ポチタマ事件簿① ――都会のツバメ――

ポチタマ事件簿① ――都会のツバメ――

[まえがき]

プロローグ


 東京郊外のマンション。
 東京とはいえ、閑静さが売りの住宅地ともなると、夜の十時を過ぎれば人通りも少ない。
 スーツ姿の男が一人、街灯に照らされた車道を自転車で走り抜ける。
 自宅マンションへの帰路だ。

「東京じゃないみたいだな」

 地方出身の男からすると、東京ならどこでも都会のような印象がある。
 しかし、このような人の姿もまばらな光景は、地元にいるような錯覚を覚えた。
 その気安さもあって、この場所にあるマンションを買ったのである。
 築21年、11階建の白い外壁。
 個性的なデザインでもなく、ごくありふれたマンションだった。

 男は、マンションの裏側にある駐輪場――ここもオートロックだ――へ入る。
 決められた区画に自転車を停め、きちんと鍵をかけた。
 ――チャリン。

「おっと……」

 男は自転車の鍵を落としてしまった。
 運悪く自転車のスタンドに当たり、跳ねた鍵は、駐輪場の奥の方へ転がる。

「チッ」

 男は軽く舌打ちをして、鍵を拾いに行った。
 ほんの数歩。
 たったそれだけでも、普段とは違う位置から見ると、見慣れた場所にも意外な発見があるものだ。

「あれ? あんなところに通路があったんだ?」

 駐輪場の奥に、扉一枚分の大きさの開口部があった。
 普段ならコンクリートの柱で死角になっている位置である。
 マンション側面の点検用か、通風や採光用の開口部だろう。
 あるいはデザイン性――見えにくい場所なのに――を求めてのことかもしれない。
 それは一見すると通路にも見えた。
 その開口部の先には、隣のマンションの薄汚れた外壁と、暖色のライトに照らされた観葉植物が見える。
 男は眉間にしわをよせた。

「……あんなとこに電気つけて、無駄な管理費使いやがって」

 先日の管理組合の総会でも、無駄な管理費が多いと指摘があった。
 外から見えるでもない、隣のマンションとの数メートルのスペースに、ライトやら観葉植物やらを置くのも無駄ではないか。
 男はそう思った。
 地面には茶色っぽい筒状の物体がいくつか転がっている。
 空っぽの植木鉢だろう。

「まったく、あの鉢だって管理費で買っているんだろうに。……あれ?」

 植木鉢のうち、ひとつだけ、少し形が異なっている。
 ライトの角度が悪いせいか、薄暗いので、はっきりとは見えない。
 丸みが似ているが、あれは……。
 植木鉢ではなく、茶色の革靴――か?
 靴のかかとの曲線が、遠目に見ると、植木鉢のそれと似ているのである。

「……なんであんなところに?」

 男は目を凝らした。
 転がる革靴。
 そこから伸びる黒い影。
 いや、黒いソックス。
 それだけではない。
 中身――黒いソックスに包まれた人間の足首が伸びている。
 黒いソックスは血でどす黒く染まっていた。

「あ……きゅ、救急車! 救急車ぁ!!」



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第一章 ポチとタマ

「ポチ!!」

 会社の受付嬢の大声に、周りにいた人たちは「どこに犬がいるんだろう?」とあたりを見渡した。
 受付嬢はお構いなしに、『ポチ』を呼び続ける。

「ちょっと、ポチってば! おーい!」 

 呼びかけは、始業時間を過ぎてから出社してきた若い男性社員へ向けて言っている。
 男性社員はもちろん人間だ。

「うるさいな、タマ!」

 男性社員は不機嫌さを隠そうとせず、受付嬢をにらみつけた。
『タマ』と呼ばれた受付嬢はネコである――ということもなく、もちろん人間だ。

「会社でポチ呼ばわりするなって何度も――」

「そんなだらしないカッコで出社して。朝くらいシャッキっとしなさい!」

 タマはポチの話などお構いなしにお説教した。
 タマの隣にいる新人受付嬢は、会社らしくないやりとりに目を丸くしている。

「あぁ、気にしないでね。あの人は『ポチ』ってゆうの。雰囲気がポチっぽいでしょ」

 タマはそう言って、にっこりと後輩へ微笑みかけた。
 新人受付嬢は、ポチをちらっと見て、ぷっと吹き出した。
 確かに「ポチっぽい」と思ったのだろう。
 ポチは無駄を承知で説明する。

「ポチじゃなくて『トシオ』だよ。大島俊夫」

「『トシ』がなまって『ポチ』になったのよ」

 タマが余計な補足情報を面白そうに付け加えた。
 ポチはタマをひと睨みすると、新人受付嬢へ説明を続ける。

「あと、キミの隣にいる『前田たまき』とはただの幼なじみ。公私の区別ができないところは見習っちゃダメだよ?」

「は~い、分かりましたぁ」
 
 新人受付嬢はくすくすと笑いながら返事をした。
 その目は完全に『ポチ』を見る目である。
 ポチのアドバイスは、新人受付嬢の記憶の片隅に残るかどうかはあやしそうだ。
 タマはその光景を、ネコのように瞳を爛々と輝かせて眺めている。

「ン~? 幼なじみっていうよりもクサレ縁よね。あたしは早く切りたいんだけどな。でも、ポチが捨て犬になるみたいでカワイソーだしぃ?」

 タマは腕を組んで、わざとらしく考え込む素振りをした。
 ポチは顔をしかめて、受付を早足で通り過ぎる。

「あ、ちょっと、ポチ!」

 ポチは無視して歩き続けた。
 後ろからタマの声が聞こえる。

「もう! ――大変だったのは分かるけど、ネクタイくらいちゃんとしていきなさいよ!」

 ポチは返事をせずにそのままエレベーターに乗った。
 

 
 ポチを乗せたエレベーターは静かに上昇を始めた。
 同乗者はニヤニヤしているが、こういう時は無視するに限る。

「……おい、ポチ」

 小声で声をかけられた。
 同期の社員だ。
 特に親しいわけでもないが、さすがに無視もできない。

「――おはよ」

「ポチ、いま出勤か?」

「まあな。一応、直行だけど」

 ポチはマンション管理部に勤務している。
 管理物件で何かあれば、会社へ出勤せずに、朝一番で直行するのだ。
 自殺でもあった日などは、『朝一番』ではなく、『夜中の一時』ということもある――今日のように。

「マンション管理部は大変そうだなぁ? 俺ら経理課には直行なんかないし」

 同期の男は、さらりと言った。
 もちろん、自殺の件は知らない。
 それは他の部署にも極秘事項だからだ。
 同期の男の言う「大変」とは、単に直行で朝早いからということになる。

「ああ、でも、受付の子に『大変ね』なんて言ってもらえるから、いいよな~」

「……そうでもないさ」

 タマの言う『大変』とは、直行だからではなく、『知っている』からだ。
 ――管理物件で自殺があったということを。
 もちろん、ポチが話したわけではない。
 タマ自身の情報網で、極秘事項を知りえたのである。
 やたら知られていると思うと、いろいろとやりにくいものだ。

 同期の男は、小声をさらにひそめた。
 ――とはいえ、エレベーター内にいる者にはどうしても聞こえてしまうが。

「なあ、ポチ? 今度さ、たまきちゃんに合コンをセットしてって頼んでくれないか?」

「またその話かよ」

「たまきちゃんが声かければ、秘書室の子たちだって来るだろうし」

 秘書室の女性社員――いわゆる秘書――は、ポチたちにとっては高嶺の花である。
 とても合コンなど誘えるような雰囲気ではない。
 しかし、社内で――とくに若い女性社員に――強い影響力を持つタマが誘えば、話は別だ。

 タマは社長令嬢でもなく大株主でもない。
 入社も、コネクションでもなくヘッドハンティングでもなく。
 一般採用の一般職、配属は総務課の受付業務――いわゆる受付嬢である。

 そのタマが、極秘事項をも知りえる情報網を持つ理由、そして社内に強い影響力を持つきっかけ。
 それは――ポチも知らない。
 タマに何度聞いても、含みのある笑みでかわされてしまうのだ。

 人づてに聞いた話では、二人の女性管理職による激しい派閥争いの収拾に、タマが重要な役割を担ったとか。
 その派閥争いは、社長や会長でさえ口出しができない、恐ろしいまでの『女の争い』だったそうだ。
 その一件以来、タマは年功や役職を超越して、女性管理職の二人の盟友となり、女性社員のナンバー3と目されるようになった――らしい。
 その結果の情報網と影響力ということのようだった。

 タマはちょっとしたカリスマだ。
 しかし、入社三年目の若手社員であることや、親しみやすい人柄もあり、男女の別に関わらず多くの社員から人気があった。

「――おい、ポチ? 聞いてるか?」

「え? ……ああ、聞いてるよ。一応、タマには言ってみるよ」

「ホントか! 頼むぜ。いやー、幼なじみっていいよな~」
 
 経理課の同期は、そう言ってエレベーターを軽い足取りで降りて行った。
 
 ポチは複雑な思いだった。 
 
 幼なじみが悪いとは思わない。
 
 しかし、女子社員にカリスマ的な影響力があるのはどうか思う。
 
 タマが一言『ポチ』と呼べば、それで確定になってしまうのだから……。
 
 ――ポチはネクタイをきちんと締め直した。
 
 タマに言われたとおりに。


 マンション管理部のフロア。
 パソコンを置いた事務机や、アルミの書類棚が整然と並んでいる。
 社員の姿はまばらで、この時間ならすでに外回りに出ている方が多い。

 ポチは自分の机にかばんを置いた。
 一息つく暇もなく、課長が少し離れた席から手招きをしている。
 遅刻を叱責されるのではない。
 自殺があって警察の聴取を受けたことは、すでに電話で報告済みである。
 しかし、課長の眉間には、離れていても分かるくらい深いしわが寄っている。

「ツイてないな」

 隣の席の同僚だ。
 同僚はポチの肩を叩いた。
 その表情は、憐れみ半分、他人ごと半分。
 同僚は小声で言う。

「課長、朝イチで部長から詰められてたから、かなりイってるぜ」

「マジで? はぁ、たまんねーなぁ……」

 ポチと同僚は、巧みに課長から見えない角度でぼやきあった。

「大島ァ!! 呼んでるんだからさっさと来い!」

「は、はいっ!!!」

ポチは大急ぎで課長の席へ走った。


 ――日本の自殺者は年間三万人あまり。
 東京は約三千人でダントツの一位。
 二位の大阪で約二千人、三位の神奈川では約千九百人。
 東京でマンション管理を生業にしていれば、自殺に出くわすのも仕方ないのかも知れない。
 しかし、同僚の言う『ツイてない』というのは、自殺に出くわしたこと自体ではない。
 もちろん、課長が著しく不機嫌だということだけでもない。
『ツイてない』というのは、自殺の方法が、『飛び降り自殺』だということだ。
 今回の事故(自殺のことを「事故」と称するのだ)は、飛び降り自殺――『共用部分での自殺』である。
 それは、共有部分の持ち主である『所有者全員に影響する自殺』であることを示していた。
 さらに、警察が介入しているので『表沙汰になっている』――隠ぺいができなかった――ことも不運と言えた。

 本来、管理上の過失でもなければ、管理会社には自殺に関しての責任はない。
 しかし、所有者たちは、自分たちに不利益があれば、それを事業者である管理会社に転嫁しようとする。
 悪しき消費者心理の産物である。
 管理会社には不利益を補てんするような義務もなく、かといって委託契約を切られたくもないので、やんわりと責任回避をするのだ。
 その矢面に立つのは、ポチたち管理会社の担当者である。
 担当者は、自らに落ち度はないのに、所有者たちに責められ、会社の上司からは叱責され、転嫁しようもないストレスを背負わされる。
 最終的には、これこそがポチたちの言う『ツイてない』ということなのだ……。


「課長、遅くなってすみませんでした」

 ポチは、表面だけは申し訳なさそうなふりをした。

「まったく、なにやってるんだ!」

「警察の聴取が長引きまして……」

「そんなこと言ってるんじゃない!」

「は? ――と言いますと?」

「常務があのマンションを持ってるのは知ってるだろが!」

 課長はいらいらした仕草でたばこに火をつけた。

「あ、はい。そうでした」

「ったく、そのマンションで自殺を起こすなんて」

「いや、ちょっと待ってくださいよ。僕が自殺したわけじゃないんですから……」

「そんなのはわかってる! 揚げ足を取るんじゃない!!」

「――はい、すみません」

「俺が言ってる意味がわかんないのか!?」

「――はい、すみません」

「どうにか自殺をゴマかせなかったのかって言ってるんだ!」

「――はい、すみま……って、いえ、さすがにそれは……」

「なんだ?」

「……すでに表沙汰になっていたので無理でした」

 課長の眼光が一段と鋭くなった。


 ――キレイごとだけではメシは食えない。
 管理会社は『表沙汰にしない対応』をすることで所有者から好感を得られるのだ。
 例えば、部屋の中での自殺なら、警察の現場検証はマンションの一室の中だけで行われる。
 発見するのは自殺者の親族がほとんどなので、目撃者も野次馬もまずいない。
 親族は自殺のことを内緒にしたがるので、自殺の事実が周辺に漏れることも少ない。
 自殺とはセンシティブ情報(機微な情報)で、その守秘は個人情報保護法でも定められており、管理会社としては法的な義務がある――という建前によって、管理組合に対しては敢えて報告をしない。
 あくまで専有部分――個人所有の一室の中――での出来事という体裁だからだ。 

 あるいは、管理組合の理事長にだけ報告して、所有者へ情報開示は理事長判断ということで、管理会社の責任を回避する。
 理事長も、一個人としてはマンションの所有者なので、自殺という自分のマンションの価値を落とすような要素は、できれば内密にしておきたい。
 こうして自殺という出来事は表沙汰にならず隠ぺいされる。
 自殺が隠ぺいされた部屋を売るなり貸すなりするにあたり、自殺の事実を敢えて明示する所有者はほとんどいない。
 そのため、管理会社が『表沙汰にしない対応』をすることで、文句を言う所有者は皆無といってよかった。

 今回のケースはどうだろうか。
 飛び降り自殺の遺体は駐輪場のすぐ横で見つかっている。
 第一発見者のほかにも、駐輪場の利用者や騒ぎを聞きつけた目撃者や、野次馬も多かっただろう。
 通報により現場には警察も到着しており、隠しようもない
 いや、もし隠せたとしても、それは立派な犯罪――死体遺棄で三年以下の懲役だ。

 例えば、誰も見てなかった――という悪魔のささやきもあるだろう。
 しかし、壁に耳あり障子に目あり、マンションには防犯カメラあり――だ。
 課長の言う、「ゴマかせ」というのは無理というものだろう……。


「大島ぁ! それをどうにかするのがおまえの仕事だろ!! あぁ!? おまえがやるのと違うんか!!」

「――はい、すみません」

 もし本当に『どうにか』した場合、発覚すれば高い確率でポチは懲役三年以下の『堀の中』生活だ。
 今回に限らず、この課長の言い分を過不足なく実践した場合、一年も経たないうちにポチたち課員の全員が懲役刑になってしまうだろう。
 しかし、少しでも口答えすれば、課長の逆鱗に触れる。
 課員たちにとって、最も被害を少なくできる魔法の言葉が『はい、すみません』だった。
 ポチも、今だけで何回、唱えただろうか。

 しかし、今日の課長はさらにヒートアップする。
 部長のせいかもしれない。
 きっとそうだ。

「いいか! 俺が若い頃はなぁ、こんくらいの自殺なんか、隣の敷地まで死体を引きずっていったもんだ!」

 課長は自分の熱弁を聞けとばかりに、課員全員を見渡した。
 課長の大演説の始まり。
 要領の良い課員は、携帯電話で話すふりをして外へ出て行った。
 間に合わなかった課員は、課長の熱弁を神妙に聞くふりをした。

「全部を隣へ持ってく必要はないんだよ! 上半身、体の三分の二が向こう側ならいいんだ! そうすりゃ、発見場所は隣のマンションにできるんだ!」

 課長は、怪しげな自論を展開した。

「万が一、落ちた場所と違うなんて警察に言われても、転落の勢いで弾んで転がったんだ、くらい言っときゃ大丈夫だ! あいつらだって、自殺で処理をさっさと終わらせたいんだから、いちいち調べやしない」

 そういう警察ウラ事情もあるのかも知れないが、だからといって死体遺棄をして良いという理屈にはならない。

「ただ、同業者には要注意だ」

 課長は意味ありげにポチを見た。

「昔、俺が死体を隣にぶん投げたときだが、警察を連れて現場に帰ってきたら、死体がこっち側へ戻ってきていやがった」

「は? 死体が動いたんですか?」

「ばかやろう、死体が動くかよ! 隣のマンションの管理人が、俺の真似してこっち側へぶん投げたんだよ」

 ニヤリ、と課長は笑った。
 おそらく、これは実話ではなく、課長のネタ話なのだろう。
 ポチたち課員は愛想笑いをした方が良いのか迷った。
 課長は笑いをさっとひっこめて、改めて眉間にしわを寄せる。

「大島ァ! おまえが俺と同じ行動をして、それで表沙汰になったんなら、そりゃ仕方ないだろう。だが、実際にはどうだ? おまえはなにもやってねーだろうが! 違うか!?」

「――はい、すみません」

 うつむくポチに対し、さらに課長は怒鳴ろうと息を吸い込んだ。
 それを遮るように、課員の一人が恐る恐る声をかける。

「あ、あの、課長、外線に警察から電話です……」

「チッ!」

 課長は舌打ちをして受話器を取った。

「ハイ! お電話代わらせていただきましたぁ。ハイ、ハイ、いつもお世話さまでございますぅ~」

 課長の変わり身の早さは天下一品だと、ポチは思った。

「ハイ! ハイ! ハイ! かしこまりました! では、のちほど、ウチの者を向かわせますので! ハイ、失礼いたしますぅ~」

 課長はそう言って、電話機に受話器を戻したが、すぐには切らずに、ゆっくり三十秒くらい数えてから、恐ろしく丁寧に受話器を置いた。

「大島、別件でまた警察だ」

「は? 別件……ですか?」

「そうだ。別のマンションだが、そこの居住者について調べているそうだ」

「はぁ」

「管理人への事情聴取に、おまえ、立ち会ってこい」

「はい! 分かりました!」

 ポチは喜んで返事をした。
 事情聴取の立ち会いなどは、普段なら遠慮したい仕事だ。
 しかし、いま課長から逃れられるのなら、どんな仕事でも構わなかった。
 ポチは、舞うように自分の机に戻ると、かばんを抱きしめるようにして、管理部を飛び出していった。
 ――行き先のマンション名も、警察との約束の時間も聞かずに。

「おい、大島!! ――ったく! だれか、メールでもしておけ」

 課長は不機嫌そうに椅子へ腰を下ろす。
 そして、次の獲物を探すかのように課内を見回した。



 管理部を飛び出したポチは、マンションの管理人室にいた。
 管理人に対する警察の事情聴取に立ち会うためである。
 普段なら面倒くさいような仕事でも、課長の怒声から逃れられるのでありがたかった。
 管理人室の時計を見ると、警察の指定した時刻を三分ほど過ぎていた。

「まだ来ないのかねぇ」

 高齢者センター派遣の管理人は、ややいら立ったようにつぶやいた。
 同じセリフをもう五回目だ

「そろそろ来るんじゃないですか」

 ポチは、根拠もない回答を、同じく五回繰り返すことになった
 まだ若いポチは、組織上は部下にあたる管理人に対しても、年長者に対する敬意から敬語を使う。
 課長に対するそれに比べれば、かなり砕けた口調だが。
 そうでなければ、同じやりとりの三回目あたりで怒鳴りつけているところだ。
 
 一方、年配の管理人たちは、ポチという若い上司に対してそれなりの接し方をする。
 敬語を使わない管理人も少なくないが、かといって「ポチ」と呼ぶような管理人もさすがにいない。
 長い社会経験があるので、そのあたりの折り合いはさすがに上手だった。

「今夜はねぇ、娘が孫を連れてご飯を食べにくるんだよ」

 だから早く帰りたい、とまでは口出さない。
 だが、容易に察することができた。
 
 今回の警察の聴取は形式的なもののはずだが、それなりに時間は取られるだろう。
 警察の来るのが遅くなれば、その分、帰宅時間も遅くなってしまう。
 年配の管理人にとっては、仕事よりも孫と過ごす時間の方が大切なのだろう。
 ポチが何か言おうとしたとき、管理人室のインターフォンが鳴った。
 管理人は、早く帰りたがっている割には、のんびりとした動作でインターフォンを取った。

「はい、管理人室です」

「練馬西署の白田です」

(シロタ?)

 ポチは首をかしげた。
 旧式モニターのぼわっとした画面には、警察手帳らしき黒い物体を開いたスーツ姿の男が映っている。
 体格や髪形などは分かるが、顔の細かい造りまでは分からない。
 手帳に貼ってある写真や警察のエンブレムなどは、もちろん識別できない。
 古いマンションについているインターフォンの画質はこんなものである。
 管理人はこの画質で見慣れていた。
 訪問者の顔が見えないことなど意に介さない。

「あぁ、お待ちしてましたよ。――いま開けます」

 管理人が解錠ボタンを押した。
 自動ドアが開き、刑事がエントランスへ入ってきた。
 管理人が管理人室のドアを開け、

「こっちこっち」

 と、手招きして刑事を呼んだ。
 若い刑事は、礼儀正しく一礼してから入ってきた。

「おじゃまします。――あれ、ポチじゃないか?」

 開口一番、若い刑事はポチを見て声をあげた。

「やっぱりシロか」

 ポチは笑いながら手をあげた。
 管理人は、ポチと白田刑事――シロを交互に眺める。

「なんだい、知り合いかい?」

「ええ、同級生です」

「高校・大学と一緒で、アダ名が『ポチ』『シロ』だったんで、犬コンビとか呼ばれてました」

 ポチとシロは複雑な笑いを浮かべた。
 シロが表情を引き締め、ややわざとらしく咳ばらいをした。

「ゴホンゴホン! ――ええと、今回はこちらの入居者の件でお話を伺いに来ました」

「ああ、はい。……どんなことでしょう?」

 管理人の顔が引き締まった。

「こちらにお住まいの『鈴木達也』(すずき たつや)さん、ご存知ですよね?」

「あー、えー、まあ、名前だけは」

「うん? と言いますと?」

「いやぁ、仕事なんでねぇ、入居者さんの名前は覚えてますが、会ったこともない人の方が多いくらいですわ」

 管理人はそう言って笑うと、机の引き出しからファイルを取り出して、ページをめくった。

「ええと、――あったあった。鈴木達也さん、305号室、独身の五十歳――という届出がありますなぁ」

「直接、お会いになったことはないんですか?」

「ええ、まあ。鈴木さんの隣の人から聞いた話ですけどね、鈴木さんは朝六時くらいに出かけるんですわ。わたしゃ、八時出勤で夕方には帰っちゃいますから」

「なるほど。――その隣の人は鈴木さんと親しいのでしょうか?」

「いやぁ、たま~に部屋の前でばったり会った時に会釈するくらいだそうですよ」

「そうですか……」

「あぁ、あと、目覚ましの音がうるさいとかなんとか言ってたけれど、それも苦情というほどでもないみたいだし」

「ほう! 仲が悪かった、と?」

 シロは少しだけ身を乗り出した。

「いやぁ、そんなんじゃないでしょ。よくある、ご近所のウワサ話の類ですよ」

「でも騒音トラブルがあったのでは?」

「マンションなんかどこも多少の騒音トラブルを抱えてるもんですよ。ましてや、朝の目覚ましの音だから。――刑事さんだって、マンションに住んだことあればわかるでしょ?」

「はあ、まあ。――では、鈴木さんと仲の悪かった人やトラブルになっていた人はいますか?」

「う~ん……聞いたことないねぇ。あまり近所と関わる感じの人じゃないみたいですよ」

「近所つきあいは苦手な人だと?」

「まあねぇ。ただ、マンション内で近所つきあいしている人なんてね、そういませんよ。このマンションでいえば、一割もいないでしょうねぇ」

「なるほど、そういう意味では変わったところのある人ではなかったと?」

「そうですねぇ、管理人からしてみれば、その他大勢の入居者さんと同じですねぇ」

「……そうですか」

 シロは手帳に目を落として考え込んだ。
 その姿は、飼い主に散歩をすっぽかされてしょげている白い犬に似ている。
 管理人は役に立てなくて申し訳ないと思ったかもしれない。

「ああ、刑事さん、お茶も差し上げないで、すみません」

 管理人は席を立って、狭い管理人室の一角にある流し台へ向かった。
 おかまいなく、とシロは口の中でモゴモゴと言った。
 ポチは、捜査の邪魔をしないように黙っていたが、そろそろ構わないだろうと口を開いた。

「シロ。その、鈴木氏は何をやったんだ?」

「何もやってないよ」

 シロは手帳を見つめたまま、そう答えた。

「それじゃ、わざわざ刑事が来やしないだろ?」

 シロは手帳をパタン、と閉じてポチの顔を見た

「ホントに何もやってないんだよ。ただ、行方不明届――俗にいう捜索願が出されただけ」

「それって、刑事が調べるものか?」

「いや、事故や事件に巻き込まれた可能性があるケースだけ」

「え!? じゃあ鈴木氏も……」

「まあな。――ただ、今回はちょっと事情がな」

「事情?」

「捜索願を出したのは鈴木氏の勤務先の社長で、ウチの署長とゴルフ仲間」

「は? ゴルフ?」

「警備関係の会社だって言ってたから、署長の天下り先候補の一つだろう」

「そ、そうなんだ……」

「その社長が言うには鈴木氏はいなくなる数日前から『人生がつらい』とか言い出した。自殺でもしたんじゃないかと。で、ウチの署長にネジこんで俺らが捜索にあたらされてるってわけだ」

 シロは一気に吐き出すように言った。
 署長に私用で使われているみたいで面白くないのだろう。

「そういうのってアリなのか?」

「ナシだろ、フツー。それに捜索願なんか原則家族じゃなきゃ出せないんだし」

「鈴木氏の家族は?」

「兄貴がいるらしいが、社長はそれ以外のこと――兄貴の住所や職業とか、生きてるかどうかも聞いたことがないらしい」

「ふ~ん。ということは、ウチの管理人への聴取はそんなに大事ではない?」

「そうは言わないさ。最後の足取りの情報は、近所からの聞き込みが有力だから」

「でも空振りだろ? ウチの管理人だって知らないんだし――」

 ポチは管理人をちらりと見た。
 管理人はウンウンとうなづいている。

「あ、写真とかはないのか?」

「一応、あるけど」

 シロは手帳から一枚の写真を取り出した。

「でも、ポチも管理人さんも、鈴木氏と会ったことないんだろ?」

 シロは写真を管理人へ渡した。
 それは社員旅行の写真のようだった。

「うーん、見覚えないですなぁ」

 管理人は写真を片手に、眼鏡を外したり、写真を遠ざけたりして見た。
 ポチは管理人の後ろから、ひょいっと写真を覗き込んだ。

「あっ!!」

 ポチの大声に、シロと管理人は驚いた。
 ポチは写真を凝視している。

「似てる……。たぶん、この人だ」

 シロの表情がすっと鋭くなる。

「ポチ、知ってるのか?」
「――昨夜、ウチの管理物件で自殺した人だよ」



 夜十時ジャスト。
 ポチは自宅マンションのエレベーターのボタンを押した。

「はぁ~、やっとか……」

 疲れて帰るのはいつものことだが、今日は警察絡みが多かったのでなおさら疲れた。
 エレベーターに乗り込み、自宅のあるフロアのボタンを押す。
 エレベーターは静かに動き出した。
 
 着くまでの短い時間で携帯電話をチェックする。
 曜日や時間にお構いなしの社風なので、着信やメールのこまめなチェックは、ちょっとした職業病である。
 幸い、着信もメールもなかった。
 ほっとする一瞬。
 ドアが開き、エレベーターから降りた。

 歩きながら自宅の鍵を取り出し、玄関ドアの鍵をがちゃりと開ける。
 ドアを開けると、リビングの灯りが薄暗い玄関を照らしていた。
 ポチは一人暮らしだ。
 電気をつけっぱなしで出かけたか、空き巣に入られたか、あるいは……。

「あ、ポチ。おかえりー」

 部屋の奥から、明るい女性の声――聞きなれた――がポチを迎えた。
 その声で、ポチの眉間にしわが生まれた。

「はぁ、……またか」

 ポチは小さな声でつぶやいた。
 玄関にはパンプスが、きれいに揃えて脱いである。
 ポチは、パンプスとは対照的に、無造作に靴を脱いで、どかどかと部屋の中へ入った。
 
 広めのリビングに、大きなソファーと大型テレビ、壁一面の作りつけの本棚。
 そして、自分の部屋のようにくつろいでいるタマ。
 その目は手元の文庫本――ミステリー小説――へ注がれている。

「ン~、『ただいま』くらい言いなさいよ~」

 タマは、ページをめくりながらそう言った。
 そして、小説から目を離さずに、片手で器用に缶ビールをぷしゅっと開ける。

「……タマ。何度言ったら分かるんだ」

「ン~? なーにー?」

 タマは缶ビールに口をつけながら、無邪気に答えた。
 しかし、視線は手元の本へ注がれたままだ。
 ポチの目が鋭くなる。

「ここは俺んちであって、おまえんちじゃない」

「ここはキミんちであって、あたしんちじゃない。うん、知ってるよ」

 タマは、本をぱたんと閉じると、テーブルの上の『本のタワー』のてっぺんに積んだ。
 絶妙のバランスでそびえたつタワー。
 それは有名なミステリー小説のシリーズ全巻で建造されている。
 ポチは、倒壊しそうで危ないと思ったが、

「じゃあ、なんで俺んちに勝手に上がりこんで、俺のビールを勝手に飲んでるんだ」

 と、タマを追求した。

「ビールくらい、いいじゃない。ポチはそーゆーとこ、子供の頃からケチよねぇ」

「そういう問題じゃない!」

「あー、ハイハイっと。『勝手に作った合鍵で入るな』――でしょ?」

「――そうだよ」

「それと、『俺たちは付き合ってる訳じゃないんだから』――でしょ?」

「――そうだよ」

「ワカッテマスヨー。――あ、飲む?」

 棒読み口調のタマは、まだ開けてない缶ビールをポチに差し出した。

「ホントに分かってんのか? ――ビールはいらないよ」

「じゃ、コーヒー?」

「うん」

「りょーかいっ!」

 タマはさっと立ち上がってキッチンへ行った。
 ビールの空き缶を三本、ポチに見えないようにさりげなく隠しながら。
 ポチは半ば呆れたが、空き缶には言及せず、『本のタワー』を、ぽっかりと開いた本棚のスペースへ戻した。
 キッチンの方からタマの声が聞こえる。

「そこの出ている本、まだ読むからしまわないでね~」

「あー、分かったー」

 ポチは返事だけして、そのままソファーへ座った。
 しまった小説を、本棚に納めたままで。


 ――ポチがこの部屋を初めて見たとき。
 第一印象は「無用に大きな本棚のある部屋」だった。
 こういった個性や特徴を出した物件が人気というのは知っていた。
 隣室との境界壁に本棚を造作することで、騒音トラブルの回避にもなるのだ。
 それでも、千冊は収まろうかという本棚は、やや大きすぎるかも知れない。
 では、いざ自分が住むとなると、読書は好きだが、そこまでの愛書家という自負はない。
 ポチは違う物件にしようと思った。
 ――しかし。

「ン~? 本だけじゃなくて小物とか雑貨を置けばいいじゃない」

 タマのその一言で決まった。
 いや、「決められてしまった」と言った方が近い。
 
 とはいえ、収納の延長と思えば使い道もあるだろうと、ポチは考えた。
 ほどなくして、その考えが甘かったとすぐに気付く。
 入居して一ヶ月もしない間に、本棚は本で埋まってしまったのである。
 それはタマの愛読本――ミステリー小説だった。

 タマはミステリーマニアなのである。
 ポチの記憶では、タマは小学校に入って一年たたないうちに、図書室の子ども名作集の名探偵ものや怪盗ものを読破した。
 それ以来、国内外の名作からマイナーな作品まで、新旧問わず、幅広く読み続けている。
 ポチもミステリーが好きだったが、タマのようにコアな――マイナー作品の脇役の設定まで暗記するような領域には踏み込んでいなかった。

 一方、タマは、不思議なことに、自分がミステリーマニアであることを、他者には秘密にしていた。
 その秘密を知っているのは、ポチとタマの家族くらいである。
 隠れミステリーマニアのタマ。
 ポチが以前、秘密にする理由を尋ねると、

「ン~、ミステリーには『秘密』がつきものでしょ?」

 と、タマは答えになっていない回答をして、にっこりと笑った。
 かくして、ポチの部屋は、ミステリー小説がぎっしり詰まった大型本棚のある部屋となったのである。
 それは、タマには最高の居場所なのかも知れない。

 しかし、この部屋はポチ――独身の男――の部屋である。
 兄弟同然の幼なじみとはいえ、そんな部屋に若い女性が出入りするのはよくない。
 二人の間に何もない――タマは小説を読んでいるだけ――としても、周囲の誤解を招くのは間違いないだろう。
 近すぎて一緒にいることに違和感もないが、それだけに、気をつけなければいけない。
 以前、一回だけ起こった『失敗』。
 ポチは男であり、タマは女なのである。
 
 以来、『失敗』のことは二人の間で話題になったことはない。
 タマは気にしていないのか、それとも忘れているのか。
 ポチは、自分のせいでタマが婚期を逃すようなことがないように願っていた。
 父親の感覚なのだろうか。
 他の男と結婚してしまうのは正直、寂しい。
 しかし、しっかりした人と結婚して幸せになって欲しいと、本当に願ってもいた。
 自分の結婚はそれからだし、そうすることが自分の責任だとも思っている。
 夫婦や恋人になればいずれ別れることもある。
 それぞれ他の相手と結婚すれば、自分たちはずっと『幼なじみ』でいられるではないか。
 ポチはそんな風に思っていた。
 ポチは、なんとなく娘を嫁に出した父親の気分になっていた。


 ポチは、半ば無意識にテレビをつける。
 気分を切り替えるようにチャンネルを切り替えた。
 バラエティ、映画、情報番組、そして夜のニュース番組が映る。
 リコモンの手を止めた。
 政治、経済、国際情勢、殺人事件、動物の赤ちゃんの名前募集……。
 飛び降り自殺はニュースになっていないようだ。
 自殺というセンシティブ情報(機微情報)は、有名人でもない限り報道されないのである。

「――やっぱり、ニュースじゃやらないか」

「ン? なに?」

 コーヒーを載せたトレーを片手にタマが戻ってきた。
 白いブラウスに黒いタイトスカート――会社帰りの服装だ――と、トレーを手慣れた感じで扱い、姿勢正しくすらりとカッコイイ。
 黒いエプロンでも着ければ、老舗喫茶店のウェイトレスのようだ。
 ――顔はビールのせいで少し赤いが。

「……いつも思うんだけど、なんでコーヒー一杯をわざわざトレーで持ってくるんだ?」

「ン~、それっぽいでしょ?」

「『それ』って?」

「ナイショ」

 タマがコーヒーをテーブルへ置くために身をかがめた。
 白いブラウスの襟元から胸の谷間が見える。
 ポチは慌てて視線をそらせた。

「――金曜の夜にこんなとこ来てていいのか?」

「ン~? なんで?」

 タマはポチの隣に座って、さっき開けた缶ビールをおいしそうに飲んだ。

「余計なお世話だろうけど合コンとかさ。――彼氏いない歴何年だっけ?」

「あははっ、なんか面倒くさいのよね、そーゆーの」

「面倒くさいって……。おまえに彼氏ができたって話、聞いたことないぞ?」

「あたしもそう。キミに彼女ができたって話、聞いたことないぞ?」

「俺のはほとんどタマのせいだよ! みんなに『ポチ』って言いふらすから」

「あははっ、だって、キミのこと『ポチ』って紹介すると、みんな納得するよ? 見るからに『ポチ』っぽいのよ」

 犬好きの女性でも、『ポチ』というあだ名の男とは付き合おうと思わないはずだ。

「ね、ね。そんなことよりもさ」

 タマは目を輝かせている。
 その表情は獲物を見つけたネコのようだ。

「今日、大変だったんでしょ?」

「――やっぱり、知ってたのか? 飛び降り自殺の件」

「うん!」

 タマの情報網にかかれば、掃除のおばちゃんの生い立ちから、会長の愛人の化粧水のブランドまで、社内のことはなんでも筒抜けである。
 管理物件での自殺などはすぐに耳に入るのだろう。
 漏らす方には守秘義務があるはずだが、そんなものはどこ吹く風だ。
 なにせ、ポチの部屋の合鍵も、自社の管理物件というのをいいことに、タマの一声で管理部の担当者が複製してしまったのだ。
 もちろん、入居者であるポチには無断で。
 タマにはそれくらいの影響力――良くも悪くも――があった。
 もしも、自殺の件でポチが「守秘義務」という職責を全うしても、どうせ週明けにはタマの耳に入るだろう。
 ポチは早々にあきらめる。

「――タマはどこまで知ってる?」
 「ン~、常務の愛人が住んでいるマンションで飛び降りがあったってことだけかな?」
 「えっ、愛人!?」
 「もしかして、『常務の姪』が住んでるっていう話、信じてたの?」
 「う、うん」
 「あははっ。そんなのキミのとこの課長も知ってるはずよ」
 「そうなんだ……」
 
 課長が気にしていたのはこのことかも知れない。
 ポチはそう思った。

「あたしが知ってるのはこれくらいかな。警察の聴取もあったんでしょ?」

「うん、実は――」

 ポチは警察や管理人から聞いた内容をすべて話した。
 ちょうど、自分自身でも情報を整理したかったので、紙に書き出してみた。


・鈴木達也(スズキタツヤ・五十歳)
・死亡推定時間 午後六時から十時の間(来訪時の防犯カメラ時刻から遺体発見までの時間)
・遺書なし
・所持品(財布や携帯など)なし
・エントランス(正面玄関)から入り、屋上から飛び降りた
・靴は履いたまま
・屋上の施錠は不明(かけ忘れか?)


「これくらいかな」

 ポチはペンを置いた。
 横から紙を覗き込んでいたタマは、長い髪をかき上げながら疑問を口にした。

「遺書や所持品がないのに、名前はわかってるの?」

 ポチは、ちらりとタマの横顔を見た。
 ミステリー好きのタマは、顔を輝かせている。

「名前は後で分かったんだ。遺書でもあればすぐに分かったのかもしれないけど」

「そう……」

 タマは疑問がまだあるようだ。
 ポチはタマより先に疑問を口に出した。

「……遺書がないから、自殺じゃない可能性もありそうだな。靴も屋上で脱がずに、見つかったときは履いたままだったそうだし」

「ン~、飛び降りに作法がある訳じゃないけど、靴は脱がなくてもいいのよ。もともと、遺書が風で飛ばされないようにするために靴を置くんだから」

「へぇ~、そうなんだ」

「それに、遺書がないのも珍しくはないらしいよ。――突発的な自殺では、遺書なんか滅多にないそうだし」

「突発的に、か……」

 ポチは、コーヒーを一口すすった。

「――先輩の管理物件であったケースだけど。――ドライブ中のお母さんが、信号待ちでいきなり車から降りて、目の前にあったマンションから飛び降りたんだって。車の中で残されていた家族――小さな子どもたちは、呆然としていたそうだ」

 楽しいドライブが一転、小さな子どもたちの心はどれほど引き裂かれただろうか。

「かわいそうね……」

 タマの目じりにはうっすらと涙が浮かんだ。
 タマは幼いときに母親を病気で亡くしている。
 余計な話をしたようで、ポチは少し後味が悪かった。
 コーヒーをごくごくと飲む。
 後味の悪さをコーヒーの苦味でごまかした。

「――おまえさ、高校・大学と一緒だった白田って覚えてる?」

 ポチの唐突な話題転換に、タマは少し首を傾げる。

「ン? ――あ~、シロくんでしょ? 背が高くてカッコ良かったけど、キミと『犬コンビ』ってみんなから呼ばれてた」

「おまえがそう呼びだしたのがきっかけだけどな!」

「あははっ、そうだっけ?」

 タマはそう言って舌を出した。

「――そのシロだけど、練馬東署で刑事やっててさ」

「へ~、刑事さん! あ、でもドラマの刑事っぽくてイイかも」

「そのシロが、今日、別のマンションの管理人の事情聴取で来たんだよ」

「飛び降りの件じゃなくて?」

「行方不明者の捜索で。で、その行方不明者っていうのが」

「飛び降り自殺の人、とか?」

「正解」

 タマは得意げに笑った。
 ポチは、管理人室での事情聴取からその後の展開まで、かいつまんで話した。
 シロに同行して警察署へ行き、自殺した鈴木の勤務先の社長に遺体確認を依頼し、遺体の確認後はシロと一緒に飛び降りのあったマンションへ行き、現場確認やら事情聴取やら……。
 タマはウンウンと相槌を打ちながら聞いている。

「そっか~、そのせいで今日は帰りが遅かったわけね。――それにしても、キミの担当物件の居住者が行方不明になって、別の担当物件で飛び降りたなんて……」

「そんな偶然あるかって? でも、ウチの管理物件数は多いし――」

「ン~、キミ、厄病神と知りあい?」

「いねーし! ってか、イヤな言い方するなよ」

「ゴメンゴメン。――でも、なにか引っかかるよね」

 タマはそう言ってポチのかばんの中を探し始めた。

「ちょ、何を勝手に――」

「ジャーン、コレ、ナンデショ~?」

 タマは演技がかった口調で、一枚のDVDをひっぱり出した。
 高く掲げてひらひらと振る。

「ンモー、これだから若い男子ってヤーネー。女優系? 素人系? それとも人妻系?」

「そんなんじゃないって」

「ワカッタ! ポチの大好きなウェイトレス系でしょ?」

「はぁ!? いつそんなの好きなんて言った?」

「あれ? 同期の佐藤クンからそう聞いたんだけど?」

「くっ! あいつはもう信用できないな……」

「――で? これどうなの?」

「見れば分かるだろ」

「分かるわよ。『防犯カメラ映像』ってサインペンで書いてあるんだもん。――分かんないのは、どのマンションのかってこと」

 タマはそう言いながら立ち上がると、ディスクをDVDプレイヤーへ挿入した。

「また勝手に……」

「でも見るんでしょ? ――ハイ」
 
 タマはDVDプレイヤーのリモコンをポチへ渡した。

「うん。……どうも引っかかるしね」

 ポチはリモコンを操作した。
 テレビには防犯カメラの映像が映し出される。
 エントランスの映像である。
 居住者らしき人、訪問者らしき人、管理人、セールスマン、郵便配達、宅配便、ほかいろいろ。

「――止めて!」

 タマの鋭い声に、ポチは即座に反応した。

「ちょっと戻して――もうっ、戻しすぎ! ――そう、ここ!」

 画面にはカメラに向いて映っている中年男性が一人。

「ねえ、この人じゃない? 飛び降りた鈴木さんって」

「――正解。なんで分かった?」

「オンナの勘」

「――で、本当は?」

「ちょ、もう少しノッてきてよ!」

「ハイハイ。――それで?」

 ポチのそっけないリアクションに、タマは、

「――防犯カメラの方を向いているからよ」

 と言って、頬を膨らませた。
 ポチは首をかしげる。

「でも、たまたまカメラに気づいて見ただけかも知れないぜ? 他にもそういう人、映ってるし」

「ン~、それに午後六時頃で、所持品のない、五十歳くらいの男の人――だからよ」

 タマはそう言って、さっきポチが書き出した紙を指さした。
 その紙には、それらの情報が書かれている。

「ああ、そうか」

「……でも不思議よね」

 タマはあごに手を当てた。

「なにが?」

「ン~、鈴木さん、カメラに体ごと向いてるの。なんでかしら? まるで正面からわざと映りたかったみたい」

 カメラに気づいた人たちは顔や目線だけが向いている。
 しかし、鈴木はさりげなく体ごと正面を向いていた。
 見比べると確かに不自然である。
 ポチがリコモンを操作し、映像がふたたび動き出す。
 鈴木は自動ドアの手前にあるインターフォンの前に立った。
 操作パネルで部屋番号を入力し、マイクに向かって話す。
 すぐに自動ドアが開いた。

「――警察の聞き込みでは、この時間帯に来客のあった人はいなかったそうだ」

「ン~、宅配便は?」

「宅配便? 他の時間には映ってるけど……」

「ううん。六時頃に宅配便の来なかったウチはなかった?」

「はぁ?」

「鈴木さん、宅配便のふりをしてオートロックを開けさせたのよ」

「カメラつきインターフォンだぜ? 服装でバレるって」

「ここのマンションって割と古いでしょ? カメラはまだモノクロとか」

「確かにモノクロだけど。……そうか! このシャツなら間違えるかも」

 鈴木の着ているシャツは、色こそ違うが、大手宅配便業者の制服と似ていた。
 似てると言っても、並べて見ればすぐに別物だと分かるくらいだが。
 しかし、インターフォンで「お届け物です」とでも言われれば、先入観――宅配便業者だと思い込んで、シャツの違いにはまず気付かないだろう。
 ポチは腕を組んだ。

「う~ん、でもインターフォンを受けた人も、宅配便が来なかったら不審に思うだろうに……」

 なぜそういう証言が出なかったのだろうか。
 タマは笑った。

「夕食の準備で忙しい時間って、いろいろと忘れちゃうのよね。宅配便が来なかったことなんか」

「ああ、主婦か。そう言えば、ウチのお袋もよくウッカリ忘れてたな……」

 ポチは実家にいた頃のことを思い出して苦笑した。

「ン~、お母さんは仕方でしょ。あれだけ忙しい人だもん」

 タマはポチの母親の肩を持った。
 早くに亡くした母親の代わりのように思っているのだ。
 ポチは母親の話をしたい訳ではないので、話をマンションへ戻す。

「忘れていたわけではなくても、来なかった宅配便のことなんか、警察にわざわざ言わないかもしれないな。それに、もし言ったとしても、警察の方で無関係として取り上げないかもしれない」

「うん、そうそう。よくできました」

 タマはできの悪い生徒を褒めるように言った。
 ポチが何か言い返そうとしたが、タマはお構いなしにテレビを指さす。
 防犯カメラの映像が動き出していた。
 タマが一時停止を解除したのだ。
 
 ――映像の中の鈴木は、開いた自動ドアを通って、エレベーターの方へ移動する。
 そしてエレベーターの中へと姿を消した。
 ここで映像が終わった。

「あれ? おしまい?」

 タマは両手をバタバタと振りながら言った。
 空振りした期待感を表現しているようだ。

「――このあと、鈴木氏の姿はどこにも映ってないんだ」

「ン? なんで?」

「なんででも。敢えて言えば『謎』かな」

「ン~? あ、死角?」

 タマはにやりと笑った。
 ミステリー好きにはたまらないキーワードの一つである。

「リモコン貸してっ」

 タマは言うが早いか、ポチの手からリモコンを奪った。
 テレビにはいくつかの防犯カメラの映像が早送りで映し出される。
 タマは、全ての映像を一通り見終わると、映像をいくつか絞り込んで繰り返し再生した。
 リモコンを操作する手の他はピクリとも身動きをせず、映像を凝視している。
 ミステリーマニアの血が騒いだのだろう。
 その姿は獲物を狙う猛獣のようだ――とはポチは決して口に出さない。
 猛獣の反撃が怖いからだ。
 その猛獣がピクっと反応する。

「ン! ポチ!」

「えっ、な、な、なに?」

 ポチは心の中を見透かされたのかと、一瞬、うろたえた。
 しかし、猛獣――タマはテレビを指さしている。

「このマンション、死角が多いよ」

「……うん、まあ。そうかもなぁ」

 ポチは何やら口ごもった。

「――で、鈴木さんの通ったルート、分かったわよ」

「えっ、もう分かったの!?」

 ポチは驚いた。

「すごいでしょ? ふっふ~ん」

 タマは得意げに胸を張った。
 白いブラウスに胸の膨らみが強調された。
 ポチはどきっとして目をそらす。
 タマは全く気がつかずに、推測したルートの映像を出して説明を始める

「まず1階でエレベーターに乗る。――鈴木さん、カメラに映っていたよね」

「えっ、あ、あぁ。そうだな」

「そして降りるのは最上階の11階――ではなくて10階」

「10階? なぜ?」

「第一の死角があるからよ」

 タマは、テレビに10階のエレベーター前の通路の映像を映した。
 通路を主に映しているため、肝心のエレベーターは側面から、しかも、下半分ほどが見切れて映っていない。
 防犯カメラの設置位置がエレベーターに近すぎるからだ。
 側面からなので扉の開閉は見えないが、人の乗り降りが映らないというわけでもない。
 見切れている部分が、いわゆる『死角』というものである。
 タマは説明を続ける。

「死角を利用するために身を屈めて(かがめて)エレベーターを降りる。そして、そのままカメラアングルの外を通って、階段で11階へ上がる。――偶数階の階段には防犯カメラがないみたいだし?」

「うん、奇数階だけに設置されている。設置当時の経費削減策らしい」

「11階は奇数だけど、階段にカメラはないのね?」

「そこは屋上階段――防犯目的としてはカメラの設置の必要性が低いから」

「そっか。屋上階段って――」

 タマはリモコンを操作して、最上階のエレベーター前の映像を映し出す。
 10階に比べてカメラの設置位置が手前にあるため、エレベーターは、同じく側面からのアングルだが全体が映っている。
 このエレベーターには『死角』がない。
 ――しかし。

「この手前側の真っ暗のところが、屋上階段でしょ?」

 映像の手前の隅には、明かりが灯っていない開口部が四角く口を開けていた。

「そう。節電のため、使用頻度の低いこの階段は消しているんだ」

「ここも死角よね。第二の『死角』」

 タマの指摘は暗闇だからではない。
 屋上階段の入口もカメラアングルから見切れていたのである。
 それは大人の肩の高さくらいだろうか。
 10階のエレベーターよりも死角の割合が多いようだ。

「ここでも鈴木さんは身を屈めて――っていうよりも、ちょっと頭を下げれば大丈夫そうね? ――で、屋上階段を上がっていった」

「……確かに、そうやれば映らずに屋上へ行けそうだな」

「でしょ? でもさ――」

「うん?」

「ン~、このマンションってさ、死角が多くない? 直さないの?」

 タマは何気ないように言った。
 しかし、ポチの表情は硬くなる。

「……まあ、予算の関係もあるしな」

「でも、防犯カメラに死角って、やっぱりおかしいよ」

「このマンションは……仕方ないんだよ」

「え?」

「……わざと死角を作ってあるんだ、ここ」

「は? ――えと、それはどういう……?」

「……俺が前任者から引き継いだ話なんだけど、さ――」
 
 ポチは深くため息をつく。

「……カメラを設置した当時の管理組合理事長――正確にはその奥さんが、玄関先を防犯カメラに撮られたくないって言い出したんだ。生活を監視されているようで不快だとか。でも、実際には、玄関の出入りを撮られたくなかったらしい」

「ン~、気持ち、分からなくはないけど。でも、そんな嫌がるほどでもない気も――」

「……撮られたくないっていうのは、奥さんの浮気相手の出入りだったんだよ。平日の昼間、よくオトコを引っ張り込んでたらしい」

「あ~~~~、そっか……。それは映っちゃうとまずいよね。あはは……」

 タマは気恥ずかしくなり、顔が火照るのが分かった。
 すでにビールで顔が赤かったので、ポチには気づかれなかったが。

「ン~、でもさ、他の居住者から何か言われるでしょ?」

「浮気のこと?」

「あ、ううん、カメラだよ? 防犯カメラの位置のこと!」

「あ、ああ、そっちのことね。――予算や技術上の問題とか言ってごまかしたそうだよ。それに、理事長の部屋だけじゃバレるから、他の階も、同じ位置の部屋は死角になってる」

「もしかして、エレベーターの向かい側にある部屋?」

「そうだよ。……映ってないのによくわかったな」

 ポチは少し驚いたようだった。

「ン、映像見てたら、エレベーターの向かい側の壁に、玄関のドアの端っこみたいなのが映ってたから……」

 タマがその映像をテレビに映しだした。
 エレベーターの対面の壁に、カメラアングルの端をかすめるように黒っぽい角――玄関扉の枠のような物――が映っている。

「……本当だ。気付かなかったなぁ」

 ポチが頭をかいた。
 タマは首をかしげる。

「でもさ、そんなのアリなの? 自分ちの玄関を映すな、なんてさ。ただの理事長夫人のわがままじゃない」

「……仕方ないさ。こんなのは理事長の公私混同だけど、俺たち管理会社としては契約解除をちらつかせられれば……まあ、仕方ない」

「ン~、『仕方ない』が多いよ? ――ポチ、ヤなオトナになっちゃったね」

「……仕事柄、それも『仕方ない』――さ」

 ポチは、タマから目を反らせた。
 無意味にテレビを見つめる。
 タマは、何も言わずにポチの頭をそっと撫でた。
 ポチはじっとしている。

「……あれ? これはなんだろう」

 テレビを見つめていたポチがつぶやいた。

「ン? どれ?」

 テレビには最上階のエレベーター前の映像が流れている。
 ポチはコマ送りにした。

「これだよ、これ。――なんだと思う?」

「あっ!」

 コマ送りの映像、画面のわずかな隅を、黒っぽいモノがかすめた。
 ほんの一瞬、屋上階段の入口のところだ。
 ポチはうなる。

「う~ん、なんだろう……?」

 タマは答えずに、しばらく画面を凝視していた。
 そして、急に笑いだす。

「あはは、わかったわ」

「なに? ただのノイズとか、虫とか?」

「ブブ~。ザンネーン!」

「じゃあ、なんだよ?」

「正解は、なんと『鈴木さん』デシター。ジャジャ~ン!」

 タマはクイズ番組の司会者のような口調で言った。

「えっ!?」

「だって、カメラのノイズなら、画面全体がぶわ~って乱れるか、ざざ~って横線が出るとかでしょ。これは隅っこだけよ」

「う~ん、それもそうか。――虫の可能性もなさそうだな」

「うん、虫ならこんな風に映らないもん。近すぎればぼやけるし、遠すぎれば映らないし。それに、ブンブン飛び回って何回も映るんじゃないかしら」

「そうだな。この映り方だと、たしかに人間――そう、屈んで通った人の頭のようにも見える」

「でしょ? だから正解は『鈴木さん』デシター。ジャジャ~ン!」

「イラっとするなぁ、その効果音! ――でも」

 ポチは苦笑いをした。

「でも、その可能性は十分アリか」

 ポチは『人影のようなもの』の映っていた時刻をメモした。
 それは午後九時――鈴木がエントランスに現れた時刻から約三時間後だった。
 タマが横から覗き込む。

「ン~、この人、三時間も何してたんだろ?」

「さあな。……迷ってたんじゃないか?」

「道に?」

「人生に」

「ポチ、『うまいこと言った』って自画自賛してない?」

「んなことねーよ!」

「ホントにぃ?」

「ホ、ホントだよ!」

「じゃ、そうしといてあげよう。特別だよ?」

「そりゃ、どーも。……自殺の名所なんかさ――」

「え?」

「テレビで見たんだけど、自殺する人が数時間くらいウロウロするんだって」

「そうね。それか、『考える人』するか」

「ロダンの? まあ、そうかもな。座り込んでずーっと考え込むかも」

「マンションの中じゃ、どっちも目立つよね?」

「……あ、そうか。カメラに映らず、目撃もされないっていうのもおかしいな」

「でしょ? ン~、たとえば――」

「たとえば?」

「鈴木さんはカメラや目撃者を避けて約三時間、マンション内に潜んでいた。人生に迷いながらも、最終的には屋上へ行き、飛び降りた……」

 タマはポチをちらりと見た。
 その表情は、ポチに反論をするように要求しているようである。
 ポチは要求に応じることにする。

「ちょっと不自然だよな。いくらカメラの死角にいたとしても、三時間も誰にも目撃されないなんて」

「でしょでしょ? ということは――」

「うん、ということは?」

 ポチは身を乗り出した。
 ここからがタマの本当の推理のはずだから。
 タマは推理を続ける。

「鈴木さんは誰かの家を訪問し、三時間ほど滞在してから、屋上へ行って飛び降りた――ってこと」

「え!?」

「鍵のかかってない空き部屋に潜んでいたのなら別だけど」

「空室はないよ。――でも誰かの家に上がりこんでいたとしても、出入りはカメラに映っているはず……。あっ、そうか!」

「うん。それよ」

「まだなにも言ってないよ。――元・理事長の部屋、いや、そこと『同じ位置の部屋』なら、人の出入りは映らない……」

「ハイ、よくできました。パチパチパチ」

 タマの幼稚園の先生じみた口調に、ポチは露骨に嫌な顔をしてみせた。
 しかし、それ以上の無駄な抗議はしなかった。

「……鈴木氏がいた可能性のある部屋は、元・理事長の部屋と同じタイプだから、1階と11階を除いて……2階から10階の9部屋か」

「そういえば、11階にはエレベーターの向かい側に部屋がないのね?」

「そこには部屋――というか、建物自体がないからな」

「ン? ……そっか、建築基準法――斜線規制だっけ? マンションの上の方が斜め切ってあったり、段々畑みたいになってるの」

「段々畑って……。まあ、それだよ。そのせいで部屋がないから、防犯カメラは本来あるべき位置、エレベーターの全体が映る位置に設置されたんだろうな」

「ン~、代わりに屋上階段の入口に死角ができちゃったけどね」

 タマはそう言って、缶ビールを飲み干した。
 視線が未開封の缶へ転じる。
 もう一本開けようかな――というところだろう。
 手をそろりと伸ばしかける。

「……それ、何本目?」

 ポチが半ば呆れながら訊いた。

「ン~、忘れちゃった。あはははは……」

 タマは手をひっこめた。
 指をくわえるタマを横目に、ポチはガシガシと頭をかきながら、考えをまとめようとする。

「――鈴木氏は、エントランスでカメラに映ることでマンションに来たことを明確にしたかった。しかし、訪問先は秘密にしたかった」

「うん、そうね」

 タマはそう答えながら、名残惜しそうに缶ビールを見つめていた。
 ポチはお構いなしに続ける。

「そして、三時間ほど経ってから、屋上へ行き……『転落死』を遂げた」

「そうね。わざわざ死角を通るなんて、自殺じゃない可能性があるわ。遺書もないし」

「遺書どころか、所持品がないというのも気になるな」

「ン。お財布やケータイを持ってないっていうのも変よね」

「しかし、勤務先の社長の話から、警察は自殺と推定した」

「ン~、それも現実的な流れよね」

「でも、引っかかるな」

「そうね……、ふぁ~あ……」

 タマは大きなあくびをした。
 テーブルの上にはビールの空き缶が数本、几帳面に並んでいる。
 ポチは冷ややかに言う。

「もう遅いぜ。帰って寝れば?」

 タマは両手をあげて、ぐ~っと伸びをしている。

「ン~~~、めんどくさいからここで寝ていくわ」

「は?」

「大丈夫。ちゃんと着替えも持ってきてるし」

 タマは部屋の隅に置いたボストンバッグを指さした。

「そういう問題じゃない――って、おい!」

 ポチの苦情を無視して、タマは勝手に寝室へ姿を消していった。

「じゃね、おやすみ~」

 ドアから手だけを出して、一振りしてからバタンと閉めた。

「あああああっ! またかよ!!」

 ポチは頭をかきむしった。
 タマは少なくとも月に一回か二回、多ければ毎週末、ポチの部屋へ泊まる。
 今夜と同じように、いつも勝手に来て勝手に泊まっていくのだ。
 テーブルには、パイプ型キーホールダーのついた合鍵――タマが勝手に作った――が転がっている。
 キーホールダーは、ポチがロンドンへ行った際に、有名な名探偵の博物館で買ってきたお土産だった。
 ポチがこの合鍵をタマへ渡しているのなら、勝手に出入りしたり泊まっていくのも分かるが……。
 窓から投げ捨ててやりたいが、どうせすぐに新しい合鍵を作ってくるだろう。

「――まったく」

 ポチは冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを出した。
 ソファーに座り、缶を開けて、ぐいっと飲む。

「プハ~! ――あいつがいたんじゃビールも飲めやしない」

 独りごとのあと、不意に過去の『失敗』を思い出す。
 忘れようとして、ビールをぐいぐい飲む。
 缶ビールはすぐに空になった。
 ぐしゃり、と握り潰してテーブルへ放る。
 ひしゃげた缶はいびつに一回転して、タマがきれいに並べた空き缶の壁の手前で止まった。
 ポチはほっとした。
 それから、頭を数回振って、思考をタマから引きはがす。

「……明日、あのマンションへ行ってみるか」

 思考は自然と仕事のこと――自殺のあったマンションのことになった。
 そのままソファーに横たわり、天井をにらむ。

「防犯カメラの死角を実際に確認して、例の9部屋の居住者のことも調べみよう。……これはただの自殺では――」

 自殺ではないかも知れない……。
 もしそうだったら、課長からまた怒鳴りつけられるだろう。
 仕方ない。
 それに業務外のことだから、休日出勤にもしてくれないだろう。
 仕方ない。
 タマは来るなと言ってもついて来そうだな。
 仕方ない……。
 ――ポチは眠りについた。


<< 第二章へ続く >>

ポチタマ事件簿① ――都会のツバメ――

 お読みいただきましてありがとうございます。

 ラストまですでに執筆済みですが、まだまだ推敲が足らない部分もあり、今しばらくお時間を下さい。
 近日公開予定ですので、ぜひご期待下さい。
 

ポチタマ事件簿① ――都会のツバメ――

飛び降り自殺。 エントランスの防犯カメラに映ったのを最後に、自殺者は姿を消した。 マンション管理担当者のポチと、幼なじみで受付嬢のタマが、シロウト推理で謎を解き明かす。 平凡なマンションに潜在する『マンションの闇』が絡み合い、事件は意外な展開をみせる。 そして、幼なじみ以上・恋人未満な二人のカンケイはどうなる? 【作者注】本作品の一部には、R指定ほどではない性的な表現があります。性的な表現の苦手な方はご遠慮ください。本作品はフィクションですが、実際にあった話や状況などを織り交ぜた、いわばセミフィクションです。そのあたりも楽しんで頂ければ幸いです

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-13

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  1. プロローグ
  2. 第一章 ポチとタマ