ヒュペルボレオスの星

ヒュペルボレオスの星

私の故郷は太陽をいっぱいに浴びて、
金色の園が光り輝く
トマス·ムア「ヒュペルボレオスの歌」

#1

 流星が墜ちた。晴れ渡った真昼の空に白く軌跡を残して、幾度か鋭く閃きつつ、都市の果てへ消えていった。あたしは何かが終わったのだと思って、硝子張りの廊下に足を止め、それをじっと見ていた。やがて、頭の中で(うごめ)く感覚がした。
 箍衣(たがい)だった。
〈──見ていましたか〉
 耳朶を介さない声は、あたしの脳に直接に響く。見てたよ、とあたしは小さく口にだして答えた。
〈おそらく──私たちの考えているとおりのものです。既に彼女たちが向かっています。今夜、あの場所へこられますか〉
 わかった、と呟いたけれど、もう返事はなかった。鼓動が痛いほど速まっている。理屈でなく直感で判っていた。あたしは廊下を引き返し、病室へ戻った。薔薇色の髪の少女はまだ、こちらへ背を向けている。寝台に手を突いて覗き込むと、藍銅(アズライト)色の眸はひらかれたままだった。あたしは縋るような気持ちで少女の(まなじり)にくちづけた。
【お前、タイヨウにかえるのか】
 不意にヒメミコは呟き、あたしは息をのんだ。
「かえらないよ…」
【でも、いつかはかえるんだろう。お前はあたしたちとは違う、タイヨウから墜ちた人間だから、いつかはいなくなるだろう。あたしはここからでられない】
 訥々(とつとつ)とした呪詛の言葉だった。少女の胸の(うち)に、これほどの猜疑がきざしているのをあたしは知らなかった。あたしは痩せた肩を抱き竦め、かえらないよ、と繰り返して云った。
 ヒメミコは答えなかった。
 束縛を振りほどくように寝返りをうち、薔薇色の髪をしどけなく広げて、宇宙人、とヒメミコは呼ぶ。耳の横へ置かれた右手の人差し指に、既に乾いた傷口がある。彼女自身が咬み破ったのだ。ヒメミコは云う。宇宙人、話して。
 少女は壊れていく。あたしがそれをのぞんだのだ。あたしは努めて口許を弛め、枕辺の椅子に座って、ついさっき話したばかりの物語を再び始める。
「あたしの生まれたところには、いつつの星があった。ひとつは目に見えない星、もうひとつは満ち欠けをする星で、これももう光らない。あとのふたつは偽物の星、残るひとつも作り物だった。あたしが生まれたとき、空にはもう本当の星はなかった。あたしの生まれた場所の名前は──…」
 お前、タイヨウにかえるのか。ヒメミコの言葉が胸に棘を残していた。少女はあたしの「声」を聞きながら、ぼんやりと窓の外を見つめている。この星から見える最も大きな恒星が、そこへ輝かしく懸かっている。

 イザナギは立ち上がり、沈む人工太陽(ヘリオス)に向かって祈った。
 あたしは本の山に寝転んだままだった。空は油色に染まり、クラインヒェンが白く光を放って視界を横切っていた。あたしにイザナギの祈りの詩句の意味は判らなかった。イザナギもまた、これ以外の父祖の言葉を知らない。

 気づくと、あたしは光の中に立っている。
 この場所はいつ訪れても変化がない。そこらじゅうに廃品が積まれ、頭上の遥かでいくつかの目映い照明が光っている。土の地面を踏んでゲートから離れると、少し先に森精(アルセイド)が立っていた。白く、膝裏まである髪、ひきずるような衣装、おそろしく整った顔をした女性は、あたしが歩み寄ると音もなく(きびす)を返し、先に立って歩き始める。
 どれほど深部まで入り込んでも、周囲の光景に違いはない。僅かな地面だけを残して積み上げられた廃品の山は、あとにしてもあとにしてもまた現れてくる。やがて、そうした堆積が途切れ、そこだけぽっかりと空白になった場所へでた。アルセイドはその中心へ向かって歩みを続ける。と、あるところを境に、彼女の後ろ姿が忽然と消える。判っていてもこの光景には慣れない。あたしも精霊が消えた地点へ足を踏み込む。何事もなかったかのように、消失したはずのアルセイドはあたしの前へ立ち、彼女の肩越しに──先程までは確かに存在しなかった、半ば廃品に隠された地下への入口が現れていた。
 入口の周囲は、境界を踏む以前の廃棄場と同じく、廃品が円く取り除けられている。その直中(ただなか)へ、見慣れない金属の塊が据えられていた。無数のアルセイドが立ち働く中に、ただ一人異なる、けれど似かよった人の姿がある。あたしが進みでていくと、箍衣は振り返った。
「地球の船です」箍衣は云った。あたしは黙って頷いた。あまり大きな船じゃない。個人のものなのだろう。元は白かったろう外装は無惨に焼け焦げていたが、主窓も舷窓も割れてはいなかった。あたしは機体に目をあてたまま、舷側(げんそく)のほうへまわり込み、二重の扉が共に開け放たれた気閘(エアロック)をとおって船内へ入った──箍衣がいるのだから、既に危険はないことは判っていた。
 船室(キャビン)に二人と、操舵スペースに一人のアルセイドが立っている。船内は雑然としているが思ったほどの混乱ぶりはない。薄暗い、がらんとした空間に窓から照明の灯りがさし込んでいる。あたしは船室の様子をしばらく眺めたあと、操舵スペースへ入った。操舵席の脇に立ったアルセイドは、基盤を露わにされたコンソールに片手をあてている。瞬かない緑柱石(エメラルド)色の眸は(くう)を見据えている。あたしは垂らされた彼女の手に、右手で触れた。
 外へでて、あたしは箍衣の視線を求めた。箍衣は元のまま、(へさき)のほうへ稍離れて立っていた。あたしたちはすべて理解した目を見交わした。
 乗っていた人間は、とあたしは尋ねた。
「男性が一人、まだ若い人物のようでした。国籍は判りませんが」
 箍衣はそこで言葉を切る。あたしはじっと、その意味を受け入れる。地球の染色体を持った男性なら、選択される措置はひとつしかない。
「墜ちたところもよくありませんでした。住宅都市を構成する地域のひとつで、幸いにも住人のある家を損ねることはありませんでしたが、彼は気密服を着て外へでたんです。周囲には人だかりができていました。彼はこの星の都市や人々に驚き、そして興味を示しました。けれど彼女たちが現れ、拘束されそうになると、咄嗟にその場から逃げだそうとしたんです。船の中へ戻れば、まだしも活路がひらかれたのかもしれませんが」
「監禁される活路か」
「………」
「それで…そのとき周りにいた人たちは」
「船の外郭には損傷がありませんし、彼は気閘(エアロック)をとおって外へでたので、異星の細菌による影響はありません。白昼、空から異様な物体と生物が墜ちてきて、それらが彼女たちに連れ去られたのを目撃した影響というのも、やはり」
(つつが)なし、か」
 あたしはその是非が判らない。この星の人々が、こうした出来事を殊更に騒ぎ立てる性質を持っているなら、あたしは今ここにいない。
 箍衣のまなざしが、伏せた瞼の上へ()まっているのを感じた。
「彼は──この船は、ほんの二日前に地球を発っています。あちらの暦の上で」
「革新が起こったんだな」
 あたしは云った。それらの情報も、既にあたしの脳へ流れ込んでいる。
「昔、そんなことを云った爺さんがいたんだ。百年くらい前に。いつか、自力でデミウルゴスの海に侵入できる技術が開発されるかもしれない。その革新を待ってるんだって」
 箍衣は少し沈んだ声で、
「もし、その技術が百年後の地球で一般に普及しているなら、このような来訪者は次々に現れるでしょう。中には、軌道上で制御を失う前に引き返し、この星の存在を正式に報告する人があるかもしれません。そうなれば…この世界は破綻します」
 この星の人々は同一だ。つまり多様性がない。みんな同じ服を着て同じ造りの家に住み、誰もが自分と同じだとしんじている。金銭も地位も優劣もない。そこへ異なる成り立ちの社会が触れれば、多様性を欠いた遺伝子がたったひとつの病原体に滅ぼされてしまうように、この星の社会は崩壊する。圧倒的な科学技術と豊かさを持つこの星の人々を、地球の人類はどう受け止めるのだろう。あたしや箍衣に施され、人々が空気のように享受している技術は、間違っても肯定されはしないだろう。
「先程、機体の外郭に損傷がないと云いましたね」
 不意に押し黙っていた箍衣が切りだした。あたしはその真意が量りきれずに彼を見上げた。
「墜落の原因は管制系の乱調です。彼は自力で最善の弾道へ船を乗せたので、大気に焼き尽くされることもなく地上へ到達できたのです。その上、衝突寸前まで落下速度を緩めたので、元々が強化されていた船体には致命的な打撃を受けずに済みました。推進機関も時空移動をするための装置も無事です。つまり、この船はまだ生きているんです」
 冷たい色の眸を細めて、箍衣は云った。
「地球へ戻れますよ」

#2

 あたしは凍った船底(せんてい)に立った。磁気靴で逆さまに張りついて、宇宙の真空の流れを躯に感じた。すぐ目の前に二つの冥王星がある。冥王星Aのすぐそば、ひやひやするほどの近距離に、半分ほどの大きさの冥王星Bが浮かんでいる。
 通信機に(しわが)れた声の呼びかけが入る。あたしは標準言語で応え、器具の固定を終えると、云われたとおり連結した前の船へ移った。気閘(エアロック)に入り、滅菌処理が済むとハッチがひらく。外観どおりいい船だ。中古船に乗っているあたしとはわけが違う。
 視線を動かしていると、操舵スペースから通信と同じ声が聞こえた。あたしは気密服を脱いでハッチの脇へかけた。停泊中の船内は無重力だ。軽く床を蹴って船の(へさき)へいった。
 操舵席には一人の老人が収まっていた。コンソールには無理に停止させようとして壊されたあとがあった。あたしが通りがからなければ、この船は操舵不能状態のまま、老人もろとも太陽系の外へ放りだされていたはずだ。あたしは天輪星(てんりんせい)へ向かう途中だった。わざわざ冥王星沖を経由したのは、これが初めての航海だからだ。老人は篤く礼を云って、あたしを船室(キャビン)へ導いていった。
「私が生まれたころ、既に太陽は欠けていた」
 漂う宇宙食の包み越しに、老人は云った。あたしはまだカロリーが充分だったので、軽い飲み物の包みだけをもらった。年齢を尋ねられて、十九才だとあたしは云った。
「では、お嬢さんは本物の太陽を知らないのだろう」
 老人はにこやかに云い、あたしは気づいた。あたしは人工太陽(ヘリオス)の光しか知らない。
「お嬢さんは、どうして宇宙にでたね」
 あたしは口籠もった。即座に心に浮かんだ答えは、あまり人に話すには向かないものだった。
「小説を、読んだんです。太陽の…」
 あたしはつかえつつ云った。
 老人はじっと目を細めた。そうして、今の答えをくるみこむような調子で、話を継いだ。
「私の夢はね、人生の最後に、もういちど本当の太陽を見ることなんだよ。しかし、今の技術では不可能だ。いちばん遠方の誘導標識(ビーコン)でも一三〇光年先のヒヤデス星団なんだからね。完全な太陽の輝きを見るには二七三光年彼方へいかなければならない。ところが、私にはもうあまり時間がない。この躯では、著しく時を歪めるほどの加速には耐えられないだろう。ただひとつ残された可能性は、こうして僅かに時をやり過ごしているあいだに、地球で革新的な発明が為されることだ」
 腕を伸ばして、老人は壁から立体投影(ホログラフィ)パネルを引き剥がした。
「ウォーレス号の七人を知っているだろう。帰還したのは丁度お嬢さんが生まれた年だ。彼らは二一九八年に地球を発った。ヒヤデス星団にあるΘⅠ(シータ·ワン)星の近傍に誘導標識(ビーコン)を設置するためだ。その頃、誘導標識は四・二光年先のプロキシマケンタウリに試験的に設置されていただけだった」
 あたしは手渡されたパネルを見下ろした。作業服を着て肩を組み合った七人の男女が浮き上がっている。
「四・二光年から一三〇光年とは随分な飛躍だが、目的は初めからヒヤデスへの到達だった。散開星団であるヒヤデスには若い星が多い。五十億年先を見越して、つまり太陽が赤色巨星化したのちの人類の移住先として、ヒヤデスの星が選ばれたのだそうだ。二一九八年といえば天の岩戸計画が始動して百年ばかりが経ち、未完成ながらダイソン球が機能し始めた時代だ。だが、もう既に岩戸の中の太陽が燃え尽きる日のことを考えていたというわけだ」
 老人の摩耗した指が伸び、パネルの隅を叩く。太陽系からヒヤデス星団までの立体星海図(チャート)が表示される。
「ウォーレス号は一定の間隔で地球に信号を送りつつ、当時の最高速度で目的地へ向かった。受信される信号の歪み具合が、彼らの航海が順調に行われていることの証だった。やがて一三二年が経ち、予定された帰還日がきた。待ち受ける人々の前に、ひらかれたオールト・ゲートを抜けて昔話の宇宙船が現れた。計画は成功だ。そして、──これが私にとって重要なことなのだが、七人の搭乗員は出発時と殆どかわらない姿だった。加速度の影響で船内の時が歪んでしまったのだ。七人にとって、航海はほんの数年のことだった。しかし、地球では彼らの知る総ての人間が死に絶えていた。戸籍年齢で云えば、彼らは現在最も長寿の地球人類だ。七人の全員が僧院で暮らしてはいるがね」
 あたしは黙って老人にパネルを返した。老人は笑んだような不思議な表情で舷窓の外を見遣った。
「今の技術では、誘導標識(ビーコン)を頼りにオールト・ゲートをひらくしか時空を渡る方法がない。二七三光年彼方へ行くには、まず二七三年以上かけて誘導標識を設置しなくてはならない。ヒヤデスを経由して向かうにしても、一四五年だ。私には、そんな時間はない。一年ですら確証がない。口惜しいのは、私がもっと早くそれに気づいていれば、この悲願を遂げられただろうことだ。つまり、自分の人生が有限だということに」
 それから老人は、あたしに目前に迫ったオールト・ゲートの一般開放について尋ねた。θⅠ星系近傍の調査が終了し、もうじき個人の船でもヒヤデスへ渡れるようになる。
「お嬢さんなら通行資格を満たしているだろう。健康体で、そして若い。私はゲートを越えてθⅠ星系へ行くことはできないが、放出された小惑星を幾つか手に入れてある。開拓を請け負う企業にも投資している。だが、私は太陽の重力圏で待つしかない。誘導標識やオールト・ゲートを必要とせずにデミウルゴスの海を渡り、飛び去った太陽の光に追いつける日がくるのをね。私の国と欧州にそうした研究を行っている機関がある。そこへも私は援助をしている。ついこのあいだ、新しい理論モデルが発表されたところだ。しかしお嬢さんには、そんなものは必要ないだろう」

〈……ヘリオス・ステーションへようこそ。当ステーションは地球外行政区に区分されています。医療室(メディカルセンター)はフロア8に、中央管制室は最上層にございます。………〉
 人工太陽(ヘリオス)に付属したステーションの内部は贅が凝らされていた。高級なものの概念は千年前からかわっていない。壊れやすく、傷みやすいものをふんだんに使うことだ。エントランスには素焼きの器に本物の花が生けられていた。ポートから居住区画へ上がる、昇降機のてすりさえ木製だった。
 ヘリオス・ステーションの何割かは高級コンドミニアムとして放出されている。あたしは場違いな気がしておちつかなかった。あたしを本の山へ捜しにきた女性は、やはり無言のまま、ある一室へあたしを案内した。室内では、同じプレートを胸につけた男女が所々に固まって、低い声で何か話し合っていた──言葉は標準言語から多種多様な慣用言語まで様々だった。彼らのプレートには、あるエネルギー供給会社のロゴが入っていた。廊下を通り抜け、古めかしい両開きの扉の前で女性は立ち止まった。あたしは促されて、押し開けられた扉をくぐった。そこはひときわ広いリビングで、仏教形式の祭壇に、あの老人の柩が置かれていた。
 初めに聞かされてあったはずなのに、柩の中の老人を見ても、やはり架空のことのように思えてならなかった。引き合わされた老人の息子という人は、殆ど父親とかわらない年齢に見えた。父は一一三才だったのだ、と小さな老人は云った。
「この住まいは父のものです。葬儀が済めば早々に引き払うつもりでおります。私にはどうも、この地に足着かない場所を好きになれなくて。晩年の父は、何か途方もないものに取り憑かれておりました。私には理解ができない。天与の人生をねじ曲げてなんになるのか。──これも、あなたがお好きに処分なさって下さい」
 あたしには、修繕されたきり放られてあった光子船と、θⅠ星系の小惑星の一つが割り当てられていた。

 イザナギが祈るのは、人工太陽(ヘリオス)にではなかった。その彼方の、姿を隠した本当の太陽に祈るのだ。
 イザナギは云った。
「お前はきっと──誰かがお前を、死ぬほど好きなんだっていうことも、お前が誰かを本当に欲しがっているんだっていうことも、生涯、ずっと気づくことはないんだろうな」
 自分の人生を一秒たりとも延ばしたくないと思っている人たちはいて、イザナギもその一人だった。あたしは遠くへ行きたかった。何処か、ここからは手も触れられないほどの、他所(たしょ)へ。

#3

 林檎の木を描いて下さい。
 あたしは豊熟な林檎の木を描いた。
「あなたは精神に難がありますね」
 あたしはそのテストの正解を知っていた。知らない人間などいない。だからそのとおりにした。
「あなたは将来、重大な破綻をきたす可能性があります。こういった傾向の子を集めたセラピーに参加して、改善を図る必要があります」
 のぞまれているであろうとおりにしたのだ。
「でなければ、あなたの進学を認めることはできません」
 だからあたしは、学校をよした。

 空中線を夜に上げる。建物の隙間に千切れた空は、広がった機械の枝でいっぱいになる。
 アパートの一階に男が住んでいた。あたしの小さい頃から既にいて、外からは判らない目的のために一日中うろついていた。母親は口を尖らせた。男の、あたしを見る目がいかがわしいと云った。それで、あたしはあたしの躯と母親とをいかがわしいとしんじた。
 いつの間にか男は死んだ。男の部屋は放られたままだった。十六のとき、あたしは窓を小さく割って中に入った。停滞していた室内の空気を、大きくなったあたしの躯が乱した──もうそれは、あたしだけの遊びものではなかった。
 そこには闇と、窓を(とお)るネオンの明かりがあった。狭い部屋には何かの気配が満ちていた。まだそのあたりの床に、息絶えたばかりの男の躯が横たわっていたのかもしれない。当たり前のものしかない部屋だった。ただ一つ、部屋の壁一面を埋めるほどの無線装置だけが、死んだ男の心を表現するように、静かに埃をかぶっていた。
 だから、あたしはそれ以来、夜になるとアパートの屋上へあがった。天の岩戸計画で地球に降り注ぐ紫外線が激減し、電離層の様子も変化した。逼迫していた周波数は、それで決定的に手一杯になった。光線通信技術が進歩したのも手伝って、電離層伝いの通信をしているのは、殆ど一部の個人無線局だけになっていた。
 あたしは空中線の(もと)に寝転びながら、いちども男の声を聞いたことがないのを思った。記憶の底にあるのは、地球上のあらゆる場所から届く無数の声だけで、真夜中の開け放たれた窓から忍び入ってくる中に、男自身の声はなかった。生命樹が空を求めるように鉄の梢を押し上げながら、男は呼びかけに応えることも、自ら呼びかけることもしなかった。あたしはそれを思って、じっと受信機に耳を澄ました。見も知らぬ、架空のような人々の肉を持った声は、雑音混じりに、間延びした間隔で、次々にあたしを訪れた。あたしもそれらに返事をしなかった。ただ、地球上に他にも人間がいるということを、確かめられればよかった。
 寝転んだまま(まぶた)を閉ざすと、色鮮やかなネオンが躯中に雨のように降り注ぐ気がした。生まれながらに自分の素性を知っているわけじゃない。それは成長するほどに自覚されて、揺るがしがたくなっていく。あたしが生まれたのは猥雑な町だった。遠い昔から必ず存在して、公然と蔑まれ、そのくせに求められ、かといって親しまれるわけでもない、そういう矛盾の中に息づく町だった。あたしの躯の隅々にまで猥雑は染みとおっていて、あたしはその猥雑と、とても親しかった。猥雑はあたし自身で、決してあたしを包みはしなかった。あたしは何処へでもいけるし、生涯、ここから離れられないのも、疑いようのないことだった。

 やっぱりあんたは、どうせこんなことだろうと思ったと、母親は云った。
 あたしはぼんやり感心していた。不思議な云い回しだと思った。その意味をじっと考え、やがて自制の外から涙が滲んだけれど、それを見ている人はなかった。母親の強い化粧の匂いが、暗い部屋に残っていた。あたしはアパートをでて男のところへいった。男は幾人かいた男のうちの一人だった。男は発掘屋だった。
「まず、二十世紀の終わりに電子書籍が開発された。当時はエネルギーが貴重品で、専用端末もコンテンツも殆ど普及しなかったが、一方で森林保護やなんかの面で文書の電子化が後押しされたりもした。結局は後ろの理由を建前に、本当のところは流通や在庫のコストを優先して、二〇〇〇年代に入る頃には相当な出版物が電子書籍として売られるようになっていた。これで半端な本読みは離れた。高いコンテンツ料だけでなく、その頃は電気代が水道代より高かったからだ。紙書籍のほうは、売ろうにも扱う店が(ことごと)く潰れて、ほぼ売り物としてより保存用として小数部だけ刷られているに過ぎなかった。そして、二〇三八年一月一九日の、よく云う喪失の火曜日が起きた。全世界のコンピュータが一斉に誤作動して物理的にも凄い混乱があったが、何より痛手だったのが電子文書の九割近くが消滅してしまったことだ。重要書類なんかは紙のバックアップがあっただろうが、そういうわけにいかないのが電子書籍だ。二〇〇〇年以降に出版されたものは、今ではタイトルすら判らないものも多い。つまり、完全に存在しなかったことになったんだ。こういうことがあっても、紙書籍は復権しなかった。二〇七六年に天の岩戸計画が始まると、それへの期待もあって、余計に文書の電子化が進んだ。二一〇五年には、紙自体も、特別な用途以外では製造できなくなった。──ここからが本題だ。その頃には、まだ文字を手で書ける人間が少なからずいた。先進国でも、二十一世紀後半の教育を受けていても、思想とかの関係で、電子文書を受けつけない奴は多かったし、紙に印刷したほうがネットワーク上で遣り取りするより高級だという考えも残っていた。だから紙が要った。ところがパルプ材は使えない。再生紙は規制の対象外なんだが、元になる紙製品がそもそも世間に残っていなかった。唯一あったのは、古めかしい紙書籍だ。日本のある業者が不要な紙書籍を無料で回収するようになったのは、そういうわけだった。現存している作品はとっくに電子化されていたし、そういうものには希少価値もないわけだから、興味のない人間にはただのゴミだ。普通に廃棄すれば金がかかるし、回収自体は大盛況だった。二番煎じの連中が次々に現れて、世界中で紙の本が姿を消していった。予想外だったのは、そんな紙書籍の再生紙が売れなかったことだ。まったくじゃないが、古紙から紙を漉き直すのは手間も費用もかかるし、必然的に再生紙の値段も上がるんで、よっぽどの思想家以外は手を出さなかったわけだ。業者は軒並み廃業し、あちこちに処分しきれなかった本の山が残った」
 男は、こういったことをすらすらと語れるような男だった。けれど、自分では一篇の小説すら読んだことのない人間だった。
「手に入らなくなると欲しくなるのが人情だ。ダイソン球が機能して世間に余裕ができると、紙に印刷されているということ自体に価値がつきだした。保存されていた紙書籍が莫迦みたいな値段で遣り取りされるのが判ると、発掘家は世界中の本の山に登り始めた。最初に目をつけたのが誰なのかは諸説ある。ともかく、そうして市場と供給源ができた。本の山のある場所へ立ち入るのは、厳密にはあれなことなんで、紙本を扱う店は俺たちみたいな奴から訳を聞かずに買い取るしかない。持ちつ持たれつだ。長いこと放置されていた本の山は、表面のほうが雨や湿気で溶けて固まってしまっている。それでかえって内部の状態はいい。てっぺんから少しずつ崩していって、なるべく値段のいい本をさがすんだ。一番価値があるのは喪失の火曜日で消滅して、しかも復刻もされていないやつだが、そんなのは山一つ掘り返したってでてこない。『太陽のない星』なんか見つかったら奇跡だ。だから有り得そうなのは復刻の元になった紙書籍版か、単純に二十世紀までの作品で人気のあるのの版が古いやつだ。ただ、これは頻繁に相場がかわる。急に覚えようとしても無理だ。だから、お前はとにかく二〇〇〇年から三十八年までの本をさがせ」
 男はそう云ったものの、あたしは転がり込んだ一週間後には、どの本がどのくらいの値打ちがあるのか、そらで計算できるようになっていた。初めはつきっきりで仕事を教わっていたのが、次第に山の反対の斜面に座って、独りで黙々と本をさがすようになった。それに従って、男のあたしへの興味が失せていくのも感じたけれど、そんなことは重要ではなかった。
 あたしの経歴には林檎の木が根をはっている。学歴などは問題じゃない。大学まで進まない人のほうが珍しいからだ。廃学した人間が大層な仕事に就けないのは、ただその理由が、進学に必要な精神基準を満たせなかったからだと誰もが推察できるからだ。危うきには近づかない。こちらからも近づかない。誰にも雇われないでできることといったら、芸術や奉仕以外には自分の手で何かを得てそれを売るしかない。だから男の一人の生業(なりわい)は好都合だった。
 しばらくして男が姿を消すと、あたしは男の部屋を引き継ぎ、本の山に登り続けた。そこはいつだって静かだった。最も近い本の墓場は猥雑な町の外れにあって、風に乗って届く喧噪も微かだった。紙の発する湿気と熱気と、そして独特な匂いが、いつでもそこを果てしのない場所のように思わせた。
 あたしは数十メートルの山によじ登り、腰を下ろして掘り起こした本を確かめながら、ふと目を上げると連なった本の山々が波のように見えた。そこが人で溢れていることはなかった。いつでもただ数人が、自分の影をさがすように彷徨っていただけだ。発掘屋に特定の性別や年齢はなかった。骨のような老人から子供まで、様々な同類を本の山の上から見た。それらの人にも、やっぱり林檎の木が根づいているのは確かだった。ときには取り締まりの人間がきて、本の詰まった鞄を掴んで我先に本の砂漠を走ることもあった。あたしたちは挨拶を交わすこともなかった。
 イザナギも、そんな同類の一人だった。
 艶のある肌や彫りの深い顔立ちに、彼の遠い先祖の記憶は留められていた。イザナギはかつて、減少し続ける人口を補うためにこの国に招かれた移民の子孫だった。だから、イザナギはあたしと同じ慣用言語しか話せなかった。異国の歌のように祈りの言葉を覚えたのだった。
「よお、儲かってるか?」
 本の墓場にもテリトリーといったものがあって、お互いに他人の掘っている山には近づかない習いになっていた。お構いなしに近寄ってくるのはイザナギだけだった。
「──そっちは」
 男が消えた日の夕方にはそうだった。あたしはいつも突っ慳貪(けんどん)に接した。それ以外の接し方を考えられないような相手だった。あたしといくらかしか年が違わないふうに見えたけれど、もう十年以上も掘っているのだということだった。
 時折、イザナギはあたしに禁制の嗜好品を振る舞った。あたしたちはそれを私有地でのみ(きっ)せられた時代すら知らない。裏の値段はかつての表の値段と同じく破格に高価だった。イザナギはいい稼ぎがあるとそれを買った。そしてあたしの山によじ登ってきては分け与えてくれた。その行動の理由を、あたしは考えないようにしていた。

 あたしたちは本の山に寝転んで煙草を吸った。寝転んだ目の前に広がるのは、いつだって油色の空だった。クラインヒェンが視界を端から端へ、小さな光になって横切っていた。あれは研究用の人工衛星で、あたしも学校から見学にいった。それがあたしの、大気圏外へ出た唯一の経験だった。
 隣に寝転んだイザナギが、不意に話し出した。
「今日さあ、凄い言葉を見つけたんだよ…」
 あたしは返事をせずに、ただ響いてくる声を受け入れていた。
「本自体は大して珍しくもないやつなんだけどさ、主人公が今まさに身を投げようとしてる(ページ)の空白に、赤いペンで、僕は豚です、って書いてあった」
 拾ったの。
「捨てたよ、んな書き込みがあっちゃ売れないし」
 そしてイザナギは、何かを誤魔化(ごまか)すようにからからと笑った。
 あたしはじっと空を見据えた。何百年か前にその言葉を書いた人間は、結局は生き続けただろう。そのためにそんなことを書いたのだ。彼か──或いは彼女の身に、そののち何が起こったのかは知る由もない。今ではもう、土の下にいるのだろうから。二十で捨てる人生も、百まで保つ人生も、決定的な違いなんてないんじゃないのか。ただ消え去る時期がずれるだけのことで、こうしているあいだにも、あたしという情報は光の速さで宇宙空間へ失われていく。ふと気づけば、あたしはこの背の下の本のように、何処かに無造作に積み上げられている。
 イザナギの視線があたしの左の頬に()まっていた。あたしは視界の端にだけ、それを感じていた。
 風に乗って、歓楽街のほうから音楽が届いた。イザナギは小さく声を零して立ち上がった。服を直し、煙草をあたしに差しだした。あたしは黙ってそれを受け取った。
 そして、イザナギは沈む人工太陽(ヘリオス)に向かって祈った。
 祈りの声は低く殷々(いんいん)と響いて、あたしの胸の空洞を震わせた。イザナギが見つめ、手を差し伸べる先にはくっきりと輪郭を浮かび上がらせた一つの星がある。けれどあれは、ただの衛星軌道を巡る作り物の光の球だ。本当の太陽は、もう見えない。イザナギの目には見えているのだろうか。
「俺はこうだから、例え学があっても人の羨む職には就けない。表向きにはなんだってできることになってる。でもだめなんだ。俺はこの国で生まれたけど、やっぱり余所(よそ)者なんだ。お前たちと同じにはなれない。俺はこうだということはかえようがないから仕方がない。例えば神に祈ることに疑問を感じ始めたら、その日のうちにやめる。けれど誰かからやめろと云われたなら、死んでもやめない。そういうものだ」
 影になったイザナギの姿がぼやけた。あたしは瞬きにしては長く瞼を閉じていた。人工太陽は軌道連絡超々高層ビル(コスモスクレーパー)の向こうへ沈んでいった。世界がすっと騒ぎやんだ。
 イザナギは祈りの最後の詩句を(うた)ったあとも、しばらくそのまま太陽の残り火を見つめていた。やがて腰を下ろしたので、あたしは煙草を差しだした。イザナギはそれを受け取らずに、あたしの躯に腕をまわした。
 男の髪があたしの口許にかかり、体温が胸と太腿につたわった。鎖骨の上に男の唇の形を感じた。ゆっくりふたつ数えて、あたしは思いきりイザナギの脚を蹴り飛ばした。情けない声を上げて本の斜面を転がりおちたイザナギは、しようがなさそうに笑った。あたしはまた元通り寝転んだ。
「なあ、飯食いにいこうぜ」
 何事もなかったかのようにイザナギは云った。
「いかない」
「お前、貯め込んでばっかいないでたまにはぱっと使えよ」
「いやだ。欲しいものがあるんだ」
「なんだよ」
 あたしは口を引き結んだ。
「判ったよ、じゃあ俺が(おご)ってやるからさ、いこうぜ」
 イザナギが頓着のない口調でそう云った。あたしは緩慢な声と一緒に頷き、けれど眠気に抗いかねるときのように、また瞼を閉ざした。

 たった一日だ、とあたしは云った。「それは二十四時間だ」と男は返した。それは一四四〇分だ。それは八六四〇〇秒だ。あたしは低く笑った。男も困ったように口許を弛めて、けれどあたしから視線を逸らした。
【──宇宙船の速度が光速に近づくと、周囲に見えている星々の光が前方に集中する現象が起こります。更に速度が上がると、船の後方に位置する天体までもが前方に見え始めます。このとき、星々の光はドップラー効果で同心円状の虹のようになります。……】
 宇宙船の操舵資格を取得しようと申請した人間は、まず星虹(スターボウ)を見に宇宙空間へ連れだされる。光さえ歪む加速度を経験して地球に戻ってくると、地球では一日多く時間が経っている。この一日の欠落を受け入れられた人間だけが、正式な訓練に進める。
 それは、何かの都合で顔を合わせなかった一日じゃない。あたしには男が過ごしたその「一日」が初めから存在しない。それでもそんなもの、なんの支障もないとあたしは答えた。
 男は斜を向いたまま哀しげな目つきをした。その格好のまま、イザナギは静止する。

#4

 丸くなった、と思った。
 東宇宙港の中央ロビーは何処も丸みを帯びていた。あたしは自分の身なりがひどく気の利かないもののように思えて、なんとなく上着の襟を合わせて入港カウンターへいった。諸々の手続きをして、次に記録の底から特例保護措置をかけておいた預金口座を呼びだしてもらう。その残高に発見した小惑星四つの権利を売って得た額を合算し、現在の貨幣価値と突き合わせる。光子船の整備代を払っても、どうにか食糧を買い込むことはできそうだった。
 クレジットカードを解凍するために、改めて身分証を提示した。求められて生年月日を口答する。「二三三〇年四月二十七日」隣のカウンターの職員の目がこちらへ動いたのを感じる。目の前の女性職員は貼りついたような顔をしている。
 あたしは相変わらず十九才だ。しかし戸籍の上では、百十九才になっている。
 きっかり百年で地球に戻ってきた自分を莫迦らしく思う。もしもオールト・ゲートの開放日が目前に迫っていなければ、気まぐれな思いつきは思いつきのままで終わっていただろう。それが帰ってきた。心には後悔する気持ちが(くすぶ)っている。
 処理をするあいだ、待っていてくれとロビーを示された。あたしは息をつき、空いたソファに座った。これも丸みがあって貝殻のような形をしている。
 椅子の中でずり下がり、背に体重をかけてぼんやりとロビーの様子を眺めた。ここに、あたしが地球を発ったときに生きていた人間はどれだけいるだろう。まったく見ず知らずの人ばかりだ。云い方をかえれば、あたしのほうが幽霊なのかもしれない。
 隣のソファが空いた。ロビーの向こうから、男性が三人、何か話し合いながら歩いてきて、そのうちの二人が太陽球殻(グランドシェル)に向かう定期船の搭乗カウンターに向かい、残った初老の男性があたしの隣に座った。何気なく目で追っていたあたしは、腰を下ろした男性の横顔に見覚えがある気がした。視線を感じたのか、男性が振り向く。あたしはもぞもぞと姿勢を正した。
 カウンターから連れの二人が戻ってきた。社長、と彼らは話の中で隣の男性を呼んだ。彼らの胸のプレートには、エネルギー供給会社のロゴがある。静かに驚愕した。この初老の男性は、百年前に冥王星の沖で出会った老人の、来孫(らいそん)昆孫(こんそん)だ。
 釘付けになったあたしに気づいて、男性は怪訝そうに「どうしました」と標準言語で尋ねた。あたしは、ずっと昔、あなたの遠いお祖父さんに会ったことがある、と話した。男性は困惑して、そうですか、と短く答えた。
「そのもう一つ近いお祖父さんにも。ただ、その人は宇宙旅行を嫌っていたけど」
 男性は、世間話を聞くような調子で笑った。「まあ、それは昔の人ですからね」
 あたしは視線を動かさないまま、口許でだけ笑い返した。老人からもらった小惑星は、地球を発つときに売ってしまった。だから、あたしとあの太陽に憑かれた老人とを繋ぐ手がかりは、時代遅れの光子船だけだ。あたしはこの男性を自分の船へ連れていって、これをあなたの遠いお祖父さんに譲られたのだ、その人は太陽に焦がれていたのだと、そう説明している光景を思い描いた。きっとこの来孫か昆孫は、あの老人の名前すら知らないだろう。
 本当の太陽の光は、今はもう三七三光年先へ飛び去った。死んだ老人の光は、やはり二七三年の差で追いつくことができずに、百光年先を今も遠ざかっている。

 月に出会った。
 ロビーの一郭にある喫茶ルームで、あたしは真新しいクレジットカードを指先でテーブルに立てていた。不意に、「盗られちゃうわよ」と標準言語で背後から声がかかった。そして素早く、赤く塗られた爪の手が、あたしのクレジットカードを(かす)め取った。
 驚いて振り返ると、そこには赤い唇をし、赤い絹のワンピースを着た、小柄な少女が得意顔で立っていた。彼女は言葉の浮かばないあたしを無視して、勝手に向かいの席へ座った。
「……盗むなら、あたしの目と指も持っていかないと」
 あたしは漸く、そう云い返した。少女はころころと笑った。
「じゃあ、そうする」
 テーブルの上であたしの手をにぎった。冷たい手だった。あたしは無理に浮かべていた笑みを消した。心はもう了解していた。
「あたしは、ユエ」
「…ユエ?」
「月」
 「Moon」と云ったユエの口許は、蜜を吸うような形だった。
「あなたは?」
 あたしはユエに(なら)って、下の名前だけを答えた。少女は声音に馴染ませるように小さく呟いてみて、それから唇の端を上げた。
「これから発つの?」
「帰ってきたとこ。またすぐにでていくけど…」
 正直に答える自分が不思議だった。あたしは強いて、取り上げられたクレジットカードを気にしてみる。それはユエのもう一方の手の中で(もてあそ)ばれている。
「ヒヤデス? 次の開放日は二年後でしょ」
「だから、明日発つ」
 あたしが云ったのは、今日はここに留まる、ということだった。
「そう」
 ユエは目を細め、爪であたしの肌を引っ掻くようにして、手を離した。「じゃ、部屋をとった?」
 あたしは皮膚の上に見えない筋が浮き上がっているような気がして、手をテーブルの下に隠した。「自分の船がある」
「あたしも」
 ユエは席を立った。透明な間仕切りを挟んで、こちらには見向きもせずに、真っ直ぐロビーを横切っていく。クレジットカードを持っていかれてしまった。けれど、どうせすることは決まっている。
 稍して、あたしもロビーにでた。

「いつもこんなことしてるのか?」
 船室(キャビン)の壁に凭れて、あたしは尋ねた。耳飾りを外して寝台の上に放り投げながら、「たまにだけ」とユエは答える。
 少女は操舵スペースへ入っていき、宇宙空間に面した側を除いたすべての船窓にシェードを下ろした。慣れてるんだな、とあたしは返事を期待せずに云った。停泊中の船は車輪状の宇宙港の外縁に係留される。ステーションは自転しているので、舷窓から見える星野は少しずつ移り変わる。隅のほうに地球表面が見えているけれど、まだ東半球は夜で、都市に灯った明かりが群れなした蛍のように光っていた。
「宇宙からかえってくると、躯中が冷え切ってしまっているような感じがしない?」
 通路の先からユエの声だけが聞こえる。あの手の冷たさは宇宙旅行の所為(せい)だったのだろうかと、ぼんやり考えた。
 でも、どうしてあたしなんだ?
 尋ねてみたところで理由は求めていない。どうでもいいことだ。これからの数時間がかわるわけじゃない。
 あたしは自分の戸籍上の年齢を話していない。ユエはいくつなのだろう。見かけだけなら、あたしよりひとつかふたつ幼いだけに見える。宇宙船に詳しければ、この船の形式から大体の航海歴が判るのだろうけれど、あたしは(ようや)く文明圏の時間に戻ったばかりだ。百年だって夢か幻のようだ。少なくともユエの船は、あたしの船よりはあとの世代のもののように見える。根拠はやはり丸みだ。
 船内にはひとつ、ひどく目を惹くものがあった。放られた耳飾りがふたつの赤い目のように転がった寝台の脇に、それは据えられていた。渾天儀(こんてんぎ)だ。
「──あれは?」
 あたしは尋ねた。ユエは通路から顔をだして、「あたしの一族の誇りよ」と答えた。彼女は髪をといていた。波立った長い髪が、彼女を大人びて見せた。そして少女はこちらへやってくると、あたしの頸に腕を回し、ぶら下がるようにして額を合わせた。ユエは目を(つぶ)り、嬉しそうに笑った。
 あたしの心はよく判らない。

「──あたしの一族のご先祖様は、昔々、宮廷の天文博士だった。だから、いつか一族の誰かが宇宙へいくのが、あたしたちの願いだった。曾々お祖父さんの頃から宇宙船を買うためにお金を貯めて、子孫の中であたしだけが決まった道がなかったから、宇宙へでる申請をした。星虹(スターボウ)、あなたも見にいったでしょ?」
「ああ…」
 あたしはユエの髪を見つめたまま、気怠く答えた。ユエは寝台から腕を伸ばし、渾天儀の輪を指先で揺らしている。十字に組まれた円形の枠の中で、様々な軌道を表す細い輪が組み合わされている。ユエの戯れに連れて、触れられていない輪もそれぞれがそれぞれの割合で連動して動く。「今の地球みたいね」と、ユエは思いだしたように云う。「真ん中に地球があって、その周りを架空の太陽や月が廻ってる」何か振り切れたように、ユエは強く指を弾いた。
「それから何度も見たけど、初めて星虹を見たときには、あたしは泣いてしまった。嬉しかったのか哀しかったのか区別がつかない。ただ、船の前に現れた虹はとても美しいのに、どんなにしても決して追いつけないんだっていうことが、辛かったのかもしれない」
 からからとまわる渾天儀の音を聞きながら、一日は、とあたしは尋ねる。欠落の一日は、どうしたの。
 ユエは背を丸めて笑った。「どうもしない。家にかえって、じゃあこれから本講習だからって、そう挨拶しただけ。同じ時間を生きていたって、誰かが必ず隣にいるわけじゃない」
 急に躯を転じて、ユエはあたしの目を捉えた。虚を衝かれて、あたしはどんな表情も浮かべられなかった。ユエは躯を起こし、あたしを乗り越して、舷窓から外を覗いた。ユエの横顔や薄い胸が透き通った青に照らされた。あたしも躯を起こし、窓の外を窺った。地球の輪郭の上に人工太陽(ヘリオス)が顔をだし始めていた。その光を受けて、ぼんやりと霞みがかって地球の大気が輝く。けれど、実際に地表を温め照らしているのは別の仕組みだ。
 あたしはユエの腹の下から脚を抜き取った。寝台を下りると、ユエは意外そうに声を上げた。「どうしたの」
「地上に降りる」
 あたしは背を向けて身仕舞いをした。
 つまらなそうに答えたユエは、少し間を置いて、出発前にまた会えるかと尋ねた。あたしは肯定とも否定とも取れる曖昧な返事をした。「──あんたは、地球には降りないの?」
「ええ…」
 後ろにまだ、言葉がつかえているような調子で、ユエは云った。あたしがハッチをでようとすると、少女の声が背を叩いた。
「もう剣はないのよ」
 振り返ると、ユエは舷窓のふちに頭を乗せて、うっとりしたような表情を浮かべていた。
「海に飛び込んでも、もうそこに剣はない。あたしたちの船は、随分と遠いところにきてしまったから」

 ステーションの中心部へ向かう。手続きをして、軌道エレベータに乗り込む。
 籠の中で指定された座席につくと、間もなく動き始めた。全長数万㎞の炭素索(ケーブル)に沿って、じりじりと籠は下降していく。定員は十五名ほどだから、等間隔でいくつもの籠が送りだされる。これの料金が無料なのも、天の岩戸計画のお陰だ。
 あたしはずっと窓の外を見ている。地球大気に入る瞬間、水の中へ墜ちたような感じがする。あたしは、自分が海の底に沈んでいっている錯覚をする。別れ際のユエの言葉が心に残っている所為かもしれない。軌道エレベータは途中で枝分かれし、あたしが乗ったラインは一時間半ほどで軌道連絡超々高層ビル(コスモスクレーパー)へ降りる。同等の重力の中にいたはずなのに、地上へついた途端、ぐっと躯が重くなった気がした。
 塔の頂上から、普通の昇降機で本当に地面に降りる。窓の外で迫り上がる吹き抜けのロビーは、大きさ形だけが記憶の通りだった。扉がひらいた。久し振りに聞く、あたしと同じ慣用言語が耳を打った。
「奴らもダイソン球の恩恵にあずかっている癖に」
 隣にいた男性が、ロビーの騒ぎを苦々しげに眺め遣りながら呟いた。その人に続いてあたしも外へでた。ロビーで差しだされたチラシは、再生紙に印刷された高級品だった。「科学は人間の心を滅ぼす」あたしは上着に両手を突っ込んだまま、演説の人だかりの脇を通り過ぎた。刺々しい叫びはあたしの背を追ってくるようだった。
 屋外へでた。あたしは足を止め、空を見るためにうんと顔を仰向けなくてはならないのにとまどった。地上は薄曇りだった。ついさっきまであんなに露わにあった人工太陽(ヘリオス)が、何処にも見えないのが不思議でならなかった。湿気を含んだ、生温かい風が上着の中に入って、あたしは今が浅い春であることを(ようや)く思いだした。あたしは歩きまわり、案内表示を頼りに路線バスに乗り、都市部を離れた。
 停留所は別の名前になっていた。そこは相変わらず猥雑な町で、しかしその猥雑はあたしに染み込んだものとは他人だった。あたしは彼方に見える軌道連絡超々高層ビル(コスモスクレーパー)との位置関係から、目的地を探しだした。かつての本の墓場は、整備された公園になっていた。
 堕落の温床か、下層民の収入源か、ずっと続いていた水掛け論に決着がついたのだ。あたしは入り口に立って、くすくすと笑った。不似合いだ、こんな場所にこんな美々しい公園を造ったって、誰が利用なんかするもんか。実際、そこには人っ子一人いなかった。
 正面には凝った形のモニュメントがあった。それを見上げたときには、あたしはどんな表情も失っていた。プレートに刻まれた日付は、あたしが地球を離れた日と大して隔たっていなかった。
 この辺りを尋ねて歩こうか。そういう考えが頭を離れなかった。無駄なことであるとは判っていた。イザナギは宇宙にはでない。百年が経った今、イザナギが生きているわけがない。
 本の山がなくなって、あの男はどうやって暮らしていったのだろう。他の同類たちと一緒に「人の羨まない」ことをして日を送ったのだろうか。伴侶を得て家庭を築いたのだろうか。この町の何処かに、彼の血をひく人がいるのだろうか。まさか。あたしは哀しく笑った。あたしは──思い上がった考えを起こして、まるで、あたしが地球を離れたので本の山が取り払われたのだというような気がしていた。つまり、こういうことを感じていた。あたしがいなくなって、イザナギはどうやって生きたのだろう。
 記憶の中のイザナギは視線をおとしたまま動かない。けれどそれは、本当に最後に見た男の姿ではない。最後に会ったとき、あたしは本の山の麓に立って、(いただき)で動く人影に声をかけた。その頃、もうイザナギはあたしの山に登ってくることはなくなっていた。あたしは僅かな持ち物を詰めた鞄を肩にかけて、じゃあ、と声を張り上げた。無視するように背を(かが)めていたイザナギは、手を止め、少しこちらを振り向いて、ああ、と答えた。彼の姿は遠すぎて、細かな表情まで知ることはできなかった。あたしはじっと待ったけれど、それ以上、イザナギは何も云わなかった。
 じゃあ、としか云われなかった。それから百年が経って、あたしはあのときと同じ年齢でここに立っているけれど、あのときの世界も、そこで生きていた男も、もうこの地上には存在しない。そういうことを、あたしたちは判っていた。けれど、じゃあ、もう会われないよと、そんなことを伝え得る言葉は何処にもなかった。

「──あたしは今から半年前に初めてオールト・ゲートを抜けた。八ヶ月前に冥王星の沖で変わり者の爺さんと会って、その人の遺言で今の船をもらった。あたしは一年前に初めて星虹(スターボウ)を見た。あたしは本の発掘屋をしていて、そこで見つけた桁違いの希少本を売って中古の宇宙船を買ったんだ。………」
 ユエの目は真っ直ぐにあたしを射抜いている。あたしは正面からそれを受けることはできずに、テーブルの上に頬杖を突いて、斜にロビーの様子を眺めていた。
「知ってるか、発掘屋」
 軽い調子で尋ねると、ユエは真剣に頷いた。「聞いたことある」
 もう、百年近く昔の職業だよ。あたしは笑った。宇宙港へ戻ってから、あたしはそのことを調べた。本の山を処分することに関する喧々囂々(けんけんごうごう)の議論、「焚書」という言葉は大仰だった。どのみち、知られずに消滅した本は幾らもあるのだ。
「でも、一冊の本で宇宙船が買えたの」
 ユエの疑問は、彼女だからこそのものかもしれなかった。あたしは自分への非難のような気がして、口角を窪ませた。
「買えたんだ、嘘みたいだけどさ。その本は、二〇三八年に発表されるはずだった、日本語で書かれた小説──みたいなものだった。ところが、配信前に喪失の火曜日が起こって、大元のデータが消滅してしまった。それを書いたのは、当時の十数年前に死んだ子だって話だった。兄弟だか親戚だかが供養だっていって、ある出版社に持ち込んだんだ。そこは二十二世紀には廃業したから、あたしたちの時代にはそれ以上のことは判らなかった」
 一旦、言葉を切った。
「──…これだけなら、よくある話だ。重要なのは本の内容で、それは人工太陽にまつわるものだった。天の岩戸計画が影も形もない時代に、目に見える〈太陽〉を失った人類が作り物の太陽を空に浮かべることを、その本は書いていたんだ。このことが知られたのは二三〇〇年代に入ってからだった。ある紙本愛好家が、例の出版社の放置されたウェブサイトにたまたま辿りついて、そこにこの小説の簡単な筋が載っているのを見つけたんだ。例の経緯(いきさつ)もそこに書かれていた。もっとも、何処まで本当だか判らないけど。とにかく、これはコミュニティで話題を呼んだ。予言だっていって。喪失の火曜日の頃は、本ていうのは殆ど初めから電子化されて売りだされてて、紙に印刷されたものはないのが普通なんだ。でも、何かの理由で少しだけ印刷される場合もあって──大抵は保存用とか、記念用だけど、あたしたちみたいな発掘屋は、それを探していたわけ。だから、例の小説も紙書籍版が存在する可能性があった」
「それを、あなたが見つけたの」
 話に引き込まれているらしいユエの声に、あたしは目を細める。
「何度、オークションの結果の(けた)を数え直したか判らないよ。馴染みの紙本屋の店長が、念のために代理人を立てて、出品者名も仮名にしたほうがいいって、そう忠告してくれたときには冗談だと思ったのに。最終的に競り合ったのは、姦淫聖書みたいな曰くつきの禁書ばかり収集している私立図書館と、やっぱりそういう傾向の本ばかり出している出版社だった。結局、出版社が勝った。とうに著作権なんて消滅していたから、電子配信で、もう元は取ったんじゃないかな。……」
 あたしは声が弱まるのを感じる。あの本を売らずに、自分だけで持っていることを考えなかったわけではない。それでも、あたしは宇宙へいきたかった。
「……鏡以外のものに、自分の姿が映っているのを見つけることがあって、それがあたしには、あの本だった。別に、書いてあることに何もかも共感したわけじゃないよ。子供じみていて感傷的な話だとか、そもそも小説になってないとか、評価も散々だった。それでも、言葉の一つ一つが直接心臓に届いて、抜けなくなったような感じだった。あれは、確かにあたし自身を書いたものだった」
 多弁な自分が訝しかった。あたしは深く息を吸い込んで、背筋を伸ばした。
「あたしは、その本は…読んだことがないわ」
 ユエがやっと選び出したように、所々空白を入れながらそう云った。あたしは面映ゆくて、「電子図書館で検索すれば、すぐに見つかるよ」早口に説明しつつ、硝子越しにロビーの時計を見晴るかした。「題名は〈太陽のない星〉で、書き手は〈司馬箍衣〉だ」
「ねえ、どんな話なの?」ユエがせっついて尋ねた。
 あたしは小さく声を零して、
 忘れた。
 吹っ切れたように答えた。

 この悪夢が打ち破られるように。
 最後の一行にはそうあった。
 その世界の空にも太陽はなかった。人々が生きるために覆い隠したのだった。そして、この現実の世界のように、それを非難する人たちがいた。
 予言というなら、太陽の隠れた世界の有様のほうがよほど当て嵌まっていると思った。分を超えた科学技術への不信と、絶対的なエネルギーの需要と。世界はテクノロジーなしには成り立たないところまできていた。肥大した文明社会を養うには、どうしても太陽を岩戸へ入れることが必要だった。五十億年分の莫大なエネルギーを手にして、けれど、人間は決して諸手を挙げて喜ぶことはない。口許を曖昧に歪めて、視線を逸らす。母なる星に手をかけるくらいなら、原始的な生活を選ぼうとする。これは(さじ)(すく)い上げてみたときのことで、大抵の人間は、日常には難しいことなど考えていない。けれど、尋ねれば、きっと殆どの人は同じことを答える。
 それはおそらく、傲慢なのだった。本当に人間が卑小な生き物であるなら、自分たちの恒星くらい、なんの躊躇いもなく利用するだろう。人間を他の動物とは違う崇高な存在だとしんじるからこそ、得られる豊かさを拒絶して、敢えて助かるものが助からない世界を是とするのだろう。自己犠牲としての後退だった。
 あたしが見つけた本の中に、こうしたことがはっきりと書かれていたわけじゃない。その小説に確固とした筋はなかった。ただ浅い夢に見ているような光景が、取り留めもなく綴られてあるだけだ。主人公の性別すら判らない。書き手が男性であるから、そして死んだ年齢が十六才だと云われていたから、「少年」と呼ばれているだけだ。「少年」の目に映り、耳に込められたものが短い物語の中に淡々と語られてある。説明も感想もない。「少年」は街を彷徨い、ふと降りかかる紙吹雪の中で空を見上げると、そこに作り物の太陽が浮かんでいる。そして「少年」は、太陽の前に立っている。
 この悪夢が打ち破られるように。最後に「少年」は、砕け散る太陽の終わりの炎に灼かれて死ぬ。砕けた「太陽」が人工太陽のことなのか、それとも岩戸の中の本当の太陽だったのか、それすらも判らない。太陽とは矛盾だった。あれが単なる恒星の一つであると大抵の人間は知っている。けれど、それを信じはしない。
 十六才の少年は二〇一一年に生まれた。行方知れずになったまま死亡認定されたという少年は──きっと自殺したのだろうと、あたしはしんじた。

 椅子から立ち上がり、上着の胸ポケットにクレジットカードをさぐると、いい、とユエは云った。目を向けると赤い唇が笑った。
餞別(せんべつ)だから」
「え…」
「それに、あたしはもうちょっとここにいないと」
 ユエはわざとあっけらかんに、宇宙船のディーラーと待ち合わせしてるから、と云った。
「もう地上に戻るの」
 椅子の背に凭れかかり、ユエは背伸びをするように両腕を前へ伸ばした。
「だって、初めから必要なのは、宇宙にでるっていう、そのことだった。あたしはちゃんと九つの惑星を巡った。ヒヤデスにも、プロキシマケンタウリにもいった。だからもういいの。船から下りないと。宇宙は好きだし、時間がどれだけ食い違ったって気にしない。でも、どんなに引き延ばしても、いつかは終わるのよ、自分の時間は。だとしたら、きりがないじゃない」
 あたしは、何も云えなかった。反発や哀しいような気持ちもあった。けれどユエの言葉に打ち勝つことはできないのが何故だかはっきりと判っていて、それであたしは身動きができなかった。
「宇宙船を売ってしまったら、弟の子供たちが──ていっても、あたしより年上になっているけど、その子たちがやってるお店があるから、そこの手伝いをするの」
 あなたは、まだ、時間を旅するの。ユエが姿勢を直して、強い眸をじっとあたしに注ぎながら、そう尋ねた。慈愛に溢れたような表情だった。
「ああ…」
 あたしは答えた。
 ユエはにっこりとした。
「じゃあ、お別れね」
 ロビーを歩き始めたとき、急に背後から何かがぶつかってきた。
 ユエは素早くあたしの前にまわり込み、飛びつくようにくちづけた。
 そして一歩後退(あとじさ)り、さよなら、と云った。
「あ…」
 あたしはそのときに、百年前のイザナギの心があたし自身に重なるのを感じた。ねじ曲げることのできない心で去っていく人を見送るとき、ああ、としか云えない。こちらからも「さよなら」とは云えない。
 ユエは満足したように踵を返し、喫茶ルームのほうへ戻っていった。あたしはしばらく立ち尽くしていた。やがて足を進めた。上着の袖で口許を押さえ、固く目を(つぶ)って、係留している自分の船のほうへ歩いた。

 操舵席のシートに凭れている。瞼を閉じたまま、ヘッドセットに伝わる標準言語での問いかけにぽつぽつと答えている。不意に、通信の声が同じ慣用言語にかわり、名前を呼ばれた。目をひらき、あたしも慣用言語で「なんです」と問い返す。「いえ、どうも元気がないようなので」声はまだ若そうな男性だった。あたしは口許を弛め、お気遣いありがとうと、その本来なら玄孫ほどに年の離れたオペレータに云った。
 宇宙港を発つ船は、ステーションを貫いて伸びた軌道エレベータの上昇炭素索(ケーブル)に沿って順繰りに送りだされる。宇宙空間へ放りだされれば、機体の制御はみんな船の管制装置がやってくれる。個人船の長所であり短所だ。あたしは操舵席に身を預けたまま、見慣れた光景が目の前に広がるのを見つめる。それはほんの僅かな間で消えた。ディスプレイを確かめると、地球では既に二年が経っている。
 ユエは二つ年をとった。
 オールト・ゲートは大層な賑わいだった。ヒヤデスは今や地球人類圏で最も発展の著しい場所だから、一三〇光年の距離を──時間を、厭わずにでかけていく人は、いくらもいる。あたしはゲートからの求めに応じて、種々のデータを送信する。承認されると船は自動誘導に切り替わる。無辺の宇宙で一列に並ばされるのには、やはり可笑しくなる。
 恒星風も届かない絶海の宇宙空間には、ただ複数の弧状の構造物が浮かんでいるだけだ。形作られたゲートの中には背景の星々が見えている。ところが、少しディスプレイへ目を遣って、そして視線を戻すと、もう異変は始まっていた。奈落のような宇宙に散らばる星々が、ゆっくりと引き寄せられ、引き伸ばされ、やがてゲートの中央に「虚無」が生まれた。虚無は息をのむ速さでゲートいっぱいにまで拡大する。それは「闇」でも「影」でも「黒」でもない。十一次元宇宙にあいたこの世ならざる場所への抜け穴だ。
 先頭の船が滑り込んでいく。大気で霞まされることもなく、はっきりとした輪郭のまま遠ざかっていく光景は、何か作り物めいている。船がゲートへ近づくにつれ、その動きはゆっくりになる。やがて動いているかどうかも判らないほどになり、ゲートの隅に一匹の羽虫のように停止する。続く第二第三の船も同じように同じような場所で凍りつく。実際は、それらの船はとうに虚無の中へとのまれている。ゲート内部の途方もない重力が、船の像を運ぶ光を引き留めてしまうのだ。
 あたしの船も動きだす。あたしはディスプレイの警告表示を無視して、ぎりぎりまで主窓の外を見ている。船は恐ろしい速度で虚無へと引き寄せられる。あっという間に星野が見えなくなって、視界が一面の無に覆われる。凍りついた光が断末魔のように船を掠めて飛び過ぎる。やがて、その実体のない「虚無」に、あたしは衝突するような恐怖を覚える。咄嗟に目を瞑ったとき、船の管制装置がデミウルゴスの海への突入を告げた。

 閉塞した船の中で、あたしは目をひらいた。装甲や艤装(ぎそう)の軋む音しか聞こえない。船内には赤い非常灯がともっている。窓の外には何も見えない。四次元の生き物である人間の目には、この場所を視覚する能力がないのだ。ここは「空間」ですらない。デミウルゴスの海、十一次元宇宙や他の平行宇宙を生み出した造物主の海だ。途方もない計算と技術で、人間はその彼岸を泳いでいる。あたしは不意に確信する。この手のひらや意識が、なんの意味があるのか。あたしは一人きりだ。手の触れられるところに、誰もいない。
 はっとすると、あたしはまた、無尽の星の海を見ている。いつの間に此岸へ戻ったのか、一体どのくらい虚無の中で過ごしたのか、何度オールト・ゲートを通り抜けても覚えていられたことがない。ゲートから確認の通信が入る。あたしは平坦に標準言語で答える。すると自動誘導が切れ、船は草の葉が水を滑るような速度で宇宙空間を漂った。オールト・ゲートはとうに消滅していた。
 正面にΘⅠ(シータ·ワン)星が間近く輝いている。周囲に既に船影はない。あたしの船はゆっくりと、慣性のまま岩石や氷の粒とまったく同じように虚空を運動し続けている。

#5

「……これを聞いている誰かへ。俺は多分、もう死んでいるだろうと思う。あんたが生きているのは紀元(CE)何年だ? まだΘⅠは燃え尽きていないか? 俺は紀元二三七五年に生まれた。あとの時代のために、もしかしてちゃんと伝わっていないかもしれないから、ひとつ教えておく。二三九三年のベースボール・リーグはメトロポリタンが優勝した……」
 あたしは寝台に額を擦りつけるようにして目をひらく。躯の芯に重力が籠もっている。自分が(えら)呼吸の生物で、うっかりして砂浜に打ち上げられてしまったみたいだ。散らかった船室(キャビン)をでて、覚束ない足取りで船の前部へいった。ディスプレイを見ると、うとうととしている間に十年が過ぎたのが判った。
「……地球のあるところに一人の科学者がいた。科学者はある朝、朝食を作っているときに地球を吹き飛ばしかねない閃きをした。とてつもない破壊力を持った新物質だ。科学者は青くなってフライパンを放りだし、きっと自分の閃きには欠陥があるはずだと研究を始めた。しかし、何日も何ヶ月も計算しても、その閃きには欠陥なんかなくて、逆に研究は完成してしまった。おそれ(おのの)いた科学者は、すぐに研究データを破棄して、研究に使った機械も物理的に壊してしまった。締め括りに強い酒を(あお)って、自分の頭の中から新物質に関する記憶を消し去った。引っ繰り返って前後不覚に眠って、次の日、宿酔(ふつかよい)の頭で目を覚ますと、窓から差し込む日差しがとても美しく見えた。科学者は自分はいいことをしたと思った。そのとき、玄関の呼び鈴が鳴って、厳めしい格好の男たちが入ってきた。男たちは酷い有様の研究室に踏み込んでくると、真っ直ぐ非常電話機に歩み寄って電話線を差し込んだ。科学者は研究の邪魔をされるのが嫌で、電話線を抜いてしまっていたんだ。間を置かずベルが鳴り、科学者が男たちに促されて受話器を取ると、電話の相手は科学省の長官だった。長官は差し迫った調子で捲し立てた。『何ヶ月も何をしていたのかね。君はこの重大事を知らないとみえる。未知の重力源の影響で、天輪星が海王星に近づき、海王星は天王星の軌道を狂わせ、天王星は土星と連れ立って木星をちょっと揺さぶり、その影響で小惑星帯の小惑星が雨あられと火星に降り注ぎ、火星は吃驚(びっくり)して地球に突進してきているんだ。このままではあと一月で火星が地球に衝突してしまう。衝突を回避するには地球を吹き飛ばしかねないくらいの威力の爆薬がいる。君、何かいい閃きはないか』……」
 操舵席に横ざまに座って、あたしは現在位置と減速航行中の船の状態を確かめる。(つつが)なし。船はまっしぐらにヒヤデスの果てへ向かっている。あたしは邪魔な髪を片手に集めて、もういちど、思いだしたようにディスプレイを見る。さっきから既に十一日経った。目の前がぼんやりする。コンソールを緩慢に叩いて、光線通信の受信記録を呼び出した。
「……こんな話を知っているか。ある宇宙船乗りが体験したっていう実話だ。その男は一人で天体狩りをして宇宙空間を飛びまわっていたんだが、いつからか誰もいないはずの船内で人の視線を感じるようになった。初めは気の所為(せい)かと思い、次には船の微弱な電磁波の影響かとも考えたが、どうも違う。というのも、そのうちに目の端に誰かがそこへ立っている姿をはっきり捉えてしまったんだ。男は震え上がって操舵スペースに駈け込み、とにかくいちばん近いコロニーへ船の目的地を変更した。なんてったって宇宙船は密室だ。そんなところに謎のお客と閉じ込められていたんじゃ堪らないだろう。操作を終えてコンソールから目を上げた男は、ほっとするどころか心臓が止まるかと思った。窓に反射して、自分の背後に十三、四才くらいの女の子が立っているのが見えたんだ。女の子は無表情で、じっと男の背中のほうへ視線を向けていた。男は迫り上がってくるような動悸を抑えて目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をした。きっとこれは自分の昂ぶった神経が生み出した幻覚だろうと考えた。そして振り返り、目をひらくと──そこにはやはり、十三、四の年格好の女の子がいた。それだけじゃない。通路にもその奥に見えている船室(キャビン)にも、見も知らぬ人間が何人も立っていて、こちらを見つめていたり、うろうろと動き回っていたりしたんだ。男はあまりの事態に、そのまま気を失ってしまった。そして船内の時計で数時間後、呼びかけに応答しないのを訝ったコロニーの巡視艇に船ごと拘束され、係員に揺り起こされたときには、既に謎の人物たちは消えていた。男は顛末を話し、同時にあることを知った。男が航行していた付近の海域で、少し前に大型宇宙船の爆発事故があったんだ。船は木っ端微塵に吹き飛んでしまって、原因は判っていない。脱出艇も見つかっていなかった。──よくある怪談話だと思うだろう。そうじゃない。これは科学的に興味深い事例なんだよ。つまりこういうことだ。生物の脳は電気を帯びているし、細胞は微かに光を放っている。それが肉体という器を失ったために一挙に開放されて、たまたま通りがかった男の船に到達したんだ。宇宙空間じゃ土地建物の因縁だとかっていうほうが無理があるだろう。地球上やなんかでのケースも実は同じ理屈だと考えられないか。これが幽霊の正体なんだよ……」
 通信が乗った光線を捉えると、船は自動的にその光軸を追尾して歪みきった情報を復元して保存する。本来は緊急通信を逃さないように実装された機能だけれど、そのとおりの用途で利用されることは滅多にない。光線通信は孤独な宇宙船乗りたちの玩具になっている。
「……宇宙伝説(スペース·ロア)と呼べるのか、有名な話だから聞いたことがあるだろう。強力な新物質を開発した科学者が、その製造法を破棄してしまったあとで地球の危機を知るってやつだ。あちらの時計で百年近く前から流布しているらしい。俺はこれに関して意見を云いたい。あれは随分恣意的な話だよ……」
「……デイジーは二百十一才になった。デイジーは二百十二才になった。デイジーは二百十三才になった……」
 あたしはコンソールのふちに腕を重ね、頭を乗せる。宇宙を渡ってきたこれらの声が、果たしてどれほど前に発せられたものか、十年か、百年か、それを確かめる術はない。送る側も受ける側も、決して相手のことなど考えてはいない。話し、聞くことに意味があって、触れ合うことなんか想定していない。だから生きていられる。もしも通信の相手が目の前に現れたら、饒舌な語り手も為す術なく黙り込む。人懐こい聴衆は耳を塞ぐ。
 あたしはディスプレイへ目を向ける。寝台を起きだしてから三ヶ月が経った。
 ヒヤデスの果てへいくことに理由などない。船は既に減速段階に入っている。もう取り消しはきかない。目的地を設定したのはオールト・ゲートを抜けてすぐの地点だった。管制装置はあたしに胡蝶の夢症候群の疑いありと警告した。あたしは可笑(おか)しくて笑って、一言で退けた。違うよ。──宇宙旅行が原因で現実感を失い、ある日突然、当て所なく船をだして戻らなくなる。宇宙船乗りのどれだけかはそうして永久に「生き」続けることになる。そうじゃない。あたしはこれが、単なる気まぐれであることを判っている。だから俯したまま、地球で蓄えた食糧の残量を計算することもできる。行きと帰り、二で割って、その(あたい)の手前で引き返す。ちゃんと考えられる。あたしはまた目を閉じる。通信は続いている。ねむりのもやの向こうで、それは海の音のように聞こえる。
「……何か喋っていないと気が変になりそうだ。だから聞いてくれどっかの誰かさん。ベロエーという星を知っているか。地球からじゃ暗くて、バイエル符号も付いていないスペクトルG型の星だ。ヒヤデスの端にあるが、他の星に比べて年寄りだ。だから老乳母(ベロエー)なんて名前が付けられたんだな。何処かから迷い込んできたか、或いは未知の要因で早く老け込んでしまった恒星じゃないかと云われている。この星に惑星があるらしいって話は聞いたことがあるか。地球でもそれらしい効果が観測されていたんだが、ΘⅠの観測所ではっきり確かめられたらしい。しかも生存可能領域(ハビタブルゾーン)に位置する惑星だ。あんた、もしかして天体狩猟人(プラネット·ハンター)だったら、今こうしているあいだにもコンソールに取りついて目的地を変更しているかもしれないな。だがやめとけ。俺は親切心で忠告するんだぜ。考えてもみろ、ヒヤデスの領海にあるG型の恒星だ。とっくに探査されていてしかるべきだろう。もちろん今までだって一攫千金を狙う連中が何人もベロエーに向かったんだ。が、誰一人戻ってこなかった。嘘じゃない。疑うなら調べてみるんだな。行方知れずの船舶の記録がいくつもあるだろう。最後の目的地はどれもベロエーだ。最近じゃ、(くだん)の星の近傍になんらかの危険海域があるんじゃないかという話まである。濃密な星間物質とかな。だが俺の考えは違う。そんな味気ないものじゃない。ベロエーの惑星、それが魔の星なんだ。近づいた奴はみんな喰われてしまう。古い神話にあったろう、船乗りを惑わせる精霊の話だ。まさにその通りなんだよ。気を惑わせて海の底にひきずり込むんだ。どうしてそれが判るのかって? 今まさに、俺の目の前にその惑星があるからだよ……」

#6

 何を見てるの、と尋ねると、なにも、とヒメミコは答える。
 ヒメミコは少し仰向き、身動(みじろ)ぎもせずに、ひたむきに視線を注いでいる。ロビーの薄闇の中に、少女の白い横顔が浮かび上がっている。あたしたちの前に、壁一面、吹き抜けの天井まで届く一枚硝子の窓がある。外には鬱蒼とした森があり、窓の全体を塞いでいる。日の光は染み入るような緑の葉の上に落ち、そこから滴って、僅かに室内に届く。窓は巨大な水槽で、あたしたちはそれを覗いているような錯覚をする。真実そうだった。
 あたしたちは病院のロビーの、森林地帯に面した大窓の前に座って、もうずっと過ごしている。別の長椅子に座ったヒメミコは、ゆっくりと右手を窓に差し伸べる。その人差し指の先だけ、繰り返される治療のために他と色が異なっている。いつでもそこだけが日に焼けず、新しい。
 外にでたい、と尋ねると、でたくない、とヒメミコは答える。
 春が終わり、異星が雨期を迎えても、少女は病院の中で暮らしている。あたしは時折、人の少ない時間を見計らって、彼女をロビーへ連れだした。ヒメミコはもう、悪態も吐いてくれない。短い言葉の他には、ぼやぼやと頸を振り、口の中で唸り声を立てて意思の疎通をする。大窓を眺めるのは、少女の表現では唸り声を立てることだった。つまり、嫌ではないことだった。
 ヒメミコは長椅子の上で膝を抱え、ブランケットにくるまって身を縮めている。あたしは少女から目を離すことができない。ふと、ざわめきが遠ざかった瞬間に、唇が震えかけ、果たせずに(つぐ)む。ヒメミコ、行きたい? タイヨウに。あたしは問うことができない。答えは判っているからだ。
 箍衣(たがい)とはあれきり会っていない。答えをださなければならない。次の瞬間にも、森閑としたロビーの扉を押し開けて、気密服に身を包んだ人々が雪崩(なだ)れ込んでくるのかもしれない。それは少女にとって救いだろうか。あたしは自分の胸の(うち)では、とうに答えがでているのに気づいている。
【……宇宙人、話して】
 ヒメミコが膝に口を押しつけてねだる。あたしはそんな少女の姿態に見惚(みと)れる。心が空洞になったような感じだった。
 口許に笑みを浮かべて、あたしは痛みのない心から言葉を引きだす。まるでこうして話している間は、決して時が動かないものであるかのように、しんじる。

 そして、「少年」は太陽の前に立っている。
 小さな部屋の中に太陽が入っている。僅かにひらいた扉から、炎の舌先が覗いている。離れて立った「少年」の頬や額は圧力のある熱に灼かれる。やがて、「少年」は扉の前へ足を進める。
 気づくと、そこに立っているのはあたしになる。肌がひきつるように熱い。太陽はじっとあたしを見ている。それは血肉や鉱石とも違う、実体のない力の塊で、見つめていると引き込まれるような感じがする。
 あたしは──「少年」は、太陽に手を伸ばし、指先が触れる前に太陽は砕ける。太陽は「少年」を──あたしを拒絶する。そして、あたしたちは最後の炎に灼かれて死んでいく。
 あたしはこれが、あの小説のラストシーンであることを知っている。脳裏に刻み込まれた光景が、今、混濁した意識に浮かんできているのだ。日差しの所為だと不意にあたしは自覚する。強い日差しが、横たわったあたしの額を射ている。
 ──どうして、日差しなんかあるのだろう。
 いつしか瞼がひらいていた。

 太陽があった。
 晴れ渡った空だった。太陽は白く小さな光になって、鋭く光芒を放っている。
 目が痛んだ。空は歪な円形をしていた。切り取っているのは木々の梢だ。透き通った鮮やかな緑の色が、ゆったりと眩暈(めまい)を引き起こした。木々がざわめくと、躯の上で木漏れ日が踊る。
 しばらくの間、あたしはぼんやりと目の前の光景を見ていた。やがて混濁の霧が晴れて、意識を失う前の最も新しい記憶が蘇ってきた。あたしは跳ね起きた。つもりが、まだ全身の代謝が不活発なままで、ほんの少し胸が仰け反っただけだった。躯の上に乗っていた機械が滑りおちた。そのままならない現象が諦めを運んだ。あたしは全身の力を抜いて、また元通り無抵抗に横たわった。
 太陽と空を見つめた。それらとの間には密封された覆いがある。シートの中で重たい頭を動かした。顔のすぐ横に小型のディスプレイがある。盤面には簡潔に、「放出から二日、現在位置はヒヤデス星団牡牛座三十四番星近傍、委細不明」。あたしは皮肉に口許を笑わせ、意外にも冷静である自分を呆れたような気分で思った。
 ここは脱出艇の内部だ。あたしの船は宇宙空間で四散したのだ。
 頭の上から影が差した。目を動かすと、あたしは唐突に、あたしを見つめるまなざしと出会った。
 それは、女の子だった。つばの広い、大きな帽子をかぶって、両腕で何かの若木を抱えている。年頃は十七か、八か、そのくらいに見えるけれど、こんな推察に意味はない。あたしはそろそろと息を吸い込んで、なるべく厳正な見方をしようと努めた。あたしの脱出艇を覗き込んだのは、地球人類の女性個体に似た、未知の星の未知なる生物だった。その「女の子」は、驚きと好奇心が()い交ぜになったような顔で脱出艇をぐるりと廻った。そして正面の位置でしゃがみ込み、まじまじとこちらを見つめた。あたしはこのときになって、(ようや)く自分の艇が地面に一メートルほどめり込んでいるのに気づいた。相手の爪先が腹の辺りにあるのだ。
 あたしは両肘を使って無理にも躯を起こした。狭い艇内では満足に座った姿勢になることもできない。頸と腰に力を込めて躯を支えた。すると、穏やかだった景色が一変した。
 脱出艇を中心に、木立が数メートル半径で薙ぎ倒されていた。艇に間近い辺りは地面が吹き飛ばされ、焼け焦げた土の塊がそちこちに飛び散っている。
 あたしは苦い思いで目を「女の子」に戻した。根の部分を布のような革のような質感の籠に入れた、厚い葉の若木を抱き竦めるようにして、「女の子」は衣服の裾から膝を覗かせてしゃがんでいる。自然、目の前にある脚に視線が()かれる。生気が感じられないくらい白い肌で、素足に履物をつっかけているようだった。肌を押し上げて脛骨(けいこつ)が浮き上がっているのも、膝が赤茶けているのも、おかしなくらい地球人類そのものだった。触った感じさえ判る。視線を顔立ちに向ける。すると、確かにほんの少し違和感を覚える。地球人類の、どの人種とも違う。けれど、例えば街中で擦れ違っただけでは気づかない。あたしは改めて疑念が湧き起こるのを感じる。ここは本当にベロエーの惑星なのか。
 地球人類が異星人類に出会ったことはない。その未知なる宇宙の隣人は、おそらく地球人とはまったく違う姿形をしているだろうというのが大方の予想だった。ところが、地球外文明の探査は、主に太陽に似た恒星の、地球と似通った環境の惑星を対象に行われている。それでそこに住人がいるとすれば、結局は収斂作用で地球人類と大差のない姿になっているのではないかと、そういう意見もあった。この場合、後者が正しかったということになるのだろうか。そうでもない。ここは太陽に似た恒星の惑星ではあっても、地球と似通った環境の惑星ではない。軌道上から見た限り、この星には大陸はおろか島影さえなかったのだ。
 ふと「女の子」があたしの視線に応えてか、表情を変化させた。口角を窪ませ、目を細めて──普通にいうところの、笑みを浮かべた。あたしもつられて表情を解いた。こんな尋常でない事態だというのに、心は凪いでいる。あたしは投げ遣りな、けれど最も整合性のある考えを心に浮かべる。あたしは船の爆発で死んでいて、ここは彼岸というのじゃないのか。それで、あたしは安らぎのようなものさえ感じているのじゃないのか。
 やがて「女の子」は立ち上がると、掻き乱された地面を越えて森の奥へ駈け込んでいった。あたしはシートに倒れ、息をついた。じっと太陽を見つめた。あたしの死は確定している。これがまだ此岸の光景だとしても、船を失って見も知らぬ星に墜ち、そこからどうやって生還するというのか。終わるのだ、と思うと不思議と安堵感が胸に満ちた。
 あたしは終わりたかったのだろうか。
 視界に白いものがちらついて、目を動かした。──それを木々の合間に見出すのに、時間が要った。それは木の幹に寄り添うように立っていて、微動だにしない。だから、初めは何か、自然のものがそう見えるのかと考えた。ところが、少しするとまた別の白いものが(やや)離れた()()から現れた。
 その姿形、大きさはまったく前のものと同じだった。それは人間だった。髪の長い女性で、裾をひきずるような衣装をきている。そして肌も髪も衣も、みんな同じ白をしている。まるで堰が切れたように、次から次へと、その白い同一の「何か」は森の中から現れでてきた。
 あたしは(すんで)のことでハッチをひらこうとする手を(いまし)めた。脱出艇には気密服などない。外に逃げだしたって、未知なる星の大気に触れた瞬間、悶絶して死ぬだけだ。──可笑(おか)しなことに、あたしはまだ生きようと足掻いている。
 白いものたちは土塊(つちくれ)の散乱した地面を苦もなく滑るように近づいてきて、艇を取り囲んだ。あたしは躯を縮込ませ、睨むように彼女たちを見返した。白いものたちは一人の例外もなく緑柱石(エメラルド)色の眸をしていた。生き物にしか見えなかった。その顔立ちは美しくさえあった。あたしは古めかしい言葉を自然と思い浮かべた。希臘(ギリシア)神話の精霊(ニュンフェ)──森精(アルセイド)だ。
 感情を伴わない笑いが滲んだ。海魔(セイレーン)の星に棲むアルセイドか。すると彼女たちの垣を分けて、先程の「女の子」が顔を覗かせた。同じ未知なる存在でも、既に知った顔を見るとほっとした。「女の子」はその気持ちを後押しするように、にっこりと笑んだ。それが合図であったかのように、森精たち(アルセイデス)が一斉に艇に手をかけた。

 ここは、世界そのもの。
 白い部屋の中で、アルセイドは指先で宙に円をえがいた。
 ここは何処、という、あたしの質問への答えだった。

#7

 突き出された手のひらを、あたしはじっと見つめた。こうするのよ、と「女の子」はあたしの右手を左手で掴んだ。そうして胸の前へ上げた自分の右の人差し指に、あたしの右の人差し指を重ね合わせた。
 その瞬間に、あたしは彼女の名前が「豊饒と瑞々しき癒しをもたらす小さき娘」であることを知った。夏蜜柑、とあたしが呟くと、そうよ、と夏蜜柑は笑んだ。
 あたしはじっと自分の右の人差し指の先を見た。そこにはまだ、ほんの小さな傷痕がある。白い部屋からだされる前に、そこへ何かを打たれたのだ。そうして森精(アルセイド)の一人にロビーまで導かれ、あたしは立ち尽くした。息を止めるのさえ知らずにやめてしまっていた。見上げるような大窓がそこにあり、その外に息苦しいほどの照葉樹林が押し寄せていたのだった。数秒置いて、あたしはロビーのそこここに散らばる異星の人々の言葉が、すべて地球の言語のように理解できることに気づいた。
 長椅子の一つから小さな人影が立ち上がった。駈け寄ってくるとそれはあたしを森で見つけた「女の子」だった。彼女はあたしの手を取り、いきましょ、と引っ張った。あたしは出てきた扉のほうを振り返ったけれど、アルセイドはまだそこに立って、やはり無表情のままだった。あたしはとうとう、彼女たちの声や表情の変化を見聞きしないずくなのを思った。
 ロビーを手を引かれるまま横切りながら、何処にいくの、とあたしは尋ねた。あたしのおうちよ、と「女の子」は云った。
【あなたとお話ししてみたかったから、あなたにはあたしのおうちに住んでもらうことにしたの】
 虚を衝かれて足が止まったのと、「女の子」が立ち止まったのとは殆ど同時だった。「女の子」はロビーの隅の硝子の管に向かって右手を振った。そうして振り返り、あたしに向かって右手のひらを突き出した。
 ──管の中を滑り降りてきた籠に乗り込み、夏蜜柑はあたしの腕にしがみつく。
【あなたが死んでしまう前でよかった。あのね、あたしはあなたを早く、あの容れ物の中からだしてあげなくちゃって、とても急いだのよ】
 あたしは曖昧に頷いた。籠は急速に上昇する。すぐにロビーを突き抜け、建物の上限もあたしの胸から腹へ爪先へと下がっていく。見下ろすと、あたしがいたのは想像より小さな施設だった。あすこはなんなの、と尋ねると、病院よ、と夏蜜柑は答えた。
「病院?」
【何かおかしい?】
「いや…」
 籠は上昇し続け、やがて周辺の様子が見渡せるようになった。あたしは息をのんだ。未知なる惑星の都市はあまりに整然として、視界の利く限り果てしなく広がっていた。
 極端に高層の建物はない。地球の都市を見慣れた目には、どれも地表を這うようだ。それでかなり遠くのほうまで見晴るかすことができた。景色は都市の白色と濃緑とに二分されている。病院の大窓があった側を境にして、森林地帯と都市部とは明確に分かたれていた。街中には一点の緑もないし、森の中にはなんらの建物も見当たらない。森も霞みがかかるまで続き、その果てに帯のように煌めいているのは、海だろうか。
 白色のほうへ目を向けると、都市の上空には飴細工のように透明で奔放なラインが幾筋も走っている。あたしたちの乗った籠も、そのうちの一本に向かっているようだった。ラインの上には何か、ちらちらと光るものが行き交っている。これは何処にいくの、と尋ねると、乗るものの走るところ、と夏蜜柑は云う。そういえば、地上には乗り物らしきものが見当たらなかった。
 都市の眺めの中には、ひときわ目を惹くものがある。それらは降り注いだ無数の刃のように見えた。白が基調の景観の中で、唯一の暗い色であるからかもしれない。なんとなく不吉なもののように思えた。上空の架線よりも高く伸び上がったアンテナ塔だ。
 あれは、と聞くと、高い塔よ、と夏蜜柑は答えた。それから硝子越しに塔の先端に指をあて、【あのてっぺんがね、この世でいちばん高い場所なの】
「そう…」
 あたしは喉元が重くなるのを感じた。夏蜜柑の幼い物云いが、何か、ここから逃れる方法はないことを暗示したように聞こえたからだ。けれど、あたしはなんらの持ち物も取り上げられなかった。訊問も身体検査もなかった。ただ右手の人差し指に、不可解な処置をされただけだ。未知なる星の未知なる生物であるのはこちらも同じはずだった。なのに、考え得るどんな反応をも森精たち(アルセイデス)は示さなかった。あたしは気づくと、白く窓のない部屋の中にいて、衣服もそのままだった。そうして間を置かず連れだされ、そこには夏蜜柑が待っていた。夏蜜柑は、あたしがこの海魔(セイレーン)の星に墜ちてからロビーにでるまでに姿を見た、唯一のアルセイドでない存在だった。
 あたしは彼女たちが何者なのか、それを尋ねてみたいと思うのだけれど、どう説明したらいいかが判らない。あの、あれ、と不格好に云うと、【ああ、あれ】夏蜜柑も同じように引き取った。
【あれはあれよ。なんでもしてくれるの】
「名前はないの」
【人間じゃないもの】
 はっきりとした言葉だった。
【あれは機械なの。何処にでもいるから、困ることはないのよ。あなたも呼べば用をしてくれるわ】
 あたしは──あの精霊たちが女性型學天則(ガイノイド)であると云い切られたことより、なんの疑問も持たないような夏蜜柑の様子のほうが鮮烈に胸に応えた。
【どうしたの?】
「いや…ただ、あたしのいた世界とは随分違うから…」
 半分は嘘だった。
 と、夏蜜柑の、あたしの腕をとらえる力が強まった。あたしは驚いて彼女に視線を据え直した。異星の少女は真摯な眼差しであたしを見つめていた。
【あのね、あなたは確かにあたしたちとは違うけれど、本当の部分は同じなのよ。みんな一緒よ。だから心配ないの】
 あたしは言葉がなかった。夏蜜柑は慈愛を込めて目を細めた。
【さあ、早くおうちへいきましょ。あなたも服を替えないと、そのままじゃ可哀想だわ】
 夏蜜柑を初め、病院のロビーで見かけたこの星の人々は、みんな同じ様式の白い服をきていた。あたしは静かに戦慄した。
「でも…あんたの服を貰うんじゃ悪いよ…」
【だって、まだ袖をとおしていないのがあるんだもの。それに、あなたがあたしのおうちに住むっていうことはもう決めたから、すぐにあなたの分の服も届くわ】
 籠が止まった。夏蜜柑は先に立って駈けていった。あたしも足を踏みだした。架線は下から見れば硝子のようだったのに、降り立ってみれば当たり前の高架道路にしか見えなかった。そこは中洲のようになった場所で、左右の経路を卵のような乗り物がひっきりなしに流れている。あたしは不透明な足下を踵で(にじ)ってみたけれど、感触はつるりとして、色味からも琺瑯(ほうろう)のように思えた。辺りを見まわしていると、夏蜜柑があたしを呼んだ。あたしはそちらへいこうとして、ふと、彼女にはまだ名前など教えていなかったのを思いだした。
【──だって、さっき挨拶をしたじゃない】
 夏蜜柑の答えはこうだった。そして異星の少女は右手のひらを上げてみせた。
「じゃあ…あたしがあんたの名前を判ったのも…?」
【そうよ。それからね】
 夏蜜柑は目を(つぶ)った。あたしの頭の中に確かに夏蜜柑の声が響いた。目の前の唇は笑みの形に閉じられたままだ。
〈仲良くしましょうね〉
 呆然としたあたしに、聞こえた? と夏蜜柑は今度は耳朶を介する声で無邪気に問うた。あたしは有耶無耶に返事をして、こめかみの辺りを訳もなく指でさぐった。それから気づいて、右の人差し指の先を見た。そこの傷はもう、完全に乾いている。
「これも…これのお陰なの…?」
 夏蜜柑は、
【挨拶をした人とは、何処にいてもこうしてお話しできるのよ。うんと遠くにいてもね】
「姿が見えないところにいても?」
【ええ】
「星の裏側でも?」
【星?】
 噛み合わない調子で繰り返し、そのままの表情で少し考えて、何処でもよ、と朗らかに答えた。そして夏蜜柑は車の流れに向かって手を振り、稍して一台が待避線へ入ってくると、嬉々としてあたしの腕を引いた。

「これは…何?」
【乗るものよ】
「自動車みたいなもの?」
【ジドウシャ?】
「……これって、自分の持ち物なの?」
【違うのよ。いっつも乗るものの走るところを走っていて、手を振ると乗れるのよ】
「へえ…」
【ねえ、あなたはいくつなの?】
「十九…」
【本当? あたしもそうなの。とっても偶然ね】
「なあ…あたしのこと、こわいとは思わないの?」
【どうして?】
「だって、……こことは、別のところからきた生き物なんだぞ」
【だからそれは、さっきも云ったでしょう。そんなこと、誰も気にしないわ】
「みんな一緒?」
【そうよ】
「……十九才って、ここじゃどういう年齢なの」
【そろそろみんな、結婚をする年よ】
「へえ…、早いね」
【そうかしら】
「じゃあ、夏蜜柑も結婚してるの?」
【ええ】
 夏蜜柑は、嬉しそうに頬を染めた。
 乗るものは静止しているかのように振動も慣性も伝えずに、緩やかに架線を滑っている。あたしは敷物の床から伸び上がり、ぐるりに(しつら)えられた座席へ肘を突いた。車内を取り巻く窓の外には晴れ渡った空が広がっている。ぽつりぽつりと等間隔に、際限なく続くのはアンテナ塔だ。
「あれは何かを放送してるの? それとも受信してるの?」
【どういうこと?】
 あたしはそっと笑って「なんでもない」と打ち消す。夏蜜柑への込み入った質問はこの調子で、はかばかしい答えが返らない。これがこの少女の性質によるものなのか、この星の人々全体の特徴なのかは判らない。
「ねえ…」
【なに?】
「ここには、星にいけるものはないの…?」
【星? 空にある星のこと? だって、あれは高い塔より高くにあるもの。掴まるものがないから、いくのは無理よ】
「そう…」
 やがて乗るものは都市部を抜け、同じ形の住宅が整然と建ち並ぶ地区へ入った。きりのない眺めだった。住宅も街路も白く、地平線も白い。背後に遠ざかる都市部の影以外、その住宅都市の果てに見えるものはなかった。目を瞠ったあたしに、これまで満足な答えを示せなかった夏蜜柑が嬉しそうに、得々と教えた。
【ここがみんなのおうちがあるところよ。ここに全員が住んでいるの】
「全員て、全員?」
【そうよ、みんなよ】
 あたしはこの星の住人の数を把握しようと、家並(やな)みをざっと数えようとしたけれど、じきに諦めた。乗るものが前進し、先の丸い円錐を縦に切ったような家屋が膝の下を流れ去っても、同じ眺めは繰り返し繰り返し、帯の端と端を繋ぎ合わせたように終わりなく目の前に現れてきた。
【あたしのおうちは三十七区よ】
 そう云われて注意して見たけれど、その区分らしきものは判らない。住宅は、系統樹のように枝分かれした架線に沿って建ち並んでいる。それは生物の血管か、精密機械の基盤を思わせた。あたしたちの車は、あるところで急に支線へ入ったが、その衝撃はまったく感じなかった。景色だけが急激に動いたので、かえって目がまわった。またしばらく走ったあと、気づくと乗るものは架線を離れ、宙をふわりと漂っていた。そしてそのまま、一軒の住宅の屋上付近から張りだしたポートへ降りた。
【着いたわ】
 呆然としているうちにハッチがひらいた。
 おじけた足取りで夏蜜柑に続いて車外へでた。いつの間にそんなに時間が過ぎたのか、異星の一日は浅い日暮れを迎えていた。
 降りた途端に夕風が髪を(さら)った。掻くように押さえながら顔を上げると、透明に透けた架線の向こうに油色の空が広がっている。乗るものは間もなくハッチを閉ざし、また先程のように浮き上がると架線へ舞い戻っていった。あまりになめらかな動作で、そういう白くて丸い生き物が飛び去っていくようだった。あたしは何故だか漸く、自分が帰られないところにいるのを納得した。
 ポートにある玄関を入ると、住宅の内部はすっぽりと吹き抜けになっていて、壁に沿って螺旋状に階段が降りていた。中途々々に踊り場があり、そこに扉が設けられている。階段の行き着く先はホールのようになっていて、見下ろしたあたしは、そこに立った人と目が合った。
 その男性は初めからこちらを見上げていて、充分すぎる間を置いて微笑んだ。旦那様? と後退(あとじさ)り、小さく尋ねたあたしは、棒立ちになった夏蜜柑が心ここにあらずに頷くと、かえって戸惑った。
【おかえり】
 すっとした声が屋内(やない)に響いた。その人は、地球の感覚で云えば三十才を少し過ぎたくらいの年齢で、あどけない夏蜜柑と釣り合うような、似た年頃の相手を想像していたあたしは少なからず驚いたのだった。
 夢から覚めた夏蜜柑はあたしを置いて、弾むように螺旋階段を降りる。最後の一段を飛び越してその人の腕にしがみついた。あたしと大して変わらなかった夏蜜柑の身長は、そうすると旦那様の胸の辺りまでしかない。年の近い親子か、年の離れた兄妹のような夫婦は、何かしら笑いさざめいてこちらを見上げた。旦那様はなんとなくぞっとするほどの器量だった。あまりに整いすぎていて、まるで人造物のような──アルセイドのような美しさだった。あたしは気詰まりな思いで、細いてすりを頼りに階段を降りた。
【初めまして】
 柔和に笑んで、その人はあたしに右手を差しだす。冷たい色の眸が、どうしてか鼓動を騒がせた。あたしは怖ず怖ずと手に手を重ねた。旦那様はあたしの指先を包み込むようにしてにぎり、その瞬間にやはり文章のような名前が脳裏に染み渡った。
【どうぞ、仲良くしてやって下さいね】
 云いながら、その人の眸はあたしの容姿、そして服装に向く。値踏みされているようでおちつかなかった。可哀想だわ、と云った夏蜜柑の言葉が思いだされた。旦那様の口許に浮かんだ笑みが、より一層あざやかになった気がした。
【色々ととまどうこともあるでしょうね。今日は私もここにいますから、私に判る限りのことは教えて差し上げましょうね】
「え…?」
 あたしが疑問を差し挟むより先に、夏蜜柑がぱっと喜色を浮かべた。彼女は時間を惜しむように、着替えてくる旨を云ってあたしをホールから続く部屋の一つへと連れていった。そこは寝室で、正面の窓から夕暮れの光が日覆い越しに広がっていた。夏蜜柑は壁の衣装箪笥から、形の付いたままの衣服を寝台の上へだした。今も彼女が着ているものと、まったく同じワンピースドレスだ。
「ねえ…」
 詮方なく地球の服を脱ぎながら、背を向け、まだ何か戸棚の中を眺めている夏蜜柑に呼びかけた。夏蜜柑は生返事をする。あたしはなんと切りだしていいか迷い、結局「旦那様って、どんなことをしている人なの」と、ぼんやりした質問をした。
【どんなことって?】
「その…忙しい人なの」
 夏蜜柑は答えない。あたしはしくじったと思った。と、急に異星の少女は笑いだし、
【あの人が云ったこと?】
 やけに大人びた調子で聞き返した。
「あ…」
【本当はね、今日はあの人がくる日じゃないのよ。……あのね、あたしの旦那様はあの人だけだけど、あの人の奥さんはあたしだけじゃないの。あたしは六人めなの。珍しいことじゃないのよ。あたしのパパだって、あたしのママの他に二人の奥さんがいたの。あたしの伯母さんには四人の旦那様がいるのよ。あなたのいたところは違ったの?】
 夏蜜柑は一息に云い、肩を揺らして息を吸い込んだ。
「違った…」と呟くのが精一杯だった。地球の一夫一妻をつまらなく思っていたくせに、実際にこうした社会にでくわすと動揺する自分が忌々しかった。
【──きられそう?】
 あたしはどきりとして、努めて服を着替(きか)えることに心を向けた。少し丈は短いけれど、他は問題なく袖を通すことができた。【明日までにはあなたの服が届くわ】と、夏蜜柑は笑い混じりに云い、寝台の上に投げだされたあたしの上着を取って畳もうとした。そのとき、上着の中から小さなものが滑りおち、床で鈍い音を立てた。
 桃色の琺瑯(エナメル)ようの光沢をした、両手の親指と人差し指で作る長方形くらいの大きさの、それは光子船の記憶装置だ。
【なあに?】
 夏蜜柑が不思議そうに摘み上げる。ああ、まあ、大事なもの、とあたしは言葉を濁して、それを受け取った。四散した船から持ちだせたのは、こんな小さな機械がたったひとつだ。どうしてこんなものを抜き取ってきたのか、今となってはそのほうが不可解だった。
 あたしは記憶装置を新しい服へ仕舞い込む。アルセイドはこれすらも取り上げなかった。彼女たちが女性型學天則(ガイノイド)であるなら、まったく別の規格で作られたこの機械の正体が判らなかったのか、それとも、これ一つあったところでどうにもならないことを判っていたから敢えて取らなかったのか。扉のひらく音がして、あたしは何気なく振り返った。そこに立っていたのは、他でもないアルセイドだった。硬直したあたしを余所(よそ)に、夏蜜柑は親しげに彼女に呼びかける。──「パパの木の黄色い花」と夏蜜柑は彼女を呼ばわった。そのアルセイドは、これまでに見かけた個体と同じ顔、同じ姿をしていたけれど、ただ、白い髪に房になった黄色の花を挿していた。地球の金雀枝(エニシダ)みたいだ、と思うと、次に夏蜜柑が彼女を指す言葉を口にしたときには、それは「エニシダ」と聞こえた。
【ご飯ができたんですって。行きましょ。──金雀枝(えにしだ)、片付けておいてくれる?】
 夏蜜柑は寝台の上のあたしの衣服を示し、屈託のない口調で指示をした。金雀枝は頷く様子もなく、夏蜜柑が云い終えたときには既に動きだしていた。
「あれって…家の中にもいるの?」
 再び腕を取りにきた夏蜜柑に尋ねた。黙々と服を集める金雀枝に気兼ねをして、囁くような調子になった。そうよ、と夏蜜柑は普通の声で答えた。
【なんでもしてくれるのよ】
「金雀枝には、名前があるんだ」
【だって、周りにあるものには名前を付けるでしょう】
 あたしはすぐには答えられずに、じっと金雀枝の働く姿を見つめた。それを居たたまれなく感じるのは、あたしが異星人だからだ。
「……そうだね」
 ねえ、夏蜜柑は悔しいとか、悲しいとか寂しいとか、そういうのは感じないの。
 扉に向かいながら、あたしは主語を飛ばして問いかけたのに、夏蜜柑はちゃんとその質問の対象を理解したようだった。ふわりと笑んで、だって、みんな本当のところは同じなんだもの。云い聞かせるように答えた。

 あたしは(さじ)の中を見下ろしている。
【毒ではありませんよ】
 涼やかな声が揶揄した。旦那様は可笑しそうに、口に合うかどうかは別ですけど、と続ける。あたしは今更、何を心配するのだと思い切って、その異星の動物らしきものを口に運んだ。なんとも云えない味が広がった。
【じきに慣れますよ】
 旦那様はにこやかな笑みを浮かべたままだ。食卓を挟んで、ふたつの微笑があたしの前に並んでいる。ひとつは甘やかな棘を含んだ旦那様の笑み、そしてもうひとつは、そんな旦那様の横顔を幸福そうに見つめている夏蜜柑の笑みだ。
 金雀枝が食堂の奥の部屋から新しい料理を運んでくる。あたしは自分が突然死するのを静かに待っていたけれど、再び金雀枝が奥へ下がっても、そういうことは起こらなかった。
 秘かに息を吐いた。
【ここでの生活はお嫌いですか?】
 見咎めた旦那様が意地悪く問う。夕食が始まってからずっとこの調子で、あたしは初めの感想以上に、この美しい男性を人造物のようだと思うようになっている。
「……別に、そういう訳じゃ…。というより、まだ何がなんだか判らないし…」口添えを期待して夏蜜柑に目を遣るけれど、異星の少女は旦那様しか見えなくなっている。彼女の恋しようが今は先程とは違った意味で釈然としなかった。
 それもそうですね、と旦那様はグラスに手を伸ばしながら、
【では、何かお聞きになりたいことはありますか】
「ここは何処なんです」
 あたしは単刀直入に尋ねた。旦那様は困ったというふうに、けれど楽しげに目を細める。
【何処、と云われても、ここは三十七区のこの子の家としか云いようがありませんね】
 ちらりと視線を向けられただけだのに、夏蜜柑は頬を染めた。そうでなくて、とあたしは食い下がった。
「ここはなんていう街で──なんという星なんですか」
【さあ…】
 唇がグラスのふちに触れたまま、花のようにほころび笑みを浮かべたのが、どうしてかあたしの指先を痺れさせた。
【ここに名前などありませんよ。ここはここでしかありません。あなたがいらっしゃった病院のある辺りが中心地で、あとはこの住宅都市と、それから森があるだけです】
「この星を、呼ぶ言葉はないんですか」
【星…】
 旦那様は視線を曖昧に逸らしてグラスを置いた。夏蜜柑が腕に手をかけ、無心に【どういうこと?】と尋ねる。旦那様はそれには取り合わずに、
【よく判りませんね。ここには、そういった概念はありません】
 あたしは小さく唸った。
「……じゃあ、この島は」
【島?】
 意外そうな反応が加わっただけで、答えは同じだった。──森林地帯の果てには海らしき光が見えていた。全人口がひとつところに集まっているのなら、このコミュニティは島として孤立しているのではないかと、あたしは漠然と考えていた。旦那様の答えからはなんとも云えない。本当にそうなのか、概念がないだけなのか。なんにせよ、あたしのこの当てずっぽうは自分の目で見た光景に反している。この星にはこんな陸地なんかないはずなのだ。
【星というのは、ここでは夜空にあるあの光のことを指しますが】
「あたしのところも、そうです」
 そして少し迷いながらも、あたしは地球や太陽のことを話した。
【そう…】
 旦那様はどことなく哀しげに呟いた。あたしは「太陽」という星が今はもう隠されていることは、なんとなく躊躇して黙っていた。
【──その「タイヨウ」という概念は、理解しがたいですね】
 旦那様が続けたのは、そんな言葉だった。
【つまり、あなたのいらしたところでは、最も目立つ星に「タイヨウ」という名前を付けて特別に扱っていたということでしょう。それは妙なことじゃありませんか。あなた方だって、「タイヨウ」というのも、他の多くの星と同じものだと考えていたのでしょう】
 この人の云うことは、あたしのものの捉え方とまったく同じだった。それなのに、そのことを流麗な口調でからかうように問いかけられると、神経に障った。
「でも、その太陽と同じものは、ここにもあるでしょう。あの、昼間に出ていた星のことは、ここではなんて云うんですか」
【あれは、ただの星です】
 旦那様は云った。
【特別な名称などありません。あれは確かに、他より大きくて明るいうちにも見ることができますが、それはそれだけのことです。本質が違うわけじゃありません】
 あたしは力が抜けた。あまりにも隔たって、そして理路整然とした主張に出会うと、反発や何かの前にまず虚脱してしまう。この人の云うことは間違ってはいなかった。本当にその通りだった。この星には太陽がないのだ。あたしはまるで、太陽という星を持っていた自分の惑星が、とても矮小で下らないものだったような気さえした。
【ここには何かより、誰かより上位の存在はありません。みんな一緒です。あなたはとまどわれているようですが、このことはあなたにとって幸運だったと思います。もしもここではないところ──例えば、あなたが元いた世界のような場所へ墜ちたならば、おそらくあなたは、こうして食卓につくこともできなかったでしょう】
 物音がして、あたしは肩を震わせた。金雀枝が次の皿を運んできたのだった。あたしはまだ前の料理に箸を付けていない。無表情で黙々と給仕をする金雀枝を見ていると、気圧(けお)されながらも、胸の中に残った反感が(おこ)った。彼女たちは、とあたしは云った。
「彼女たちは、どうなんです。みんな一緒と云ったって、彼女たちは完全に使役されているでしょう」
【彼女たちは人間ではありませんから】
 旦那様は口許に笑みを湛えたまま云った。
【それに、あなたの星にだって、彼女たちのような存在はあったでしょう】
「いいえ…」あたしは嘘を云ったと思った。
【そうなの?】
 と、それまであたしたちの遣り取りを眺めているだけだった夏蜜柑が、場の空気をほぐすあっけらかんとした声で尋ねた。
【あなたの世界には、金雀枝みたいなものはいなかったの?】
「いや…手伝いをしてくれる、機械はあったんだ、沢山。でも、こんなに精巧で──人間にそっくりなものはなかった…」
【そのくらいのことが不可能なんですか】
「……駄目なんですよ。技術云々のことは別にしても、人間に似たものが人間の命令を聞くというのが、受け入れられなくて…」
【では、あなたの世界では、何もかもご自分の手でしていたんですね】
 あたしは相手の意図を悟って眉を(ひそ)めた。
「いいえ、……人間の用は、別の人間がしていました」
 初めから、この答えを云わされるために会話をしていたような気がした。
「でも別に、無理にやらせてるわけじゃないです。ちゃんと見合うお金をもらえるんだし」
【オカネってなあに?】
 夏蜜柑はあたしでなく、旦那様に向いて尋ねた。あたしは諦めのような気持ちでそれを聞いた。ここには金銭の概念さえないのだ。それはそうだ。みんな一緒なのだから、そんなもの必要ない。
 旦那様はやはり、夏蜜柑の問いかけを聞き流して、
【あなたのいた星は、不可解なところですね】
 あたしは云い返せなかった。

 あの人は優しい人なのよ、と夏蜜柑は云った。部屋の中をくるくると動きまわり、気遣うような口調だった。
 判ってるよ、とあたしは口許をほころばして云った。夏蜜柑の弁解は、あたしたちの仲を取り持とうというより、あたしがあの人を嫌ってしまうのが不安だからだろう。その心根は可愛らしくて、先程の水掛け論のことなど、本当にどうでもいいかと思えた。議論をしても仕方がない。ここと地球とでは、その成り立ちも何もかも違うのだ。
 あたしはそう、自分に云い聞かせた。
 割り振ってもらった部屋は階段の一番下の扉だった。室内の様子は夏蜜柑の寝室と大差ない。こちらの部屋には寝台や作りつけの家具の他には何もないけれど、それも【すぐに届くわ】と夏蜜柑は云った。少女は寝間着をだしてくれ、灯りをつけ、窓を開け、まだなんとなく立ち去り(がた)そうに窓枠に凭りかかっていた。
「──夏蜜柑は、本当に旦那様が好きなんだね」
 あたしはどうしようもなく、そんなことを云った。ええ、と夏蜜柑は振り向き、屈託のない笑みで答える。やるせない気がした。
 ふと頭の上で物音がして、あたしは顔を仰向かせた。真っ白な天井の裏側、つまり一つ上の部屋で、その音はしたようだった。旦那様が引き取っていったのは、一階の夏蜜柑の部屋だ。
金雀枝(えにしだ)…?」
【ううん、違うの】
 夏蜜柑は一転して強張った調子で云って、窓辺を離れた。
【あの子なの】
「え…他にも、誰かいるの?」
 異星の少女は案じるように天井を見つめた。
【あたしの従妹なの。今はこのおうちに住んでいるのよ】
 そして夏蜜柑はその少女の名をあたしに教えた。あたしは胸に熱い油が滴ったような気がした。
【呼んできましょうか。あの子とも一緒に暮らすんだもの】
 夏蜜柑はおちついた調子で云い、部屋をでていった。(やや)して呼びかける声が聞こえ、あたしも部屋の外へ顔を覗かせてみた。一つ上の踊り場に夏蜜柑は立ち、扉に手を当てているのだが、それは沈黙してなんの応答もない。
 やがて夏蜜柑は声をかけるのをやめ、所在なさげにその場に立ち尽くした。
【ごめんなさいね…】
 あたしの視線に気づき、取りなすように笑んでみせた。あたしは頸を振り、「いいよ、そのうちで」と云った。夏蜜柑は一歩々々確かめるように階段を下りてくる。少しでも降りるのを引き延ばそうとしているような足取りだった。──どうしてか、彼女の心を重くしているのは黙りこくった従妹の部屋でなくて、旦那様のいる自分の部屋なのではないかという気がした。
【じゃあ、もういくわね。今夜はよく休んでね】
「うん…」
【おやすみ】
「……おやすみ」
 あたしはしばらく少女の背中を見送っていたが、それが階下の扉に消えるまで見ているのはひどく悪いことのように思えて、中へ入った。がらんとした部屋だ。けれど、こんな平穏な場所に自分が存在しているのがしんじがたかった。窓辺へ寄ると、この星の唯一の月が細く爪痕のような月齢で空に懸かっていた。あたしは円く反った枠に腰を下ろし、斜め上の窓を見上げた。そこにはなんらの明かりも灯っていない。あたしはあの中で息をひそめている少女のことを考え、その名を思い浮かべてみた。

#8

 (いしだたみ)から脚を伝って冷気が這い上がり、あたしはなんとなく爪先をひとつ、ふたつ打ちつけた。躯の輪郭だけがかっきりとして、まだ頭がはっきりしない。建物の丸みをかすめて、この星から見える最も大きな星が昇りつつあった。
 あたしは自分の子供じみたゆうべの考えを可笑(おか)しく思う。次に目が覚めれば──それが真っ暗な彼岸だろうと、こことは違う場所にいるような気がしていた。
 夏蜜柑がぶつかるように背を押す。あたしは促されるまま庭を見て歩く。この星の自然と人工の分離は徹底していて、住宅の庭だというのに土はない。その代わり、夏蜜柑の家の庭には夥しい数の鉢があった。小さいものには指先で散らせてしまいそうな草花、一抱えもあるものには様々な木が植えられている。目を惹いたのはテラスの間際にある鉢で、まるで浴槽くらいの大きさがあった。植えられてあるのは見上げるような花樹だ。針のような葉の合間に、房になった黄色の花がほころび始めている。
「これも、夏蜜柑が採ってきたの」
 あたしは尋ねた。ここにあるのはみんな、彼女が森で集めたものなのだと初めに聞いた。まだ髪を結わない少女は、違うの、とブランケットの(ひだ)に顔を埋めたまま微笑んだ。
【パパが見つけてきたの。もう、ずうっと前にね。初めはあたしのママのおうちにあって、あたしが結婚して自分のおうちを持ったときに、一緒に連れてきたの】
 ではこれが「パパの木」なのだ。あたしは自分の両腕を抱いたまま、曖昧な相槌を打った。「パパの木」という呼び方には、何か哀しい響きがあった。
 まだ冷えるでしょう、とあたしたちの後ろから声がかかった。テラスと食堂との境の硝子戸から、旦那様が顔を覗かせていた。寝間着のままのあたしたちと違って、この人はもう、すっかりと身仕舞いを済ませている。
【私は、これで失礼しますね】
 え、と声を零したのは夏蜜柑で、そのあとでぎこちない笑みを浮かべた。
【ご飯はいいの?】
【ああ、大丈夫だよ】
 夏蜜柑は口を小さく動かすが、もう投げかける言葉がでてこないようだった。旦那様はその様子をしばらく見たあと、不意にあたしに目を向けた。
【タイヨウさん、上の玄関に荷物が届いているようですよ】
 流れるような身振りで目礼して、あの人は立ち去っていった。夏蜜柑が見送りに追っていく。あたしは三秒経って、むっとした。
 肺の底から息を吐きだして、(わだかま)ったものを発散したくて躯を捻った。そのとき、視界の端にはっとするような色が映って、あたしはそちらへ振り返った。それは三つめの窓から突き出した頭で、あたしが仰ぎ見ると同時に引っ込んでしまった。冷え冷えとした色彩の中に咲いた、美しい薔薇色の髪だった。
 再び姿を見せてくれることはないと思いながらも、あたしは目を逸らしがたくてそのまま立ち(ほう)けていた。夏蜜柑が戻ってきて、不思議そうに尋ねた。
「なんでもない…」
 と、あたしは夢現に答えた。夏蜜柑はあたしが見上げていた先をちらと窺い、なんでもないみたいに笑顔になって、【あなたの服が届いたのよ】
 テラスに上がろうとしたときに、先程は見過ごしていた、ある鉢に目が留まった。それはあたしたちの喉元くらいの高さの若木で、厚みのある葉に見覚えがあった。
【ああ、そうよ】
 夏蜜柑はあたしをその鉢の前に連れていった。【あなたと森で会ったときに見つけた木なの】
「でも…あのときのは、もっと小さく見えたけど…」
 あたしはさして遠くない記憶をさぐる。脱出艇を覗き込んだとき夏蜜柑が抱えていた若木は、彼女の腹から頭のてっぺんくらいまでの高さしかなかった。
 夏蜜柑はころころと笑った。
【だって、あれから八ヶ月にもなるんだもの】
 あたしは自分の耳に入った言葉の意味が判らなかった。
「……え…?」
【あなたと初めて森で会ったのは、八ヶ月も前じゃない。この木は伸びるのが早いし、大きくなっていて当たり前じゃないの】
 無意味に唇が震えるだけで、反論も問いもしばらくは浮かんでこなかった。漸く口を突いたのは、「一ヶ月って、何日」という、切実な疑問だった。
【二十八日よ】
「一日は何時間」
【二十三時間】
「一時間は?」
【五十分】
「一分は?」
【ええ? 五十秒よ】
 一秒っていうのはね、と夏蜜柑は聞かれるより前に、いち、に、さん、し、と地球と同じ拍子で指を振ってみせた。
【これより小さい時間はないのよ】
 あたしは愕然とした。脱出艇ごと運ばれていく途中で意識を失ったのは本当だ。けれど目覚めたときには元通りの身なりをしていたし、躯の様子もかわっていなかった。だから気を失っていたのは数時間か、長くても一晩くらいのものだろうと思っていた。
 夏蜜柑は早く荷物を見にいこうと腕を引っ張った。あたしは意味の通らない言葉を並べてそれを断り、自分に割り振られた部屋へ駈け込んだ。そして思い通りにならない手で寝間着を脱いだ。光子船を棄てたときの出来事を思いだしたのだ。もう船を持ち(こた)えることはできないと悟ったとき、あたしは理由より先に操舵席を蹴り、コンソールの基部を開けて記憶装置を引き抜いた。そして待避壕に転がり込もうとして、コンソールの基部の部品で背の右脇腹に近い辺りを強く(えぐ)ったのだ。起動した脱出艇に躯を押し込み、保命措置で仮死状態に陥るまでの数秒に、その箇所を探ると、布地の内側が冷たく濡れたように感じた。だから、そこにはなんらかの傷があるはずだった。
 あたしは裸の躯を捻って脇腹の後ろを見ようとした。それから気づいて衣装箪笥の扉を開け、姿見に躯の側面を映した──鏡の中のあたしは、哀しそうな顔をしていた。
 朝の日差しに照らされたあたしの背は、鳥肌が立って、生気のない、傷ひとつない皮膚に覆われていた。

 扉の外から夏蜜柑の声が聞こえた。次に躯の中で何かが這いまわっているような感覚がして、へたり込んでいたあたしは怯え、混乱した意識に響く声に気づくのに時間が要った。
〈大丈夫?〉
 夏蜜柑が耳朶を介さない呼びかけであたしを気遣っているのだ。あたしはもう数秒だけ空の衣装箪笥と姿見──そこに映る放心した自分の姿を見つめ、断ち切るように立ち上がった。
 寝間着を着直すと部屋をでた。それからさっきの無愛想をごめんと云った。夏蜜柑はまだ気遣わしそうにしていたけれど、あたしが表情を弛めると安心したように、【まずはご飯を食べましょ】と笑った。
 二人で朝食を摂るとポートへ上がり、届けられた荷物を運び下ろした。両腕で抱える箱が十数個もあって、金雀枝(えにしだ)の手を煩わせた。あたしはまず衣類の箱を見つけだした。七、八着も入っていた服はどれも同じ意匠で、やはり夏蜜柑が着ているものと寸法以外はまるきり同じだった。袖をとおしてみると、気味が悪いくらいあたしの体型にぴったりだった。スカートなど滅多に穿くことはなかったから、それだけがしっくりしない。上着や靴なども揃っていた。靴はそのままにしておいた。
「──この服の…供給って、やっぱり何ヶ月に一度とかなの」
【そうねえ、あんまり気にしたことはないけど、前のがみんな古くなってしまった頃には次のが届いてるわ】
 別の箱を開けながら、夏蜜柑は長閑に答えた。それからあたしの足下に目を留めた。
【靴は替えないの?】
「まあ…これのほうが馴染んでるし…」
【そう…】
 あまりに気の毒そうな顔をするので、こちらが申し訳ないような気持ちになった。「やっぱり…同じのにしたほうがいいのかな…」
【そうね…】と夏蜜柑は肯定とも否定ともつかないふうに呟いた。あたしは続く言葉がないのを待ってから、少し突っ込んで尋ねた。
「ねえ、例えば、あたしが元のままの服で暮らしていたら、それは悪いことになる?」
【いいえ、そんな】
 夏蜜柑は弾かれたように否んだ。
【そんなことないわ、悪いことだなんて、そんな…】
 少し過剰なような反応だった。
【そうね…それは悪いことじゃないんだけど、吃驚(びっくり)する人は、いるかもしれないわ…】
 あたしは異星の少女が取りつくろおうとしている暗いものに、いくらでも覚えがあった。この話題はやめにしようと思った。
 ただ、他意なく思いだして聞いた。
【そういえば、あたしが元々着ていた服って、どうしたの?】
 夏蜜柑は暗い顔つきのまま、黙々と生活用品を片付けている金雀枝に問いかけた。金雀枝からは返答らしきどんな声も聞こえない。身振り手振りさえ示さなかった。夏蜜柑はすまなそうに、【捨ててしまったんですって】とあたしに教えた。
 あたしは会話の流れを遮るのを承知で、そのことを聞かずにはおれなかった。夏蜜柑は少し顔を明るませて、じゃあ、あなたからも聞いてみるといいわ、と云った。
 あたしは金雀枝に「あたしの服はどうしたの」と尋ねた。その美しい顔の、僅かに赤みを帯びた唇は完全な形のままなのに、あたしの頭の中には「服は捨ててしまった」という回答が音でなく情報として響いた。
【判った?】
 夏蜜柑が可笑しそうに尋ねた。あたしは頷くしかなかった。
 部屋中の空白を届いた荷物で埋めると、夏蜜柑は何処かにでかけないかと云った。何処にいきたい、と尋ねられても、あたしには何も目当てがない。取り敢えず、この住宅都市の中を歩いてみたいと云うと、夏蜜柑は嬉しげに頷いた。
 少女が自室に支度をしに戻っているあいだに、あたしは靴を履きかえた。これも嘘のように足の形に合っているけれど、丸く、長距離を歩いたり走ったりすることが想定されていないのは明らかだった。あたしは地球の靴を衣装箪笥のいちばん奥に隠した。見咎められればそれまでというくらいの、軽い思いつきだった。膝丈の上着を重ねて階段を下りると、既に待っていた夏蜜柑とあたしとは、夏蜜柑が鞄を肩にかけている他はまったく同じ身なりだった。あたしは面映ゆく感じたけれど、夏蜜柑はほっとした様子を見せただけだった。近代史のテキストで見た、揃いの制服を着た数百年前の学生たちの姿が思いだされた。同じ服装をしていると、かえって肉体の差異が際立つような気がして居たたまれなかった。
 ホールにある下の玄関をでた。すぐ前が道幅の広い通りで、上空に透明な架線がある。夏蜜柑はあたしの手を引いて歩きだした。あたしは周囲に目を配った。延々と同じ造りの建物が建ち並ぶ中を歩いていると、錯視図形の中に迷い込んでしまった気分になる。住宅は街路と同じ高さにあり、境には膝くらいまでの囲いが申し訳程度にあるだけだ。庭やテラスの様子が──余所の家には植木鉢などはないから、よく窺えた。が、不思議とそこに住人の姿はない。通りにも、遥か先に森精(アルセイド)らしき影が見えるだけで、等間隔に交わる直線の何処にも人気がなかった。声も聞こえない。そして、テレビジョンやラジオや──そういう、機械越しの音も耳には届かなかった。からりと冷たく乾燥して、夢の中の町を歩いているようだ。
 そういえば、夏蜜柑の家にもそれらの機器らしきものは見当たらなかった。今この星の太陽はほぼ天頂に懸かっている。ここにはこの惑星の全人口が集まっているらしいのに、彼らは何をして過ごしているのだろう。
 手のひらの、夏蜜柑の体温さえ幻のように思えた。
「……ねえ、みんな、今は仕事にいってるのかな」
 自分の声がこの世界の均衡(きんこう)を崩したようで、ひやりとした。夏蜜柑は振り向いて瞬いた。
【シゴトって?】
「えっと…暮らしていくために、やらなくちゃいけないこと」
 金銭の概念がないのは承知しているから、何か衣食住の保障と引き替えの夫役(ふえき)のようなものがあるのかと、それを尋ねたのだった。
【あなたのいたところでは、そんなものがあったの?】
 夏蜜柑に哀しげな顔で問い返された。
「ああ…まあ」
【なんだか酷いわ】
 少女は本当に忌まわしそうに肩を竦めた。生活するために何かをしなくちゃいけないなんて、そんなの酷いじゃない。云われてみれば、そうかもしれない。
「じゃあ、何もしないでも、ここでは暮らしていられるの」

 そうよ。
 一秒ほどの躊躇いが、夏蜜柑の答えにはあった。あたしはそれを尋ねようとしたのだけれど、夏蜜柑はもう前を向いて先程より歩みを速めた。彼女はある角で左へ曲がり、更にしばらくいって別の街路に折れた。何処にいくの、と尋ねると、ママのところよ、と夏蜜柑は朗らかに云った。

 扉がひらくと海の中にいた。
 あたしは立ち止まった。あたしたちが立っているのは仄暗い海の底で、思わず振り仰いだ先には油のような光を浮かべた水面が揺らめいていた。部屋中に紫丁香花(ライラック)色の海が満ちている。その色は、宇宙空間から見た、この星の海の色と同じだった。あたしは未知の惑星を初めて目にしたときのように、唐突に現れた光景に心を奪われた。
【いらっしゃい】
 おっとりとした声が掛かった。部屋の奥に目を向けると、そこに一人の女性が躯を投げだしたような姿勢で座っていた。あたしは自然に、海の底に棲む仙女を思い浮かべた。
 ママよ、と夏蜜柑が云ってあたしの脇をすり抜け、母親の(もと)へ駈け寄った。母親は同じ姿勢のまま娘を振り仰ぎ、二人は手をにぎり合う。三十代後半くらいの年齢で、目許の辺りが夏蜜柑とよく似ていた。そういう遺伝の要素が見受けられるのが、かえって不思議に思えた。
 夏蜜柑は振り向き、あたしを招いた。──ここは夏蜜柑の母親の家の、位置からして食堂のはずだった。紹介をされ、挨拶をして、促されて床に腰を下ろしても、あたしはまだ釈然としないで辺りを見まわしていた。すると海の底の暗がりの中から、一人のアルセイドが現れでてきた。手には茶器の載った盆を持っている。金雀枝(えにしだ)のように、この家に留まっている個体なのだろう。彼女はあたしたちが弧状に寄り集まった中に盆を置くと、また濃紫色の闇の中へ消えていった。
 夏蜜柑が桜色をした温かい飲み物を淹れてくれた。差しだされた茶器を受け取った手の上で光の(むら)が踊った。見上げるとそれは、水面を(とお)って海底へ差し入る日差しなのだ。あたしは自分が当たり前に呼吸をしているのもしんじられないような気分になった。勧められて口をつけると、桜色の飲み物は色味とは裏腹にほろ苦かった。
【あなたは、この子の家に暮らしているの?】
 波音と聞き違えそうなささやかさで、夏蜜柑の母親が尋ねた。
「ええ、はい」
【そう】
 にっこりと笑んで、それきりだ。会話はそこで立ち消えになる。夏蜜柑が引き継いで、【とっても仲良しなのよ】と云った。母親はふわふわと頷くだけで、あたしたちにはあまり関心を持っていないように思われた。夏蜜柑にも伝わったのだろう、取りつくろうように、少し早口に続けた。
【森の中で会ったの。不思議な容れ物に閉じ込められていて、助けてあげなくちゃいけないと思って、あれを呼びにいったのよ。お話をしてみたくて、あたしのおうちに住んでもらうことにしたの】
 母親は真っ直ぐ娘を見つめているのだが、その視線は曖昧で、何も捉えていないようだった。あたしは堪らなかった。このくらいの話──八ヶ月の空白が本当なら、今までにも夏蜜柑はしていただろうからだ。なのに母親は、まるで初めて聞く話のように相槌を打っている。夏蜜柑は懸命に続ける。指先が冷たくなった。
【あのね──…前は、こことは違うところにいたんですって。夜の空のあの、星の一つの傍にあるところ】
【まあ…】
 母親は柔らかく目を細めた。
【それじゃあ、ここにおちてしまって驚いたでしょうね。あんなところへかえるのは難しいでしょう】
「はあ…」あたしは答えようがない。
 でも、大丈夫よ、と母親はゆったりと息をしながら云った。
【ここで暮らせばいいんだから。この子の家が嫌だったら、別に家を持てばいいのよ】
「あの…あたしでも、自分の家を持てるんですか」
【当たり前じゃない】と云ったのは夏蜜柑だった。それから少し声をおとして、【……あたしのおうちは嫌?】
「そうじゃないけど…」あたしは頸を振った。「──家って、服やなにかみたいに、何もしないでも貰えるの?」
【そうよ。今、誰も住んでいないおうちならね】
「じゃあ、例えば、二軒とか三軒とか、空き家になってるのを全部自分のものにしたりとかも、できるの?」
 夏蜜柑は母親の顔を窺ったけれど、母親はねむっているようなまなざしであたしを見つめ続けていた。
【さあ…そういう人の話は、聞いたことがないわね…】
 本当にできないのか、するという概念がないからしないだけなのか──また同じ疑問に突き当たった。一つだけ確かなのは、この星の人々は自分たちの世界の成り立ちについて、なんの疑問も抱いていないということだ。
 だから、ここには星にいく船がないのかもしれない。途方もない科学技術を持ちながら、空へ向かおうとしない文明も興り得る。世界に疑問を感じなければ、その外へいく必要など、ありはしない。

 あたしたちが辞していくときにも、夏蜜柑の母親は元の場所に腰を下ろしたままだった。あたしはとうとう、彼女が横たえた躯を起こすことすらなかったのを思った。
 海の一部分がぽっかりと切り取られ、その外に赤く染まったホールがあった。地球時間に換算して十六時間しかない一日は、あっという間に暮れる。ホールにでて振り返ると、母親はやはり同じ姿勢でこちらを見ていた。稍して食堂の扉が閉まって、あたしたちは現実の地面の上へ戻ってきた。
「ねえ、あれって、なんだったの?」
【え?】
 夏蜜柑は心が浮ついているようだった。あの、海、と意味もなく手を動かして云うと、ああ、と呟き、不相応なくらいに、にっこりとした。
【ママはあれがお気に入りなの。お部屋の中を、好きな場所に変えられるのよ。でも本物じゃないの。そういう景色を映しだしているだけなのよ】
「幻灯、みたいなもの?」
【ええ】
 夏蜜柑は頷いたけれど、本当かどうかは判らなかった。
「あれ、夏蜜柑のうちでもできる?」
【勿論よ。じゃあ、今日の晩御飯のときにしましょうね】
 夏蜜柑はあたしの手を取り、母親の家の下の玄関をでた。
 元きた道を辿りながらも、あたしがおちつかなく視線を彷徨わせていたのは、夏蜜柑の「パパ」という人が何処かすぐ近くへ差しかかっているのじゃないかと、それを気にしていたからだった。夏蜜柑は父親のことを一言も母親に尋ねなかったし、母親も夫の話題を口にしなかった。ただ力なく横たわっていただけだ。あたしは頭の中で、夏蜜柑の父親が彼女自身の夫に重なっていくのを感じた。そして懸命に抗いながらも──結局は夏蜜柑も、自分の母親のようになっていくのかもしれない。

 夏蜜柑の家の食堂に広がったのも、紫丁香花(ライラック)色の海だった。海底の直中(ただなか)に食卓と椅子とがぽつんとあり、用意された夕食は二人分だった。
 魚はいないんだね、とさんざめく水面(みなも)を見上げながら云うと、夏蜜柑は不思議そうに鸚鵡(おうむ)返しをした。食卓に金雀枝が運んできたのは、他でもない魚の身らしきものが入ったスープだった。
 匙を動かしながら、明日も何処かへでかけようと夏蜜柑はひとりはしゃいでいた。あたしは皿の中身と嬉々とした夏蜜柑の様子とを見比べていた。
 薔薇色の髪の少女は食堂に現れなかった。それが今に始まったことでないのは、まったくそのことに触れない夏蜜柑の態度で推し量ることができた。
 旦那様が次にいつ訪ねてくるのか、そんなことを尋ねられはしない。あたしは、自分がこの家に招かれた理由を悟った。

#9

 夏蜜柑の癖は不可解な言葉を聞くとそれを繰り返すことだった。
【エイガ?】
【テレビ?】
【オンガク?】
 どうして一三〇光年隔たったあたしたちの言葉が通じるのか、その根本的な理屈は判らないままだ。けれど、夏蜜柑が本来の語彙(ごい)にない単語を口にしたときには、その部分だけ人工音声のように不格好になるから、あたしは察することができた。ここには映画もテレビジョンの放送も音楽もないのだ。「じゃあ、本は?」答えは判りきっていた。ここにはつまり、自我の主張がないのだ。本などというものが発明される道理がない。
【ホンってなあに?】
「ええと…自分の考えとか、経験したこととかを書き留めて、誰かに読んでもらうもの」
【直接お話しすればいいじゃない】
 あたしは夏蜜柑との会話で、何度となく胸を衝かれるような感覚を味わった。地球とは七面倒くさいことをしていた星だった。作り物の世界など──本などなくとも文明は立ちゆく。けれど、あたしは有耶無耶に表情をほころばせていた。

 扉を入ったあの人は笑った。涼やかな声にあたしは床から躯を起こした。
 食堂には紫丁香花(ライラック)色の海が満ちていて、あたしと夏蜜柑はその床に寄り添って寝転がっていたのだった。この幻灯がここでの数少ない娯楽なのだ。夏蜜柑はあたしがこの仕掛けを気に入ったと了解して、母親の家にいかない日は日中からこれを灯した。海の底にいるときには、あたしたちは無口だった。あたしが無粋な質問をしない所為(せい)かもしれない。
 あたしは躯の何処かに夏蜜柑の体温を感じながら、飽くことなく水面(みなも)と向き合っていた。そこに群がる仮想の太陽の光は、ひとつになりひとつひとつになり、際限がなかった。これが機械的なものならば、いつかは同じ振る舞いを繰り返すはずだと、あたしは見つめていたのだけれど、ついぞ今まで、そうした光景は目にすることができなかった。取り留めもないことばかり心に浮かんだ。ここの一日は地球での一六時間ほどしかない。これがこの惑星の自転周期なのだろう。この星の動植物は、みんなその周期に律せられているはずだった。あたしの躯も、次第にそれに同期していくのだろうか。十六時間の一日、十九日の一月、この星の一年は十ヶ月で──つまり地球では一九〇日ほどにしかならない。倍の速さで過ぎ去っていく「一年」は、やはりあたしの躯も一年分老いさせるのだろうか。ここの平均寿命は九十才ほどだという。あと一三三〇〇日の余生、あたしもそうなのだろうか。それとも、あたし独り、異質なまま不平等な生を永らえるのだろうか。
 よっつかいつつの頃、死とは墓穴に放り込まれた骸骨だった。あたしがその圧倒的な未知の不安に襲われて泣くと、母親は遠い先のことを考えるなと叱った。あたしは今、一三〇光年彼方の惑星で寝転がって可笑しく思う。あれは地球の視点では一二〇年以上昔のことだけれど、この星から見ればまだ起こってもいない。
【──おや、お邪魔をしてしまいましたか】
 玲瓏(れいろう)とした揶揄に呼び覚まされて、あたしは視線を転じた。
 あたしの二の腕に額をつけて、じっと動かないでいた夏蜜柑は、急に生命を吹き込まれたみたいに立って駈け寄っていった。九日ぶりに会う旦那様は、幻灯の海の中で、やはりくっきりと周囲から遊離していた。
【ここの生活には慣れましたか?】
 仕舞っていた食卓と椅子とを海の中央に据えて、あたしはまた夏蜜柑夫婦の向かいに座っている。
「ええ…まあ」
【それはよかった】
 旦那様は惜しげもなく笑む。声音と同じにその言葉にも温度がない。
【タイヨウさん、何か新しい疑問は浮かびましたか】
 あたしは訳もなく食卓の角を見ていて、何も、と頸を振ろうかとも思ったけれど、ふと頭を()ぎったので口をひらいた。
「ここには魚や鳥や──犬や猫はいないんですか?」
 可笑しなことを聞いている自覚はあった。現に目の前の皿にも動物らしきものは入っている。ところが、どうして幻灯の海には魚がいないのか、夏蜜柑に尋ねても質問の意味を理解してくれない。魚という言葉は流暢なのに。それに、表を歩いていても鳥はおろか昆虫さえ見かけた記憶がなかった。
 旦那様は目を細めて、
【魚や鳥、というのはここでは食材の名前ですから、いる、と云うと正確ではありませんね。あとのものはよく判りませんが】
【あなたのいたところでは、魚や鳥は食べなかったの?】
 夏蜜柑に問いかけられて、ぼんやりしていたあたしは少し遅れて(いな)んだ。
「いや食べたよ…。食べない人たちもいたけど。犬とか猫っていう動物も、大概は愛玩の対象なんだけど、文化によっては食べるところもあったし…」
 異星の少女は薄く口をひらいて、それから思いだしたことを自分で整理するように、旦那様に教えた。【あのね、星のそばにあるところでは、ある場所では当たり前のことが、別の場所ではとても悪いことになったりするのよ】
【虚しいことですね】
 それは夏蜜柑にではなく、あたしに向けられた言葉だった。ぐっとした。あたしの漠然とした感慨に、あまりにも合う表現だったからだ。
【鳥や魚を、食べない人たちというのは?】
「──…ええと、思想的に生き物を…魚とか鳥っていうのはあちらでは生き物なんだけど、食べない人たちがいたんですよ。食べるために殺すのがよくないっていうのが大抵の理由だったけど。そういう人たちは野菜やなんかだけを食べるわけですけど、野菜だって彼らの意に反して摘まれているんだからって、自然に木から落ちた果物だけを食べるという人たちもいたんです。あたしは会ったことはないけど、その果物さえ本来は他の動物のものなんだからだめで、水や、土や鉱物から取り出した栄養素だけで生きている人もいるんだそうです」
 旦那様は穏やかに、【あなたのいた世界は、随分と複雑なようですね。けれど最後の場合でも、星を彼女の承諾なしに削り取っているからよくないという意見が、そのうちに現れそうですね】
 あたしは自然と口許が(ゆる)んだ。
「確かに、そうかも…」
【そうすると食べるものがありませんね】
「ええ…」
 この人の物云いで、素直に笑えたのは初めてだった。なんとなく判ったような気がした。あたしとこの人とでは、皮肉屋の部分だけが馬が合うのだ。
【人間でない何かを守ろうという考えを突き詰めれば、人間などいなければいいという答えにしか行き着きません。人間と他者と、どちらも有りの(まま)で生きることはできないんですよ】
 不意にそんな言葉を聞いた。静かな言葉だのに、どうしてかはっきりと心に残った。この星には人間の他に「生き物」がいない。だから、何故この人がそんな考えを持っているのか、思えば不可解なことだった。

 それは十四日ぶり──正確には、ここで云う約九ヶ月ぶりに聞いた激しい物音だった。
 あたしは反射的に振り返った。少し離れた路上に、白い女性が倒れていた。驚きというより、歪なものを見たときの違和感が胸に広がった。それは、倒れた森精(アルセイド)が咄嗟に腕を上げることもなく、歩いていたままの姿勢で転倒しているからだった。
 まただわ、と前を歩いていた夏蜜柑が云った。
【最近よくあるの。急に死んでしまうのよ】
「あれって…死ぬの?」
 夏蜜柑は路上の光景を眉を(ひそ)めて見遣っていて答えない。あたしも回答が必要なわけではなかった。
 気づいたときには足が動いていた。呼び止められるのにも構わずに、あたしは倒れたアルセイドのほうへ歩み寄っていった。白く長い髪が翼のように彼女の躯を覆い隠していた。あたしは幾度か呼吸を継いでから、彼女の肩に手をかけ、力を込めて躯を仰向かせた。ごろりと(いしだたみ)を転がって、微笑んでいるような口許、見ひらかれたままの緑柱石(エメラルド)色の眸が暮れ方の日差しに晒された。
【どうかしたの…?】
 そばへきた夏蜜柑が控えめに尋ねた。気味悪がっているような口調だ。あたしは生返事をしながら地面に膝を突き、自然な衝動でアルセイドの頬にかかった髪の一束を払った。──人間の髪で、人間の肌の感触だった。体温さえもあった。あたしは思いきって硬直した顔に顔を近づけ、瞳孔を覗き込んだ。奥に検知器(トランスデューサ)らしきものがある。この人間そっくりの「もの」は、やはり女性型學天則(ガイノイド)に違いないのだ。
 話し声に我に返った。いつの間にか、周囲に人だかりができていた。彼らは何処から現れたのだろう。十数人はいて、女性はあたしや夏蜜柑と同じ服装、男性は旦那様と同じ地球の司祭のような衣服を身につけていた。夏蜜柑と変わらない年頃の子から老人まで、年齢は様々だ。彼らはおもむろにアルセイドに寄り集まった。
 弾きだされる形で後退(あとじさ)るしかなかった。すかさず夏蜜柑があたしの腕にしがみついた。どうするの、と呟くような調子で尋ねた。置いておくのよ、と夏蜜柑は答えた。
【あれが死んでしまったときは、何処か道の端へ置いておくのよ。そうすると、次の日にはなくなっているの】
 長閑(のどか)な物云いに、かえって言葉がなかった。ようよう、「それって誰かが回収していくの」と尋ねると、よく判らないわ、と異星の少女は云った。
【でも、そうするものなのよ】
 会話をしている間にも、人々は協力してアルセイドの躯を持ち上げ、間近い住宅の境のところへ移動させた。そうしてそれきり、忘れてしまったかのように三々五々に立ち去っていった。あたしは(ようや)く、彼らがこの近辺の住人たちなのだと気づいた。後ろ姿が一つ残らず見えなくなると、また住宅都市は静まり返る。彼らは一体、人気のない住宅の何処に隠れていたのだろう。
【いきましょ】
 夏蜜柑があたしの腕を引いた。歩きだしながら、あたしは背後を振り返った。夕日を浴びて路上にぽつんと置かれた機械の躯は、なんとも云えず哀しく見えた。覆いをかけられることもなく、夕風に掠われた髪が銀色に輝いて路上を払っている。あたしはけれど、哀れさだけを感じたわけではなかった。
「……ねえ」
【なあに?】
「あんたたちって、死ぬんだよね」
【勿論よ。うんと年をとればね】
「ふうん…」
 帰路を辿り、下の玄関からホールへ入ったあたしたちは、思いがけない声に迎えられた。階段に腰を下ろした人物を見て、夏蜜柑は頬が明るむのと同じくらいの速度で駈け寄っていった。あたしは意外に思ってその場に立ち止まった。
 この間、あの人が訪ねてきたのは、まだ一昨日のことだ。

【今日、またあれが死んでしまったのよ。三十六区のところで】
 夕食の席で、夏蜜柑は帰り道の出来事を話題に上らせた。
【だから、みんなで道の端へ置いておいたの】
 少女の口調は一層たどたどしくなって、小さな子が父親の膝に取りつきつつ話すようだ。旦那様はゆったりと聞いている。
「あの…」
 あたしは気まずく口を挟んだ。
「ここではいつもそうなんですか、その…あれが壊れたら」
【そうですよ】
 旦那様は涼やかに笑む。
【あれだけでなく、他にも何かが壊れてしまったときには、路上へだしておくんです】
「次の日にはなくなってるって」
【ええ】
「それは、誰かそういう役目の人が持っていってくれるってことなんですか」
【さあ、よく判りませんね】
 頼りない言葉とは裏腹に、蠱惑(こわく)的な微笑は揺らぎもしない。
【夜のうちに消えていますし、壊れたものは朝には替わりが届いていますよ】
「え…それって、あれも…?」
【勿論ですよ】
 さらりと答えて、旦那様は食堂の隅に立っている金雀枝(えにしだ)を見遣った。【彼女も、確か三つめのものですよ。「金雀枝」という名前を付けられたのは】
 夏蜜柑は無邪気に頷いている。あたしは差し挟んだ食卓がみるみる遠ざかっていくような気がした。
【二年くらい前にこのおうちに引っ越して、そのときいたものはすぐに死んでしまったの。今のものが届いたのは半年くらい前よ】
 半年といったら、あたしが意識を失っていた間のことだ。
「あれって、そんなにすぐ壊れるものなの…?」
 近頃は、と引き継いだのは旦那様だった。冷たい色の眸に影が差した。
【以前は人間よりも長い寿命のものも多くいたんですよ。本当にこの数十年に、あれは脆くなったんです】
 この人の憂い顔を初めて見たと思った。やがて端整な口許に(ほの)かに笑みが浮かんだ。【──どうしてでしょうね】あたしが夏蜜柑なら、アルセイドに明確に嫉妬しただろうと思った。
 夏蜜柑はぼうっと旦那様の横顔を見つめていた。それから急に輝くような笑みになって、【だから、ママのところのあれも、あたしが生まれたときからずうっと同じなのよ】旦那様とあたしとを交互に見て云った。
 あたしはぎこちない相槌を打った。旦那様は一拍遅れていつもの綽々とした態度に戻り、【それで「金雀枝」という呼び名は、ずっと保留されていたんです】と、打ち解けた口調で語った。
【この子の生家のものには別の名前がありましたから。もっとも、この子だけは陰で「金雀枝」と呼んでいたようでしたが。場面によって呼び名が変わるので、初めは戸惑いましたよ】
「二人は…えっと…」
 夏蜜柑は感づいたようで、頬を染め、旦那様の腕に手をかけて語った。
【あのね、あたしが小さい頃、よく遊んでくれたの。ママのおうちの近くに住んでいたのよ。初めは…ん、パパとお友達だったんだけど。あたしが生まれるより前からね】
 僅かに沈んだ声に気を取られたあたしは、肝心なことに思い当たるのが遅れた。──夏蜜柑が生まれる以前ということは、ざっと二十年以上だ。旦那様の容姿は多く考えても三十二、三才くらいにしか見えない。ここと地球とでは一年の長さが違うけれど、夏蜜柑を見る限り、あたしの判断による外見の年齢と実際の年とは大して差がないようだった。つまり、十才の子が「パパのお友達」になり得るのでなければ、この人の年齢はもっとずっと上なのだ。
【どうかしましたか】
 旦那様は一分(いちぶ)の欠点もない面差しで微笑みかける。噛み合わない見目と年齢が、人造物のようだという感慨を尚のこと募らせた。
「いや…ええと、じゃあ、昔からの知り合いだったんですね」
【どうしてか懐かれてしまったんですよ。この子と、それから上にいる──】
 旦那様はすっと視線を上げた。
 沈黙が流れた。
 それは本来、夏蜜柑が埋めるべき空白だった。夏蜜柑はどっちつかずの表情をしていた。笑わなければならないと思っているのに、頬が強張って泣きそうな顔をしている、そんな顔だった。旦那様も言葉を続けることはなかった。残り火のような笑みを(たた)えたまま視線を戻した。
【あのね】
 唐突に夏蜜柑が口をきった。【伯母さんのおうちも近くだったの。伯母さんも、あの子も、殆どいっつもママのおうちに遊びにきていて、一緒に遊んでもらったの。本当の姉妹(きょうだい)みたいだったのよ】
 どうして異星の少女が声を震わせているのか、あたしには判るはずもなかった。ただ、この幼い日に根ざした恋が、思うほど単純なものでないことだけは、確かなようだった。

 部屋の扉に凭りかかり、じっと耳を当てていると、重みのあるものが階段を伝う音が微かに聞こえる。それは足音とも呼べない「気配」で、金雀枝(えにしだ)があたしの一つ上の部屋へ向かい、また引き返すたびに立てるものだ。
 夕食のあと、夏蜜柑は決まって顔を見せない従妹の(もと)へ食事を運んでいく。戻ってきた彼女の手から盆が消えていることは珍しい。大抵はその役割を金雀枝が引き継ぐことになる。あたしたちがそれぞれの部屋へ別れ、住宅の中が静まっても、金雀枝は指示を遂げるまで、一定の()を置いて行き来し続ける。
 あたしは暗い部屋で耳を澄ましている。いつしか、もう金雀枝が上がってこないことを確かめるまで、眠られなくなった。あたしの天井──薔薇色の髪の少女にとっては床、の一重(ひとえ)を隔てただけの相手が、確かに息づいているということを、どうしても感じ取りたいのかもしれない。
 金雀枝の幽鬼のような気配が階段を遠ざかり、これまでに体得した時間を数えて、あたしは自分の部屋をでた。住宅を貫く縦の空間は主な照明がおちて、ぼうと青白く光る壁の所々に常夜灯がともっている。あたしは足音を忍ばせて、自分の両腕を胸の前で抱えるようにして階段を下りた。(かん)としたホールを横切り、閉ざされた夏蜜柑の部屋の扉へ少しのあいだ視線を向けた。
 おやすみなさい。
 おやすみ。
 それだけの言葉を交わすために、夏蜜柑はあたしの部屋までついてくる。それは、毎晩のことじゃない。
 下の玄関をひらく。夜風が上着の襟刳(えりぐ)りから入り込んだ。思いきって夜気に足を踏みだすと、(やや)して玄関が閉まった。あたしは一つ息を吐いて、上着の中に隠してきた地球の靴に履き替えた。元の丸っこい靴を玄関脇の鉢の陰に押し込み、住宅都市を歩き始めた。
 いつも夏蜜柑が使うのとは一本違う通りを辿る。昼間でも人気のない街路は寂々(じゃくじゃく)としている。住宅の明かりは疎らだけれど、道は明るい。架線に灯された明かりが頭上から降り注ぎ、それを(いしだたみ)が照り返して雪明かりのような光を放っていた。それに中空に懸かった月は殆ど満ちきったような月齢だ。あたしは自分の影がくっきりと足下にまとわりつくのを眺め、視界が利く分、こちらも見出されやすいのを思った。なるべく住宅の(きわ)に隠れて歩いた。
 交差した道を数え、計算してきた十字路で曲がると、目指すものの姿が遠く見えてきた。アルセイドの躯はまだ、元のままそこへあった。ここからは路上へ吹き乱された長い髪ばかりが見える。あたしは間近の住宅がおとす影の中へ身を隠し、じっと息を殺した。
 月の傾く音が耳に届き始めた頃、道の先に人影が現れた。アルセイドだ。あたしは跳ねた鼓動を抑えた。あとに続いてもう二人、珠を合え()いたように姿を現す。月下の街路を寸分(たが)わぬ姿のものたちが(うごめ)いているのは、神聖さや幽玄より異形のものの不気味さを感じさせた。森精たち(アルセイデス)は倒れた仲間の躯を取り巻くと、あたしの艇をそうしたように、一斉に手をかけた。そして今しがたやってきたほうへ運び始める。
 あたしは充分な間を置いて取って返し、平行する通りを注意深く追った。幾つめかの十字路へ差しかかったとき、横路の先にアルセイデスの一団が立ち止まっているのが見えて、はっとして身を(ひるがえ)した。住宅の陰から窺うと、彼女たちは気づいたふうもなく、じっと静止している。と、次の瞬間、その姿が跡形もなく消え失せた。
 あたしは思わず声を零した。遠い路上には影一つ残っていない。身を隠すことも忘れてその地点へ駈けつけると、そこには当たり前の舗装が途切れなく広がっているだけだった。その辺りの地面をさぐっても、やはり入口らしき構造はない。
 あたしは呆然と立ち尽くした。それから間もないことだった。突然に足の下の感触がなくなった。

 (まぶた)をひらいた。目に飛び込んでくるのは闇ばかりだった。あたしは恐慌に陥りそうになりながらも、手のひらや背に走る痛みに気づき、どうにか心をそちらへ向けた。視覚や聴覚より、痛覚があたしには確かなものに思えた。深く呼吸をして、神経を伝う痺れをゆっくりと感じた。
 そろそろと躯を起こした──そのときには、自分が仰向けに倒れているのを認識できていた。何も見えない。
 立ち上がれるのを確認すると、あたしは両手で頭上をさぐった。すぐ上に遮るものがある。その滑らかな表面を辿り、やがてそれが壁にかわるのを確かめる。反対側も同じようにしたけれど、何も切れめのようなものはなかった。壁と壁とは両腕を思いきり伸ばしても同時に触れない。あたしは一方の壁に縋りつつ、片手を前へ突きだしていくらか歩いてみた。手にも足にも、何もあたらない。
 足を止めて耳を澄ました。音がない。手を突いて地面へ耳を当てると、ほんの微かに規則的な響きが伝わってくる。先程のアルセイデスもこの空間にいるのだろうか。
 足を進めた。今はとにかく、この場所からでなくてはいけない。壁の感触と躯の痛みと、自分の立てる音が世界のすべてだった。他の情報のない場所を歩いていると、まるで自分の意識の奥へ踏み入っているような錯覚をする。あたしはどんどんとのめり込み、引き返せないところへ墜ちるような不安を感じる。この感覚は、小さい頃の死の想像と似ていた。あたしは自分の意識の中心に向かっておち込んでいき、最後には潰れてしまうような気がする。
 どれだけ歩いたのか、ふと立ち止まった。
 目を覆うのが光であるのを、しばらく理解できなかった。あたしは遅れて手を(かざ)し、稍して眩しさが和らぐと、目の前の光景をあるがままに受け止めなくてはならなかった。──右手に危うい均衡で積み上げられてあるのは、卵のようなこの星の乗り物だった。左手には住宅の中で見かける雑多な機械類が、やはり山積みにされている。それらの奥の山からは、無数の手足が突きだしている。それは数え切れないアルセイドの躯だった。
 小さな太陽のような照明が、いくつも上空で輝いている。そして地球の靴は、紛れもない土を踏んでいた。蹌踉(よろ)めくように躯を動かし、周囲をぐるりと見まわした。あたしが立っているのは、広大な廃棄場の直中(ただなか)だった。
 すぐ後ろにくぐった覚えのないゲートがあった。オールト・ゲートを思わせる造りをしていた。扉はなく、弧を描く柱の中に地続きの景色が見えているのだ。あたしは正体を失ったまま、廃棄物の山の合間に彷徨っていった。照明は強力で、地面は白っぽく、様々な方向から照るので影も薄くいくつもある。廃棄物の山は内容によって分けられていて、どの堆積も見上げるようだった。ほんの小さな振動で崩れてきそうだ。けれど山面(やまづら)は時が止まったように変化がない。見つめていると眩暈(めまい)が起こりそうになった。
 当て所なく歩き続け、いくつめかのアルセイドの山の前で立ち止まった。はっきりとした根拠があったわけじゃない。ただ、その裾野に投げだされた一体だけ、まだ周囲の風景に溶け込んでいないように見えた。これが路上で倒れた彼女なのだろうか。
 百年前、丁度ここと似た場所で、なんの保障もなく寝転がっていた自分を思った。あの頃、あたしはもう既に判っていたのだ。死んでしまえば個の区別はなくなる。ただ「本」という呼称で扱われる忘れ去られた様々な言葉と同じで、積み上げられたうちのひとつが一体どんな性質を持ち、泣き笑いしていたのか、そんなことは無にきしてしまう。あたしはそうした無常の山から逃れたくて、宇宙にでたのかもしれない。そうして辿り着いた先は生きながらに同一の世界で、あたしは一三三〇〇日の猶予しかないのかもしれない。
 ふと気配を感じて振り返った。機械類の山の陰に、ひとりのアルセイドが立っていた。初め、彼女も活動を停止した個体なのかと思った。微動だにせずにこちらに視線を注いでいる。あたしが身構えつつ向き直ると、地面を滑るように進みでてきた。
 あたしの傍らに積み上げられた何十という死骸と、その活動しているアルセイドとは、外見的になんの違いもなかった。それがあたしに不信を与えた。
 アルセイドはあたしのすぐ前で止まった。あたしはそうせずともよいのだろうと思いながらも、声にだして尋ねた。
「あたしがここにきたのは、悪いことだった?」
 意識に返された答えは「悪いことではない」だった。あたしは虚を衝かれ、次の質問までに間が空いた。
「…ここは一体、何処なの」
 するとアルセイドは右手を上げ、人差し指で宙に円を描いた。ここは、世界そのもの。白い部屋で同じ手振りを見、心に浮かんだ言葉と同じだった。あのときは理解できなかったけれど、あれもやはり、あたしの意識に直接に与えられた彼女たちの返答だったのかもしれない。
 あたしはあることを連想した。ここへはあらゆる不要品が集められているらしい。だとしたら、あたしの脱出艇もそうなのじゃないか。あたしはあの中で意識を失い、それっきりだ。
 尋ねた。「ここにある」アルセイドは答えた。あたしは破顔して、案内してくれるかと重ねて問うた。アルセイドは黙って背を向け歩きだした。
 ついていきながら、あたしは上着のポケットの中で秘かに光子船の記憶装置に触れた。いくら高度の技術があろうとも、この星の機械で地球の機械を動かすことはできない。艇に積まれたコンピュータは、本船のものに比べれば赤ん坊みたいな性能だ。それでも記録された情報を読みだすことはできる。今となってはこの世界で唯一の機器だ。できる、と思うと(にわか)にそうしなければいけないという気になった。
 見慣れない景色の中に見慣れた形が見え始めた。あたしは案内人を追い越してその前へ駈け寄った。艇は山に積まれることなく、一つだけ地面の上へ置かれている。そばへいくとハッチが半開きになっているのが判った。船体にも無数の傷やへこみがある。明らかに無理矢理こじ開けようとした痕跡だった。そうした損傷箇所の所々には人間の指の跡としか見えない窪みがあって、あたしはぞっとした。アルセイドがあの美しい手で力任せにハッチをひらき、中で気を失ったあたしを取り出すさまを想像して、自分の存在が頼りなくなったような気がした。
 背後を窺った。案内してくれたアルセイドは、少し離れたところで立ち止まっている。引き返す様子はない。あたしが指示するのを待っているのだろうか。あたしは艇外の操作パネルを躯で隠すようにして、起動の手順を入力した。そんな振る舞いを嫌なものだと思った。微かな起動音と共に、ハッチが完全にひらいた。あたしはアルセイドを警戒しながら、もう一方ではしんじているのだ。あたしがこうして異星の大気の中で生きていられる以上、彼女たちは異なる生物相(ビオータ)がもたらす危険を認識しているはずだった。艇内は滅菌処理されているはずだ。そうでなくては、この星の人々にとって有害かもしれない細菌をばらまいてしまいかねない。もっとも、密閉状態は既に破られていたのだから、今更こんな心配をしても手遅れではある。
 内部に躯を乗り入れると、シートの一部が削り取られているのが目に入った。丁度、横たわった搭乗者の右脇腹の辺りになるところだ。ひとまず安心した。やはりあたしは負傷していて、ここに血痕があったのだろう。この星を滅ぼす病原体の母体にはならずに済みそうだった。空白の八ヶ月も本当らしい。頭を振って、あたしは初期画面を表示している小型モニタに触れた。反応がある。機能は生きている。モニタ側面のスロットに記憶装置を差し込んだ。焦れったい時間をかけて、画面に懐かしい地球文字が現れた。
 あたしは二、三才の子供を手許へ招くような気分で求める情報をさがした。漸く小さな画面に食い入った。──航行記録が途切れる寸前、船体後部に破損が生じている。損傷は船の心臓部にまで達していて、これが操舵不能に陥った原因なのだろう。直前まで船体にも他の機関にも異常は見られない。要因は外的なもののようだ。あたしはあのときの自分の判断を思った。船に激しい衝撃が走る少し前、あたしは乱調をきたした管制装置をダウンさせ、船の制御を手動に取り返した。管制装置が働いていれば、衝突したものがなんであれ──有り触れた宇宙塵か或いはベロエー近傍で消息を絶ったという船の残骸であれ、感知して警告を発していたかもしれない。
 眉間に力を込める。例えそうだったとして、惑星の衛星軌道上では時速二・七万㎞にも達するそれらの浮遊物を、回避できたかどうかは別の問題だ。何より不可思議なのは、あの突然の管制装置の乱調だ。紫丁香花(ライラック)色の惑星の軌道上で、あたしは海魔(セイレーン)の歌を聴いた。それは光線通信の回線に割り込んだ、人ならざるものの声だった。光軸は完全に惑星の地表──島影一つない、海原の一点を指し示していた。管制系に異常が現れたのは、その直後だ。
 これらに因果関係があるのかは判らない。ただ、見も知らぬ通信の主が云っていた、歌声で船乗りを惑わす精霊──その正体が、あの紫丁香花色の惑星であることだけは確かだと云える。
 あたしは自分の正直な考えを確認する。あたしはここが本当にあのベロエーの惑星であるのか、今なお疑いを持っている。
 息を吐いて記憶装置を引き抜いた。艇から躯をだすと、周囲の光景がしみじみと身に迫ってきた。なんにせよ、今のあたしがこの奇妙な世界に生きているのは、動かしようがない。
 地面に降り、艇の基部を検めると電槽の一つを取り外した。それから再び艇内に入り、小型モニタとそれに付属する機器を抜き取った。合わせるとずっしりと重い。それらを抱えて艇を離れた。
 アルセイドはまだそこへ立ち尽くしていた。あたしは身を強張らせつつ、彼女の前まで歩いていった。彼女はあたしの腕の中に視線を向けた。けれど何も云わない。「出口を教えてくれる?」問うと黙って(きびす)を返した。
 辿ってきたのと同じ道筋を戻った。あたしは往路より冷静な目で廃棄物の山々を見つめた。そこへ積み上げられている機械類は、少なくとも外から見た分には致命的な故障をしているようには思われない。アルセイドだって例外じゃない。特にあの路上の一体は、明らかに内部の不具合で倒れたように見えた。おかしな挙動をしていたふうもないから、単に動力の消耗で停止したのかもしれない。だとしたら、廃棄せずとも直すことは可能なんじゃないのか。彼女たち自身には仲間を修繕する能力はないのだろうか。人間で彼女たちを整備する人はいないのか。もっと根本的に、彼女たちは何処でどうやって生みだされているのだろう。
 これをあの人に尋ねたところで、明確な答えが返るとも思われなかった。よく判りませんねと微笑まれて、それで終わりのような気がする。
 ここでは科学技術が空気のようなものなのだ。ものの初めから存在しているから、ただあるがままに享受していればいい。理屈など知らなくたって生きていかれる。疑問や興味を抱くことが、この星の人々にはないのだ。けれど、それならもう、何処からも新たなものは生まれてこないのじゃないのか。発展の源泉は疑心や欲なのだから。
 アルセイドが足を止めた。輪郭だけのゲートは、やはりその中に先程と同じ静止した風景を見せている。どうすればいいのと尋ねても、「適合すれば通られる」とだけアルセイドは答える。あたしはゲートの間近へ寄ろうとした。すると、突然アルセイドがあたしの肩を押さえた。躊躇(ちゅうちょ)のない力だった。声が漏れた。身を(よじ)って振り見ると、「それを持っていってはいけない」という言葉が脳裏に染み渡った。
 あたしは艇の前でなら感じなかっただろう反発を覚えた。白い手を振り切り、身を退いたあたしの足はゲートの前の地面を踏んだ。すると、今まで見たこともない俊敏さでアルセイドがあたしに向かって動いた。
 本能的な恐怖が背筋を走った。

 それは、赤い残像だった。アルセイドが倒れた。電槽やモニタが地面へおちた。
 強い力があたしの手頸を掴んだ。それらは殆ど同時に起こったことだのに、あたしにはひとつひとつの場面のように思え、そして眸には鮮やかな、薔薇色の影が灼きついた。
 あたしは走りだしていた。あたしの手を掴み、急き立てていく人がすぐ目の前にいた。激しく乱れる薔薇色の髪を、あたしは活動する躯とは別のところにある心でうっとりと見つめた。
 こい、と少女は云った。
 あたしたちは廃品の山のあわいをぬい、先程とは別のひらけた場所へ駈け込んだ。そこにも(から)のゲートがあった。薔薇色の髪の少女は鋭くこちらを睨んだ。眸は藍銅(アズライト)の色をしていた。あたしは射竦められた。少女は険しい顔で短く声を零すと、肩の鞄を開け、中から配線の絡まった機械部品を取りだした。それを地面へ押し当てながら、立ち(ほう)けているあたしを荒っぽく引き寄せた。その弾みにあたしは背後を振り返り、そちこちの山陰からアルセイドが現れでてきているのを認めた。ひとりやふたりといった数じゃない。追われているのだ、と直感的に悟った。喉が引きつり、傍らの少女に何事か問いかけようとした、そのとき、少女があたしを引っ張ってゲートの中へ駈けだした。薔薇色の髪がゲートに入った瞬間、すっぱりと切りおとされたように見えなくなった。あたしは目を(みは)った。何を考える間もなく、あたしもゲートの中へ引き入れられ、目に映るのはただ、暗闇だけだった。
【こい!】
 闇の中に再び少女の声が響いた。あたしは引っ立てられるまま走った。行き先もすぐ目の前の状況も判らない。なのに不安ではなかった。手頸をとらえた熱い体温だけが、あてのない世界にはっきりと息づいていた。
 気づくとあたしは、見たこともない都市の中にいた。建物が空を塞ぐように建て込み、地球の工業地帯を思わせた。へたり込みそうになるのを薔薇色の髪の少女は無理に走らせ、夜目にも黒い建造物の(もと)へ連れていった。細い柱や(はり)が複雑に絡み合っている。少女は柱に穿たれた窪みに手足をかけ、登れ、とあたしにも命じた。あたしは頭上を振り仰いで、この建造物があのアンテナ塔であることを知った。
 少女は身軽に随分と先を登っていき、あたしは意思だけの力でそれについていった。他のことは考えないようにして懸命に手足を動かしていると、やがて目の前に白い手のひらが突きだされた。梁の上に立った少女が無愛想に手を差し伸べていた。あたしは嬉しくてそれに縋り、柱から梁に飛び移った。
 途端に足下がぐらついた。ようよう姿勢を保つと、頬を打つ風が氷のようだ。頸に手を当てて顔を上げた。
 あたしたちは空の中にいた。架線でさえも下にある。等間隔に明かりを灯したそれは、暗い地上を奔放に走る。遙か彼方に月の(もと)の海のように輝く一帯がある。初めは本当の海ではないかと思った。そこへ吸い込まれる幾筋もの糸が、やがて正体を知らせた。あれは住宅都市の上空を覆う、系統樹のような幾百の架線の光なのだ。ついさっきまで立っていた場所があんなに遠くにある。
 あたしは自然に自分の足下を見ようとして、びくりとかたわらの柱にしがみついた。塔の基部は闇にのまれて見えない。底なしの穴の上へ立っているようで、高さの点から云えばそれは殆どそのとおりだった。この世でいちばん高い場所、という夏蜜柑の言葉を思いだした。見上げれば、塔の先端はまだ先にある。あたしたちは塔の三分の二くらいの地点にいるに過ぎなかった。
 音のない場所だった。彼岸があるなら、それはこのような眺めではないかと思った。あたしは自分の心にひとつの区切りがついたのを感じた。
 自分と同じ高さを見た。醒めたまなざしがそこにあった。薔薇色の髪の少女は頼るもののない梁の上へ悠々と立ち、かわった形の上着に両手を突っ込んでこちらを眺めている。ひとつ深呼吸をして、あたしは柱から手を離した。少女は怪訝そうに瞬いた。
 怖じ気を抑え込んで梁をゆっくりと歩いていくと、少女のすぐ前までいった。
「──ありがと」
 微笑むと寒さのために顔が強張った。あたしは感覚のない頬を手で包み、今度は誤魔化すように笑った。少女は相変わらず呆れたような顔をしている。
 あたしはずっと口にしたかった愛称を呼んだ。
「あんた、皇女(ヒメミコ)でしょう? 夏蜜柑のところの」
 その仰々しい正式名を教えられたときから、あたしにはひとつのものしか連想できなかった。生まれ育った文化の所為だ。
 ヒメミコは目を細めた。
【お前、あたしを莫迦(ばか)にしてるのか?】
 思いがけない言葉だった。
【あいつやあの男とはどうにかして会話していただろう。あたしとはまともに話さないつもりか】
 非難されている理由がよく判らなかった。二の句を継げないでいると、ヒメミコはわざとらしく息をつき、荒っぽく梁の上へ座り込んだ。
 詮方なくて、あたしもそろそろと膝を突いた。スカートからはみ出した脚に、容赦なく冷たさが染みとおる。
 梁を両手で掴んで、あたしは少し離れた少女の横顔を窺った。夏蜜柑より二つ年下なのだという話だった。たしかに目許や口許には幼さが感じられるけれど、全身を(かんが)みれば、むしろ従姉より大人びている。服装の所為かもしれない。ヒメミコは見たこともない衣服をきている。未熟さを強調するような、この星の女性の服装ではない。下は太腿も露わなショートパンツ姿で、上の服も襟刳(えりぐ)りが大きくひらいている。何より、彼女のきる擦りきれた上着には、(はがね)で煮()めたような色がついていた。
 夏蜜柑との遣り取りが思いだされた。かわった服装でいるのは悪いことかと問うたとき、彼女が言葉を濁したのは、この従妹のためだったのかもしれない。
 強い欲求が涌いて、あたしは梁の上を薔薇色の髪の少女の(もと)へ慎重に這い寄っていった。
「──ねえ」
 ひとつ間を置いて、刺すような眼差しが向いた。
「何がよくなかったのか判らないけど、でもあんたを怒らせてしまったのは間違いなんだ。あたしはあんたと協力したい」
 ヒメミコはじっとあたしを睨み、あたしは検められているつもりで静かに同じ姿勢を保っていた。と、突然ヒメミコがあたしの顔に触れた。そして口の中へ指を差し入れてきた。
 金属と土の味がした。あたしは拒絶しなかった。繊細な指はあたしの舌や歯をさぐり、稍して去っていった。
 ヒメミコは敵意というより疑念を込めて、あたしに問うた。
【お前、あたしたちと同じ口をしているのに、どうして喋られないんだ】
「え…」
【声はだせるのに、どうしてあたしと喋らない】
 異星の少女は苛立たしげに顔を歪めた。あたしは何か、途方もない問題があたしたちのあいだに横たわっているのを悟った。

#10

 あたしの言葉が判らないの、という問いかけは無意味だった。あたしはうっすらと恐怖を感じていた。二三〇〇年代生まれのあたしには、言葉の通じない相手と対面した経験がないのだ。
 判らないの、と譫言(うわごと)のようにもういちど問うた。あたしが言葉を発すれば発するほど、ヒメミコのまなざしの嫌悪の色が深まっていく。
 冷静に考えようと努めた。そもそも、夏蜜柑やあの人とはどうして言葉が通じるのだろう。一三〇光年を隔てた、これまで接触も持たなかった文明が同じ言語を使用しているなど有り得ない。第一、あたしは初めに無意識に発したまま慣用言語を話している。俗に云う「地球語」ですらない。
 病院のロビーにでたとき、あたしは既にこの星の言語を理解できた。思い当たったのは人差し指の不可解な処置のことだけれど、ロビーにいた人々とは「挨拶」などしていない。認証したから会話ができるというわけじゃない。それでも僅かな可能性を考えて、あたしは押し黙ったヒメミコに右手を差しだした。視線だけが応えた。こちらから彼女の右手をとらえようとすると、撥条(ばね)のような激しさで打ち払われた。
 ふたつの右手が行き場なく(くう)に浮いた。あたしの手の甲にさっと赤みが差した。ヒメミコの眸が砕けそうに震えていた。
 ヒメミコは豊かな髪を乱暴に掻き、その格好のまま動かなくなった。あたしは堪らずに間近へ膝を進め、躊躇いながら肩に触れた。柔らかい、少女の躯が感ぜられた。薔薇色の髪のあいだから、生の塊のような目があたしを見た。あたしは口許を弛めてみせた。
 ヒメミコは呻くように、
【お前は、ここじゃないところからきたんだろう】
 あたしは頷いた。
【あたしの云うことは判るんだな】
 頷く。
【じゃあ、どうして話さない】
 判らない、という意味で頸を振った。
【あいつらとは話していただろう】ヒメミコは跳ね起きた。【あたしは聞いていたんだぞ。お前は今と同じに声をだしていただけだったけど、あいつらには理解できるみたいだった。どうしてあたしには伝えようとしない】
 少女の歯痒さが燃えるようにあたしを襲った。それでもあたしは頸を振るしかなかった。まだ地球に標準言語というものがなかった頃、殆どの人間は生来の慣用言語しか満足に話されなかった。異なる民族社会が習合しているところでは、共用語というものもあったけれど、それでも地球上の何処ででも通じるというわけではなかった。あたしのような世代には、その感覚が判らない。共通の符号がないのだ。意思を言葉で充分に伝えられない相手が当たり前に周囲にいて、しかもそれが自然だという状況は──あたしたちには不可解だった。本当にそんな場面に巡り会う日がくるとは想像もできなかった。それも、目の前の少女は言語が様々にあるという概念すら持たない。
 ヒメミコは荒く息をついた。
【まあいいよ…。話さないなら話さないで構わないけど。どうせ関係がないんだし】
 必然的で最も聞きたくなかった解答だった。心が凍っていくのを感じた。偶然に繋がった糸は絶えてしまったのだろうか。あたしはこの子に対して、単なる同居人以上の感情を抱いていた自分を思い知った。
 寄る辺ないところへ放りだされたような気がして、そっと身動ぎした。途端に鋭い声が飛んだ。
【降りるな。機械人形に殺されたいのか】
 意外の呟きを漏らして少女を見返した。ヒメミコは目を(すが)めて、あたしのいない側の膝の先を見ている。
【……まだここにいろ】
 そろそろと塔の下を窺った。やはり地上の様子は見分けがつかない。精霊たち(アルセイデス)はあたしたちを捜しているのだろうか。
 あの個体が急激な反応を見せたのは、あたしが未知の機械を持ちだそうとしたからなのだろう。そのモニタも電槽も落としてきてしまった。だから今や──少なくともあたしには、追われる要因はない。それとも危険分子として認識されただろうか。だとしても、彼女たちが女性型學天則(ガイノイド)である以上、直接的な行動には出ないはずだった。ここに二十世紀地球の空想科学小説が伝えられているわけもないけれど、アルセイドが人間に使役される存在である限り、「人間に危害を加えてはならない」という回路は必ず組み込まれるはずだった。
 それでもヒメミコはアルセイドに悪感情を持っているのだ。彼女たちを理解不能の敵だと捉えている。つまり、ヒメミコはあたしの身を案じてくれたのだ。
 思わず顔がほころんだ。ヒメミコはそっぽを向いている。
 あたしは思いだして上着をさぐった。平べったくつるりとした感触があると、無意味にほっとした。光子船の記憶装置をポケットから取りだして、(かそけ)き夜光に晒した。あれだけの反応をしたのだ、モニタも電槽も破壊されるか、二度と見つからない場所へ棄てられてしまっただろう。そうすると、この機械の脳には今やまったく価値がない。内部で眠っている百年分の記憶を思って、あたしは虚しい気持ちでそれを()めつ(すが)めつした。
 ふと気づくと、少女のまなざしがあたしの手許に注がれていた。ヒメミコは視線を逸らす。あたしは小さく笑い、少しのあいだに心が決まって、記憶装置を少女に向かって差しだした。
 ヒメミコはあたしの意図を訝るように、じっと睨んだ。それから装置を子供の目で見つめて、恐る恐る手を伸ばした。──受け取った装置を、ヒメミコはまず指先で撫でた。何か素晴らしい宝物を愛でているような手つきで、まなざしだった。少女は地球の機械に見惚(みと)れているのだ。あたしはやっと理解した。話したくもない相手が話さないことで哀しむ人間はいない。ヒメミコにとって、星からきた謎の生物であるあたしは、この上ない関心の対象だったのだ。
【これ…あたしが持っていていいのか】
 頷く。
【そう、……どうも】
 肩の大きな鞄を開け、ヒメミコはその中に記憶装置を仕舞い込んだ。あたしは気を()かれて(にじ)り寄った──ヒメミコは微かに肩を引いた。鞄の中には様々な機械部品が詰め込まれていた。あのゲートの前で使った機械もある。あたしはそれを示し、ヒメミコを振り見た。
【…それは、機械人形の足】
 少し間を置いて、ヒメミコは云った。咳払いをして、【あのゲートを通るには、機械人形だっていう証明がいる。それはあいつらの足の中にあって、これは死んだやつから取りだしたんだ】
 驚嘆の思いは、それを突き止めたということより、ヒメミコ自身に対するほうが大きかった。凄いね、と云いかけて口を(つぐ)んだ。あたしが「声」を発したって、ヒメミコを不愉快にさせるだけだ。それに、凄い、という感想自体、彼女もこの星の人々も侮辱するようなものだった。
 ここには何かを知ろうという衝動がないだけなのだ。それをこの子は持っている。
 色々と尋ねたいことは山ほどあるのに、そうする方法があたしにはない。あたしにできるのは、ヒメミコのほうからそれを語ってくれるのを待つことだけだ。
 鞄の口を手で軽く(すぼ)めながら、ヒメミコは尋ねた。
【お前は、どうやってあすこに入ったんだ】
 あたしは頸を振った。
【お前も機械人形の足を持っているのか】
 頸を振る。ヒメミコは質問を中断する。否か応かしかない相手に詳細な回答はのぞめない。結局のところ、聞き手が多くを負担しなくてはならない。
 ヒメミコは(やや)して続けて、
【入ってきたのは、三十六区のゲートからか?】
 あたしは頷いたものの、通ったのが果たして「ゲート」なのかどうかは判らなかった。あやふやな表情になったのだろう、ヒメミコも考え込む。不思議な対話だった。けれど、あたしは心細くはなかった。
【あすこは機械人形の足がないと通れない。あたしは散々に試したんだ。でも、お前はあたしたちとは違うモノだから、それで通られるのかもしれない】
 強い眸がじっと見据えた。あたしは生物学的概念を知っているから、たとえ異星の住人だろうとある程度の範囲の中に捉えることができる。ヒメミコには概念がない。だから、あたしという存在が丸ごと、特別な力を持つもののように思えるのかもしれない。
 古い娯楽映画の異星人が超能力めいたものを使っていたのを連想した。呼び名も「異星の人類」でなく「宇宙人」だ。
 ヒメミコのまなざしはあたしの顔から胸と腹部へ滑って離れた。ほんの少し不機嫌なようだった。
【なんにせよ、訳も判らずにあの場所へでたんだろう。あすこは機械人形の住処なんだ。つかまったら終わりだ。宇宙人だろうと、頸をへし折られちゃ助からないだろうし】
 あたしは思わず喉元に触れた。アルセイドの躯が急激に動き、こちらへ向かってこようとした瞬間の恐怖は、理由や認識を超越して指の先の神経にまで刻みついている。そんなことは起こり得ないと判っていても、恐怖心は理屈とは別のものだ。
【でも、本当にどうしてだろうな…】
 ヒメミコは独りごちる。いやに(こだわ)るのだなと、当のあたしが思っている。
 じゃあ、どうしてヒメミコはあすこにいたの、と尋ねられない。鞄いっぱいの機械部品はあの廃棄場で集めたものなのだろうか。覗き見た内容は、特に脈絡もないようなものばかりだった──あたしに異星の機械の何が判るわけでもないけれど、地球の機械を夢中で見つめていたように、その原理などは関係なしに、ただ未知なるものとして収集しているのだろうかとも思った。あたしはヒメミコを他愛のない、(いとけな)い存在として捉えたいのらしい。
 ヒメミコが尋ねた。
【なあ…お前が墜ちてきた星って、どれなんだ】
 無心な顔つきで空を仰いだ。あたしは応えに詰まった。
【今は見えないのか?】
 はっとした。それは勿論、星々の年周運動を指した言葉に決まっている。
 あたしは細かく幾度も頷いた。
【そうか…】
 ヒメミコの声音や、伏せられたまなざしは落胆していた。あたしは安易な嘘をついたのだった。
 少し躊躇ってから、太陽、とあたしは云った。【タイヨウ?】ヒメミコは復唱した。
【それが、お前のいた星なのか?】
 一拍を置いて、頷いた。タイヨウ、とヒメミコは確かめるように小さく繰り返す。あたしは何故だか、自分が取り返しのつかないことをしたような気がした。

 くっきりと痕のついた手のひらを擦り合わせる。塔は登るよりも降りるほうが難しかった。
 空は東雲(しののめ)に色づき始めている。こうして夜を明かしてみると、ここの一日が地球での十六時間しかないのを実感する。指の隙間から零れおちるように、「一日」が過ぎ去っていく。
 ヒメミコは狭い路地を歩いていく。あたしは周囲の建物を見まわしながらついていった。ここが人間の住むところでないことは確かだ。左右から迫った建物には窓すらなく、住宅としては不自然な高さで終わっている。ここはなんなの、とあたしは尋ねたくて仕方がない。
 ヒメミコは上着に両手を突っ込み、建物の切れ間に差しかかるごとに、刺すような視線を放っている。森精(アルセイド)を警戒しているのだろうか。朝の(きざ)しを見て塔を降りようと決めたのはヒメミコで、あたしはただ従った。
 路地を曲がった。ヒメミコがぴくりと立ち止まった。彼女の肩越し、路地の先に、白い人影が立っているのが見える。と、アルセイドは間違いなくあたしたちを目にしたのに、そのまま歩き去っていった。ヒメミコは鞄を肩にかけ直し、歩みを再開した。
 言葉が通じていたとしても、あたしはなんと切りだしていいか判らなかっただろう。
 じきに辿りついたのは、行き止まりだった。三方を建物の壁に塞がれている。この一帯は住宅都市とは違い、のっぺりとした混凝土(コンクリート)ようの舗装なのだが、やはり切れめや特別な構造はない。ヒメミコは例の機械を取りだすと、おもむろに地面に押し当てた。あたしは衝動を抑えきれずにその周囲を(ひざまづ)いてさぐった。おい、と呆れたような声が飛ぶ。次のとき、手のひらと膝の下の感触が消え失せ、あたしは暗闇の中で手足を強か打っていた。
【莫迦だな、お前】
 ヒメミコの声が(うろ)の中で(こだま)する。あたしは人ならざるものの言葉を聞いているような気になる。
 温度のある肌が触れ、あたしの手を見つけて引っ張った。そうしてヒメミコは黙々とあたしの手を引いて歩いた。あたしは次第に泣きだしそうな気分になっていった。あたしを掴まえているうちは、ヒメミコは何処かへいってしまわないという当然なことが、妙に胸に迫って苦しかったのだ。
 気づくと、見慣れた住宅都市の中に立っていた。
 あたしはあることに気づいた。随分長い距離を移動したはずだのに、空の様子が通路に入る前と殆どかわっていない。遥か遠く、大気のむらと見間違えそうなほど微かにアンテナ塔が見えている。そもそも、都心部からここまで、平気で歩き通せるわけがなかった。
 あたしたちがくぐった空間はなんだったのか。それに、初めに辿り着いた廃棄場は何処にあったのだろう。考え込んでいるとヒメミコが唐突に手を振り払った。あたしは驚いた。少女はもうあたしを見ずに、ぽつんと梔子(くちなし)色の世界を遠ざかっていった。
 思わず何事か声をかけようとした。そのとき、脳裏に明瞭すぎる声が響いた。
〈何処にいるの〉
 夏蜜柑の声だった。あたしは思わず足が止まった。耳朶を介さない呼びかけで、夏蜜柑はあたしを捜しているのだ。
 すぐ戻る、とは云われなかった。云えば嘘になる。あたしは繰り返される呼びかけを抱えたまま、ヒメミコのあとを追った。ヒメミコはやたらに角を折れ、どちらの方角に向かっているのかはっきりしない調子で歩き続けたが、次第にやはり夏蜜柑の家へかえっていっているのが判った。あたしはやるせなかった。夏蜜柑への信頼や何かとは別問題に、ヒメミコのかえる場所がそこしかないということは、哀しいことに違いない。
 やがて歩みは遅くなり、植木鉢に囲まれた住宅の前で完全に止まった。あたしは少女を追い抜き、憮然とした表情で目を逸らしたヒメミコに代わって、下の玄関を開けた。
【何処にいってたの】
 途端に夏蜜柑の声が飛んだ。夏蜜柑はホールを跳ぶように横切ってきて、あたしの両手を取った。憔悴で頬が(まだら)に赤らんでいる。
【お部屋を覗いたらいないから、とっても心配したのよ】
「ごめん、えと……ねむれなくて外を歩きにいったんだけど、迷っちゃって…」
 莫迦な云い訳だったけれど、夏蜜柑は追究せずに、そう、と息をついた。それからあたしの背後の人物に目を留めた。
 それには何も云わずに、口許に笑みを浮かべた。
【ねむられないんだったら、起こしてくれればいいのに】
「いや、そんな…」
 ふと注がれる視線に気づく。階段の脇の壁に凭れて、あの人がゆったりと顛末を眺めていた。
【とにかく、ご飯にしましょう】
 夏蜜柑はあたしの手を引いて屋内へ招く。それからあたしの肩越しに、入って、と短く声をかけた。
 抱かれるようにして間近にいくと、旦那様はにこりと笑み、【おかえりなさい】と云った。あたしは嫌悪感などは抜きに、ただ直感として、この人は本当に作り物ではないかと思った。
【──久しぶりですね】
 あたしたちの背後へ旦那様は続けた。返事の代わりに荒っぽい衣擦れの音がして、ヒメミコは階段を駈け上がっていった。あたしは膨らんだ声が喉を塞いだ。旦那様は目を細め、薔薇色の髪が三階の扉へ消えるのを、(こころよ)そうに見上げていた。
 ご飯はいいの、と夏蜜柑が、すべて終わってから声を投げた。
 あたしは衣服を着替えたいと云って自分の部屋へ上がった。しばらくのあいだ、天井を振り仰いで動けなかった。なんの物音もしない。あたしの一つ上の部屋は、ゆうべまでと同じく、黙りこくって他人だった。
 靴を脱ごうと屈み込んで、自分が地球の靴を履いたままなのに気づいた。ぎくりとした。ヒメミコはあたしの足下について何も云わなかった。二人は気づいただろうか。夏蜜柑は見落としたかもしれない。けれど、あの人は必ず目を留めただろうという気がした。
 仕方なく、気怠い手で服を着替えると、仕舞ってあった予備の一足を履いた。元の靴は鉢の陰に隠したままだ。取りにでる機会はあるだろうか。と、脳裏に声が響いた。そんなはずはないのに、あたしは暫時(ざんじ)、その送り手をヒメミコだと誤解した。
 声は夏蜜柑のものだった。今降りるよ、と答えようとすると、夏蜜柑は続けて部屋に入っていいかと問うた。不穏だった。了承すると、その次のときには扉がひらいた。
 夏蜜柑は思い詰めた顔で立ち入ってきた。

 あの子のこと、どう思った、と夏蜜柑は尋ねた。
 云い(つくろ)うことばかり考えていたあたしは、どうしてあたしたちが一緒にいたのか、それを問わない夏蜜柑の心の切実さに怯えた。
「どうって…」
【あの子、かわっているでしょう。だから心配なの】
 かわっている、と異星の少女が口にする重大さを気づけるくらいには、あたしはここの生活に慣れていた。別に、普通だったけど、と答えたいくらかは、かばう気持ちからしたことだった。
【普通じゃないのよ】
 きっぱりと夏蜜柑は云った。夏蜜柑は泣きそうな顔を伏せ、
【あのね…あの子、小さい頃に、死んでしまったあれを生き返らせたことがあったの…】
「え…」
【あれの背中を開けて、躯の中を…触ったら、あれがまた動きだしたの。どうしてって聞いたら、考えたら判ることだって。でも、ママも伯母さんも、パパも、あの人も、誰も判らなかったのよ】
 あたしはしばらく返す言葉が見つからなかった。
「だから…『普通』じゃない…?」
【………】
「でも、それは天才って云うんじゃ…」
【やめてよ!】
 夏蜜柑は鋭く叫び、頭を振った。【みんなとは造りが違う人間だなんて、あの子はかわっているけれど、でも本当は同じなの…ちゃんと…】
 絵空事のような苦悩だと思った。──ある場所では当たり前のことが、別の場所ではとても悪いことになる。そのとおりなのだ。
 夏蜜柑はじっと床の上を睨みながら、涙を拭った。あたしは彼女がずっと抱えてきただろう不安を垣間見て、それでも心はヒメミコに傾いていた。夏蜜柑にとって、従妹が「かわっている」ことは()しなのだ。あたしは、あの少女を同一という意味での「普通」にはしたくなかった。
【ごめんなさいね…急にこんなこと云って。でも、あの子が誰かと一緒にいるなんて、初めてだったから…】
 少しおちついた声で、夏蜜柑は云った。いつよりも彼女は老成していた。従妹に差し向かうときの夏蜜柑は、姉というより母親のようだった。そういう感慨を抱く自分が不思議だった。比喩として用いられる「母親」というものを、あたしも夏蜜柑も知らないはずだのに。
 夏蜜柑は、まだ渇ききらない頬でにこりと笑み、
【よかったら、これからもあの子とお話ししてあげてね。あの子、ずっとお部屋に籠もったままなの。あなたなら、仲良くできるかもしれないわ…】
 あたしは複雑な思いで頷いた。【──さあ、ご飯にしましょう】

 金雀枝(えにしだ)はお辞儀などせずにでていく。彼女に指示をしたのは初めてだった。夏蜜柑が寝入った家の部屋の中で、あたしは身を強張らせていた。やがて盆を運んできた金雀枝は、夏蜜柑や旦那様の前と同じに、なんの素振りも見せなかった。森精(アルセイド)が──これまでに見た行動からして、個体間の連絡を持たないとは考えにくかった。やはり、あたしにはもうなんの警戒も払われていないのだろうか。
 盆を膝の先に置き、あたしは扉の内側に凭れている。部屋の明かりは落としてある。開け放した円い窓の外に、ゆうべと殆どかわらない大きさの月がゆっくりと動いている。金雀枝の気配はとうに絶えた。あたしはねむらなかった。幽鬼さえ静止したあとに活動するもののあることを、もう知っているからだ。
 ぼんやりと視界をぼやかしていると、とても個人的なことばかり思い浮かんでくる。──どうしてあたしは、初めから林檎が赤いとは限らないとしんじていたのだろう。それはやはり、あたしが精神に難のある人間だからなのだろうか。あたしのような意識は、自然に生まれてくるものなのか。それとも何か、記憶にもない地点で種になる出来事や環境に出会っていたのか。どうしてあたしは、他のどのような性格の人間でもなく、このあたしの意識に成り立ったのだろう。
 現実感がなくなっていく。自分の生死すら判らなくなる。だらりと床の上へ投げだした腕の先が、知らぬ間に()けてぼやぼやしたものと一体になり始めた頃、住宅の骨格を伝って物音を感じた。あたしは、はっとして背を浮かせた。虚ろだった躯に緊張が(みなぎ)った。
 いつもこうして枕辺を通り過ぎていたのかと思うと、悔しくもあり可笑(おか)しくもあった。あたしは指先に小動物が誘われる様子を想像した。じっと待ち受ける。そうして微かな足音が近づいてくると、素早く扉をひらいた。
 面食らったヒメミコは踊り場で立ち竦んだ。あたしは迷わずその手を──他愛ない小動物をとらえた。何事か怒鳴ろうとするのを短く息で制して、室内へ引き込んだ。淡々と扉は閉まった。
【なんだよ…っ】
 ヒメミコは憤りながら、それでも声はひそめている。あたしはくすくすと笑った。とらえたままの片手を引いて、少女を床に座らせる。少女は今夜もゆうべと同じいでたちだった。ぞんざいに腰を下ろした弾みに、大きな鞄が重い音を立てた。あの機械部品一式を、いつも持ち歩いているのだろうか。ヒメミコは露わな脚で不承々々(ふしょうぶしょう)胡座(あぐら)を組む。あたしはその太腿の白さから目を逸らして、先程の盆を引き寄せた。金雀枝に云って用意してもらった盆には、茶器が載っている。
【なんの用だよ…】
 あたしの不可解な行動に、ヒメミコの声は弱気になっている。あたしは悠々と琺瑯(ほうろう)ようの(びん)から硝子の器へ飲み物を注いだ。と、満ちた液体は無色だった。あたしは思わず拍子抜けした声を零して、窓から差し入る月明かりに器を(かざ)した。瓶を開けてみるけれど、中身はやはり底までまっさらに透きとおっている。狐につままれたような気持ちだった。あたしの言葉が足りずに、金雀枝が別のものを用意したのではないかとすら思った。
 ヒメミコは大仰に息をついた。それから鞄を下ろすと、あたしの手から瓶を取り上げた。盆には小さな壺が添えられてあり、その砂糖とばかり思っていたものを瓶に加えた。再び瓶を傾けると、茶碗にはほんのりと色づいた温かみが満ちた。地球の茶葉を煎ずるのとはまったく別種の飲み物なのだと、(ようや)く理解した。
 手を取られた。今度はあたしがとまどう番だった。ヒメミコは口を引き結んだまま、あたしの手に器を包み込ませた。そのままじっと手許を見ている。あたしは抗いがたくて怖ず怖ずと口をつけた。ほろ苦さが広がった。ヒメミコは斜を向いた。
 風音(かざおと)が鳴りやんだあとの静けさのようだった。不意に、ヒメミコが、
【……何か吹き込まれたのか、あいつに】
 夜光を弾く眸が圧力を備えて睨んだ。
 あたしは少し考え、頷いた。
 ヒメミコは何か、よく判らない捨て科白(せりふ)のようなものを云ったらしかった。それはあたしにはこんがらがった声の塊に聞こえた。
【余計なお世話だ】
 ヒメミコは云った。あたしを含めた夏蜜柑の気遣いへの拒絶のようだった。あたしは動じない。あたしの中の夏蜜柑の意を受けた部分が逃げだしていっても、まだ充分なものが彼女の前に座っていられた。
 あたしが揺らがないのが判ると、ヒメミコは再び斜を向き、泣きだしそうな顔つきになった。藍銅(アズライト)色の眸が美しいと思った。
【心配されなきゃなんないのはあいつだ。お前も、あいつの友達なら、あたしなんかじゃなくあいつのほうにいけよ…】
 口許が(ゆる)んだ。結局は案じ合っている姉妹の姿が微笑ましく思われた。ヒメミコはむっとしたように眉根に皺を寄せた。それから不意に、あたしに向かって身を乗りだした。
 え、という叫びは殆ど夜気を震わせなかった。ヒメミコはあたしの手から茶碗を取り上げ、自分の体重をかけるようにして押し倒した。少女はあたしの上に馬乗りになった。
「なに…」
 と云った無意識の声のか細さが、あたしから最後の抵抗を奪っていった。あたしは背筋を床につけた。
 ヒメミコの上半身が月明かりに浮かび上がっている。太腿があられもなくあたしの腰を挟んでいる。少女は据わった目つきであたしを見下ろす。あたしは屈服する快感と心細さを同時に覚える。少女は腰を曲げ、あたしの喉元に触れた。その指先を見ようと、顎を引くと、ヒメミコは強引に押し戻した。息が苦しくなるくらいの力で冷たい指先は頸を探り、それから鎖骨に行き当たり、その末端を確かめる。胸の中央を中程まで下がってから、乳房を、次に腋窩(えきか)の下から肋骨の起伏を数え始めた。そして脇腹の辺りまで行きついたときに、足りない、と呟いた。
【骨が一本足りない】
 ああ、足りないのか、とあたしはゆめうつつに思った。ヒメミコは尚も躯に触れ、骨盤の形や膝の様子まで丹念にさぐり続けた。今や彼女の重みはあたしの上から去っていて、爪先で揺れる鮮やかな髪ばかりが視界の端に見えていた。それは本当に、他愛のないものに夢中になる子供の姿だった。彼女の興味はあたしとは別のものなのだと、がら空きになった躯を感じるのと一緒に寂しく悟った。
 両のくるぶしを検め終わったヒメミコは、無心な顔つきで再びあたしと目を合わせた。
【お前のいた星では、みんなこんな躯なのか?】
 放心したまま頷いた。手の指がびくりと痙攣(けいれん)した。じゃあ、あんたの躯も確かめさせて、という言葉が喉まででかかっていた。
 ヒメミコはまた思いついたようにあたしにのしかかってきた。頬を押さえ、(まなじり)を指でひらいて眸を覗き込んだ。彼女の虹彩は一等の鉱石が凝ったようだ。あたしは急に自分を恥じた──あたしとよく似た遠い星の人々でなくて、ただ彼女の目に映るあたしだけが恥ずかしかった。ヒメミコはつまらなそうに鼻を鳴らして、今度は耳の後ろを見ようと顔を寄せた。あたしは浅い夢に欲望を果たすような気持ちで、ヒメミコの頬にくちづけた。少女は躯を突き放した。あたしは泣きたいような気持ちで、その驚きに薄くひらいた唇を甘く咬んだ。
 やがて唇が離れたとき、ヒメミコは醒めて乾ききった表情をしていた。
【──どういう意味だ】
 あたしは融けた海月(くらげ)のようにそこに横たわっていた。
【今のは、何か意味のあることなのか?】
 頷くこと、頸を振ること、息で相手を制すこと、それらが異星で同じように通用するほうが不思議なのだ。本来は、こんなふうに地球での身振りが理解されないのが自然なのだ。
 自嘲の笑みが浮かんだ。あたしは頭を左右に動かした。
【そう】
 ヒメミコはあっさりと呟いて躯を外した。あたしは半身を引き()がされたような気がした。弱々しい部分があまりにさらけだされていた。
 しんじられないな、とヒメミコは(やや)置いて云った。
【お前はあたしたちと同じ見かけをしているのに、どうして骨が足らない。星にはお前みたいな生き物が他にもいて、ここと同じような場所なんだろう】
 あたしは有耶無耶に頷く。
【家や物や、食べ物もあるんだろう】
 頷く。
【それで、ここのように暮らしているんだろう】
 頸を振った。ヒメミコは反応を把握するためというには長すぎるほど、あたしのほうへ視線を(とど)めていた。
 不意に少女は尋ねた。
 お前、星にかえりたいか。
 あたしは応えなかった。応える意義がないのだった。そう問うたとき、既にヒメミコはこちらを見てはいなかった。それは、変質した自問自答だったのかもしれない。──自分はこの場所にいたいのか、それを問うているような気がした。
 ヒメミコは鞄を引き寄せ、肩にかけた。あたしは跳ね起きた。髪を払ったヒメミコは(わずら)わしそうに唸り、
【今夜はもうでかけない。萎えた。お前もさっさと寝ろ】
 ぞんざいに云い連ねて立ち上がった。あたしはへたり込んだままでいた。ヒメミコの云うことは嘘かもしれなかった。けれど追っても、陽炎(かげろう)のようにヒメミコには触れられない気がした。
 扉が閉まり、あたしは独りになった。あまりに完成されすぎた球体の表面を撫でただけで、何ものをも為せたとは思えなかった。自分自身に照らし合わせてみれば、その内部へ踏み入れるはずもなかった。
 だから、あたしの欲望は自分にすら矛盾していた。

#11

 光の(むら)が笑っている。あたしはじっと、それに向き合っている。
 片手を(かざ)すと大きな影が光を覆う。指を広げると光は零れでてくる。天井に映った(むら)の一つ一つは瞬いているようにも、裏側から無限に降りおちてきているようにも見える──あたしは虚しく息をついて、手を下ろす。
 自室の床に寝転んだまま、肌理(きめ)の浮かび上がった自分の手の甲を見た。十九年分の歳月しか刻んでいない手だ。この皮膚や爪が、百年前に別れた男の体温を知っているとは夢のようだ。──或いは、今ここにある意識のほうが錯覚で、あたしはやはり、地上を抜けだせないまま、本の山に寝転んでいるのだろうか。
 笑い声がさんざめく。寝返りをうって身を丸めた。重々しい眠気が打ち寄せては覚める。この数日間、ろくに眠っていない。
 うとうとと微睡(まどろ)む耳に、心地よい笑い声が、ふと一本に纏まり張りを持って、あたしの名を呼んだ。あたしは(にわか)に現実の(おもて)へ引き戻される。半身を起こすと鼓動が苦しいほど速まっていた。ざっと髪と衣服を直して窓辺へ寄った。
 (いしだたみ)の庭に立って、夏蜜柑が手を差し伸べていた。あたしを呼ばわる声と笑い声とが、一緒に零れてそこら中に弾んでいる。
【降りてこない?】
 夏蜜柑は目の上へ手のひらを翳して問いかける。──こんなに活力に満ちた声をだせる子とは思っていなかった。袖を(まく)り、もう一方の腕には自分の胴ほどもあるような、瑠璃唐草(ネモフィラ)に似た花の鉢を抱いている。
 あたしは有耶無耶に笑った。そっと視線を動かすと、夏蜜柑から稍離れて立って、あの人がこちらを見上げている。かたわらにある満開の金雀枝(エニシダ)に似た花樹が、当人も知らないうちにその姿を彩っている。肩の釦穴には数輪の瑠璃唐草が挿されてあった。旦那様は垣間見るあたしに気づくと、微かに頸を動かし、それで漆黒の髪が崩れて額にかかった。(おそ)れ多いものだ。あまりに非現実な容姿で、実際に同じ空気の中に存在しているものかどうか、疑わしくさえ思える。
 あの人は昨日も一昨日も、その前も夏蜜柑の隣にいた。あの唐突な訪問以来、一日も欠かさずに通ってきている──だから、暮らしている、のではない。昼過ぎにやってきて、朝方また何処かへ去っていく。招婿婚(しょうせいこん)がここでの基本形式というわけではないのは、他でもない夏蜜柑から教えられた。それは、複数の伴侶がいる場合でもだ。旦那様も、普段は一番初めに結婚した相手と同じところに住んでいる。明け方にかえるのはその家なのか、それとも残りの四人の誰かのところなのか、それは知らない。
 旦那様のいない午前中、夏蜜柑は食堂で茶器を扱いながら、なんでもない口調で「最初の人」と云った。あまりに明るく云うので、身が竦んだ。夏蜜柑の妻としての気持ちは判らない。あたしは誰かを、それほどまでに恋したことがない。地球で知っていた男の大半は妻帯者か他にも相手がいた。例え初めはそうでなくとも、会ううちに別の女が現れても、あたしは醒めて、ああそうか、と思うだけだった。それを張り合いがないと云う男さえいた。
 幾人かの少女とは初めからゆきずりだった。
 あたしには他者を独占したいという欲がないのだった。というより、そんな大それたことは考えつかなかった。誰かに人生を捧げさせるのは気が咎めた。そして、あたし自身も煩わしかった。午後になり、夏蜜柑の背がそわそわと伸び始めた頃、ほんの数分、席を外していただけのようなにこやかさで訪ねてくる人を、だからあたしは恨む道理がなかった。
 だのに気持ちがおちつかなかった。
 旦那様が戻ってくると、夏蜜柑はさっきまでの病的な明るさを失い、健康そのものの上機嫌になる。あたしの話し相手の任は解け、一通り挨拶をすると音を立てないように自室へ引き取った。あたしは寂しさも感じていないわけではなかった。ただ、心の有様が以前とは変わっていた。
 ヒメミコがいる。正確には、目に見える何処にもいない。
 上の部屋に寝起きしているのは間違いがなかった。あたしはあのあとも、懲りずにヒメミコを待ち伏せ続けたのだった。日中には、密やかに三階の扉の前へ立ってみることもあった。あたしは異星の茶器の扱いが上手くなり、けれど二つめの碗は空のままだった。三日すると、あの子が同じように夜の中で息をひそめているのが悟られた。避けられていると思うと似つかわしくなく心が(しぼ)んだ。四夜めに扉に張りつくのをやめ、寝台に潜り込んでいると、逃げるような足音が伽藍堂(がらんどう)の部屋に響いた。その晩、あたしは一睡もしなかった。何処かで期待していたのだ。冒険がえりのヒメミコが、あたしの扉を叩いて、何か特別なものを見せてくれるのじゃないか──それから数日経った今でも、あたしはねむられないでいる。躯が耐えきれずに束の間だけおち込む混濁の中でも、やはりあの子のことだけ考えていた。
 これはなんなのだろう。あたしは何に(かつ)えているのだろう。あの髪の色を目のうちに捉えていなくては、じきに決定的なことが起こってしまう気がする。
 はっと振り向く。茶化すようにあたしを呼び直した夏蜜柑は、庭へでてこないかと繰り返して誘った。あたしは柔く笑んで(いな)んだ。次の朝にも、きっとこの子は閉ざされた玄関の内側で立ち尽くすのだろう。
 現金なもので、夏蜜柑は軽く返事をしただけで承知して、舞うように旦那様に手を伸ばす。その恋心を、あたしは目映く思う。

 ねむられずに寝台にいると、死がほんの間近まで寄ってくる。
 あたしはその気配を横向いた背で感じている。地上のすべてが静まり返り、取り残されたあたしはいつよりも現実的になっている。甘い夢は見られない。ただ呼吸をして食事をしなくてはいけない躯だけが残って、それを無力なあたしは持て余している。抱えていたのぞみの途方のなさばかりを思う。
 あたしは宇宙へでたかったのだろうか。
 いつしか問いは形をかえている。あれほど宇宙に焦がれていたのは、裏返せば地球に執着していたということではないのか。こんなものは贅沢な苦悩なのかもしれなかった。二度とかえられない境遇になったからこそ、こんな懐郷的な疑問を思うのかもしれない。
 あたしは地上から逃れたかった。それは血を吐くような、切実な願いだった、はずだった。
 幽鬼が彷徨(さまよ)っている。金雀枝が階段を上ってくる。ヒメミコは朝食を摂らない。ここでは朝夕の二度しか食事をしない。従妹が摂るいちどきりの食事のために、夏蜜柑は夕食の皿に色々な心尽くしを添える。金雀枝(えにしだ)はただ、必ずそれを少女に届けるために、階段を行き来し続ける。
 あたしは自分の呼吸を聞くように金雀枝の気配を数えている。今日は金曜日だから、金雀枝に水飲み鳥をあげなくては。明日は水曜なのだから──あたしはそれを頻りに考えている。そして唐突に我に返って、閉じた覚えもない(まぶた)をひらいた。
 寝台の上へ起き上がった。半分だけ引いた(とばり)の外に、明瞭な線で描かれた室内の様子が見えた。夜の色が薄らいでいる。金雀枝が階段を上がってくる気配がした。
 その意味が悪寒のように背を襲った。あたしは掛布をはねのけ、裸足のまま寝台を下りた。駈け寄った扉がひらくと、目の前に金雀枝はいた。手に盆を支えたまま、頸を巡らせてあたしを見る。ヒメミコはどうしたの、とあたしはせっついて尋ねた。
 でてこない。金雀枝は張り詰めた空気を乱すことなく、短く答えた。
 金雀枝は顔をこちらへ向けて静止している。盆の上の器が、常夜灯の赤黒い明かりに照らされて仄かに見えた。スープは汁気が引いて鉢の内側にぐるりとあとがついている。菜のものは萎びている。喉の奥が苦くなった。硬直していたあたしはよろよろと階段を上がった。階上の扉の前で小さくヒメミコを呼んだ。返事はない。扉に触れ、それから耳を押し当ててみた。血のめぐる音のような、建物を伝わる雑音だけが骨格を震わせ、扉の向こうには果てしない空白が広がっているように思えた。
 二、三歩、蹈鞴(たたら)を踏んだあと、あたしは突然に決心して階段を駈け降りた。ホールを横切り、夏蜜柑の部屋の前へいき、そこで躊躇した。声で呼ぶのと、耳朶を介さない呼びかけをするのと、どちらが不躾(ぶしつけ)でないだろう。今夜も旦那様はここでねむっている。悩んだ挙げ句、上擦りそうになる声で夏蜜柑を呼んだ。一拍を置いて、かわらない調子の返事があった。澄んだ声だ。今ので起こしてしまったのではないように思った。稍して扉がひらき、寝間着姿の夏蜜柑が顔を覗かせた。
【どうしたの?】
 おっとりと微笑む。ねむられないで、遊び相手を求めにきたのだと思ったらしかった。
「あの…」
 云い淀んでいると、部屋の奥から【どうしました】と穏やかな声が聞こえた。寝台のある辺りは正面の窓からの明かりが届かず、闇に沈んでいる。微かに紗の帳の幻のような輪郭だけが見えた。あの人の声はその中から聞こえて、あたしは惹かれて目を向け、すぐに逸らした。
 それで云わなくてはならなくなった。
「──ヒメミコが、いない」
声が焦燥につまずいた。
【ああ…】夏蜜柑は少し哀しげに笑みを見せて、【あの子、夜のあいだに、よくお散歩にいくみたいなの。それで……】あたしは遮った。──夏蜜柑はヒメミコの夜歩きを知っているのだと、しばらく経ってから気づいた。
「金雀枝が、まだ食事を運んでる。ずっと部屋にいなかったのかもしれない。もしかしたら、ゆうべから──」
 夏蜜柑はすっと色を失った。何も云わずに駈けだしていくのを追って一緒に三階の踊り場へ戻ると、そこには金雀枝が立っていた。手には(いた)んだ食事を持ったままだ。夏蜜柑は彼女を一瞥(いちべつ)すると、あたしがやったように扉の中へ声をかけた。反応を窺う数秒が、あたしたちに重くのしかかった。夏蜜柑は返事がないのを確かめると、扉の脇のパネルに手を当てた。あたしがその意味を把握するより先に、永遠にひらかれないように思ったヒメミコの扉が左右に分かれた。
 あたしの思い描いていた世界は、呆気なく目の前に現れた。すぐに見て取れたものは殆どない。部屋の中は真っ暗で、長方形から二人分の影を差し引いただけの光が、頼りなく奥へ伸びていた。そうしてぼんやり照らされた床の上には、脱ぎ捨てられた衣服がおちていた。それが強くヒメミコの「匂い」をさせた。
 夏蜜柑は先程より強くヒメミコを呼ばわり、部屋の中へ入っていった。すぐに姿が闇に紛れた。あたしも室内へ立ち入ると、空気自体は清浄なのに、それとは別の重苦しいものが気管に迫った。部屋の構造は階下とまったく同じようだ。それで夏蜜柑は浴室を確かめにいったのだと判った。あたしは明かりを背に受けて室内を見まわした。寝台の帳は開いている。敷布は波打って、掛布がぞんざいに足下へ押し遣られてある。衣装箪笥があり、机がある。それらの至る所に衣服が引っかけてあったけれど、予想していたような──期待していたような、機械類は見当たらなかった。
 寝台のそばの床に、ゆうべの食事の盆があった。いちばん大きな器の底に、うっすらと液体が残っている。甘橙(オレンジ)に似た果実の皮がその中に入れられていた。あたしは無理に視線を引き剥がして、窓のあるはずの場所を見つめた。目を凝らすと、そこへは広げられた衣服が、どうにかして貼りつけられているようだった。傍へいって手をかけると、さっと光が差して目が痛んだ。日覆いを押し上げると表は随分と明るくなっている。これの遮光性のないのに辟易して、日中に眠るヒメミコは自作の窓掛をつけたのだろうか。窓を覆っていたのは、あたしや夏蜜柑がきているのと同じ、女性用の上着だった。日焼けはしているものの、袖をとおした様子はなかった。
 歪んだ扇状に差し込む朝未(あさまだ)きの光を追って、あたしは視線を室内へ戻した。部屋は急に狭くなったように思えた。と、あたしは衣装箪笥の扉が薄くひらいているのに気づいた。天井まで届く隙間に沿って目を動かすと、床の上に白い何かがはみだしている。それは大きな指に見えた。揃えた中指と人差し指が戸棚の中から覗き、床に指先をつけている。あたしはそのほうへ足を動かそうとした。
【いないわ】
 と、冷え切った空気を貫いて、夏蜜柑の声がした。あたしはびくりとして思わず上着から手を離し、室内はまた薄闇に包まれた。浴室の前に立った夏蜜柑は、全身が濡れそぼっているように見えたけれど、それは彼女の(たたず)まいや声音がそう思わせたのだろう。
【何処にも、いないわ…】
 繰り返して夏蜜柑は云った。あたしは既に恐慌が静まっていて、今は夏蜜柑のほうを危うく思った。誰か、ヒメミコが訪ねていきそうな人や、場所はないのか──それを問うのは初めから無駄だと判っていた。そういう心当たりがあるような表情ではなかった。
 あたしは廃棄場のことを口走りかけた。咄嗟に堪えたのは、それがこの少女を余計に不安がらせるように思われたことと、紛れもない、あたしの我利からだった。
 床の上を影が動いた。振り向くと、扉の外の踊り場に、旦那様が立っていた。降りおちた、かのようだった。旦那様は正面にいるあたしを見ずに、初めから夏蜜柑のほうにだけ目を向けていた。音もなく歩み寄ると、携えてきたブランケットを肩に羽織らせてやり、下になった髪を引きだしてやった。滑らかな手つきで、何か崇高な儀式を見ている気がした。夏蜜柑は旦那様の指が頬を撫でると、それで初めて気がついたように、はっと顔を上げた。旦那様は口許を緩めてみせて、それで少女の傍を離れた。
 大丈夫ですよ、と旦那様は云った。
【あの子はしっかりした子ですし、もし何かがあったのだとしたら知らせがないはずがありません。おちついて。すぐに戻ってきますよ】
 あの人のヒメミコへ向ける信頼は、何か、肉親よりも濃いもののように感ぜられた。あの人は語りかけながら、けれど誰も見ていない。床に斜におとされたまなざしは、判りきったことを説くように醒めていた。あの人はゆっくりと歩んできて、踊り場の明かりのふちで足を止めた。初めてあたしを見ると、【あなたも】と促すように微笑する。あたしは感覚でなくて、記憶で自分の有様を思いだした。寝間着姿で、裸足だ。引き替えあの人は、完全に身仕舞いを済ませている。羞恥を感じるような場面ではなかったけれど、あの人の眸に捉えられたことを悔しく思った。
 そうね、と部屋の奥から、夏蜜柑が振り切るように云った。
【何処かで明るくなるのを待っているのかもしれないものね…。それに、ゆうべは、ご飯を食べる前にでかけたのかも…】
 それでも、やはり従妹の無事を疑っているのだった。それは慈愛というより、束縛に思えた。
 夏蜜柑は強いて明るく、お茶を淹れてくると云って部屋をでていった。金雀枝は相変わらず盆を支えて踊り場に立っていたけれど、夏蜜柑が呼ぶと階下へおりていった。二人きりになった。あたしは先程の白い指を確かめたく思ったけれど、あの人の前ではそれをしたくなかった。夏蜜柑を追う機も逸していた。居たたまれなくて、あたしは何気なくあの人を見た。あの人は同じ場所に(とど)まったまま視線をおとし、何か一心に思案しているように見えた。心がここになかった。と、あたしの注視に気づいて、冷たい色の眸が向いた。
 凍るようなまなざしだった。蹌踉(よろ)めいてから、自分が逃げだそうとしたのだと気づいた。不意に秀麗な口許に笑みが灯り、タイヨウさん、と酔わせるような声が零れた。
【あなたは、何処か、彼女が向かいそうな場所が判りますか】
 核心を突くことなど、何ひとつ問われていなかった。なのに息が止まった。
 そうですか、と旦那様は可笑しそうに呟いた。
【私は少し、表を見てきます。あの子をお願いしますね】
 いつ旦那様が去っていったのか、判らなかった。少しして、茶器の盆を金雀枝に持たせた夏蜜柑が戻ってきた。あたしはそれで、漸く自分の躯を動かすことができた。額に汗が浮いていた。室内を見まわす夏蜜柑に、あたしは旦那様の言葉を伝えた。心が冷え切っていくのが、夏蜜柑の躯を透いて見えた。夏蜜柑はぼんやりと戸口を振り返った。金雀枝がじっと三つの碗を手にして立っている。
 視線を返した夏蜜柑は、嫉妬していた。青白い顔の上に、悋気(りんき)は霧のように漂っていた。あたしはずっと遠くからそれを見つめた。
 今、この子の心を()めているのは、あの人がでていってしまったということでなく、その理由がヒメミコであることなのだ。夏蜜柑は頭を振った。従妹を心配する心と、恨めしく思う感情と、その両方が少女の中に隣り合ってあった。
 旦那様は戻らなかった。

 あたしは自分の足音が、歩く速度にぴたりと合って鳴るのを不思議に思っている。冷たい空気が指先の痛みを奪ってくれていた。三十六区から三十七区へ──その境界には標識一つないけれど、漠然とした認識で渡ると、足を止め、背後を振り返った。
 朝霧に霞んで、遥かにアンテナ塔が見えている。それにはなんの意味もなかった。
 短い異星の一日が過ぎた。ヒメミコはかえらない。あの子とは耳朶を介さない遣り取りができないのか、夏蜜柑に問うても、少女は泣きだしそうな顔で頸を振った。途切れているの、と夏蜜柑は云った。
「どういう意味…?」
 夏蜜柑は口を引き結んだままだった。
 五時間が過ぎ、十一時間が過ぎた。そのあいだ、あたしたちは代わる代わる表へでた。夏蜜柑がどうしているのかは判らない。あたしは相変わらず人気のない通りに立ち尽くし、そうして姿を現していれば、それがヒメミコの帰る(よすが)になるような気がして、いつまでも動かないでいた。ヒメミコのいない一日は晴れ渡った日だった。仰向くと、硝子の架線が冷たい青空に透けて綺麗だった。気が抜けるくらい頼るものがなかった。
 十九時間が過ぎた。夏蜜柑が食卓に俯してねむってしまうと、あたしはブランケットをきせかけてやり、下の玄関をでた。欠けた月が架線の明かりに遮られて、薄っぺらく天に懸かっていた。歩いていく途中で森精(アルセイド)と擦れ違ったけれど、構いはしなかった──随分と足を進めてから、彼女たちに「ヒメミコは何処」と尋ねてみることを思いついた。振り見ると、白い人影は追いかけるのが大儀に思われるほど、既に遠く離れていた。
 気休めみたいなものだった。彼女たちが知っているのなら、金雀枝が知っている。金雀枝は何も知らなかった。女性型學天則(ガイノイド)であるアルセイドが虚偽の返答をするのかどうか、地球でないここでは判断ができない。ただ、彼女は食事を運び続けていた。あたしがそれを云うと、夏蜜柑も詰問をよした。
 疑心を隠していたのはあたしのほうだった。そうでなくとも、あれ以後に何か情報を得ているかもしれない。次に出会ったら必ず問おうと、そう思っているうちに三十六区についた。あたしは記憶を頼りに十字路を数えていった。
 遠い──ほんの数日前の夜、異境に落ちた三十六区の十字路は、やはりなんの変哲もなかった。あたしは敷石の一枚を見下ろして、そこに打ち込まれた杭になった。やがて(ひざまづ)いた。あたしはひどく迷信に憑かれていて、(いしだたみ)に手を触れる瞬間の、自分の心持ちが廃棄場への道をひらきも閉ざしもすると半ばしんじていた。息を詰めて地面に手を置いた。じっと身構えた。何も起こらなかった。
 仕組みの判らない事柄を不可能だと思いきるのは難しかった。諦めがたくその辺りを探り、敷石の隙間に爪をかけてみても、なんの変化もなく手掛かりもなかった。白い石に褐色の筋がついて、初めて自分の手を返した。指先が破れて血が滲んでいた。かじかんだ皮膚では痛みもなく、見る間に膨らんでいく雫が嘘のようだった。あたしの躯が生きている代わり、世界のすべてが死んでいた。ここを自分が通り抜けたことも、一緒に帰路を辿った少女の存在さえ、幻だったのかもしれないと思った。
 ──三十七区の境界で、あたしはぼんやりと彼方の影を目に映している。あすこにヒメミコがいる可能性は、この世の何処にもいない可能性とどれだけ違うのか。ヒメミコはもう、かえらないかもしれないと、あたしは胸の(うち)で納得し始めていた。
 酔ったように街路を歩いていくと、行く手の角を折れてきたアルセイドと鉢合わせた。彼女は離れた位置で足を止め、じっとあたしを見た。前にもこういうことがあった。アンテナ塔を降りたあと、ヒメミコと壁の迫った路地を歩いていたときだ。あたしは奇妙な力に衝かれて、あの子は何処、と口走った。相手が人間ならば聞き取られないほどの声と距離だった。アルセイドは一拍を置いて、片手をゆっくりと上げた。指し示されたのはあたしの心臓だった。あたしははっとして身を(ひるがえ)した。指の差す先は彼方に霞むアンテナ塔だった。或いは、黒ずむほど冴えた空の一点だった。
 振り向くと、既にアルセイドは背を向けていた。
 玄関を入るとすぐ、夏蜜柑がぶつかってきた。
【あなたまで…いなくなってしまったんだと思って…】
 髪は乱れたまま、肩にはあたしがかけてやっておいたブランケットを羽織り、涙ぐみ、頬は上気して、鼻先も赤い。きっと、旦那様が見たならば可愛らしいと思うだろうなと、そんな取り留めもない感慨が浮かんだ。
「何処にもいかないよ…」
 あたしは自制を破って自然に表情が(ゆる)み、そう囁いた。世界に夏蜜柑と二人で生きている気がした。あたしたちは同じ姿のないものに焦がれていた。
 今は、ヒメミコの消失など考えられなかった。

 乾いた指先の傷を(もてあそ)んでいる。食卓を挟んで、夏蜜柑がうとうとと頭を揺らしている。
 静かだった。硝子戸から差し入る日差しは琥珀ようの煌めきをして、温度よりもその色で食堂をぬくめている。時折、何かの機械が立てる、海を昇る(あぶく)のような音が耳についた。
 食堂の隅には金雀枝がいて、じっとあたしたちの指示を待っている。あたしは(いとけな)く傷口の痛痒(いたがゆ)さを確かめながら、なんとはなく彼女の姿を目の端に捉えていた。どれだけ経ってか、ふと金雀枝が顔を動かしたのを感じた。見遣ると、彼女はじっと閉ざされた扉を注視している。誰かに呼ばれたような格好だったが、あたしにはそうした声は聞こえなかった。
 金雀枝はそのまま食堂をでていった。あたしは直感して立ち上がった。その動作が唐突だったので、椅子の脚が床を(こす)った。夏蜜柑がびくりと顔を上げ、有耶無耶な声で【どうしたの】と尋ねたけれど、あたしは説明もせずに金雀枝を追った。
 ホールにでると、金雀枝はもう下の玄関の前に到っていた。彼女が屋外へでようとするのを、初めて見た。庭へ下りることはあっても、彼女は決して夏蜜柑の住居の範囲から外へいくことはなかったのだ。金雀枝は敷居の手前で足を止め、屋内(やない)の部屋に入るときのように静止した。一拍を置いて、玄関の扉が独りでにひらいた。金雀枝は降りおちる陽光の中へ身を進めた。
 呆然と立っていたあたしは、危うく閉まりかけた扉を滑りでた。金雀枝は住宅の前の街路を遠ざかろうとしている。彼女の向かう先を見晴るかしたあたしは、白い家並みの先に、見間違えようのない鮮やかな一点を認めた。あたしは居竦み、次のときには駈けだしていた。金雀枝を追い抜き、ブロックの果てほどまでいくと、立ち止まった少女の表情がはっきりと見えた。ヒメミコはとまどい、そして傷ついた顔をしていた。
 覚えず頬が弛んだあたしは──すぐに異変に気づいた。親しんだヒメミコの身なりの中に、見覚えのない異質のものが加えられていた。少女の露わな左膝に布が巻きつけられ、その幅いっぱいにまで赤黒い染みが広がっている。
「ヒメミコ…」
 あたしが呟くと、その意味は判らないはずだのに、ヒメミコの面持ちに刺々しい色が差した。
 少女はこちらへ歩いてくる。歩き方がぎこちないのに、漸く気づいた。ヒメミコはあたしに近づき、目もくれずに擦れ違った。咄嗟に二の腕に手をかけた。荒々しく振り払われ、くぐもった呻き声が聞こえた。ヒメミコは泥の匂いがして、擦りきれた上着のそちこちにも黒ずんだ血の痕が散っていた。待って、どうしたの、浅慮に(さえず)りながら、躯にしがみつくと、ヒメミコは暴れた。もみ合うあたしたちの前に、白い衣装の裾が止まった。金雀枝だった。金雀枝は貼りついた顔つきで身を屈め、ヒメミコに腕を差し伸べた。
 あたしが見たのは、怯えきって目を見ひらき、金雀枝を見上げるヒメミコの姿だった。叫びながら夏蜜柑が駈けつけてきた。従姉の声を聞くと、ヒメミコは恐怖も憤りも失い、ただ無言の抵抗だけを湛えて項垂れた。あたしと夏蜜柑はヒメミコを両側から支え、どうにかホールまで運び込んだ。階段の上がり口に座らせると、逆上(のぼ)せきってしまっている夏蜜柑を置いて膝の布を剥がした。ヒメミコの膝関節の側面から(ふく)(はぎ)にかけて、肉が覗いて見えるほど深い裂傷が走っていた。巻きつけられていた布は──衣服を裂いたもののようだったけれど、重みを感じるくらい血を吸っているというのに、まだ傷口は乾きやらず、見る間に滲んで白い肌に筋を垂らした。
 あたしは二度、三度と夏蜜柑を呼ばわり、何か縛るものがないかと問うた。夏蜜柑は自分の寝室へ駈け込んでいった。ヒメミコが身動(みじろ)ぎをした。患部を押さえながら、振り仰ぐと、ヒメミコは顔を背け、屈辱に震えて目を潤ませていた。
 夏蜜柑が持ってきた浴布を裂いて止血をし、血を拭うと、改めて傷の甚大さが知れた。病院へ連れていこうとあたしは云った。夏蜜柑は黙っていた。重ねて云い募ったとき、転がるようにヒメミコが立ち上がった。驚いて引き留めたものの、ヒメミコは無理強いに階段を上がっていこうとした。とても膝を曲げられる状態ではなかった。その上、止血帯のために脚が上手く動かせない。一歩々々、階段の一段一段ごとに赤い雨滴(うてき)が散った。あたしは上擦った声で少女を制し、てすりに縋る手を押さえようとした。ヒメミコはあたしの声など、姿など存在しないかのように身を強張らせ、数段先の一点のみを見つめている。あたしはいつしか、引き留める声が萎えていた。喉を詰まらせていたのは、涙なのかもしれなかった。殴りつけられたみたいに指先まで冷え切り、頬だけが熱かった。あたしは動けなくなり、尚もヒメミコがあたしたちから遠ざかっていこうとすると、追い縋って少女の腕を自分の肩にまわした。
 ヒメミコは焦点のぼやけた目であたしを見た。あたしは力を込めて彼女の躯を引き上げた。けれど平衡(へいこう)を失い、彼女を倒さないように身を捻ったので、あたしは肘や腹を強か段の角に打ちつけた。夏蜜柑がまろび寄ってきた。そうしてあたしたちは(もつ)れ合いながら、ヒメミコを彼女の自室へ連れて上がった。
 寝台に仰向きに倒れ、ヒメミコは荒く熱い息を吐きだした。鞄が肩から外れて滑りおち、床で痛々しい音を立てた。薄暗い部屋には手製の窓掛の隙間から細い光が寝台に向かって差している。ヒメミコは倒れたまま躯を動かして自分で上着を脱ぎ捨て、そうしながらあたしたちにでていけと云った。寝台まわりのものを片付けていた夏蜜柑は泣き顔で押し黙っていた。あたしも何も応えなかった。初めから答えが対立すると判っているのに、敢えて口にすることなどできない。ヒメミコはあたしたちの反応を見定めると、唐突に怒鳴った。夏蜜柑は身を竦ませた。そして立ち上がると部屋を走りでていった。すべての線があたしに集まったのが判った。お前も、でていけよと、ヒメミコは切れ切れに云った。あたしは頸を振った。繰り返したヒメミコの声は泣いていた。拒絶したあたしも胸の裡が乱れて意味のない声が零れた。同じ遣り取りを際限なく繰り返した。あたしもヒメミコも、意思をかえることはなかった。やがて、ヒメミコの言葉が途絶えた。あたしは、はっとして寝台に取りついたけれど、ヒメミコは天井と壁の隅を見て、静かに息を継いでいた。もう何も云わなかった。あたしの意地が勝った。あたしはヒメミコに堪え難い仕打ちをしたのだと思った。
 決して誰の手も欲しくはないのだと、それを最も判っているはずのあたしがヒメミコの意思を踏みにじった。あたしは少女の孤独を尊重するより、自分の欲望を取ったのだ。周囲に張り巡らせたあまりに完成された壁を引き裂いた。あたしはその痛みを知っていて尚ヒメミコの中に入りたかった。
 目を逸らしたヒメミコのかたわらで、あたしは微かな嗚咽(おえつ)を咬み殺した。

#12

 傷口を冷やし、幾度か止血帯を緩めているうちに、漸く出血が治まってきた。ヒメミコが弱々しい寝息を立て始めたのを見て、あたしは立ち上がった。
 患部のある左脚は畳んだ浴布の上へ乗せている。新しく巻いてやった布も──同じく浴布を裂いただけの代物も、既に大部分が赤黒く染まっていた。掛布を傷に触れないように直してやり、あたしは目を少女の足先へ向ける。
 靴を脱がせてやったとき、あたしはヒメミコの両の足先に火傷の痕があることを知った。それは足指に始まり甲を(まだら)(おか)して足頸にまで達している。あたしが素早く目を逸らしたのには気づいただろうに、ヒメミコは何も云わなかった。何よりの拒絶だった。
 少女の部屋をでると、普段は仄暗く感じる吹き抜けの空間が眩しい。改めて自分の有様を見た。白いワンピースドレスは奇抜な意匠に彩られている。まるで、こうして血の色を()えさせるために真っ白な衣服をきているのかとさえ思えた。目を動かすと、階段の下によく似た身なりの人影が立って、こちらを見上げている。あたしは雲を踏むような気分でホールへ下りた。
「──夏蜜柑」
 こちらから口をきった。夏蜜柑は胸の前で手を重ね合わせ、みんな判っているというふうにあたしを見つめた。
【駄目なの…】夏蜜柑は云った。【あの子を、病院へは連れていけないの…】
「どうして」
 答えはなかった。夏蜜柑は痛みを堪えるように、深く息を吸い込んだ。あたしは非情に思いながらも、焦燥の入り交じった苛立ちを感じて、
「なら、消毒薬とか包帯とか、そういうものはないの」
 不手際を責めるようなことを口にした。部屋を駈けだしていったきり、それらはおろか応急処置に使えるようなものさえ、夏蜜柑は持ってはこなかったのだ。あたしは云い立てながら、ぼんやり自分の変心ぶりを嫌悪した。夏蜜柑は小さく唇を動かした。何事かを云いかねるように目を(みは)っている。見覚えのある反応だった。すっと体温が下がった。
「……ねえ、あんたたちも、怪我や病気をするんでしょう…?」
【ええ…】
「じゃあ、そのときはどうするの」
【病院へ、いくわ…】
「いかないときは」
【………】
「自分で手当てをすることはないの?」
【できないわ、そんなこと…】
「でも、薬とか何か──」
 ごめんなさい、と夏蜜柑は頸を左右に振った。【あなたの云っていること…判らないわ…】
 時間が重く流れた。
 何処かで当然かもしれないと思っている自分がいた。科学技術を空気のように呼吸するのと同じく、自分の生のことすら、この星の人々には支配しようという欲がないのかもしれない。
 やがて夏蜜柑は顔を上げると、意を決した眸で口をひらいた。
【あの子は、途切れているの】
 以前にも聞かされたことだった。辿々(たどたど)しく問おうとすると、夏蜜柑は右手をゆっくりとこちらへ差し伸べた。視線はあたしを捉えている。上向けられた手のひらから、人差し指だけが他の指と離れてひらかれ、ぽつんと虚空に触れていた。
【駄目なの、……あの子は、途切れているの。誰とも挨拶ができないの。だから、声にださないお話もできないし、病院にも、あちらのどんなところにも入られないの。服も、靴も、何も届けられないし、食べるものだって、あの子の分はないの…】
 夏蜜柑は末尾には声を震わせ、云い終わると顔を覆った。
 現実が太陽をのんだ。それはあまりにつまらなくて、あまりに絶対的なことだった。あの少女はコミュニケート手段を持たない。公共の施設を利用できない。生活用品が手に入らない。食べるものがない。たかがそんなこと、あの子の輝きを微塵も翳らせはしないのに、けれどヒメミコは、ものを食べなくては生きていられない。
 夏蜜柑は途切れ途切れに、衣服や身のまわりのものは自分の分を与えていたこと、食事は少ない食材を工面して用意していたことを云った。あたしは脳まで生ぬるい水に(ひた)されながら、いつから、と要領を得ない問いを発した。
【あの、あれを生き返らせたときから…】夏蜜柑は聞き返しもせずに答えた。【あれと同じ日からなの…】
 その云いようは奇妙に聞こえた。夏蜜柑はヒメミコが森精(アルセイド)を蘇らせたことと、この星の機構から切り離されたこととは別の問題だと思っている。あたしには、それらを分けて考えることは不可能だった。
【もう、ずうっと前、あの子と二人で、ママのおうちのそばを歩いていたら、あれが死んでいて、……あたしはやめなさいって云ったのに、あの子はあれの躯に触ったの。生き返ったあれが歩いていってしまってから、ママのおうちに帰ったら、伯母さんがあの子を叱って、何度も声にださないお話で呼んだのに、返事をしなかったって云って叱って…】
「それきり…?」
【………】
「直す方法は、ないの」
 問うと、あるわ、と意外にも夏蜜柑は答えた。
「じゃあそれを──」
【だから、あの子はこのおうちにいるの】
 あたしたちの声はぶつかり合った。夏蜜柑はしようがないというふうに笑みを浮かべ、口を(つぐ)んだあたしを潤んだ眸で見つめると、静かに続けた。
【あの子はね、もうすぐあの人と結婚するの】
「──え」
【そうしたら治るの。だから、あの人と結婚するの…】
 絡まった鉄屑を頭の中に押し込まれたみたいだった。云われたことの意味を呑み込めないでいるのに、胸の裡が急激に冷え切り(から)になった。
「そんな、封建的な…」あたしはやがて、下らないことを云った。
【ホウケンテキ…?】
 夏蜜柑は虚ろに鸚鵡(おうむ)返しをしたが、その意味など知りたいわけじゃない。まるで反対に、あたしを宥めるように、柔らかな声で続けた。
【小さい頃は、どうして途切れてしまったのか判らなかったから、いつか自然に治るんじゃないかって思っていたの…。でも、治らなかった。途切れている人は、他のことはみんな、みんなと一緒なのに、本当に少しだけいるの。そういう人たちは、途切れていない人と結婚すると治るの。だから、あの人に結婚してもらうように決めたの。伯母さんも、あの子のパパも、ママも、パパも、……あたしも。あの人も、それを受け入れてくれたの】
 だから、結婚するの。自分の感情を封ずる呪文のように、また繰り返して夏蜜柑は云った。
 これが姉妹を(さいな)んでいた苦悩の正体なのだった。ヒメミコが云った言葉が思いだされた。心配されなくてはならないのは夏蜜柑のほうだと──あの子は自分の近い将来のことを、みんな承知していたのだ。
 あの男、とあの人を呼ぶ棘のある声が耳の中で騒いでいる。夏蜜柑は(おり)をいっときに吐きだしてしまい、虚脱したように何もない床の上を見ている。あの人からはなんの音沙汰もない。
 あたしは他者だった。

 薔薇色の髪が指に絡みつく。汗ばんだ額を拭ってやりながら、あたしはねむり続けるヒメミコの顔を覗き込む。頬は赤みの差した土色をしている。閉ざされた(まつげ)は汗で乱れ、口を薄くひらいている。顔の横に軽くにぎった左手を置いている。ヒメミコの躯は腰を中心に左に(かし)いでいる。苦痛を少しでも軽くするために、自然と取った姿勢なのだ。左脚は山なりに折り曲げ枕をあてて支えている。出血は止まった。その代わり、ヒメミコの膝は一晩で虫瘤(むしこぶ)のように腫れ上がった。
 傷口が化膿している。けれど満足に処置する術がない。痛み止めも抗生物質もない。ヒメミコは熱に(うな)され、身を(よじ)るたびに呻き声を上げた。患部が関節にあるので、少しの動作でも神経が圧迫されるのだ。氷で冷やし、また頻々(ひんぴん)に熱湯で絞った布で傷口を清めたけれど、腫れはひくどころかますます膿み膨れ上がった。それはまるで少女の躯の一部ではないようだった。人の頭ほどにもなり、手を近寄せただけで熱が伝わった。
 初めは石のように硬かった腫れ物は、二日のうちに触れれば弾けそうに熟れ、更に肥大した。痛みも増しているようだった。皮膚の薄いところでは、中で膿がぞろぞろと動くのが見えたけれど、自然にできた小さな傷を拭っても少し透明な体液が付くだけだった。熱も下がらない。何よりも、ヒメミコの体力が()つか知れなかった。打ち倒れながら、けれどヒメミコは矜持を捨てない。起き伏しに手を貸すあたしを、まるで風か何かのように扱った。たまたま腕を取り、背に絡みつくだけだ。殆ど何も口にしないのも、衰弱の所為というより、あたしという存在を認めないためのような気さえした。
 あたしは一日の殆どすべてをヒメミコのかたわらで過ごした。夏蜜柑も(しき)りに水や果物を運んできたり、汚れものを抱えていったりしたけれど、従妹の状態を見るに堪えずに長く部屋に留まっていることはなかった。気づいているときには、ヒメミコは夏蜜柑にあからさまな敵意を向けた。熱に憑かれた、羞恥と絶望が入り交じった目だ。あまりに近すぎる相手だからかもしれない。それで、あたしも夏蜜柑を極力招かず、引き留めたりもしなかった。
 一度、夏蜜柑に続いて敷布を抱えた金雀枝が入ってきたことがあった。ヒメミコは言葉にならない声を零し、寝台の上を後退って逃げようとした。あたしは少女を押さえ、強い口調で金雀枝に部屋をでるように命じた。
 金雀枝は顔色一つ動かさず、淡々と(きびす)を返して階下へ去っていった。夏蜜柑は唖然として立ち尽くしていたが、食堂へ下りたあたしをつかまえて問うた。ヒメミコは金雀枝を、というよりアルセイドをおそれている。これほど怯えるようになったのは失踪以来のことだ。膝の傷と関係があるのかもしれない。乱暴に考えれば、あの怪我を負わせたのはアルセイドなのかもしれない。けれど、あたしはそう云われなかった。三原則の亡霊がまだあたしの頭には棲みついていた。ただ、ヒメミコがおちつくまで金雀枝は近づけないようにと、夏蜜柑には云った。夏蜜柑は理由を聞かずに頷いた。この子も疲れ果てていたのだ。
 窓に吊された上着を(くく)って上げ、日覆いは下ろしたままで、荒れた部屋には白々しい光が入っている。あたしは椅子にかけて少女の枕辺へ侍っている。ヒメミコの渇いた口を熱い息が削る音だけ聞こえている。不意に呼吸が途切れるたびに、あたしは乗りだした身を更に覆いかぶさるようにして、少女の頬に触れる。そうすると息が戻るのが、あたしのヒメミコへの感情を募らせていた。あたしはやがて椅子を立ち、少女の部屋をでた。
 階段を下りながら夏蜜柑を呼んだけれど、返事はなかった。寝室を覗いても(から)で、食堂もがらんとしていた。あたしの心は、あまりそのことには頓着しなかった。ふと硝子戸の外を見ると、金雀枝が庭の植木鉢のあいだを動いていた。うららかな日差しがそのたおやかな肩や背に降り注いでいる。長閑(のどか)な光景だった。あたしは夢見るような足取りで食堂の奥の調理場へ入った。空間自体が狭くて、壁一面の保存庫と調理台に挟まれて、人ひとり分の幅しか残されていない。何処もかしこも広々としたこの星の住宅では異質な場所だ。家事は完全にアルセイドが負っている。その表れかもしれない。
 夏蜜柑もあたしも滅多に入ったことはない。以前、夏蜜柑が階上の従妹のために果物を切り分けたりするのについていて、物の場所だけは見当がついた。湯を琺瑯(ほうろう)の器に入れて、更に器具で加熱しながら、あたしはじっと調理台に凭りかかっていた。躯の芯に苦しいような焦りがあった。耳を澄ませて、今は夏蜜柑がかえってくるのをおそれていた。
 煮え立たせた小刀を同じように熱湯に晒した盆に載せ、調理場をでると硝子戸の前に金雀枝が立っていた。金雀枝は無言であたしを見る。あたしも何も云わずに、ヒメミコの部屋に戻った。扉を入ると熱で濁った藍銅(アズライト)色の眸が迎えた。ヒメミコはそばへ寄る前から、あたしの携えてきたものを理解しているようだった。だのに身動ぎもしない。頬を左の肩につけ、息を継ぎながらあたしに視線を留めていた。あたしは椅子を押し遣り、彼女の間近に(ひざまづ)いた。言葉が見つからなかった。断らずに掛布を腹の上まで折り、患部を露わにしていると、掠れた熱い声が耳を衝いた。
【なあ…宇宙人、あんたがくれた機械…なくしてしまった…。さがしたけど、見つからなかった。……悪いな…】
 あたしは指先まで痺れ、(くすぶ)っていた恐怖心が掻き消えた。振り見たヒメミコは別人に思えるほど覇気のない顔つきで、口を薄くひらいたまま、あたしを見つめ続けていた。これが死相というのだろうか。遺言すら手渡して、もう少女には何も残っていない。あたしは口許を笑わせた。この子を虚無から引き戻すのだ。
 盆から小刀を取り、膨れ上がった少女の膝に切っ先を当てた。ぶよぶよとした腫れ物は尖端を呑むように窪み、突然に音を立てて破れた。弾け飛んだ雫があたしの頬にまで届いて伝わる。ヒメミコはくぐもった声を立てたきり、全身を強張らせて手足を動かすことすらしなかった。あたしは震える手で少女の肌を数センチ切り開き、小刀を手放して腫れ物の周囲を押さえた。肉色をした膿は止めどなく溢れてあたしの指も汚した。少女の体温とかわらない熱さで、鼻を衝く匂いが広がった。あたしは膿を吐きだす傷口から、ヒメミコの顔へ視線を移した。ヒメミコも傷口を見ていた。というよりも、自分の膿で汚れるあたしの手を見ていた。瞬きもせず、子供のような無心さだった。膿を介してあたしたちは繋がっているのだと思った。
 やがて切開部からは澄んだ血が流れ初め、あたしは傷口を拭うと新しい布を巻いてやった。あてていた枕の上の膿の溜まった浴布を取り払うと、ヒメミコはそろそろと膝を伸ばした。この数日、腫れ物の圧迫のために叶わなかったことだ。膝の裏が枕に沈み込むと、ヒメミコは深く息をついた。汗ばんだ顔は、もう早、少し快方をみせているようだった。少なくとも痛みはましになったはずだ。伏せがちの目許を見つめていると、不意にまなざしがこちらを向き、そしてヒメミコは受け入れるように(まぶた)を閉じた。

 数時間して、上の玄関で物音がした。立っていくと夏蜜柑が階段を下りてくるところだった。歩みが一歩々々ばらばらだった。ようよう三階の踊り場まで下りてくると、視線を吹き抜けの中空に彷徨わせたまま、あの子は、と夏蜜柑は尋ねた。ねむっていると答えると、ゆめうつつに頷いた。
【あの人の、最初の人のところへいったの…】
「え」
【あの人と、会えるんじゃないかと思って──】
 旦那様は去っていったきり姿を見せない。夏蜜柑は勿論、あたしも折々に呼びかけてみたけれど、なんの返事もなかった。夏蜜柑があの人を捜しているのは、ただ心細さのためだけじゃない。ヒメミコとあの人が今すぐに結婚すれば途切れた糸が結ばれ、あの子を病院へ連れていけると思っている。
「それで…?」
 夏蜜柑はぼやぼやと頸を振った。【いなかった…】
 異星の少女の放心ぶりは、単にあの人の第一夫人に対面したからというわけではないようだった。あぶなっかしい足取りでホールへ下りていくので、あたしも続いた。寝室に入り、鞄や上着を寝台の上へ投げだしながら、
【あのね…、あの人の最初の人に会ったのは、初めてだったの。おうちが十六区にあるっていうことしか知らなくて、それも沢山迷って、見つけて……】
 夏蜜柑は膝が抜けたみたいに寝台に座り込んだ。
【ねえ、あたし、あの人が好きよ】
 振り仰がれた顔は真剣そのものだった。あたしは答えようがなかった。
【やっぱり、どうしても、あの人が好きなの…】
 夏蜜柑は云うとそれきり黙って顔を背け、脱いだ上着を引き寄せて膝の上で釦を留め始めた。そうだね、と稍してあたしは云った。夏蜜柑はそっぽを向いたまま、小さく頷いたように見えた。

 ヒメミコは小康(しょうこう)に向かったようだった。熱も少し治まり、なにより躯を自由に動かせるようになったので、その安堵感が大きく気持ちを(なだ)めているらしかった。あたしは相変わらずかたわらに侍っていたが、やはり待遇は元のままだった。ただ、今はそれを見放されているとは感じなかった。
 患部を切開したことを話すと、夏蜜柑は怯えたように肩を竦め、けれど口許を(ゆる)ませて、それで治るのね、とせっついた。あたしは期待に輝いた眸を見返すことができなかった。小康状態が続けばいい。けれど薬や器具がない状況は変わらない。再び傷が膿むかもしれない。元のように高熱をだせば、衰弱したヒメミコに堪えきられるか判らない。
 あたしは曖昧な返事をした。夏蜜柑はしんじた。しんじたということをしんじたのかもしれない。
 ──懐かしい声を聞いた、と思った。
 あたしは躯を起こした。ヒメミコの寝台のふちに俯して、いつしかねむってしまっていたのだった。すぐに少女の顔を覗き込んだ。ヒメミコは弱々しいが規則正しい寝息を立てている。
 室内は既に仄明るい。枕辺につくようになってから、時刻というものは殆ど意味がなくなった。部屋の隅で灯しておいた照明器具を消しに立った。その場所から振り返ると、括られた上着の垂れ下がった円窓は白々しく眩しい。あたしはしばし、立ち(ほう)けた。椅子に戻ろうとすると、自分が誰かの声に起こされたことを、不意に思いだした。
 室内を見まわした。正体なくねむっている少女と──乱れた部屋の様子、寝台の下に置かれた手つかず同様の盆、半分ほど減った水差し、琺瑯(ほうろう)の器、(から)の椅子、そして寝台を挟んで、ひらいたままの衣装箪笥の折戸から、指が覗いている。大きな白い指は、元見たまま、随分と目に馴染んでそこにある。あたしにはいくらでもあれを確かめる機会があった。けれどしないできた。あれはヒメミコ自身だからだ。
 気のせいだろうかと思った。睡眠といえるほどのねむりは気の遠くなるほど昔にしか取った記憶がない。現実と虚妄の境はとても薄くて、簡単に踏み越えることも、向こうから何かが訪ねてくることも少しも不可思議ではなかった。あたしは他愛なく納得して、ふらふらと定位置に戻ろうとした。
 はっきりと頭の中に声が響いた。
〈タイヨウさん〉
 足が止まった。──どうしてか、その声の主が誰なのか、あたしは思いだせなかった。
〈起きていますか〉
 耳許よりも近くで、囁かれるより親密な声だ。うん、とあたしは声にだして答えた。
〈あなたにお願いしたいことがあるんです。庭へ下りられますか〉
 判った、でも、あの子の輪奈布(タオル)を替えてあげないと。
 あたしは云いながら、ヒメミコに近づいて額の布を琺瑯の器に(ひた)して絞った。声の人は何も云わずに待っていた。地球の品の名を口にしたことなど、あたしは気にも留めていなかった。あたしは(いとけな)(うろ)になって、それを空の意識の中から冷静に見つめる別のあたしがいた。理性は傍観者のあたしにあり、感情は虚のあたしにあった。あたしは心から安らいでいた。
 云われたとおりに部屋をでると、階段を下りた。気をつけて、と声の人は云った。あたしは姿のない人が話しかけてくれるのを幸福に思っている。すぐに次の言葉が欲しくなった。こっち、と上がり口でわざと尋ねると、そうですよ、と柔らかく返る。あたしは食堂に入った。
 硝子戸からテラスへ下りた。途端に爪の先まで凍えた。声の人は何も云ってはくれなかった。伏せた顔を上げると、この星から見える最も大きな恒星が裏の住宅の裾に懸かっていた。冷え切った朝の空気の匂いがした。そして無数の草木の目覚める気配が辺りに揺蕩(たゆた)っている。
金雀枝(エニシダ)の木の向こうへ〉
 声に導かれてあたしは植木鉢を()っていく。なんとはなく、あたしの背後に声の人はいて、それで指示をしてくれているように思った。絶対の安堵だった。
〈白い花の咲いた鉢です。判りますか〉
 あたしは見渡し、見当たらないと答えた。(やや)間が開いたのを不安に思う。足音がして、振り返ると金雀枝(えにしだ)だった。金雀枝はじっとこちらを見ている。
〈──その、紫蘭(しらん)に似た花の陰になっているようです〉
 あたしの右手に確かに紫色の花穂(かすい)をつけた鉢があった。どんな不可解なこともあたしの心には残らなかった。紫蘭の鉢をどかすと、本当にそこには一輪だけ花のひらいた小さな鉢があった。尖った花びらは蝉の羽のようで、水晶細工のような頭花が厚い葉の狭間(はざま)に乗っている。
〈その花の成分には殺菌作用があるんです。あの子はそうと知らずに育てていたようですが。それを煎じて使えば、少しはましのはずです〉
 あたしは膝を折り、朝露に湿った葉に触れた。葉先が細かに分かれて緑が色濃い。地球の薬草に似ている。と、花ですよ、と見えざる人の声が摘み取ろうとする手をとどめた。
 花?
 思わず聞き返した。しっくりしないことだった。
〈ええ、効果があるのは花のほうなんです。奇妙なようですが〉
 その人の表情や息遣いは判らないはずだのに、小さく笑ったのが躯の中に伝わった。
〈ですから、間に合ってよかった〉
 あたしは鉢ごと蝉翅花(せんしか)を手にして立ち上がった。真新しい朝日に(かざ)すと、葉の()()にまだ固く結ぼれた蕾が幾つもあった。この一輪は今朝ひらいたばかりなのだ。
〈──タイヨウさん、どうか、あの子たちをお願いしますね〉
 ふっときせかけられていたものがなくなった感覚がして、それきり声は聞こえなくなった。あたしは周囲を見回した。意味などないと判っているのに、去っていった人の後ろ姿が何処かに見えるのではないかと、後追いをする気持ちになっていた。
 金雀枝が淡々と、(きびす)を返してテラスのほうへ戻っていった。
 夏蜜柑は白い花を摘んだ。そうしてから、
【どうして判ったの?】
 と尋ねた。起きだしてきたばかりで、髪は簡単に一つに括り、血色の悪い顔をしている。のっぺりと見つめられて、あたしは隠し立てもできずに、あの人から教えられたのだと正直に答えた。今は声の主が誰だったのか、疑う余地もなく認識していた。
 夏蜜柑は唇をひらき、けれどそのときには何も云わなかった。誤魔化すみたいに花びらの先に指を押し当て、これをどうすればいいのと尋ねた。あたしは器に湯を入れて、それから花を沈めて指示された通りに煎じた。熱が加わると、白濁していた花弁はまっさらに透き(とお)り、繊維ばかりが金色に残った。湯は薄緑色をしている。なんとも云えない濃い匂いがして、根拠もなく頼もしく思えた。
 煮だした薬湯(やくとう)で傷口を拭い、布を切って湿布をした。ヒメミコは頸を曲げて興味深そうに見ていた。あたしは誰の助言でしていることなのかは話さなかった。けれど、背後に立っていた夏蜜柑が不意に、【あの人が教えてくれたのよ】と上擦った大きな声で云った。
 あたしは布を巻いてやっていた手が止まった。振り見た夏蜜柑の表情は病んだ朗らかさをして、瞬きをしない目は真っ直ぐにこちらを見ていた。ヒメミコはむずがるように脚を動かした。そう、と呟いて薔薇色の髪の少女は頭を別の側に転じた。
 残りの布を巻いて端を結んだ。椅子を立つと、夏蜜柑は俯いて両手を握り締めていた。歩み寄った耳に微かに、ごめんなさいと云う声が聞こえた。いいよ、とあたしは(なだ)めながら、少女と一緒に部屋を出た。
 食堂へ下りると、夏蜜柑は今度は本当の笑みを浮かべて、疲れているみたい、と哀しく云った。そうだね、とあたしも薄く口許を弛めた。──夏蜜柑が本当に攻撃したかったのは、あたしだったのじゃないのか。あたしは弁解する代わりに、どうしてあの人が好きなのか、少女に問いたく思った。手のひらにまだ、躯を伝う声の感覚が残っている。それを忘れがたく思うのは、あの人でなく、あの人を通して垣間見た、現実にはいない人が恋しいからだ。不在の父親を求める心と、男を恋する思いの違いを、あたしは説明することができない。

 少しでも多く早く花を咲かせるために、夏蜜柑は蝉翅花(せんしか)を手厚く世話した。花が寒さにやられないよう、朝夕と鉢を持ち運び、与える水に様々なものを加えたりしていた。何処で習ったことなのかと尋ねると、考えたの、と夏蜜柑は云った。その口許は楽しそうで、あたしは目を離せなかった。
 そうして幾輪もの花を摘んだ。傷は再び膿むこともなく、目に明らかな速度で治癒していった。彼女たちは地球の半分の一年で同等の加齢をするのだから、地球人よりも物質代謝が速いのかもしれない。背に枕をあてて起きていられるようになると、もう早、ヒメミコは退屈そうな様子をみせた。
 いつしか太陽のない星に春の気配がきざしていた。薄い上着を羽織っただけで庭に下りると、ぬるんだ空気が水っぽい匂いと共に頬に触れた。庭中が鮮やかな色彩に溢れている。寒いさなかから咲く花の多いのを珍しく思っていたけれど、暖かな気候の(もと)では更に比ぶべくもない。白が基調の世界で暮らし慣れた目には痛いほどだった。夏蜜柑は蝶のように軽やかにあたしを引っ張っていく。あたしは気後れしながらも、華やいだ少女を手放しがたくて従っていく。そうしながらテラスに目を遣った。
 テラスに食卓の椅子のひとつを持ちだして、掛布にくるまったヒメミコが座っている。右膝を立て、ぶらりと垂らした左の膝には既に乾いた赤い筋が走っているだけだ。痕が残るだろうかとあたしは思う。ヒメミコは不機嫌な顔をして正面を睨んでいた。今日は日が暖かいから表へでないかという誘いを、強くは拒まなかったその心持ちを、あたしは面映ゆくも切なくも感じる。
 夏蜜柑が呼ばわりながらあたしの腕を揺すり、向き直ると摘み取ったばかりの黄色い草花を突きだした。(すぼ)まった胡蝶菫(パンジー)のような花だ。匂いをかいでみて、と云われて顔を寄せると、甘やかな見た目と裏腹に()い香りがする。この星のものは概してそうだ。
【あの白い花と似ていない?】
 取っつきにくい香りだというのではそうかもしれない。なので有耶無耶に頷いた。
【これにも、あれと同じ効果があるのかしら】
 夏蜜柑は真剣な面持ちで云った。あたしは愛想笑いをやめて少女を見つめた。知らずに育てていた花が従妹の傷を癒すのを目の当たりにして、夏蜜柑の心には確かな変化が起こっていた。花の見た目のおもしろさでなく、内に備わった薬効に興味を持ち始めたのだ。
 興味、という心の動きほど、この星で稀なものはない。
 夏蜜柑は居並んだ花々の頭上に手を(かざ)しながら、数歩向こうへいって、
【どうやったら判るのかしら】
 あたしは厳粛な気持ちで、
「何度も繰り返して試して…凄く時間がかかるけど」
 夏蜜柑は微笑を浮かべて頷いた。少女の姿を気高いと思った。
【それじゃあ、同じお花が咲くのをじっと待たなくちゃいけないわね】
 腰を折って間近の鉢を覗き込んだ。後れ毛が日に輝いている。あたしは見惚(みと)れながら、
「効果がありそうなのは、種を取って増やしたら」
 何気なく云った。それで自分の周囲を見まわした。夏蜜柑の庭には同じ花の鉢はふたつとない。
 え、と夏蜜柑は聞き返した。あたしも意外に思って向き直った。
「え…?」
【タネって…】
 ぞっとした。これまでにも幾度となく目にしてきた反応だった。
 あの、と云い差したあたしはまず辺りの花を確かめた。花の色や形は様々でも、花蕊(かずい)の構造はどれも同じだった。あたしは急き立てられるような気持ちになって、庭の隅々まで見て歩いた。やがて呆然と足を止めた。この星の植物は──少なくとも夏蜜柑が採集した範囲では、例外なく雌雄異株(いしゅ)なのだ。そして庭には雄株の花しかなかった。
 夏蜜柑が不思議そうにそばにやってきた。少女が森で採集したのがたまたますべて雄花だった。その確率はどれほどだろう。
【どうかしたの?】
 ねえ、タネってなあに。少女は無邪気に尋ねた。
「なあ…」あたしはようよう口をひらいた。「ここには、子供もいるんだよな…?」云いながら、莫迦な質問だと思っている。
【勿論よ】
「赤ん坊も…」
【ええ】
 夏蜜柑の声は(やや)沈んだ。あたしは続きを問うのはよした。雌雄の株の比率が著しく異なるのかもしれない。雌花が滅多に見つからないような代物なら、この庭になくてもおかしくない。──「すべての植物に雄花しかない」のと結論は変わらないということは、考えないようにした。
「……種っていうのは、花の赤ん坊みたいなもの。小さな粒で、土に埋めておくと芽をだして大きくなるんだ。ここにある花と、見た目は同じなんだけど、細かな部分が違うものが多分あって、それと隣り合わせにしておくと、花が萎れたあとにできるんだ」
 目を輝かせる夏蜜柑にあたしは間を置かず尋ねた。「ねえ、花って枯れるんだよね…?」
 夏蜜柑はきょとんとして、【ええ、それはそうよ】可笑しそうに肩を縮めて笑った。
【季節がかわると沢山お花が咲くけれど、そのあとには枯れてしまうの。だから、また新しいお花を採りにいきたいんだけど…】
 あたしたちと離れたところでくしゃみが聞こえた。ヒメミコがもぞもぞと掛布を掻き合わせた。
 硝子戸の中から金雀枝がでてきた。ヒメミコはぐっと身を強張らせて睨んだが、熱のあるときのように取り乱しはしない。それでもあたしはテラスのほうへ戻った。金雀枝はヒメミコの椅子のすぐ横で立ち止まっている。髪に挿した黄金の花は、花期の終わりに近づいたために小振りで色も薄い。テラスの脇の「パパの木」は、残り僅かな花房(はなぶさ)を温かな風に揺らしている。花樹が花を終えて、他の個体との違いがなくなっても、あたしはきっと金雀枝を見分けられるだろう。
 テラスの段を上がろうとしたとき、開け放されたままの硝子戸から思いがけない人の姿が現れた。
 あ、と声を零したのは、あとから続いてきた夏蜜柑でなくて、あたしのほうだった。
【──すみませんでしたね】その人は口許に甘やかな笑みを浮かべた。
 あたしも夏蜜柑も動けなかった。派手な音を立てて椅子を蹴ったヒメミコが、活力の塊みたいに室内へ入っていった。押し退けられる形になった旦那様は、愉しそうに目を細めて見送る。漆黒の髪が見苦しからず吹き乱され、(きず)のない頬の上を花樹の梢の影が動く。会わないうちはまったく架空の人のように思われたのに、目にすればやはりあの人は重みを持ってそこにいて、けれど見目は相変わらず絵空事のようだった。
 背中にぶつかってきたのは夏蜜柑だった。びくりとして振り向くと、少女は熱の籠もった目つきをして、浮ついた足取りで待ち人の下へ惹かれていった。あたしなどは彼女の世界の何処にもいないのだ。やあ、と旦那様は云った。少女を見下ろすのは、慈愛の滲んだ冷たい色の眸だった。
【離れていてすまなかったね。あの子は、もう随分いいようだけれど】
 咬んで含めるように、旦那様は囁く。夏蜜柑はじっと見上げている。その表情は見えないけれど、あたしは少女の手に気づいた。スカートに触れた指先が、(こら)えきらないように小さく動いている。あたしはわざと不躾(ぶしつけ)に口を挟んだ。
「この子、森に花を探しにいきたいんですって」
 夏蜜柑の背を押し遣った。蹌踉(よろ)けた夏蜜柑は呆気に取られた顔で振り返る。あたしは口角を窪ませてみせ、それから旦那様を見た。美しい男性の穏やかな表情の裏に、何もかも見通しているという余裕が透いている。なんとなく安心した。
【そうですか】
 くすりと笑って、旦那様は夏蜜柑に手を差しだした。【──用意はいいのかな】
 夏蜜柑は陶然と手に手を重ねてから、あなたはいかないの、と煮えきらないことをあたしに聞いた。まさか、という言葉を呑み込んで、ヒメミコがいるから、とあたしは素っ気なく答えた。夏蜜柑は追いつめられたみたいな悲壮な顔つきをしている。
【じゃあ…あの、支度をしてくるから】
 早口に云って、脇目もふらずに硝子戸の中に飛び込んでいった。微かに笑う息が聞こえ、あの人は手を元通り垂らした。
 一言めを口にするまでに決心が要った。あたしは表情が引きつらないように気を配って、あの人に話しかけた。
「……その、感謝します。花のことを教えてくれて」
 作り物のような男性は斜を向いたまま、視線だけをあたしに転じた。笑うでもなく睨むでもなく、意思のないまなざしだった。秀麗な口許だけがほころんで、
【大したことではありませんよ。埋め合わせにもならないくらいです】
「でも、本当にどうしていいか判らなかったから…」
 視線は(とど)まったまま、返答はない。こうして甘やかに飼い殺されると、自分がこの人の足下に(ひざまづ)いているような気分になる。
「あの子も──ええと、夏蜜柑も、あれがきっかけで、余計に花を育てることに関心が起こったみたいなんです…」
 破れかぶれにお節介なことを云った。悔やんで熱くなった頬は、次のときに呆気なく(くう)に取り残された。
【──本当に、それがいいことだと思いますか】
 心臓の奥にまで響いてくるような声だった。
「え…」
【他愛なく、花の色や形に惹かれて摘み集めるより、それがどれだけ役に立つか、そんな興味で栽培するほうが優れていると、本当に思いますか】
 言葉が詰まって、何も云われなかった。
 食堂の扉がひらき、鞄を斜めがけにした夏蜜柑がやってくると、旦那様は冴え冴えとした面持ちを掻き消し、また芯のない穏やかさを示した。夏蜜柑は肌を上気させて、あれこれと忙しなくものを云って庭へ下りていく。植物採集のための道具を用意しているようだった。今の()に髪をきちんと結い直している。そんな何気ない少女の心が胸に苦しかった。
 二人を上の玄関まで見送った。あたしは静まり返った家の中を三階まで下りた。いつしかかえる場所はここになっている。自分の部屋で長時間すごすことなど、絶えて久しい。
 扉がひらくと、途端に声が飛んだ。
【気が知れないな】
 ヒメミコが両脚を投げだして寝台に寝そべっている。あたしは思わず少し笑った。
 庭へでる前に窓を開け放しておいたので、室内は肌寒い春の空気に満ちている。正午過ぎの日差しは床まで届かずに、部屋の裾のほうは仄暗い影に浸っている。あたしは窓を半分ほど閉めた。その微かなはずの物音がひどく耳についた。
 振り見ると、ヒメミコの視線が向いている。少女は先程の威勢のいい科白(せりふ)が嘘のように、沈んだ表情をして、不意に語りだした。
【……あの男がさ、最初に結婚するとき…あいつがさ、急にあたしのところにきたんだ。雨が降る日で、ずぶ濡れになってて、それで雨粒みたいにぼろぼろ泣いて、あの人と結婚したい、って云ったんだ。あいつが十三のときに】
 あたしは窓縁(まどべり)に片手をかけたまま、それを聞いていた。
【──…それで、あたしは叔父さんに聞いて、あの男と最初の結婚相手のところへいった。取り持ってやろうとか、難しいことは考えてなくて、多分…文句を云ってやるくらいのつもりだったと思う。気持ちのことまでは覚えてない。子供だったし…。で、訪ねていったら、あの男はいなかった。結婚相手だけがいて……】
 ヒメミコは口を閉ざした。息を詰めて待ったけれど、ヒメミコはもう、その続きは語らなかった。代わりに問うた。
【お前、聞いたんだろ。あたしがどうしてこの家にいるのか】
 二通りの意味合いがあるような気がした。その要因と、理由と。
 あたしは頷いた。ヒメミコは天井を見つめている。
【……判ってるんだ。どのみちあいつは苦しむんなら、勧められたとおりにするほうがいい。それであたしは普通になれる。でも、判ってはいるけど…】
 布のこすれる音がして、薔薇色の髪の少女は背を向ける。湧き上がってくるものを押しとどめるように、躯を丸めた。
 悔しいんだ。
 掠れた声が聞こえた。あたしはただ頷いた。
 窓辺を離れて、少女の寝台の間近へ立った。薄い衣服に包まれた少女の背は、肉づきを露わにして肩胛骨(けんこうこつ)が浮いている。鮮やかな髪は右肩に敷かれて、後れ毛の乱れた(うなじ)が覗いている。あたしは震えた自分の指の意味を知っていた。
 足下へ蹴り込まれた掛布を少女の腰の辺りまで引き上げた。ヒメミコは黙っている。あたしは音を立てないように椅子に腰を下ろした。この沈黙はあたしたちを繋いでいるものなのだった。あたしたちは同じ海の中にいた。
 そうして視線を動かす。衣装箪笥の隙間は少女を挟んだ向こう側にある。
【──お前、あれを聞かないのか?】
 唐突に問われて、あたしは驚いて見返った。ヒメミコは同じ姿勢のままだ。
【お前が聞いたら、云おうと思ってたよ】
 素っ気ない口振りで、あたしはヒメミコを恨めしく思った。我ながら女の嫉妬のようで呆れた。ヒメミコはあたしが問わないことも見通しているのだろう。それきり何も云わず、しばらく経って顔を覗き込むと、浅い寝息を立てていた。
 あたしは息をついた。自分の(そね)みも胸の(うち)に暗く(わだかま)っているものも、無心な寝顔を見ていると甲斐がないような気になる。頬にかかった髪の一条(ひとすじ)を摘んで取り除け、それから寝台に膝を突いて(まなじり)にくちづけた。少女は小さく唸って、煩わしそうに肩を動かした。

 日がおちてから夏蜜柑と旦那様は戻った。夏蜜柑は布製の袋を広げて、新しく採集してきた草花を楽しげに見せた。やはりすべて雄花だった。
【これでタネができるかしら】と夏蜜柑は問うた。あたしはゆらゆらと頷きながら、口では曖昧な声を零すしかなかった。
 あの人は少し離れたところからあたしたちを見ていた。

#13

 跳ね起きた。自分の寝ていた場所が、しばらく判らなかった。
 あたしは自室の寝台でねむっていたのだった。月光の差した室内が紗の(とばり)(とお)して見える。──もういい加減、ついていなくても大丈夫だとヒメミコが云って、久し振りに独りでゆっくりとねむったのだった。それを思いだすと鳩尾(みぞおち)の辺りがじんじんと痛くなった。
【起きたか】と、足下のほうで声がした。ヒメミコが帳を(かず)いで無愛想な表情で立っていた。紗を掲げた左手の他に、右手が中途半端に宙に浮いている。何が鳩尾を痛めたのかよく判った。
 なに、と浮ついて云った意味は通じなくとも、とまどいきっているのは伝わっただろう。ヒメミコは簡潔に、でかける、と云った。あたしはそれではっと意識が覚めて、寝台の上をヒメミコのほうへ(にじ)り寄った。一足早くヒメミコが帳を離して身を翻した。
【心配なら、ついてこい】
 傍若無人な物云いだけが返った。
 あたしは(ようや)く、この場面の意味合いを悟った。転がるように寝台を下りて、帳を掻き分けた。ヒメミコは部屋の中央で背を向けている。あたしは衣装箪笥に取りついて、焦りのあまり云うことを聞かない指ももどかしく衣服を着替えた。脱いだ寝間着を放り込み、それから地球の靴を探したが、見つからなかった。知らぬ間に金雀枝が持っていったのだろうか。それはどうでもいいことだった。あたしは丸っこい靴を履き、冬物の上着を重ね、あとには何も思いつかなくてヒメミコの(もと)に駈け寄った。少女はちゃんと待っていてくれた。肩に例の大きな鞄をかけ、彼女だけの服装を整えている。ちらりとあたしを見ると、いくぞ、とぶっきらぼうに云った。
 あたしたちは連れ立って階段を下りた。吹き抜けの白い壁は夜と黎明の中間の色をしている。実際それほどの時刻なのだろう。ヒメミコは夏蜜柑の部屋の扉には目もくれなかった。あたしたちがでていっても、今夜はあの人があの子についている。それを思って、あたしも心に()めるのはよした。
 下の玄関から外へでた。冴えた夜空を、散り散りの星が飾っている。流石(さすが)に空気が冷たい。頭上を横切る架線も星空も(ほの)白い家並みも凍りついている。足を止めているあいだにヒメミコはもう随分先まで歩いていっている。あたしは駈けていき、追いつくとその速度のまま少女の手を取った。少女は口を曲げて振り向き、けれど振りほどきはしなかった。
 夢を見ているような気がしていた。明晰夢(めいせきむ)の中で、これは幻だと悟っている哀しさも何処かで感じていた。けれど余りある幸福感があった。夢の中でしか知ることのできない、完全な幸福だ。
 それで、少女の向かう先が思いがけない方向であるのに、あたしはしばらく気づかないでいた。三十六区とは異なる方角へヒメミコは歩いていく。あたしは問うまいと思った。ヒメミコが連れていくところなら、構わない。
 やがて、辿り着いたのはやはり十字路だった。周囲の風景で見慣れた地区と違うのは、上空を走る架線の軌跡だけだ。ヒメミコは鞄の中から機械を取りだし、膝を突いたところで、ふとあたしを振り仰いだ。お前、やってみるかと問うた。森精(アルセイド)の部品なしに通路へ迷い込んだことを、ヒメミコはまだ気にかけているのだった。あたしは頷いたものの、他でもないヒメミコのために暗路へ入ろうとして叶わなかったことを、まだありありと覚えている。かつての自分がしおおせたことに半信半疑だった。(ひざまづ)いて、怖ず怖ずと敷石に触れた。ヒメミコが腰に腕をまわしてきつく抱いた。呼吸を幾つか数えたとき、あたしたちは暗闇の中にいた。
 落下した感覚もなく、気づけば脚も手のひらも別の地面に接している。移動したのだということを頭が認識できない。世界が暗転したのだというほうが納得できた。
 闇から温かな細いものが伸びて、あたしの手を(から)め取った。無理矢理に指を広げられ、指先を(もてあそ)ばれて、未知なるものに取って喰われる錯覚をする。ヒメミコは視界のない場所でも、一頻(ひとしき)りあたしの手を調べることをやめなかった。
【つまらないな】
 闇の中から声が響いて、強く腕を引っ張られた。そのまま四方も判らない空間を連れられていく。一歩ごとに目の前に壁や切り岸が迫っている気がする。それを一歩々々、踏み越えて歩いていく。その危険は実在のもので、あたしの手を引いていくものの力で切り抜けていっているように思える。そうに違いなかった。
 耳に大地のざわめきが満ちた。躯の奥底から揺すぶられるような音だ。あたしはいつしか閉じていた(まぶた)をひらいた。
 そこに海があった。青みがかった白い砂浜の彼方に、紫丁香花(ライラック)色の波が打ち寄せている。空はのっぺりと群青に染まって、じっとあたしたちを見下ろしている。
 本当の海だった。
 あたしはふらふらと足を踏みだした。そうして振り返ると、砂浜を(おか)すように森の境界がすぐそこまで迫っている。砂と木々とが(せめ)ぎ合った境でなく、目に見えない絶対の断絶に阻まれて、浜も森も唐突に断ち切れている。砂の果てへ間近いところへ少女は立って、その背後には見覚えのあるゲートがあった。輪郭だけのゲートは傾ぎ、砂の起伏にのまれかかっている。
 ヒメミコは慎重に砂を踏んで歩いてくる。自分の足下へ視線を注いだままで、あたしは取り残された気分になる。海の(おもて)へ目を戻した。日の光を受ける前の、本来の色味をした波が繰り返し、砕けては押し寄せるのを見ると、自分が足を下ろしたこの世界が息づいた場所なのだと初めて実感された。あたしは更に(みぎわ)へ足を進めようとした。その腕をとらえられた。
【傍へはいくな】
 低い声だった。
【あの水は、毒なんだ】
 ヒメミコは真っ直ぐあたしを見据えたあと、視線を地面へおとした。少女の半歩だけ踏みだされた左足が、砂浜を浅く(えぐ)っている。そこへあった火傷の痕が思い起こされた。
 砂浜に並んで、あたしたちは腰を下ろした。海にはどんな影もない。両端の下がった水平線が世界を二分している。この世の果ての光景だった。空は少しずつ色褪せ、夜明けを迎えようとしている。
 ヒメミコが折った脚のあいだに鞄を引き入れ、中から片手に乗るほどの機械を取りだした。植物の種子に似ていた。卵形の胴体から二枚の羽が張りだしている。
【……お前、覚えてるか、二人で塔に登ったとき、人のいない町を歩いただろう】
 少女は手の中の機械を見つめたまま問う。あたしの応えを待たずに続けた。
【あすこには、色々なものを作る場所があるんだ。服や靴や、食べるものをだ。……小さい頃、そのうちのひとつへ入り込んだことがあった。そもそもが、どうしてあんなところへいたのか、その建物へ入っていった機械人形が、どうして扉を閉めなかったのか、あたしには判らない。だから、全部が夢だったのかもしれない。でも、あたしはそのときに見たんだ。それは、白いもので、同じものが沢山あった。凄く広い部屋で、細かく区切られた囲いの中へ入れられたそれは、それぞれがばらばらに動いているみたいだった。妙な音がしていた。あたしはそれに触ってみたくて、閉じ込めている容れ物の蓋を開けた。そうしたら、それの一つが飛び上がったんだ。跳ねたんじゃなく、地面から離れているのに、まだずっと高いところへ上がっていった。それには引き裂かれたみたいなふたつの部分があって、それを動かして上がっていったんだ】
 ヒメミコは不安げな面持ちをこちらへ向けた。あたしはぼんやりと頸を振った。口許がほころんだのは、それが滑稽な話だからじゃない。幼い少女が何を見たのか、きっとこの地上であたしだけが判っていた。
 少女は表情をかえることなく、手のひらの機械の羽の付け根の辺りに指を動かした。途端に機械は音を立てて震え始めた。身震いのようだったのが次第に規則正しい振動になり、羽が付け根のところから上下に揺れだした──羽搏(はばた)きだしたのだ。
 ヒメミコが手を軽く跳ね上げると、機械は手のひらを離れ、宙を忙しなく揺れて漂った。あたしは自分がまったく子供の表情を浮かべているのを知っていた。けれど、機械は初めの位置より高く上がることはなく、螺旋を描いてゆっくりと下降していった。砂の上へ墜ちる前に、あたしは両手でそれを受け止めた。尚も羽ばたき続けるのに、自ら飛び立つことはない。機械は小振りな大きさに見合わず重く、羽の部分も金属でできていて、羽搏き運動だけで浮上するのには無理があった。それに、少女は根本的なことを知らない。
 あたしは苦い思いを抱えて、機械を空へ跳ね上げた。先程よりずっと速く砂へ墜ちた。ヒメミコは取り上げ、また指を触れて羽搏きを止めた。
【これは小さいから、このくらいしか浮いていられないけど、もっと大きなやつもあるんだ。……部屋の衣装箪笥の中に。だけど、まだ動かせない】
 ぐっと力を込めて機械の胴体を二つに分け、入り組んだ金属線の奥から指先ほどの大きさの部品を摘みだした。寸の詰まった紡錘形(ぼうすいけい)で、美しく透き(とお)り、色味はアルセイドの眸を思わせた。
【これが、これの心臓】ヒメミコはいつにない親切さであたしに教える。【これは、あの場所で壊れた光るものから取りだしたんだ。でも、このくらいじゃ大きなやつは動かせない。他の機械にも似通った大きさのものしか入っていないし、乗るものには心臓がない。あれは、あの乗るものの走るところから外すと動かなくなる。心臓のあるもので、一番大きいのは、機械人形なんだ】
 やがて、少女は元どおり機械を組み立て始める。薔薇色の前髪のふちが昇り始めた星の光に輝いている。真面目な、けれど(こころよ)そうな表情でヒメミコは手許を見つめている。
【……この前は、機械人形の心臓を取りにいったんだ。あの場所に普通に転がっているのには心臓が残ってない。何処かにあるはずだって、ずっとさがしていたんだ。それで、いつもはいかないところにまで歩いていった。不思議なことに、とっくに朝になっていい時間なのに、あすこはいつまで経っても夜だった。それに、同じほうへずっと歩き続けたのに、どれだけいってもあの場所には終わりがなかった。そのうちに、機械人形が山のあいだを歩いているのが見えて、あたしは隠れた。──あいつらは、こちらが何か持ちだそうとしない限り、黙って通り過ぎていくんだけど。そうしたら、ゆっくり進んでいたそいつの姿が、突然に見えなくなった。明かりが消えたみたいに。あたしは走っていって、気づいたら、すぐ目の前に消えたはずの機械人形が立ってあたしを見ていた。周りにあるものは、ついさっきまでと同じなのに、向こうに見たことのない建物があった。殆ど壊れた機械に埋まっていて、入口だけが判った。あたしは、その中へ入ってみた。機械人形もついてきた。入ると下り階段で、中には明かりもついていなかった。階段は深くて、随分と下りてもなかなかいきつかなかった。それで、やっと一番下まで着いたら、そこは奥に向かって真っ直ぐ伸びる細長い部屋だった。真っ暗なのに様子がよく判った。ていうのも、部屋の両方の壁にはずらりと透明な器が並んでいて、それが光っていたんだ。……そばへ寄ったら、それには水と一緒に膝を折った機械人形が入っていた】
 波の音だけが耳についた。あたしは砂粒の一つをさえ動かせずに少女の話を聞いていた。ヒメミコは、もう安らかな表情を失って、じっと組み上がった機械を見ている。
【水の中なのに、目をひらいたままだった】ヒメミコは自分の中に巣くったものを言葉にして吐きだすように、訥々(とつとつ)と続けた。【何もきていなくて、膝を抱えて座っていた。他の器も、みんなそうだった。こちらを見ているのに、なのに動かなかった。あたしは、通路の先に別の部屋があるのに気づいて、そこへ惹かれていった。入ると、そこは前の部屋よりずっと狭くて、ぐるりと棚があって、心臓が──緑色にぼうっと光って、機械人形の心臓が並んでいた】
 ヒメミコは顔を上げ、海原の彼方を見晴るかして目を細めた。今や世界は隅々まで明け()めて、少女の心持ち(やつ)れた頬も払暁(ふつぎょう)の光に照らされている。
【あたしは勿論、すぐにそれを手に取った。……ついてきていた機械人形が、横から凄い力であたしの手頸を掴んだ。あたしはそいつを突き飛ばして、狭い部屋から走りでた。手に心臓を掴んだまま。でると、通路にもう一つの機械人形が立っていた。あたしは無理矢理すり抜けようとしたけど、上着を掴まれて、揉み合っているうちに倒れて器が割れた。水が溢れて、中に入っていた機械人形が通路に投げだされた。…濡れた重たい音がして。…人形は、俯せに倒れたのに、顔だけこちらに向いていて、髪が顔中に貼りついていて、その隙間から目があたしを見ていた。あたしは走って逃げだしたけど、膝の怪我のことにはしばらく気づかなかった。だから走って逃げた。階段を上がって外にでたら、機械人形がいくつもいくつも立っていた。あたしは走ったのに、気づいたらまた同じところに走り込んでいた。どうしても、その建物の近くから離れられなかった。機械人形は走らないから、ゆっくりあたしに向かって、どれだけ逃げ続けても近寄ってきて、あたしは訳が判らなくなって、手から心臓が落ちた。そうして蹌踉(よろ)めいたら、機械人形も建物もないところへ、あたしは立っていた…】
 少女は深く息を吸い込んだ。
 あたしは、聞かされた物語に打ち据えられていて、ぼんやりと視線を転じた。水平線の上へ、輪郭をくっきりと浮かび上がらせた太陽が懸かっている。こうして見ると、惑星を照らす星も、ただそばにあるというだけで、夜空の数多の星となんらかわらないものだと実感される。初めの日にあの人に聞かされたことを思いだした。本当は、ここの人々のほうが正しいのかもしれない。「太陽」など幻想なのかもしれない。どうして、それを思うと泣きだしそうになるのだろう。
 なあ、宇宙人、とヒメミコがあたしを呼んだ。振り向くと、少女の眸がじっとあたしを射ていた。
【……お前に、頼みがある】
 あたしは口を薄くひらき、けれどどんな答えも返さなかった。ヒメミコは躊躇いがちに(はす)を向き、
【もういちどあの場所にいきたいんだ。どうしても機械人形の心臓が欲しい。この前はだめだったけど、でも、お前は特別だから、お前がいればあの場所から心臓を持って逃げられるかもしれない。あたしと、一緒にきてくれないか】
 戻された眸は寄る辺ない子供のものだった。間髪を入れずに、
【お前のためにもなる。心臓があれば、大きなものを動かせる。そうしたら、星にもいけるかもしれない】
 ヒメミコは口角を弛めた。
【昔、あたしが見たのは、ほんの手に掴めるくらいのものだった。それなのに、天井に届くほど高く上がったんだ。今あたしが作っているのは、それと比べものにならないくらい大きい。だから、きっと空にも上がれる。タイヨウまでいかれるかもしれないぞ】
 輝かしい少女の表情には、狂気があった。少女はしんじ込んでいるのだ。何も間違っていない。星は空にあるのだ。真空も光の速さも、この世界にはないだけなのだ。あたしは胸を衝き上げられて、どうしようもなく俯いた。ヒメミコがあたしの手を取った。
【お前だって、タイヨウにかえりたいだろう。あたしがお前をタイヨウにかえしてやる。だから、──あたしも連れていってくれ】
 あたしは、はっと顔を上げた。ヒメミコはくしゃくしゃの表情をして、
【いきたいんだ…別のところに。あたしは、ここではもう、失敗してしまったけど、タイヨウにいけば、最初からやり直せるかもしれない。タイヨウは、こことは違う場所なんだろう? あたしは、ここでは上手く生きられないんだ。……上手くやる方法が判らないんだ。あたしは、誰の力も借りずに、普通になりたいんだ…】
 掴まれた手の甲に少女の爪が食い込む。この痛みは、あたしたちの痛みだった。普通になりたかった。欲しいのは、みっつかよっつの林檎だけだったのだ。
 それを痛いほど判っているのに、あたしはヒメミコを「普通」にはしたくなかった。端から、できるはずがなかった。
 あたしは頷いた。ヒメミコは頬をほころばせて息を漏らした。そうしてあたしの手を──機械なしに見えざる扉をひらく手を、慈しむように撫でた。
 数多の星になどなりたくない。刺すような思いが胸にきざした。ヒメミコにとってのあたしの存在価値は、「他とは違う」ということでしかない。そうでない思いなど有り()るのだろうか。他と違わないものを狂おしいほど焦がれることなどあるのか。ただ傍にある星じゃない。太陽でなくてはならないのだ。
 あたしはヒメミコの手をにぎり返し、強く頷き直した。ヒメミコは不思議そうに口を動かし、あたしを見つめた。それから不意に、彼女だけの気まぐれさでぱっと手を離し、そっぽを向いた。あたしは小さく笑った。少女が愛おしかった。
 ヒメミコは照れ隠しに鞄の紐を弄んでいたが、やがてそれを放りだし、砂浜に寝転んだ。勢いよく倒れたので、跳ね飛ばされた砂があたしのスカートにかかった。ヒメミコは腹の上へばらばらに手を乗せ、虚ろな目でじっと空を見据えている。あたしは砂の絡んだ薔薇色の髪を指で()いた。ヒメミコ、可愛いね。あたしの声は波音に掻き消された。少女の上へ屈み込むと、硝子玉の眸にあたしの影が映る。あたしは髪の中へ指を差し入れたまま、少女にくちづけた。少女は目を動かさなかった。躯を倒し脚を(から)めて、あたしたちは太陽になるときまで、じっと寄り添って寝転んでいた。

 目をひらくと、あたしたちは照明の(もと)に立っている。
 ヒメミコがあたしの手を引いて歩きだす。靴が土を踏む音が耳につく。頭上に懸かっているいくつかの照明は目映く、視界にもやがかかっている。廃棄場の有様は以前となんらかわっていない。
 あたしは自分の右手を返してみる。日暮れを待って住宅都市に戻り、三十六区の十字路から暗闇の通路へ入った。あたしは再び促されて敷石に手を突いた。問題にならないほどの間を置いて、ゲートはひらいた。かつてあれほど頑なに拒んだのが嘘のようだった。未知の機構でなく、何ものかの意思に踊らされている気がした。
 ヒメミコは迷いなく進んでいく。あたしは少女の左膝に目をあてる。甚だしい裂傷の痕と、その脇の切開の痕とが白い肌に赤く刻まれている。痛くはないかと、尋ねたいけれど言葉がない。例え問うても意地っ張りに頸を振るだろうと判っているから、あたしは黙って従った。
 通り過ぎる廃品の山は移りかわるが、照明の位置は変化しない。どれほど高所に灯されているのだろうと不思議に思う。あたしはそうして頻々(ひんぴん)に周囲に目を配っている。アルセイドを警戒しているのか、待ち受けているのか、どちらとも云えた。
 言葉があったら、こんな折に何を話すのだろう。かえって口を利き合える関係のほうが、気詰まりかもしれない。沈黙と問わず語りだけの繋がりを、あたしは貴く思い始めている。
 ヒメミコが足を止めた。
 どれだけの時間を歩いたのか、この場所に確かに時刻による変化はないようだった。相変わらず紛い物の太陽は刺々しく光り、現実感を奪っていく。ヒメミコが思い詰めたような表情であたしを振り見た。あたしたちの前に、廃品の山に取り巻かれて、それまで目にしなかったようなひらけた空間が広がっている。あたしは少女の眸を見つめ返した。少女はあたしの手を離し、独りでその場所へ足を進めた。水の中を歩くような速度だったのが、あるところで立ち止まり、そして意を決したように踏みだした──少女の後ろ姿は、かわらずそこにあった。
 振り向いた目に呼ばれて、あたしも少女の(もと)へいこうとした。あともう腕を伸ばしただけの距離まで近づいたとき、あたしは(にわか)に立ち止まった。ヒメミコの姿が消えたのだ。一拍を遅れて、背後からヒメミコはまろびでてきた。あたしたちは顔を見合わせた。そうして目前に現れた光景をそれぞれに見た。
 廃品に(なか)ば埋もれて、先程までは確かになかった建造物がそこにあった。「建物」とヒメミコは云っていたけれど、それよりも地球の地下鉄道の入口を思わせた。扉のようなものはない。振り払っても振り払っても、巨大な人間が虚ろに口をひらいて待ち受けているさまが意識に浮かんだ。入口の中は真っ暗だ。
 あたしは怖じ気づく心を奮い立たせて、そのほうへ近づいた。間近までいくと、差し込んだ照明に浮かび上がって、階段の降り口が微かに見えた。あたしは中へ入った。陰気な空気が全身を包んだ。振り返ると、ヒメミコは明かりの下で立ち止まって逡巡している。あたしは戻れともついてこいとも示さずに、自分だけで階段を下り始めた。幾らか下って振り仰ぐと、ヒメミコもかなりあとをついてきていた。階段は何度か踊り場を挟んで折り返し、相当な地下まで続いているようだった。じきに地上の明かりは届かなくなった。冷たく滑らかな壁に手を触れ、それを頼りに下りていった。幾度めかの踊り場を折れると、下方にぼんやりとした明かりが見えた。そこが最深部のようだった。降り立ったあたしは、わざと目を伏せていた。目を上げた。──階段を下りきった左手に、語り聞かされたとおりの細長い部屋があった。中央を通路が貫き、左右に光を放つ丸い水槽が並んでいる。意思と感情がちぐはぐなまま、あたしは部屋の中へ彷徨っていった。水槽は胸の高さほどの大きさで、上部は覆われておらず、循環する水の波紋が(しき)りに広がっている。同じ間隔で、舞うように浮かび上がってくるのは精霊の白く長い髪だ。裸形(らぎょう)のアルセイドは折った膝を抱え、じっと目を見ひらいている。あたしが見下ろしているために、何か物思いに沈んでいるようにも見えだ。
 水槽は隙間なく据えられてあったが、途中に一つ分だけ空白があった。これが、ヒメミコが揉み合ううちに割ったと云っていた箇所なのだろうか。あたしは続いているはずの少女を、どうしてか遠く思いながら通路を進んだ。総ての器にアルセイドが入っているわけではなかった。むしろ、稀なほどだ。通路の先には物語の通り、奥へ続く扉があった。
 そこで、どうしてヒメミコを待たなかったのだろう。あたしは扉の前まで辿りつくと、殆ど無自覚にその表面へ手を触れた。扉は音もなく左右に分かれた。狭い部屋の中に、幻のような暗緑色(あんりょくしょく)の光がそちこちに、ぼうと灯っていた。その中に佇んだ人を、あたしはなんの疑いもなく、アルセイドだと思った。
「──よくきましたね」
 秀麗な口許がほころんだ。冷たい色の眸が──そうと知っている眸が、あたしをその場へ射竦めた。
「あの子は、一緒ではないんですか?」
 穏やかに問われても、声がだせなかった。驚愕というより、自分が対面している人物がここにいることの違和に、思考が上手く働かないのだった。ただひとつ、耳にしている声がいつもより重みを持って響くことだけが、あたしの意識に残った。
 あの人がそこへいた。
 腕を組んで正面の棚に(もた)れた姿勢から、あの人は緩慢な動きで躯を起こし、微笑を浮かべたままあたしを見据えた。棚は──あたしはそんな場面ではないと咎めながらも、部屋の中を見渡した。棚は三方に(しつら)えられて天井まで届き、同じ細さの段が一面に区切られている。けれど、緑柱石(エメラルド)が凝ったような心臓は数えるほどしか載っていない。光の強さもまちまちで、殆ど消えかかったように見えるものも少なくなかった。
 あの人はゆっくりと歩み寄ってきた。あたしは我に返って後退(あとじさ)った。本能から起こった行動だった。
「二人して姿を消してしまったので、あの子がひどく心配していましたよ」
 一分(いちぶ)も気にしたふうはなく、くすくすと小さな笑いが零れる。あの人は恐怖以外の何ものでもなかった。語る言葉は柔らかく、何気なく、暗緑色の光に浮かび上がった面立ちがこの上なく美しいのさえ、禍々しく思えた。あたしが身を硬くするのを眺めて、あの人は目を細めた。いつか見た、凍えるような表情だった。
「ここへ、彼女たちの心臓を取りにきたんですね」
「………」
「何に使うつもりなんです」
 あたしは、この人に対しても言葉がない。文字にして表せる決意ではない。
「──あんな翼で、本当に空へいけると思っているのですか」
 (えぐ)るように、あの人は云った。手のひらが痺れた。どうしてあの人が少女の羽ばたくものの存在を知っているのか、そんなことはどうでもよかった。あたしは怒濤(どとう)のように感情が押し寄せてきて、気が触れそうだった。
「何処へもいけないことくらい、判ってる…」
 自分の声が自分のものではないようだった。あまりに感情的で、そして明け透けだった。
「でも…それでも、何かしていなくちゃいけないんだ…。全部無駄だって判ってるけど、やめたらだめになってしまう。羽根を拾い集めて、(にかわ)で固めて、そんなこと下らない。どうせ太陽に灼かれて墜ちるんだ。だけど、それはみんな、ここから別のところへ抜けだすためなんだ…!」
 ようよう荒い息を継ぎ、あたしはぼやけた視界の中にあの人を見た。ふと、胸の(うち)の激情が冷めていくのを感じた。あの人は何を云い返すこともせず、嘲笑もしなかった。静かにあたしの言葉を受けていた。そして、哀しんでいた。
 目の前にあるものでなく、何か手の触れられないものを見下ろしていたまなざしが、やがて糸に()られたようにあたしの肩越しに向けられた。あたしは振り返った。水槽に挟まれた通路に、ヒメミコが蒼白な面持ちで立ち尽くしていた。精が失せている。
 あたしがそばへ寄ろうとすると、ヒメミコは逃げた。数歩遠ざかって、そうしてあたしたちを──あたしとあの人とを、等分に睨みつけた。
【お前たち…仲間だったんだな…】
 胸を掻き(むし)るようにしてヒメミコは云った。恐慌が(きざ)していた。あたしは思わず声をだそうとし、それを呑み込んで頸を振った。取り乱した少女に判るように、いつまでもそうした。
 嘘だ、とヒメミコは叫んだ。
【だったらどうして、お前たちは同じ声を使う…!】
 あたしには、弾劾されている意味が判らなかった。背後から淡々とした声が教えた。
「──彼女には、私たちが同じ言葉を使っているのが聞こえるんですよ」
 振り見たあの人はあたしでなくヒメミコを見つめていた。突然、荒々しい風を切る音が響いて、ヒメミコが小部屋へ飛び込むと、最も手近にあった強く光を放つ心臓を掴んだ。あたしの躯は引き留めようと動いた──それを、心で堪え難く思った。ヒメミコはあたしを振り切り、脇目もふらず通路を駈け抜けていく。止めて下さい、とあの人が口走ったときには、あたしは少女のあとを追っていた。
 真っ暗な階段を駈け上がりながら、あたしは(しき)りに少女の名を呼んだ。頭上の足音は留まることなく逃げ去っていく。やがて天の頂に白々しい光の(とばり)が見え始め、少女の影がその中へ消えた。地上へ辿りついたあたしは、この世のものでない光景を見た──少女が鮮やかな髪を振り乱して、一直線に駈けていく。と、ある地点でその後ろ姿が跡形もなく消え、別の場所からこちらへ走り込んできた。目の前の現実を受け入れられないのは、あたしもヒメミコも同じだった。ヒメミコは呆然と足を止め、再び今きたほうへ走った。次にはまるで正反対の方向から現れてきた。ヒメミコは破れかぶれに走り続けた。愛しい少女の姿が、あたしの目の中で現れては消えた。やがて泣き笑いの顔をしたヒメミコは、その場に膝を突いてくずれた。あたしが駈け寄ったのは、ただ少女にしがみつきたいからだった。ヒメミコは涙で汚れた顔であたしを見つめ、手から心臓をおとして後退(あとじさ)った。土の上に緑柱石(エメラルド)色の結晶だけが残った。ヒメミコの姿は掻き消え、もう戻ってこなかった。
 あたしは心臓を拾い上げた。顔を上げると、それまであたしたちだけだった世界に、見慣れない慣れ親しんだ姿が浮かび上がってきていた。無数のアルセイドは、あたしを取り囲むように四方八方の空間から姿を現し、ゆっくりと歩み寄ってきた。あたしはぼんやりとそれを見つめた。聞き覚えのある声が、手にしたものを離すよう彼方から叫んだ。間近へ到ったアルセイドの影に埋もれるまで、あたしは動かなかった。白く整った数多の手が伸び、あたしの躯に触れた。あたしは矢庭(やにわ)に精霊の心臓を抱き竦め、彼女たちの間隙(かんげき)に身を投げた。
 膝と肩を強かに打ち、土煙の中に顔を上げると、そこは尋常の廃棄場だった。あたしはすぐさま起き上がって走りだした。ヒメミコの名を繰り返し呼んだ。少女の(もと)へアルセイドの心臓を持っていくこと、それしか考えられなかった。あの子は何処へいってしまったのだろう。壊れた乗るものを(うずたか)く積んだところへ行き当たり、あたしは山を背にして足を(とど)めた。周囲に忙しなく視線を配っていると顔を背けた側の肩が(にわか)に強く押さえつけられた。ぎりぎりと骨格が軋んだ。上げる声すら押し(ひし)げられた。あたしはそれでも心臓だけは手放さなかった。地面へ屈服させられると逆に渾身の力で身を返した──たおやかな彼女の衣装の裾に、どうしてか目が向いた。アルセイドは人間では真似のできない素早さで、振り切られた手をあたしの頸にかけた。明確な殺意があった。()け反らされ、上向けられた顔の上に、何か冷たいものがおちた。あたしは傍らの土に散ったそれを、朦朧(もうろう)とした意識の中で理解した。
 (しお)れた金雀枝(エニシダ)の花だった。
 涙が滲んだ。あたしは自分が死に(ひん)していることすら、既に忘れていた。金雀枝は長く生え揃った(まつげ)の奥の、緑柱石(エメラルド)色の眸を一心にあたしに注ぎ、口許も歪めずに力を込め続ける。今の組み打ちの所為(せい)で髪が乱れている。いつも、夏蜜柑が「パパの木」の花を挿してやっていた左のこめかみの辺りには、仄かに黄の色素が染みついてしまっていた。こんなこと、今まで気づかなかったなと、あたしは穏やかに思っている。それでも胸が焼き切れるようなのは、自分が女性型學天則(ガイノイド)の手で死ぬからだろうか。彼女たちが人間を殺せると知ったからなのか。あたしは楽天家で、しんじていたのかもしれない。人が造りだしたものが人間を滅ぼすはずはないと、それは傲慢だろうけれど、そうでなくては人間でいる甲斐がない。
 意識が一本の細い糸になり、真っ白な世界の中で絶えようとしたとき、急に現実感が戻ってきた。あたしの上へ金雀枝が倒れた。頸から両手が外れ、あたしは激しく()せた。金雀枝はまったく人形のように、見目からは想像もつかない重みの躯を投げかけてくる。あたしには抑えかねた。と、ずるずるとのしかかってくる躯が急に取り()けられ、息を切らした人の声が響いた。
「──無事ですか」
 切実な目をしたあの人を見て、初めて同じ生き物だと思った。あの人の右の手のひらには、小さな機械部品が金属線で幾重にも巻き込まれていた。あたしの間近に片膝をつき、金雀枝の躯を背後から抱きかかえるようにしている。金雀枝は目を見ひらいたまま、ぴくりともしない。
 あたしは少し息がおちつくと、救われた礼も云わないまま立ち上がった。足下がふらつき、あの人が制した。あたしは何も答えられないので黙っていた。頼りない足取りでヒメミコを捜して歩きだした。数歩いったところで心臓を取りおとしてしまっているのに気づいたが、足を止めなかった。立ち止まれば二度と歩かれなくなる。廃品の山のあわいを見渡し、紛れるはずなどない鮮やかな髪の色をさがした。やがて、廃品の堆積の(もと)に立ち竦んだ少女を見つけた。ヒメミコはもう泣いていなくて、それを安心した。代わりにひどく怯えた顔をしている。気懸かりに思って、あたしは傍へいこうとする。ヒメミコは半歩、足を引いた。
【お前…あたしを騙してたんじゃないのか…?】
 少女は縋るように問う。弾劾(だんがい)であって懇願だった。あたしはじっと聞いた。
【お前はあの男と仲間で、みんな判ってあたしを莫迦にしてたんじゃないのか…? あたしは…お前のこと、味方だと思ってたのに】
 少女は声を震わせ、あたしが一歩、足を進めると一歩、更に下がる。踵が廃品に突き当たり、蹌踉(よろ)めいてヒメミコは山面(やまづら)に手を突いた。──そのことが気になった。
 ねえ、こっちにきて、と有耶無耶になっているあたしは声にだして云った。ヒメミコは(かたく)なになる。あたしの「声」は──あたしは正しく理解なんかしていなかった、けれどヒメミコがそう云うのだから、その通り少女が敵視し続けた男性と同じなのだろう。その辺りが上手く呑み込めないでいる。ねえ、危ないから、と尚もあたしは声をだす。ヒメミコは(ふもと)に転がった機械に後ろ向いたまま足をかけた。それは音を立てて傾き、均衡を崩した少女は背中から廃品の山に倒れ込んだ。静止していた時が動きだした。(いただき)付近の機械が傾いて滑り、ヒメミコのすぐ間際へおちた。ヒメミコは咄嗟に身を(よじ)るが倒れ込んだ姿勢から起き上がれない。あたしは意思だけの力で躯を動かし駈けつけると少女を抱え起こした。けれど連れ立っていくには及ばずに少女だけを地面の上へ放りだした。あたしは弾みで転び、愚かなことに立ち上がるより先に頭上を振り仰いだ──結局は、そうでなくとも為す術はなかった。
 山面を軽々と跳ね、ゆっくりと回転しながら転げおちてくる金属の(ひつぎ)は、すぐにあたしの思考をその色に塗り込めた。──最後に(ひざまづ)いた体勢から身を伏せたのは、もう意識とは関係のないものがしたことだった。

#14

 あたしは、太陽を見ている。晴れ渡った空だ。
 絹のような雲がゆっくりとほぐれていく。遮るもののない空だ。太陽が無人の惑星を照らしている。ただ雲ばかりが流れていく。冷たい冬の空だ。太陽が傾いていく。
 あたしは独りだと思った。
 ひとりきりだ。

 初め、その音の正体が判らなかった。すぐ間近で響いている。笑いさざめくような音だ。(まぶた)をひらくのが困難だった。貼りついてしまったようで、それに抗ってもひどく重い。視界もしばらくのうち濁っていた。
 意識が澄むと、あたしは白い部屋に寝ている自分に気づいた。枕許に夏蜜柑がいて、濡れた眸であたしを見下ろしていた。あたしはその不思議な音色が、他でもない夏蜜柑の口から零れているのを知った。少女は表情を明るませ、あたしの、(まなじり)に曲げた指を当てた。
 次のときに記憶が呼び覚まされてきた。ヒメミコは、とあたしは問うたつもりだったのだけれど、夏蜜柑は奇妙な顔つきをして、ぼんやりと頭を動かすだけだった。幽鬼の笑い声がさんざめく。と、急にそれが聞き馴染んだ夏蜜柑の声に変化して、少女は気遣わしげにあたしの頬を撫でた。
【──だったんだもの、まだ仕方ないわ】
 困惑したあたしの口からでた言葉は、ひとつだった。
「ヒメミコは、どうしたの…」
 夏蜜柑は少し大袈裟なくらいに、にっこりとした。
【どうって、いつもどおりよ。……ここへは入られないから、おうちで待っているけど、あなたのこと、とっても心配していたわ】
「ここ、は…?」
【病院よ】
 あたしは枕の上でのろのろと頭を転じた。広々とした個室で、これといった設備もなくがらんとしている。左手の壁一面に細長く窓が(しつら)えられており、窓外にうららかな陽気が見えた。あたしは掛布の中で手の指を動かした。掛布も敷布も、洗浄され抜いたごわごわとした手触りだった。
 また初めの場所に戻ってきたのかと、なんとなく途方もない気がした。
「……あたしは、どうして…」
【あの人が、倒れているあなたを見つけて、運んでくれたの。あたしは、もうあなたが治ってから聞かされたんだけど…】
 奇妙な云い方だった。事情がどう説明されたかについては、今は心が動かなかった。
 あのね、と夏蜜柑は怖ず怖ずと、努めて振る舞うような柔らかい声で切りだした。
【右の腕が…だめになってしまっていたんですって。何かの下敷きになって、もう、そのままじゃ治せないくらいに…】
 え、という声が自然に漏れた。あたしは自分の感覚がしんじられずに、掛布の中から腕を引きだした。右腕は、当たり前に、包帯すら巻かれずに目の前に現れてきた。
 でも大丈夫よ、と夏蜜柑は続けた。
【もう治ったから】
 質の悪い冗談を聞かされている気分だった。あたしは寝台の上へ起きあがった。夏蜜柑が慌てて制したけれど、構わなかった。薄い検査着の袖を二の腕まで(まく)り上げても、やはり右腕には(かす)り傷一つない。代わりに、あたしは奇妙なことに気づいた。肘の少し上のところで、皮膚の色が変わっている。それより上では日焼けとも呼べないほどの肌の馴染みが見られるのに、下ではない。
「治った、って…」
【ええ、もう元通りだから、躯が大変じゃなかったら、おうちにかえっていいんですって】
 あたしが筋道を立てて考えていられることはなかった。夏蜜柑が不意に扉のほうを振り向き、数秒を置いて【どうぞ】と声にだして云った。そうして枕辺の椅子を立っていった。扉がひらき、入ってきたのは、あの人だった。
 二人は控えめに言葉を交わす──あたしは再び、その言葉が理解できなくなっているのに気づいた。夏蜜柑は先程のくすぐるような笑い声を、あの人も音階は異なるけれど、同種と判る響きを交わしている。あたしは心の芯が崩れていくような気がした。両耳を塞いで髪を掻き(むし)った。遠く、(かろ)やかなほうの笑い声が聞こえ、もう一方に遮られ、不意に右の手頸を掴まれた。顔を跳ね上げると、あの人が腰を折って覗き込んでいた。冷たい色の眸をこれほど間近に見たのは初めてだった。
「──おちついて。我々の言葉が判らないんですね」
 哀しげな、慈しみに満ちた声だった。あの人は目を細め、(うれ)えた美しい表情であたしを見据えていた。何よりその言葉が理解されるのが、あたしにこの男性への強い欲求をきざさせていた。あたしの(まなじり)を生ぬるい雫が伝った。あの人はそれを、拭ってくれることはなかった。
 あたしの手を離して、あの人は躯を起こした。病室から夏蜜柑の姿が消えていた。それに安堵したあたしは、すぐに刺すような罪悪感に襲われた。夏蜜柑は、と浮ついた調子で尋ねると、少し席を外してもらいましたと、やはり一言一句を聞き取れる言葉であの人は云った。
「ちゃんとお話しします。だからおちついて下さい。──私とあの子の会話が聞き取れなかったのは、昨夜の衝撃のために、あなたの脳が支障をきたしたからです」
 当然のことを改まって云われるのが奇妙だった。あたしは(ほう)けて聞いていた。あの人は続けて話した。
「昨夜、あなたは崩れおちた機械の下敷きになりました。咄嗟に身を伏せたのが、他の廃品の隙間に入り込む形になって直撃は(まぬが)れましたが、助けだしたとき、あなたは頭部に傷を負い、意識がありませんでした。そして、右腕は押し潰され、殆ど切断された状態でした」
 あたしは、ぼんやりと自分の右腕を見た。それは疑う余地なくあたしに備わっている。
「じゃあ…これは誰の腕なの…」
「あなたの腕ですよ」あの人は云った。「……間違いなく、あなたの躯と同じ形質の、あなたの腕です」
 注がれたあたしのまなざしを、あの人は目を伏せて受けた。
「この星では、総ての住人の胚性幹細胞(はいせいかんさいぼう)が発生段階で取りだされ保存されています。もし身体に重大な障害を負った場合は、それが培養されて分化されます。治療の痕が一晩で癒えているのは、ここにはそれだけの技術があるのだとしか云えません。なんにせよ、頭部に致命傷を受けでもしない限り、この星の人々が老衰以外の理由で死に至ることはないんです」
「でも…あたしは、ここで生まれたわけじゃない…」
 あの人はあたしの言葉が耳に入らなかったように、窓の外へ視線を向け、唐突に切りだした。「タイヨウさん、あなたも疑問に思っていたのではありませんか」
「………」
「まったく異なる環境で生まれ育ったはずのあなたが、この星の大気に触れても生きていられることを」
「…あ…」
「それは、あなたがこの星で生まれたからです。──正確には、あなたの今の躯が」
 あの人は、最後のところではあたしを見つめていた。見守るのでなく、壊れていくものを見届けようとするような眸だった。
「本来、あなたはこの星の大気の中では生きられません。この星に固有の病原体に関しては、抗体を与えることもできますが、あなた自身が保菌している異星の細菌については、どうしようもありません。下手に取り除けば、体内の均衡が崩れてあなた自身を喰い殺してしまう。だから、彼女たちはあなたを生み直したんです」
 あたしは、一体どんな顔をしているのだろう。胸の(うち)は冷え切っているのに、頬ばかりが熱かった。それで、とあたしは呟いた。
「……あなたの場合は女性でしたから、あなた自身の卵細胞を使って胚が合成されました。八ヶ月をかけて元の身体年齢に達すると、読みだされてあった蓄積情報が新たな脳に移されました。あなたは異星の記憶を持ち、異星の人類の躯つきをしていても、細菌学的にはこの星の人々となんらかわるところがないんです」
「あたしの…」
「───」
「あたしの…元の躯は…?」
 あの人は口籠もった。あたしは聞きたくはなく、また、何を云われるかも判っているのに、必ず云わせるつもりで、あの人を一心に見上げた。やがて、あの人は押し負けて語った。
「──…外へだすことはできませんから、この施設の中で処分されました」
 あたしは、まだ、あの人を見ていた。あの人が泣いてくれるのを待っていた。残酷な気分だった。自分の内へ向かおうとする荒れ狂う力を、無理矢理に外へ発散しようとしているのかもしれない。
 あたしの躯は、既に地球にいた頃の躯ではなかった。たかがそんなことが、なんだというのだろう。
 でも、へんだ、とあたしは挑戦的な口調で云った。
「そんな手間をかけないでも、あたし一人くらい、さっさと殺してしまえばいいだろ…。そんなの、理屈に合わない…」
 聞かされたことを否定するような口振りをしながら、あたしは心では、もう判っていた。
「どれだけ理に合わないことに思われても、彼女たちにとっては合理的な行動なんです。彼女たちは人間に仕えます。けれど、最も重要なのはこの世界、そのものです。ですから、この星に危害を及ぼすような存在に対しては、なんとしてでも排除しようとします。あなたはこの星の生態系にとって危険因子でした。ただ、あなたは抵抗をせずに彼女たちの監理下に入った。そこで問題となるのは、あなたが持ち合わせた異星の細菌だけです。なので、それを解消するための手段を取った。この星で生まれたあなたには──少なくともその時点では、なんら危険はありません。だから他の人々と同じように遇した」
 それだけのことなんです、と、あの人は何処か哀しげに云った。
 あたしは自分の右手を見下ろした。裏返すと、人差し指の先にまだ、生々しい刺し傷があった。
「つまり、これは、鑑札なのか…」指先に埋め込まれたなんらかの装置が、この星の住人としての衣食住の保障や、不可解な耳朶を介さない会話を可能にしているのか。あたしはふと気づいた。
「ヒメミコは…?」あの人は僅かに表情を動かした。ヒメミコはこの星の住人だ。けれどきるものも食べ物も、この世界では有り触れたコミュニケート能力も持たない。途切れているのだ、と夏蜜柑は云った。
「あの子は、(さと)すぎたんです」あの人は云った。「どうしてこの星の人々が同一なのか、判りますか。それが、世界を守るために最も有効な状態だからです。優劣も差異も、探求心さえ失った人々は、決して現在の場所から外へいこうとはしません。争うことも、星を損ずることもない。……あの子は特異でした。真昼の空に懸かる星を、他の数多の星々と同じものとは、どうしてもしんじなかったんです。そして、停止した機械の牧人(まきびと)すら蘇らせてしまった。あの子は、この星の構造に影を落とす存在でした。それは可能性でしたから、すぐさま手を下すことは選択されません。ただ、牧人たちの守る群から、()われたのです」
「牧人…あれは、一体なんなの…」
「この世界を守る者──途方もない昔から、彼女たちはただそのためだけに存在しているんです。誰もがその正体を忘れた、今になっても」
 流麗な口調が、明らかにアルセイドの側についているのがあたしの気持ちをささくれ立たせた。あたしの頭には、薔薇色の髪の少女の姿ばかりがちらついている。
「それで…それで、食べ物や家を与えられて、背いたらそれを奪われて、そうやってあれに飼われていろって云うのか…。世界、そんなものを守るために」
 あの人が不意にあたしの手を引き寄せた。あたしは息をのんだ。
「ここへ埋め込まれているのは、単なる集積回路ですよ。個人の照合などはこの働きですが、主格はあくまでも脳です。──胚幹細胞を取りだす際に、同時に胚には無数の素子が送り込まれます。発生に従って、それらは脳内で脳神経とは別の回路を構築します。目の前にない人と言葉を交わせるのも、私たちがお互いの言語を理解できたのも、この回路の力です。我々の耳には、実際は有りの(まま)の異星の言語が届いているに過ぎません。脳内の機構が、言葉を発する際の相手の脳波を読み、それを宿主の思考型と照らし合わせて翻訳するのを、私たちは『聞こえた』と理解しているのです。脳波は電気信号ですから、中継する装置があれば──現に、この星の街並みにはそうした通信網が張り巡らされているわけですが、遠隔地の相手とも言葉の遣り取りができることになります」
 尖った口調で滔々(とうとう)と語りながら、あの人の指だけは、ゆっくりとあたしの手のひらを滑った。あたしはその不均衡さに震えた。あの人は一旦、言葉を切ると、口振りを少し穏やかにして、
「あの子にあなたの言葉が判らなかったのは、あの子の回路が停止しているからです。あの子には、実際に耳朶に届いた音声しか聞こえません」
 指先をあたしの人差し指の付け根で静止させた。何かをあぐねているようだった。
「…今のあなたは、昨夜に受けた衝撃のために脳内の回路が不安定な状態にあります。回路が自己修復を果たせば、このまま快復するかもしれません。けれど、現時点では働きが不十分で、一時的にこの星の言語が理解できなくなることも有り得ます。もし、自然に回復しない場合は──」
「……ねえ」
 あたしは言葉を遮った。あの人は怪訝そうに目を細めた。そうした表情さえ、意図して作られたもののように(まった)きだった。
「なら、どうして、あんたの言葉は理解できるんだ…?」
 あの人は表情を崩した。あたしの手を取ったまま、しようがないというふうに、
「判りませんか? あの子が云っていたでしょう、私とあなたが、同じ『声』を使っていると」
「───」
「私は今、あなたと同じ言語を話しているんですよ」
 あたしは何もかも、とうの昔に知っていたような気がした。どうして、この人の声だけが重みを持って響くのか。
「私も同じなんですよ、タイヨウさん。地球を離れて、この星に墜ちた」
 語りかける声には親しみがあった。同胞に向けるまなざしで、あの人はあたしを見ていた。あたしは対照的に、心が凍りつくのを感じていた。
「……でも、それだったら、あたしはやっぱり、殺されなきゃいけない」
 抗弁する理由がよく判らなかった。しんじるしんじないでなく、ただ反発があった。あの人は蠱惑的に目を細めて、
「聡明な方ですね。──そう、もし私という存在が彼女たちの意識にあれば、あなたが同じ染色体を持つ女性だと判った時点で、別の選択が為されたでしょう。けれど事実なんです。私は、彼女たちの意識の上には存在しません。ごく当たり前の、この星で生まれた人間としか。私がこの惑星に辿りついたのは、こちらの暦で二十九年と四ヶ月前です。計り知れない科学技術を目の当たりにして、私はそれからの年月、ただそれを把握するために生きてきたのですよ」
 背筋を冷たいものが走った。あたしの胸の裡には、目の前の美しい男性に対する激しい感情が渦巻いていた。手を振り解こうとするのに、顔色一つ変えない男の手からはどうしても逃れることができない。
「私を蔑みますか。けれど、私はあなたに教えることができます」
 知りたくはありませんか、この世界の成り立ちを。
 囁くように、あの人は問うた。その声音と眸の色に、あたしは拒絶を覚えながらも、魅入られていた。それは知恵の樹に絡みつく蛇の声だった。知りたい、とあたしは呟いた。あの人の表情に、ちらと悔いるような色が滲んだ。それが陶酔を断ち切らせた。
 あたしは輝けるものの手を振り払った。
「──…知って、それでどうなる」
 身を引いて、あの人はあたしをじっと見下ろした。心から和らいだ眸だった。
「あなたはやはり面白い人ですね」
 呆然としていたので、あたしは不満に思う機を逃した。
「けれど、あなたは知っていたほうがいい。……あの子を守るためにも」
 そうしてあの人は、あたしに右手を差し伸べた。
「和解しましょう。私とあなたは、それぞれ違うものですが、同一の部分もあるはずです」
 あたしはほんの少し右手を浮かせて、その姿勢のまま問うた。
「その前に、まず聞きたいことがある」
「──なんです」
 あんたは、何者なんだ。
 不格好な質問だと判っていた。ただ、そう尋ねないではいられなかった。あの人はうっすらと唇の端を笑わせ、「古い知り合いですよ」と答えた。
「あなたは私を知っているんです。地球を発つ以前から。──もっとも、私は十六才で死んだはずでしたが」
 扉がひらき、燃え盛る太陽があたしの頬を照らした。
 あたしは右手を差しだした。太陽は砕けることなく、あたしの手を捉えた。そうして指先が包み込まれると、あたしの意識には莫大な情報が流れ込み、あの人の──箍衣(たがい)の記憶の断片までもが脳裏に刻み込まれた。
 手が離れた。あたしは深く呼吸をすると、誰のものとも判らない涙が、頬を伝うことなく胸の上へ落ちた。

 用意されていた衣服に袖をとおして、あたしは病室をでた。目が痛んだ。廊下の壁は総硝子張りで、溢れんばかりの春の日差しが充ち満ちている。森林地帯と都心部との境に位置する病院の、ここは都市側の区域のようだった。白く平坦な街並みが、目線とほぼ同じ高さに眺められる。ぼやぼやと霞みがかって眠気を誘う。静かだ。
 右の指先を硝子に軽く触れるようにして、あたしはゆっくりと廊下を歩いた。反対側には同じ様式の扉が延々と続くが、出会う人は稀だ。腕を切断するほどの傷が一晩で癒えてしまうのだから、入院など滅多に起こることじゃない。なだらかに弧を描く廊下を廻っていくと、小さな盆になんらかの器具を載せた森精(アルセイド)と行き会った。彼女の足取りは配膳をするときとまったく同じだ。あたしはほんの僅かにだけ目で追って、そうして殆ど窓外の景色を眺めていた。ぽつんぽつんと、大気の帳の向こうに黒いアンテナ塔が(そび)えている。あれらがなんなのか、あたしはもう知っている。
 廊下の突き当たりまでいき、迷いもせずにエレベータを見つけだして階下へ下りた。その行程の中途から、もうあたしの肌も衣服も緑の色に染まり始める。建物をぐるりと回り込んで、今は森林地帯に面した区画に入り込んでいる。吹き抜けのロビーへ、籠は滑らかに降りた。下降しているうちから、あたしは透明な管越しに、求める人の姿を認めていた。
 広大なロビーの、見上げるような天井の(きわ)まで切りひらかれた大窓は、何処か巨大な水槽を思わせる。夏蜜柑はその前へ置かれた長椅子の一つに、ぽつんと座っていた。ロビーは薄暗く、大窓から入ってくる光が少女の横顔を寂しげに照らしている。夏蜜柑は身動(みじろ)ぎもせず、すぐ間近まで迫った木立を見つめ、とても小さく見えた。あたしが傍へ歩み寄ると、それでも敏感に気づいて振り向き、笑みを浮かべた。
【もう平気なの?】
 その主語は判らないまま、あたしは無言で頷いた。
【あの人は…】
「……うん、先に、いくって」
 夏蜜柑のまなざしは焦点を失い、顔を(はす)に向けて、そう、となんでもないように返した。あの子たちをお願いしますね、と箍衣は去り際に云った。それは、あたしから少女へ打ち明けるべきことではなかった。それでかける言葉もなく、じっと立ち止まっていた。
 やがて、あたしは少女がじっと見つめているものに気づいた。ロビーの隅、診療室の──そうと知っている扉のそばで、まだ年若い男性がほんの幼い女の子を抱え上げようとしている。女の子は笑い転げ、父親の手を逃れようとする。年若い父親は(たしな)めるような、からかうような顔つきで幼い娘を引き戻す。
 嫌だ、とあたしは思った。
【いきましょ】
 夏蜜柑が急に席を立った。
 いつかのように架線へ昇った。中州につくと、夏蜜柑は手を振って一台の乗るものを招き寄せた。この公共自動車は線形誘導電動機(リニアモーター)で走っている。あたしたちは一つの車内で、別々の位置に座って黙り込んでいた。座席を占めて車窓のふちに頬杖を突いていると、不意に夏蜜柑が口をひらいた。
【小さい頃ね、あたしはあの子になりたかったの】
 床にへたり込んだ夏蜜柑は膝の先を見つめ、淡々と続けた。
【あの人は、あたしとあの子と、両方に優しくしてくれたけれど、でも本当は、あの子のほうが好きなんだって、あたしは知っていたの。いつだったか判らないけど、あたしはママのおうちの階段を独りで上がっていて、部屋の扉の隙間から、あの人とあの子の様子を見て、あの子は勝手に遊んでいるだけだったけど、それを見ているあの人が、凄く綺麗で、あたしには、あんなふうな顔はしてくれないのにって、何か…哀しいような、怒ったような気持ちになって、それで、……あの子のことを、嫌いだと思ったの。あの子のことだって大好きなのに、あの子が嫌で、堪らなかったの。……そのうちに、あの子は途切れて、それであたしは、あの人があの子を好きなのは、あの子が『考えたら判る』子で、あたしは判らないから好きじゃないんだって、そう思って、あたしは、途切れたあの子になりたくて、そればっかり考えていたの。ずっと…今でも、心の何処かで思っているの。変でしょう…?】
 泣き笑いで少女は問うた。あたしは堪らなく思って頸を振った。
「変じゃないよ…」
 夏蜜柑は眸を潤ませたまま、頭を傾けて(すがめ)をした。わざと道化た表情をして、
【あのね、あたしはあの人の奥さんになれたけど、……でも、あの人は、今でも小さい頃と同じふうにしかしてくれないの】
 こわいの、と夏蜜柑は言葉を継いだ。
【もし、……もし、あの人の他の人に子供が生まれたら、あたしはだめになってしまうかもしれないって…。だって、そうしたら、もう完全にあの人を取られてしまうもの。だから、あたしは……】
 あたしは座席を滑り降り、少女を掻き抱いた。あたしの慈しむ心の他に、もう一つ、そうすることを願った部分があった。──少女の悲観は、取り越し苦労なのかも知れなかった。どれだけ姿形が似ていても、あたしたちとこの子たちとは別の生物だ。血が混ざり合うことはない。それを教えてやったとしても、夏蜜柑の悲しみの本質には関係がないことが、やるせなかった。
 夏蜜柑はあたしの肩口に顔を押しつけ、熱い息と雫とを衣服を(とお)して伝えた。
【あたしは、あの人の子供が欲しいわけじゃないの…。あの人が欲しいの。こんなこと考えてはいけないのに、あたしだけが他の人と変わっていたらいいのにって…、あの人が好きなのが、あたしだけならいいのにって、思ってしまうの…】
 異星の少女はあたしにしがみつき、小さく唸った。あたしは頬を少女の耳に押し当てながら、車窓の外の空を見た。飴色の雲が流れていく。この同一な世界でも、決して同一にならないものがある。或いはこれこそが唯一の同一になり()るものなのかもしれない。そうでなければ、一三〇光年彼方で生まれたあたしに、この子の心が響くわけがない。父親を乞う心の凄まじさを知っているから、その子から父親である男性を奪い取ることはできないとしんじる。やるせなかった。そうして、他者を生みだしてまで相手を繋ぎとめようとする女の情念を思った。
 あたしには、それほどの感情があるだろうか。父親を切り捨てたときに、そうした感情まで失ってしまったような気がする。影のような父親は初めから不在だった。百年ぶりに地球に戻ったとき、あたしは母親を思いださなかった。影を引き留めるためにあたしは生まれたのだろうか。それとも、また別の意地があたしには流れているのだろうか。夏蜜柑を抱いたまま、とうに死んだ女の光がひそむ空に、あたしは一心に目を()らしていた。
 やがて夏蜜柑は躯を離し、手のひらで(まなじり)(こす)って、半乾きの目であたしを見据えた。
【──…ねえ、あたしはあなたが好きよ。あの子も。だから、聞かないわ…。昨日、あなたたちが何処へいったのか、どうして、あの人があなたを見つけたのか…聞かないでいるわ】
 痛切な、決意の滲んだ言葉だった。夏蜜柑は表情をほころばせてみせた。受け入れることを選択したのだ。
 今は、とあたしは云った。「今は…まだ話せない。でも、いつか話せると思う…」頼りない言葉だった。それでも夏蜜柑は頷いた。
【判った──】

 上の玄関を入ったときに、あたしたちは足を止めた。そこへ座り込んだ少女と鉢合わせたのだった。ヒメミコは衣服の腰の辺りを引っ張りながら、もぞもぞと立ち上がった。何を云うでもない。こちらを見もしない。
 あたしは自然と破顔した。無傷で無愛想なヒメミコを見て、何より嬉しいという感情が湧いた。
夏蜜柑が賑やかしくあたしたちの間に割って入った。
【ちょっと早いけど、このまま晩御飯にしない?】
 普段通りの無邪気な声だ。あたしはこの子の朗らかさを愛しく思った。口許を弛めて承知すると、ヒメミコを見遣った。二人分の注視を受けて、ヒメミコは不承々々に小さく唸った。
【あ…金雀枝(えにしだ)は…?】
【いや…】
【そう。──それじゃあ、あたしがご飯を作るわ】
 溌剌(はつらつ)と云い置いて、夏蜜柑は階段を下りていこうとした。金雀枝がいないので、自力で家事をするしかないのだ。──一昨日(おとつい)の夜、金雀枝は秘かにあたしとヒメミコのあとを追い、暗路を移動した痕跡を辿って廃棄場にやってきた。アルセイドは持続的な意思を持たない。それで、以前ヒメミコと廃棄場から逃げ延びたときには、翌朝にはあたしたちを忘れていたのだ。けれど、それが心臓のこととなると別だった。あのあと金雀枝はどうしただろうかと思いを巡らせると、地下室の器の中で膝を抱えている彼女を知っている自分に思い当たる。奇妙な感覚だった。
【大丈夫なのか】と、ぼそりと尋ねたのはヒメミコだった。夏蜜柑は自信ありげに、【何度も横で見ていたことがあるもの】姉妹の遣り取りを微笑ましく思う。
 (こころよ)い足音が遠ざかると、あたしはヒメミコへ視線を向けた。ヒメミコはそれ以前からあたしを睨んでいた。まなざしにはいらだちでなく心細さが滲んでいる。
【……あたしじゃない。あの男が助けたんだ】ヒメミコは絞りだすような口調で云った。【お前は、あたしを助けたのに…】
 あたしは頸を振り、それから少女の腕を取って額へ額を当てた。ヒメミコはおとなしく為すがままになっている。【あたしは…お前が機械人形に襲われるところも、見てた。でも、足が竦んで動かなかった…お前は、あたしを助けてくれたのに…】間近に迫った唇がそう震えたけれど、あたしには重大なことではなかった。「聞こえて」いる声音が錯覚だということも、大したことじゃない。瞼を閉じてその余韻を味わうように、じっと息を詰めた。
【お前は、あの男の仲間なのか?】
 目をひらいた。視線を上げると、ヒメミコは哀しげな顔であたしを見ている。頷くと、数拍を置いて、少女の眸が揺れた。
【そうか……でも、それでもいい】
 ヒメミコはあたしに掴まれていた両腕を抜き取り、あたしの手のひらをにぎった。華奢で冷たい手だ。あたしは強くにぎり返した。
 微笑みかけて、少女を階下へ(いざな)った。ヒメミコは躊躇いがちに足を踏みだす。夏蜜柑が苦心しているだろう。手伝って、一緒に食事をしよう。
 夜が更ければ、現実からの迎えがくる。

 凍りついた夜空の(もと)へ、あたしとヒメミコが連れ立って進みでていく。あたしは玄関を少しでたところで足を止め、輝く架線や撒き散らされた星々を見上げる。ヒメミコは鞄の肩紐へ手をかけて、もう一方は上着に突っ込んで歩いていく。あたしは駈け寄り、その手に手を(から)める。これは金雀枝の記憶だ。
 時代がかった街並みを行き過ぎる。摩天楼は障壁のように左右に迫り、無骨な形の信号機が青く灯る。(かす)れて消えかかった白線の上を、違和感を覚える服装の人々が雑踏として行き交う。繁華な場所であるのに周囲は小暗(おぐら)い。ひときわ大きなビルディングや百貨店には明かりが灯っているが、その他の建物は殆どが夜に沈んでいた。ふと頭上を振り仰ぐと、細々とした地上の光を踏みしめて、都市に不釣り合いな満天の星空が広がっている。
 薔薇色の髪の小さい少女が、路上に倒れた女性の躯を見下ろしている。身を乗りだして、好奇心を抑えかねるように、腹の前で自分の両手を引っ張り合っている。すぐ間近に同じ年頃の少女がいて、こちらは不安そうに爪先をいらっていた。夕暮れ、有り触れた住宅都市の十字路は輝かしく赤みがかり、二人の姿は遠い。誰とも知らないアルセイドの記憶だ。
 あたしは肩を揺すられて、はっと現在に呼び戻される。薔薇色の髪の少女が怪訝そうに顔を覗き込んでいる。あたしはまだ現実感を取り戻せずに、少女の頬に手を触れた。肌は冷たく、じきに温かさを感じた。ヒメミコは不機嫌そうな顔つきになり、あたしの右肩に頭をぶつけて重く凭りかかった。あたしは小さく笑い、頭上で光を放つ架線を見上げた。
 あたしたちはそれぞれの上着にくるまり、玄関の扉へ背を預けて敷石の上へ座り込んでいる。ヒメミコは半信半疑のようだった。夜更けて外へ連れだそうとするあたしに、口では(うたぐ)ることを云いながらも、決して屋内(やない)に戻ろうとはしなかった。いじらしく、居たたまれない。
 少しでも気を緩めると、注ぎ込まれた無尽(むじん)の記憶が意識を襲う。あたしは、自分が崩れおちた廃品の下敷きになった様さえ、第三者として思い返すことができる──投げだされた格好のまま、放心して息を継ぐヒメミコ、土煙を上げる堆積、工場の一部をもぎ取ってきたような廃機械の下からは、奇妙に曲がった指が覗き、てらてらと照明を映す血液が土の上を這っていく。ヒメミコは声を上げ、獣じみた動きで取りつくと、機械を押し退けようとする。これは、その場へ駈けつけた箍衣の記憶なのだろう。少女が顔を歪めてこちらを振り向き、焦れるみたいに頭を振って叫ぶ。──あいつが。その声が、不可思議な経路を辿って今ここにいるあたしに届く。
 あたしはねむってしまったように動かないヒメミコを見下ろし、これからこの子を(いざな)っていく先を思う。夜光で白けて見える鮮やかな髪が揺れた。目を上げると、少し向こうの路上に迎えの人影が現れていた。あたしはとまどうヒメミコの腰を抱いて立ち上がり、幽鬼の(もと)へ歩いていった。アルセイドはあたしたちが近づくと、ゆっくりと向きを変え、三十六区に向かって先導し始めた。いつしか、あたしの躯にもヒメミコの腕がまわっている。あたしたちはお互いを抱き寄せるようにして、無言の水先案内人のあとへ続いた。
 十字路から暗路へ入った。照合は先に立つアルセイドがした。指を鳴らすだけの()を置いて、あたしたちは何処でもない場所に入り込む。踏み越える、と云ったほうが正しいかもしれない。ここは舞台の裏側なのだ。真っ白なアルセイドの姿が闇に飲まれるのを違和に思う。あたしはヒメミコの体温だけを感じて足を進めた。気づくと、あたしたちは無数の太陽の(もと)に立っている。
 アルセイドは一昨日のあたしたちとは違う道筋を辿った。ずっと早く例の空間へいきついた。精霊はある地点でしばし足を止め、次の瞬間に掻き消える。あたしもヒメミコを抱いて歩みでた。目の前に廃品に埋もれた入口が現れている。再び姿を見せたアルセイドは振り返り、緑柱石(エメラルド)色の眸であたしたちを見遣った。あたしたちは彼女を残して入口へ向かった。
 長い階段を最深部まで下りると、(ほの)暗い部屋の奥に水槽の明かりに照らされて、アルセイドと似通った、けれどアルセイドではない人の横顔があった。腰を屈め、水槽のふちに手を突いて視線をおとしていた箍衣は、あたしたちが声をかけるより先に口をひらいた。
【──待っていましたよ】
 その言葉は脳内でだけ響いた。この場の主客(しゅかく)は箍衣とヒメミコなのだ。箍衣はヒメミコを見つめ、(うれ)わしげに目を細めた。
 こちらへ、という呼びかけに促されて、あたしとヒメミコは彼の傍らへいく。箍衣の覗き込んでいた水槽の中には、金雀枝(えにしだ)がいた。目を見ひらいたまま、膝を抱えて虚空を見つめている。あたしの二の腕にかかったヒメミコの指の力が強くなった。
 箍衣は揺れ動く水面を見下ろし、おいで、と囁くように云った。その甘やかな声が精霊に再び生を吹き込んだようだった。水の中で金雀枝の指が痙攣すると、ゆっくりと腕をほどいて彼女は立ち上がった。長い髪から夥しい雫が滴る。裸身の彼女は人間そのものの肌をしているのだけれど、躯つきの細部の造作はなく、ただ起伏があるだけなのが異様だった。膝の高さほどになった水の中に金雀枝は立ち、じっと自分を呼び覚ました男性を見つめた。
 アルセイドにとって、箍衣は協力者なのだ。この星を律する機構の正体を知り、彼女たちの能力では及ばない部分を支えている。損傷したアルセイドを修復することもそうだった。直す、ということはこの星の概念にはない。何もかもが使い捨てだ。けれど、アルセイドに関してはその構造が破綻している。もう随分と以前に、新たな個体は生みだされ得なくなったのだ。
 あたしは金雀枝の瞬かないまなざしに、何か恋慕のようなものさえ滲んでいるような錯覚をする。息のかかる距離に向かい合った二人は、同じだけの苦心で刻み込まれた彫像のようだ。箍衣は淡々とした手つきで精霊の頬に貼りついた髪を指で剥がした。
【……そいつ、死んでいたんじゃないのか】
 怖ず怖ずと問うたのはヒメミコだった。箍衣は金雀枝を注視したまま、
【ねむっていただけですよ。昨夜、あなた方を救うために強制的に活動を停止させました。他に支障はありませんから、また元のようにあの子のところで過ごせるでしょう】
 幼い時分から知る少女に向けるには、あまりに余所々々しい言葉だった。箍衣は手を下ろし、あたしたちを奥の部屋へ招いた。あたしは通路の途中で振り返った。いつの間に現れたのか、二人のアルセイドが水槽から上がった金雀枝の躯を(ぬぐ)ってやっている。金雀枝は、もうこちらを見ていない。
 不意にヒメミコがあたしの手を取った。視線を移すと、少女は輝きの失せた眸を真っ直ぐ行く手へ注いでいる。あたしはヒメミコの手を固くとらえ、暗緑色(あんりょくしょく)の光の灯る部屋へ入った。ヒメミコは険しい顔つきで棚の上の心臓を見上げた。少女は自分自身の衝動に怯えているのかもしれない。
【これがなんなのかは、知っていますね】
 正面の棚の前へ立った箍衣は、ゆっくりと切りだした。あたしは黙っていた。ヒメミコは押し殺した声で、機械人形の心臓、と答えた。
【そうです。彼女たちの心臓は、見た目には他の機器の動力と変わりませんが、独自の特殊な鉱石でできています。遙か以前の、彼女たちが創りだされた時代には豊富にあったその鉱石は、長い年月のあいだに掘り尽くされてしまいました。結晶内に宿った力は経年によって衰えていきます。つまり、今あるだけの心臓が止まれば、もう二度と彼女たちを動かす術はなくなるのです】
 あたしは視線を彷徨わせる。三方を取り囲み、天井まで届く棚に載った心臓は残り少ない。かつては目映い光を宿した石が、部屋を埋め尽くすように蓄えられてあったのだろう。今や完全な結晶は皆無に等しい。停止した複数のアルセイドから心臓を取りだし、光の残る部分を寄せ集めて一つの個体に戻す。そうして露命を繋いでいる。
【要するに、あたしやこいつが襲われたのは、その大事な心臓を盗みだそうとしたからっていうことだろう】
 ヒメミコが険のある口振りで云った。アルセイドをというより、目の前の美しい男性を弾劾(だんがい)しているように思えた。
【表面的な事柄だけに目を向ければ、そのとおりです】箍衣はかわらず、醒めた口調で続けた。【けれど、それは単に彼女たちの悪感情から発したことではありません。あなたは──機械人形と呼ぶ彼女たちが、頑迷に人間を監視していると考えているのでしょうが、彼女たちが人間に仕えるのも、拘束するのも、同じひとつの目的からでた結果なんです】
 振り向くと、あたしたちの背後に衣装を纏った金雀枝が立っていた。金雀枝はしずしずと部屋の中央まで進みでる。そうしてあたしとヒメミコのほうへ向き直った。
【彼女の手に右手を重ねて下さい】
 あたしは逡巡の色を浮かべたヒメミコを見遣り、まず自分から上向けられた金雀枝の手のひらに手を重ねた。ヒメミコは見捨てられたような顔をした。それから息を吸い、あたしの手を振り解いて金雀枝の手に手を重ねた。
 いいですね、と静かに、遠い惑星の言葉で箍衣は問うた。あたしは(まぶた)を閉じて頭を揺らした。本当はまだ、決心がついたわけじゃない。金雀枝の手のひらが熱を持ち始めた。意識が霞んでいく。微かに少女が呻くのが聞こえた。──停止したヒメミコの回路に、アルセイドを使って無理強いに情報を流し込む。あたしは堪えきれずに少女のほうを振り見た。そこにヒメミコはいなかった。ただ虚空が広がっていた。
 あたしは周囲を見回した。上下左右の区別さえなくなっていた。辺りは奈辺の闇だ。そうして、数え切れない星々があたしを取り巻いている。あたしはやがて、自分の足下に──そう認識される場所に、海が光を放っているのに気づく。紫丁香花(ライラック)色の海が丸く、あたしの見下ろす虚空に白い光に包まれて浮かんでいる。
 これはあたしの記憶なのだ。かつて地球の船に乗って、軌道上からこの星を眺めた。
 ──ここは。
 ヒメミコが問うた。その声は音ではなく、重みのない響きとしてあたしに届いた。
〈この世界、そのものですよ〉
 もう一つの声が答えた。
〈あすこが、私たちのいる場所です〉
 ──何も見えない。
〈それは、あまりに小さいからです。私たちのいる世界は、本来は無数の断片としてこの海を漂っています。私たちはその欠片から欠片へ、そうと気づかずに飛び渡って暮らしています。三十六区の十字路から、あなた方は光のない通路へ入り込んだでしょう。あれと同じように、一瞬にして別の欠片へ私たちは移動します。本来は、あの子の家の周囲と、三十六区の家並みとは別々の断片に存在しています。あの通路は、彼女たちがこの場所から、それぞれの断片へ素早く移動するためのものです。それを、あなたは見つけだした〉
 ──あいつらは、何者なの。
〈この世界を守るもの──人々がかつての指示を忘れても、彼女たちはただそのためだけに生きているんです。その目的の前では、人間も、そして彼女たち自身も価値を持ちません。けれど、彼女たちの死は、守るべき世界の死を意味します。それで心臓を持ちだそうとしたあなた方を、あれほどに追い詰めたんです〉
 ──あたしは、世界を壊す者か。
〈あなたは、特別だからです〉
 先端の溶けた雲が、細く引き延ばされ、焦れったい速度であたしの前を横切っていく。
〈普通であること、優っても劣ってもおらず、同一であることは、人間を世界にとって無害なまま(とど)めておくために必要でした。そのために、彼女たちは人間に仕えるのです。求めることも、疑問を抱くこともないように〉
 ──それなら、人間なんて殺してしまえばいいだろう。
〈それはできません。──これだけの機構が…無数の断片を繋ぎ、それらを保持する働きが、何を(もとい)にして成り立っているか判りますか。人間の脳なんです。我々の脳には、彼女たちを動かし、この世界のあらゆる機能を司る「意思」と繋がるための仕掛けが施されています。数え切れない欠片が結びつき、世界を形作っているのと同じように。途切れたあなたが失ったものは、その副産物に過ぎません。私たちの脳の片隅で、私たちの意識とは無関係に、その「意思」は断片の果てへ街並みを映し、人々をその先へ渡らせ、すべてのものを管理するための計算をしています。「意思」はこの世界の何処にもない、ただ、この世界に暮らす人々の脳の繋がりの上に存在するんです〉
 ──…じゃあ、みんな幻なのか。
 人ならざるものの声が聞こえる。海魔(セイレーン)の歌の正体は、この海洋惑星に点在する数多の人工島が発する光か、或いは単純に、島々を統制するアンテナ塔が発する電磁波だったのかもしれない。そうした異星の機構が、たまたま地球の電子機器を狂わせる信号を刻んでいたのだ。制御を失った船の多くは無尽の宇宙空間へ放りだされ、あるものは軌道上で大破し、そしてあたしはその破片を受けて四散した。脱出艇の多くは海に落下した。回収されることなく、未だ虚空を漂っているものもあるだろう。あたしはなんの必然性もなく、森を構成する断片の一つへ墜ちた。
 ──あたしの見ているものは、本当はないのか。
〈………〉
 ──空も偽物なのか。
〈いいえ、あなたが見ていた空は、本当の空ですよ〉
 ──でも、あたしはあの丸い殻の中に閉じ込められているんだろう。
 (にわか)に全身の感覚が戻った。
 暗緑色の光が、すぐ前にいる金雀枝の白い頬を照らしている。肩越しに、じっと佇んだ箍衣が見える。箍衣のまなざしはあたしを射てはいなかった。
 見返ると、ヒメミコが瞬きもせずに(くう)を見つめていた。その頬に涙のあとがないのが、あたしの選択を完全には責め立てないでいてくれた。あたしはただ、少女をやるせなく抱き竦めた。
 泣くな、とヒメミコは云った。

 箍衣(たがい)は手を差しだす。あたしは一方の手をヒメミコと(から)め、もう一方の手でその手に手を重ねる。箍衣が後退(あとじさ)るのに従って足を進めると、もうそこは照明の輝く廃棄場ではない。微かな葉擦(はず)れの音と濃密な草いきれがあたしたちを包んだ。あたしたちは森の中に立っていた。梢を(とお)して青ざめた月の光が降っている。
 あたしたちの背後から、次々とアルセイドが進みでてくる。精霊たちは一様に、腕にほころびかけた花を入れた籠を提げていた。静寂の染み渡る木々の()()に散り散りになっていくと、地面の萎れた花を引き抜き、代わりに新しい花を植えつけ始める。冗談のような光景だった。
 ぼんやりと周囲を眺めていたヒメミコが、ふと何かに導かれるように歩きだした。あたしは半歩続き、それから指をほどいた。ヒメミコは少し先の苔生(こけむ)した根に上り、樹皮の剥げ落ちた、幹に藤を思わせる花を這い上らせた木立の前で立ち止まった。片手を触れ、じっと見上げる。
 後悔をしていますか、とかたわらに残った箍衣が尋ねた。判らない。あたしはヒメミコを見つめたまま答えた。
 もうじきに、ヒメミコは箍衣と結婚することになる。──簡単な理屈なのだ。途切れた少女が結婚をして「夫婦」という単位になれば、その伴侶である箍衣は他の夫婦より庇護の面で不利になる。だから同一であるために少女の回路が蘇る。人はこの世界を律する分散コンピューティングシステムの(もとい)だ。世界を継続させるために、次の世代を生みだす単位は何よりも優先される。前時代の人の理屈も、途方もない統制システムの理屈も、辿りつく結論は同じということだ。
 こうして虚しさを覚えるあたしの脳こそが、そのシステムの一部だと思うと可笑しいくらいだった。俯いて深く呼吸をすると、案じた箍衣が距離を(せば)めた。あたしは何か云われる前に顔を上げた。
 眉を曇らせて見下ろしてくる男性は、やはり嘘のように美しい。
「……あんたは、あたしにはできない方法であの子を守れる。だから、守ってやってほしい」
 箍衣はあたしの視線を受け入れてから目を逸らし、ええ、と静かに答えた。地球上でなら三一九才の年のひらきがある男性は、そうして今、あたしの目の前に立っている。
 あたしは小さく唸ってから、打ってかわって切りだした。
「同化したときに、あんたの記憶も少し頭に入ったけど、ちゃんと聞いてないよな。──あんたはどうして、宇宙にでたんだ?」
 箍衣は早口で云いきったあたしを見遣り、そして口をひらいた。
「……単なる、子供の意地ですよ。あなたも、歴史の授業か何かで習ったかもしれませんが、私の生まれた時代は宇宙へでることなど到底不可能な状態でした。二十世紀の終わりから、各国は常にエネルギー不足に見舞われ、テクノロジーの発展は完全に抑制されていました。都市の中心部でさえ、時刻がくれば電気が止まってしまうんです。明かりが灯っているのは、自家発電設備を備えた大企業ばかりで──それが、人々に負の印象を与えてもいました。平等をと叫ぶ割に、人々はそうして優位に立つ人を、自分たちよりも低く貶めたいと願っていたんです」
 いつしか、男性の口許に(ほの)かな笑みが灯っている。実際にその苦境を経験した者だけの、諦念の微笑だ。
「私は、そうした社会が嫌でした。そして、ありきたりですが、都市の明かりに遮られない星空に、救いを見出していたんです。あとは、成り行きです。大きな声では云えない行為の果てに、私は当時の大国が秘かにヒヤデスへ向けて探査船を送ろうとしているのを知りました。一九六九年の月への到達以降、宇宙開発など絶えて久しい分野でした。通信衛星一つ打ち上げるだけで、それに費やされる費用や燃料が声高に非難されるんです。あの時代の人類は、まるで永久に地球の上で暮らしていくことを暗黙裏(あんもくり)に了解しているようでした。充分なエネルギーを確保する方法をさぐるのでなく、自分たちが享受できない科学技術など不必要だという風潮が横たわっていました。ヒヤデスへの航海は、そうした科学の亡霊たちが(ようや)く掴んだ無二の機会でした。具体的にはラムジェット推進の試用と──つまり、当時はそれが実現可能な技術の上限だったわけですが、特殊相対性理論で予言された加速度による時間の遅れの観測が、主な目的のようでした。特に後者が重要視されたからこそ、近傍の恒星ではなく、わざわざヒヤデスが選ばれたようです。一三〇光年の間に船内の人間は幾つ年をとるのか──探査船には人が搭乗する計画だったんです」
 箍衣は一旦、言葉を切り、遠く近く見え隠れするアルセイドの姿を眺めた。
「──ヒヤデス、という曖昧な目的地が表すとおり、行って戻ることは初めから考えられていませんでした。その上、ラムジェットエンジンの製造は国際法に抵触する可能性がありました。打ち上げにかかるコストや、そもそもそれが秘密裏に行われようとしていたことや…この計画が露見すれば、当時の政権はおろか、国家そのものが打撃を受けることは必至でした。それで、私は交渉したんです。知り得た情報を口外しない代わりに、要求したのは、途方もない金銭でも地位でもなく、私をその探査船に乗せることでした」
 ひとりきり、とあたしは呟く。箍衣は彼方を見たまま、ええ、と答えた。
「どのような協議があったかは、知る由もありません。けれど、少なくとも年齢的には、私は搭乗員に求められる条件に叶っていました。そのときには、まだ十六才を数えるばかりでしたから。……船は、機体の大部分が推進機関で、居住区はほんの狭苦しいものでした。そこへ、地球の様々な植物が積み込まれました。生育の観察のためと、船内の酸素を補うために。その他には、殆ど何も持ち込みませんでした。死出の旅に持っていくものなど、ありはしないんです。私には航行距離が一二二九兆八〇〇〇億㎞を超えたのちは自身の判断で推進機関を停止させる権利と、自決用の毒物が与えられました。それからの日々は、ただ淡々としたものです。およそ地球時間の一年で、船は亜光速に達しました。宇宙へでたものの、窓の外に見えるのは星の虹ばかりで、定められた間隔で観測データを送る以外、じっと横たわっていました。予想外だったのは、そのような環境でも植物が生長し続けたことです。やがて船室の壁から天井を覆い、室内灯の明かりの下で夥しい花をつけました。私は宇宙船ではなく、その花々に守られてこの世の果てへ向かっているような気がしました…」
 涼やかな面差しが伏せられ、自嘲するように息だけで小さく笑った。頭上の遥かで木々がざわめく。不意に歩み寄ってきたアルセイドが、箍衣の二の腕に手をかけ、ほころびかけた花を示した。箍衣が口許を(ゆる)めると、彼女は衣装を(ひるがえ)して去っていく。あたしは幻を見ている気がした。
 アルセイド、という呼び名は思いつきだったけれど、実は的を射ていたのかもしれない。精霊(ニュンフェ)は森に四季の花々を咲かせ、家畜を守り、守護する木や泉が枯れれば共に死んでしまう。そして美しい人間の男に心惹かれ、彼を自分たちの国へ連れ去っていく。
「取り決められた航行距離を、更に数兆㎞も過ぎて、私は船の動力を切りました。周囲の天体の干渉で徐々に減速し、航路を掻き乱されて、やがて前方の星虹(スターボウ)が消えると、私は(ようや)くありありと宇宙の光景を目にしました。そこは、やはり星々が手の届かないところで光る、何もない場所でした。私は地球から逃れて、結局は同じ場所に辿りついたのだと思いました。服毒する機を得られないまま、慣性に任せて船を漂わせ、この惑星を見出したのは、それからしばらくののちです。あとはあなたと似通っています。墜落したのも、やはりこの森でした──正確には、こことは『別の』森ですが。ただ、私は脱出艇に乗っていたのではありません。そうしたものは初めから搭載されていませんでしたから。私は自ら、機首をこの惑星へ向けたのです。実在が推定されていたに過ぎない海洋惑星を目の当たりにして、その終わりのない海を自分の死に場所にしようと、子供じみたことを思ったんです」
 箍衣は不意に、私はいくつに見えますか、と尋ねた。あたしが答えあぐねているうちに、
「私がこの惑星で過ごした時間は、地球の暦に直せば十五年です。船が亜光速に達するまでと、船内での引き延ばされた年月を除外すると、私はほぼ、地球で暮らしたのと同じ日々をここで生きていることになります。自分の年齢などを思い起こしたのは、あなたが地球からやってきたのだということを知ってからです。私は嬉しく思いましたよ。三百年後に生まれたあなたと、こうして十数才だけの年の差で向かい合えていることを」
「……ほんとに、そうか?」
 あたしは躊躇いがちに切りだした。「あたしがここにいるっていうことは、あんたが予想したとおり…太陽が覆い隠されたっていうことなんだぞ」
 夜光を宿すまなざしは、ほんの少し細められただけだった。
「…──ええ、本当ですよ。地球の人々が活路を見出したことも、そうして得たエネルギーで時空移動が可能になったことも」
「偽物の太陽が、空に輝くことも…?」
 箍衣は口を閉ざした。稍して、静かな声で語った。「ダイソン球の理論は、元々は太陽を覆った球殻の上に人類が移住するというものでした。当然、そのほうが理に叶っています。けれど、人々は決して地球を離れることはない。太陽が見えなくなれば、紛い物を作ってでも旧来の光景を再現しようとする。姿を持たない神はいないのですから」
「ここでは、神様自体がいない」
「だからこそ、私はこの星で生き続けることを選んだのです。同一で、(うらや)みも(さげす)みもしない人々の中で。……しかし、あの子は違った」
 あたしは振り向き、木立の前で項垂れた少女を見つめる。あたしたちの取り交わす「声」が聞こえているのだ。と、太い幹の裏側からひとりのアルセイドが顔をだして、ヒメミコは咄嗟に身を引き、足を滑らせて転んだ。あたしは思わず駈け寄ろうとした。その前にヒメミコは柔らかな苔の上で不機嫌そうに頭を振り、大儀そうに立ち上がると手を払った。そうして花を植えつけるアルセイドを見下ろす。
「あなたは、何故あの子を愛したんです」過保護ぶりを可笑しがるような穏やかな口調で、箍衣は問うた。そんな大したことじゃ、とあたしはしどろもどろになる。「ただ…あの子は、太陽だから」
 意識せずにでた言葉は、どれほど考えてだした回答よりも真実だった。ヒメミコは太陽なのだ。
「あの子の名前は、まるでこのことを暗示しているようですね。もっとも、我々だからそう思うのでしょうが」
「生まれ育った環境は莫迦にならないな」
「……鳥を見せたのは、私なんですよ」
 あたしは視線を戻した。箍衣は真っ直ぐあたしを見ていた。
「あの子は生まれつき特別だった。それは本当です。私が干渉しなくとも、やはりあなたと手を取って、囲いの外へでようとしたでしょう。私は、あの子の力があの子自身を苦しめると知りながら、それでも(かけ)ていく先を見たかったんです」
 私を非難しますか、と箍衣は問う。あたしは数拍を置いて、いいや、と呟く。あたし自身も、この人と同じ思いでヒメミコを見ていた。逃げだそうとして逃げだしきれなかった自分を、心の何処かで少女の強さに仮託していた。けれど、やはり逃げられないのか。
 あたしは箍衣から離れ、ゆっくりと少女の(もと)へ歩いていった。アルセイドの手許を眺めていたヒメミコは、何気ない動作で振り向きあたしがやってくるのを待った。手を取ると、話は終わったのか、とわざと茶化すように云った。あたしは仕方なく笑った。
【これをあいつが見たら、なんて云うだろうな】
 ヒメミコは独り言のように零し、樹上を仰ぐ。木々の梢の重なりは(みつ)で、高みへいくほど闇は深い。少女はその姿勢のまま、ふっと表情を失い、宇宙人、とあたしを呼んだ。
【また、近いうちに手を貸してくれるか】
「………」
【色々と、片付けなきゃならないものがあるからな】
 ヒメミコは吹っ切れたような笑みであたしを見遣った。【溜め込んだ機械とか、あの大きなものとか、持っていくわけにいかないしな…】
 あたしはすぐには応えられなかった。少女はあたしから目を逸らし、無言で箍衣の姿を見つめた。

 海へ翼を投げおとすと、それは細い煙を上げて輪郭を崩し、幾度か波に寄せ返されたあと、静かに割れて沖へ(さら)われていった。「大きなもの」はあたしたちの身長ほどもあった。それが呆気ないものだった。
 ヒメミコは足下に置いた鞄から、次々に機械部品を取りだしては惜しむ様子もなく水面(みなも)へ投げ捨てていった。燃え立つ恒星をものもうとしている海は、それらのおちる音すら波音で掻き消し、当てつけがましいほどの他人顔であたしたちの行為を眺めていた。機械人形の足も捨てた。ヒメミコの手が小さな羽搏(はばた)くものを掴みだしたとき、あたしはそれを引き止めた。意外そうにあたしを見たヒメミコは、やがて意を()み、あたしに羽搏くものを差しだした。あたしは愛しく受け取り、羽の付け根に指を滑らせたが、それは動かなかった。
 もう心臓が止まってしまっていたのだ。

 夏蜜柑の指先は、薄い緑色に染まっている。
 あたしは階段を下りる。吹き抜けには笑いさざめく人の声が充ち満ちている。あたしがこの星で挨拶をするほど関わった人は数少ない。それで、ホールに集った見知らぬ人々の姿を目新しく感じる。みんな同じ服装だ。式日にも普段とかわらない装いなのを奇妙に思う。その代わり、集まった人々の胸には色取り取りの花が飾られている。あたしと夏蜜柑とで庭の花を摘み、夏蜜柑が整えたのだ。
 温かな春の日差しにぬくめられて、辺りには濃密な花の()が籠もっている。あたしは混み合う人を()ってホールを横切る。あたしの存在は知られているだろうに、擦れ違った人がちらと目を向けるだけで、誰も話題に上らせない。夏蜜柑の部屋に入った。正面の開け放たれた円窓から、重みを感じるような心地よい風が吹き込みあたしを迎えて、あたしは足を止める。寝台の脇へ立った夏蜜柑が顔を上げ、明るい表情であたしに問う。あたしは頷く。こちらに背を向けて、寝台に、薔薇色の髪を背に垂らした少女が腰掛けている。
 少女は、あたしたちと同じ白い服を着ている。鮮やかな髪や衣服のそちこちに、心を尽くした花が飾られてある。夏蜜柑はまだ、草の色素が染みついた指に百合水仙(アルストロメリア)のような白い花を持って、その相談をする。あたしは頷く。ただ頷いて、振り向かない少女の躯の小ささを見ていた。
 食堂にも人が溢れている。あたしが入っていくと、顔を見知った女性が(やつ)れた笑みで呼び止める。夏蜜柑の母親だ。母親は自分の周囲の人々を紹介する。すぐ隣にいた男性は、夏蜜柑の父親だった。恰幅のいい、髪の白みがかった人だった。それ以外の印象はなかった。にこやかに挨拶をする。その隣は、ヒメミコの母親だった。髪が殆ど茶に見える赤色をして、目許の冴えているのに見覚えがあった。彼女は妹から引き継いで、立て続けに紹介していく。ヒメミコの父親、それとは別の夫、夫、その娘、夫、夏蜜柑の父親の妻、その息子と娘、もう一人の妻──あたしは奪い合いになるみたいに全員と挨拶をした。みんな胸に花を飾り、賑やかに笑みを浮かべている。
 テラスにでた。ここへは限られた人しかいなかった。庭の端で固まって会話している三人の男性、テラスの間際にはまさしく精霊(ニュンフェ)のように花冠(かかん)を戴いた金雀枝が立っている。そして、既に花の終わった花樹の下に、一人離れて箍衣が佇んでいた。
 冷たい色の眸と、あたしは無言で見交わした。背後から夏蜜柑が呼びかけつつ顔をだした。そのまま自分の伴侶である男性の(もと)へ駈け寄っていく。手にしたひときわに美しい花飾りを、箍衣の衣服の胸へ挿した。箍衣は忙しそうに揺れる少女の髪を見下ろしていた。夏蜜柑は自分の手許を見つめ、いつまでも、繰り返し花の姿を整えていた。
 やがて、薔薇色の髪の少女は人々が左右に分かれた中を進みでてくる。テラスと食堂との境に立ったあたしの前を通り過ぎるとき、ヒメミコは僅かに視線を向けた。少女は哀しんではいなかった。総てを受け入れるような眼差しであたしを見て、そして立ち止まることなく歩み去っていった。
 金雀枝が片手のひらを上に向けて差しだした。箍衣は右手を重ねる。あたしは少し前方に立った夏蜜柑へ目を向けた。白い首筋と頬の輪郭ばかりが見える。夏蜜柑は身動(みじろ)ぎもせずに向かい合った二人を見ていた。しばしの空白のあと、ヒメミコが箍衣の右手の上に更に自分の右手を重ねた。歓声が波のようにあたしたちを打った。

 式のあと、あたしは三人を──そのうちの誰を余計にとも判らぬまま、求めながら、歓談する人々の合間を彷徨っていた。ホールに戻って、ふと目を上げたとき、階段の先に人影が()ぎったような気がして、あたしは誰に見咎められることなくホールを離れた。二階の踊り場まで上がると、一つ上の踊り場に、背を扉に当ててヒメミコが立っていた。ヒメミコは素早く室内に入った。あたしは惹かれていった。
 扉を入ると、相変わらず雑然とした部屋の中央に、薔薇色の髪の少女はこちらを向いて立っていた。口許が笑っていて、あたしはその辺りばかり見つめている自分に(やや)して気づいた。誤魔化すつもりで眉を(ひそ)めて(はす)を向いた。ヒメミコは歩み寄ってきた。あたしを呼び、そうして間近で立ち止まると、右手を差しだした。
 あたしは泣き笑いをしていただろう。どうしようもなく声が漏れて、その手を右手で、人差し指が重なるようにとらえた。瞬時に痛みのような感覚が指先から走った。ヒメミコは云った。
【喋って】
 あたしは、改めて体内に満ちた少女の名前を答えた。
【もっと長く】
 ヒメミコは眸を滲ませてせがむ。
「長くって、何を喋ればいいの」
 あたしは云った。あたしたちは涙ぐみつつ、笑い声を零して額を合わせた。少女はもう、途切れてはいない。
【……ねえ、宇宙人。ずっと、お前に聞きたいことがあったんだ】
 ヒメミコはそう云うと、(しお)れたような表情であたしを見つめ、そしてゆっくりとあたしの唇に唇を重ねた。それは他愛のない真似事で、少女が心許なさに身を硬くしているのさえ伝わった。あたしは少女の躯を抱いた。あたしの性急な手の下で、花嫁を飾る花々がいくつか潰れた。
 少女はあたしの喉元へ手を添えていた。どちらからともなく唇を離すと、
【これの意味】
 あまりに(いとけな)くヒメミコは問うた。
 あたしは仕方なく小さく笑って、
「教えない」
 最良のことを云った。ヒメミコは視線を外し、それ以上は尋ねずにあたしの腕の中から逃れでた。下ろした髪を掻き、窮屈だ、とぞんざいに云い放った。見目と口振りとの差異が可笑しかった。
 耳朶を介さない呼びかけが聞こえ、振り向くと扉がひらいた。そこへ立っていたのは夏蜜柑だった。夏蜜柑はあたしからすぐに従妹へ目を移し、みんなが捜していると困り顔で云った。
【なあ、この格好、まだしてなきゃいけないか】
 ヒメミコは駄々っ子のような口調で尋ねた。勿論よ、と夏蜜柑は咎めるように云う。二人とも、懸命に何かを保とうとしていた。
 夏蜜柑は室内へ立ち入ってくると、あたしの足下へ散った花に気づき、腰を屈めて拾い上げながら、
【あんまり動くとお花がおちちゃうわ】
 と、力なく云った。
【動かないでどうやって下に降りるんだ】
 ヒメミコの声は、不格好に機を逸していた。
【いいから】
 夏蜜柑は唐突にきっぱりと云い、従妹を促した。ヒメミコは不承不承というふうに、髪を引っ張りながら部屋をでていった。扉が閉まると、夏蜜柑は膝を伸ばした。潮騒の音のように、いくつもの隔たりの奥に階下の賑わいが聞こえている。
【困った子】
 不自然な声の大きさで、夏蜜柑は云った。そうだね、とあたしは答えた。
【──…あの人は、優しい人だから、きっとあの子のことも、ちゃんと面倒をみてくれるわ】
 夏蜜柑は、にっこりと笑みを浮かべた。それから表情を解き、何処でもない場所を見つめる。
 ヒメミコは夏蜜柑の家を離れる。今のままでいいと云い募った夏蜜柑に、ヒメミコのほうから押しきってそう決めたのだった。自分を夏蜜柑の目の中から遠ざけたいのかもしれない。
 あたしは夏蜜柑の家へ(とど)まることを決めていた。夏蜜柑は微かに唸りながら頬を擦り、あたしを振り見て、もうすぐお菓子がでるのよ、と教えた。あたしは器用に返事をすることができなかった。夏蜜柑は気にせずに、あたしの腕を取った。
 あたしの心など、異星の少女たちに比べれば、あまりに脆弱で未熟だった。

 家の中はがらんとしている。ほんの少し前まで、日々を夏蜜柑と二人きりで過ごしていたのが嘘のようだった。しんじがたいような空白だった。あたしは造りつけの家具以外、何も残らずに片付けられた三階の部屋に立っていた。窓の上着もなくなっている。夜光が我が物顔で室内を照らしている。
 ひとつ下の自室へ引き取った。夏蜜柑はとうに休んでいる。ヒメミコが新しい家へ移っていってから、夏蜜柑は無気力だった。張り合いをなくしたというほうが大きいのかもしれない。庭にもでないので、金雀枝(えにしだ)が随分と時間を割いて花々に水をやっていた。
 あたしは寝台にもぐり込み、枕の端に置いた小さな羽搏くものを見つめた。喪失感を覚える道理などないはずだった。この結婚は少女を救うためのものなのだ。当のヒメミコもそれを承知している。形だけの関係で、回路や庇護が蘇ったこと以外、これまでとかわりない──ただ、夏蜜柑はそれを知らない。だから、ヒメミコは去っていった。結局ところ、あたしは少女が手の届くところにいないということが、寂しいのかもしれない。
 どれだけか微睡(まどろ)んだあと、ふと目を覚ました。そこにヒメミコがいた。あたしを見下ろしている。あたしはゆめうつつに、欲ぶかい夢を見ている、と思った。ヒメミコはあたしの寝台に乗り、あたしの腰の上に馬乗りになった。その重みまで感じた。少女はあたしの愛した、(はがね)で煮染めたような上着に、襟のひらいた服、太腿の露わな格好をして、薔薇色の髪を高い位置で括っている。藍銅(アズライト)色の眸であたしを見据え、腰を折って、耳の横に手を突いた。
 ヒメミコ、とあたしは呟いた。ヒメミコ、可愛いね。
 少女の口許がほころび、莫迦だな、と云った。
 気づくと朝になっていた。
 あたしは打ち捨てられたように躯を横たえていた。どうしてこれほど哀しいのか、しばらく思いだすことができなかった。
 身仕舞いをして食堂へいった。輝かしい日差しが溢れている。食卓には既に二人分の朝食が用意され、水差しを手にした金雀枝が脇へ控えているのに、夏蜜柑がいない。あたしは金雀枝に──これまでどおりの習慣でおはようと云って、硝子戸に近寄った。庭の花々のあいだに、丸まった夏蜜柑の背が見える。硝子戸を引き開けて、声をかけると、夏蜜柑は久しく見なかった(こころよ)そうな表情で振り向いた。それから一抱えほどの、黄色い蘭に似た花の鉢を持ってテラスに上がってきた。
【あの子のところに、持っていくの】
 夏蜜柑は云った。口振りも顔つきも、ひどく穏やかだった。
 食事を済まして、あたしと夏蜜柑は連れ立って下の玄関からでかけた。ヒメミコの家は四十一区にある。ゆったりとしたみちゆきだった。あたしは鉢を抱えるのを代わろうかと折々に尋ねたが、夏蜜柑は平気だと頸を振った。半歩ほど先んじて歩いていく。あたしは目の前に広がる家並(やな)みの、何処までが実物で何処からが幻影かということも知っている。その境を踏み越えるときにも、じっと息を詰めるようにしたが、やはりなんの違和も感じなかった。脳内に張り巡らされた回路は、耳朶を介さない遣り取りや言語の翻訳など、こちらの意思に応じて作用することはあるが、向こうからなんらかの働きかけを──有り体に云えば、思考や行動の強制をすることはない。そうと理解していても、それでも自分の感覚は操作されているのではないかと、そんな疑念が浮かんでくる。だとしたらどうだろう。何もかも錯覚だというのとかわらない。だから、あたしはその疑念を退(しりぞ)けた。あたしがたとえ、水槽に浮かんだ脳の空想の産物だとしても、あたしはあたしだ。
 まるで違いのない住宅の前で立ち止まり、夏蜜柑は声をださずにヒメミコを呼んだ。しばらく待ったが、返事はないようだった。人生の殆どを途切れて暮らしてきたのだ、ヒメミコはこの方法を嫌がり、これまでにも黙殺されたことが多々あるらしかった。夏蜜柑は構わずに玄関を入った。この星では屋内の扉にだけ鍵があり、玄関にはない。必要ないのだろう。ホールに立ち入ると、造りは夏蜜柑のところとまったく同じなのに、妙に寒々しく感じた。夏蜜柑は軽く従妹を呼ばわりながら、一階の部屋を覗きにいった。たった一人で、あの子はこの広い家でどうして過ごしているのだろう。あたしは階段を上がってみた。二階の部屋に声をかけ、扉をひらくと、この家のアルセイドが床に膝を突いていた。彼女は振り向きもせず、黙々と手にした袋から匙や肉叉を取りだしては床に並べていた。精確な間隔と角度で揃えられた列が、もう随分と彼女の前に出来上がっていた。あたしは云いしれぬ怖気(おぞけ)を感じた。
 蹌踉(よろ)めいて部屋をでた。丁度、夏蜜柑がホールからこちらへ上がってこようとしているところだった。あたしを認めると、いないみたい、と上がり口に片足をかけたまま、無心に尋ねた。あたしは言葉がでてこなかった。夏蜜柑は足を引き、【お花だけでも置いていきましょうか】と、腕の中の鉢を見下ろした。
【これは、あんまりお水をあげなくてもいいお花だから、あの子でも大丈夫だと思うの】
 あたしはようようホールに降りた。夏蜜柑は置き土産をするために、食堂に入る。途端に激しい物音がした。
 はっとして扉を入ると、夏蜜柑が口許を覆って立ち尽くし、辺りの床に割れた鉢の破片や土が散乱していた。食堂は無人だった。その代わり、硝子戸が薄くひらいたままになっていた。庭には隣家との仕切りの低い柵があるだけで、何もない。その柵とテラスのふちとの間に、鮮やかな色彩が見えた。
 足が床に(はま)り込んでしまったみたいだった。泥濘(ぬかるみ)を歩くような足取りで、あたしは硝子戸に歩み寄っていった。段々に庭の様子が窺われ始めた。初めに目についた鮮やかさは、薔薇色をしていた。けれど、近づくにつれ、それとは別の色が目に飛び込んできた。白い(いしだたみ)の上に、まるで染め抜いたように、赤い斑紋(はんもん)が広がっていた。
 糸が弾け、あたしは硝子戸を()()けて庭へ走りでた。抱え起こすと、ヒメミコの躯は温かく、けれど力なくたわんだ。薄目がひらかれ、半開きになった口と頬は生乾きの鮮血に汚れていた。ヒメミコ、ヒメミコ、あたしは少女の名をか細い声で繰り返し呼び、その口許へ耳を当てた。──まだ息があった。支離滅裂な悲鳴を上げながら、夏蜜柑が駈け寄ってきた。彼女は遮二無二に従妹の躯を抱き竦めた。頭が(かし)ぎ、ヒメミコの顔が天を仰いだ。
 あたしは──その眸の見つめる先を見上げた。空だ。晴れ渡った空が、あたしたちの上へ懸かっている。ヒメミコは空へいこうとしたのか。
 早く、病院に、と夏蜜柑が泣き喚く。あたしは心がすっと遠退(とおの)いていくのを感じた。投げだされた少女の手の傍に、細く紫色の液体の残った小さな瓶が転がっている。いつの間に海の水を汲んだのだろう。あたしが一緒にいたのに──あのときには、既にこうするつもりだったのか。夏蜜柑は動顛(どうてん)していて、あたしが行動するしかない──そんなことさえ、あたしは冷えきった心の奥で考えることができる。このままこの子を死なせてやるべきじゃないのか。不意に(きざ)した思いは、実は初めから頭の何処かにあったのかもしれない。これは、ヒメミコが命懸けで選択した手段なのだ。死と引き替えにここから外へ逃れようとしている。それしか方法はないと、そうでしか救われないと──あたしがそばにいたのに、たった独りで考え詰めて、そうして決意したことなのだ。それを、あたしが引き戻していいのか。あたしがこの子を失わないように、この子を再び囲いの中に連れ戻していいのか。動けなかった。夏蜜柑の泣き声も、自分の息遣いも、ずっと遠く聞こえた。
 強い力で、あたしは押し退けられた。

#15

 硝子張りの廊下にしゃがみ込んで、夏蜜柑が泣いている。彼女の背のほうから強い光が差し込んで、少女の影を掻き消し、その姿を平面的に見せている。あたしの耳に聞こえるのは、何処か離れたところではしゃいでいる子供の声だけだ。
 そばへいって肩に触れると、夏蜜柑はゆっくりと顔を上げる。あたしは表情を弛めて、少し休んだらと云う。
 あたしがついているから。
 夏蜜柑は長い()を置いて、ぼんやりと頷く。立ち上がる足下がふらつき、あたしは腕を取った。それには反応をせずに、夏蜜柑は廊下を歩いていく。もう何日も家にかえっていないはずだ。
 あたしは緩慢な足取りをしばらく見送り、病室へ入った。窓辺の少女の姿が目に飛び込んでくる。高く重ねた枕に背を預け、睫の先すら動かさずに窓の外を眺めている。枕許の椅子へ侍ろうとして、あたしは掛布の上へ点々と血の染みがついているのに気づく。暗鬱とした気持ちになった。あたしは黙って椅子に腰を下ろした。少女は振り向きもしない。背けられた乾いた唇の狭間(はざま)が、褐色にこびりついたもので汚れている。上向けられ、躯の上へ置かれた右手の人差し指の先に、また咬み破られた傷ができていた。
 もう何度めだか知れなかった。自傷の痕は、看護する森精(アルセイド)に見咎められれば数時間のうちに跡形もなく治療される。例え少女が抵抗をして、どれほど暴れようとも、昏倒させてでも彼女たちは治療室へ運び込んでいく。人間の傷病(しょうびょう)を癒すのが、この施設にいるアルセイドの役目だからだ。治されたくないという「特異な」心は、彼女たちには理解されないのか、それとも(はな)から配慮されないのか、それは判らない。──右手の人差し指の集積回路も、また元のように植えつけられる。
 運び込まれたとき、ヒメミコの喉や気管は(あお)った海の水のために焼け(ただ)れてしまっていた。その重篤な損傷も既に治療され、正常な状態に戻されている。それでも退院可能という判断が下されないのは、ひとえに少女が頻々(ひんぴん)に自身の躯を(いた)めるからだ。初めのうち、あたしは悪友の役をして、少し平気に振る舞いさえしてやれば、すぐに家にかえられるのだと入れ知恵をした。少女は、あたしの言葉など聞こえていないかのように窓の外を見ていた。そうして、あたしが悔い始めた頃になって、か細く、かえりたくない、と云った。いっそ、無理矢理にあの子を連れかえってしまったらどうだろうかと、あたしは夏蜜柑に切りだしたけれど、夏蜜柑は疲れ切った表情で否んだ。【すぐに連れ戻されるわ】あたしは空まわりしていた。自分が何を引き起こして、何をのぞんだのかということが胸の(うち)を掻き乱していた。夏蜜柑は今とは逆に、あたしを気遣い、自分が付き添っているからと(なだ)めた。あたしはいく先もなく、硝子張りの廊下やロビーを彷徨い、あるときロビーの大窓の前で箍衣と会った。
 箍衣はヒメミコの病室に寄りつかなかった。そのときも見舞おうとしていたのでなく、それをしあぐねていたようだった。大窓から染み入る薄緑色の光が、うち沈んだ美しい面立ちを照らしていた。
 ヒメミコを助けたのは箍衣だった。あたしにはなにもできなかった──少女の死を、自分の手の内に引き受けることもしおおせなかった。箍衣の処置がヒメミコの生を繋げた。逆に云えば、それこそが少女を囲いの中に引き戻したのだ。そして、あたしの望んだことも、きっとそうだった。
 あたしたちは長椅子の端と端とに座り、大窓を見遣った。病院のこちら側は森に接しているが、硝子越しに見える景色は幻影だ。あたしたちは幻を容れた水槽の前に座っていた。いくらかして、あたしとあんたがあの子を殺したんだな、と呟くと箍衣は黙っていた。
 あたしは堰が切れた。駄々をこねるように、
「ねえ、前にあんたはここのシステム上は、この星で生まれた人間として認識されてるって、云ったよな。でも、あんただって躯を作り直されているんだろう。だったら、別の星からきたっていうことは、絶対に判られているはずだろう。……つまり、あんたは自分の手で、自分の情報を書き換えたっていうことなんだろう」
 そのとおりですよ、と箍衣は云った。じゃあ、ヒメミコの情報だって、どんなふうにでも直せたんじゃないのか。ええ、と静かな声が答えた。あたしは迫り上がってくる嗚咽(おえつ)を堪え、躯を折り曲げて震えた。そうして懸命に息を継ぎ、顔を上げると、ごめん、と箍衣に云った。
「判ってるんだ…その記憶が、あたしの中にもあるから…」
「いえ…あなたは正しいです。私はあの子に、尽くせるはずの手を尽くさなかった。──できなかったんです。途切れているのはあの子だけじゃない。こんなものは、詭弁(きべん)に聞こえるでしょうが…」
「いいや…」
「それに、あの子が(かつ)えているのは、保障などではなく……」
 男の声は、そこで途切れた。あたしたちには、それを口にだして確認する必要はなかった。生まれた時代も、環境も性別も異なるのに、あたしとこの人とはまるで同じだった。だからこそ、失踪した少年が残した言葉が、あたしを宇宙へ連れだし、そうしてこの惑星へ導いたのだ。
 箍衣はあたしの名を呼ぶと、そっと手のひらに載るほどの機器を差しだした。それは、ヒメミコがなくしたと云っていた、光子船の記憶装置だった。
「あのあと──あの子が傷を負って戻ったあと、彼女たちが廃品の陰から見つけだしてきたんです。身を隠しているときに、おとしてしまったんでしょう。あの子はそのことに気づいて、随分と長い時間、あの場所を探しまわっていたようです。きっと、あなたから譲られたこれを、本当に大切に思っていたんでしょう…」
 冷たい機械が、あたしの手のひらへ置かれた。あたしはゆっくりと指を閉じた。箍衣は立ち上がった。
「あの子のそばへついていてあげて下さい」
「会わないの…」
 すると、見上げる面差しに仄かな自嘲の笑みが浮かんだ。
「あの子が求めているのは、あなたですよ」
 ひとりで都市側の病棟へ戻った。廊下の先から荒々しい怒声が聞こえてきた。駈けつけると、数人のアルセイドがヒメミコを寝台からひきずりだそうとしているところだった。少女は身を捩り、獣のような声を上げて暴れる。暮れがかった暗い病室の隅に、夏蜜柑が居竦んで立っていた。乱された検査衣や敷布に、真新しい血痕が飛び散っていた。また指を破ったのだ。森精たち(アルセイデス)喚声(かんせい)を上げる少女を押さえ込み、頸筋に何かを打った。途端に少女は静まり、力なく躯を投げだしたまま病室を運びだされていった。夏蜜柑が身を投げるようにあたしにしがみついた。
 これが、あたしののぞんだ地獄だった。
 晴れ渡った空の下で、息絶えていく少女の躯を膝に抱き上げたときのことを思い返していた。あのとき薄くひらかれたままの眸は、空を見ていた。本当なら、少女はあのまま空へ逃れていけたのだ。あたしたちが──あたしが引き戻したことで、あの子は訪れ得なかった瞬間、囲いの中で目を覚ましてしまった。
 夜が更けて、ヒメミコは眠ったまま治療室から戻されてきた。あたしは一晩中、少女の横顔を見つめていた。夏蜜柑は病室のソファでブランケットにくるまっていたが、ねむってはいなかったかもしれない。やがて、色褪め始めた夜光の中で、少女は意識を取り戻した。
 じっと天井を見据えたまま、寝台の中で手を動かした。あたしは腰を浮かせ、掛布の下に手を差し入れて少女の手をにぎった。ヒメミコは何も云わなかった。
 声を(ひそ)やかにして、水が欲しくないかと尋ねても、頷きも拒みもしない。少女には、目覚めたことそれ自体が堪えがたい夢なのだ。あたしは椅子にへたり込み、衣服から薄っぺらい異星の機械を取りだした。ヒメミコの目が動いた。藍銅(アズライト)色の眸が、真っ直ぐあたしの手許を見つめていた。あたしはほころび、記憶装置を少女の手ににぎらせた。ヒメミコは掛布の下から手を引き出し、それをあえかな朝未(あさまだ)きの光に照らした。(おとろ)えた顔に確かに生気が宿っていた。
 宇宙人、と擦れた声でヒメミコは呼んだ。
【タイヨウの…話をして…】
 あたしは自分が愚かなことをするのだと悟っていた。辿りつけない場所の物語をしてなんになるのか。それでも幻想が、絵空事が少女には必要なのだ。あたしは掛布の上から少女の躯に腕をまわし、寝台のふちに頭を載せて、語りだした。
「あたしの生まれたところには、いつつの星があった。ひとつは目に見えない星、もうひとつは満ち欠けをする星で、これももう光らない。あとのふたつは偽物の星、残るひとつも作り物だった。あたしが生まれたとき、空にはもう本当の星はなかった──…」
 ──ヒメミコは窓の外を見つめながらも、片手にしっかりと異星の機械をにぎっている。あたしは呼吸を数え、少女が纏う空気を揺るがさないように、傷つけられた右手の人差し指に手を触れる。やがてアルセイドが見まわってくれば、再び少女を束縛して跡形もなく癒すだろう。そして、ヒメミコは咬み破る。あたしは既に乾いた傷口を、そっと手のひらに包み込んだ。話して、とヒメミコが云った。
 あたしは何度でも同じ話をする。ヒメミコが求める限り、それをやめる理由はなかった。あたしはいつしか、自分が語る星が、地球とは別の「タイヨウ」になっていくのを感じた。そこには辛苦(しんく)も孤独もない、希望に充ち満ちた楽園であるかのように思えた。
 少女を横にさせて、あたしは枕の上へ広がった薔薇色の髪を指で()く。ヒメミコはぼんやりとあたしの姿を見ている。
【お前、どうしてそんなことするんだ…】弱々しい声が問う。
 ヒメミコが好きだから。あたしは他愛ないふうに答える。
【莫迦だな…】ヒメミコはほんの少しだけ笑った。あたしは息が詰まりそうに思い、少女の右手を取って、指先の傷にくちづけた。舌をあて、乾いた血を舐め取り、のみ込んだ。
 ヒメミコは手を引いた。あたしは置き去りにされた気持ちで、目を逸らした少女を見つめた。ヒメミコは背を向けるように寝返りをうち、(まぶた)を閉ざした。
 もうそれ以上、何も云ってくれないのを確かめると、あたしは静かに椅子を立って廊下へでた。いつまでこんな繰り返しをするのだろう。岩戸の前で踊りながら、いつかは少女の心が晴れるとしんじているのだろうか。例え少女が囲いの中で生きている自分を受け入れたとしても、それは諦めたということではないのか。あたしは少女を地上に引き留めて、そうしてただ隣り合っていられることを願っているのか。
 足が動くのに任せて、当て所なく硝子張りの廊下を彷徨った。そして──声のない声に呼ばれたように、ふと顔を上げた。
 真昼の空に、白い軌跡を引きながら、流星が(ひらめ)いていた。

 百年前、冥王星の沖で出会った老人は、革新を待っているのだと云った。
 箍衣は冷たい色の眸を細め、じっとあたしを見下ろした。目映い照明があたしたちに降り注いでいた。数多のアルセイドがそちこちで動き、あたしたちの前には、地球からやってきた焼け焦げた宇宙船がある。
「地球へ戻れます」もう一度、含ませるように箍衣は云った。「どうするかを決めるのは、あなたです」
 でも、とようよう、あたしは口をひらいた。
「あたしはもう、この星で生きるために躯を作り替えられているんだろう…。例え地球に戻ったって、今度は地球の大気に殺されてしまう。向こうには、ここみたいな技術はないんだぞ…」
「ええ。けれど、それでも戻りたいという思いはあるはずです。例え、無菌室の中で生涯を送ることになっても」
 あたしは混乱していた。自分の心が判らなかった。ただ、病室でヒメミコに告げられた言葉が、繰り返し脳裏に響いていた。
 お前、タイヨウにかえるのか。
「ひとりではのぞまなくても」と箍衣は云った。あたしの逡巡を見透かしたように、「あの子を連れて、地球へいくこともできます」
 その口ぶりは、まるでそれを願っているかのようだった。あの子を地球へ──あたしの生まれた「タイヨウ」へ連れていける。けれど、その先で待ち受けているのは、やはり囲いだ。未知なる星の少女と、そこで暮らした地球人は厚遇されるだろう。事情を知れば手を尽くして生存が可能な環境が用意され、絶対的な保護が約束されるだろう。そうして、絶え間ない干渉と、実験と、質問が待っているだろう。そんなところへヒメミコを連れて戻るのか。
 その選択は別の結果も導くのだ。あたしたちが戻れば、この惑星の存在を隠しておくことはできない。時空を自在に行き来できるようになった地球人類は、大挙として系外文明の探査に乗りだすだろう。どれほど友好的な接触が図られたとしても、この海魔(セイレーン)の惑星が今のままの状態でいられることはあり得ない。この星は同一だからだ。異なる文明が触れれば破綻してしまう。
 あたしがそれを口にすると、箍衣は僅かに眸を揺るがせ、けれど顔色を変えずに云った。
「何もしないでいても、じきに発見されるかもしれません。今このときにも、軌道上には地球の探査船が周回しているのかもしれないんです。──人が救われるためなら、世界など犠牲にすべきです」
 あまりに透徹した非情さだった。あたしはこの人の心理を量りかねた。アルセイドたちに協力して、常にこの星の側に身を置いているように思えた。だのに、今はそれを進んで崩壊させようとしている。ただ、囁かれている言葉そのものは、融け込めなかった社会への反論として、常にあたしの──あたしたちの心の何処かに宿っていたものなのかもしれない。多よりも個を救う。救われるのを求めていた。あたしとこの人とは、同じ闇を抱えているのだ。
 (ずる)いな、とあたしは呟いた。折った指を口へ押し当て、箍衣から視線を逸らした。
「あたしがこの世界の中で、ヒメミコだけを知っていたら、そうできたんだろうけど、今はもう、この世界っていうのは…夏蜜柑の顔をしてるんだよ……」
 箍衣がどんな表情であたしの吐露を聞いたのか、あたしは知らない。ただ、もうそれきり、異星の少女が誰よりも愛した男性は、何も云わなかった。あたしはすっかり涙(もろ)くなった自分を情けなく思いながら、顔をぞんざいに拭い、アルセイドたちが見まわっている地球の船を見つめた。
 答えをださなければならないのは判っていた。

 何を見てるの、と尋ねると、何も、とヒメミコは答える。

 ロビーの大窓の前へ座っていたときに、思いがけない訪問者があった。ヒメミコの母親と父親、そして夏蜜柑の母親だ。
 母親たちは結婚式以来であることを口々に云い、あたしとは別の長椅子にいるヒメミコを見た。気づかないはずはないのに、ヒメミコは頑なに顔を背けている。少女が病院にいることは、あたしたち以外には知らないはずだった。【何度いってもいないから】ヒメミコの母親が云うのに、夏蜜柑の母親が頷いている。父親は黙って佇んでいた。娘を窺うでもなく、無表情に窓のほうを見ている。以前に挨拶をしたときにも印象の残らない人だった。痩せぎすで、若く見えるのは肌の血色が悪い所為(せい)かもしれない。
 ヒメミコの母親は他にもあれこれと矢継ぎ早に話をしたあと、ロビーの磨き抜かれた床を鳴らして隣の長椅子へ歩み寄った。ヒメミコはいつしか躯を丸め、ブランケットに顔を(うず)めている。母親は長椅子の背から身を乗りだして娘の肩を揺すり、反応をしないとブランケットを引っ張った。ヒメミコがひしゃげた声を上げた。あたしは少女の躯を母親の手から奪い取った。
ヒメミコはあたしの肩に顔を押しつけて(うめ)いた。あたしはブランケットごと少女の背をさすり、ゆっくりと躯を揺らした。赤ん坊にそうしているみたいだった。ヒメミコの母親は不機嫌な表情のまま口許だけ仕方ないように笑わせ、心配顔の妹と顔を見合わせた。父親は目を逸らしていた。だめなんだ、と耳に熱い声がかかった。赦しを乞う声音だった。あたしは、ヒメミコがこれまで生きてきた環境を(ようや)く思い合わせることができた。途切れたことを、少女は自分の責任に思い──そのことで、母親や父親に申し訳なさを感じ続けてきたのだ。だから、愛されないのが当然だとしんじている。
 病室から降りてきた夏蜜柑が母親たちに気づき、引き受けてくれているうちに、あたしはヒメミコを連れて戻った。あたしと二人きりになると、ヒメミコは憤りを露わにした。寝台へ入れても横にならずに、支離滅裂なことを喚き、上手く言葉にできないことで更に興奮していった。何かを必死で拒むみたいに頭を振り、鮮やかな髪を乱して、泣き声を上げる。涙で濡れた顔のまま、右手のひらで強く口許を押さえると、そのまま人差し指の先へ歯を立てた。部屋の隅を見つめたまま、ぎりぎりと力を込める。あたしは呆然とヒメミコの名を呼んだ。少女の耳には届かない。鈍い音がして唾液で薄まった血液が唇を溢れ顎を伝うと、あたしは腕ずくで少女の右の手頸を掴んだ。
 少女は傷ついた顔であたしを見つめた。あたしは抵抗を失った右腕をゆっくりと口許から引き離し、代わりに少女の額へ額を合わせた。
 どうしようもなく笑んで、
「ヒメミコ、タイヨウへいこう」囁いた。
 ヒメミコの眸はあたしを見据えていた。稍して、無理だよ、とか細い声が云った。
【お前も見ただろ…あたしは、あの紫色の、丸い殻の中にいるんだぞ…。お前は、タイヨウからきた特別な人間だから、あすこからでられるかもしれないけど、あたしは違う…でられないんだ…】
 あたしは頸を振った。
「でられるんだよ。あたしがあんたをタイヨウへ連れていく。嘘じゃない。あたしはあんたには嘘を吐かない。だから、しんじろ。あたしをしんじろ」
 ヒメミコは長い時間、あたしの言葉の意味を考えていた。あたしは少女の藍銅(アズライト)色の眸から目を逸らさなかった。
 やがて、少女は頷いた。
 あたしは歓喜を感じていた。ヒメミコを掻き抱くと、稍して少女の力のない腕が、ゆっくりと背にまわった。
 ──箍衣、とあたしは胸の(うち)で呼んだ。間を置かず微かな返答があった。
 力を貸してほしい。
〈地球へ、あの子を連れていくんですね〉
 いや、違うよ。あたしは云った。
 地球じゃない、タイヨウへいくんだ。
 喉が震え、ヒメミコの温かな頸筋へ顔を(うず)めると、背に添えられた指先に力が籠もった。
 沈黙のあと、問い返すことはせず、箍衣は云った。
〈必要なものがあります〉

#16

 あたしは絹糸のような雨脚を見上げた。(もた)れた幹は濡れているみたいに冷たい。木陰にいれば雨の感触は判らないが、大地全体がざわめいているような、深く低い雨音が森中を支配している。土と草木の濃い匂い、吐いた息が白い。あたしはレインコートの襟を合わせて、雨に霞んだ踏み分け道の先を見遣る。人影はない。
 視線をおとし、ヒメミコ、とあたしは呼びかける。ヒメミコ、おはよう。返事はない。その代わり、きっとあたしにしか判らないだろう息遣いのようなものが伝わる。あたしは小さく笑んで、目をあげる。道の彼方に不思議なものが現れていた。
 道の左右から差し向けられる、旺盛(おうせい)下枝(しずえ)に見え隠れして、黄色い何かがこちらへ向かってきている。あたしは背を起こし、目を()らした。やがて、それが女の子であることが判った。黄色いレインコートをきた女の子だ。
 身を硬くして待ち受けると、女の子は満面の笑みを浮かべてあたしに声をかけてきた。はっとした。ひどく小柄ではあるものの、相手は「女の子」と呼ぶべき年齢ではない。そして何処となく、彼女の顔に見覚えがあるような気がした。
 こんにちは、とその黄色いレインコートの相手は溌剌(はつらつ)と云った。あたしはとまどい、口の中で挨拶を返した。
 森と云っても、この辺りはまだ散策の人が入り込むような地点だから、あたしたちの他にも訪れる人間がいておかしくない──こんな雨の日だというのは考えなかった。判らないのは、相手が言葉の挨拶を交わしたあとも、あたしの前に立ち、にこにこと見上げてくることだ。
 あの、と切りだしかけたとき、黄色いレインコートの女性は急に声を張り上げた。
【大丈夫よ。もうついたもん】
 視線は斜め上を向いていた。あたしは思わずそちらを見遣ったけれど、濡れた梢がふわふわと頷いているだけだ。目の前の相手は楽しげにそのほうを見上げ、【だってあたしもきたかったんだもん】と続ける。あたしは困惑して、胸の(うち)で待ち人を呼んだ。箍衣(たがい)は反応をしなかった。
 この星の一日は短い。日のあるうちに、せめて目指すものの近くへ達しておかなくてはいけない。気圧(けお)された気持ちもあって、あたしはそっとその場を離れた。泥濘(ぬかる)んだ道をしばらくいくと、背後から駈け寄ってくる水っぽい足音が聞こえた。【何処にいくの】黄色いレインコートの袖があたしの腕をとらえた。肩の鞄が肘までおちる。
「えっと…」言葉遣いすら悩みながら、あたしは歩みを緩めないことでせめてもの意思表示をする。向かう先も理由も話すわけにはいかない。箍衣がこないなら、あたしひとりで目的のものを持ちかえらなければならない。相手は諦めずについてくる。何処にいくの、と繰り返し問うてにっこりと笑む。あたしは強く突き放すことができなかった。そのうち引き返すだろうと、投げ遣りな気持ちで足を進めた。
 森は雨に塗り込められている。見上げるような木々の梢が空を覆うので、薄暗い代わり、雨粒はあまり気にならない。それでも全身が水分を吸ってしまったようだった。空気にさえ雨が染みとおり、濃密になって呼吸がしにくい。あたしは黙々と道を辿った。黄色いレインコートはあたしの前になり後ろになり、忙しなく動きまわっていたが、ふと姿が見えなくなった。はっとして周囲を見渡した。すると彼女は随分と後ろで、立ったまま腐って(うろ)になった木の幹をじっと見上げていた。あたしの視線に気づくと駈けてきた。また腕を取り、お名前は? と唐突に問う。
「そっちは」あたしは歩きだしながら切り返した。
【ヒヨドリ】と彼女は云った。ここの人々は文章のような名前を持っているけれど、あたしの脳の回路が翻訳する前から、彼女はただのヒヨドリだった。尚のこと(けむ)に巻かれた気分だ。ヒヨドリはあたしの腕に(まつ)わりながら、また何かに惹かれて頸を巡らした。その弾みで、かぶっていたレインコートのフードが外れた。
 あたしは思わず足を止めた。現れた彼女の髪は、駒鳥(こまどり)の卵のような美しい青緑色だったのだ。記憶が蘇ってきた。ヒヨドリは頓着なくフードを直す。襟のところから、まだ一房、髪が零れている。思いだした。あたしはこの人を「見知って」いたのだ。
 まじまじと見下ろすと、異星の無邪気な(ひよどり)は輝くような表情であたしを見返す。あたしはやがて、少し笑った。
【お名前は?】
「──太陽」
【タイヨウ?】
「そう」これまでより、ずっと抑えた速度で歩みを再開した。ヒヨドリは、タイヨウ、タイヨウ、と(さえず)りながら、あたしの隣を跳ねるようにして歩く。一頻(ひとしき)り歌い終えたところで、こんなところにきてよかったの、とあたしは問うた。きたかったんだから、とヒヨドリは云った。
「心配してるんじゃない」
【だから、さっき大丈夫よって云ったもの】
 あたしは納得した。けれど報告するのはやめておいてやろうと思った。それから、ずっと気になっていたことをヒヨドリに尋ねた。
「ねえ、この色って、どうしたの」
 黄色いレインコートを摘んでみる。色合い以外はあたしが着ているものと同じだ。これはね、と云うが早いが、ヒヨドリは踏み分け道を外れて走っていった。あたしは驚いてあとを追った。奔放にうねった太い根が地面を持ち上げ、ちょっとした丘のようになったところをヒヨドリは苦もなく乗り越えていく。土も根も苔生(こけむ)して、あたしは足を取られないようにするのが精一杯だった。(ようや)くヒヨドリの姿を見つけだすと、彼女は一本の細く白っぽい木の幹に手をついて、こちらを招いている。あたしはようよう、そこまでいった。
【この木をね】と云いさして、ヒヨドリは幹を爪で引っ掻く。【こうやってね、すると黄色くなるのよ】差しだされた指は、確かに赤みがかった黄色に染まっている。地球で云う黄檗(きはだ)だ。他にもね、とヒヨドリがコートの釦を外して身頃(みごろ)をひらいたのを見て、あたしは目を(みは)った。彼女のワンピースドレスは柔らかな椿色に染められ、腰には薄紫の帯が締められてあるのだ。
 道すがら、ヒヨドリはそちこちの草花や樹木を指差しては、あれは何色になるのだとあたしに教えた。あたしは(こころよ)く聞きながら、そこはかとない哀しさを覚えた。ヒメミコと同じだ。彼女たちの輝かしさは、同一であろうとするこの星では求められない。
 それ、どうして判ったの、と尋ねると、
【ずうっと前ね、今のあたしの旦那様が黄色いお花をくれて、あたしはそれで初めてお花を見たんだけど、可愛くて触っていたら指がお花と同じ色になったのよ。それで判ったの】
 当たり前のように答える。
「旦那様が、いるんだ」あたしはわざとめかして尋ねた。ヒヨドリは口許を弛めて笑い、そうよ、と答えた。
【でも、ちょっとうるさいのよ】
「そっか」あたしも笑った。
 雨の音が続いている。辿ってきた踏み分け道は、既に周囲の地面と見分けがつかないほど微かになっている。もう、この辺りには人が分け入ることがないのだ。あたしは目を伏せ、脳裏に叩き込んできた目的地の方角を確かめる。ヒヨドリが遠慮なく腕を揺すった。
【ここのところ、初めてきたのよ】
 表情をときめかせている。あたしは息をついた。
「ねえ…そろそろ戻ったほうがいいんじゃないか。だいぶ奥まできたし、これ以上進むと日が暮れる前に外にでられないぞ」
【タイヨウも戻るの?】
「あたしは、まだ用があるんだ」
【何?】
 あたしは口籠もるが、見上げてくるまなざしはそれを承知しそうにない。あたしは様々に考え合わせて、意を決した。
「じゃあ、何しにいくか話したら、戻るか?」
【何しにいくの】
「──星から墜ちた船を、探しにいくんだ」
 ヒヨドリはきょとんと瞬きをした。理解されないか、冗談を云うと怒るか、そう心積もりをして見守っていると、判った、と彼女は頷いた。
「判った…のか?」
【うん、判った】
 じゃあ、早く探しにいこう。黄色いレインコートが(ひるがえ)って、あたしは思わず声を零した。
【だって、話したら戻りますっていうのは、聞いたけど、ハイと云っていないもの】
 ヒヨドリは嬉々として、もう早、行く手に塞がる倒木によじ登り始めている。
 あたしはここへいない人に、云い訳をすべきか文句を云うべきか判らなかった。なんにせよ、ヒヨドリの関心を(くじ)くのは、えらく骨が折れそうだった。
 あたしは頭上に僅かに覗く曇天を見上げ、腹を括って、そっちじゃないぞ、と呼ばわりつつ肩の鞄を引き上げた。

 あたしの光子船は宇宙空間で四散した。残ったのはヒメミコが持っている記憶装置だけだ。誰とも知らない宇宙旅行者の船は地上に到達することができたが、この星の発する電磁波のために管制システムが破壊されていた。もう一機、この地上に辿りつくことができた船がある──それも、管制系が完全な状態で。箍衣の船は森の中へ墜ちた。
 あたしの時代より、更に三百年前の船だ。その上、宇宙船に積まれるコンピュータは信頼性の問題から既に時代遅れになったものが選ばれる。その古さが、かえって海魔(セイレーン)の歌声から船を守ったのだろう。この星には、重力を振り切って物体を大気圏外へ打ち上げる技術はない。残された方法は、地上から直接デミウルゴスの海へ侵入することだ。そのためには、どうしても座標を計算するコンピュータが要る。時空移動が可能な船と同じ惑星で作られ、充分な能力を持ったコンピュータは、この星に一つだけだ。
 ──あたしは地面に沈み込む自分の足下を見遣りながら、もう幾度も胸の裡で箍衣を呼んでいる。応答がない。少し先を動いているヒヨドリが、時折こちらを振り返り、何事か云ってくるがその言葉の意味も判らなかった。脳の回路が不調をきたしている。気づいたのは既に人の活動の跡が絶え、道なき道へ踏み込んだあとだった。起伏が激しく、そちこちに倒れた巨樹の残骸が横たわり、行く手を(はば)む状況では方向感覚を保つのが難しい。あたしは箍衣の補助を求めようとしたが、こんなときに限って忘れかけていた障害がぶり返してきたのだ。
 森の中にはアルセイドが行き来するためのゲートが乏しい。この区域は尚のことだった。三百年前の船は運び去るには大きすぎ、また迂闊(うかつ)に解体することもできなかったので、そのままに残された。そして、それがこの星の住人の目に触れないよう、その地点を含む断片ごと切り離されたのだった。謂わば、森を構成する小片(ピース)が、そこだけ抜き取られている。あたしはその空白のきわに向かって足を進めているのだった。地勢的に連続する断片の境は、アルセイドが利用する隠されたゲートよりも繋がりが強固で、その分だけ完全に閉鎖するのが難しい。実際にその境へいけば、突破することができるだろうと箍衣は云った。
 いつの間にか左手に鬼百合のような花を摘んだヒヨドリは、人差し指ほどの大きさになって、あたしに向かって腕を振る。あたしは顔にかかった濡れた前髪を払った。雨音に掻き消されて、ヒヨドリの声はよく聞かれない。ヒメミコ、とあたしは呟く。自分の声ばかりがはっきりと耳に届いた。
 ふと、黄色いレインコートの頭が空を仰いだ。あたしも何気なくその視線の先を追う。曇天にはかわりないが、随分と空が(かげ)ってきているのに気づいて焦燥が(つの)る。と、目を戻すとヒヨドリの背中がぐんぐんと遠ざかっていっていた。呼び止めたが、立ち止まってくれるはずもなかった。一瞬の逡巡(しゅんじゅん)のあと、あたしはヒヨドリを追って走りだした。後ろ姿を見失わないよう、目をとめたまま駈け、辿ってきた軸の上から逸れていく自分を認識していた。けれど、見捨てることができなかった。ヒヨドリは小暗(おぐら)い樹下に咲いた一点の鮮やかな花になり、そうして足を滑らせたような格好で転んだ。あたしは走り寄り、息を継いで「大丈夫か」と問うたけれど、尻餅をついたヒヨドリは心ここにあらずで目の前の森を見つめていた。あたしを見上げ、口を動かすが、やはり言葉が判らない。空いた右手の指で前方を示した。あたしが困惑してそちらを注視すると、ヒヨドリはあたしの手を取り、手のひらを前へ突きださせた。そこは何もない空間だった。なのに、あたしとヒヨドリの手のひらは空中で硝子の壁に突き当たったように拒まれ、その感触が確かにした。
 そこが幻影の果てだったのだ。
 あたしは息をのんで、しばらく立ち尽くしていた。目の前に広がる景色は、足の下に踏んだ地面の続きにしか見えない。本当に透明な壁を隔てているだけのようだ。理解はしていても、現実にありありと目にするのは初めてだった。こうした幻影が、この星のあらゆるところへ映しだされているのだ。
 ヒヨドリはあたしの手から手を離し、自分で勝手にその隔たりを叩いたり撫でたりした。あたしは鞄を下ろして携えてきた機器を取りだした。こちらの言葉は通じるので、少し離れて、と云うとヒヨドリは素直に従う。死んだアルセイドの手のひらと脳を(もと)に、箍衣が組み上げた装置を境界にあて、作動させた。寸時、向こうへ見えていた景色が白濁して掻き消え、また元のように戻った。あたしは自分の手が、境界を越えて奥へ入り込んでいるのを見る。
 装置を仕舞って鞄を肩にかけた。ヒヨドリのことを少し迷ったけれど、置いていくより連れていくほうがいい。あたしが手を差しだすと、ぱっと喜色を浮かべて立ち上がった。そうして、手を取るのではなく、あたしの躯に凭りかかる。あたしは苦笑して、そのまま境界へ足を進めた。
 初めに気づいたのは、静寂だった。
 あたしは周囲を見まわした。これまでとかわりのない森だ。ただ雨音が聞こえない。そうして、地面も濡れてはいなかった。ヒヨドリはあたしから離れ、辺りを不思議そうに見渡す。彼女が立てる枯れ葉を踏む音がひどく大きく響いた。頭上はまったく木々の梢に遮られ、ほんの切れ切れに空が覗いている。曇天というより、白い空だった。白い天幕が張られているようだ。薄暗い中を二、三歩彷徨って、あたしは少し先に、そこだけ木立がなくぽっかりと空いた地面を見いだす。ヒヨドリが近辺を散策しているのを確かめて、そのほうへ歩いた。空白は広大なものだった。差し渡し三十メートルほどもある。木々がないので上空もひらけているが、見えるのはやはり濃淡すらないのっぺりとした白だった。あたしは空白の中央へ向かおうと足を踏みだした。その瞬間、足下の感触が消えた。
 十字路から暗路へ入るのとはわけが違った。はっきりと落下する感覚があり、周囲の地面が崩れる派手な音も、膝や腰を強か打った痛みもあった。物音が静まると、あたしは頭を振って土を払った。そうして顔を上げ、暗闇に(わだかま)る旧時代の怪物を見た。
 得も云われぬ感慨は、そこに愛しい少女を救いだすための機器が隠されてあるからだけではなかった。近代史のテキストで見た、非効率的な推進方法しかなかった時代の船が朽ちもせず、あたしの目の前へ横たわっているのだ。あたしが突き破った穴から差す光は、宇宙船の(へさき)部分を僅かに照らしだしている。墜落時に薙ぎ倒された木々が(はり)になり、長い年月の間に降り積もった枝葉や土が、天蓋のように機体を覆い隠していたのだ。逸る気持ちを抑えかねて、あたしは立ち上がった。そこへ再び凄い音を立てて、頭上から何かが転がりおちてきた。あたしは引き倒され、元以上に手酷く地下の底面へ打ちつけられた。唸りながら顔を動かすと、肩の上から片脚がぽとりとおちた。
 ヒヨドリを押し退け、どうにか半身を起こした。口の中が土の味だ。ヒヨドリは可笑しそうに笑い転げていた。あたしは嘆息した。
 振り返ると、今ので穴が広がり、宇宙船の前部──推進機関を除く、搭乗員の活動区域の様子がよく見えるようになっている。あたしは土をおとしつつ間近まで寄った。全長二十メートルを超える機体のうち、人間の立ち入れる部分はほんの僅かだ。船の形状は巨大な吹き流しのようで、後部に連なる反応炉や燃焼部は闇に飲まれている。全体に焼け焦げた痕があるのに加えて、元の装甲が暗灰色をしており、実利優先の造りもあって不気味に感じられた。この時代は、まだ宇宙船が商品ではなかったのだ。
 そっと舳に手を触れ、主窓の中に目を凝らした。艤装(ぎそう)ではない不格好な形が見える。それは操舵席の後方から、壁や天井を這って身を乗りだしているようだった。背後からヒヨドリが肩を叩き、あたしはびくりと躯を震わせた。ヒヨドリは満面の笑みで、斜め上を見上げ、嬉しそうに言葉を発する。そして口を動かしながら、あたしを見据えた。あたしはその意味を悟り、なんとなく声をひそめて、ありがとうって云って、と照れくさい思いで伝えた。ヒヨドリは大仰に頷き、ひときわに朗らかな声で、異星の感謝の言葉を云った。
 あたしはいちど穴の外へでると、細かく砕けた倒木の幹を蹴りおとし、それを踏み台にして舳へよじ登った。手にした明かりを差し向けると、はっと息をのむように船内に影が生まれた。古めかしい型の操舵席の背が、コンソールの上へ僅かに覗いている。計器や開閉器で埋め尽くされた壁は両側から迫り、天井も低く、満足に躯を動かす余裕もなさそうだ。そうして、その僅かな空間を、褐色をしたものが我が物顔で占領している。
 ヒヨドリが(しき)りに裾を引っ張るので、あたしは舳から飛び降り、明かりを投げてやった。苦心して登ろうとするのを横目にハッチをさがす。舳をぐるりと回り込んで、漸く(にじ)り口のような開口部を見つけた。聞かされていた通り、その脇に槓杵(レバー)がある。渾身の力でまわすと、装甲の一部が浮き上がった。そのまま引き抜き、あたしは隠された操作パネルを見つけだす。
 願うような気持ちで手を触れた。一拍を置いて、微かな光が灯った。この星の暦でほぼ三十年のあいだ、土に埋もれながらも、この船はまだ生きているのだ。あたしは教えられた手順を慎重に実行した。地下の空洞に虫の羽音のような響きが鳴り渡り始めた。
 本来なら、役目を終えたこの船は、少年の亡骸を乗せて宇宙空間を漂っているはずだった。ただし、それは少なくとも当時から一三〇年後のことだ。遠い将来、地球の状況が好転している可能性を踏まえて、船には回収時に備える機構が幾つか(ほどこ)されていた。でも、そんなのをあんたが知ってるのはへんじゃないの、と云うと、そうでしょうね、と箍衣は淡々と答えた。あたしはかえって、当時のお偉方を気の毒に思った。誘導標識などは亜光速を脱したときに停止されたが、蓄積記録を保持する働きや船内を滅菌する手段──一三〇年後の人類には、無害なはずの細菌が有害になっているかもしれないからだ、はそのままだった。それらが今、あたしたちの手助けをしてくれようとしている。
 ヒヨドリを呼ばわった。有耶無耶な返事がある。立ち上がって見遣ると、ヒヨドリは舳の上へ腹ばい、食い入るように主窓の中を覗き込んでいる。彼女が何に心を奪われているのか理解できた。だから、船内の光景を壊すのは惜しく思われた。少し待って、あたしはヒヨドリを招いた。
 渋々降りてきたヒヨドリを、機体から離して目を覆わせ、あたしも姿勢を屈めて最後の入力をした。強烈な閃光は、閉ざした瞼の上からも頭の中を真っ白にした。酔ったような気分で身を起こし、ヒヨドリを確認すると、まだしゃがみ込んで両手で顔を隠している。あたしはパネルに別の操作をした。
 機械音がして、ハッチが薄くひらいた。あたしはそれを体重をかけて引き開けた。分厚い外扉と壁との隙間がひらくに従い、周囲の空気が吸い込まれ、あたしの袖やコートの裾もひらめいた。扉を完全に押し退()けると、気休めに止めていた呼吸をそろそろと継ぐ。あたしは死なないようだった。ハッチから身を乗り入れ、内部を窺うが、すぐそこに梯子段があること以外、暗くてよく判らない。あたしは顔を外にだしてヒヨドリを呼んだ。ふと気づくと、船の床面に突いた手が、灰のようなもので真っ白に汚れている。
 ヒヨドリから明かりを受け取り、ここで待つように云い置いて船内へ入った。足を踏み下ろした途端、朦々(もうもう)と煙が立ちのぼった。あたしは袖で鼻と口を覆い、貧相なてすりに縋って梯子段を登った。それは短く、上がったところは左右に伸びる通路だった。外から見た感じでは、左手が操舵スペースだ。そちらからは明かりがいくらか入るはずだけれど、そうなっていない。明かりを向けると、広くもない通路の先には灰白色(かいはくしょく)のものが詰め込まれている。
 足下で咳き込む声がした。ぎょっとして見下ろすと、ヒヨドリが船内に入ってきている。お前、と思わず口走ったあたしも灰を吸い込み()せる。仕方なくヒヨドリが上がってくるのを待ち、今度は通路の右手へ進んだ。こちらも反対側と同じ壁に塞がれている。あたしは驚嘆する思いでそれを眺めた。壁からは何本もの腕が伸び、通路の側面や天井を這って不自然な形で途切れている。と、背中で庇うようにしていたヒヨドリが、好奇心を抑えきれずに間近にある腕へ触れた。立ち所にそれは砕け、船内に溢れたのと同じ白い灰になった。あたしはコートの腰にヒヨドリをくっつけたまま、更に足を進めて、壁に手を当ててみた。さらさらと灰が肌を伝った。思いきって力を込めると、その灰白色の堆積は呆気なく崩れおちた。
 そこが船室だった。ヒヨドリが短く歓声を上げた。左右の舷窓から差すあえかな光に照らされて、船室中に施された白亜の彫刻があたしたちを迎えたのだった。──びっしりと葉をつけた(つた)は壁や天井はおろか床までを這い、夥しい蔓薔薇が奥の一隅を(うず)めている。それらは床に散らばったものや寝台の上までも広がり、更に通路に向かって殺到していた。きっと、他にも(いた)みやすい植物があったのだろう。
 少年が船を去ったあと、残された地球の植物はゆっくりと船内を占め、そして枯れたのだ。蔦の枯れ枝は操舵席にまで達していた。先程の閃光がそれらを灰にかえた。あたしたちの見守る前で、船を守り続けた花々は、海嘯のような音を立て、引き留められない速度で崩れて床に降り積もっていった。

 切り離された断片に夜は訪れなかった。あたしは白い空を避けて宇宙船のそばへ腰を下ろし、外の世界の夜明けを待った。土の上へ置いた明かりの間近に、ヒヨドリが躯を丸めてねむっている。仕草や寝顔は子供そのもので、肌に僅かに刻まれた加齢の証が不似合いだった。あたしは腰に触れるように置いた鞄を振り見た。そこへ、タイヨウへいくための機械の脳が詰められてある。
 膝を抱え、腕のあいだに顔を埋めて、少し眠ろうとした。躯は疲れきっていて、すぐにもねむりにおちようとするのだけれど、意識ばかりが冴えている。頭の中だけが取り残されたみたいだった。なんの物音もしない。ヒメミコ、とあたしは呟いた。
 ようよう迷い込んだ夢の中で、あたしは意外な人に会ったような気がした。姿は(おぼろ)で、本当にその人だか判らない。けれど、深い安堵感が広がった。はっとして顔を上げた。動かした足が土の地面を鳴らすと、ヒヨドリが僅かに声を零した。
 脳内で声が響いた。それは箍衣の声だったが、ひどく遠かった。
〈──タイヨウさん、無事ですか〉
 あたしはどうしてか取り乱し、大きな声をだしそうになって、あやうく口を閉ざした。
「……無事だよ」
 囁くように云った。「えっと、ちゃんと船を見つけたし、必要なものも手に入った」
〈今も境界の外ですか〉
「そう、朝まで待とうと思って。ずっと回路がおかしかったんだ。あんたと話せるってことは、直ったんだな」
 ヒヨドリが身動(みじろ)ぎをする。あたしの声が耳障りなのだろう。
〈以前にも云いましたが、あなたの回路の混乱は、自然治癒することもあれば、このまま悪化することも有り得ます。治療を受けるなら…〉
 その続きは発せられなかった。何を今更、という言葉をのみ込んで、あたしは胸の(うち)で返す。
 いいんだ。信用してないわけじゃないけど、このままでいい。
 話題を変えるために、続けて云った。
 今回だって、迷子の小鳥が助けてくれたしな。
 箍衣はしばらく沈黙していた。
〈……私がつい、森へいくことを話してしまったんです。まさか、ひとりででかけていくとは思いませんでしたが…〉
 それで、方々(ほうぼう)捜しまわってたのか。
 返事はない。
 なあ、あんたの、他の人も。
〈…それが、私にできることですから〉
 静かな口調だった。あたしは複雑な気分で、ヒヨドリの背後の闇を見つめた。あたしは夏蜜柑のために、憤慨することもできた。
〈……慈善家のように思われるのは不本意です。これも、やはり私の我利の一部なのでしょう。それに、もしそれだけの理由なら、あの子たちの才能を否定するのと同じことです〉
 あたしは伝わらないと知りつつ小さく頷いた。ヒヨドリはなんの心配もないようにねむり続けている。箍衣を運んだ宇宙船のかたわらで、あたしとヒヨドリが向かい合っている。それは数奇なことだった。
 朝になったら、必ず連れてかえるよ。
〈ええ──お願いします〉
 素直な言葉に笑って、
 あんたって、いい奴だよな。
 箍衣は押し黙り、稍して、心外です、とぽつりと云った。本当に弱りきったような様子なのが可笑しかった。
 ねえ、船の中、枯れた植物でいっぱいだった。光に灼かれて、みんな灰になったよ。
 あたしがぼんやりと云うと、
〈惜しいことでしたね〉
 声だけの男性は欲しい言葉を(たが)わず返した。あたしは(いとけな)い幻想を自嘲した。
 ひとつ、聞いてもいいか。あのとき、どうしてヒメミコに嘘を云ったんだ。
 あたしの口調は、朗らかだった。
〈……この星の空は本当の空だと、そのことですか。真相なら、あなたも知っているでしょう。理由を尋ねているのなら、判らないと答えるしかありません〉
 酸性の海が広がるこの星で、なんの保護もなく有りの(まま)の大気を呼吸できるわけがない。境界の外にでて切り離された断片の空を見上げたとき、知識は実感になった。この空が白いのは、幻影が映しだされていないからだ。空は保護層に覆われている。
 箍衣は不意に切りだした。
〈私は、疑問に思うことがあるんです。世界の維持を最優先とするなら、この星の機構は、どうして人間の意思を奪ってしまわないのか。思考や行動を制限すれば、決して世界が損なわれることはありません。途切れた人々も生みだされないでしょう。何故、人間は世界が望まないことを行えるのか…その場凌ぎに、嘘をつくことさえできるのか…〉
 それはさ、とあたしは云った。それは、その仕組みを作ったのが人間で、作った理由がより良くなるためだからだよ。
 箍衣が少し笑った感覚がした。
〈楽天家ですね〉
 そうじゃなきゃ、仕方ないだろう。
 あたしはそっと膝を抱え直した。
 少しねむるよ。
〈ええ〉
 おやすみ。
〈――おやすみなさい〉

#17

 夏蜜柑が寝台のふちに腰を下ろして、ヒメミコの髪を梳いてやっている。あたしは少し離れて、その光景を見ている。夏蜜柑は口許へ笑みを浮かべ、(こころよ)そうだ。一方のヒメミコはちょっと拗ねたような顔つきをして、頸を(ひね)り、病室の何もない床を睨んでいる。薔薇色の豊かな髪を左手に集め、夏蜜柑は繰り返し丹念に櫛をとおす。あたしは目を離せないでいた。
 窓の外に穏やかな夕空が広がっている。
 ヒメミコは掛布の中で脚をひらき、その窪みに手を置いている。甲を下にして、右手には異星の機械をにぎっている。人差し指にはもうずっと傷がない。あたしの言葉を聞いて以来、ヒメミコは自分の躯を(さいな)むことがなくなった。それで、(ようや)く退院可能という判断が下されたのだった。
 夏蜜柑はすぐにも連れ立って──自分の家へ、かえろうと云ったけれど、ヒメミコが(せわ)しがって、明日にすることが決まった。夏蜜柑は従妹の退院を心から喜んでいるようだ。歌という概念はこの星にないけれど、髪を梳いてやる口許は気持ちよさそうに歌っているみたいだった。耳の上の髪を掻き上げてやり、括る? と軽やかな声で尋ねる。ヒメミコは黙って頸を振る。そうした無愛想に頓着しないのは、以前からだ。
 髪を背に垂らしてやり、もう少し(くしけず)って整え、夏蜜柑は立ち上がる。あたしはその立ち振る舞いが、初めて会ったときより格段に成熟しているのを感じる。少女は、既に(れっき)とした女性だった。あたしは目を細めて、窓の外を眺め遣る夏蜜柑の姿を見つめる。このところの出来事で心持ち痩せたけれど、そのために髪を上げた頸筋の線が際立って、かえって清潔で美しかった。あどけないと思っていた横顔も、何気ないふうな表情が大人びている。夏蜜柑は振り向いてあたしの視線を(いぶか)しんで笑う。あたしは有耶無耶にはぐらかす。あたしがこの少女に拾われたことは、計り知れないめぐりあわせだった。ヒメミコも箍衣も、夏蜜柑を通じて結びついたのだ。
 ヒメミコはおちつかずに、折角整えてもらった髪を引っ張る。夏蜜柑は気づいて小言を云う。うるさそうに唸るヒメミコは、何処かぎこちない。あたしは手をだせないで見ている。ヒメミコは髪に触ろうとする夏蜜柑の手を()けて、それから急に抵抗をやめる。夏蜜柑はぼやきながら、従妹の髪を両手で撫でるように梳く。ヒメミコは、藍銅(アズライト)色の眸をじっと、夏蜜柑の腰の辺りへあてていた。
【……もういいからさ。お前もいい加減、家にかえったらどうだ】
 絞りだしたように、ぶっきらぼうに云った。夏蜜柑はすました調子で、そんな心配しなくていいのよ、と返す。ヒメミコは言葉が続かない。随分と間が空いて、
【別に心配はしてないけどな。お前たちがついてるから、しばらくゆっくり寝られてないんだ】
 まったく生気を欠いた口調で云った。夏蜜柑は気づかないのか、呆れた声を上げて髪を梳く手を下ろした。
【じゃあ、いいわよ。置いてかえっちゃうからね。夜に寂しくなってもしらないわよ】
【まさか】ヒメミコは口角を上げて、哀しげに笑った。
 夏蜜柑は振り向き、【そういうことだもの。いきましょ】慈愛に満ちた表情を浮かべる。あたしはその面立ちを充分に目に残してから、
「えっと、あたしはもう少し様子を見てるよ」
 と(ほの)かに口許を弛めた。夏蜜柑は少し意外そうな顔つきをしただけで、異論も云わず、じゃあ先にいくわね、と鞄を取り上げた。
 廊下にでていく少女を、あたしは扉の外まで追った。そうして、ごめん、と小さく云った。足を止めた夏蜜柑は不思議そうにあたしを見遣り、稍して笑んで、
【あなたも、気をつけてかえってきてね】
 背を向けた。
 異星の少女の後ろ姿が遠ざかっていくのを、あたしはそれが廊下の先に消えたあとまでも、立ち尽くして見送っていた。
 夜がきた。あたしは手を貸してヒメミコに衣服をきせた。彼女の肌はくすんでしまった代わりに、膝と両足先の傷痕がなくなっている。あたしはそれを見つつ少女に靴を履かせる。何か持っていくかと問うたけれど、ヒメミコは黙っていた。じっと記憶装置を押し抱いている。あたしもそれ以上は余計なことを云わずに、病室の明かりをおとした。
 ヒメミコと寄り添い、息を詰めて待つ時間が長かった。やがてあたしは頭の中に響く声に返事をする。数拍を置いて、病室の扉がひらいた。入ってきたのは箍衣だ。
 光度をおとされた廊下の明かりが、そのすらりとした男性の輪郭を異質なもののように浮き上がらせていた。ヒメミコは身を硬くする。あたしは少女の手に手を重ねた。無言の箍衣の視線に頷く。箍衣はそっと寝台の間近へやってきて、腰を屈め、ヒメミコのまなざしを捉えた。
 いいですか、とやはり余所々々しく、箍衣は尋ねた。
 薔薇色の髪の少女の沈黙に、あたしは溺れそうに思った。ヒメミコはいくつも呼吸をするあいだ、箍衣の冷たい色の眸を見返していた。やがて微かに声を零しながら、ヒメミコは頭を揺らした。
 あたしは脇から、少女は歩くのが困難になっているのだと云い添えた。長い入院生活のためというより、いちどは気力が絶えてしまった所為(せい)なのだろう。ええ、と箍衣は静かに答えて、掛布ごと少女を抱き上げた。ヒメミコは抗わなかった。ただ遠い目をして、両手で記憶装置をにぎりしめていた。そのまま病室をでていく二人を、あたしは少し遅れて追った。
 ぽつぽつと明かりを灯した異星の都市の夜景が、廊下の硝子の外に広がっていた。暗い街並みの上空を、それ自体が光でできているような架線が幾筋も奔放に走っている。あたしは住宅都市の光が見えないのを寂しく思った。──今頃、夏蜜柑は夕食を用意してあたしを待っているだろうか。明日、ヒメミコを連れてかえって、また三人で暮らすための準備を金雀枝(えにしだ)としているだろうか。最後に胸の(うち)で呼びかけようかと迷ったけれど、それは結局、あたし自身を満足させることでしかなかった。胸が衝き上げられるような感じがして、あたしは無理に視線を逸らして歩みを速めた。少し先で立ち止まっていた箍衣は、何も云わないけれど、あたしが追いつくまでじっと待っていてくれた。ヒメミコは箍衣の肩口に額をあて、衣服の布地を見つめて、自分が生まれ育った星の光景を、決して見ようとはしなかった。
 誰もいない薄暗いロビーを横切るとき、あたしは一人の森精(アルセイド)が立ってこちらを見ているのに気づいた。彼女は顔だけをあたしたちの歩みに()れて動かし、遮ろうとはしない。少女は退院可能な躯なのだし、伴っているのは紛れもない結婚相手だからだ。アルセイドはやがて(きびす)を返し、白い姿を闇に紛れ込ませた。
 あたしは早足に進みながら、ちらと大窓を見上げた。細く月光の差す森は、やはり本物としか見えず、黙りこくって、あたしたちには無関心だった。
 あたしは、この星が好きだった。

 静かな海だった。風もなく、凪いだ水面(みなも)に月明かりが散り散りになって輝いている。少し先に、黒く煤けた宇宙船が砂の上へ据えられてある。以前、ヒメミコと一緒にやってきた海だ。
 ここが、人々の居住区を構成する断片から、最も遠い場所なのだった。地上からデミウルゴスの海へ侵入すれば、周囲の地形諸共(もろとも)時空の裂け目へのみ込んでしまうことになる。人々に(るい)が及ばないように、そして、アルセイドが異星の船を──遠ざけるべきものを、廃棄場から運びだし得る限られた地点の一つとして、この場所が選ばれた。酸性の海は、数多の廃品が積まれた廃棄場と同じく、隠された場所なのだ。
 ヒメミコを砂浜に下ろし、あたしと箍衣は船へ向かった。内部は既に万全に整えられている。操舵スペースではコンソールの基部が開けられ、そこへあたしが持ちかえった旧式のコンピュータが接続されてある。あたしは箍衣から最終的な説明を受ける。この星の外にでれば、耳朶を介さない遣り取りはできない。この人の力を借りることは不可能になる。あたしは明朗な語り口を聞きながら、あたしの手の及ばないところで、箍衣が果たしてくれた膨大な事柄を思った。綺麗な横顔を見つめていると、不意にまなざしがこちらを向く。あたしは誤魔化して、説明に頷き、操舵席に凭りかかっていた躯を起こした。途端に激しい眩暈(めまい)が襲った。
 足下がふらつき、コンソールに倒れ込みそうになるのを箍衣が引き()めた。あたしは仕方がなく笑ってみせた。身体的な異常じゃない。あたしの脳に張り巡らされた回路が(おのの)いているのだ。
「タイヨウさん、やはり…」
 眉を(ひそ)めた箍衣が云った。あたしは腕を支える男の手からそっと逃れた。
「ここまできたんだ、大丈夫だよ…」
 あたしは髪に指を入れて、頭を撫でさすった。「……それに、ちょっとでも長い時間、あたしでいたあたしで、あの子を連れていきたいんだ」
 主窓の外へ目を向けると、砂に座ったヒメミコが、じっと海の彼方を見つめている。──脳に癒着した回路を修復するには、いちど記憶を読みだし、また胚幹細胞から脳を培養して素子を植えつけるしかない。おそらくアルセイドはあたしの躯ごと作り直すだろう。
「ずっと考えていたんだけどさ、でも答えがだせないんだ。あたしは地球にいた頃の記憶を持っているし、性格とかそういうものも元のままだと思う。だけど例えば、この星に墜ちたとき、読みだされた情報がいくつもの躯に流し込まれていたら、その全員が、やっぱりみんなあたしだって認識したのかなって。多分、するんだろうなって。魂とか心とかいうものは、そういう脳の情報に含まれているのか、だとしたら、それは流し込まれた数だけに分かれるのか、それとも、元からそんなものは、記憶から計算された錯覚なのか…。だとしたら、人格なんてものは存在しないってことなんじゃないのか。上手く云えないけど…あたしは、本当に地球にいたあたしなのかな。実は、そのあたしはやっぱり死んでいて、ただ遠い、地球っていう星で暮らした記憶を持ってる別人が、今のあたしなのか…」
「判りません…。私が、今の記憶を別の脳へ移したとしても、やはりその私は判らないと云うでしょう」
 振り向くと、箍衣は真摯(しんし)なまなざしであたしを見ていた。あたしは彼を困らせた気がして、少し申し訳なく思った。回答が欲しいわけじゃなかった。ただ、胸の(うち)(わだかま)っていたことを、誰かに聞かせたかったのだ。
 本当は、とうに吹っ切れている。あたしはやはり楽天家なのだろう。深く息を吸い込んでから、ごめん、と気楽に箍衣に云った。
「そんな深刻な話じゃないんだ。だってさ、少なくともこの星に墜ちてからのあたしは、一繋がりのあたしだから。ヒメミコに会ったのも、夏蜜柑に会ったのも、あんたと──実際に会えたのも、この太陽のない星に墜ちてからのことだから。それ以前のあたしと、今のあたしが別の人間だとしても、答えは同じだ。あたしは、あの子を連れてタイヨウにいく」
 だからあんたもさ、と間髪を入れずに続けた。
「地球でのことより、この星でのことを優先していいんじゃないかな。夏蜜柑のこと大事にしてあげてよ。ヒヨドリや、他の人たちのことも知ってるし、あんたが誰かひとりだけを特別にする人でもないっていうのも判ってるけど、あの子にとって、あんたはいちばんなんだ。あたしとヒメミコがいなくなって、きっと寂しがるから」
「……ここを立ち去ったら、すぐに訪ねますよ。本当に、判らないのは人の心です。あの子がどうして、私などを慕うのか…」
 それは、と云い差し、あたしは言葉をのみ込んだ。代わりに云った。「自分で考えるんだな」
 箍衣は少し笑った。
「ねえ──もうひとつ聞いてもいい」
「なんですか」
「あんたは、本当にあたしと会えてよかったのか? つまり、地球の人間があんたの書いた通り、太陽を岩戸へ入れて、偽物の太陽を造って、それで宇宙にでた結果があたしなんだぞ。そのことを、本当に嬉しいと思ってくれるのか?」
 どうしてか、神様に尋ねるような調子になった。──ある意味ではそのとおりなのだ。自分を生みだした人が自分を愛してくれるのか、それが気にならないわけはない。
 ええ、と穏やかな声で、箍衣は答えた。
「本当に、嬉しく思います。どうもあなたは、誤解をしているようですが、私は決して、地球の人々が太陽を覆い隠すことを非難していたわけではありませんよ。ただ、そうして偽りの光を造ってまで心の拠り所を求めるのを、堪らなく感じていただけなんです。人間は宇宙へでるべきです。例え太陽が燃え尽きても、また別の太陽を求めて、発展し続けるべきです」
 あたしは遠い──三百年以上前の記憶を、微笑んだ男性の上へ重ねる。地球を発つとき、あらゆる記録を消し去った少年が、ただひとつ、取り留めもない文字の連なりを機械の脳へ残した。それは他愛ない(あらが)いだった。少年はそれひとつで世界を吹き飛ばせるとしんじたが、実際、そうしてあたしは今ここにいる。
 少し置いて、箍衣は云った。
「タイヨウさん、私は見ていますよ。この崩壊しかけた世界が、どのような道を辿るのか。異なる文明を受け入れて、まったく違う姿にかわるのか、それとも、このまま自壊していくのか。……私を求めてくれた女性たちが、やがて私の時間を追い抜き、足早に去っていくのも、私は見ていますよ──…」

 あたしはヒメミコとふたりで、砂浜に腰を下ろしている。
 誰もいない。世界に二人きりだ。この先は、ずっとそうに違いない。
 水平線が(ほの)かに色づき、空の裾が明るみ始めている。ヒメミコはそれを見据えているのか、身動(みじろ)ぎをしない。あたしは砂を弄び、手のひらから零した。夜明けはまだこない。やがて、あたしは「いこうか」と云った。
 ヒメミコは頷いた。
 あたしは少女を抱き上げ、船の中へ連れて入った。入ってすぐが短い通路、右手が船室(キャビン)だ。名も知らぬ宇宙旅行者の持ち物は、殆どがそのまま残されている。あとは幾許(いくばく)かの食糧と必要品が船には積まれた。あたしは清潔に整えられた寝台へ少女を下ろしたけれど、ヒメミコは異星の物品には目もくれず、不安げな表情であたしに縋った。あたしは複雑な思いで少女を操舵席へ連れていった。膝の上へ抱くと、ヒメミコはきつくあたしにしがみついた。あたしは薔薇色の髪に顔を埋め、まだ戻れるぞ、と囁いた。ヒメミコは返事をした。戻ることを拒む声だった。
 あたしは船を起動させた。コンソールに一斉に明かりが灯り、投影式モニタが立ち上がる。ヒメミコは息を詰めて見ている。おおよその操作はあたしが乗っていた光子船とかわらない。ただし管制装置がないので、総て自力で行わなければならない。あたしは慎重に処理していく。船内が密閉され保命機能が正常に働いているのを確かめると、時空を歪める装置に指令をだした。旧式のコンピュータは、すべての演算能力を傾けて四次元の時空を裂こうとする。それは焦れったくも心細い時間だった。このまま失敗に終わることすらあたしは考えていた。そのときに、夏蜜柑と交わす挨拶のことも。
 やがて凄まじい衝撃が襲った。あたしはヒメミコの躯を抱き竦めた。大地を揺さぶるような振動が続き、船体が(きし)みを上げた。あたしは力を込めて瞼をひらいた。それまで、穏やかな朝未(あさまだ)きの海が広がっていた主窓の外は、一面の虚無だった。
 自分の息を継ぐ音も聞こえなかった。そして、なんの物音も聞こえなくなった。あたしは虚無を見つめながら、やはり自分は、ヒメミコをむざむざ死なせようとしているのだろうかと考えた。例え輝かしさを失うことになっても、この子をあのまま、同一の世界で生き続けさせるべきではなかったのか。強い反発が胸に(きざ)した。太陽は太陽でなくてはならないのだ。
 正体を取り戻したとき、あたしの目はやはり主窓の外に闇を見ていた。けれど、その闇には夥しい光が散らばっていた。あたしは呆然とモニタを見た。そうして、ほころびながら、肩口に顔を(うず)めたヒメミコを揺り起こした。
 ヒメミコはゆっくりと顔を上げ、あたしの差すほうを見た。そこへ、無尽の闇に浮かんで、紫丁香花(ライラック)色の丸い殻が浮かんでいる。
「……な、でられただろ?」
 あたしの声も、振り向いたヒメミコの眸も涙に滲んでいた。ヒメミコは頷き、あたしの頸に腕をまわした。一頻(ひとしき)り抱き合ったあと、あたしは明るい声で、さあ、タイヨウへいこう、と云った。そして推進機関を作動させた。
 瞬く間に紫丁香花色の星は見えなくなった。恒星の光が徐々に集まり、それぞれの色を鮮やかにし、じきに星虹(スターボウ)が現れた。ヒメミコは陶然(とうぜん)とその光景を見つめた。あたしは少女の肩越しに、そっとモニタの表示を見遣った。それが何処の時間であるかは関係ない。ただ、そのめまぐるしい変化だけが意味を持っていた。
 もう十九日が──一ヶ月が経った。
 もう九十五日が──半年が経った。夏蜜柑は、ちゃんと新しい花を摘みにいっただろうか。
 もう一九〇日が──一年が経った。
 過ぎ去る時間の速度はその辺りで一定になり、あとはただ、指の隙間から零れ続ける。
 やがて、夏蜜柑が死んだ。
 箍衣が死んだ。
 あたしは温かな躯にしがみつき、声を押し殺した。(いぶか)った少女が尋ねたけれど、あたしは口許を笑わせて頸を振った。それは、本当に絵空事のようだった。機首を返せば、当たり前に二人はついさっき別れたままの姿で待っているような気がする。それ以外に真実はなかった。けれどもう、どこにもいない。
 ヒメミコは、しばらくあたしの髪を戸惑ったように弄んでいた。それから、タイヨウへはどのくらいでつくのかと、無心な声で尋ねた。あたしはもう、二度と取り乱すまいと、飄々(ひょうひょう)とした口調で云った。
「あの、虹のゲートを越えたらすぐに。ただ、あすこまではちょっと時間がかかるけど」
 ヒメミコは行く手の星虹を見遣り、そうか、と呟いた。あたしは少女に正しくないことを云った。けれどそれが本当になることは、きっとないはずだった。

 あたしとヒメミコは、ままごとを続けている。
 二人きりの船室(キャビン)の中で、残された地球の品を一つ一つ取り上げては、少女に見せた。ヒメミコはどんなつまらないものにもありたけの関心を示した。あたしは誠実に物の名前や用途を教えたけれど、ときにはわざと適当なことを云いもした。ヒメミコは勿論、それを本気にして受け取り、じきに気づいて呆れながら怒った。あたしたちは折り重なって船室の床に転がり、あたしにつられてヒメミコも仕方なく少し笑った。
 荷物の中に立体投影(ホログラフィ)パネルがあった。それは、と問う少女に、色んな景色や、知識を目に見えるようにしたものを入れて、持ち運べるようにしたもの、とあたしは答え、指を滑らせた。ヒメミコは判ったような判らないような顔をしていた。名も知らぬ宇宙旅行者が溜め込んだ情報を検索しつつ、ふと電子ライブラリをひらくと、そこに懐かしい、そして今となっては面映ゆいタイトルがあった。あたしはそれを呼びだしてみた。投影された細かな黒い点の羅列を、ヒメミコは疑わしそうに見つめた──彼女の星には文字がなかったからだ。あたしは冒頭の注釈を感慨深く読んだ。そこには、この作品が二〇〇〇年代の初頭に当時十六才だった著者の手で書き残されたものであること、二〇三八年に電子出版されるはずが、喪失の火曜日に()い、現在の本文は二三四八年に個人の手で発見された紙書籍版が元になっていることなどが──「司馬箍衣」という著者名と共に、淡々としるされてあった。あたしは時間の不可思議さを思って、その短い文章を繰り返し眺めた。
 ヒメミコが好きなのは、操舵席に座り、前方の星虹(スターボウ)を見ることだった。ブランケットにくるまり、躯をしどけなく椅子に預けて、いつまでも飽きることなく視線を注いでいる。あの虹のゲートが決して近づいてはこないことを、少女はどう感じているのだろう。あたしが足音を立てないようにそばへいき、そっと疲れないかと尋ねるとヒメミコは少しだけ視線をこちらへ向け、口許を弛めてみせる。あまりに大きな希望に、押し潰されそうになっているみたいな表情だった。あたしは少女の髪を撫でる。モニタの表示が忙しなく刻み続ける数値は、既にどんな意味もない。
 夜も昼もない船の中で、あたしたちは遊び続ける。あたしはかつての欲求を(ようや)く叶えることができた。鎖骨から、唇で数えていった少女の肋骨(ろっこつ)の数は、本当に一つ多かった。
 時折、ヒメミコは癇癪(かんしゃく)を起こした。それは、あたしが不意に少女の言葉を理解できなくなるからだった。その間隔は徐々に(せば)まっているように思えた。ヒメミコは困り顔で微笑むあたしにいらだち、当て処がない感情を無理に抑え込んで斜を向いた。仕方がない。あたしたちの言葉が通じなかったのは、自分が途切れていた所為(せい)だとしかヒメミコは知らない。あたしはそむられた背に(にじ)り寄り、じっと抱き竦めた。気がつくと、少女の手がまわされたあたしの手を撫でている。あたしは満たされていた。これ以上のことは、何も必要がなかった。

 寝台で身を寄せ合ってねむっていると、突然けたたましい警告音が船内に響いた。どれだけの時間をこの船の中で過ごしたのか、もう判らない。ただ積み込んだ食糧が底を尽き始めているのだけ、あたしは気づいていた。
 訪れたものを悟って、あたしは怯えているヒメミコをブランケットでくるむと、床から上着を拾って操舵スペースへいった。モニタが激しく明滅している。原因は予想したとおりだった。あまりに長い時間、限界出力で加速し続けたので、光子エンジンが過熱を起こしたのだ。
 あたしはコンソールを操作して警告音を切った。この船には、独自の判断で推進機関を停止させるような管制システムはない。そのまま何もせずに船室(キャビン)へ戻ると、寝台へ起き上がったヒメミコが不安そうな顔つきでこちらを見ていた。あたしは上着を脱ぎ捨て、何も云わずに少女と脚を(から)めた。抱きつくと、ヒメミコは肩越しに何があったのかと弱々しく尋ねる。あたしは少女の髪に頬を擦りつけ、なんでもないよ、と歌うように云った。
 既にヒヤデスを去って、数百光年を経ている──太陽系とは別の方角へ。焼けついた推進機関を修繕する術も、食糧が尽きる前に他の宇宙船に発見される可能性も、ありはしない。なにより、亜光速を脱すれば、星虹(スターボウ)が消えてしまう。あたしたちが辿りつこうとしているのは、あの虹のゲートの向こうなのだ。
 黙りこくっていたヒメミコも、あたしが悪戯(いたずら)を続けると、やがて唇をあたしの耳の下から頬へ動かし、そして口のそばへあてた。熱の籠もらない、いつもと同じヒメミコのくちづけだ。少女はこうすることの意味を知らない。ただ、あたしがするので真似をしてみせるのだ。あたしは(まぶた)を閉じて、狂おしく愛おしい少女の存在だけを感じた。二人きりの宇宙の果てで、あたしたちはじゃれあい、じきに最後のねむりにおちた。
 目覚めたとき、既に船内の温度は上がり始めていた。あたしは気づかないふりをして、少女と共に身仕舞いをした。(とぼ)しい食糧を惜しげもなく床の上へ並べ、少女の口へ運んだ。ヒメミコは(しき)りに水を欲しがった。少女の額には、いつしか汗が滲んでいる。残っていた水はじきに(から)になった。あたしは伝えるべき言葉を考えあぐねていた。どうして、ヒメミコは何も問わないのだろう。
 やがて装甲の軋む音が、船内に不気味に響き始めた。肌は熱にひきつり、床へ接した脚さえ堪え難いようなのに、あたしたちは寄り添ってじっとしていた。嵐が過ぎ去るのを待っているような気持ちだった。実際、じきにこの異変は収まるのだと、まだ心の何処かでしんじている自分がいた。ヒメミコはあたしの肩口に顔を(うず)め、胸の前へこごめた手にタイヨウの機械をにぎっている。あたしは少女の薔薇色の髪をゆっくりと撫でたけれど、それは真夏の日差しに炙られたように熱かった。船全体が不規則に振動するようになり、船内の灯りがおちた。
 ヒメミコは顔を強くあたしに押しつける。あたしはしっかりと少女を抱いた。船室から続く通路の果てに、禍々しい光を放っているコンソールと、主窓の外の星虹が見える。熱気で視界が霞み、照明は絶えたはずだのに、船内が赤い光に満ち始めた。あたしは少女の額際(ひたいぎわ)にくちづけ、もうすぐタイヨウだ、と云った。それは嘘ではなかった。初めから、タイヨウはそこにしかないのだ。
 ヒメミコがふと、あたしの名を呼んだ。──宇宙人ではなく、いちども呼んだことのなかった本当の名前を呼んだ。
【悪かったな…あたしのために、お前まで一緒に死んでくれて…】
 あたしは息をのんだ。ヒメミコは腕の中からあたしを見上げ、藍銅(アズライト)色の眸を笑わせた。ヒメミコは知っていたのだ。
 船が大きく揺れた。あたしたちは声を零し、折り重なって床に叩きつけられた。ヒメミコ、とあたしは呼んだ。少女はじっと動かない。金属の融解(ゆうかい)する音が聞こえ、船内はいよいよ灼かれるような高温に包まれる。躯の下で爆発音が轟き、四方の感覚さえ判らなくなった。あたしは少女の躯をかばいながら、船室の床や壁のそちこちに赤い(むら)が広がっていくのを見る。通路の先が目を射るように輝いている──それは、主窓いっぱいに広がった星虹(スターボウ)だった。集中した星星の光が散っていく。だめだ、とあたしは思った。あたしたちはタイヨウへいくのだ。光は更にその強さを増していく。コンソールや操舵席をのみ、まるで、船全体がその中へ突入していくように思えた。あたしは愛しい少女の躯に縋りついた。そのとき、先程とは違う振動が船を貫いた。音も熱も、波が引くように消えていく。目を上げたあたしが見たのは、虚無だった。

 あたしは、目をひらいた。そこに夏蜜柑がいた。少し先にしゃがんで、花の手入れをしている。
 忙しそうに手を動かす後ろから、箍衣の姿が現れる。肩の釦穴には金雀枝(エニシダ)の花が飾られている。夏蜜柑は笑みを浮かべて、花の鉢を抱えて立ち上がった。向かい合う二人の外見は、箍衣は見知っているままなのに、夏蜜柑だけ少し年齢を重ねている。それで、二人はちょうど釣り合いの取れた夫婦に見えた。夏蜜柑は嬉しそうに旦那様を見上げ、箍衣は穏やかに少女を見下ろしている。やがて、二人の姿は闇に消える。
 黄色いレインコートの背中が、楽しげに駈けていく。ふと立ち止まり、何もない頭上を見上げる。フードの(ふち)から灰みがかった青緑色の髪が覗いている。ヒヨドリは再び走りだし、その姿は小さくなっていく。
 爪を赤く染めた手を差し向けて、美しく身を飾ったユエが歌う。絹の赤い衣装に、髪に緋牡丹の花を挿して、闇を見渡して得々と微笑む。華やかな口許から零れる歌は聞こえない。そうして、歌姫の姿は明かりを消したように見えなくなる。
 あたしは、懐かしい男の姿を見いだす。イザナギが本の山のてっぺんに立って、腰に片手をあてて、じっと足下を見遣りながら考え込んでいる。イザナギ、とあたしは叫ぶ。振り向いたイザナギは、真っ直ぐにあたしを見ながら、無表情に立ち尽くしている。(つや)やかな頬を夕日が照らしている。男の姿が遠くなっていく。あたしは懸命に声のない声を張り上げる。イザナギ、さよなら。

 一時(いっとき)に耳に音が蘇った。あたしは床に倒れた姿勢から、肘に力を込めて無理矢理に身を起こした。──船はまだ航行し続けている。取りつくように少女の躯を揺すると、肩が痙攣し、ヒメミコは顔を上げた。あたしは安堵してその頬に手をあてた。ただそれだけで、あたしたちの肌は破れた。ヒメミコは口を動かすけれど、(うめ)くような声しか聞こえてこない。少女は(くずお)れ、額を床に擦りつけるようにして再び顔を上げると、船の行く手を見遣った。あたしもその視線を辿り、(ようや)くそこへ見ているものに気づいた。
 ヒメミコは目を奪われたまま、萎えた脚を懸命に動かして立ち上がり、そちらへ歩いていこうとする。少女の足掻(あが)いた床の上には、褐色の跡が残っていた。ふらつきながら、二、三歩だけ歩んだヒメミコの手から、記憶装置が糸を引いて離れ、それは床にぶつかる前に独りでに弾けた。あたしも幾度も倒れながら起き上がり、少女を追った。そうしてあたしたちはお互いを抱きかかえるようにしながら、ゆっくりと短い通路を進んだ。
 次々に、舷窓や艤装(ぎそう)の砕ける音が聞こえた。あたしの手のひらは少女の腰で潰れ、ヒメミコの腕はあたしの肩に()けた。吐く息も肺を灼く空気も火のようだった。進むにつれ、視界が白くぼやけていく。あたしは少女の感触だけで意識を保っていた。緩慢に、長く尾を引いて響き続ける音は、途方もない圧力に押し(ひし)がれる船体の最期の悲鳴だ。あたしたちは支え合いながら、ようよう主窓のすぐ前まで辿りついた。そうして、そこへ広がる圧倒的な光に、目を注いだ。
 そこに、太陽があった。
 あたしたちの太陽だ。
 光は網膜に焼けつき、じきに脳裏を真っ白に染めた。(いた)んだ目が流す涙に濡れながら、あたしは手さぐりにヒメミコを引き寄せた。ヒメミコの腕も、あたしをさがしていた。宇宙人、とヒメミコが云った気がした。宇宙人、ついたな。あたしたちは離れようなく躯を合わせ、額を押しつけ合って、どうしようもなく笑ったのだろう。そうして太陽に──輝かしいタイヨウに墜ちていき、もう二度と孤独になることはなかった。

ヒュペルボレオスの星

「ヒュペルボレオスの歌」
完訳ギリシア·ローマ神話
トマス・ブルフィンチ
大久保博/訳
角川文庫

2012年3月25日 初版発行
2014年1月19日 改版第2版発行(底本)
フルカラーオフセット表紙/A5判/1頁2段組/132p
(「琳堂晶也」名義)

ヒュペルボレオスの星

太陽はダイソン球に覆われ、月も光を失い、衛星軌道上を|人工太陽《ヘリオス》が巡る。二三四九年の地球で、〈語り手〉は廃棄された本の山から稀覯本を掘り出して暮らしている。都市に建設された|軌道連絡超々高層ビル《コスモスクレーパー》の接続する宇宙港には、日常的に個人所有の宇宙船が発着する。 だが、打ち捨てられた町の片隅で、〈語り手〉は本の山に寝転び、己という情報が刻々と宇宙空間に失われていくのを見つめている。 喪失の火曜日と呼ばれるコンピュータエラー以前の書籍には資産価値があった。〈語り手〉は人工太陽を予言した未刊行小説を見つける。現存しないとされていた一冊の本には、中古の宇宙船を買えるだけの値段がついた。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-02-14

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