがてその切れ長の目は呆れたように丸くなり、口からはふっと気泡を吐いた。
 「ミュリアには予言の才があったそうだな。分かった、宜しい。お前を連れて行くことにする。足手まといにはならないという言葉は忘れるなよ」

 バーザーは椅子からがばと跳ね上がり、その足は生き生きと玉座の上の水を一掻きした。ベルを鳴らして侍従たちを呼ぶ。
 「急ぎ戦支度を始める。奴らは夜明けにも総攻撃を仕掛けるはずだ。その前に叩き潰す。兵に食事を、馬の準備を。そうしてミュリアの娘レニーに、飛び切りの水馬を」

 
 水精の城はにわかに活気づいた。水の振動に、興奮と緊張と多くの不安が、意気盛んに吐き出される泡の数々に、その不安を押し殺す無理やりの陽気さとが、滲み、溢れ、躍動する。
バーザーは年配の侍従に、レニーを食堂へ案内するように命じた。レニーは上下左右に泳ぎ回る水精たちの脇をすり抜け、侍従に従って東の棟の上層階へと泳いでゆく。

上へと続く広い廊下は円柱形の短い塔に続いていた。上半分には水がない。塔の内壁に沿って四筋の螺旋階段が上へ伸びている。上からはレニーが懐かしいと感じる光がほのぼのと射していた。笑いさざめく声が、盃の打ち鳴らされる清かな音がざわざわと近づいて来る。レニーは侍従に導かれて階段を上り、暖かく揺れる光の中に顔を出した。

「食堂でございます」
侍従がレニーに告げた。
レニーは思った、ここはまるで湖中に沈んだ泡のようだと。床こそ足から滴り落ちる水滴に濡れているが、卓も空気も乾いている。天井は透明だった。巨大な玻璃のお椀状の屋根が周囲の壁と一枚続きに部屋を覆っている。外側には夜の湖の澄んだ闇と、群れはぐれゆらゆらと光る魚の影が果てしなく広がっていた。ここは外から見かけたあのドームに違いない。

左手の端っこの白い石壁で区切られた向こうからは、給仕たちが湯気立てる料理を手に出てきては食べ散らかされた残骸の皿を持って帰って行く。硬くコルクを閉めた大きな壺を持った数人の人夫が、水を滴らせながらレニーたちを追い越して石壁の向こうへと消えて行く。侍従はレニーの無言の質問に対し、
「あちらが厨房となっております」
と一声告げた。

照明は地上の食卓を飾っていたのと同じ懐かしいロウソクの灯りだ。睡蓮を象ったぴかぴかの銀のシャンデリアが吊り下げられ、油臭いにおいを放ちながらジジジと音立て炎を揺らしている。長テーブルは全部で五つ、沢山の水精たちが雑多にたむろって食事をしていた。

レニーは辺りを見回した。一見してバーザー同様軽そうな深緑色の武具を着けた兵士たちが座の多くを占めている。改めて見ると武具は金属で出来ているようには見えなかった。硬玉を薄く割って黒革縅に縫い合わせている様だ。鎧の軽さには理由があるのだろうか?彼らは皆地上の男達に比べて華奢で可憐で乙女のようだ。レニーにはこれが今から出陣に腹ごしらえするつわものには到底見えなかった。

「レニー様、こちらのお席におかけください」
年配の侍従が椅子を引いた。そこは中央の上座に近い、白い目の細かな布のかかった席であった。座っている間にも料理がどんどん並べられる。

給仕が大きな楕円形のパンを切り分けてくれた。断面から黒紫の干し葡萄と胡桃のかけらがほろりこぼれた。一口含んで思う。これはミュリアのパンだ。ほんのりと蜂蜜の匂いがした。

甘い香りととも一つの感慨が湧きあがって来た。
ああ、お母さんの味だ…。懐かしい乳の味、胸のぬくもりの、命の根源とじかに結びついた味がする。
お母さん、ごめんなさい。あたしはあなたが愛しているサニーを守れませんでした。でもきっと二人そろって帰ります、きっと、きっと、きっとです。
鼻の奥がつんと痛くなる。涙が一筋流れ落ちる。レニーは改めて、打ち震えるような不安をぼんやりと隠し持った食堂の様子を眺めて思った。
お母さんはここへ来たことがあったのかしら?こんな風に、銀のシャンデリアに照らされて、暗い湖中に揺らめく魚を眺めながらこのパンを食べたかしら?
お母さん、あたしが自分の子供にパンを焼くとしたら、きっとこのパンを作るわ。お母さんが焼いてくれたのと同じ味を。

ポロリン、パラン…。
不意に食堂の左の隅の方から玉ころがす絃の音が響いた。どうやら調律をしているのか。レニーが目をやると黒灰色のガウンをまとった白髪の老人と、金の巻き毛を軽やかに垂らしたレニーより幼い少年が、低いスツールに腰掛け、竪琴をつま弾いているのが見えた。
髪白く品よく痩せた老人は、おもむろに竪琴を構え、料理と酒の匂い立ちこめる空気を吸い、神寂びた歌声を響かせた。曲はどうやら昼間ヒルドの村の若者が、舟漕ぐ間に歌っていた、創世の神話であるようだった。
今まで「星聴館」の教本程度の知識しか持たなかったかの神の名に、レニーの思いは乱れる。レニーははっきりと疼く痛みに食べる手を休め、その歌に聞き入った。

「…女神の瞳の輝きに
怒りの矛をひとまず休め
セクィナの首は尋ねたり
『我が大望にご助言願おう』

星の瞳のキアラ―は
も深き言葉を与う
『答えられない言葉は持たぬ
私の思想は正邪ない』

 セクィナの首は質問す
 『理解に満ちた世のために
 闇ことごとく邪魔となる
 如何なる方を取るべきか?』

 『あなたがなすべき唯一のことは
 闇に名前を付けること
 世界に切り取り限定しなされ
 忌むべき呪いは半減されよう』

 マナン・セクィナは声を上げ
 新たな闇の名を告げぬ
 『汝はウェラリサ わだかまる者』
 ただの一声そう告げぬ

 闇の体は崩れ落ち
 胎には薄く光射す
 恨みの声は響いたが
 矜持は萎み四散した

 マナン・セクィナは勝利した
 憎っき闇を駆逐した
 だが双頭の隙間には
 剣呑な風 吹いていた

 ある晩マナンの夢の中
 一人の女神が現れた
 髪黄金に 目は紫に
 二人とないほど麗し女神

 『左のお方よ マナン様
 名づけられたる闇であります
 貴方の気高い思いやり
 我が心臓に酒を注いだ

 昼に追われた夜の中
 冷たく湿った洞の中
 今の私は光りを乞うる
 貴方の優しき光を恋うる

 ああ、訪なって下さいますか!
 闇の沈んだ裏なる夢は
 どれ程眩い光であるか
 貴方にそれをお見せしたいのだ

 私の夢には鳥が鳴く
 昼間の世界に無い鳥が
 私の夢には蝶が飛ぶ
 うつつの目には見えぬ色

 貴方を夜の王者としよう
 もし叶わぬというのなら
 化石の涙を流しつつ
 地底の海に永久に沈もう』

 目覚めたマナンは魅了され
 セクィナの首に想いを告げた
 セクィナの首は大いに怒る
 『そんなことなど私は許さん!』

 二人は大いに争いて
 仕舞は分かれ分かれとなった
 頭二つの光神は
 二人の光の神となる

 セクィナの方は昼にとどまり
 世界を照らす太陽となる
 マナンの方は月となり
 夜の世界の王者となった…」

レニーの畏怖は震えるほど恐怖に近しいものだった。
この「セクィナ様」があたしたちの「お父さん」なのだ!
先代の聖王様がお父さんでヨギニ五世陛下がお兄さんに当たる、という他愛ない空想はサニーと二人楽しんだこともある。
だが、王様どころではない、神様である、神々の王である…。こんな創世のマグマのようなエネルギーの塊と自分の命が直に繋がっている…。遥かなる太古の時代の登場人物が最も卑近な肉親というくくり。
あたしは一体どういう考えでいたらいいのだろう?サニーの様に神じゃない娘には意味があるのかしら?地上に落ちて行く小さな雨粒でも娘と思って下さるのかしら?
レニーは思い浮かべる。天空高い雲の峰に彼の神が立ち、じっと自分の行動を見下ろしている。彼には自分の道に選択肢はない。ただレニーが選ぶのをじっと眺めている。彼だけではない、あなたの雲に、こなたの雲に、どよめきを漏らす全ての神々が群がってレニーの一挙手一動足にピンと張りつめた注視を凝している。
  
 出来るのかしら?あたしに…。

「食べぬのか?」
不意に右上から端正な声が響いた。バーザーが武装も解かずにマントを華麗な紫の別珍の金刺繍に取り換え、レニーの隣の席を自ら引いた。
「あの…、歌を…」
心に走った不安を聞かれたような、きまり悪い心地がして、レニーはしどろもどろになった。だがバーザーは頓着しなかった。
「ああ、コラモの歌か。あれはいい、このヒルド湖随一の歌い手た。お前も歌は好きか?」
「はい…」
「まあ、歌もいいが、しっかり食事をとる様に。今夜は夜通し馬を駆る。体力が何より大事だ。足手まといになる気が無ければきちんと食べよ」
バーザーはそう言って、香辛料の解けた油滴る羊のあばらを行儀悪く手で食べた。レニーは改めて卓の上を見渡した。

食卓を飾るのは干し葡萄のパンだけではない。遠くジスーダ東部の水牛チーズが柑橘と重ねられているし、北海岸の塩気の強い燻製肉は根野菜のスープにほろほろと煮込まれ、浮いた油はいかにも美味しい出汁であると言わんばかりの黄金色。グラウス山中特産のウズラは卵とともに香草の衣を纏ってからりと揚がり、南洋から渡って来た香辛料を気前よくまぶして炭火焼した羊のあばら肉まである。レニーの疑問は膨らんでゆく。混酒器から注いでもらったのは、聖都リュリオンの旅籠で飲んだような薫り高く甘い葡萄酒だった。

レニーはバーザーにこう尋ねた。
「いったいこの小麦とかチーズとかお肉やらって、どこからやって来るんですか?」
「ああ買った」
バーザーは肉をモグモグしながら答えた。
「このヒルドから流れるミウン川を下ればリュリオンに出る。そこで買っている」
「買うって、お金は?」
「リュリオンには我らの資金調達部がある。あの様な都会においては、身元の曖昧なものがいても不審に思われない。まあ、汚いことはしておらぬ、尊い労働の対価だ」
「じゃあ、リュリオンであたしも知らないうちに誰か水精とすれ違っていたかもしれないってことかしら」
「かもしれん」
バーザーは言ってひょいっと手を伸ばしレニーにも羊肉をよこした。促されるままレニーは口にした。
「こんなにご馳走があるのに、一番近くで獲れる魚だけが無いのね」
「当然である。湖の魚は我らが友である。友の身をさばいて焼くなどという残酷なことが出来るか」
レニーはびっくりして羊肉にかぶり付いたまま固まった。そう言えばお母さんも絶対に魚を食べなかった。双子が大好きだから料理はするだけしていたが…。レニーは感謝とも罪悪感とも自己嫌悪ともつかない居心地悪い感情を味わった。
「ごめんなさい…」
母に、今まで食べてきた魚に、レニーは肉を含んだ口でもごもごとつぶやく。
だがやはりバーザーは気にせず上機嫌に説明を続けた。
「この湖底で食堂があり、気楽に食事を楽しめるのはここだけだ。この城はジェルドララ様の別邸をそのまま改修して使っておる。この広間はその時からあるのだ。このドームは特別製でな、神々の技術でしか持ちえない強度の玻璃だ。厨房の奥に空気を通す管がある。そこから絶え間なく外気が供給される。知っておるか?火というものは新しい空気が無い限り正しく燃えないものなのだ」

気さくなバーザーの言葉に束の間緊張がほぐれた。レニーは口の中の肉をゆっくりと咀嚼する。
「ここにだけは絶対に空気がたまっておらねばならぬ。そうでなければ私は暴動を起こされるだろう」
「何故ですか?」
「水の中では酒を飲むこと叶わぬからな」
バーザーがにやりと白い歯を見せた。後ろに控えた給仕がレニーの透明な盃に葡萄酒を注ぐ。
 「酒は薄めぬ方が好みなのだが、戦場に千鳥足で行くわけにもいくまい。ミュリアは食卓ではどうしていたか?」
 「半分に割っていました」
 「成る程。上品な水精であることだ」
 バーザーは盃に口を付けて微笑んだ。

 「バーザー様…」
 その時老いて尚黒檀の声持つコラモ、ヒルド湖随一の詩人がバーザーの足元に跪いた。彼の皮膚はヒルド村の老人のように日に焼けてもかさついてもなかった。ただ白い肌には深い皺が年輪の様に刻まれ、肉は余分なく締まり枯れ木を思わせるをしていた。豊かな白髪から雫を滴らせて、青い目でバーザーを見上げる。
 「マルドの山が魔に陰り、ヒルドの湖さえ彼の邪木の手に堕つるは夜明けなりと、玉璽を持った伝令が水色の馬を駆って参りました。陛下がこの国難を排そうと、全湖底の兵と地上の友軍樹精らと共、群青の旗を水にかざし、千騎の馬をに広げ、邪魔と雌雄を決さんとその剣を振り上げられたのだと、この老いた耳はしかと伝え聞きました。陛下はその武勇を語るために、我が拙き口上の技を、剣の代わりに献上するようにとの仰せです。しかしながら、我が老いは背骨と膝とを侵しました。もう半時の騎乗にも耐えられませぬ」
 コラモは白く色の抜けた眉を悲しく寄せてバーザーを見上げた。白い肌と白い睫の間に、赤い目頭が潤んでいるのが見えた。
 「そこでお願いの儀があります。どうか戦場には我が弟子アミンを伴い下さいますように。アミンは若年ながら耳聡く目賢く、流れる水の流れるさまを言葉に紡ぐ術にたけております。アミンに伝え聞いた陛下のいさしおを、この老骨が詩に組み立てようと思っておりまする。どうかお許し下さいませ」

 バーザーは静かにの目をコラモの潤んだ瞳に注いだ。一息つき、その目は鷹揚に微笑んだ。
 「わかった。宜しい。戦場にはアミンと行く。お前は暖かい食堂の中で絃の調律でもしておれ」
 コラモは恭しく頭を下げた。傍らに金髪も鮮やかな美童が進み出てくる。

 「コラモの弟子、アミンにございます」
 アミンと呼ばれた少年は、深緑色のガウンの下の臙脂のズボンの膝を折って、深々とバーザーに一礼した。丁重に下げられた頭を上げてこちらを仰げば草緑の瞳が清明な光を放っている。直に人の心に飛び込む目だった。顔の白いことは他の水精たちと変わらないが頬と唇は鮮やかな薔薇色に染まっている。レニーは思わずバーザーに問いただした。
 「バーザー様、こんなにも幼く可憐な少年を戦場に連れて行ってもいいものでしょうか?危険すぎやしませんか。もっとたくましく年長の者はいないのでしょうか」
 バーザーは言った。
 「戦場に詩人を連れてゆくのは王の倣いである。それにお前のような乙女を連れてゆくのだぞ、アミンは仮にも男子ではないか」
 アミンはバーザーの反論に口を押えて笑った。
 「そうです、私は仮にも男子です。ご婦人を護るためとあれば剣や槍にものを言わせてもお役に立ちとうございます。レニー様、あなたの後ろをお守りしますよ」
 レニーはこそばゆく頬を染めた。ついふくれたようなひがみ言を口にする。
 「バーザー様のお見立てだとあたしは子供に毛の生えたようなものだそうです。ご婦人だなんてそんな…」
 「そのようにすねた口を利くことこそ子供のあかしではないか?」
 バーザーは酒をあおってにやにやと笑った。給仕がすかさずその盃に代わりの美酒を注ぐ。
 「何をおっしゃられますかバーザー陛下!レニー様は充分にご婦人でらっしゃいます」
 「ほほう、何故そう思う?」
 「レニー様はこぼされたパンくずを誰に言われるともなしに一塊にまとめてらっしゃいます。バーザー様の落とされた分も含めて。お酒もバーザー様の呑まれる速度に合わせて決して飲み急ぐこともなく、かといってさっぱり進めないことのないようによくよく計らってお飲みでございます。これは淑女の礼儀でございます」
 バーザーは左眉を愉快そうに上げて白い歯を見せた。言った本人のアミンもうふふと笑った。レニーだけがびっくりした表情を顔に張り付かせてその言葉に目を白黒させた。湧き上がる笑いをかみ殺しながらながらバーザーがなおも問いかける。
 「だがアミンよ、それは淑女の礼儀というのではなくただの『庶民の要らぬ気遣い』、というものではないだろうか。高貴な女性は周りをかしずかせて涼しい顔をしておるぞ」
 暗にけなされていると悟ったレニーは思わずバーザーをにらみつけた。アミンは全く動じることなくこう反論した。
 「いいえバーザー様、気遣いに庶民も高貴もございません。それに『気遣い』というものはまったく礼節の基本形でございます。人を不快にさせぬための思いやりが『気遣い』にございます。真に高貴なお方は周りを思いやり恐縮もさせずに涼しい顔をしておられます」
 バーザーは眼に涙を浮かべ笑い転げた。まったく椅子から落ちそうなほどであった。アミンも笑った。両手を口に当ててしきりにうふふ、と漏らしている。
 「レニー様もバーザー陛下の戯言などお気になさいますな。あなた様をくさすのは親愛のあかしでございますよ。我らが王様も子供でいらっしゃいます。気に入った者をからかいたくて仕方がないのです」
 バーザーはこらえきれいずにいよいよ顔を真っ赤にして息も絶え絶えに笑い転げた。
「アミン、アミン!お前はよい、素晴らしき観察眼だ。ハハハ、ハハハ、ああ笑った。レニーよ、だそうだ、お前も『ご婦人』であるそうだ。うむ、わが軍は水中の至宝を護って行軍するか。うむ、心してかからねばな。コラモ、よい弟子である、ハハ!」
 次に控えたコラモが苦笑をかみ殺しながら一礼した。レニーは何も恥じることはないのに顔を真っ赤にして黙り込んだ。レニーはこれほど異性から称賛されまたからかわれたたことはなかった。さっき聖域の広場で自分だけ笛を吹かされて踊りの輪に入れなかったことを思い出す。レニーは苦にもされないが興味もまたひかない娘だと自覚していた。サニーは同じ日に生まれ胸の肉付きも腰の張り加減もほぼ同じような塩梅だ。顔に至っては瓜二つである。なのにサニーだけが熱い想いの対象となりうるのだ。それを考えていると途方に暮れてくるのだった。
 この先アミンのように自分でも気づかない美質を鮮やかに見抜いて教えてくれる人が現れるだろうか?サニーよりも高い価値を自分においてくれる人が出来るだろうか?でもサニーは小さな太陽なのだ。この世に一つとて代わりのないもの。一方のあたしはただのありふれた水滴なのだ。水はどこへ行っても水だ。必要とされてもいくらでも代わりが利く。レニーは正面の硝子の向こう側を見つめる。ドームの向こう側には虹の魚揺蕩う夜の湖が不透明な未来のように深い藍をにじませていた。
 
 速足に、革靴の床をこする音がして、右目を赤い石の付いた眼帯に包んだ一人の兵士が、鎧をガチャガチャと鳴らし、バーザーの側に駆け寄って来た。
 「陛下、『水蛇』から連絡がございました」
 「何?」
 兵士はバーザーに耳打ちした。
 「『氷河の鏡』…。まことか?」
 「はい。海峡を渡ったと。グラウス山中でキューロン様、エイバン様らと襲撃に成功しましたが、破片を二つばかり取り逃したと…人一人封印するのがやっとの大きさの欠片であるそうでございます…」
 バーザーは瞬時に額を曇らせ視線を左の上に寄せてしばし黙考した。
 「太陽の娘を閉じ込めておく気なのか?いや、おかしいな。せっかく手に入れた手駒をみすみす封印するなど…。どうする気だ…。モール、それは何時の事だ」
 「昨日の昼でございます。『水蛇』はムンダリーらに阻まれたため、キューロン様らと共、つい先ほど戻りました」
 バーザーはその知らせを聞くや否や、レニーに鋭い目を注いだ。
 「レニーよ、お前の姉が捕えられるにあたって、何か先触れのようなものが無かっただろうか。あったとしたらそれは何時だ?」
 
 レニーの背中に震えが走る。「氷河の鏡」?もう涙が湧きあがり一瞬瞳を揺らしたが、すぐに気を取り直し昨夜見た不安かきたてる夢のその内容を告げた。
 「その時閉めたはずの窓が開いていて、サニーの枕元に濡れた杉の葉のようなものが落ちていたんです…。もしかして、あれは…」
 バーザーは苦々しく口を結んで鼻で溜め息をついた。左手の指を力なく額に付けこう述べた。
 「ムンダリーめはお前の姉に暗示をかけたな。自らやって来るようにと。これは計画的な事案であったのだ…。ああ悔やまれてならん、今朝お前たちが聖域へ舟で行くときに、何のかのと手を尽くして邪魔立てすればよかった…。私にはそれが出来たはずだった…。悔やまれるべきは我が水精のよ!」
 そう言うや否やバーザーは吹きあがる憤りの全てを足に込めてがばと立ち上がり、冷たい声で鋭く傍らの侍従に命じた。
 「すぐに軍師リッティーを呼べ。急ぎ追加で軍略会議を行う」
 バーザーは盃にまだ半分以上残っていた葡萄酒を一気に口に流し込み、そのまま靴音荒く慌ただしく食堂を出た。レニーは情報の断片に、きらきらしくシャンデリアの炎が揺れるテーブルの上がとても遠く感じられて眩暈がしそうだった。

 「『氷河の鏡』、というのは、あの神代の…」
 レニーは必死に上ずりそうになるのを抑えて声を発した。コラモが重々しくだが音に慈悲の情をにじませて言った。
 「百二十年前、セクィナ様とマナン様、二柱の神を共に封印した、あの魔鏡でしょう。まだ残っていたのですね」

 北方の魔物が鋳造した「氷河の鏡」。生きた人の体内の熱を除いてほかに封印する術の無い魔鏡。邪なたくらみに太陽のセクィナ様と月のマナン様、二人の光神が封ぜられこの世は闇に覆いつくされた。八羽の小鳥がそれを解放するまで、地上も神々も乱れいがみ合い血と涙が大地の上に降り積もった。
 
「サニーは封印されてしまうのかしら…」
レニーは呆然と卓の上に置いた手を見つめた。亜麻色のまつげははらはらと揺れ瞳の水はあふれ出す寸前だった。アミンが幼い容姿に闊達な心を宿して答える。
「違いますよ。きっと違う。バーザー様もおっしゃっていた。あなたのお姉さまは絡め取って手駒にする算段でしょう。気を付けなくてはいけないのはむしろ我々です。お姉さまは封ずるいわれがないし封ずる利もございません。しかし我らは違います。ただ身の周りをぶんぶん飛び回るうるさい虻です。情けなどははなからかけるつもりはない」
「その通り」
コラモも意見を合わせた。
「ただ我々の道がより困難となり、急を要する危険が大きく増したと捉えるべきでしょう」

 「あたしの後悔はどうしていつも遅いのかしら…。聖域に舟で行こうって言われた時も、不吉な夢を見た時も、神話の舞台へ行こうって誘われた時も、あたし本当は止めたかったんです。何時も何時も、周りに流されてしまう、サニーの意思に押し切られてしまう…。どうしてこんなに頼りないのかしら…、あたしはまるで水鏡に映ったサニーだわ、相手が動くようにしか動くことができない…」
 堰を切って流れる言葉に、コラモがレニーの傍らに座り、そのしわがれた、だが絃の上を自在に跳ねる柔らかな手で、レニーの左手を包んだ。
 
 「レニー殿、川は低きに流れるもの、波は風が無ければ起こらぬもの、水面は光が無ければ輝かぬもの、水は全て受け身、無為、自らは決して動けぬ。我ら即ち水性(すいじょう)、お若く活発なバーザー陛下ですらそのを逃れられぬ。自らをお責めなさいますな。自ら光る姉君が右へ行こうと言えば右へ、左が良いと言えば左へ、そう従わざるを得ませぬ。バーザー様の失点を責めないのと同様、我らは誰一人あなたを責め立てしたりはしませぬ」
 「でも、でも、それではサニーを助け出すことは出来ないのでは…」
 「大丈夫でございますよ」
 傍らのアミンが力強く草緑の瞳を輝かせた。その色の良い唇には不敵な笑みさえ浮かべている。
 「水は受け身にして無為、しかし同時に獰猛で鋭いものでございます。一度れば街一つ国一つ易々と滅ぼします。私はただの一滴にすぎません。しかしそれが千万億と合わされば、宿命をも呑み込む黒い怒涛となりましょう」
 未だ澄んだ高い声に誇りを輝かせ、燿々と光る双眸をじっとレニーに注ぎアミンは断言した。その瞳の光はやすやすと未来をつかむかと思われた。
 「この湖と水系の三千の兵が結集されております。陸では樹精の王オドー様の軍もムンダリーへの包囲を固めております。お忘れですか?われらとて地上の民、立派に未来と契約いたしておりまするよ。宿命を覆すには十分でございませんか?」
 レニーは震えながらその左手を覆うコラモのしわがれた手に右手を重ねて強く握った。
 
 「あたしは水精である自覚に慣れないのです。矜持もしっかり座っていません。でも信じたいのです、サニーは、あたしがあたしであるからこそ助けに行けるのだと。あたしはサニーが太陽なら小さな雨粒でもいいのです!」

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 ジェルドララの泉の聖域…。
 暗きをなお暗くする密生した葉陰。魔の森の空気は湿って更に冷たい。妖しい音は黒い森の奥にまで届き、赤い火影も厚い闇を突き破って冷血な木々の葉をちらちらと照らす。ムンダリーのテントは取り外され、そこに夥しい松明が焚かれている。据えられたものは風に火くずを舞い上がらせ、兵士らが持って踊るものは文字を書くようにの曲線をと描いた。相変わらず煽情的な弦がかき鳴らされ、酒のにおいはむっとするほど。だが無秩序なようでいてそれはそこで行われる儀式の一環なのである。
 
 朱の光の中心に、木の葉で出来た祭壇がある。サニーはその上で昏睡していた。死んだようにぴくりともせず、だが健やかに、その胸は上下している。枕元には一振りの剣が抜き身のまま絹の白布の上に秩序正しく置かれていた。

 その足元と枕元に白い衣をまとった若い女が二人座していた。髪は赤く顔白く、くぼんだ眼と突き出た額はジスーダの民ではないことを示している。彼女らはモウラリア巫女であったものを、ここジスーダで凶事の片棒を担がせるために毒でからめとって連れてきたのだ。
 
 もくもくと焚かれる芥子の煙に巫女たちの目はうつろに潤み、その白き額には宿命の黒い翼がはらはらと舞い降りる。
 
 「南の山陰から匕首(あいくち)三つ。釣られて矢が一本」
 「足八十ある虫の頭は闇の産道からやって来る。氷は頭の手足を奪い、心臓は凍てつく。永久なる闇を彷徨うだろう」
 「そこから未来が選ばれる可能性は?」
 「未来が選ばれれば、虫は乳の川の中へと彷徨いこむだろう」
 「そこで彼らは卵となる。肉は小鳥についばまれ、その血は乳と溶けて流れに消えるだろう」
 「そこから未来が選ばれる可能性は?」
 「未来が選ばれれば蛇を産婆に、足七十八本ある虫は二回目の誕生を遂げるだろう。とうとうここまでたどり着く」
 「だが、神なるグラノウスはその無念を晴らすだろう。心臓は刺し貫かれる。そこで全てが決する。これより先に未来を選ぶのはい」
 ムンダリーは酷薄な唇をつり上げ、赤い舌でそれをぬめぬめとなめた。
 「それより未来を選ぶのはいか?」
 「難い、難い」
 「その先の未来は難い」
 ムンダリーは歓喜の叫びを高くとどろかせた。目を炯々と光らせ、月下にはらわたをぶちまけるほどの狂気じみた笑い声を放つ。勢いよく立ち上がり、こぶしを突き上げて目をむき、力強く命令を下す。
 「よし、鏡を持て。すぐさま準備に取り掛かれ」
 ムンダリーの低い音階を乱暴に歌うような叫びに応えて配下数十人が手を叩き、跪いてホーホーと裏返った雄たけびを上げた。
 

星辰

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 『ムルニセト王子とルムファリヤの物語』

 セクィナ様とマナン様の戦が現実味を帯びてきたころのことでございます。魔の国の軍勢は神々のすきを窺っておりました。
 魔の王ケダマントは腹心スネホケの進言に永久凍土の紫鉱石から「氷河の鏡」を鋳造したのでございます。「氷河の鏡」は最凶の魔鏡、生とし生けるものを封じ神すら封ずる。これを持ってしか二人の光神を片付けられはすまいと。
 同盟をにおわせてセクィナ様に謁見したスネホケめはその席でセクィナ様を封印しようと謀ります。奸智の神オセは同じ悪辣なものの目でそれを見抜きました。さても速きはスネホケの逃げ足。四つに割れた鏡を置いて蝙蝠の翼で北方へと嵐の飛空。
 セクィナ様は鏡を前に思案なさいます。このように危険な魔鏡を捨ておいては安心して眠ることも出来ませぬ。
 「この魔鏡は生き物の体の発する熱を持ってしか封印することができぬという。かと言って獣に託せば悪利用せんというものが現れるやもしれぬ。誰か適当な人間に託して封じさせようではないか」
 そこで人間の王国のうちセクィナ様に与していた四つの王国の王を呼んでお命じになりました。セクィナ様への忠誠のあかし、互いに同盟を決してたがえぬという証として王自らこれを封ぜよと。

 四人の王うちブーウェレ国のアデクロツト王はその性病弱で臆病なことで知られておりました。アデクロツト王はセクィナ様の命令に大いにお怯えになりました。そこで二人の王子様を呼び出されて自分は退位する、この鏡を引き受けた方に王位を譲る旨を宣言なされました。

 アデクロツト王の王子様は双子でございました。兄ムルニセト様、弟ディリダス様、二人ながら賢く勇敢で眉目秀麗な若者ら。とくに彼らは狩りを好んでおられました。
 ある日二人は山中に白い鹿を狩ったのでございます。シカは普通のものよりも大きく角付き優れて実に立派な獲物でありました。彼らはその頭を城の広間に飾ったのでございます。
 その次の日のこと、素晴らしく脚長く美しい乙女が狩人服をまとって二人を狩りに誘いにやって来ました。その名をルムファリヤ。二人は二人ながらこの娘を愛するようになったのでございます。しかし互いに互いを気遣い譲り合う二人でございます。月日はただいたずらに流れ毎日のように三人は山野を駆けまわるのでございました。
 ある時ムルニセト様は城の広間で件の鹿の頭を見て涙するルムファリヤを見とめられました。この鹿は鹿の王でこの娘はその王女だというのでございます。ルムファリヤは復讐のために二人に近づいたことを告白して短剣を彼に向けました。ムルニセト様はおっしゃいました。
 「麗しの乙女よ、復讐をするのならどうかそれは私だけにとどめてくれ。弟はどうか許してやってくれ。あれもお前を愛しているのだ。私を討ったならその代わり弟の妻となってくれ。愛する者が愛するものを殺すという残酷な運命は私には耐えられそうもないのだ」
 これを聞いたルムファリヤにはもはやムルニセト様を討つ心は残らなかったのでございます。
 
 その折も折、病君アデクロツト王からの御宣言でございます。二人の王子様の絆は溶鉄のように熱うございました。互いに譲り合い身動きが取れなくのでございます。そこへルムファリヤが現れました。曰く、
 「どうか王様、私に鏡の欠片をお封じなさいませ。私がそれを死ぬまで守りましょう。ですが引き換えにお願いがあるのです。私に二人の王子たちのうちどちらかを夫と選ぶ権利をお与えください」
 アデクロツト王はそれを許されルムファリヤはムルニセト様を選んだのでざいます。ディリダス様は言われました。
 「兄上、私は旅に出ます。お二人の未来が幸多からんことを願っていますがここにいてはあまりにも苦しい、旅に出ることをお許しください。その代わり王に王妃に災厄が降りかかろうというときには、きっと地の果てからでも戻ってお守りします。ここに誓約いたします」
 
 ディリダス様は旅立たれムルニセト様とルムファリヤは幸せにお暮しになりました。その蜜月は、「未来」の加護を受けたるアポスの民最後の一人、シユーリのフルウルージュ姫が騎馬戦団を率いてブーウェレの城壁を揺るがすまで続くのでございます。

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 月が沈みかけている。光の道は西から延び、星屑は饒舌にレニーに運命を物語った。湖面には群青の軍旗が翻り、燐を燃やして瓶に詰めた戦用の灯りが妖しく焚きつけられる。それは黒い水面を紺色に照らし、軍旗に水の波紋を映して幾百の騎兵と歩兵の隊列を浮き上がらせる。水精軍の兵士たちは規律正しく勇壮だった。マーチの曲がラッパで鳴らされ、その他は音もなく湖面に筋を描いて進む。その細やかな泡沫(ほうまつ)はしばらく月光に白く漂っていたかと思うと、湖中の暗闇にほぐれて消えてくのだった。
 辺りの黒く眠る森蔭には鬼火がちらちらと揺れている。近寄ることなく、離れることなく、一定の規律を保ったそれらは尋常ではない数のきらめきである。ヒルドの西岸に東岸に、不穏な気配をにじませ、それはゆっくりと聖域の方向を目指していた。これは樹精の軍勢の持つ燐の灯だ。水精の軍と同盟を結ぶ彼らも、今夜の決戦に命運をかけている。
 
 レニーは隊列の中央少し前、四方を精鋭に守られたバーザーの左で、緊張に息を震わせていた。慣れない硬玉の鎧は女性用に出来ているのに重く体にのしかかる。護身用に銀のさやに納まった短剣を帯びているが、それを使う事態が来ないことを望むばかり。レニーが騎乗しているのは浅葱色の馬(水馬と言うのだそうだ)である。血筋尊い名馬メラ号だ、光栄に思え、とバーザーはレニーに教えた。

 水馬は虹の魚同様水の体温をしていた。きっと我が身が人であったなら、冷たく不気味に感じられたことだろう。だが、レニーはそれ思いやりに満ちたものであると思った。何も言わずともわかってくれる温度だと。この馬は今夜自分が固めた覚悟を無言で分かってくれているのだ。

 前を行くバーザーが顔を上げた。東の岸から小さく灯をともし、静かに渡って来る小舟が一(そう)ある。はしこく走り回る兵士がバーザーに告げた。
 「キューロン様にございます」
 バーザーは馬を止めて迎え入れる。小舟には、胡桃の若芽で編んだ冠を被った若者と、その供のものらしい兵士が一人乗っている。

 「我が友バーザー!決戦であるな」
 「キューロン、何の用だ」
 キューロンと呼ばれた若者は、血色の良い裸体に若葉色の衣を巻き付け、茶色の皮の胸当てと手甲、脚絆だけ巻き、小ぶりの弓と鷹の羽の矢を背負うという至って軽い武装に身を鎧って(よろって)いた。赤みのさした金の髪に緑の瞳は快活に輝き、人に親しみを感じさせる明るさが燈っていた。レニーは先程アミンに知らされた。キューロンとはマルド一帯の樹精の王、オドーの三男、樹精の王子であると。
 「鏡について、追加で知らせがあってな」
 バーザーの目はさっとその色を変えた。
 「逃したかけらは二つと言っていたが、それは一つと分かった。一つは私の配下が体に宿して封じている。可愛そうに、もうまっとうな生は歩めぬ」
 「そうか…。後で見舞いの品を贈ろう」
 「親父殿に諭されてに来た。くれぐれも油断するなと。お前自ら奇襲部隊に加わるというが、考え直す気はないか」
 湧き上がるような不安を声ににじませて、重苦しい響きでキューロンは言った。バーザーは平素同様鷹揚な調子でキューロンに微笑みかけた。
 「もう決めたことだ。もうその手はずで事は動いておる。夜明けまでに本軍が太陽の娘を解毒できる可能性は少ないと私は見る。今やムンダリーは聖域の森に分厚く陣地を広げている。夜明けまで守り切れば自軍の勝ちなのだから徹底的に守りを固めて凌ぎ切るつもりだろう。そういう勝算があっての計略に相違あるまい。であるから、私はあえて奇策をとった」
 「わざとこちらの戦線にほころびを作っておいて、注意が逸れたところで一気に突破する、か…」
 「賭けるしかないのだ。太陽の娘、『氷河の鏡』、敵は二つながら大きな手駒を手に入れた。こちらに勝機があるとしたら僅かに今夜明けるまでの時間しか残されていない」

 キューロンは小舟の上から厳しくバーザーに視線を送った。大きな人好きのする瞳が激しく燃えていた。
 「確かにな、バーザー、あのかけらは小さい。人一人封印するのがやっとの大きさだ。だがな、バーザー、魔の道は魔だ。邪悪な道具の使い方において邪な者ほど狡猾に効果を得る者はあるまい。気をつけよバーザー、理屈にはよらない」
 キューロンはもの苦しい眼差しをバーザーに送った。
 「急所を突かれぬように用心せねばならぬ」
 バーザーは言って厳しくレニーを見つめた。
 「今からでも遅くない、王自ら奇策に加わるか?危険すぎやしないか」
 「見届けたいのだ」
 言ってバーザーは彼方に散らかる星を見上げた。
 「見届けておきたいと思った。未来を掴む瞬間を。私も地上としてその大業に加わったのだと」
 キューロンは呆れているのか案じているのか心細いのか分からないような、悲しく打たれた笑みを角ばった唇に浮かべた。
 「そうか…、分かった。『未来』の気紛れな加護が訪れんことを」
 バーザーは強く目を送り、くしゃりと破顔した。
 「勝ったらまた聖域の森で酒を酌み交わそう。『未来』の気紛れな加護を」
 短い別れの言葉に想いを託して、二人の友は湖の中ほどで別れた。供を一人だけ付けたキューロンの舟が遠ざかってゆく。月に照らされた孤影は森蔭に静かに消えた。
 水精軍は再びゆっくりと行軍を始める。正面には水色の天幕が張られた水精軍の本陣が夥しい燐の灯にも明るい。バーザーがレニーに告げた。
 「そろそろ潜るぞ」

 バーザーらの作戦のあらましである。正面から分厚く押し寄せる水精の軍、三方から攻め寄せる樹精の軍、それを迎撃して手いっぱいになったムンダリーの陣に三つほころびを仕掛ける。そこへ奇襲策である。低地のさらに南のアホームの低山地帯に二十ある聖域の小川に沿って、小隊を差し向けるのだ。レニーらのいる小隊は元々守り薄いウロと呼ばれる小さな渓谷沿いに進む。後の二つの奇襲部隊はおとりの要素が強いが突破出来ればしめたものである。バーザーは言う、一気にサニーを解放し、その勢いで敵を蹴散らすのだと。
 「ムンダリーらの強気は太陽の娘を手中にしたことにある。それさえ奪えば逆にこちらにとっての勝機となろう」

 バーザーは意気高くレニーに説明した。レニーには戦や用軍の知識はない。もとより右と言われれば右、左と言われれば左の娘である。反論する意思など微塵も持たない。だが、バーザーの腹心、軍師、キューロンの言葉や態度などから、これが十分に危ない橋であることは理解していた。四方向からの包囲をはねのけ、僅か一か月で支配地域を増やすムンダリーらの毒の気は単純な戦の常識では予測できない。更には降ってわいたような「氷河の鏡」の情報。刻限までにサニーの許へとたどり着ける確証は何処にも無かった。古参の将軍らからもバーザーを案じる声がささやかれている。彼らの醸し出す空気に、レニーの腕や背中にも緊張が青白くひりひりと肌を焼いた。

 後ろの方からバーザーの深い緑色の玉鎧と同じものをまとい、髪の色も長さも身の丈もほぼ同じ若い兵士が黒の水馬に乗って進み出てきた。傍らにはレニーとそっくり同じいでたちの若い女性の兵士も控えている。
 「リッティーよ、後の采配は任せた。この陣に王がいるのと同じ用軍をいたせ。微塵も気取られてならぬ」
 緑色の水馬に乗って同行していた軍師リッティーは、灰色の長い顎髭をさすりさすり、愚痴っぽくこうこぼした。
 「全く陛下のご無理には付ける薬がありませぬ。幼き頃より私が口酸っぱくして教え申し上げた王道の用兵とは何とかけ離れた策であることか…。しかしながら王は王、命令は命令、私は軍師でございます。せいぜい引退後に安楽椅子で過ごす暇でも勝ち取ってやりますかな」

 バーザーに従い、レニーは騎乗したまま水中に潜った。夜空の月光と星屑は白い波花にその残光を散らして見えなくなった。柔らかな闇が静かに皮膚を覆う。前を行くバーザーの亜麻色の髪が上へ向かってたなびく。レニーの柔らかな髪も水に踊って視界にかかる。水の中では空気の中とは違った系統の流水の音が響き渡っていた。さらさら、ちょろちょろ、ごうごう、それらはあちこちで騒ぎ、対流し、複雑に一つの曲を奏でていた。これが湖の中の通低音であった。本能で安堵し、だがレニーの唇は震えてもいた。もう全て走り出しているのだ。首に結んだ銀の小瓶には先程典医に採取してもらったレニーの血液が入っている。
 「大丈夫でございますよ」
 後ろについたアミンが白い水馬の上で力強く呼びかけた。水中の闇に草緑の瞳はうかがうことは出来なかったが、きっと溌溂としたまなざしを送ってくれているのだろう。その金の巻き毛が僅かな月光にブロンズに光っていた。レニーを加えて四十名の奇襲部隊は、聖域の森を西回りに迂回し、湖底に沈んだ谷間を進む。低湿地は北にせり出し湖はそれを回り込むようにひしゃげている。アホームの山々の西へ注ぐウロ川の河口を目指すのだ。その川を遡れば小さな谷をたどって水源地の森の南側へとたどり着く。

 「ウロの谷は闇のウェラリサとの縁が深い」
 緊張を和らげる意図があるのかバーザーは穏やかに語りかけた。湖の通低音の中にやわらかで中性的な声が飄々と紡がれる。
 「一説によると、創世の物語に詠まれた闇の胎とはウロの地底の事だというのだ。ウロはさしずめ『闇の御ホト』とでも言えるのかな。あまり穏やかでない言い伝えがよくある。ムンダリーらもウロの周辺はあえて避けているらしい」
 「その話なら私も聞きました」
 アミンがあくまで快活に相槌を打つ。
 「ウロの渓流で遊んでいた樹精の若者たちが、一晩経っても戻ってこなかったそうです。探しに行ってみたところ、彼らはウロの河口で生まれたての赤子になって産声を上げていたそうです。ひとり元の年齢のままの若者が腑抜けて座っていたそうですが、男であったものがその日を境に女の体へと徐々に変じて行ったそうでございますよ」
 「このような話が果てしなくバリエーションを持って語られる。ムンダリーの毒をもってしてもウロの魔力は侵しがたいらしい。それを我々は利用しようというのだ」

 「マナン様はウェラリサなどのどこがいいのかしら?」
 ふと、レニーは日頃もてあそんでいた疑問を二人に問いかけた。
 「あんなにおぞましい闇の女神をセクィナ様と決別してまで好きになる理由がわからないわ」
 「うつつの世界ではおぞましくとも『闇の裏の夢』の中では絶世の美女なのだ。マナン様がウェラリサに逢われるのは必ず夢の中だというではないか」
 「では、姿かたちだけに惹かれているということなのかしら?男の人って軽薄だわ」
 「女も美男美声の輩には弱いではないか。かようなことを突っつくのはやはり子供…」
 「そうではないでしょう」
 アミンが大真面目に二人の間の小競り合いを引き取った。
 「高位の神々のなされることには地上の尺度では計り知れぬ理由があるといいます。ご存じでしょう?『闇の裏の夢』の世界には、いまだこの世に生まれてはいないすべての命の幼体が溢れているといいます。マナン様はその幼体をうつつの世界へと導き伝える使命を司っておられるのですよ」
 矛を収めたバーザーがやんわりと苦笑を含ませた声で言った。
 「正にな。月は二十九日周期で増減する。女の体のリズムで。マナン様とウェラリサは子孫繁栄の神々でもある」
 レニーは見上げてその名残すら消え入りそうな月光を確かめた。マナン様はウェラリサの夢の光が眩い時には目を細めるという。その目の開け具合によって月は増減する。今夜は三日月、今まさにその光は洪水のような暴虐の黄金にきらめいていることだろう。
 

 水先案内という様に虹の魚が三体前を泳いでいる。その儚い灯りに浮かび上がる湖底は浅いV字型にえぐれ、藻に包まれた大小の石が乱雑に積みあがっていた。ぷつぷつと細かい気体が絶え間なく湧きあがり、腐敗臭とは異なる鉱物の冷たい臭いを漂わせている。バーザーはマルド山の火の床とつながりがあるらしいとレニーに説明した。ここからマルドの山頂まで、水のようになった炎がふつふつと燃えたぎって海のように静かに眠っているという。水精たちとはつながり薄い大地の底に住まう土精の王国が年に一度の正月行事に使いをよこす。彼らのうたう歌に水精たちは地下の世界の消息を伝え聞いた。
 「地底の世界にこそ神秘があるのやもしれぬ」
 バーザーは言った。
 「我ら水中空中にしか生きることが出来ぬ凡庸な民には、その歌の比喩一つとってみても妖しく豊饒で胸騒ぐる心地を覚える。地下の世界の成り立ち、複雑な重層、絶え間なき変動、雄大な音、どれをしても最奥の秘密の匂いを感じさせやしないか」
 
 前方から徐々に、ウロの河口の方から清々たる水の気配が驟雨に似た音を立てて近づいて来た。アホームの北側に端を発し、ジェルドララ様の水を闇の胎の上に走らせる波しろがねの渓流の川。きりりとした冷たさはレニーの肌にかえって快く流れ、波だって騒ぐ水音は母親の胸元に飛び込むが如く懐かしかった。それなのにそれを台無しにする悪臭が、レニーの水呼吸の鼻に引っ掛かる。これは木酢液だ、あのムンダリーの臭い。レニーはこの憤懣やるかたなき思いを前行くバーザーに訴えた。バーザーは何故か嬉しげににやりとした。
 「お前の水中での感覚も大分目覚めて来たではないか」
 「ジェルドララ様はさぞやお悲しみでしょうね。この清冽な水に漂う毒の気配はぞっとするほど気分が悪いです」
 レニーは自分がこれほど憤っていることに戸惑いを隠せなかった。畔から見下ろすだけだった湖の中に、その輝く日は視界から隠そうとすら務めてきた水中に、どうしてこんなにも愛着を感じているのだろう。ジェルドララ様は神々の中の一柱にすぎず、セクィナ様も天の理の最上位の者に過ぎなかった。小さな村の小さな村娘に充足して暮らしてきた自分。だが、どうだ?レニーの命のルーツはここにあった、レニーの世界はここにこそあったのだ。

 「もちろんである。もとより争いを好まぬ穏やかな女神さまである、我らがこうして血を流すことも厭わぬという覚悟を決めていることですら、あのお方の意向には沿っておらぬのかもな。何しろお優しい方なのだ」
 「あなたの口ぶりだとまるでジェルドララ様を直接知っているように聞こえるわ」
 「もちろんである」
 「あなたは神々にお会いしたことがあるの!」
 「我が力を侮るでない。今お前も乗っているその水馬は、空の果て、天界へも昇ることが出来るのだ。私は九歳の時分、天界の宴に呼ばれてもったいなくもジェルドララ様の裳裾を持って歩いたのだ。彼の天の水瓶の様も見てきた。巨大な玻璃の水槽だ」
 バーザーの顔は、年相応の若者の青々しい自負に赤らんだ。目は輝き、鼻から芥子粒の様な泡を吐き、唇には微笑を浮かべる。
 「その御心に報いるためにも、我らは勝利せねばなりませぬ」
 バーザーの言葉をやはり顔赤らめたアミンが引き取った。
 「命限りあるものはその限りあるものの使い道を選ぶことが出来るのです。逃げることも寝返ることも出来ます。それは我らの権利なのです。しかし、『私』という意識に区切られた水塊に許された命を、私はジェルドララ様のために使いたい。今日の日の勝利のたづきとしたい」
 緑の目の鮮やかに輝くのは暗闇に見えなかったがレニーはそれを感じ取った。バーザーが続ける。
 「我々は必ず滅する。だが、それを避けようとあがく。そこに『未来』は可能性を見たのだ。滅びの定めは特権である。言い換えれば神々に出来ないことを成し遂げるために、我らは滅すべき体を持っているのだ」

 レニーは一つの事実に気づいた。サニーは、誰よりも「未来」との契約を誇っているサニーは…。
 「サニーは神様です…」
 レニーは言ってまつげを揺らした。
 「サニーにも未来を選び取ることは出来ないの?あんなに元気いっぱいで未来を信じる気持ちに満ちているのに」

「出来ないだろうな」
バーザーは一区切りつけた。不思議そうにレニーに目を注いだ後、いたわりとも以外の意とも取れる口調でこう続ける。
 「おまえの姉は宿命逃れ得ぬことと引き換えに、永遠の命を持っているのだ。成人すればやがて天界から迎えが来るだろう。名誉なことではないか」
 「でもサニーは…、サニーは女優となって母となることを夢見ているのよ。天界からお迎えが来たら女優にはなれない…、普通の女神は子を産むことも出来ない…」
 レニーは目頭が熱くなり自らまつげが震えるのを感じた。その青い目は水中でなければ涙を落としただろう。言ってバーザーがどうこうできる問題ではないことは解っていた。だが、目の前にいる人に心をぶつけずにはいられなかったのだ。
 
「それは叶わぬだろう」
 
バーザーは前の方に視線を定めて一言だけ言った。情のこもった言葉だった。その優しい響きにレニーは歯を食いしばった。

 「サニーが神なら、サニーが捕まったことも宿命の夢には詠まれていることなのね。だとしたらあたしの生まれた理由は、きっとサニーに代わって未来を選ぶことなんだわ。待っててサニー、きっときっと助けてあげる」
 レニーは唇をかみしめて心に念じた。やはり自分は雨粒でなくてはならなかった。あたしは無力だ。降り注いで木の葉一枚揺らすのがやっとの大きさ。でも、あたしの後ろには幾千億の雨粒がいる。それはごうごうと降り募り、天の怒りと勢いづいて、やがては真っ黒い怒涛を生むだろう。波はうねり、サニーを虜にした邪悪の森を一舐めに飲み込むだろう。そう、今晩にも。

 徐々に湖底が浅くなる。波音は耳に近く、世界の境界がそこにあることが聞き取れた。月光を失い暗くたゆたう水面が額に迫る。清かなる光の祝福がそこに触れる。ざぶりと顔を出せば遥か頭上に満天の星。その角度に既に日付が変わったことを知る。そこには夥しい大小の丸石がガレ場のように堆積していた。石は星明りにもすべすべと白く、水はそのまろやかな肌を泡立って洗い、湖へと急いでいた。河口は家一軒分の幅がある。その川は、さらさらと騒いで真っ黒く迫った森の奥から蛇行していた。
 「ロルム、灯りを点けよ」
 バーザーの言葉にロルムが返した。
 「見つかりやしませんか」
 「本来ならば点けぬ方がいいだろうが、この渓流を遡るのに星明りだけでは無理と感じる。出来るだけ弱い光にせよ」
 先頭に陣取る兵士が印を切って鬼火を作り、角型のガラス瓶に閉じ込めた灯りを布で包んだ。灯りを目立たなくするためだろう。だが、湖底の暗闇に慣れた目にはそれでも十分に思われる。
 「決して悲鳴など上げてはならぬぞ」
 バーザーがレニーに念を押した。彼自身押し殺したひそみ声である。

 一行は危険な奇襲攻撃へと取り掛かる。声ばかりか馬具の軋りにさえも神経をとがらせ、最大限に忍んで川をさかのぼり始める。河口付近では小さかった丸石は上流に行くに従い大きくなってゆく。不揃いな石の転がる床を川水はさらさらと流れていた。暗闇にかすかにしか把握できないが、辺りの包むのは優しい胡桃の森であるらしい。不吉な言い伝えのせいでムンダリーでも二の足を踏んでいるこの地の森が、結局はそのせいで守られたことにレニーは複雑な嬉しさを覚えた。
 一行は声もなく粛々と馬を走らせた。岩走る清水の水面を跳ねるように水馬は行く。燐の灯に青くしぶきが煌めく。玉鎧がちゃきちゃきと音を立てて軋む。レニーは目の前の果てどもない闇に目を凝らした。清い水の下、地底から得体の知れないものがしみだしている気がする。遠くの方から切れ切れに何かがごうごうと吠える声が聞こえていた。犬か、狼か、それとも人か。もう戦は始まっているはずだ。
 
レニーを乗せたメラ号は疾風のように駆けた。レニーが右に身を傾けたいと念ずれば右に、左に寄りたいと思えば左に寄った。レニーの思う所は全てこの水の体温を持つ馬に伝わった。地上では隣の家の小馬に乗せてもらったことがあるだけだ。あの小馬はてんでレニーの言うことなど聞かなかった。小馬鹿にした態度をとってからかった。だが、この水馬は、たてがみ青きメラ号は、ぴったりとレニーの心に寄り添っている。まるで私はあなたの体の一部だと言わんばかりの献身だった。
レニーには気付く心の余裕が無かったが、この時前を行くバーザーと後ろを守るアミンは、ともに感嘆と多少の呆れの眼差しを持ってレニーの初めての騎乗を見つめていたのだ。

騒ぐ水音のほかはいやに静かな時が続いた。時折何か吠え立てる不穏な音は届いたがそれも遠く向こう岸のお囃子のようだった。月が消え星はまさに降って来るかのようだ。胡桃もミズナラもまだ芽吹いたばかり。解け始めた木の葉をまとった枝の隙間から、白く、青く、赤く光はきらめく。銀河はミルクをぶちまけたように滔々と勢いよく流れた。何か至高の存在が一筆で心血を注いだかのように、それははっきりと意図を持った連なりに感じられるのだった。
 
一時間ほど進んだだろうか?行く手の森の奥からツンと鼻につく臭いが漂いだした。邪悪な木々の体臭、木酢液のすえたムンダリーの臭い。狼の遠吠えの絶え間が短くなってきた。それは呼びあいながらどんどん南へ行く。視界を失った小鳥が羽ばたいて木々に激突する。フクロウが、蝙蝠が、北の方角から慌ただしく逃げ出す。狐が栗鼠が、狂ったように駆けだしてレニーたちとすれ違って行った。遠くで火の粉が赤く夜空に浮かび上がり始めた。喉に痛い煙の臭いが木酢液と入り交じってここへも届いてきた。もはや誰が言うまでもない。近いのだ。
 
 突如、前を行く兵士が急に方向を変えて剣を抜いた。その次の列の兵士が小刀を投げる。掲げられた灯りに覗いたのは、の衣にの鎧で固めた異国の兵士だった。味方が水馬の足を速める。敵方の一人は小刀が命中しうずくまっている。それを水精方が一息に切りつけた。レニーは思わず目を閉じる。悲鳴は押し殺すことが出来た。震えながら再び目を開ければ、敵の右腕は太く膨らみ、ぐしゃりともぺしゃりともつかぬ音を立ててつぶれていた。頭は不自然に細長く伸び、木酢液が強烈に鼻をつく。恐る恐る目を凝らしてみれば、彼はどろどろに朽ちた木や草の塊に成り果ててこと切れていた。
 更に数名の敵兵が切り伏せられた。血の代わりに飛び散る腐った樹液。
 「斥候だ、一人も逃すな!」
 バーザーが命じる。水精の兵士が一人逃げようと渓谷の藪の壁をよじ登る敵に追いすがった。敵兵は彼にしても必死だったのか、振り向きざまに持っていた短剣をこちらへと投げつけた。それは今にも敵兵を切り伏せんと馬上に剣を振り上げていた味方の兵の首元を、向こう側から貫いた。
 バシャリ!
 馬上で彼の体が融解した。付けていた玉鎧が空になって谷底に落下する。馬は主を失って斜面で足踏みした。兵士の体は燐の弱い灯りに青白く雫を散らす水となり、冷たい水音ととも川の中に注いで、騒ぐ流れと一体になって去って行った。

 「モール!」
 仲間たちは思わず漏らした。一人の敵兵が猿のように谷壁をよじ登ってゆく。
 「一人逃しました…」
 モランが蒼ざめて告げた。バーザーがつぶやく。
 「いや、だがもう戻れん。このまま先を急ぐしかない」
 
 レニーの唇は蒼ざめ、瞳は見開かれたままはらはらと揺れた。
 人の形をした者が殺されるのを始めて見た。
 二つながら人の子とは違った。邪悪な樹精と水精の兵士。血は流れない。墓標もない。その運命の何と悲しい事。
 レニーは思いを致す。

 あたしはリーナや友達やほかの村の人たちとは違う…。亡骸は大地のグリオーダ様の所へは帰らない。魂は輪廻の道筋には乗らない。
 あたしは、あたしは…。

 左腕に温かい手が触れた。
 「レニー様、大丈夫でございますか?」
 アミンが少年とは思えぬ落ち着きで強く目を送りレニーに暖かな気遣いを見せる。
 「大丈夫です…。少し、狼狽しました。水精は死ねば水と解けるのですね…。あたしも、死んだらそうなるのですね…。魂はどうなるのでしょう?」
 レニーは声を震わせてやっと呟いた。

 「レニー様、我らの肉体は魂と同義でございます」
 アミンの瞳の光は強固だった。迷い無く真っ直ぐに投げかける瞳の光。
 「水には水の輪廻というものがございます。雨は川に注ぎ、川は海に注ぐ。海はやがて雲を生み、雲は雨を地上にもたらす。どの様も水の一様、魂は流れの中へと還る。これは必然であります。我ら意識に切り取られた水塊は、おのずから流れに戻りたがっているのでございますよ」
 レニーは打たれてアミンの目を見つめた。草緑に激しく燃える眼を…。
 
ああ、あたしたちにとってこれは解放なのだ…。

バーザーが口の中で嘆きの言葉をつぶやき、槍の穂先でモールの空の鎧の重なりの中から赤い石の付いた眼帯を拾い上げる。
 「先を急ぐしかないか…、我々には時間がない。夜明けまでに太陽の娘の解毒が出来なければそこで全てが決してしまう。モール、今までよくやってくれた…」
 それに対してモランが対論を述べた。
 「恐れながらバーザー陛下、それは私とて重々承知しておりますが、この先流れは急流に差し掛かります。レニー殿は今夜初めて水馬に乗られた。かかる様な悪路を行く騎乗に耐えられますかな?」

モランの言葉に、バーザーは挑む様にレニーをにらみつけた。先程双子の出自を語った時と同じく、息つく間もなく畳みかけるように言った。
「それについては心配していない。レニーよ、お前の水馬さばきは素晴らしい。水馬に乗るのは地上の馬に乗るのとはわけが違うのだよ。ジェルドララ様の祝福を一際受けている者がそれを能くする」
バーザーは一息ついた。燐の灯にすえられた白目が白く光っていた。そして一転、訴えかけるような情のこもった声でこう続けた。
 「返す返すも地上で人の子に紛れて暮らしているのが惜しまれる。お前は、本来は、水の中に生きるべきではないか?」

 虚を突かれる様な問いだった。だが、それほど、今夜レニーが知り得た事実の結果としてふさわしいものが無い程の問いだった。その言葉はレニーの胸の、今まで憶病にせき止めていた深い淵に、小石のようにポーンと投げ込まれた。
 小さな小石の波紋。淵にせき止められていた水は白く波立つ。ちっぽけな筈はずの淵に何と沢山の水が眠っていたことか!それは渦を巻き更に大きなうねりとなり、そのうねりに呑まれ、レニーの胸は大水で溢れそうになった。

 「あたしは水の中に生きるべき…」
 その言葉が胸にこだまする。ざわざわ、風が立つ。それは嵐の風だった。鏡のようだった湖面は瞬時にして真っ黒な怒涛に波立つ。
 「あたしは水の中に生きるべき!」


 苔に覆われた石塊に蹄を立て、もはや滝と言えるほどの急流に水馬は駆ける。水は闇の中でもお構いなく流れる。光の元にあるのと同じ様に騒いで渦を巻く。レニーの中の水もレニーが気付かぬうちから絶え間なく流れていた。ただ今夜光が当たってしまった。それだけのことだ。
 水の獰猛を期待するとは、その後ろに幾千億の雨粒を望むということは…。

 「あたしは水の中で生きるべき、水の中で生きるべき…」

 目を揺らし思わず見上げれば、磔刑の女神ベゼヌの星座が逆さに輝いている。もう夜明けまでは遠くない。
メラ号の背中にしがみつき必死に注意を巡らせながら、レニーはもう戻れないと息を震わせていた。レニーという意識に切り取られた水は確かに流れに還りたがっていた。それを胸の深い所で感じた。
サニーを助け、「黄色いお家」で今まで通りずっと一緒に暮らしたい、今まで通りずっと三人で…。その望みは今も変わりない。
だが、その裏側にある流れは、レニーの本能は大海原を望んでいた。全ての川のたどり着く先を、積みあがる雲に天を昇りゆくことを望んでいた。雨と変じて大地に注ぐことを望んでいた。こんな思いを抱いたまま、今まで通り人の子に混じって何食わぬ顔で暮らせるだろうか?

 「お母さん、お母さんはどんな気持ちであの村で暮らしていたの?」

 ヒルドの湖を追われて地上で双子を育てた母親。子は二人ながら人の子ではない。神と水精。それを今の今まで隠しおおせていたミュリア。
 ふと、レニーは解った気がした。ミュリアは待っているのだ。双子が自分の手を離れ一人で歩けるようになった後、水の輪廻に還りゆくことを、本来の自分に帰り本能のままにそこへ至ることを、静かにだが確実に待っているのだ…。

緊張に腕がわななく。瞳は揺れたが涙はこぼさなかった。相変わらず騒ぐを水馬たちは跳ねて行く。乗り手の心を察していななきさえ漏らさない。見上げれば悲しいほど揺ぎ無い天球に星が散らばっていた。痛いほどの星空だ。レニーは身震いした。自らの中に湛えられた水はこの星辰同様果てしないものだった。

 急に先頭を行くロルムがびくりと震えて馬を止めた。彼は呪術に明るい法僧兵だった。一行の馬もプルルと漏らし、体を横にして慎重に足踏みする。
 「お気を付けください、良からぬ気配が近くにございます」
 「『氷河の鏡』か?」
 バーザーの問いに、ロルムが声を曇らせた。
 「そこまでは解りませぬ」
 
一行はそろりそろりと馬を進めた。そこは急流が一旦小さな溜まりを作った真っ黒い淵だった。地面は丘の中腹に一段平地を見せ、中ぶりの奇岩がゴロゴロと水をせき止めている。瀬音は後ろからさらさらと響き、上流の方からも後ろよりも少し遠くに、せせらぎの騒ぐ音が聞こえていた。常緑の茂みが頭上に望む星空を遮る。幾本かの倒木が小さなプールを作っている。縁を横切って流れついた胡桃の生木を乗り越えて、レニーはバーザーに続いた。水音の他はいやに静かだった。淵の水はまるで鏡のようだ。わざと弱くした燐の灯にもう一つ足元から鏡像の灯りが、レニーたちを照らしていた。

ちらりと、右上の木立の間から赤い灯がひらめいた。後ろを固める弓兵が速射の腕前を見せる。暗闇でも素早く矢羽根をつがえ、ものも言わずにびょうと放つ。赤い灯を追って、飛びものを持つ兵士らは我も我もと盛んに矢を放ち始めた。
放たれた矢の軌道が空中でぐにゃりと歪んでいた。吸い込まれるように天頂に消えてゆく。虚空に虚しい羽根音が響く。それにつれて、辺りにはキイキイと癇に障る哄笑が、木々のざわめきに混じって響き渡った。
「陣形を変えよ!レニーを護って突破する。この血だけは必ず守らねばならぬ」
ここは包囲されている、そう悟った一隊は、前方に厚く戦力を置き、レニーをその中ほどに護って、一塊に淵の上流へと突破しようととりかかった。だが、上流へと駆けだした水馬が悲鳴を上げる、乗り手にもがくんと走る衝撃。やっと落馬を踏みとどまってその場でどうどうと足踏みする。灯を掲げてよく見れば倒木がうずたかく組まれ、土台を石で補強したバリケードが出来ていた。
「臆するな、飛んでゆけばよいではないか」
だが、バーザーの言葉の最後の音がまだ消えぬうちに、周りの木立の上から雨あられと注ぐ火矢。一隊はなす術なし、淵の真ん中に押し込められ、足踏みしながら丸く固まる。邪悪な哄笑は一層神経にやすりをかけながら静寂とした夜空から降る。ばさばさと木々の揺らぐ枝音が聞こえる。雄鶏の時を告げるような叫び声が幾つか星空に突き刺さる。

と同時、赤い灯が正六角形に淵の岸辺を結んで閃いた。炎の揺らぎが強烈な光線となって真っ黒い淵の上に注ぐ。前に騎乗するバーザーの驚愕の表情がまつげの一本一本まで昼間のように鮮明に照らし出された。だがしかし、あっという間もなく視界は暗転する。レニーは足元の真っ暗な水がせりあがって来たのかと思った。吸い込まれるような心地だったのだ。だが皮膚に当たる気配は懐かしい水中のものではなかった。それは水でも空気でも土でもなかった。一切の温度と触感の無いものだった。真綿の如き闇…。

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 「大いなる戦の記録書」第五巻

闇はには二つ顔がある。世界を生みウェラリサと名付けられるより太古から。四つの劫火が先の世界を焼き尽くすより前から。一つは母なり生み出しいのちを謳歌するもの、もう一つは暗黒滅びを無上の喜びとするもの。今のこの世が出来しより生み出す側が表となり滅びの夢は眠りについていたが、限りある命が一つ消えるたびに滅びの夢はまた一つ増幅される定め。生き物が生み出されて四千年、生命の繁栄が滅びの夢に非常なる力を与える。

誘惑の女神ベゼヌは蜜酒の髪に藍玉の瞳にくびれた腰に自ら唾棄して憎む。生物の滅びぬための欲求を司っていること、その男神ではなく女神であること、すべての命が男ではなく女から生まれるということに虫唾が走ってたまらぬ。そのベゼヌの元に滅びの夢が現れる。闇夜、蛍火に包まれ幻のように浮かび上がったた滅びはこう教えた。

「神々と人間の性質がよく似るはすべてがウェラリサの『洞の水』の流れ出る方から生まれ出てくるためである。その『洞の水』は流れ出れば命を生み、流れ込めば滅びを生む。流れの向きを変えよ、流れを洞に収めよ。神人間共に滅べば世界に余った生命の気は横溢し氾濫し、これまでとは雲と星より違った生命体が栄える。その命は生きるために食らわず戦わず子孫も残さず、勝手無秩序に生まれあぶくのように消えていくだろう。さすればお前が憎む生き物は死に耐える、神々も新生する。宙の彼方よりの劫火がこの世を焼き尽くす」

ベゼヌは蜜酒の髪でマナンの門番を誘惑し鍵を得る。その地下宮殿をさまよいウェラリサの夢の扉を開いた。黄金夢幻の世界が彼女を迎えた。ベゼヌは青い花を摘み蛇のごとき流れたどり命流れ出たる洞の水の前で歌った。

流れよ小川 暗闇に もぐれよ泉 地の底へ
泉よ泉 巻き戻せ 時の車輪をさかのぼれ

洞の水はベゼヌの歌に応じて向きを変えその流れを吸い込む。時を同じうして地上も天も乱れ争いはその悲惨を増すこと劫火のごとし。ナータン、グラフィア、ヒドゥーン、テンモン、キアラーの生みし八羽の四羽が切り替えられた洞の流れを再び変えるまで、滅びは坂道の下の奈落のごと近づく。世界はその坂道を転がる雪玉。


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「皆よ、無事か!」
底無き暗闇に兵士らの狼狽の気配が漂い、真っ先にバーザーが声を上げた。レニーは馬上にしがみついたまま肩をがくがくとゆすぶった。頭を揺り動かしてあてどない叫び声をあげる。闇に体が解けていくのではないかと思われて半狂乱になりかけた。周りの兵士たちも同様に、獣のようにわめいて水馬の上で暴れる。
「いたずらに動くな!まず点呼を取る」
バーザーが叫ぶ。暗闇にも理が勝ったその声。ヒーンとメラ号がいなないた。腕に脚の間に感じる馬の体温は相変わらず水だった。レニーの頭にすっと理性が戻って来る。震えながら座り直しバーザーの次の言葉を待つ。兵士たちのどよめきも静まった。声の振動は遮るものが周りに無いことを表している。ここではぐれてしまえばもう再びは出会えないだろう。近しく騎乗した人の気配がありがたく感じられた。バーザーは三十八名の名を順番に呼ぶ。幸いなのか不幸なのか、一人の欠けも無いことが分かった。

「ロルムよ、これは一体どういう状況か?考え得る可能性を説明せよ」
一塊に身を寄せ合った兵士らはロルムの言葉に耳を澄ませた。
「おそらくは、『氷河の鏡』の呪力を淵の水鏡に転じさせ、闇に我らを封じたものと考えられます」
「鏡の欠片は人一人封ずることしかできぬ大きさと言うていたではないか!」
「いや、ですから、呪力を水鏡に影じさせたものでしょう…。鏡自体は使わず、呪力だけを幅広く増幅させたものかと…。周到な準備がなされておりました。陛下、おそらくはこの奇襲攻撃は見こされていたものかと…」
ロルムの説明に、一同のものは言葉を失った。バーザーですら溜息をついて黙り込む。封じられる人数が一人、と限定して考えていたことがあだとなった。キューロンの忠告は現実となってしまったのだ。
これは半神の英雄、黒い小鳥アシル様にしか破れないほどの窮地である。一人残らず封じられたというのもいかにも不運だった。これでは外側から封印を破るために鏡のかけらを奪うことも出来ない。
「とにかく、策を練ろう。悪戯に焦って状況を悪くするな」
バーザーが馬上で手を打った。不承不承といった調子で兵士らが従うとの返事を漏らした。だが、話し合うべき策などこの場にあるだろうか?反撃のための手足を全て奪われてしまっているのではないか。皆の胸の内に暗澹たる雲が、この空間の闇の厚さで広がって行った。


ぽうぽうと焚かれた燐の灯と揺れる水影に、水色の天幕が儚い水精の陣地。軍師リッティーは螺鈿で飾られた遠見の筒の水レンズの厚みを右指の先で器用に操り、左手で長い顎髭をさすりながら、聖域の北岸に展開する戦況を眺めては指令を下していた。
 敵方は四包囲からの攻撃にじりじりと後退し続けている。このままいけば勝ち戦。時間にはまだ余裕があった。夜明けまでに結末を着けられなければ全てが覆ってしまうが、副官たちも将軍らも刻限までには間に合うと狂喜した。リッティーとしても、戦況を素直に判断すればそう言わざるを得ない。だが…

「ううむ…、どうも腑に落ちん。負傷兵が少なすぎる。世辞をぷんぷん匂わせれているように鼻につくのだ」

神代からの長きにわたって軍師を務めてきたリッティーの歴戦の感に、「何か」が不快に引っ掛かっていた。敵方が防御で時間を稼ぎ、じりじりと夜明けまで時間を稼ごうとしてくることは予測済みだ。それなのに全てがこちらに都合良く、戦線の収縮の仕方がいやに淡々と予定調和めいていた。

「この筋書きは、果たしてどちらが描いたものか?こうなるとあれ程危ない賭けだと諫めていた奇襲策に救いが見えてくる気がするが…」

リッティーは戦場の南側に遠見の筒を凝らし拡大した。手筈によれば今頃彼の主君、バーザーがこの向こうを遡って来る筈だ。高齢のリッティーにとって幼い頃より用兵の術を自ら叩き込んだバーザーは半ば孫のような存在だった。肉親の情に近しいものが彼の指にこのような操作を促した。顎髭をさすりさすり、見ることで不安な心を落ち着かせようとする。恐らく今陛下はこの丘の向こう側にあらせられる。下りに差し掛かる渓流の筋の少し上手に目を凝らす。 

「!」

チカリ!丘の向こうに何かが光る。リッティーの目は確かに森の上方から垂直に落とされた赤い光の柱をみとめた。刹那に、自然のものとは程遠い虚無の闇がせりあがって来てそれをすっぽりと覆うのも見た。その後再びそこは何の変哲もない夜の森へと戻る。時間にしては二秒もない。瞬きしたら見落とすようなその一瞬を見逃さなかったのは、やはりリッティーの僥倖と言えるだろう。

「陛下…」

リッティーは遠見の筒を懐に突っこみ、水馬から転げ落ちそうな勢いで手を打った。誰か手近に命令を下すものがいないかおろおろと探す。あまりのリッティーの狼狽ぶりに怪訝そうな副官たちを置いて、手の空いている伝令兵の許へ水馬を差し向けようとした時、水の中から雫を滴らせ、跪く人影がざばりと浮かび上がった。
「リッティー様、御用がおありならわたくしがうかがいます」
リッティーの蒼ざめた顔に朱がぱっとさした。
「おお、『水蛇』そこにいたか!」
リッティーは焦りを抑え、先程怪しい光が立った後を指さして一転し厳しい口調でこう尋ねた。
「ウロの河口から半分ほど登ったところだ、おそらくそこでバーザー陛下が難儀しておられる。お前ならどれくらいの時間でたどり着けるか?」
長く青い髪をくねらせた『水蛇』は、その髪の間に跪いたまま顔も見上げずに答えた。
「半刻ほどで」
「おお頼もしい!」
リッティーは救いを得たとばかりに顔を明るくした。その輝いた顔を今度は目玉が飛び出しそうなほどの意気に歪める。自らのあごひげをぎゅっと掴んで引っ張っりながらこう命じた。
「では、『水蛇』、必ず半刻で陛下をお救いしろ。『氷河の鏡』が関わっておるとみて間違いない。注意せよ」
持ち場を離れられない苛立ちに身を千切られる思いであるリッティーは、飛び出しそうな目玉に全てを託した。
「御意」
『水蛇』は密やかなさざ波をたてて吸い込まれるように水に消えた。その音はさざ波同様ほのかなものだった。水精の軍の掲げる燐の灯に、巨大な白蛇がすさまじい速さで、聖域の裏へと左回りに泳いでいくのが映し出される。しかしその影は頼りない灯の範疇から抜けるとたちまち、星灯りのみの形なく暗い闇の中に解けて消えた。


「では我々にはもはや打つ手なし、ということなのですか!」
「いや、打開の策は必ずある筈だ。焦らずに考えるべしと言うておる」
「考えれば考えるほど時は過ぎてゆきますぞ!」
「焦りは禁物だ、冷静ならばうまくゆくことも、焦りに飲まれれば途端に失敗を冒す。
そんな風に声を荒げずに相談しようというておるではないか!姿は見えずとも声は聞こえるのだから」
 暗闇に兵士たちの荒げる声が遮るもの無く吸い込まれてゆく。それは砂地に水をまいたようにすうっと消える。壁も天井も床もない闇の底。バーザーの言う様にここは虚無の空間なのだろう。肌には何も感じられない。熱も寒さも湿度も、全てが何もない。兵士たちはお互いの声を、体温を、匂いを恋うるかのように一塊に寄っていた。お互いの声が、熱が、匂いが、唯一世界の存在する証だった。一同の乗る水馬が、尾と首とを密集させて、いななき鼻を鳴らし蹄で拍子をとる。
先程から堂々巡りの議論が続いている。焦るものは暗闇にただ悪戯に声を荒らげ、冷静なものは兄が弟を諭すように諄々と思考の大切さを説く。だが、焦る者にも冷静な者にも打開の策は浮かばない。そうしているうち冷静な者も煽られるように激していく。恐慌の気配は色濃く漂い始めた。バーザーが言葉を尽くして兵士たちを鎮めていた。あの活発なアミンはどうしたものか、先ほどから一言も発さずじっと身を固めている。

レニーは震えてみぞおちの辺りから何度もため息をついた。手の中の手綱をぎゅっと握りしめるその感触。力が入っているところにだけ自分の体が感じられるように思った。目を閉じているのかも開けているのかも分からない、上も下も何もかも麻痺してしまうかのような暗闇。見知った人の声が聞こえなければ気が狂ってしまいそうだ。この様な闇は初めて感じた。月も星も灯りの気休めもない。雪も蛍も鬼火も煌めかない。夜ならやがて明ける。だがここは永遠に閉ざされているという。
永遠…、頭に浮かんだ単語を反芻して、レニーは身震いした。永遠に、未来永劫このままなのだろうか?このままお日様もお月様も見ること叶わず、サニーを助けに行くことも出来ず、老いることも死ぬことも生きることも叶わず、水精の本能に従って大いなる流れに還ることも…。

でもそれはそんなに大事なことなの?
サニーを連れ戻して水精の本能に従うことが。

得体の知れない大きな憤りが意識の裏側からせり出してきて、固い決意の甲羅にひびを入れた。レニーは体の血の温度が水よりも低くなったような気がしてぞっとなった。

レニーの震えを感じたのかメラ号がプルルと言って足踏みをした。レニーの傍らに騎乗していたアミンはさっきから増しゆく残響の微かな違和感に耳をそばだてていた。声の振動が淡いビブラートを伴って聞こえ出したような気がしたのだ。その震えは足の下に水平に広く伸びていた。アミンにはここが完全な虚無の空間であるとは思えなかった。この声の響き方は懐かしいものだ。どこかで見知ったはずの匂いがする。暗闇に惑わされなければ打開策はきっと浮かぶ。アミンはその耳に全神経を集中させた。
 
 「だから落ち着けと言うておるではないか!」

兵士らの荒らげる声に呼応して、湿った蹄の音がかつかつと拍子をとった。

「これが落ち着いていられる場合か!お前も十分に激しているではないか!」

と、こちらでも水馬が蹄を鳴らす。
その響きがアミンの意識に地底に眠る大量の水を想起させた。目を閉じたまま闇に隠れて見えない薔薇色の唇を開く。耳を暗闇に開け放ち、そのかすかな便りに裏付けのしるしを待った。蹄の音は次第に水気を帯びて僅かに雫を滴らせ始める。ちゃぷ、ちゃぷ、ちゃぷ、ちゃぷ…。

アミンは何物も見ることも出来ない目を見張った。今まで慎重に乗ったままだった水馬を手探りで滑り降りる。
「アミン、不要な動きをするな」
諭すようなバーザーの言葉にアミンは輝くような声を返した。
「バーザー様、水です、水でございます。ここの足元に水がたまってきております」
それを聞くや否や、バーザーも勢いよく下馬した。その足に手に確かに水を感じ、それが澄んだ水であることを鼻で確かめて、腹の底に押しつけた、だが僅かに笑みを含んだ声でバーザーは問いかけた。
「ロルム、虚無の空間に水が溜まっているというのは正常なことなのか?それとも想定外の現象か?」
「これは想定外の現象でしょう。虚無の中はあくまでも虚無の空間でしかないと伝えられております」
ロルムの声は上ずっていた。打開の策にとっていいのか警戒していいのか分からないのだ。ロルムの躊躇が伝播した様に兵たちに広まった。嘆きとも期待ともとれる吐息がざわざわと漏れる。戸惑いの心に反応して足踏みする水馬の蹄から雫が垂れ落ちる音がうち重なる。
「この水は何処から来るのだ?」
「こちらから水音が聞こえてまいります」
必死に耳を凝らしていたアミンの声は、薔薇色に染まりゆく彼の血色が見えるかのようだった。
「水の源を目指しましょう。脱出できるやもしれません。わたくしが先導いたします」
「お待ちなされ、まだ水の道が安全とは決まってはおりませぬぞ」
モランが戸惑った声を張り上げる。後に十数名の同意の声が響いた。もはやそれははっきりと水の残響を帯びて聞こえていた。
「いや、行こう」
バーザーが素早く決した。
「私はこの水の可能性にかける。決してはぐれるな」
同意の声が沸き起こり戸惑いの声を圧した。一同は肚を決めた。一塊になって、水に降りたまま馬を引いて歩くアミンの後を追う。はぐれぬように慎重に、意味のない言葉を掛け合いながら身を寄せ合って進む。それはやがて誰ともなしに一つの歌となって暗闇を大合唱で満たした。

「モトバの藍碧 波荒らかに
 船は分け抜く 北海の潮
 水精と魔の間に産まる
 菫の小鳥のシュミノウ様に
 立ちはだかるは黒曜石の
 邪気たる鱗の大蛇
 
 切っ先下段に構えし乙女
 白桃の頬は色を失い
 涙はユテンの河と滔々  
 毒吐く大蛇は乳房分け合う
 双子の姉のグラノウス
 
 姉は魔境の軍に加わり
 妹は八色小鳥の仲間
 長き片刃のをかざし 
 武勇の美名は鳴り響く
 人は呼びたる菫色の
 美まし小鳥のシュミノウと

 『ああ姉様(あねさま)姉様(あねさま)よ、
 疾く疾く家へとお帰り下さい』
 黒き蛇身のグラノウス
 炎火の舌をひらめかす
 『魔と言うだけで怯えつつ
 姿を見れば石投げる
 我が憎きことは地上の民よ
 この身を半分流れる血脈よ
 地上をなべて駆逐せん
 まず手始めにお前から』
 
 黒き蛇身のグラノウス
 炎の舌をシャッと出し
 シュミノウ様の御髪を一筋
 その腹黒き内腑に収めた
 身軽な乙女は飛びすさり
 帆桁に乗って尚も願った
 『姉様(あねさま)我らが母様(ははさま)
 川の涙を流してござる 
 ああ母様(ははさま)に誓いました
 あなたをきっと連れて戻ると』
 
 聞かぬ覚悟のグラノウス
 琥珀の目玉の光は爛々
 狙うはの左の御足 
 後ろに弓なり ぎっと絞って
 水面を蹴って帆下駄を砕く
 シュミノウ様は危うく避けぬ
 左の小指を失いて
 毒は四肢をも危うくす

 白き小鳥のヨギニ様
 胸を抑えて願い出ぬ 
 『友よ 我らに事を任せよ
 血肉の情に目が曇り
 傷つくそなたを見てはおれない』
 『いいえ おびとよ わが友ヨギニよ
 これは私が始末をつける
 私の外に何人も 
 これに始末は着けられぬ』

 シュミノウ様は剣を構える
 炎火の舌をぬめぬめと
 鎌首(鎌首)もたげグラノウス
 一溜め ニタリ 躍りかかりぬ
 我が妹の左の腕を
 喰い千切りそして 高く笑いぬ
 
 シュミノウ様は これまでと
 残りし馬手(めて)で 姉が頭を
 刺し貫いて 悲しく笑う
 『ああ様よ 姉様(あねさま)
 鬼ごっこした 姉様(あねさま)
 我ら命のやり取りを
 遊ぶ定めは何時からだった』

 『氷河の鏡』はその牙の
 隙間にころりとこぼれ出た
 黒き小鳥のアシル様
 この半神の英雄が
 双頭たりし光の神を
 鬼神の力で引っ張り出した
 
 月と太陽ともに登りて
 光明新たな時代を告げぬ
 七羽の仲間は丸くなり
 シュミノウ様を囲みたり
 シュミノウ様は微笑みて
 気高き言葉を伝えたり
 
 『我が天命はここに尽きた
 地上に生きる時は尽きたが
 私はそうは易くは死なぬ
 『氷河の鏡』を任せて下され
 わが身にこれを引き受けて
 この荒海に永久に沈もう』

 そう言い置きてシュミノウ様は
 その身に『氷河の鏡』をめ
 モトバの藍の海嘯に
 沈み今でも密やかに
 地上の繁りを夢みると言う」

それは菫の小鳥シュミノウ様の最後を歌った水精の伝承歌であった。鏡の魔力から逃れることを祈って、彼らは生誕祭の祈りの折に歌い続けてきたこの歌をうたった。アミンの澄んだ少年の声がひときわ朗々と響く。音程はもうゆるぎなく、そのリズムは心地よく、こぶしの濃淡も麗しかった。きっとこのままコラモの師事を仰げば、素晴らしい歌い手になることは疑われない。水馬の蹄の音はどんどん水かさを増してゆく。残響はわんわんと兵士らの歌声を水面のさざ波に響かせる。
滔々と湧きゆく水。しぶきは冷たく一行の脚や腕に降りかかった。水馬の漕ぎゆく水音は皆の心になけなしの勇気を与えた。ああ、「未来」はまだ我らを見捨ててはいないのだと。

やがて、一同の耳にも、さらさらと流れ込む瀬音が、前方からま近くなってくるのがはっきりと聞き取れるようになってきた。嬉しい水音であった。それは涼しく暗闇を突き破り、世界の実在を高らかに宣言しているのだ。水は騎乗した足の先の方に冷たく感じられるまでに水位を増している。
瀬音の前でアミンがいったん止まった。手綱を手放さず、体と腕を伸ばしてその辺りを探った。

「洞窟の入口となっているようでございます」
アミンが告げた。尚も暗闇をまさぐる。レニーの耳にも湿った岩壁をペタペタとはたく音が確かに聞こえた。
「どこへ通じているのでしょう?」
モランがつぶやく。
「いや、だが行くしかない。闇の内部に水が溜まるいわれがない以上、この水は外から来ている、ここが外へとつながっていることは間違いがない」
一行は猶の事一塊になって洞窟へと足を踏み入れた。先頭を手探りでアミンが行く。彼は必ず右の手を岩壁に付け、後に続く者にもそうさせた。道が枝分かれしていた場合、はぐれるのを少しでも防ごうとしたのだ。だがしかし、そこは全くの一本道であった。曲がりくねることも支流を分かつこともなく、ただひたすらに真っ直ぐと伸びていた。

遡るうち水の流れはすぐに緩み、淀んだかと思うと行手の方へと向きを変えた。水の流れゆく方へ、下流へと、一行は歩みを進めた。岩肌はごつごつとしていたが何か生き物の内臓のようなふくよかさを秘めていた。ふっくりした岩肌に相変わらず嬉しく水は駆けてゆく。だが、その音こそは冷たかったが温度の方は段々温くなりだす。湿気を帯びゆく空気が一行の肌にねっとりとまとわりつき、僅かではない量の汗をしぼり取った。どこかで嗅いだことのあるような動物臭い匂いが漂う。
「何の匂いでしょう?」
アミンの問いに、バーザーがつぶやく。
「血の匂いに似ているがどこか違う…」
水は騎乗する一行の膝の辺りで流れている。

レニーはそのやり取りには上の空だった。
暗黒の水、溶かしだすような臭気。彼女は苦い感情の渦にいた。

知りたくなかった、大いなる流れなど。その中に湛えられた水も、天球の星辰も、まるで知らぬ自分でいたかった。世界の神秘も、生きるべき場所も、今までの満ち足りた暮らしに比べれば何ほどのものであろう?こんな得体のしれない闇に彷徨って、あたしは何がしたいのか?そんなにサニーを助けたいのか?そんなにサニーを愛しているのか?それは本当の望みなのか?

レニーの心のうちに真っ暗い波が湧き上がる。それは荒れ狂い、今まで必死に律し保ってきた健気な娘の顔をその裏の恨みの汚泥で塗り替えた。

ああ、サニー、憎い!

 あたしが愛してもらえないのも、尊重してもらえないのも、すべて関心を根こそぎ奪い取ってしまうサニーのせいなんだわ!あたしが小さな雨粒の輝きを発しても、その横にいるサニーが黄金の光ですべての人の目を眩しく覆い尽くしてしまう。あたしが水である限り小さなお日様であるサニーの引き立て役の運命を免れない…。サニーがいることがあたしの不幸の源なんだわ。

サニーさえいなければあたしも無条件に愛してもらえる。サニーさえいなければ窮屈にいい子の殻に閉じこもる必要もない。
本当は何が言いたいのかいちいち察知して先回りしなくても、ミルク絞りを手伝わなくても、ダーダに餌をやらなくても、雨が降っているのにパン種を貰いに行かなくってもお母さんの一番でいられる。好きな時に友達と遊んでもいいし、気が乗らなかったら機織りしなくてもいい、夕ご飯のおかずに注文を付けたって許される。
サニーさえいなければあたしもサニーのおまけなんかじゃなく、一人のまぎれもない友人として扱ってくれるだろう。やりたくもない後始末を率先してやらなくったって、乗りたくもない舟に乗らなくったって、ついでみたいに誘われたり一人でさみしく笛なんかを吹く羽目になんてならないはずなのだ。

 ああ、それにして、この闇はどこまで続いていくの?どうやったら抜け出すことができるの?そもそもあたしは果たして生きて帰れるのかしら?生きて帰れてもこの世はどうなってしまうのかしら?もうすっかりと世界が無くなってしまったようだわ。そうよ、サニーがピクニックに行きたいなんて言わなければ、サニーが舟に乗ろうなんて言わなければ、サニーが神話の舞台に行こうなんて言わなければ…、サニーさえ大人しくしていたら…こんな、こんなことには…。ああ、すべてサニーのせいだわ!

 まっ暗がりの中レニーの心は重心を失ってよろめき崩れそうになった。つじつまが合っていないことにも気づかないほどに。だがこれはレニーの中の「事実」であった。レニーの心の中だけの「事実」。今まで見ないように、見ても無いものであるかのように振舞ってきた「事実」が大きな気泡のように浮かび上がっては弾けてぞっとするような臭気をまき散らした。そうして憎しみそのものの刃がレニーの心を切り裂くのだった。

 ああ、あたしはどうあってもサニーには敵いっこないんだわ…。

 
 チャプ、チャプ、チャプ、チャプ、メラ号が忠実に足を運ぶ。暗闇の中レニーの惑乱にも沈着にその体を運ぶ。
 何時もレニーを引っ張って行ったサニーはここにはいない。レニーの内に満々と湛えた水は光を失い闇に染まる。
 無邪気なサニー、暴力的な魅力に溢れた娘。自分に強烈な犠牲を強いて、ひとりのうのうと眠っている。
 
 気づけばレニーの両頬は熱い涙に溢れていた。
もうサニーのために生きるのは嫌だ。
サニーがいる限りあたしはその水に映った鏡像でしかいられない。
 
 ああ、サニー、憎い、憎い…。


「レニー殿、レニー殿、聞いておられますか?」
モランの問いにレニーははっと現実に立ち戻った。
「この匂いが何であるか覚えがありませんでしょうか?血の匂いに似ていると意見は一致しておるのです。だがどうもそれよりも甘ったるい。レニー殿に心当たりはございませんか?」
レニーは慌てて鼻に注意を傾けて闇にくるまる生ぬるい空気を吸い込んだ。
確かに血に似た匂いがした。鉄の生臭い、そうして生き物の分泌する粘液の粘っこい…。ああこれは…。
レニーは暗闇に赤面して口ごもった。恥じらいが答えを述べることを躊躇させた。
「ええと、あの…、これはきっと…」
「心当たりがあるのなら忌憚なく述べよ。これはここにいる全ての者の命に関わることだ」
バーザーの言葉はぴしゃりとしていた。レニーは口ごもりながらもやっと答えた。
「ええと…、多分、月のものの臭いなのではないかと思われます…」
男の恥じらいともとれる気まずい沈黙が一同の間に横たわった。アミン一人が頓狂にそれは何ですかとバーザーに聞いた。バーザーは答えなかった。去年初潮を迎えたばかりのレニーはきまり悪そうに肩を縮めてそれっきり黙り込む。

ロルムがはっと息を飲む音が聞こえた。
「陛下、もしや、もしやの話です。暗闇の輪郭は固め難く、一つの闇は容易に一つの闇とつながることもあると伝えられております。『氷河の鏡』を反転させた淵は『闇の胎』の上にございました。一つの可能性としてお聞きください。我々が今通っているのは、『闇の胎』の中ではございませんでしょうか?」

生ぬるい空気がねばりつきながら体を溶かしていく気分が一行を侵した。

「では…、では、このまま行けば我らは何処へたどり着くのでしょうか?」
モランの臆した声が洞窟にこだました。
「落ち着け、ここが『闇の胎』と決まったわけではない。それに仮に『胎』ならば出口はもれなくあろうが」
だがそう述べるバーザーの声も平素より若干上ずっていた。

始まりも終わりもない闇である。血の臭いは生暖かい粘着質の空気に夜霧の様に漂っていた。水すらも生ぬるい。その可能性に気づいてしまってからは厭わしい体温を思わせる温もりだ。水から匂いは上がっては来ないがこれは慣れ親しんだジェルドララ様の真水ではない。水精の兵士たちは今まで身内たる水の存在を心の支えとしていたが、それすらも得体の知れない闇の眷属に意味を変えてしまった。ゾクゾクと身を震わせ右手をふっくりとした岩肌に置きただ水が流れ行く先を目指す。行く手は目を閉じたように真っ暗である。それでも元来た方へ引き返す者はいなかった。これは軍の規律ゆえではない。皆、お互いの気配だけを信じ挫けそうな心につっかえ棒をさしていた。群れを離れて蛮勇を侵す者はなかったのである。

「レニーよ、泣いているのか?」
右斜め前を行くバーザーが緊張をにじませた声音で努めて平静に語り掛けた。岩天井からは湿った雫の音が不規則に連なり心の体力を奪う残響が皮膚を鼓膜をわんわんとゆする。レニーは答えることが出来なかった。だがもう溢れ出していた涙の勢いはこの非難とも思いやりともとれる言葉に勢いを増した。レニーは黙ったまましゃくりあげた。
「もしかして怖気づいたか?決して足手まといにはならぬと言うておったではないか」
バーザーの言葉は疲れたように硬かった。水馬たちはうなだれて主たちの絶望に感応し脚を引きずる。水を漕ぎ雫を垂らす音は半ば規則的に響いている。それはまるで惰性の仕業であった。
「バーザー様、あたしは負けました…、サニーに負けました…」
レニーはもうたまらずに本音を吐き出した。何も見えないことがレニーの理性を崩し去った。暗闇に息を震わせ鼻をすする音が響く。
 「サニーを憎いと思うのです…、見捨てて逃げることすら考えているのです。そのことが、たまらなく惨めで情けないのです。あたしがこんな卑劣な保身に窮している間サニーはひたすら純真に、おとぎ話の眠れる姫君のようにあたしを待っているのです…。そのことがあたしの敗北を雄弁に物語っているのです」
 「お前が戦うべきは姉ではなくてムンダリーめであろうが」
 バーザーの言葉は硬い中にも呆れのぬくもりに膨らんでいた。だがそのレニーの涙の叫びに呼応するように一人の兵士がすすり泣き喘ぎながら途切れ途切れ言葉を発した。
 「ああ、それがしも負けました…」
 その言葉につれて一人また二人とすすり泣きの輪が広がっていく。
 「私も負けました…」
 「わたくしもです、わたくしもです…」
 水滴のこぼれる音の中兵士たちの嗚咽の残響が水面に波紋が描かれるようにうち重なった。それはまるで驟雨が来たかのような勢いであった。
 「ああ、リディアに何と申し開きすればよいのやら。あれはそれがしが無事に帰ると信じ切っているのです…。それがこのように武勇を示す機会もなく…」
 「私の母上もきっと今祈っておられることでしょう、一人息子がもう帰らないとは知らずに」
 「わたくしの息子はまだ二つでございます…」
 嗚咽の輪はさらに広がっていく。弱音を吐き出さぬ者も鼻をすすらぬ者もいない有様であった。涙の源のレニーも慟哭した。誰にも聞かれたくないことを誰に言うともなしに思いつくがままに開け放った。
 「あたしはサニーの一番の窮地にサニーを裏切ろうとしているのです…、一番献身しなくてはならないその時に…。きっとこの闇は破れない、あたしは負けました…、そうしたらサニーは邪悪に染まってしまうんでしょう…。何時も世界のきらめきの明るい部分だけを生きてきたサニー、命の幸福と祝福とだけで出来ているような娘なんです。きっとサニーは魔の神となっても輝かしく純真なんだわ!おぞましい闇をまとう代わりに暴虐の光をもって地上を圧するのよ。あたしにはサニーが邪悪となっても到底かないいっこないわ!ああ、サニーかないっこないわ…」
「まだだ!我らはまだ誰一人負けておらん!」
一人頑としてバーザーが言い張った。
「我らはまだ生きている、この心臓はどれも止まってはいない!我らは、自ら光らぬ。光を失えば闇に沈む。この弱音は水精のだ。朝陽が射せば夢と消える幻影だ。賭けてもい、お前たちは後一時後には覇気高く騎乗しムンダリーめに槍をつがえて突進しているだろう」
「そんな保証などどこにある!」
「あなたが我々をここにつれて来たでのはないか!奇襲など思いつかねば我々はこんな闇には迷わなかった」
「そうだ、そうだ!」
行き場のない怒りが闇に放たれこだまし合い、にわかに矛先は彼らを率いる若年の王に向かった。
「鏡まで持ち出して我らの行く手を阻もうとするからには、ムンダリーにとってこれが一番いやな作戦であるはずだ。言い換えれば、これが成功すればすべてが報われる!」
バーザーは声を絞り鉄の意志といまだ熱い意気を吐き出した。だが、憤りの声は大きなうねりとなりすべてを飲み込む勢いだった。兵士たちの野太い怒声の中にレニーの甲高い慟哭が花弁のようにひらひらと響いていた。

「皆様お静かに」
 炎と渦巻く怒りの声を遮ったのはアミンの高く澄んだ声だった。それはきりきりに張られた高い弦のようにびんと張りつめていた。
「伝承によると、闇の裏の夢には水が流れているそうでございますね」
押し殺した声音でアミンが言う。
「そこは夢幻の世界で、未だこの世に生まれていない者たちの魂が、鳥となり蝶となり乱れ飛んでいるそうでございますね。もしや、このまま行けばそこに辿り着くのではないでしょうか?恐れながら、行く手の方が微かに明るくなってきたように思われます」

確かにその通りであった。ほんの仄かであったが彼方に小さく点のように光が射し始めた。それは黄金の色をしていた。午後の太陽のように長閑なものではなく、夢に見る祭礼の炎のように不安なものだった。行く手の闇は徐々に薄まりぼんやりとまろい岩肌が浮かび上がり始める。水は遠くの方で小さく金の波を寄せる。暗闇に慣れた目にはもう既に痛みを感じるばかりに眩い。その輝きの冷たさ!
兵士たちの意気はにわかに消沈した。再び黙りこくり隊列に戻りつつ一定の速度を保って進む。光は徐々に近づいた。丸い形の穴が月の道とそっくりの影を投げかけている。青い空が切り取られている。それは水面に映り、輝く波と濃紺の闇がだんだらに迫る。そうして明るさがだんだんっていく。
更にそれは近づく。水は空色に乱反射している。光の揺らぎが洞窟の壁に映る。初めてその姿を現したすべすべと黒い岩肌は波目を揺蕩わせてまるで生きているようだった。藻や苔の繁茂は認められない。改めて見る水は清く、温くはあっても濁りはなかった。風は一切吹かない。吐き気を催すほど血の匂いは著しくなっていた。戻れば闇のどん詰まり、一行は前に進むしかない。果たしてこの光は外の世界のものなのか否か。

光りが徐々にその腕の中に一行を迎え入れる。皆この道の先に外の世界、太陽照らし出す真昼の森と月に彩られた明るい湖、若しくはヒルド城の食堂のような炎に暖められた心地よい部屋のいずれかを切望していた。隠者の焚く小さな焚火でいい、心を溶かす暴虐の闇から救ってくれるのであれば。
その光は眼前に大きく迫った洞窟の出口から燦然と差し込んでいた。前を行くアミンの姿が逆光に映し出され、空色の眩さに溶け出していく。次々と、なす術の無い水精の兵士たちはその後に続く。レニーは緊張と恐れと僅かの期待にに皮膚をひりひり震わせながら行列の倣いに進んだ。

光りの世界に迷い込んだ一行は息を飲んだ。その次の言葉がなかなか出てこないのだ。やがてバーザーがつぶやく。その声音には当惑の影に覚悟が均等にあった。

「間違いない、ここは闇の裏の夢だ…」

宝玉のように硬質な青い空が丸く天を描いていた。雲の陰りのない突き刺すような明るさ。太陽も月も浮かんでいない。だが、眩い光はその空から、大地から、大地の衣たる草花から、生き物から、湧きおこりしみだして世界を輝かせる。天然のものとは思われない濃密で眩い金色のひかり…。
空は夥しいほどの羽毛と薄翅の海。炎にも似た冠羽の鳥に、純白の新雪を吹き寄せた羽毛の小鳥。縫い取られ翅の揚羽蝶は鱗粉に黄色い光の粒をまとい、ネモフィラのように青い蝶の輝きは銀河と等しく思われるほど。金属のような飛蝗(ばった)は緑のを広げて玲瓏の空に滑空する。てんとう虫のかっちりとした丸みあるルビーの鎧。
いや、そんなものを羅列するだけでは到底すみそうにない。目にとめる鳥も虫も、そのそれぞれごとに姿かたちが異なっている。レニーの目には際限なく、広漠とした大地に溢れそうな種の命の幼体が映った。それらは飛び、戯れ、躍り、混沌のままに繁栄していた。空のドームに彼らの放つ光が宝石をぶちまけたようにみなぎり輝いている。
目もくらむ思いで足元に目を転ずれば、地面は水気の多い尖った草に覆われ、例外なく盛りに開いたままの草花が露を置いていた。罌粟に似た花だった。空を映した色の花弁にうっすりと群青の筋が絵筆で払ったように水の脈を伝えていた。それが見渡す限りに咲き誇っている。
空は雲一つないというのに、地面に這うように濃い霧がかかっていた。霧は桃色の光を帯び、風の一切ない大気の中に自ら形を選んでいくようだった。それは茸のように、または羊のように、頭を平伏させたままうごめきうつろった。その動きは一行の不安を感応したよう不規則に速さを増した。これまで歩みを進めてきた青い水の流れは光る霧の向こう、地面をくねってずっと先へと続いていく。行く手は果てがどうなっているのかは見ること叶わない。
一行は黙りこくったまま流れに沿って水馬を歩ませた。その歩みは小刻みで堅かった。この先に出口があるのだろうか?果たして本当にあるのだろうか?これは夢ではないのか。世界は確かに外側に広がっているはずなのに、まるで自分の内臓をさまよっているようではないか?

大地が揺れた。花々の花弁は揺れ露がはらはらと地面に注いだ。そこから立ちのぼるのは香しい芳香や新鮮な草の匂いなどではなかった。夥しいほどの経血の匂い、胎盤の匂い、女の体液の匂いであった。
嗅ぎ行くうちに酒に酔ったように思考はとろかされ、ただ一つの甘やかな郷愁だけが身を満たした。あれほどまでに想い憎んだサニーのことを忘れレニーは朦朧と考え出した。
「ああ、お母さんが笑っている…」
大気の中にミュリアの気配が漂うように思われた。周りの兵士たちの眼差しも危うくなり「母上」「お母さん」、そんな言葉がため息ともつかぬ息とつぶやかれる。

「闇の裏の夢が正常な状態であるのなら、水は内から外へと流れます。この流れの先に出口がある可能性が高うございます」
アミンは再び騎乗し直しやはり先頭を切って水馬を歩ませていた。しかしその歩みは何時しかぬかるみを歩くよう、細い頸に支えられた頭はがくがくと揺れ金の巻き毛はばさばさと乱れかかる。彼はよろよろと振り向いた。その顔は色を失い、瞳は夢を見て出歩く子供の妖しい熱に潤んでいた。
「アミン、これを一口でも飲むがよい。ヒルドの澄んだ水である。」
そう言って水筒を差し出すバーザーの双眸も狂気を必死の思いで耐えているあやふやな眼差しだった。
「バーザー陛下、有難く頂戴いたします」
アミンは素直にバーザーの水を受けた。目をぎゅっと閉じ顎の周りから雫を滴らせてアミンは一気に飲み干した。周りの兵士らもそれに倣って自分の水筒から水を飲む。
喉が潤されると一行は気が大きくなった。改めて見れば川はその勢いを増し誘うように歌ってきらめく。一人下馬して、足元を瀬って流れるその水を手ですくって飲んだ者があった。
「あまり軽率なことをするでない」
バーザーは叱った。だが、その声にいつもの覇気はなかった。発声は浅くかすれその後で息切れしたようにあえいだ。闇の夢を流れる水を飲んだ兵士は歓びに浮かされて高く叫んだ。
「ああ、それがしは幼き頃にこれと同じものを飲んだような記憶がございます。何であったか?この水を飲むと我が母の在りし日の顔がありありと浮かびまする…、ああ、母上、母上…」

それを聞いた兵士らは彼に倣って闇の裏の夢を流れる水を我先とその軍装の手ですくった。親指から小指から水滴を滴らせて兵士らは浴びるように飲み干した。
「止めよ、止めぬか!」
バーザーが声を張り上げようとする。だが、それは張り切れずにふわふわと抜けた。
 「水は水でも…闇の胎に流れるもの…。どのような、結果になるかわかりませんよ…」
 アミンの声は苦しく、息切れしたようにぼつぼつと途切れた。
 二人の言葉にかかわらず、それを飲んだ兵士たちは元気づきはしゃいで歌った。
 
 「一口飲めば蜜の味 二口飲めば甘露の味で 三口飲んだら乳の味
添い寝の母様(ははさま) 語りし夢の ユリアンチーならここなるや」

 「ええい、止めよ止めよ!」
 バーザーが芯を失った声で辛うじて理性を紡ぐ。それははしゃぐ兵士らの声と掛け合いまるで何かの遊びのように命の幼体群れ飛ぶ空にきゃらきゃらと響く。兵士たちは頑として水を飲もうとしないアミンの頭に笑いながら流れをざばざばと掛けた。アミンは両目唇を固く閉じて拒んだが、幾雫かの水がその体内に注がれた。
 レニーは半分朦朧としてその騒ぎを聞いていた。ああ、家に帰らなくてはならない、お母さんのもとへ帰らなくては。だけどここは暖かで懐かしいにおいがする、まるでお母さんみたいに。ああそうだ、あたしはもう帰ってきたんだった。ここはお母さんの体の中だ…。
流れる水の味に更に魅入られた兵士が空の水筒を満たしてレニーに渡す。レニーの理性は濃密な臭気にとろかされていた。夢見心地でその水を飲む。さらさらと音を立てて草や花に置いた露が一斉にこぼれた。それは水晶ではなく白く不透明な、光沢のまろやかな乳に変化していた。見下ろせば川の流れも人肌の乳の流れである。それはまろやかな岩を洗い、岸のとがった草に口づけし、レニーの心を根こそぎさらっていった。もはや血の臭いは感じず、追慕に甘く郷愁に切ない匂いが辺りを包んで立っていた。
 「馬に乗れ!任務を思い出すのだ、我らは夜明けまでには突破してゆかねばならない!」
 バーザーは一人頑として兵士らを急き立てた。兵士たちは笑いながら、歌いながら、水馬に騎乗しなおすと、うっとりとした目つきでふわふわと行軍を再開した。

一行はのろのろと進んた。時間は麻痺してしまっていた。もはや「ムンダリー」という仇敵のその名すら覚えていない有様。サニーを解毒しに行く使命感も、真実の我が家我が母への郷愁も辺りを包む濃密な乳の匂いにとろかされていた。レニーは瞼の裏に母ミュリアの微笑みを見た。ミュリアはおくれ毛を輝かせ、その露草の瞳は慈悲深く細められた。
メラ号の歩みはレニーの惑乱にのったくったと乱れる。周りの兵士らの馬も同じような塩梅。アミンは半分夢見心地である。朦朧として馬上から危うく滑り落ちそうになるところを寸でのところで免れている。バーザーもがくがく揺れる馬の背に正体なく揺り揺られながら陶然とした目つきで右手を虚空にさし伸ばした。
「ああ、母上…」

忽然として靄が切れた。天を衝く絶壁がそこにそそり立つ。雨も降らないのに黒い岩肌はしっとりと濡れ、やはり女の体を思わせるようにふっくりと丸みを帯びて縦方向に筋を描く。だがそれも一行の目には入らない。先頭を行くアミンが馬ごと崩れ落ちる。続く兵士たちの列もバーザーもレニーも堰を切ったように力尽きた。後には馬が鼻を鳴ら音とそれぞれが幼子に戻って母を呼ぶ声が、池のよどみに浮かぶあぶくのようにつぶやかれるのみ。

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濃密な乳の匂いは夢を見せる。母の両腕の中を独占していた幼き頃の夢。
バーザーは十歳で亡くした母シダルの赤がね色の髪に縋りつく。アミンは湖底の城で料理番としていまだ健在の母ロリアの干し葡萄の匂いのする前掛けに顔をうずめた。
レニーも、咲き染めた少女の意識からより赤子に近い幼児の心に立ち戻り、その甘酸っぱい思慕の全てを幻の母にぶつけた。
幻の母…、理想化され、神格化され、現実の感情のひずみ、一個の人としての怒りも苛立ちも拒絶も行わない、ただ受け入れ、愛し、心を甘い絆に立ち返らせるだけの存在。
それは絵にも言われぬ甘美な罠であった。母の乳房を知っている者が全て持ち合わせる、本能に即した罠であった…。

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七月の七日。
今日は眩しい青空が照りつけるナータン様のお誕生節。ミュリアからたんとお小遣いをもらい、青い晴れ着を着て、幼いレニーは八彩廟の縁日に駆けて行く。真新しいサンダルは今日のために下したものだ。去年はナータン様ご誕生の歌唱劇を見た。後ろから犬を連れたミュリアがゆっくりとついて来る。憂いにも似た慈悲の顔で。
レニーははしゃぎまわる。お祭りの赤い旗だの他愛ない駄菓子売りだのを指さしていちいちミュリアに話しかける。
「ねえ、お母さんあれ見て、人形芝居だって、ナータン様とグラフィア様のお話よ。ねえ、❘も…」
そう言いかけてレニーははたと己が右手を見つめた。
あれ?今までずっとあたしと手をつないでいたのは誰だったっけ?ぽかんとして首を傾げる。
どうして?この手はきちんと温もりを覚えているのに。湿った汗の感触もしっかりと。駄菓子も人形芝居もとたんに輝きを失った。
「お母さん?」
答えを問いかけようとレニーはミュリアを見返った。ミュリアは穏やかに寂しく微笑んでいた。レニーただ一人に向ける笑み。問いはレニーの中に埋もれた。

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「レニー、あなたの機よ。今からお母さんが織り方を教えてあげます」
目の前に真新しい機が一台鎮座している。大型の桜材の足踏み式。そこにはミュリアが張った縦糸が青と白の縞を描いていた。窓の外はどんより、部屋の様子も薄曇りにくすんで糸の毛羽が鈍く光る。
「さあ、ペダルを踏んで、を渡して…」
レニーは大人への修行のときめきに窓に向かってその右側に視線を走らせた。嬉しい時目配せするべきものがそこにあったはずだった。
レニーの笑みはそこで固まる。

ただ黄色い絨毯が敷かれているだけである。

レニーは機の右手前に置かれたサイドテーブルを見た。素焼きのマグが一つ置いてある。壁にかかった帽子を見やる。部屋の反対側に置かれたベッドは一つしかない。

 世界は半分欠落していた。
 でも何が?何が足りないというの?
 お母さんの娘はあたしだけ。
 
 曇っていたってこの部屋はこんなに暗かったっけ?何か輝かしくあたしを照らすものものがここにはいたはずだ。
 この世はもっと美しかったはずだ…。

 問いかけようと母の顔を見上げる。慈悲に輝いた温みある瞳の光。おくれ毛が耳の前ではねている。青白く肌理の整った肌。唇は淡く優しく引き上げられ春の花びらの艶だった。その優しさに引き留められレニーの問いはまたも埋もれる。
でも何故?お母さんとよく似た顔を鏡の以外で見たことがある様な気がするのは…。

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ドク、ドク、ドク、ドク、規則的で温かい音が響く。レニーの皺くちゃの瞼は固く閉じられている。いや、レニーというのは当たらないかもしれない。彼女にはまだ名前が無かった。
温かな羊水に浸り、背中を丸めて膝を抱き、ただ大地の鳴動のような予感だけを夢見続ける卵の中のひよこのような存在に過ぎない。
彼女は自分が独占しているこの温かな小宇宙を、時折かけられるたおやかな声を愛した。胎盤を通じて繋がっている命の気配の、その全てを愛した。
とん、とん、嬉しくて腹を蹴る。あの人の明るい声。「また蹴ったわ」羊水の中でひくひくと笑い、だが、魂の芯から湧き上がる悲しみはその喜びを圧した。

足りない。足りない…、絶対に足りない…。

この頭と互い違いにここに浮かんでいたあれは、一体何処に行ったのか?同じ胎盤に二股のへその緒で繋がれたあれは?あの子は?半身は?

空っぽの右手、もう一つの機、マグ、帽子、ベッド、もう一つの乳房、へその緒…。

あの子もここに眠っていたはずだ。誰が何と言おうと魂が覚えている。瞼を貫いて眠りの中へをも差し込む金の光を、世界への予感に満ちた熱を。
何故消えたの?何故いないの?あたしがあの子などいない方がいいと願ったから?
何ということを願ったんだろう!

光…。ああ光。あの子を失ったあたしは闇に閉ざされた湖。地中深い洞窟の壁に滴る水滴。確かに存在しているのに誰の目にも見えない。自ら光らない。
光はあたしの秘密を知っていた。あたしよりも大きく、ずっと深く、その奥の意図しない醜さも美しさも豊かな光彩に映し出してきた。

いくら心に歓びを蓄えようと、涙を湛えようと、その透明な機微の輝くのはあの子の灼熱の光線があってこそなのだ!

光を、光を下さい。明らかとさせて下さい。あの子の名前、存在、命を…、大地と海を別ったように。あたしはあの子の底に沈みます。ずっと寄り添います。鏡となります。

サ、サ…、ああそうだ!あの子はこういう名前だった…。

眠りに沈む瞼に兆し始めた気配。彼女は名づけられた懐かしい光の名を呼ぶ。闇の底の命の原初に抱きとめる力とは真逆のベクトルで突き上げるように。その声は輝きをまとって小鳥のように飛び立っていった。

「サニー!」

「レニー…」
懐かしい声が響いた。閉じられた胎児の目の裏に、微かに金の光が射し始めた。それは瞼の裏から額へ頬へ、首へ胸へ腹へ、奔流となり全身を満たしていった。輝きはまるでレニーを守護するかのように閉じられた世界の魔力を打ち消した。

「あたし待ってるわ、待ってるから。でも、もう待ちくたびれちゃうかもね」


「サニー!」

レニーは再び叫んだ。瞼は呪縛を離れてぱっちりと開いた。涙が流れて耳の孔へ落ちた。レニーは鼻をすすった。血の匂いのする川床からがばりと起き上がる。見上げれば頭上には相変わらず乱れ飛ぶ鳥と虫の群れ。レニーの目覚めに辺りの大地が不興を買ったかのように揺れる。腰の下ではメラ号が半分目を閉じたまま長い脚を折りたたんでぐったりとしていた。レニーは一瞬の思案ののち自分が何をせねばならぬのか悟る。
「起きて、起きて!」
レニーは声を笛のようにふるわせてメラ号の浅葱色の鼻面を叩いた。メラ号はしばらく目をしばたかせてぼんやりしていた。
「ねえ、起きて、メラ号、お願い!」
やがてメラ号はレニーの心に感応して脚がすわり、そのしなやかで冷たい体に筋肉の張りが蘇ってくる。目には輝きが戻り、耳はひくひく動き、プルルといなないて立ち上がった。
「良かった」
レニーはがくがくと震えながらも深い笑みを浮かべた。

ほっとしたのも束の間、周りを見渡せば一同の馬は皆川床に崩れ落ち、騎乗する兵士らも頭から流れに落ちかかったり、馬の背に抱きついたり、のけぞって髪を川に洗われたりと軒並み全滅な有様であった。
「どうしよう…」
レニーはおろおろと傍らに大の字になって眠りこけているバーザーの頬をたたいたり大声で名前を読んだりした。
「起きて下さい、起きて下さい」
バーザーは「母上」と一声呟いてまた黙り込んだ。泥沼の眠りが支配していた。
馬たちを大股でまたいで先頭のアミンの背中をたたく、髪を引っ張ってみる。
「ねえ、起きて、お願い起きて!」
アミンは安らかな眠りにぴくりともしない。薄い瞼の下で眼球が動き、何か甘やかな夢を見ていることは明らかだった。レニーは手当たり次第に兵士たちの頬をぴしゃぴしゃしたり肩をゆすったり名前を呼ばったりした。「母上」、「お母さん」、「お母さま」、つぶやかれるセリフは皆一様であった。誰一人として目覚めない。レニーの水っぽい瞳には早くも滔々と涙が滲みだした。錯乱の体で声を張り上げる。

「どうしよう…、どうしたらいいの!ああ誰か!誰か起きて!」

レニーは大地に仁王立ちになって拳を握り、鳥と虫のうごめき乱れる天に絶叫した。
頭低い霧の衣に覆われた平らかなる大地は勝ち誇ったようにとどろき揺れて、血の匂いのする露を盛大に振りまいた。
レニーはきっと前を向いて頬をぬぐった。泣いている場合じゃない、泣いている場合じゃなんか…。


「もし、もし、そこに誰かおられますか?」

不意に厚みのある女性の声が響いた。はっとしてレニーは振り返る。一同がたどって来た川が流れてゆくのを目で追う。レニーは改めて気づいた。靄を遮り、つやつやと黒い絶壁が間近に唐突にそそり立っている。その地面との境に、三角の、猫一匹やっと通り抜けられるほどの狭い洞穴が開いている。川はその手前で流れを速め渦巻き、甲高い音を立てて急いでいた。声は確かにそこから響いて来る。
「もし、もし、我が君、バーザー陛下はおわしますか?」

味方だ!とレニーは駆け寄った。しかし一瞬後にはまた考え直す。味方を名乗る敵だったらどうしよう?レニーは思案した。どうしよう?どうする?しかしもうそんな時間の余裕はないことは明白だ。迷いながらもレニーの口は味方である方にかけて、
「バーザー様はここにおられます。あなたは?」
と話しかけた。

「あなたはレニー様でございますか?お姉様(あねさま)を救いに行かれんと勇敢にも同行なされた」
声は落ち着いて潤み、どっしりとした誠意に満ちていた。レニーは直感で味方と決めつけた。
「はい、そうです、そうです、あたしはレニーです。失礼ですがあなたは?」
「申し遅れました。わたくしはラキーナの娘、ゼタ。俗に『水蛇』と呼び習わされております。バーザー陛下の家臣であります。レニー様、バーザー陛下はご無事なのでしょうか?他の兵士たちは?」
「ご無事と言えばご無事です。正体なく眠りこけておられますが息をして言葉を発しておられます。他の方々も同様に」
ゼタの声はやや微笑んだ。
「やあ、それは良かった、ああ失礼、あまり良くはないか…。申し訳ないがレニー様、この穴をそちら側から、一幅広げては下さりませぬか?闇の産道は内側から押せば開くと伝えられております。お願い申し上げます。後はわたくしが引っ張り出します故」

ゼタの言葉にレニーは迷う暇も惜しんで腰をかがめた。胸まで水につかり、渾身の力で穴を広げにかかる。しゃがんで立ち上がろうとする力の全てを、両手と両足に掛けた。指に岩がめり込んだ。軍靴の足は川床を深くえぐった。即座に汗が流れ顔は紅潮する。手に腕に肩にびりびりと痛みが走る。まだまだ、まだまだ足りない。
更に息を吸い留めて再び押し広げる。みしみし、みしみし、岩が鳴り辺りの鳥がざわめいた。僅かに洞穴は開いた。だがほんの僅か。まだまだだ。
レニーは再びかがみこみ、渾身の力をふるう。体の血管が何本も切れたと思った。手足どころか頭までもが熱を持った。川床はさらにえぐれ、だが僅かに、ほんの僅かに洞穴は開いた。
何度も何度も、レニーは全力で押し広げた。柔らかな手はひび割れ血が滲んだ。衣服が泥で汚れる。僅かずつ、僅かずつ、穴は押し広げられていった。指先に引っ掛けた岩壁はそのうち背になり肩になった。また幾度、また幾度、レニーは力をふるった。そうしているうちに穴はいつの間にか広げた両腕になった。穴が僅かに広がる度に大地は震え、露は零れ、水はったように逆巻いた。頭上では鳥が甲高く鳴き、虫たちは翅を震わせてわめき散らした。渾身の力でいきみ、唸り、レニーは穴を広げ続けた。

ぎゅっと閉じた瞼の裏に輝くサニーの笑顔。晴れ渡ったい青空の瞳は心地よく乾いた光を放ち、頬には母親譲りの朗らかなえくぼが浮かんでいる。レニーはその笑顔に向かって心の中で語りかけた。

 サニー、あたしたちは光と水、実体と鏡像、お日様と雨粒なの。あたしは一生あなたにかないっこないんでしょうね。でもそれでいい、それでいいわ。あたしはこれまで幸せだった、これからだってずっと…。あなたの笑顔を映すのが何よりの喜び、あなたの涙を映すのが何よりの悲しみ。だってそうでしょ?あたしは水なんだから。水の喜びとはそういうものなんだから。あなたはあたしの何よりの友達、そうして主神、ひかり、太陽。あたしの輝くのはあなたの光があってこそ。
 今迎えに行くわ、朝日が昇る前に。サニー、邪悪だなんてやっぱりあなたに似合わない。どう考えたっておかしいわ!あんなに純真な笑顔を見せるたあなたが…。
水精の本能、輪廻、それがどうしたというのだろう?あたしはあたしだ。ミュリアの娘レニーは成すべきことを遂げに行く。お母さんが誰を愛していたって、サニーを助けに行けるのはあたししかいないじゃない。あたしの太陽を救いに行くのよ。決して犠牲などではない、自ら望んでそうするのだから。

レニーの足元に、頭上に大地があった。それは幅広く分厚く伸びていた。それはレニーの体を支え心を支えた。大地にたまった全ての水、地下に隠された全ての水、それらもレニーと一体になって唸り、力み、震えて力を振り絞った。
押し広げる穴の先からは、森の薫り立つ風が清かに吹き込んできて、血の匂いを打ち消した。まだ夜の、木々の呼吸の苦しくなるような濃密な気配。一押しするごとにその香りを胸いっぱいに吸い込む。レニーは押し広げ続けた。わが身をこれっぽっちも振り返らなかった。これほどの腕力を発揮したことはないというほど力みいきんだ。

やがて薄ら明るい光がレニーの頬を照らす。
 「レニー様、もう充分でございます」
ゼタの声に目を開ければ、目の前に大きな純白の鱗の蛇が、薄黄緑の目をきょろりと光らせて穴の中ほどまで顔を突っ込んでいた。
「きゃあ!」
「驚かせて誠に申し訳ない。これが『水蛇』の二つ名の所以です。我が身はシュミノウ様と同様半魔でございます。蛇身を取った方が力出ます故、この姿で失礼いたします」
そうゼタの声で喋ると、白蛇は穴を向こうから潜り抜け真っすぐに、川をたどり、馬上に大の字にひっくり返っているバーザーの方へと向かった。
「もし、我が君、バーザー様?」
バーザーは僅かに溜息を洩らした。白蛇、いいやゼタは、その鎧の端を優しくくわえるとずるずると引きずりそのまま穴を超えて外へと運んだ。

レニーはまだ熱を持った頭で一足早く洞穴を出た。メラ号の手綱を引いて、ふくふくと膨らみを持った岩肌を抜け、木々の薫り濃密な外気の中にその身を浸した。外は満天の星がようやく溶け出す時刻であった。薔薇色のルノスの星雲が色を持ち始めた空にその輝きを落としていく。磔刑の女神ベゼヌの星座は西のグラウスのぎざぎざの横顔に半分沈みかけていた。振り向けばマルドの山の向こうから、まだ遠い曙の先触れがしみじみと染み出していた。峰の雪が、雲が淡く染まる。世界の色彩と形は浮かび上がる。辺りの森でも膠のようだった闇は薄まり、さっきまで一塊に暗くうごめいていた森の木々も一本一本が明瞭に独立し始める。

レニーはウロの流れに脚を浸し胸を張って大地を踏みしめ空を仰いだ。水は冷たく皮膚に波立って触れて行った。風は不安ではなく確信をもってささやきかけた。
大丈夫よ、まだ夜は明けていない、星空がちゃんと見えているじゃない。
メラ号が優しくいななく。

蛇身のゼタの働きはすさまじかった。バーザー以外はややぞんざいに、二人三人とまとめて引きにかかる。覇気を無くした水馬を急き立てて引きずり出す。兵士たちはうっとりとつぶやきながら、水馬たちは朦朧と鼻を鳴らしながら、ゼタに引かれて脱出した。その様子は、まるで産み落とされたばかりの羊の赤ん坊のようにずぶぬれで無垢だった。アミンは引きずられながらゼタの白く冷たい首に抱きついた。安らかな寝顔で「お母様(ははさま)」とつぶやきながら。ゼタはあっと言う間に兵士全員とその水馬を運び出したのだった。

一行が脱出した穴は最初に鏡に封印された小さな淵からほんの少しだけ下流へ降った岩の縁に開いていた。それは最後の兵士たちをくわえたゼタが抜け出てしまうと、がちり、と非情な音を立てて再び縮んだ。それを見守る同僚たちの顔はきまり悪くまるで狐につままれたようにとぼんとしていた。まだ救出されて間もないぼんやりとした兵士にはジェルドララ様の清冽な水がかけられ、その流れの中で正気を取り戻した。彼らは髪を皮膚を洗われて夢から覚めたようにおもむろに瞬きした。

「これで全部か」
真っ先に救出されたバーザーはさすがに一番しゃんとして、黒馬の上に端然と座っていた。レニーは大きな目に涙をためて、それをきっと見開いて言い切った。
「バーザー様、バーザー様、サニーを助けに行きます。まだ間に合います。サニーがあたしを待っているのです」

バーザーがまるで失せものを見つけたというようにレニー親しげな瞳を向けた。
「賭けは私の勝ちだな」
レニーは無言で決意を込めた眼差しを返す。
「ほほう、よい顔だ。大人の顔だ」
「はい」
レニーは答えて尚も真っ直ぐにバーザーを見つめた。瞳は潤み、だがその眼差しは強固で星のようだった。バーザーはその目に息をのみ彼自身も強く笑った。
「レニーよ、水中に生きずともせめてお前の姉を救いヒルドが災厄から解放されたなら時々は遊びに来い。湖を干されているのはミュリアでお前ではない。お前とは良き友となれるような気がする」
「私もレニー様ともう少しお話ししとうございます。地上の暮らしのあれこれを伺いたいのです。まったく行軍下では私語にも自由はききませんからね。おしゃべりの私には辛うございました」
アミンの清明な瞳は明け行く光に鮮やかな色彩を取り戻して輝いた。
「はい、きっと行きます。きっとです」
華麗な星空は薄まり空は白々と軽快さを取り戻す。

「さあ、先を急ぎましょう。まだ夜明けまでには一刻ほどあります。諦めてはなりません」
はやるアミンにさすがにバーザーは冷静だった。落ち着いてゼタに問いかける。
「『水蛇』よ、戦況は?そうして『氷河の鏡』のかけらはどうなった」
その問いに答えるゼタの体は黒く染まり縮まるように変化した。黒革縅の玉鎧の上に青く長い髷に結った髪を垂らし、冷たい静かな瞳も蛍石のような黄緑の、右頬に白い鱗が五つ重なる蒼ざめた女性の姿となった。
「戦況はくみし易しと味方が深く攻め込んだところで伏兵に挟み撃ちにされております。はかばかしくありません。夜明けまでに奇襲隊以外で本陣に辿り着けるものはありますまい。鏡のかけらにつきましては、恐らく『闇の胎』に呑まれたものでしょう。わたくしがあの淵で敵兵と一戦交えた際、かけらは淵に落ちましてございます。そのまま気配一つたどれません。伝え聞けば闇は魔よりも古く、全てを溶かし込むもの。今頃『闇の胎』の中で消化されておるのでしょう」
ゼタの言葉に一同の間に声にならないどよめきが漏れた。よくぞよくぞ、助かったものだ。一行は乳の川の中に折り重なった空っぽの鎧の様子を思い浮かべて冷や汗をかいた。
「『水蛇』よ、そなたは我が隊の露払いをせよ。必ず夜明けまでに間に合うように我らを導いてくれ」
「御意」
ゼタが跪いて敬礼する。と、その体は色を変え、白い飴のようにぐにゃりと引き伸ばされる。その白い影は巨木のように太く長く伸び、硬い鱗は冷たく光って全身を包む。一瞬後には先程皆を救った時の大きな白蛇の姿と化した。
「さあ、急げ!」
バーザーの命に蛇身のゼタが腹をくねらせ水と岩を蹴散らかして谷川を駆け上る。一行はすぐさま後に続いた。水馬は生き生きと水を跳ね、水精の兵士たちは生まれ変わったように意気高く手綱を取った。
「それにしてもよく私達があの川床に居ると分かりましたね」
アミンはそういえばというように、不思議そうにゼタに問いかけた。
「歌が聞こえましてございます。川床からシュミノウ様の歌が響いておりました」

雨の娘

奇襲部隊は再び行軍を始めた。先導するのはの女。敵兵は手ぐすね引いたように待ち構えていた。どのような手段によるかは分からないが、レニーの加わる奇襲部隊が闇の胎を脱出してここに至るとあらかじめ知っていたようであった。胡桃の森の陰に、大岩の陰に弓兵が隠れている。赤い鳥の羽を仕込んだ矢が雨あられと降り注ぐ。即座に鉄の盾が掲げられたが二人が水と弾けた。
レニーの腕の力では盾を掲げることは出来なかったが、目で矢の軌跡をにらみ心で宣言した。あたしは死なない、死ぬはずない、あれが当たるはずない、あんなものじゃあたしを殺せない。果たしてどの矢も頭上をそれ行きレニーの体にはかすり傷一つつかない。ゼタは蛇身をしならせ機敏な頭で茂みごと敵兵を薙ぎ払った。その鎌首(鎌首)に土塁は粉々になり、弾けた泥と草木のなきがらが織り交じって堆積する。
弓兵がつぶされると次は歩兵が槍を構えてわらわらと突進してくる。ゼタの鱗はたいていの槍や剣を弾き飛ばした。敵の体は吹っ飛び、さらに積みあがる邪悪な樹精の成れの果て。時に水精の兵士らも抜け目なく応戦する。ゼタの動きを邪魔しないように矢が放たれ、突破してくる敵兵を槍で貫く。

びょうびょうと音立てて頭上を行く矢の雨の中、怒声と苦悶と断末魔の中を、レニーは眼を見開いて一散に駆け抜けた。もう迷わなかった。サニーへ、ひたすらにサニーへ、レニーの道はまっすぐ伸びていた。
あたしの光を助けに行くのよ、あたしの太陽を、神様を!
これは天命だ。宿命も未来も包み込んだ大いなる運命、レニーの星が白銀の指をさしてこの道を命じているのだ!


ウロの小川は丘の中腹で岩走る滝の流れに端を発していた。一行はそれを乗り越え、更にアホームで一番高い小山の頂を目指す。森蔭の伏兵は襲い来る。川は尽きて道はいよいよ険しくなる。辺りは乱戦の体を示し始めた。どこからかたどり着いた友軍樹精の部隊が伏兵のさらに背後を襲った。組みついて掻っ切りのたうち回る両軍の兵士。その中を駆け抜ける奇襲部隊。バーザー自らも剣をふるった。アミンはその草緑の瞳をいっぱいに見開いて、矢の行く方、槍の穂のきらめくさまを目の奥に刻み付けていた。

 ふと風の匂いが変わったことに気づく。酸味を帯びて不快に鼻をつくムンダリーの臭い…。見渡せばぽつりぽつりと黒緑に侵された森の汚点。それは徐々に確実に増えて、ついにはあのどす黒い葉がひしひしと空を覆い始める。レニーの瞳は揺れることを忘れ金属のように固くきらめいてそれを映した。ひりひりと覚悟は深くなり心臓は音高く響く。山の頂上に向かうにつれ木々の茂りは一層重苦しくなる。

 水馬たちの足はついに頂上をとらた。、道はここより一気に下る。密生して茂る葉に、森は未だ夜半の暗さであった。やはり鳥は啼かない、羽虫一つ飛ばない。それは冷たくひしひしと不気味であった。木々の、自然そのものの悪意を感じた。その悪意を具現化したような敵兵が相変わらず潜んで襲い来る。肉厚で黒い下草に突き上げる槍の穂が曙光の光を映した。ついに夜明けはここまで進み来た。ゼタが藪ごと蹴散らかし騎馬のための進路を開いた。一行は三分の二になっていた。水馬の手綱をひきつけ密生した森蔭を小刻みに揺れて下りゆく。前足が着地する振動がレニーの奇妙に冴えた頭蓋にあの雨だれのリズムを思い出させた。

果て度もない行軍。何時襲い来るかしれない伏兵の緊張は奇襲部隊の神経を削った。汗が染みだして軍装の衣は重くなる。誰も何も発さなかったがレニーの頭に歌が浮かんでいた。ジェルドララ様の清き水瓶の歌が。ただ水馬の吐く息、玉鎧のちゃりちゃりと鳴る響きとに重なるように幼い頃より幾度も歌い続けてきたあの歌が流れていた。

全ての水の女王なる
ジェルドララ 天の水瓶に…

どれほど下っただろう?果て度もない闇に思われた行く方から何か輝かしい、金色の光が木の葉の隙間から燦然ときらめき始めた。
「もう夜が明けたか!」
「いいえ、方角が違います。この光は西側から…」
神々しい光、あの闇の裏の夢で見たような閉ざされた感じは一切しない。自然に湧き起りどこまでも広がる本物の太陽のような彩り。森の最後の分厚い葉影が頭上に尽きる。視界はすべて眩さに覆われる。明けの先触れたようなそれはもろ手でレニーを迎え入れる。溢れ出す黄金の奔流、レニーはその只中に夢中で飛び込んで行った。

視界が大きく開けた。眼下に広がる水の段々。光の色の違いように一瞬戸惑うがすぐに理解する。ああ、ここは聖地だ、神域の中心、あの泉の流れる丘。レニーたちは水馬を泉の中に駆って流れ落ちる水とともに駆け降りる。
純白の岩に清らかなの水が輝いていたその泉の丘に、真昼の太陽を間近にした様な黄金の光が暁闇を突き破って燦然と反射している。その色は今射し染める暁の赤と混じり合い、流れ落ちる水はさざ波は一面の朱金。レニーは咄嗟にその光源を目で追う。あのムンダリーのテントがあった半島に黒い糸杉の葉を積み重ねて小さな露天の祭壇が作られていた。周りには数多のかがり火が焚かれている。その灯りは中央に敷かれた白い敷布の上に眠るこの光の源に昼の月のようにぼやけていた。静かに、厳かに、彼女は眠る。純白の衣も神々しく頬の輝きは来る六月の薔薇の香りと匂った。
 
 「サニー!」
 その額はすでに明るく生気を放ちもう先程の蒼白さは全く感じさせない。内側から力みなぎり爆発の前の静けさにぴんと白い皮膚が張り詰めている。
 周りでは妖しげな踊りの輪が開いていた。獅子を象る金色の仮面をつけた兵士がかき鳴らされる弦と太鼓に身振りを合わせる。サニーから溢れ出る輝きは鈍い光沢の面を輝かせ、胡粉の塗料にぎょろりと剥いた眼は複雑な陰陽を帯びる。踊り手の振りかざす剣は光の弧を描き、刃を打ち鳴らすその響きさえもが黄金のきらめき。人々は腰をかがめ、低く辺りを見回して、大きく足を踏みしめて、跳ぶ、跳ぶ。
 
 「レニーに進路を開け!」
 バーザーが叫ぶのとあちらがこちらに気付いたのはほとんど一緒だった。ゼタが一直線に祭壇に飛び込み、その進路にあるものすべてを薙ぎ払った。バーザーの精鋭は瞬時に隊列を正した。ゼタの後ろから錐の様に鋭角に踊る異国の一団に突進した。

 面が飛び、頭が飛び、剣を握ったままの腕がちぎれ飛ぶ。それはまだ踊りながら空中に振りまかれ地上に落ちるときにはもう腐っていた。ゼタが叫んだ。
 「レニー様、わたくしの体の上をお通り下さい!」
 躊躇の間もなくゼタの長い蛇身をメラ号の青い蹄が駆け抜けた。白い道は真っすぐにサニーへと続く。錐のような隊列は武器をふるいゼタの上への障害物を一切取り除いた。風のようにレニーは祭壇の縁へとたどり着く。ゼタの頭の上を降り、水馬から飛び降りてサニーの傍らに跪く。おののき震える胸を押さえて身を乗り出す。

 サニーの寝顔は何かを企んでいる時の表情であった。起きてまず悪戯しようと思っている時、サニーはこんな顔つきで眠っていたものだ。朝焼けに隣のベッドに横になったサニーを、レニーは幾度戦々恐々としながら見つめてきただろうか?
 「良かった、また会えた…」
 サニー、サニー、あたしたちまた一緒のお部屋で暮らしましょうね…。
目に浮かぶ一粒の涙。その雫さえ朱金を帯びる。東の方、深い藍に沈んだマルドの稜線に空との境が赤く燃えている。太陽はもう頭半分ほど顔を出している。強大な曙光がサニーから漏れ出る光と入り混じり、水精方とモラウラリア方のかち交える刃に綺羅々々燦々と輝いていた。

「サニー、サニー、さあこれを…」
 
レニーは胸に下げた小瓶の栓を外そうとした。だが日の足の速さがその指をせかす、眩さがおののかす。わくわくと震える手は強ばりレニーの意のままに動かない。後ろでバーザーがしきりに叫んでいる。
「ムンダリーは何処だ!ムンダリーを探せ!」

剣戟の音と怒声が耳を覆う。鳴り響く火花が散って弾ける。祭壇の周りは死闘の舞台となった。いったん払いのけられた敵兵は隠れていた辺りの森蔭から現れ、死んだ仲間の体を踏みつけて奇襲部隊を囲み込んだ。彼らは厳しい攻撃でこの逆転勝利の仕上げを脅かす。祭壇下で味方が必死に槍で防御する。敵もさるもの、その斬撃の鋭さはしっこさは水精の兵士たちの攻撃の正確さと互角だった。モランがレニーめがけて突進してくる敵兵を薙ぎ払ってその背後を護った。ゼタが鎌首(鎌首)もたげ一気に三人払い飛ばす。暁に透明感を増した篝火が下草に燃え広がり、緋色の火の粉と黒くたなびく煙は目に喉に痛い。
「レニー様、しっかり!」
どこか近くでアミンの甲高い激励も聞こえる。
レニーは深呼吸した。必死に強ばりを克服しやっとの思いで栓を外す。半分以上顔を出した日の輪郭はまだ峰を離れてはいない。レニーはほっと溜息をついた。まだ震えながらサニーの朱鷺色の唇に瓶の口を近づける。

 わくわくと震える手。その下から松の表皮のようにひび割れて骨ばった手が祭壇の葉くずを散らしてずぼっと現れた。氷のように冷たいそれはレニーの蒼ざめた白い手に重ねられ、血の通わぬ強さで引き留めた。
 「それはならぬ」
 ムンダリーの声がぞっとするほど近くから聞こえた。それは祭壇下からぬっと出た。巨大な黄金の五つある縮れ毛の仮面の頭。レニーの背にぞわっと怖気が走る。非情な力でレニーの手を押しとどめたまま、杉の葉の間から、葉屑をばらばら散らかして、その全身が次々と現れた。カラスのように黒く、糸杉の葉のように破れた衣を纏ったムンダリーである。
向き直ったモランが慌てて上段に剣を振り上げる。ムンダリーはそれを見もせずに左手で払った。風圧か、魔力か、モランの体を向こうの立ち木まで吹き飛ばす。モランは木の中ほどにたたきつけられて滑り落ち、唸ってそこで動かなくなった。
ムンダリーが一際大きな黄金の仮面を外す。そこから青白い、仮面よりいっそう仮面めいた素顔が現れた。金の瞳は開いた瞳孔の中に怒りに震えるレニーの姿を映し出す。唇に浮かべた微笑は冷たく酷薄で淡い緑色の前歯の尖ったのがのぞいた。。ムンダリーは口の端をさらに醜く歪めてレニーの柔らかな手をぎりぎりとねじり上げた。鬼神かと思われるほどの念力だった。血が虚しく土へと流れ落ちる。痛みにレニーは悲鳴を上げて、不自然に傾いだ姿勢のまま硬直した。

 「レニー!」
 バーザーが叫んだ。助け寄ろうとするも大木を思わせる不自然に腕の長い巨大な兵士が、彼と四人の親衛を片隅に押し込んでその破壊的な槍は容赦なくざんざんと注ぐ。五人は必死に応戦するものの、辛うじて死に至る傷を免れ得ているというさまであった。ゼタが身をくねらせて駆け付けようとする。その背には槍と剣とが突き刺さり白い蛇身に赤く血が流れ落ちる。駆け寄るしなゼタは燃え盛る篝火をくわえてムンダリーに向けて振り回した。金箔のような火の粉を散らして、炎は朱色の弧を描く。ムンダリーはそれを嗤って避け、レニーの手をつかんだまま目標が逸れて力泳いだゼタの左の頭に強く蹴りを入れて転がした。

 東のマルドの山の頂上が赤く染まる。日はもうすぐその縁を離れる。

 怒りと憎しみの全てを込めてレニーは叫んだ。
「どうしてサニーを、あたしたちを放っておいてくれなかったの!」
 「文句があるなら『宿命』に。何よりお強い地上の民よ、自ら『未来』を選んでみられよ!」
 ムンダリーは歌う様に言って声を転がして笑った。

 太陽が今しもマルドの山の縁を離れて空に浮かび上がり始めた。

光が退く。消えたのではない。今までサニーから放射されていた痛ましいほどの光の奔流がすうっと、その華奢な体の内に収まっていったのだ。サニーの寝顔の安らかさ、蕾の開く前の静寂がそこにあった。
 そこから表情はずんずん生気を増しゆく。放射していた光を自らの力に変え、サニーの命はなおさらに燃え盛る。大地に比類ないほど輝かしい寝顔。だがその表情は苛々と、きりきりと、底知れない怒りに光り輝く。怒り…、憎しみ…、サニーの憎しみは何に向けられたものであろうか。

 「サニー!サニー!」
 レニーは半狂乱に叫び続ける。

 青空の瞳が開いてゆく。金のまつげが影を揺らす。口の端が引き上げられる。
 サニーは微笑を浮かべた。瞳を横に向けてレニーをみとめると、気だるそうに起きあがった。額に垂れた黄金の髪を人差し指で払う。

 「起こしに来てくれたの、レニー」
 「サニー、サニー、あたしが分かるの?」
 急に腕を放されて痛みに燃える腕を押さえ、祭壇の下にうずくまりながらレニーは叫んだ。
 ああサニー、サニー、あたしのきょうだい!
 サニーはゆっくりとした動作で祭壇に腰掛けた。口元をほころばせ、一晩で十も大人になったみたいにレニーに艶然とした笑みを向けた。その瞳はどこまでも乾いていた。
 「分かるわよ」
 「サニー、うちに帰りましょう。お母さんも心配している。それにあたし、あなたに話しておかなくてはならないことがいっぱいできたの。相談に乗ってね」
 ああ、サニーがここにいる、あたしに言葉を向けている…。レニーのやっと表面張力を保っていた瞳は、堰を切ったように涙に崩れた。お願い、お願い、何事も変わっていないと言って!邪悪なんかに染まっていないと!
 
 サニーは鼻の付け根に皴を寄せた。上唇をかっと歪める。そのとき白い歯がのぞいた。見慣れぬ犬歯の鋭い輝き。

 「誰が相談に乗るですって?憎くてならないあたしの半身」

 レニーは濡れた目を見張った。朝に夕に、見慣れた姉の顔は憎悪の光に燃えている。それは憎しみではあっても少しも陰湿ではなかった。雲一つない晴天にからりと輝く注ぐ黄金の憎しみ。その空色の瞳から放たれる悪意は紛れもなく自分に向けられている。レニーは涙を頬にくっつけたまま凍り付き、唇を震わせた。

 「光の御子様、さあこれを」
 ムンダリーが取り上げたのは、枕元に飾られていた諸刃の剣。暁に炎の様に照り映えるそれをまるで巫女のように衣の袖に重ねた白布の上に乗せて差し出した。
 「悪くはない一振りね」
 そう言ってサニーは赤の革細工の柄を無造作に手に取った。左の手で顔に落ちかかる黄金の髪をばさりとかき上げる。ドスッと今まで横たわっていた祭壇に剣を刺して、サニーは立ち上がった。

 レニーは悄然とサニーを見上げた。マルドの山並みが橙色に燃えている。それを浴びたサニーの髪は深い藍の天頂に輝くまるでユテン川の砂金。脳裏にシュミノウ様の絵姿が閃いて消えた。「あたしがこんなことする?」遠い記憶のサニーの言葉も蘇る。

 「サニー、何をするつもり?」
 「何って、殺すの、あんたを」

 ピー!
 バーザーが鋭く口笛を吹いた。ひひんと高声に叫んだのはメラ号だった。先程からレニーの後ろで、血生臭い光景にも動じる事無く四つ足でじっと立って見守っていたものが、それが今いなないて自分はここに居ると伝えた。
 「レニー、逃げよ!」

 バーザーが叫ぶ。レニーは一瞬戸惑ったがすぐに起きあがり振り返ってメラ号に駆け寄った。その背中に、ムンダリーの節くれ立った手が伸びる。
 「レニー様!」
 一体どこに隠れていたのやら、飛び出してきたアミンがムンダリーの腕にしがみついてその白い歯を突き立てた。急に重みを増した腕にムンダリーがかまけた隙に、レニーはメラ号の背に飛び乗った。
 バーザーが再び叫ぶ。
 「天上へ行け、天の精霊たちに助けを乞え!」
 レニーには躊躇も思案の余裕もなかった。
 「お願い、天上まで!」
しがみつく背中。再びレニーはその脚力に身を委ねる。メラ号はまるで螺旋階段をを駆け上る様に、空中にタカタカッ、タカタカッと蹄を置いて駆け上がった。徐々にその速度は勢いを増す。

レニーは案じて地上を見下ろした。泉は朱に覆われ菫の影を宿している。槍の切っ先、剣の刃、輝くものの色はすべて夜明けの色を映していた。火はなめるように燃え広がりその煙も薄紫に染まる。両軍の兵士らが張り上げる怒声、悲鳴、断末魔のうねるようなな響きが輪郭もなく広がっていた。凄惨な戦場の片隅にサニーがうつむいて祈るようなしぐさを見せた。白熱の光がその体に渦巻くのが感じられる。と、

バサリ、

 サニーの背に現れた純白の翼。それはわず一瞬で羽化したてのおぼつかなげな気配を脱ぎ捨てる。朝陽に染められた雪の様なそれはゆっくりと、また速度を上げて羽ばたきだす。巻き起こす風に金の髪はなびく、右手には炎と燃える刃、サニーの体は宙に舞った。そのまままっしぐらに剣をかざしレニーめがけて飛び上がる。その顔は紅潮しにっこりと微笑んでいた。
 
「レニー、レニー、ちょっとお待ちなさいな」

 太陽が昇りゆく。昼の王者は金に輝く。マルドの稜線から朱、だいだい、くちなし色と壮麗に描かれる光の横縞。それはやがては縹に転ずる。空色続く藍色と強まり、瑠璃群青の天頂へと途切れることなく移ろってゆく。果てることない空の深淵。清朗で静かなる青は非なるや思っていた湖の深みの色に似ていた。昇ってゆくのか沈んでゆくのかレニーはふと分からなくなる。
 見下ろせばサニーの生き生きと燃え輝く瞳。リュリオンの劇場で歌唱劇に熱狂した時と同じように純真はつらつと光る命。
やはりそうだ。サニーは光の子。邪悪と染まっても暗闇とは無縁。その溢れる暴虐の光をもって地上を、あたしを圧するのだ。レニーの胸には感嘆が湧いた。そうだ、こんな子があたしのお姉さんなのだ…。

みるみる地上が小さくなってゆく。その水の性を外れてメラ号は風に変じたようだ。水馬の飼い葉は苔だという。たてがみから水苔の青々した匂いが香った。小刻みな振動、またあの歌が浮かぶ。レニーは振り落とされないよう手綱を握り直し上方へと強く念じて前に向き直った。最後の星が蒼穹に消える。

 もう既にヒルドの湖も水溜りのようになった。湖畔に広がるも森もまるでハンカチの縫い取りだ。
 ああ小さいわ、あたしたちの世界はこんなにも小さかったんだ。見上げ崇敬してきたマルドもグラウスも足の下、尖塔が赤く目覚めるリュリオンはまるで玩具だ。こんなちっぽけな街に何万との人たちが働いて食べて笑ったり泣いたりしているなんて。
水馬は見たことの無い速さで駆け上がる。増してゆく寒さにレニーの肌は凍えた。だが、緩めるわけにはいかない。神の子サニーの飛空は初めてとはいえ水馬の翔りに一歩も譲らない。
「レニー、待って、ちょっと待ってよ!」
笑みに怒りを含ませた声に乗って、レニーの髪に幾度となくミュリアの焼いた干し葡萄パンの匂いの息が届いた。
 
 「サニー、どうしてあたしが憎いの?」
「どうしてもよ。解らない?お母さんはあんたしか愛していない。あの『黄色いお家』であたしだけが別扱いなの!」
「嘘よ!お母さんが愛しているのはサニーだけ。サニー、あなたはセクィナ様の娘だわ。だからお母さんは、神であるあなただけを愛しているのよ」
 「そんな話知らないわ。いい加減なこと言わないで!」
 「本当よ、あたしもさっき聞いたばかりなの。あなたは太陽の娘で神様なの。お母さんも本当は水精で、あたしもそうなの。あなただけが特別なの。ちっぽけで命限りあるあたしとは、あなたは全く違っているんだわ」
 「特別なら幸いだと限らない!」
 サニーは声荒らかに激高した。雷鳴のようにそれは響いた。
 「みんなに愛されるあなたには、あたしの苦しみなんてわからないでしょう」
 「みんなに愛されているのはサニーの方だわ!リーナもカーデルも、アダンもリットンも、みんなみいんな、あなたにこそ惹きつけられているじゃない」
「それはそうあたしが見せかけているからよ。心の奥底ではお母さんもみんなも、あんたの方を頼りにしている.。それにあたしがもし本当にセクィナ様の娘で神なら、どうあがいても未来を選ぶことは出来ないじゃない…。いくら念じても、女優にも母にもなれないんだわ…」
 サニーの声は不意に嗚咽を抑えて膨らんだ。
 「サニー、あなたが望む結果となるよう、あたしがあなたの未来を選ぶわ。あなたのために生きるわ。あたしの主神はあなたなの。だからお願い、あたしの血を飲んで欲しいの。一緒に生きてね、お願いよ!」
 「そんなセリフ、あたしに向かってよく言えるわね。姉妹で一人だけ恵まれたあんたに何が解るっての!あたしは…、あたしはあんたが憎い…」
 レニーの涙は頬を突っ切り下へ下へと流れて切れて行った。
 「サニー、白状するわ、あたしもあなたが憎かった、地の底で、見殺しにしようとさえ思った…、でも、でもサニー、あたしを呼んだでしょう?目を覚まさせてくれたでしょう?」
 「何の話よ!」
「あたし嬉しかったの、嬉しくて泣いたの…、あなたの存在そのものがたまらなく嬉しかった…。ああ、あたしあなたになんて謝ろうかって思っていた…。でも、お相子だわ、サニー、あたしたち等分に憎くて愛しいのよ!あなたも思い出してサニー!」
「思い出すことなんて何もないわ!」
「思い出すまであたしが何度でも名前を呼ぶから…、サニー!サニー!サニー!」
 レニーが天を見上げながら裏声でうったえかける。サニーの声はなりふり構わずほとんど絶叫となっていた。
 「黙れ、黙れ、黙れ!あんたが憎い!」

 堂々巡りの議論はまるでくるくると天へ駆け上る今の二人の姿のようだ。何処まで行っても結着地点はない。二人は相争い、言葉にならない思いを涙にしぼって蒼穹の果てへと吸い込まれてゆく。
 すでに地上の森も湖も芥子粒となった。もう村も町も判別がつかない。空だけが変わらず果てしない深淵を天に湛える。だがその群青も淡く薄まりゆく。朱の曙光も晴れやかに乾いた。無限の熱量の昼が、世界に普くもたらされる。

 真っ白いものが二人の周りにぽこぽこと浮かび始めた。それは風に流れ天のただなかを浮遊していた。雲である。それははぐれてはやがて結びつき、昇りゆく二人の周り、空の海を漂う大陸の様な密雲となりその霧の粒の中に姉妹を飲み込んだ。その激しい冷たさにレニーの肌はなおのこと凍える。レニーは視界の利かないここでサニーに襲われることを危ぶんだ。だが、猛り狂ったサニーは声で自らの居場所を教えた。
 「レニー、憎い、憎い!」
 密雲の中でサニーが涙ぐんで叫んでいる。真白い翼に風を起こし切れない雲を切り刻む。振り慣れぬ剣に体はぶれてよろめき大振りに回される刃はいたずらに空を切る。その風のうなりにサニーの表情がありありと浮かんだ。レニーの涙は雲の海に散って溶けた。太陽を見上げるあの屈託のない瞳が思い出される。

 「サニー、あなたを助けるためには一体どういう方法をとったらいいの?」

 視界は突如碧天のきらめきに覆われた。雲の海を抜けたのだ。眩しさに慣れず目をしばたかせてレニーはなお一層メラ号にしがみつく。目指すのは蒼穹の果て。でも空に果てなどあるのだろうか?この空はどこまで広がっているの?さっきまで輝いていた星たちはどこに眠っているの?浮かんでは足早に去っていくやけにのどかな疑問たち。天上に行けばジェルドララ様に会えるかしら?お父さんに会えるのかしら?レニーはただ天上を見つめ続けるる。ただ天だけを目指す。サニーはレニーを追う。ただレニーだけを目指す。その間隔は縮まりやがて延びまた縮む。

 ふと距離を測るため見下ろしたレニーはあっと声を上げた。

 庭園?

深紅の薔薇の生垣が見えた、杏子の花咲く小道も。造られた小川は縫うように流れ、丘の頂をネモフィラと蒲公英が覆い、谷間には百合とシクラメンが咲き競う。藤の絡まる桜の下にはマリーゴールドが輝き、その周りに揺れているのは秋の乙女コスモスか!たくさんの花々が季節の縛りを逃れて、まるでそれが野生のお花畑であるように一斉に咲き誇る。春の若草、秋の紅葉、木の葉も草も春夏秋冬すべての色を兼ね備えている。オレンジの森も見えた。葉陰に太陽の実を滴らせて。
いいや、それはほんの一切り取った様子に過ぎない。更に昇りゆくレニーの目は知る。辺りにはそれとは別の全く違う趣の庭園が連なっていた。粋なもの、侘びたもの、典雅なもの、豪奢なもの、持ち主が趣向を凝らした庭の数々がまるでクロスをつなげたように広がっている。
それぞれの庭園の中心には、巨大な白や薄桃色のの彫刻で飾られた大きく古風な御殿が、白さを増しゆく陽に温かく半透明な輝きを反射させていた。屋根飾りの極楽鳥の細やかな造形、広い日差し豊かなバルコニー、とがった角度の尖塔の林。それはヒルドの水中宮殿と二重写しになって眼下に広がる。レニーは直感した。
「ここは天界だわ…」
天の神々の権勢と技術で持ってこの絶景は創られた。レニーはほんの一瞬身の危険を忘れそれに見入った。バーザーは天の精霊に助けを乞う様に言ったがただ小鳥のさえずりがかますびしいだけである。神々は未だ浅い眠りに揺蕩っている。


 「レニー、さあ大人しく貫かれなさい」
 声に狂気をにじませて、と笑ってサニーが叫ぶ。もうメラ号の足のすぐ下。サニーは翼を大きくしならせる。片手から両手に持ち直し、少しだけ上がった精度でレニーの頭めがけて剣を振り下ろす。メラ号が左に旋回して速度を上げる。刃の空を切る音が鳴り、断ち切られて地上に降りまかれる一筋の髪の毛。また一振り、また一振り、右に左に剣が鳴る。レニーは危うく身をかざし、東の方へと逃れて駆けた。助けを呼べる精霊はいないか。天界の地表から遠ざかることは不利と悟った。レニーは天界の大地と平衡に尚も逃げる。

 東に向かって振り向いたとき、角度を上げつつある太陽の真下に光を屈曲させた透明な輝きがその目を射抜いた。それは麗しい庭園の色彩の中に何の予告もなく現れた。レニーは直感した。
 「こっちよ!」
 天の地平の彼方から清冽な光を放つ「何か」が近づいてくる。それは遠目には壺状に見えた。腹はふっくりと丸く下までどっしりとしたフォルム、ツイロン製の素焼きの土器のように両側に耳がついている。この距離でこの大きさ!咄嗟に推し量って唖然とする。まるで山のようではないか。レニーは引き寄せられるように向かった。近づくにつれそれは広大に目を覆う。まるで透明な光の瀑布だ。そこににじむ光は揺れ、踊り、不規則に流動している。レニーは懸命にメラ号を駆る。何か確信のようなものが心に育った。光の絶壁が見る見る近づいて来る。
 それは玻璃で出来た巨大な水瓶だった。透明な地に藍の流紋が走り、切子の直線で睡蓮が表現された瓶の中身にはなみなみとした水。壁面に映えるプリズムの虹、それは天の微風に立つ漣につれて鮮やかな光彩を揺らし、優美なカッティングに陽光が踊りきらめきを散らす。

 「天の水瓶だわ」

 全ての水の女王なる 
 ジェルドララ天の水瓶に…
 
 レニーの中に流れるわらべ歌の旋律は一層輝きを増してゆく。ああこれが名にしおうジェルドララ様の雨の倉庫…。
 
そのときレニーの頭には忽然として恐ろしい閃きが落ちた。
 「そうだ、この方法を使えば!」

 レニーは決死でメラ号にに念じた。
 「お願い、上へ!」
 もう迷う猶予は残されてはいない。メラ号は水瓶の外壁をほぼ垂直に駆け抜けた。そのまま十程上空へと翔りゆく。澄んだ空、青空の高いところの色、レニーは天上見えなくなった星に問うた。父に、母に、自らの内に湛えた水に問うた。
 
 「これで本当に良いのでしょうか」

 水の深淵にも似た天頂の青。天は「よい」と言った、笑ってレニーの計略にうなずいた。そこから吹き下ろす微風を額に受けレニーもまた微笑む。メラ号は急激に右回転する。その頭があった場所にサニーの剣が振り下ろされる。身を翻し、大振りの動きに隙だらけのサニーの後ろへと回りこむとその襟首をぎゅっと掴む。そのままサニーを引っ張りまっしぐらに下方へと水馬を走らせた。
 景色が反転する。天の大地と水瓶が二人の頭上にある。水面が真っ逆さまにすさまじい速さで近づいて来る。

 ザブリ!大きな水柱が立つ。朝のしじまにとどろき渡る水音。浅葱に白く波の花を立てて、二人の体は吸い込まれるように深く飲まれた。視界を一面に覆う白いあぶく。レニーーは懸命に目を開けた。

 サニーは衝撃でしばらく目が開かなかった。大きく気泡を吐いて水を飲み闇雲に剣を振り回す。光の子たるサニーは水の中では自由が利かない。その斬撃は宙にあった時よりも大幅に鈍い。レニーはメラ号に念じた。
 「ありがとう、もういいわ。さあ、お行き」
 
メラ号が水面の方へ駆け行く。レニーは改めて感謝をつぶやいた。美しい湖底から得体のしれない闇、そして天上までもこの体を運んでくれた忠実な友。あなたがいなかったらあたしはたどり着くことが出来なかった。その浅葱の影が水面のきらめきへとゆっくり消える。それを確かめながらレニーはこれから自分がなすことを思い出して身震いした。
やがてサニーが視界を取り戻してこちらへ向き直る。唇は嫣然と吊り上げられそこから細かく漏れ出る気泡、その眼が狂犬の様に炯々と光る。レニーは覚悟してきっと前を見据えた。
 サニーの唇がにたりと歪み、その裂け目から不気味な犬歯をのぞかせた。そのままレニーの襟首を掴む。そして右手の怜悧な剣でその首筋を一息に切り裂いた。

 噴き出す鮮血、赤く、赤く染まる水。夕日より激しく、葡萄酒よりも濃く、レニーの首の切り口からは血潮が奔流となってほとばしった。それは二人の周りの水の対流に沿って、深紅から薔薇色から赤の領分に属するすべてのグラデーションを作り滲んだ。後から、後から、流れ出て水を紅に染めていく血。
 サニーは狂喜に顔を輝かせた。その目は嬉々として見開かれレニーから溢れ出す紅の滲みをとらえた。レニーの体からは力が抜け、二人が飛び込んだ勢いの水流にその身を委ねてゆらり揺らいだ。サニーは大きく口を開けて嗤った。高く、高く、嗤った。その口からがぼりと抜ける気泡。そうして代わりに血に染まる水を勢いよく飲みこんだ。

 刹那に狂気は消えゆく。サニーの中の光はその色を変えた。砂漠の太陽が初夏の朝の晴れやかさにに切り替わるように、憎しみの業火に燃えていた瞳はすっと静まった。元の通りどこまでも高く澄んだ青い輝きがサニーの双眸に甦る。
 
 サニーは今しも長い夢から目覚めた。その夢の中ではサニーはがんじがらめだった。愛は憎しみと化し憎しみは増幅された。感情のままにふるまっていても心は殺されていた。泥をなめているかのように苦々しい精神の眠り…。その悪夢から今放たれたのだ!
 そして目覚めてすぐに見たものは、首から夥しく血を噴出して虚ろに目を見開いた妹の姿だった。
 
 サニーは信じられないと唇を震わせた。何故?何故?何故?あたしが?あたしが?レニーを…。
 
 温もりを取り戻したその表情は凍り付き、瞳が絶望に見開かれる。その体はわななきがたがたと震える。レニーの目は水面へ向けられ、何か陶然と一点を見つめていた。

レニー!レニー!レニー!

サニーは一際大きな気泡と共に絶叫した。それは高く高く天をつんざき、また周囲の水や地上にまでも激しい音の波となってびりびりと響いた。

 矢のように、その波動は世界を打った。天上の大気がざわめく。雲の大地が鳴る。辺りの庭園から鳥たちが一斉に飛び立った。水瓶の水はサニーの絶望に鳴動し沸騰した湯の様にごぼごぼと泡立つ。サニーの体から眩い金の光が溢れ出る、混乱に揺れ動く不安定な波状を描いて、。

 山が崩れたような轟音が鳴り響いた。サニーから放たれた波は水を揺らし、更に激しい振動となり天の水瓶をも粉々に破壊した。光り輝きながら水と一緒くたになって、その破片は白く熱っぽい宝石のようにきらめいて天の大地から地上へと流れ落ちていった。

 崩れ落ちる積載の水。その奔流の中にレニーはしろがねの髪の麗しい女神が袖翻し舞を舞う姿を見た。目を伏せ、薄花色の長い裳裾は滝のように零れ落ちる水と同化して、遥か上の水面のきらめきからレニーに向かって微笑した。

 ジェルドララ様…。

 たちまち地上には雨が降る。ジェルドララの泉にも、ヒルドの湖の水面にも、ヒルドの村の赤い家並みにも。

 ミュリアは一晩帰って来ない娘たちを案じて「黄色お家」の前に立って湖を眺めていた。湖面は快晴の空を映していた。昇る朝日に波は輝き、マルドの山はくっきりとその影を落として上下対象にそびえる。ミュリアは両肩を抱いてじっと立ち、朝もやの中若者たちを探しに行く舟が白い軌跡を描いて漕ぎ進んでいくのを見ていた。本当は今すぐ水に飛び込んで対岸の聖域まで泳いで行きたい、無事な娘たちを探しだしてこの手に抱きしめたい。だが湖から干されている我が身である。祈る気持ちで手を合わせ、昇りゆく太陽を見上げた。その額に、冷たく清冽な雫が落ちる。
 「雨…」
 雲も湧かないのに雨は一瞬で激しさを増した。春のさなかの朝に降るのは粒の大きな夏の豪雨のような雨粒。陰り無く光るそれはミュリアの髪を濡らし、立ち上る匂いは授乳と甘酸っぱい赤子の体臭の記憶を全身に蘇らせた。 
 「レニー!」
 ミュリアは娘のやり遂げたことを悟って誇らしく笑いながらも、大粒の涙を流して嗚咽した。

 対岸の船着き場の陰。細い杉の木が十数本、何だか申し訳ないというようなたたずまいで突っ立っている。そのひょろ長い姿は雨が激しく木の葉を濡らすにつれ、丈が縮み色は薄れ、髪が生え衣服が浮かび上がり、姉妹の友達がぼんやりと前を見たまま立ち尽くす姿に変化した。やがて意識も人のものへと戻る。皆はいつの間にかずぶ濡れで突っ立っている自分自身を発見し、互いに戸惑った表情で覗きあった。
 「あれ、サニーとレニーは?」
 いくら見回しても二人だけがいない。一同は訳が分からないながらも二人を探して声を上げ始めた。

 雨はムンダリーの本体である糸杉の大木の上にも降り注ぐ。
 
 その清浄の血に黒く鬱々と暗かった樹の茂りは焼けただれ、根は溶けるほど腐り、枝や幹も朽ち果てて半分にぼっきりと折れた。毒の樹液はその効力を失いあたり一面に広がっていた眷族の森も全て枯れた。さんさんと降り注ぐ雨が死の森がさらに死に果てたそのくすみを洗い流す。降っても雲の陰りはない。清明な光が共に落ち雨粒はまるで水晶の矢。朝陽は木々の死屍累々たるさまもまるで神々しい一幅の絵にしてしまった。

 うち続く雨はムンダリーの髪と皮膚を溶かした。あさましく生え残った毛髪を引きずり、滑らかだった肌の下から朽ちかけた樹皮をのぞかせ、丈の高い威容から哀れなぼろ布の塊のように崩れ果てたムンダリーは、空を見上げては滂沱と青い涙を流すのだった。そしてうぞうぞと這うような、弱弱とした声で悔みごとを連ねたてた
 「悔しや、悔しや、ああ、あと一息のところと思ったに!」
 妙なるかなその浄化の力!雨はムンダリーを溶かす。その毒の体液を洗い流す。どうしても洗い流すことの出来ない体の固形分は臭いにおいを放つヘドロと化して、濁った小溜まりを作り草水(くそうず)のように固まった。

 バーザーはサニーの横たわっていた祭壇にどっかりと腰掛け、幾筋もの光の矢をその哀悼を込めた眼差しに映した。その頬は濡れ、赤黒く血の固まり始めた髪は清らかに洗われる。
 「勝ったぞ、よかったではないか。これでジスーダの災いは払われた」
 バーザーの腕を止血の為にぎゅっと縛りながらキューロンが言った。バーザーは空を見上げる目をそのままに苦しく一声しぼった。
 「勝てれば何でもよいというものではない」
 「お前の一族がもたらした勝利だ。誇りに思ってやれ」
 キューロン率いる樹精の奇襲部隊が突破して来て参戦したのがレニーが天上へ向かった直後だった。さらに遅れて水精方の第二奇襲部隊もたどり着く。二つの援軍でバーザーらは九死に一生を得た。それでも雨が降り出すまでは不利な戦であったが。
 
 雨にムンダリーは滅んだ。天界で何が起こったかそれで知れよう。
 ああレニーよ…。
 
 バーザーは頬を濡らす雨を泥と血に汚れた手で受けとめた。空は青かった。痛いくらいに。その深淵からまっすぐ落ちてくるしろがねの雨粒は清冽で、まるで彼の娘の気配を思わせた。雨に洗われる切れた唇を決然と開いてそっと呼びかける。
 
 「レニーよ、お前とは良い友人になれると思っていたが…。本当によくやった、我が一族の誇りであるよ…」
 
 そうして傍らでゼタの背の刃傷に勢いよく烈酒を吹きかけていたアミンに、る心のままに問いかけた。
 「アミンよ、確かに見たか?聞いたか?」
 アミンはムンダリーに振り落とされたときについた頬っぺたのかすり傷以外まったくの無傷であった。その頬を右手の甲で拭うと雨に濡れた金のまつげは更に濡れる。その草緑の目は真っ直ぐに天上を見上げ、決意に澄んだ声を琴の弦のようにびんと張った。
 「見ました。聞きました。しかとこの目で耳で」
 ゼタは上半身の衣を脱ぎ、その白い背に滲む血を陽で雨で洗っていた。胸に鎧を当てて隠し、鱗の重なる頬を上げて遠く見上げ同意の溜息をついた。
 バーザーは王者の威厳をにじませて、思い切るように決然と言った。
 「帰ったら直ちにコラモを呼んで、武勲詩を作らせよう。タイトルは、そう、『雨の娘』…」

 レニーの血の雨は燦燦と注ぐ。地上を清め、人心を清める。全ての毒はもう浄化された。それを見極めたかのように、にわかとして振り出した雨は静かに穏やかに止んだ。

転生

 天の水瓶は跡形もなく崩れ去った。その名残は辺り一面に玻璃の尖った破片が散らばり朝陽をきらきらと反射させていることのみ。
 金の砂礫が広がっていた。目の粗い粒子はさらさらと水を通し水溜まりは作られなかった。砂粒は残る潤みに一層色濃く輝き、本物の砂金で出来ているのではないかと思われるほどの光沢を放つ。草は生えていなかった。水瓶の重みのゆえであろう。
 天に近い分太陽も近い。降り注ぐ光は苛烈で容赦なかった。砂礫の大地に陽炎が立つ。ゆらゆらと水蒸気が昇ってゆく。彼方に広がる神々の御殿もその周りの庭も、昇りゆく陽の影さえも美しい悪夢のように揺らぐ。
 
 そこにサニーはわなわなと震えてうずくまっていた。その唇は全く青とでも呼べるような色に褪めていた。それは痙攣し、「あ、あ、あ、あ」と、言葉にならないつぶやきを漏らす。レニーは金の砂に血を滴らせて目の前に力無く横たわっている。薄い瞼は固く閉じられかすかに、その亜麻色のまつげが揺らいだ。

 「レニー!レニー!レニー!あたしは何をしたの?」

 サニーは突如として破裂するような叫びを放った。ずぶ濡れの頬にさらに大粒の涙を流し、純白の衣が血で汚れるのも構わずにレニーをかき抱いた。その体温は低く体からはすべての力が抜けていた。だがその抱擁にレニーは確かにに反応した。サニーの耳にかすかな息の音が届く。僅かに腕が震える。レニーの鼓動はまだ止まってはいなかった。だがその顔からは血の色が抜け眼の下には黒い死相がくっきりと浮かんでいた。数分か後、レニーは水の輪廻へと還ってゆくだろう…。

 サニーは狂気のように目を光らせ、喉を瞼を唇を震わせ、こわばった手でレニーの首のまだ流れ出す血の道を押さえた。ああ、誰かのこの血を止めて…、ああ、どうして、どうして、どうして!レニー!
 「ああ、助けて、助けて、誰か助けて!」
サニーはほかにどうすることも出来ずに、悲嘆というにはあまりに生々しい叫びを張り上げる。

 常識で考えればレニーを救えるものはいないことは明白だった。もうどんな医者でも手に負えないだろう。流れ出た血を元に戻せる者はいないだろう。
 
 でも…、でも…、人間ではなく神様だったら?世界で一番尊く強い力を持っている神様だったら?
 
 サニーの脳裏に先程聞かされたばかりの作り話のような出生の秘密が閃いた。嘘か真か!この信じられないよすがにサニーは縋りついた。サニーは体いっぱいに叫んだ。涙と鼻水を振り回しなりふり構わずに激情に割れた声を張り上げる。

 「助けて下さい、お父さん!日の神セクィナ様、あなたが本当にあたしたちのお父さんなら、レニーの命を救ってください、お願いです!」

 サニーは昇りゆく日輪に向かって嘆願した。サニーの叫びは天界の大地に、遮るもの無い青空の下悲壮に響いた。その祈りはすうっと、空の彼方に吸い込まれていった。

 南に向かって角度を上げゆく太陽。その中から小さな点が浮かび上がった。それは逆光に黒っぽく見えていたが近づくにつれその輝くような姿が明らかとなりゆく。
 それは羽ばたくものだった。白鳥の双翼のようにも見えたがそれよりももっと大きく気高い。更に近づきその威容は細部までみとめられるようになる。偉丈夫の体に日輪の赤を刺繡した黄金の衣をまとっていることを、豊かな金の髪につながって麗々と整えられたひげを生やしていることを、純白に羽ばたくものがサニーのとそっくりの翼であることを。
 翼はしなる、白熱の光を背負って。彼はまっすぐ二人の元へと近づいてくる。
 青空の色の瞳がこちらへむけられている。それは今は厳しく翳ってはいるもののその本質なら陽気で苛烈な輝きにあるのだろう。サニーは直感で自らと同質のものを嗅ぎ取った。それが初めて会う実父、日の神セクィナであると瞬時に理解した。
 自らの祈りの届いたのが分かりサニーの口元は一瞬笑みを浮かべた。嬉しさ故ではない。僅かに残った希望が燃えたのだ。彼は静かに羽を畳み二人の傍らに降り立った。

 「お父さん、お父さん、助けて下さい、どうかどうか、助けて下さい!」
 サニーは再び滂沱と涙を流して叫ぶ。それは狂乱の一歩手前であった。レニーを抱えたまま膝で彼ににじり寄り、その返り血に染まった両手を高くさし伸ばしすがった。奇跡を願い、その力の際限なきことを祈り嘆願した。セクィナの顔は厳しかった。初めて見る娘に見せる苦悩の翳り。重たい言葉を噛みしめるように彼は諄々とサニーを諭した。
 「我が娘、サニーよ、それは私やお前に決めることは出来ない。神である我らにレニーの未来は選べない。権利を持つのは一人、レニーのみなのだ」
 「レニーだって助かりたいに決まっているわ!」 
 サニーは目をぎゅっと閉じて天に吠えた。そして零れる涙もそのままにレニーの耳に口を当てる。
 「ねえ、レニー、そうでしょう?」
 「そこにいるのはお父さん、セクィナ様なの?」
 レニーの声はかすれ、息は揺れ、喉の振動は僅かだった。露草の瞳をようやく開く。その光はかすかに揺れた。
 「目の前が真っ暗なの。でも暖かいものが二つある。一人はサニー、もう一人はお父さんね…」
 セクィナはレニーの上にかがみこんだ。翼を畳み静かに膝を折り、血で汚れた額を撫で、優しくその耳元で語り掛けた。その声は穏やかでだがとどめようもなく震えていた。
 「レニー、よくやった。お前の行いが無ければ、サニーは邪悪に囚われ、ジスーダの大地が全てムンダリーに奪われるのは避けられなかっただろう。お前は見事に未来を選んだのだ」
 「そうなのですか、良かった…、あたしの命も無駄にはならないのね…」
 レニーの声は一語発するごとにか細くなってゆく。サニーはそのことに慄き震えた。ああレニー、レニー!
 「命を無駄になだなんて!生きて、レニー、お願い!」
 「レニーよ、お前を救う方法は一つだけある」
 サニーの顔にはさっと明るい光が走った。黒い雲に切れ間ができるように絶望の覆いから太陽の眼差しが一瞬覗く。
 「何なのでしょう?何でもいいわ!あたしに出来ることだったら何でも!」
 セクィナはしばし黙って、希望に照らされるサニーと命失せゆくレニーの顔をゆったりと見比べた。その後で厳然と低い声を響かせた。その選択はレニーにとって厳しいものだった。
 「サニーの神としての命をお前に移すのだ。だがその場合、サニーはこれよりただの人の子として生きねばならない。そうしてレニーは雨を司る女神として、天界、ここで生きなければならなくなる。
 レニー、選ぶのだ、お前が決めよ。女神となればお前は未来を選ぶことは出来なくなる。ここで一人の水精として死ぬのか、神として永遠を宿命に囚われて生きるのか、そのどちらかを選ぶのだ」
 
厳かに告げるセクィナの言葉。レニーの蒼白な顔に迷いが宿る。その選択はレニーにとって大逆に等しいものだった。
一方のサニーには全くためらいがなかった。頬にくっつけた涙をきらきらと輝かせたまま天界の光に微笑みさえ浮かべる。まだ蒼ざめた唇をレニーの耳元に近づけ震える声をほとばしらせた。
 「神でも人間でもどっちでもいいのよ!あなたが助かりさえすえれば…、あたしはどんなものだって手放す、あたしがあたしじゃなくなったって!」
 サニーの声に湧き上がる希望。暗闇に射す一つ星のようにそれはサニーを見つけた。ああ、まだ道はあった、道はあった…。一方のレニーの額は迷いの暗雲に覆われていた。
 
 「サニーから光が消えたらあたしが生きていても意味はないわ…」
 
 「何を言うの、レニー!あなたが死んでしまえばあたしが光っていても意味は無いじゃない!」

  サニーの言葉は一瞬で涙に崩れ落ちる。
 「さあ、選んで、レニー、命を、生きることを!手遅れにならないうちにあたしから神格を奪って!」
 「でも、サニー、サニー…、あなたの輝きがないと…あたしもきらめかないの…、あたしがいるのは…あなたの光があってこそなの…」

 「ほかに光なんていくらでもいるわよ!」

 サニーは涙と興奮で赤く染まった目をぎゅっとつむって一声放った。その後で震える笑みを浮かべいつもの朗らかさをにじませながらレニーの耳に口を寄せた。
 「レニー、あたしはどんどん先へ行くわよ。あなたをおいて遠くへ行くわ。リュリオンで女優になるの!あなたを照らす代わりに大勢の観客を照らすのよ。あなたを照らす人はこれから何人も現れる、永遠に、あなたを照らすことを引き受ける神様が現れる…、あたしなんかよりももっと深く輝かしく…。だから、生きて、レニー、あたしは神様じゃなくったってちっとも悲しくない、引き換えにあなたが生きられるなら何にも惜しくない、だって今までそんなこと想像もしないで生きて来たじゃない!第一、神様じゃなくなってもあたしなら輝き続けられるわよ!」

 サニーは胸を張った。
 レニーの土気色の唇がわずかに震えた。辛うじて光を保つ瞳はくすりとほほ笑んだ。

 「レニー、さあ、選んで、生きることを、あたしから神格を奪うことを!」
サニーは一縷の望みをかけ、死にゆく妹に決断を迫った。

 「サニーは…神ではなくなっても、ずっと…サニーのまま…いられるのですか?光輝く…太陽の娘のままで…」
 途切れ始めた声でレニーは問いかけた。
 セクィナは青空の目を眩しげに細め黄金の髭の奥で穏やかに微笑んだ。
 「サニーはサニーのままであるよ」

 レニーの光を失いつつある瞳は天界の強烈な日差しにも潤みを失わずに揺らぐ。その土気色の唇はわずかに引き上げられ震えながら、最後の力を持って開かれた。
 「お父さん…、あたしは…生きることを選びます…。サニーに…あたしの…未来を…あげます…!」

 その声が消えるや否やレニーの体は融解した。
 今までレニーだったものは水の塊となった。水溜まりに大きな雨粒が落ちてきたように王冠の形のしぶきとなり、それはサニーの頭より高いところで天界の激しい日差しを受けて虹色のきらめきを放った。白い水精の衣装の上の小さめの玉鎧がサニーのひざの上にぐしゃりと落ちた。手甲も具足も中身を失いカラーンという乾いた音を立てて転がる。

 
 レニー!
 
 サニーの瞳は火を噴くように見開かれ、大きく開いた口からは声にならない悲鳴が漏れた。
 ああ、レニー、レニー、あたしの妹!たった一人のあたしの妹!
 サニーは涙を流すことすら忘れていた。この結末に悲しみも怒りもなにも感じることも出来ないまま、サニーはただただ口を開けて虹色に光彩を放つ水、今までレニーであったものを見上げた。

 その水は砂礫の大地に流れ去ることはなかった。小岩のような塊にこごまりふつふつと対流する。それはまるで血液が人体を巡るような具合であった。大きな流れと小さな流れが複雑に、だが秩序だって、屈曲し響きあう虹色の輝きに生き生きと脈打つ。やがてそれはちょうどレニーの背丈ほどの大きさに引き伸ばされた。頭が出来、胴が出来、腕ができ、足が立ち上がる。透明な水は色を持つ。杏子の花びらのような頬、亜麻色の髪、露草の潤む瞳、それは今までよりももっと透き通るかのような、清らかなレニーの姿となった…。


 レニーは閉じた目をゆっくり明けた。二つの小さな湖がその青にいっぱいの愛を込めて揺らいだ。溢れ出る一筋二筋の涙。眉は悲しく寄せられまつ毛は揺れ、だが唇はきっぱりとした微笑みの形を作り震える。
 「サニー、良かった。元の通りのあなたね」
 サニーははははと笑った。涙と鼻水でぐじゅぐじゅの顔で笑った。笑いながらもしゃくりあげる。ざらざらと音を立てて、背中の翼は砂礫ででも出来ていたかのように儚く崩れ吹く風に舞い上がっていった。

 「元ではないわ…。今のあたしは…ただの人の子…。でも…、これでよかったの。あたし…女優になって…子供を五人産むんだから!」
 相変わらずしゃくりあげながらサニーは宣言した。決して強がりではない、自信満々、飄々とした口振り。涙で真っ赤になった白目の中にはどんな人をも魅了する青空の瞳。少しも変わらず生き生きと輝くその目と笑顔にレニーは思う、ああ、サニーだ、サニーだ…、大丈夫、大丈夫…。
 レニーはサニーを抱きしめた。サニーもまたレニーを強く抱く。そのままお互い言葉も出ない。すすり上げ、息震わせて、とめどなく嗚咽を漏らす。二人とも涙にくれながらもその口元には笑みを絶やすことはない。レニーは姉の背を何度も叩いた。
 
 「サニー、お母さんに謝っておいてね。あたし自分が人の子ではないと知ったあの時から、もうあの家で今まで通りに暮らせないと思っていたの。それをお母さんに直接伝えることも出来なかった…」
 「いいのよレニー、あなたが生きていさえすれば、何処にいたって、あたしは、あたしたちは…」
 サニーの声は震えておうおうと膨らんだ。レニーをなおさらひしと抱きしめ更に嗚咽する。二人はそのまましばらく抱き合って泣いていた。

 朝陽は天頂へと歩みを進める。別れの時は近づいていた。神々の御殿の方から、錦ののぼりで飾られ供を付けた純白の天馬の一群がゆっくりと近づいてくる。
 「さあ、サニー、私が送ってゆこう。お前はもう空は飛べない」
 セクィナが大きく二人の上に両腕を置いた。温かく広い腕だった。その言葉に二人は震えて見つめ合った。お互いの瞳の中に、朝に夕に見慣れた鏡像のような顔をじっと焼き付ける。レニーは息震わしながらも微笑み、露草の瞳を揺らし三回まばたきをした。
 
 「サニー、地上に雨を降らせるときは、あなたの頭が痛くならないように歌をうたってあげるわ。だからあたしを思い出してね。何処にいたって愛しているわ」

エピローグ

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 七月、南洋から熱せられた重たい空気が、舞踏する海風に乗ってジスーダの上空へと吹き寄せられる。それは夏なお寒いグラウスの冷気に一気に冷やされて雲となり大粒の雨と変ずる。

 ヒルド村の緑の屋根は滝のように洗われる。丘の上の赤い家々は荒々しい雨に暗鬱に翳り、その雨粒の向こうから幻のようにそのベンガラの外壁を浮かび上がらせる。胡桃の森もぼんやり夏の装いを灰色のくすみにやつしてたたずむ。空は暗く夜明けのようだ。大気がごうと鳴る。大地がそれに応えて鳴る。風はびょうびょうとグラウスの頂から吹き込む。
 湖は波立っている。鈍色の空を映しこんでやはりその色も重い。ヒルドもグラウスの峰も映らない不透明な水面が風にゆらり揺らいだ。

 最初の雨音が「黄色いお家」の屋根を叩いたとき、サニーは機を織る手を弾かれたように止め()を置き立ち上がって外に飛び出した。黒く光を遮る雲からその色の良い額に温い雨粒が落ちれば、サニーは嬉しさのあまり庭先を踊りまわった。後から後からざんざんと降りしきる雨。もう既に庭には水溜まり。牛皮のサンダルは泥に汚れる。赤土色のはねあとが裾に細かくこびりつく。

 「サニー、風邪をひくわ。頭痛はどうしたの?」
 ミュリアが戸口に立って、自分の両肩を抱き、湿り気を帯びた声を発する。ミュリアの瞳はサニーに注がれてその後ろにもう一人の姿をのぞむ。サニーと二重写しにその面影を。

 「だってお母さん、レニーが歌っているのよ、聞こえない?」

 サニーは歓喜の言葉を天上へ向かって放った。大粒の雨はサニーの上に降り注ぐ。空の翳りを映して鈍く輝くその雨粒は、鮮やかな黄金の髪に質素なウールの衣服に玉のような雫を作って滴り落ちる。
 サニーはあらんかぎりに両腕を広げた。鈍色の空に吸いこまれよとばかりに見上げた。雨とダンスをするかのように天上を見つめながらでくるくると回る。鉛のような水の矢が風に流されながらサニーを打ち、体温を奪われてその体はやがて凍える。だが薔薇色の頬は艶めき、青空の目はきらめき、唇は懐かしさに大きく開けられて、大きな笑みさえそこに浮かべるのである。
 この天に、この雨の源に、あたしの半身がいる、雨を振りまきながらあたしのことを想って微笑んで歌っているのだ!ああ、聞こえない、聞こえない?

 天から降ってくる半身の清らかな歌声は雨音にも風音にも途切れることはない。地上で頭痛を癒してくれた時と同じ、優しい歌声が恩寵と降り注ぐ。


  全ての水の女王なる
ジェルドララ 天の水瓶に
この世のすべての水をしまって
翡翠の栓を閉めていた

水のお番は 双子の子蛇
おかっぱ 三つ編み 白と黒
ひとりはけちんぼ も一人堅物
翡翠の栓は ぎっちぎち

岸の胡桃が雨をねだった… 

 雨は激しくなる。森はけぶり湖は自閉する。それは水の御業、他でもなくレニーの。サニーは全身で叩きつける雨粒を受け止めながら、天から降って来る歌声に唱和するのだった。

(了)

雨の娘

お読みいただきありがとうございました。余韻のあるラストになっているかどうかは分かりませんが、少しでも多くの方にレニーの選択を読んでいただけたら幸いです。

雨の娘

聖地ジスーダ島の湖畔に母親と双子の姉と暮らす十三歳の少女レニーは、水辺に住みつつ水を恐れている。しかし、姉、サニーの誘いで対岸の聖域にピクニックに行くことになってしまう。そこで襲い掛かる危機に彼女は自らの出生の秘密を知る。果たしてレニーはサニーを救い、無事に帰ることが出来るのだろうか?双子の姉妹の絆とその運命の物語。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-03-17

Copyrighted
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  1. プロローグ
  2. 黄色いお家
  3. 毒の木
  4. 湖底城
  5. 星辰
  6. 雨の娘
  7. 転生
  8. エピローグ