Someday

「いつか」・・・生態
深い意味を持たない。遭遇した場合は、消極的な否定と捉えるのが良いとされている。一般的には気取ったような足取りで登場し、遭遇者に対して笑いかける。ある部類の人々には、不安をもたらす対象として、畏怖の的になっている。

・・・以下、本文を読み、浪費した時間を、何に使うべきだったか、書くことはせず、各々内省せよ。

「怠慢な日々にある感情の機微、かような悩み尽きぬのも義理!」
大抵、苦悩の根源は思い込みである。謂わば、自己に対するDepressed なイマージュ…
人一匹の命を揺さぶるには、思い込みの一つで事足りるものだ。--『苦悩について』

彼は、か細い、命の糸を繕うようにして生きていた。
彼の唯一の、それも最近できた楽しみといえば、職場の最寄り駅の改札口にいて、精力的に仕事に励む女の駅員の、澄み切った眼差しを浴びることだった。
交流はあってなかったようなもので、ある晩、落とした定期券を拾ってもらうと、真心に親しみのない心には、その応対がいたく染み入り、爾来、それは彼女が率先した行為で、自分への好感が成せる業だったと、都合のいい夢想にとつおいつするようになったのだ。

ある年の、冬のいつか辺りの事である。

彼が仕事を終えて、街を歩いていると、簡素な私服姿の彼女に出会した。彼を視界にとらえると、さらりと微笑みかけた。覚えているのだ。

「あ、お疲れ様です」と、屈託の無いその言葉に、彼は思わず辟易して、戸惑い、脳髄は火照り、人間、唐突に見参した幸運を前にしては、どうする術にも思い至らぬものである。
生死もつかぬ灰色の毎日を穿つ、一滴の甘露を逃すのが忍びなくて、しどろもどろしていると、「折角ですし…」。

好きな人と過ごす時間。夢のような時間だった。生きていて良かったと思った。命に歓迎されたような気がした。永遠に今という時が続けばいいと願った。

夢は、覚めるものである。
二人は街のはずれの、歩道橋の上にいた。橙色の電灯が、足下の街をじんわり覆っていて、暖かく、それでいて別れを感じさせる情景があった。
彼は、唐突に、現実の暗澹な影が、自らの運命に再び忍び寄ってくるのを、感じはじめた。或いは、その焦りが、彼に、こんな気まぐれを言わせたのか。
「もう一度、会っていただけませんか?」
真っ白な頭から絞り出した、精一杯の言葉だった。ハリボテの自信を貼り付けた、見栄っ張りの言葉だった。もはや目も眩んで、走る車の風を切る音だけ聞こえていたが、なお努めて、その返事を聴こうとした。閻魔の宣告を待つ、罪人の心持が、何故かよくわかった。

乾いた沈黙の後に、彼女は俯いて、
「いつか、なら」と、小さくいった。
彼を、始め違和感が襲った。次いで、それは形態を変えて肥大化し、虚無と絶望の吹き出物となって、観念の体躯を埋め切った。
彼は震える唇から、「そうですか」と漏らすように呟くと、彼女の顔に目もくれずに走り出した。現実に拒否された自分に、生きる価値を見出すことは出来ずに、死ねればいい、と思った。
がむしゃらに夜道を疾駆した。

図らずも、傷一つ付けず、自宅に着いた。ある意味、涙の生還である。身体の感覚が、自失した意識の中へと深く吸い込まれていき、みるみる眠りに落ちた。
目が覚めて、目が覚めたかどうか、判然としなかったので、眠った。目が覚めて、耐えきれない現実に相対したので、眠った。目が覚めて、生きている自分と対峙したので、眠った。
いよいよ寝付けなくなり、依然として彼は生きていた。生活の事など、脳裏をかすめすらしなかった。数日経っていた。
それでも腹は減り、目玉焼きを作ってその黄身の中央に、ケチャップで、ブタの鼻を描くとくだらなさに苦笑した。

カーテンをあけると朝日が眩しくて死のうと思った。辞世間際の虚栄心があった。せめて、綺麗に消えたかった。

虚ろに普段の街並みを抜け、気付くと同じ歩道橋に立っていた。死に場所としては、お誂えむけだった。
「さあ、いよいよこれまでだ。ここまでよく頑張ったと、自分を褒めてやろう。中途半端な苦しみと、中途半端な喜びを決定的な物にするには、死ぬしかない。インテグラルとしての死だ。そうして初めて、人と同列に並べる気がする。マイナスがゼロへと回復する気がする。」
行き交う人々は、奇異な目で彼を見た。無常でもあり、それはまた世情の常であった。

焦然と立ちすくんだままで、日が沈んできた。
「いつか、か。果たして、いつの事だったのだろうか。まあ、そんなことはどうでもいい。
人が死ねば、肉体は意思を失い土に還る。そうしていつか、太陽がその地を照らし、小さな花が咲く。かもしれない。どうせ、その程度のリアリティしか帯びない、いつか、であろうから…」
最早、夜だった。彼はため息をのみ込んで、橋にかかる手に、力を込めた。
寂然とした夜の上には、ひとつの音しか響かない… 走る足音だ。
ふと見ると目の前に、涙を溜め、震えた足で立ちすくんでいる彼女がいた。
「待ち合わせ場所を聞いていないから、探しましたよ…」そう言うと、彼の腕をぶんどり、まだ点々と明かりが滲む街の方へ、引っ張っていった。

彼は、とうとう自分がおかしくなったと思った。
しかし彼女の手のひらの、饅頭のようにほの暖かく柔和な感触に、凍てついた心を徐々に溶かされていくと、そのまま腕を素直に、引かれるがままにしていた。

街並みはいつもの如く冷たく、いつも通りに暖かい。変わるのはいつも、人の感情だけだ。

雑踏に踏ませたチラシが特売をしらせている。
11月5日、今日は鯖が安いらしい…
もしかすると、変わって嬉しいのは、食品の値段だけなのかもしれない。
この世界の「いつか」に起きた話である。

○解答欄
[いつか? 一体、いつのことだ。]

Someday

Someday

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-03-13

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