知らずに落ちているのが恋だ。募るほど知りたくなるのが愛だ。
知らずに落ちているのが恋だ。募るほど知りたくなるのが愛だ。
「渡辺クン、授業中わたしに視線向けないでくれる?」
突然、なんの前触れもなしに僕は恋に落ちた。
春に晴れて高校一年生となった僕は、こともあろうにクラスのそれも眉目秀麗、頭脳明晰、スポーツ万能、この学校の最強女子、クラス委員長でもある龍恩智柊に恋してしまったのだ。
「見ていません。それに僕は貴女の後ろの席です。柊さんは背中に目でもついてるんですか?」
「気安く人の名前呼ばないでくれる? そんなオバケじゃあるまいし、背中に目なんかついてはいないけれど、こうね、痛いのよ、視線が。振り返ると貴方顔をそむけるじゃない。違う?」
「すいません、名前なんかで呼んで。でも、貴女は超能力でもあるのかな? 僕が貴女を授業中ずっと見つめてると、なぜ分かるんですか?」
ドキドキしていた。龍恩智柊との会話らしい会話は初めてだったから。
「ま、いいわ。貴方と言い争う気ないもの。見てないんだったらわたしの勘違いかしら、ごめんなさい。失礼なこと言って」
「見てました。入学式で貴女が新入生代表として答辞を読んで以来、ずっと貴女を見てました」
長い睫がゆっくりとこちらを向く。眉毛が幾分、ほとんど分からない程度に吊り上った。
「そう、随分失礼じゃない?見てるわけね、そう認めたのね。じゃあもう一度言うわ。見ないでくれる? これからずっと見ないでくれたら、その無遠慮な視線やその非礼なかったことにしてあげるわ」
昼休みのクラス。まばらな視線が興味深げにこちらに注がれていた。
「見続けちゃいけませんか? ずっとずっと龍恩智さんのこと見てちゃいけませんか?」
半歩身を乗り出した僕に龍恩智柊は一瞬たじろぐ。
「貴方のその厚顔無恥な態度、どうしたらわたしに無関心でいてくれるの? 嫌いってはっきり言ったほうがいい?」
「これは僕の問題ですから……だって恋するのは勝手でしょ。僕は龍恩智さん、貴女に恋をしたんです。嫌うのは貴女の勝手、好きなのは僕の勝手ですから……」
「そ、そんな一方的な論理。わたしは認めない。嫌いだってはっきり言ったでしょ。これ以上嫌われたくなかったら、わたしに関心持たないで、もちろん見ないでくれるかしら?」
「僕だってもちろん貴女に嫌われたくない。むしろ好かれたい。ですから貴女の意向には極力従います。でも、見ないでいられない。見詰めないでいられない。この気持ちは制御不可能です。暴走モードです」
「貴方おかしいわ、言ってることが! とにかく、わたしに近づかないで、もちろん見詰めるなんて止めて! いい、警告よ! 貴方がどんなに御託を並べようと、わたしは貴方なんか好きにならない!」
始業のベル、ぞろぞろと教室に入ってくる生徒たちの目が睨みつける龍恩智柊と僕の交互に視線を向ける。
教室に残って一部始終を見ていた少数は顔を見合わせ「あいつ、教室で振られやがった」とか「自分の容姿考えろよ、龍恩智と釣り合わない」だとかの囁きが聞こえた。
学校帰り、龍恩智柊の十メートル後ろを歩きながら考えた。
学校一の美少女に恋をした。人生生まれて十六年目の初恋。
勝算はない。龍恩智みたいな女子が僕みたいなブサイク好きになってくれるはずがない。
しかし、好きだというこの気持ちはどうしようもなく、自分自身のこの沸き立つ心が興味深い。
実に興味深い。人生初だ、こんな気持ち。
この先僕はどこへ向かうのだろう?
こんな気持ちになるものなんだな、人間って。龍恩智柊のことを考えると鼓動が高鳴り、いてもたってもいられなくなる。
まるで冷静になれない自分自身がなんだか可笑しく哀しい。
龍恩智が僕のことを好きになってくれる確率は百パーないと断言できる。
小男ブサイクを絵に描いたような僕自身がそれを一番よく知っている。
何かにぶつかった。龍恩智の胸が眼前にあった。龍恩智は僕より十五センチは背が高い。
仁王立ちの龍恩智がつぶやく。
「いつまでついてくるつもり?」
「ついていってるわけじゃない……帰りの駅が同じだけ。僕も電車通学だから……」
「ふーん? 言ったわよね。付きまとうな、見詰めるな、構うなって、警告したはず」
「そんなつもりはないよ。僕だって龍恩智さんに好き好んで嫌われたくない」
「いい、渡辺クン。貴方のやってることは女の子に猜疑心を持たせるだけ。じーっと教室で四六時中見続けるなんてほとんどストーカーまがいの行為。分かる?
それにあの勝手に好きになっただの、わたしの気持ちは関係ないだの。
そんなことで誰が貴方のこと好きになってくれるの?」
龍恩智柊はあくまで正々堂々。そうやって王道を常に生きてきたんだもの、僕みたいなその他大勢に括られるような男の気持ちなんて龍恩智には決して分からない。
「好きになってくれなんて頼んでない。龍恩智さんが僕を好きになる確率なんてはなからゼロだと諦めてる。でも、この気持ちは僕にも分からないし、抑えられない。なにしろ初めての経験だから。僕は初めて恋をした。それがたまたま龍恩智さんだった、そういうこと」
龍恩智が初めて笑顔を見せた。クスクス笑い、例えそれが僕のことを笑ってるんだとしても僕はなんだかうれしかった。
「それでいいの? 初めからそんな負け犬みたいな卑屈な心持で渡辺クン、よくわたしみたいな子に恋したね」
「釣り合わないって意味なら充分理解してる。僕みたいなのを意識すらしないし、鼻もひっかけないことくらい僕にだって分かる。でも、何度も言うけれど、好きになるのは僕の勝手だ」
「わたしには彼氏がいるわ。二年の生徒会長で校内模試常にトップ、身長百八十二、かなりなイケメン、おまけに性格もいい」
「知ってる。D組の小野寺健でしょ。全校生徒が知ってるよ」
「彼、すごく優しいけれど、嫉妬深いの。で、ずっと子供の頃から空手道場に通ってるの。わたしが一言貴方のこと言ったら、勝手に好きなっておいて、わたしに付きまとう気持ち悪い子がいるのとか言ったら彼きっと貴方と話をつけるっていきり立つと思う」
「龍恩智さん……なにが言いたいの?」
「貴方、ボコボコにされるかも健に」
「構わない。そんなことで僕の心は変わらない。それに龍恩智さんはそんな告げ口みたいなことはしない」
「なぜそう言い切れるの? わたしのなにを知ってるって言うの?」
僕らはいつの間にか学校と駅の中ほどにあるさして大きくもない公園のベンチに腰かけていた。
なんだってよかった。とにかく龍恩智柊とこんなに近くにいられることがうれしかった。
柊は素敵な匂いがした。
「なんにも知らない。ただどこにいても目立つ容姿をしていて成績は常にトップで、時々赤い縁の鼈甲の眼鏡をかける。スポーツ万能で非の打ちどころがない。クラスの委員長で誰にも好かれてる。そういう人だと思ってる。違う?」
「ぺらぺらよく喋るわね。全然分かってないわ、わたしのこと……わたしはね、いつも今貴方が言った龍恩智を演じてるの。いい? わたしの容姿がこんなじゃなきゃ、渡辺クン、わたしに恋なんかしなかったでしょ? いったいどれくらいの男の子にコクられたと思う? こっちの身にもなってよ。断るほうだって大変なエネルギー消耗するの、分かる? クラスの男の子視線を意識するのって疲れる。だから、小野寺に頼んで恋人のふりしてって、小野寺ならそんじょそこいらの男は諦めるでしょ……でも時々貴方みたいな変人がちょっかい出してくる」
龍恩智柊は空を見上げ大きなため息をついた。
それは、素に帰った柊そのもののように僕には見えた。
「知らぬ間に落ちているのが初恋だ。募るほど知りたくなるのが愛だ」
僕の言葉に驚いたように柊は僕を見つめ、そしてまたクスクス笑い出した。
「なにそのセリフ……ゲーテかなにか? 若きウエルテルの悩みとか、あはは。貴方ってとにかく変わってるわ」
まさか、ラノベの中に出てきた言葉だとはさすがに言えなかった。
ゲーテって……なんだよ?
「変ってる? 龍恩智さん。貴方は僕のことなんにも知らない」
「なんでもは知らないわ。知ってることだけよ」
互いに相手を値踏みするように僕たちは見詰めあった。
何かが通い合い、何かが解け合った。
龍恩智との距離が少なくとも百メートルは縮んだ気がした。
少なくともまだ月ほどの距離はあるが……。
龍恩智柊はあれ以来僕を無視しつづけている。
いや、それだけではない。
他の雑魚な(僕も、もちろんその中に含まれるのは言うまでもない)男子生徒どもの告白や視線をそらすために、自分には彼氏がいるんだと装うことまでしている。
それが、この学校の二年生。生徒会長であり、身長百八十以上、イケメンを絵に描いたような端正な顔立ち、校内模試常にトップの小野寺健である。
僕はといえば、相も変わらず龍恩智の背中を見続ける毎日。
仕方ないのだ。僕は恋に落ちたのだから……。
それも難攻不落の安土城みたいな女子。一筋縄ではいかない龍恩智柊という超絶ハイパー女子高生に恋したのだから、恋するのは僕の勝手だ、なにもかもが仕方ない状況でしかない。
だが僕は知ってしまった。
愛が深まれば相手をもっともっと知りたくなる。
龍恩智柊は僕のことが嫌いである。大嫌いではない。なぜなら二度ほど笑顔を見せた。
しかし、それは僕を憐れんでのことかもしれない。
どんなことをしたって渡辺クン、貴方みたいな子は好きにならない。
そう断言されたのだけれど……。
本当に僕みたいな雑魚は龍恩智みたいな女子に恋してはいけないのだ。
まず相手にされるわけがない。
僕だって分かってる。釣り合わないし、相手にもされないことくらい。
僕だってバカじゃない。
しかし、しかしだ。僕は恋したのだからそんなことはお構いなしだ。
恋は……But love is blind, and lovers cannot see
the pretty follies that themselves commit.
あの偉大なシェイクスピアだって戯曲に認めるくらい恋ってのは一度落ちたら盲目。そういうことなのだから。
前回、龍恩智は僕を諦めさせるために、言わなくてもいいことまで白状してしまった。
つまり、あの頭脳明晰な彼女が思わず口を滑らせてしまったのだ。
いわく、小野寺健とは恋人ではない。少なくとも現時点ではだが。
小野寺も単なる親切心から龍恩智の偽恋人役を買って出ているわけではないと推測する。
多分この学校の男子生徒の十人に八人は少なくとも一度は恋い焦がれたであろう龍恩智だ。
三次元など惨事元だと思っていた僕が恋に落ちたのだ。二次元こそ至高だと龍恩智柊に出会うまでは本当にそう思っていた。
小野寺がいつ龍恩智の彼氏の座を真剣に射止めようとするか、分からない。
なにしろ彼は今一番近いところにいるわけだし。
当たって砕けたところでイケメン度と身長差、頭の構造はいかんともしがたい。
一度校内を一緒に歩く二人を見たが、百七十近い長身の龍恩智と小野寺は完璧だった。
どこからどう見たって理想の高校生カップルだ。
はてさてこの僕の絶望的なまでの状況の初恋……成就するはずのない初恋が思いもしない展開を見せるのだが……。
結論から先に言うと僕はなんとかかんとか龍恩智の愛を勝ち得るのだ。
龍恩智柊の恋人役である小野寺健から昼休みに呼び出された。
「巷の噂だとコクって教室できっぱりラギに断られたってのは君か……」
値踏みする小野寺の視線が痛い。
柊のことをラギなんて呼んでるのか、こいつは。
「ま、そんなに睨むなよ。ラギのほんとの恋人ってわけでもないんだから僕は君の恋敵じゃない。正確に言うとね」
「で、呼び出した用件はなんですか? 龍恩智さんのことでよね、当然」
龍恩智の警告を思い出していた。ま、まさか生徒会長たるものが昼休みの学校の屋上に呼び出してボコボコにするなんてことはない? よな……。
僕は信じてる。龍恩智柊がそんな告げ口なんかするような子じゃないってね。
「だねぇ……君と僕を繋ぐものとしたらそれしかない。しかしね、よりによってブサメンのヲタクを絵に描いたようなチビな君みたいなのがラギにちょっかい出すなんてね。恋は盲目か……」
正反対の小野寺健に言われると納得! いやいや、いかんいかん。なんでこんな眼前で侮辱されて納得してるんだ僕は!
しかし、聞きしに勝るイケメン、長身、黒縁の眼鏡がほれぼれするほど理知的である。
男の僕から見ても龍恩智にはやはりこのくらいでなきゃね! いやいや、なんで僕は納得してるんだ?
ひょっとしたら恋のライバルになるかも知れない相手なんだ、小野寺は!
「一応、忠告しておく。ラギはどんなに君が恋い焦がれようとも君を好きにならない。もちろん僕は君も知っての通り、ラギの恋人役ではあるけれど、それは、お互いの諸事情でそういう立場ってだけなんだけれど、少なくとも君は彼女の恋人にはなれない」
そこまできっぱり言わなくたって……僕だって万に一つも勝ち目はないと自覚してるさ。
けれど、この気持ちはどうしようもない。
まるでパックに惚れ薬を飲まされたみたいな状態なのだ。
「確かに僕は龍恩智さんにきっぱり断られました。でも、恋するのは僕の勝手です。例え振り向かなくたって一向に構わない。そりゃ、振り向いてくれたほうがいいに決まっているけれど、僕は僕の気持ちに素直になりたい。それだけなんです。
初めて恋に落ちたものだから、こんな気持ち初めてなんです。ですから、例え貴方が龍恩智さんの本当の恋人だとしても、例え鼻から勝てないとしても、僕の龍恩智さんへの気持ちは変わらない。絶対これっぽちも変わらない」
「どんなにラギに拒絶されてもかい?」
「どんなに拒絶され例え大嫌いと言われてもです。報われないのなら、それでも構わない。恋するのは僕の自由だ!」
「駄々っ子じゃあるまいし、独りよがりな論理だね、それって。ラギの気持ちはどうするの? 嫌われても、嫌われても、好きなのは僕の勝手なんて、まるでヘンタイ・ストーカーじゃんか、それじゃあ、惨めじゃないのか、そんな風に思われて」
「惨めですよ。でも僕は貴方や龍恩智さんのような、羨望やため息交じりの嫉妬に包まれた人生じゃないし、その他大勢の地位を十六年間続けてる。ブサイクの自分、そういう居場所にも慣れすぎてた。でも、龍恩智さんに恋して思った。なんだこのもやもやした気持ち、毎日がまるで輝いていて、龍恩智さんへの想いが僕をここから引っ張り出してくれる、かもしれないなどと……思っちゃいけませんか?」
「自分の恋はホンモノだとでも言いたいの? 相手の気持ちも思わず、突っ走って、結局、一番大事な彼女を傷つける。そういう結果になっても、好きなんだから仕方ない。勝手だとでも?」
唇から言葉が出ない。
傷つけることが果たして恋か? 僕の中の自信が揺らいだ一瞬だった。
もうすでに窓辺を見つめて5時間。
自分でも分からない。なんで僕は高校の住所録を頼りに龍恩智柊の家をほぼ2時間きっかりかけて探し出し、こうして龍恩智の部屋と思しき窓辺をぐるっと囲んだ塀越しに眺めてるんだ?
龍恩智の家は瀟洒な洋館だった。邸宅といいかえてもいい。公団の我が家とはなにからなにまで違っていた。
額に滴が当たる。小一時間ほど前から雲行きが怪しかった。案の定の雨、なにやってるんだろ僕は、なぜ僕は土曜日だってのにこんなことしてるんだろ?
雨……夏の雨、生暖かく湿った雨。雨が好き、真夏の雨が好き、なにもかも洗い流してBrand New Day……再生が始まる。
夕暮れが迫る。部屋の灯りは消えたまま、主の不在を告げる。ポロシャツが惨めに濡れてゆく。寒くはない。それだけが救い。デニムもパンツまでずぶぬれ、それでも龍恩智柊のこんな近くにいるから満足。
「渡辺!!……クン、なにやってるの、そんなとこで……!」
「えへへ、龍恩智さん。こんにちは」
「どういうつもり! わたしの家……どうやって探し出したの!? わけわかんない。貴方本格的にストーカーね……」
「僕にだってわかんないもん。なんでこんなことしてるのか。本人が分からないんだから龍恩智さんに分かるwけないだろ」
「逆切れ? バカみたい。びしょ濡れじゃない! バカみたい。ほんとにバカね。大嫌い、言ったでしょ、大嫌いって」
見かねたのかそう言いながら傘を差しかけてくれる。
ああ、これだけで満足です。三回のバカみたいに二回の大嫌い。差しかけてくれた傘。
それだけでこうやって何時間も待っていた甲斐があった。そう思った。だってこんなに近くに龍恩智さんがいる。
「前の日、小野寺に呼び出されました。昼休み、ボコボコにされるんじゃとか思いました」
「ボコボコにされればよかったじゃない! バカも少しは懲りるかも、でしょ? 違う?」
「でもそんなことにはならない。なぜなら貴女は僕のことを告げ口するような、そんな人じゃないからです。ただ、言われました。きっぱり言われました。どんなに恋い焦がれようとも龍恩智さんは僕のことなど絶対好きにならないと……」
「そうよ、好きになんかなるものですか! 絶対にならないわ。だから、こういうことも止めて! お願いだからわたしに構わないで!」
「僕の独りよがりな告白が貴女を傷つけているのだとしたら、謝ります。でも、ここでこうやってずっとずっと貴女がいるであろう窓を見ていたい。そうも思いました。僕は貴女に恋している。勝手に恋してしまいました。いけないことですか? そんなに迷惑なんですか、そんなに貴女を傷つけていますか!」
夕立のように激しさを増す雨がまるでカーテンみたいに世界を灰色に変えた。
僕にはこの雨が天が与えてくれた贈り物のように思えた。だってこの世界には僕たち二人しかいないみたいじゃないか! 雨が龍恩智と僕の世界を守ってくれてる、そんな風に思えたんだ。
「言いたいことはそれで全部? 迷惑、大がつくくらい迷惑って言ったら諦めてくれるの? 男って本当に自分勝手。勝手に好きになっておいて、等分の愛情を求めるなんて、虫が良すぎるでしょ、そう思わない? 渡辺クンがどう言おうと好きになんかならないわよ絶対に……」
「……今日は帰ります。そうまではっきり言われると……鼻から、龍恩智さんに相手にされるなんて思ってもいなかったけれど、へこみます。でも失恋はまだ認めたくない。本当はもっともっと龍恩智さんのことを知りたい」
踵を返し、歩き出そうとした時、龍恩智は仕方ないという風に僕に手招きした。
「夏休み前の前期試験間近だっていうのに……風邪引いちゃ大変でしょ。誤解しないで、びしょ濡れのままなんて惨めだし、いわばボランティアみたいな気持ちなんだから」
龍恩智柊が見上げるほどでかい玄関のドアを開ける。
「なにもじもじしてるの! 早く入って、わたしまで濡れちゃうじゃない!」
びっくりした。エントランスだけでうちのリビングほどもあった。気圧された。
二階に続く螺旋の階段を柊に急かされて上った。
「はい、このタオル使って、キョロキョロ見ないで! 上着脱いで、乾燥機で乾かしたげるから」
もじもじしてると怒られた。
「なにしてるの! 上着脱ぐくらいなによ。それともそのずぶぬれのまま帰る!?」
龍恩智が上着を抱えて出ていったあと、八畳ほどの部屋をゆっくりと眺めた。
白い家具で統一されたシンプルな部屋。真っ白な机の上にノートPC、くくりつけの本棚にはびっしりと小説が詰め込まれていた。どうやらマンガはないみたい。
シングルベッドの枠も白。シーツの上にはそこだけ乱雑にピンクのパジャマが無造作に放り投げてあった。
女の子の部屋に入ったのなんて初めてだった。なんだかパジャマを見てるだけでドキドキした。それに得も言われぬいい匂いがする。龍恩智柊のいつもの匂い。
どうしてもピンクのパジャマから視線を外せない。なんたってその皺くちゃの間から白いものがかすかに見えてるのだ。
あれは龍恩智の下着なのか? そうなのか!?
「なに見てるの!」いつの間にか後ろに龍恩智。
「ベ、ベ、別になにも見てません……」
「はい、乾いたわ……髪ちゃんと拭いた? バカね、まだ全然乾いてないじゃない!」
柊が乾いたポロシャツを首にかけてくれる。
柊が僕からタオルを奪い取り頭に載せた。
髪の毛をかきむしるみたいに乱雑に拭く。
必然的に柊の豊かすぎる胸が僕の眼前にあった。
柊の着ていたTシャツも濡れていて、僕の頭の中は一瞬にして桃色に染まった。
純白のブラのラインが透けて見えたのだ。
「龍恩智さん……好きです……」
ぼーっとした頭で柊を見上げた。
「なに? こら! なに考えてるの?」
動きを止めた柊の頬が赤く染まる。
分からない。全く分からない衝動が僕を突き動かす。
「龍恩智さん! 好きです。大好きです」
僕は龍恩智の胸に顔を埋め両腕で思いっきりしがみついた。
「バカ! やめなさい。渡辺! こら! やめろったら、手を放せ!」
「無理です。放さない。どんなに軽蔑されようと放さない。もう二度とこんな機会はこな いかもしれない。だから、少しの間だけ、こうしていたいです!」
「やめて、お願い渡辺クン……こんなこと、お願いだからやめて……」
抵抗が弱まった柊にさらに調子に乗った僕は唇を近づけた。
硬直したまま柊はびくりともしない。
瞳孔が開いたままの柊に強引にキスをせがんだ。
唇が触れたまま一分、二分……柊は、僕の突飛な行動に驚いたのか無抵抗のままだ。
柊の身体は硬直したまま、心臓の高鳴りだけがこの部屋を満たす。
「や、やめて……渡辺クン。もういい。放れて、帰って……」
額に滴がこぼれた。柊の瞳から大粒の涙が溢れては流れた。
「ご、ごめんなさい! 龍恩智さん」
平手が飛んだ。龍恩智の右手が僕の頬を直撃。
「ごめんなさい。ほんとごめんなさい」
なんてことをしてしまったんだ僕は……強引に唇を奪い、龍恩智を泣かせてしまった。
龍恩智は握った掌で唇を力いっぱい拭いている。まるでなにか汚れたものを落とすみたいな勢いで一心不乱に拭いていた。涙は止まない雨みたいに後から後から溢れている。
「なぜ、こんなことしたの? わたしのことなんにも知りもしなくせに……許せない。早く出てってったら!」
「分かりました。ほんとにすみませんでした」
どう取り繕っていいのか? 取り返しのつかないことをしてしまった。後悔した。
僕の初恋は完全に終わった。自らぶち壊した、そんな気持ちが押し寄せた。
ま、キルケゴールみたいに恋する前から失恋してたようなものなのだから、龍恩智さん のような女の子に恋心を抱いたのがそもそもの間違いなのだから……。
ネガティブな感情に押しつぶされそうになった。
頭の中でいろんな思いが錯綜する。
ドアノブに手をかけた。
「渡辺クン、何度も言ったはずよ! あなたなんか好きにならないって……あなたがコクってきた時だって迷っていた。他の男の子と違う匂いがしたの……君とならなんとかなるかもって思ったの。
自分の特異性に気付いた時、自分を呪ったわ。なぜ、なぜ、こんなはずじゃなかったって。誰もがわたしを綺麗だと言い、何度も付き合ってって言われたの……でも……」
「なにが言いたいんですか龍恩智さん。ぼ、僕は取り返しのつかないことをしてしまった。今は後悔の念で死にたいくらいです。貴女の優しさにつけこんだのは僕です。貴女はなにも悪くない」
「いい渡辺クン。よーく聞いて。わたしは貴方を絶対好きにはならないの」
「もういいです。何度も聞きました、ほんとにもう諦めます。龍恩智さんみたいな女の子、僕には結局手が届かないんだ」
沈黙……窓を打ち付ける雨の音だけがやけに響く。
「そうじゃない。そうじゃないの! わたしはね、わたしは同性にしか好意を感じないの……男が嫌いなの! 男に抱きしめられたのなんて貴方が初めてなのよ!」
「はぁ……?」
恋は盲目・・・
「渡辺クン……」
昼休み、購買でコッペパンと粒あんドーナッツと牛乳パックを買い、いつもの屋上の日陰に逃げ込んだ。
蜩がここぞとばかりに唸り声にも似た鳴き声を四方に発散する。
空は抜けるような群青、雲は頭上高くそびえ、夏はあくまでも夏らしく辺りを染める。
ここは僕が見つけた特等席。ぼっちにはぴったりの場所。すでに夏休み前だってのにいまだ友だちゼロ。
仕方ない。新天地を求めわざわざこんな高校へ越境してきたんだもの。しかし、やっぱり僕の居場所はなかった。
龍恩智に教室できっぱり振られた僕に向けられる視線は冷たい。
教室でコクるなんてのはまともな人間のすることじゃないらしい。
結局、変人扱いを受け、孤立したままだ。ま、はびられて虐めに合うよりはましか。
「はぁ?」
「お、お邪魔じゃないかしら?」
日差しに照らされたシルエット……オカッパ(マッシュルームカットと言うそうだ。あとから本人に聞いた)なんて今時流行らない髪型。消え入るような声。
「観音崎さん……?」
「そこ座っていい?」
「はぁ……ああ、どうぞ」
教室では全く目立たない。観音崎静香とは多分挨拶程度で一度も話したことなどなかった。
観音崎は持ってきたハンカチを広げ、僕の横に座り込んだ。
「お弁当、食べてもいい?」
断る理由はない。僕は無言で頷く。
クマのイラストが描かれた可愛い弁当箱を出し、観音崎はゆっくりと箸を動かす、
ちら見する。へえ、よく見るとかなり可愛い。
知らずに落ちているのが恋だ。募るほど知りたくなるのが愛だ。
渡辺
龍恩智柊(りゅうおんじ ひいらぎ)
小野寺健(おのでら たける)