愛してくれてありがとう

4月 ―出逢い―

9日(水)
今日は始業式でした。いよいよこの学校で三年生としてのスクールライフが始まります。当たり前のことだけど、知っている人が誰もいなくて寂しいです。
でも、一人だけ私と仲良くしてくれそうな子がいました。彼女の名は倉沢藍子さんといいます。彼女は転校生の私に、私のことを根掘り葉掘り聞いてきました。
私は、倉沢さんと友達関係を作れたら嬉しいと思います。


11日(金)
今日は席替えがありました。みんなテンションが上がっていましたが、私には何がそんなに楽しいのかわかりません。だって、ただクラスメイトの着席する順番が変わる、ただそれだけではないですか。
そんなことはともかく、嬉しいラッキーが起こりました。倉沢さんと席が隣になったのです。これは仲良くなるチャンス。この機会を逃すわけにはいきません。


14日(月)
今まで数日間、彼女の様子を見ていますが、どうやら倉沢さんはいつも一人で過ごしているようです。私の前の席の、いわゆる陽キャの女の子に聞いてみたら、確かに倉沢さんには友達がいないようでした。理由は、由緒正しい家の子だからだそうです。誰も、お堅い家の子とは仲良くしたくないのです。
そんなの、おかしいじゃないですか。全くおかしいです。これは何としても、私は倉沢さんの親友になりたいと思います。


15日(火)
今日は今年度初めてクラスでレクリエーションをしました。始めに二人組を作って腕相撲を行い、今度は勝った人同士でまた試合をします。それを繰り返して、最終的に最強を決めるということをしました。
ペアを作るとき、私は全く困りませんでした。倉沢さんがペアになってくれたからです。倉沢さんに感謝です。やはり、私たちは友達になれるような気がします。一度彼女を目が合ったとき、お互いにはっとして、すぐに目をそらしてしまいました。私たちの関係はまだまだです。
また、倉沢さんの腕っぷしの強さには驚かされました。私の腕力は人並み程度ですが、あっけなく彼女に敗れてしまいました。


16日(水)
今日の学活の時間では、修学旅行のオリエンテーションがありました。6月4日から2泊3日の日程で東京へ行きます。東京はかつて何度も訪れた場所ですが、私は当時あまりに幼かったため、全く覚えておらず、実質初めて訪れることになります。
オリエンテーションの最中、私は頭痛持ちなので具合が悪くなってしまい、保健室へ向かうことになったのですが、そのとき倉沢さんが私に付き添ってくれました。彼女のあたたかみは私にとって久しぶりに感じる人間の優しさだったので彼女と親友になりたいとはっきり思いました。このような感情に対する対処法をまだ自分は身につけていないことに気付かされました。

17日(木)
彼女と私はお互いニックネームで呼び会うことになりました。今日からは、私が倉沢さんのことをあいちゃん、あいちゃんが私のことをのぞみんと呼ぶのです。のぞみんという渾名で呼ばれたことはないので新鮮な感覚です。

18日(金)
今日の朝、「のぞみん、おはよう」とあいちゃんに声をかけられました。私も彼女に「あいちゃん、おはよう」と返したのですが、この渾名はやはりしっくりしません。こう呼ばれることに慣れるのはまだしばらく先のことになりそうです。

21日(月)
今週は教育相談、という名の二者面談週間です。この1週間は生徒一人一人に20分ずつ時間が割り当てられ、担任の先生一対一で話をするのです。目的は生徒の悩みを把握し、解決することにあるのですが、私はこれに意味があるのかは疑問に思います。なぜなら、本当にどうにもならない悩みというのは、よっぽどのことがない限りは他人に打ち明けられないと思うからです。しかし、これのおかげで授業は4限までで終了し、早く帰宅することができます。放課後の自由時間が増えるのでよい機会だと思いあいちゃんを遊びに誘ったのですが、塾が忙しいといって断られてしまいました。
あいちゃんは勉強はできる方ですが、それは努力の賜物であると思うと、塾ばかりの過密スケジュールをこなしている彼女がなんだか不憫に感じます。

22日(火)
部活の仮入部期間が今日から始まりました。3年からいきなり入部することに意義を感じられないので、私は帰宅部になるつもりです。


23日(水)
今日は私の教育相談が行われました。担任の真野先生は私のことをとても心配していました。というのも、前の学校で担任だった宮本先生から、私のことを快活な生徒だと聞いていたそうです。今の私を見ると、とても快活には見えないのでしょう。それは仕方ないことだと思います。私は先生の優しさというものに触れたことがあまりないので、少し泣きそうになりました。でも、先生は態度に変化なく接してくれたので、とても助かりました。この人のことは信頼しても大丈夫な気がします。


24日(木)
あいちゃんに真野先生について聞きました。小学2年生の娘がいるそうです。校内での評判は良く、彼女もいい先生だと思うと言っていたので、是非この方と良き信頼関係を構築したいと思いました。幸いあいちゃんはすでに先生との信頼関係があるので、そのつてを頼ろうと思います。
またあいちゃんから耳寄りな情報をもらいました。この学年の先生方はとても仲が良く、それぞれの誕生日には食べ物を持ち寄って職員室にて誕生会を行うそうです。生徒もそれを知っていて、放課後にわざわざ先生のところへプレゼントを渡しに行く者もあるそうです。
こんなに先生と生徒の関係が対等に近い学校は初めてです。私もその輪の中に入れたらどんなに楽しいだろうと思います。
というわけなので、私は人の名前を覚えることは苦手なのですが、この人達の中に溶け込むためにも、今日頑張って学年の先生方のフルネームを覚えました。覚え書きの替わりにここに書いておこうと思います。
1組 真野喜美子先生(英語)
2組 鳥居新吾先生(社会)
3組 荒川香保里先生(国語)
4組 石原里奈先生(理科)
5組 帖佐亮輔先生(音楽)&平井崇史先生(数学)


25日(金)
今日夕方に暇をもて余したため図書館へ出掛けたのですが、その道中、花純と佑香に会いました。2人は相変わらずいつも一緒にいるようです。私は携帯電話を持っていないので彼女らとは2年の修了式以来ですが、あんなことになって転校した私を心から心配してくれました。私の居場所は今なおあの二人のところだと一瞬思ったのですが、すぐにあいちゃんの顔が頭に浮かびました。もしかしたら私はあの時からほんの少し変わったのかもしれません。

5月 ―体育大会―

「明日は体育大会です。今までの練習の成果を発揮できるように、今日はゆっくり休んで、明日に備えて下さい。」
昨日の帰りの会では、真野先生にこう言われ、そして今日を迎えました。今日は体育大会でした。
3年1組の教室では生徒34人の声が響き渡っていました。大会に向けて気持ちが高揚しているのでしょう。あいちゃんもその内の一人でした。
「ねえ、どうする、一位とかとれちゃったら。」
「それはないでしょ。私の体育の成績どんなだと思ってるの。2だよ、5段階評価の2。」
「そんなんまだ分かんないでしょ。」
こんな感じで、私たちは話していました。
「まあ、明日は私の恩人が見に来るから、せいぜいドベにならない程度に頑張るわよ。」
「恩人?なにそれ」
「見た目はただのヤクザだけど、いい奴だから」
「ふーん。わかった。紹介してよね」
「んー」
あいちゃんは私から物騒な単語を聞いても動揺しないようになっています。私の過去が波乱万丈であるということは、とうの昔に承知しているのです。私のことをほんの少しでもわかってくれている人が一人でもいるというのは、ありがたいことです。
ところで、私たち二人がエントリーした競技は二人三脚です。二人で一緒にできるもので、なおかつ運動神経がなくても何とかなるという条件を満たす競技がそれしかなかったからです。あいちゃんの方は体育は得意分野ですが、私の方はと言えば、全くの運動音痴ですので、仕方ありません。
ここまでの経緯が分かれば、あいちゃんのテンションが上がることも無理はないと理解できるのではないでしょうか。
五月に入り、何とか私は西の森中学に馴染んできました。始めに声をかけてきたあいちゃんは当初クラスで浮いていたものの、持ち前の明るさでだんだんと溶け込んでいきました。

今日、あいちゃんはとびきりの笑顔で登校してきました。クラスカラーのはちまきを道中で既に身につけていました。私はその姿にもはや呆れるしかありませんでした。
「あいちゃんって本当に運動が好きなのね。そりゃクラスで浮くのも無理ないわ。それで、いつ『話』すればいい?」
「いつでもオッケーよ。委員会入ってないし。良かったよ、実行委員とかならなくて。委員になったら一日中ずっと仕事だし、そんなのやったら楽しめるものも楽しめないよ。」
「あいちゃんらしいわ。」
学校に着くと既に会場の準備は整っていました。
私たちは二人三脚に出場します。ある日、出場種目を決定する日が設けられました。その時に、私たちは示し合わせて同じ種目に立候補したのです。ペアは、選手が決まってから組まれます。よって私たちは共に走れることになりました。
必要な荷物は地べたに置き、教室に椅子を取りに行くと、教室では、黒板に大きくメッセージが書かれていました。
「みなさん、おはようございます。いよいよこの日がきました。今までみなさんは今日という日のためにとても頑張ってきたと思います。みんなはとても仲がよく、あたたかいクラスです。素敵なみんなの姿が見られることを楽しみにしています。私は本部での仕事があるのでなかなか直接応援の言葉をかけてあげることはできないかもしれません。でも、心の底からみんなが健闘し、素晴らしい体育大会となることを祈っています。」
私は言いました。
「真野先生ってこういう熱いことするんだね。」
「そうね、ああ見えて意外と熱血漢なのよ。前からずっと。」
私は昨日の夜はよく眠れませんでした。なんてタイミングなんだろう。よりによって今日になるとは誰が予想できたでしょうか。
椅子を運びながら私は観客席を見回しました。大丈夫、まだ来てない。
「生徒諸君に連絡。開会式は五分後からだ。それまでに全員応援席に着き、室長は点呼を済ませ、担任の先生に報告するように。」
「あら、急がなきゃ。おーいのぞみん、なにしてるの。早くしないとまずいよ。」
「あぁ、ごめんごめん」
私たちの出番は午後イチです。午前中は暇であるはずですが、あいちゃんは応援に精を出すに違いありません。私は、「話」は閉会式まで全て終わってから行うことにしました。
「1組~1組~頑張れ~あと少しだよ~」
「おーい頑張れ~」
「抜かされるなよ~」
歓声が大空に響き渡ります。ピンク色のはちまきの集団は美事な一体感を漂わせていました。その集団の中の一人があいちゃんです。
「倉沢さん、今日は頑張るね」
「そりゃ、目一杯楽しみたいから」
「ほら、のぞみんもだよ。頑張れーって叫んでみ」
「う、うん」
「持久走はかなり疲れる種目で大変だと思うけど、頑張ってねー」
「のぞみん、堅いって。ほら、いろいろ考えてるんだと思うけど、ちょっとだけそのことは忘れて、楽しもうよ。ねっ?」
「うん」
私はほほえみました。

「喉が壊れそう。めっちゃ叫んだわ。」
「次は何?」
「ランチ」
「もう午前の部は終わりなんだ。なんか早いね。」
「そうね、五十メートル走、五十メートルハードル、持久走、ハンドボール投げ、女子リレー、男子リレー、混合リレー、それでおしまい。ところで、『話』はいつするつもりなの?」
「全部終わったあとにしようと思って。それで大丈夫かな?」
「いいよいいよ。その、紹介したい人ってのはもう来ているの?全然分からないんだけど。」
「来てたよ。混合リレーのとき。今日はまともな格好してた。」
「ああ、そう。そりゃ分からないわけだ。ヤクザみたいな人って、前は言ってたもんね。」

ーー正門には立派な桜の木があると教わった。それを目印に学校の外周を歩き回ってみると、確かにその場所を見つけることができた。担当の先生がやって来る保護者一人一人に名前と自分が誰の親なのかを書かせている。面倒なことをするもんだ。
男は名前を書き、保護者として中に入った。記した子供の名はもちろん希望の名前だ。運動場では生徒が走っている。ああ、今はリレーをやっているのか。ピンク色のはちまきの集団の中にそれらしい人間を発見した。楽しそうに満面の笑みで声を張り上げている。あいつも青春ぽいことできるんだな。そりゃそうか、ああ見えてあいつはまだ15歳なんだから。
初めて会ったとき、あいつは12歳だった。しかし、女子高生くらいに偽っても問題なさそうだった。大人っぽいけど、やはり実年齢には逆らえない。中身はまだまだ中3の女の子なのだ。
あいつがこちらを見た。どうやら気づいたらしい。俺も手を振ってみる。あいつが俺に向かって微笑んできた。かわいい。
あいつは二人三脚に出場すると言っていた。ということは午後イチか。もう少し先になる。隣で一緒に走る子が例の倉沢藍子だそうだ。よく見ておかねばーー

私たちは仲良く一緒に教室へ戻りました。椅子は運動場に出してあるため教室には机しかありません。仕方なく、弁当を床に広げ、食べ始めました。クラスの皆がそうしていました。
「今日のメニューは何?」
「唐揚げ。」
「いいなぁ」
「ちょっとあげようか」
私は唐揚げをもらうかわりに梅干しをあげました。私の弁当には毎日梅干しが入っていますが、正直、迷惑な話です。私は梅干しが嫌いなのです。
「んんーうま。」
「んんーすっぱ。」
「んんーって、シンクロしたね。」
二人揃って照れてしまいました。それを隠すかのように、あいちゃんが言いました。
「あのさ、二人三脚の最後の練習、早く食べてやらない?」
「うん、いいよ。」
「頑張ろうね。一位目指そ。」
「なにそれ!プレッシャーだなぁ。」
私は話しながら感傷的になっていました。私にとって、運動会の日の昼御飯を友達と一緒に食べるなんて久しぶりのことだからです。
私の喉に空白の塊が詰まりました。私は、あわてて白米を掻き込みました。

「さあて、練習しましょ。ラストスパートだよ。」
あいちゃんは頭に着けていたピンク色のはちまきを取り、私たちの脚を縛りました。せーの、とあいちゃんが合図し、あいちゃんは左足を、私は右足を前に出します。息ぴったりでした。
いちに、いちに…。

ーー二人の掛け声が男の耳に小さく入った。男はそっと笑ったーー

「あー、あー。生徒諸君に連絡。只今午後の部開始十分前。五分前に全員席に着きなさい。また、室長はそれまでに点呼を行い、担任の先生に報告しなさい。点呼が終わり次第二人三脚の選手は入場門前に集合。実行委員の生徒は今すぐ本部に集まりなさい。」
あいちゃんは教頭のアナウンスが始まると同時に、はちまきを自分の頭に巻に直しました。私たちは2人とも準備万端です。スー、ハー。スー、ハー。深呼吸をします。
この大会のルールはいたって単純です。いくつもの競技を行い、1位のクラスには5ポイント、2位のクラスには4ポイント、というように速かったクラスほど高い点数が入ります。体育大会の優勝クラスはそのポイントが一番高いクラスとなります。3年生にとっては、最後の体育大会です。彼らの気合いは他の学年の何倍もありました。
「只今より、西の森中学校体育大会午後の部を開始します。」
「プログラム8番、二人三脚です。選手が入場します。」
入場時に使われる勇ましいファンファーレが鳴り響きました。選手は走って入場します。その中に私とあいちゃんの姿がありました。
まずは1年生。まだあどけない、かわいらしい子も多く、ヒョコヒョコと走っている様子を上級生は温かく見つめています。
次は2年生。先輩らしい貫禄がようやくついてきました。
そしていよいよ3年生の出番です。最上級生ならではの威厳を持っています。今回が最後なだけに、盛り上がりもひとしおです。
私たちは第3走者です。アンカーにいかにいい順位でバトンを渡せるか。第2走者までにかなりの差がついている場合も多いために重要なポジションであります。
さっきまでいた応援席では、クラスメイトがこちらを見て大声を張り上げています。頑張れだの、一位になれだの、様々な声が聞こえました。
第1走者がスタートラインに立ちました。いよいよレースが始まります。

――バン!号砲が鳴った。
桜木さんと結城さんペアが走り出した。二人はスタートしてすぐトップスピードで走る。一気に一位に躍り出た。内側に入り、自分たちの場所を確保する。
「いいぞいいぞ。そのまま突っ走れ!」
「桜木ちゃん、結城ちゃん、すごいよ!」
「ねえのぞ!これはいけるよ。うちらも頑張ろう!」
「ね、ね、すごいね!一位も夢じゃないよ!」
珍しく希望のテンションが上がっている。
さすが体育の成績が5のコンビなだけはある。運動神経抜群。保体係の常連。
第2走者の岬くん、門脇くんペアがスタンバイしている。門脇くんは右手を後ろに出し、バトンパスを準備は完璧だ。
桜木さんが左手にバトンを持ち、前へ差し出した。桜木さんが走りながらうんと腕を伸ばす。門脇くんの手に渡された。バトンパス成功。
「この調子だよー!」
「まだまだいけるよ!」
応援席からの声もだんだん大きくなる。希望たちは脚を結ぶ紐を確認し、スタートラインで準備する。このままなら1組の圧倒的な勝利は間違いない。希望はそう思った、はずだった。
「あっ!!」
藍子が声をあげた。
「やばっ!!」
「あいつらマジかよ。」
走っている二人のバランスが崩れた。転んだ。後ろから2組のペアが追い越して行く。5組も追い越してゆく。
岬くんも門脇くんも痛そうにしている。脚がきつく結ばれていてうまく立ち上がれない。
何とか立ち上がるともう4位になっていた。序盤で出遅れた3組もすぐそばまで近づいている。何とか走り出し、希望たちのところまできた。二人の怪我を負った脚と悔しそうな表情が希望と藍子の目に入る。藍子が言った。
「一気に巻き返すよ。」
やけに冷静な声だった。
いっせーのーせっ!!
練習と変わらない息ぴったりな走りだ。二人の持ちうる最も速いスピードで走る。二人にはもう応援の声は聞こえない。
1、2、1、2、
4組を追い越す。5組を追い越す。
はー、はー。
希望の息が切れてきた。
藍子は無我夢中になっている。
互いの肩を持つ手に力が入る。藍子が門脇くんから受け取ったバトンを希望に渡した。希望は左手でぎゅっとバトンを握りしめる。コーナーを回るとあと少し。もう少しでアンカーのところにたどり着く。一瞬でも早く田崎くん、本宮くんペアにバトンを渡す。それだけを考えていた。
希望がこんなに学校行事で熱くなったのはもしかしたら初めてなのかもしれない。太陽の光を身体中に浴びて田崎くんの右手にバトンを渡した。2組のペアはもう目の前にいる。あとほんの少しでも一度1位になって、そして3年生二人三脚リレーを制する。アンカーが猛烈な勢いで走る。2組も猛烈な勢いで走る。1組対2組。どちらがこの闘いを制するのか。
ほぼ同時にゴールテープを切った。
審判の川村先生が1位のクラスの名前を叫ぶ。
「2組!!」――

1組とは違う音色の歓声が大空に響きわたっています。嗚呼。
私が応援席に目をやると、総立ちでした。そのくせクラスのみんなの表情は晴れません。ああ、ごめんなさい、私のせいだ。私がもっと速く走れたら。
今まで私は学校で何をしていたのだろう。ちゃんと通ったつもりなのに。毎日学校へ行って一体何を得たのだろう。
みんながうらやましい。なんで私ばっかり苦しまなきゃいけないの。私だってもっと青春ぽいこといっぱいしたかったのに。中学生にだってたくさん楽しいことできたはずでしょう?まだ身分は中3だけど、もう私は手遅れだなんて、そんなことは聞きたくないけど私はとっくに分かってる。
「のぞみん、大丈夫?」
あいちゃんの呼び掛けで、私ははっと我に返りました。だめだ、今そんなことを考えちゃ。
「やっぱのぞみんだって本当は1位取りたかったでしょ。顔に書いてある。」
「最初あんないい感じだったしね。ちょっとは燃えたよ。」
「でしょ、燃えるんだよ体育大会ってのは。それが楽しいの。この後はえーと、障害物リレー、選抜リレー、生徒会企画の長縄跳びだね。頑張ろうね。」
「もう出番終わったじゃん。何をそんなに頑張るの?」
「ちっちっちっ。選抜リレーをなめちゃああきまへんで。」
「唐突に関西弁。」
「盛り上がるでぇ!」

――「よーい、」
バンっ
号砲が鳴った。桜木さんがスタートダッシュを切る。さすが選抜メンバーなだけあって凄まじいスピードでグラウンドを駆け抜ける。風を切って走っている。あっという間に第一走者のレースは終盤を迎える。希望は藍子に倣って声を張り上げる。3位で最終コーナーを通過する。このリレーではコーナートップ制がとられている。
町田くんにバトンを渡す。パスは流れるように行われる。町田くんの走りもとんでもなく速い。希望には到底真似できそうもない。直線に入り、追い風になる。さらに速くなる。希望の見る景色が輝きはじめる。一人抜いた。2位になってコーナーを回る。
バトンを持つ手を思い切り伸ばす。再び流れるようなバトンパスが行われ、吉田さんがスタート地点から走り去ってゆく。脚が円で描かれる漫画の絵のように、男子に引けをとらないペースで走る。どんどん1位を追い上げてゆく。
まだ抜かせない。でも確実に1位は見えている。さっき転んだ岬くんへ、バトンと共に走り終わった3人の気合いが手渡される。傷ができた両足で懸命に走る。
怪我をしていても速い。さすが選抜のアンカーだ。岬くんは、やはり痛いのか苦悶の表情で走っている。
クラスメイトも必死に声をあげる。頑張れ、気合い出せ、あんたならできる。スピードがどんどん上がる。ものすごい勢いで走る。そして、抜かした。最終コーナーをなんとか1位で通過する。
あと少し。あと少し。あとほんの少しで1組は1位になれる。頑張れ。
希望は祈る。なんとか岬くんがこのまま1位でゴールできますように。
岬くんがゴールテープを切る。みんなのボルテージは最高潮に達する。
桜木さんが泣いている。それにつられて岬くんも泣き出す寸前の子供のような表情になる。
希望の目にも、うっすらと光るものがあった――

午前0時を過ぎた郊外の街はアルコールの混ざった活気がありました。コンビニの前に胡座をかいて座る青年が一人。彼こそが、私が依頼をしたお相手です。
「あの、奥田晴嵐さんで、ございますか?私は、その、連絡した、希望です。」
「おお、そうか。……ところで、お前、何歳だ?」
「12です。」
「ガキか。まさかとは思うが、小学生じゃないだろうな?小学生にしては大人びているが、事実だけは、ちょろまかすことはできても誤魔化しはきかないぞ。」
「いえ、中1です。まだ0時なので中学生なら許容範囲だと思いますが。」
「そういう問題か?」奥田さんはまた舌打ちしました。
このやり取りが、奥田さんと私の、最初の会話でした。
「一応、始めに言っておくが、俺のやってる商売は世間様にきちんと認められたものじゃない。裏社会のネットワークを駆使して、人でもなんでも、探し物は一手に引き受ける。それこそが俺の生業だ。お前さんは確か、お姉ちゃんを捜していると言っていたな。どんな事情があるのか知らないが、まずは家族のことをなんでも教えてくれ。」
「わかりました。
家族構成は、私と姉が2人、姉妹だけで暮らしています。姉2人とは父親が違って、歳も、上の姉とは10歳、下の姉とは9歳離れています。
上の姉は友希といって、22歳です。私と下の姉を養うために高卒で働いています。母が17歳の時の娘なんです。
下の姉は紗希といいます。21歳で、大学4年生です。バイトをしながら学業を頑張っていて、勉強は大の得意です。奨学金を使って有名な旧帝国大学に通っています。
そして私、希望は、中学1年生で12歳です。さき姉と血が繋がっているとは思えないバカですし、運動もからっきしです。」
「お母さんやお父さんのことは?」
「母は友希が就職してすぐに、男の人と一緒に出ていきました。父親は、わかりません。母は男の人をとっかえひっかえしているんです。」
私は奥田さんとあいちゃんを会わせました。「話」をするためには、奥田さんの存在が、私にとっては欠かせなかったからです。
2年前あの日、奥田さんと初めて会った日のことを、鮮明に思い出しました。
「依頼したいのは、紗希を探すことです。紗希は失踪してしまったんです。」

体育大会のプログラムがすべて終了したあと、私はあいちゃんと奥田さんを体育館裏に連れていきました。そこで「話」をするためです。内容は、私の生まれ育った環境のことでした。あらかじめ、話すことは頭の中にきちんとメモしてあったので、すらすらと言葉を紡ぐことができました。
「私、家庭がちょっと複雑なの。10歳上と9歳上のお姉ちゃんがいて、友希と紗希っていうの。お母さんは、ちゃんと診断を受けたわけじゃないんだけど、たぶん恋愛依存症。小学生の頃は、学校が休みの時期になると、私たちは富山にある母方のおばあちゃんの家に預けられて、その間、お母さんがどこにいるかはわからなかった。おばあちゃんは立山連峰の室堂平っていう場所で、旅館を経営していたの。自然に溢れた空気のおいしい場所で、私はいつもお姉ちゃんたちに遊んでもらってた。
お父さんのことは知らない。お姉ちゃんたちのお父さんと私のお父さんは別の人。
友希姉(ゆきねえ)は高卒で就職して、その後すぐに、お母さんは男の人と一緒に家を出ていった。だから、私たち姉妹だけで暮らすようになったの。」
「そっか。いろいろ大変なんだね。のぞみん、頑張ってるんだね。」
あいちゃんのこの言葉から、彼女の人柄を感じ取れたと思います。あいちゃんは信頼できる人だ、と思いました。
「ところがね、私が中1の時、紗希姉(さきねえ)が突然失踪したの。」
「ええ!?」
「うん。そうなの。紗希姉、いなくなっちゃったの。」
「そこで、俺が依頼を受けた。」
「奥田さんが?」
「希望が、俺に紗希さんを探すことを依頼してきた。なかなか苦労したんだが、この間やっと居場所がわかった。」
「そこが、室堂なの。」
「室堂……。あの、土砂災害の?山が崩れて何百人も死んだ、あの場所?」
「そう。」
「まさか、そんなわけないでしょ。」
「違うの。そんなわけあるの。
子供の頃、おばあちゃん家に預けられていた時、室堂でいつも遊んでもらってたの。だから、私たちにとって、室堂平というのは思い出の場所。だから、そこにお姉ちゃんがいたとしたも、全然おかしくない。……生きてるかどうかはわからないけど。」
私は大きく息を吸いました。
「だから、私、室堂平に行くことにしたの。」
あいちゃんは、わけがわからないという様子です。当然の反応でしょう。
私が小学校6年生の時の冬、室堂平を含む富山県一帯に、予想だにしなかった未曾有の大雨が、突然降りました。雪が積もるだろうと言われていた日でした。すでに雪で覆われていた高山である室堂では、雪崩が複数発生。それだけでなく、 土砂災害も起こりました。山に取り残されていた登山客が、何百人も死にました。丈の短い小さな花々が咲き誇る室堂は、あっという間に、今では立ち入り禁止区域に指定されているほど、滅茶苦茶になりました。
あいちゃんは言いました。
「馬鹿じゃないの!」
私は言い返しました。
「そうよ、私は馬鹿よ!でも、許して欲しいの。
まだ私の話は終わってない。まだ続きがあるの。」
そう言うと、あいちゃんは不満そうな顔をしながらも、黙って私の目を見ました。
「お姉ちゃんを探しに行くの。それは、私のためだけじゃなくて、友希姉のためでもあるの。
友希姉は、病気になっちゃったの。お母さんが出ていったから、友希姉は18の時からずだと、私と紗希姉を養ってくれてた。養わなくちゃいけなかった。たぶん、そのプレッシャーとか、職場のストレスとか、そういうのが重なったんだと思う。友希姉は、今年の春、パニック障害になっちゃったの。」
「パニック障害……。聞いたことある。」
「だからね、友希姉のために、私は紗希姉を何としても見つけたい。奥田さんに依頼した1番最初の時は、ただ単に紗希姉に帰ってきて欲しいっていう気持ちだけだった。でも今は違う。何としても私と奥田さんの力で、私は紗希姉を見つけるの。」
「のぞみん、本当に大丈夫なの?小さい頃山で遊んでたって言ったって、それは何年も前の話でしょ?」
「ただでさえ冬の室堂は立ち入り禁止。あの豪雨の後は年中立ち入り禁止。そんな所に行くの、自殺しに行くのも同然だよ。お姉さんのことはわかった。でも私は、のぞみんが心配だよ。」
あいちゃんの瞼が、ぴくりと上に動きました。
「そうだ。私もついていくよ。奥田さんだって中学生女子がのこのこ一人で登山だなんて、心配でしょう?」
「そうだな。」
奥田さんは思案顔です。
「ここにいる三人と、あと日本の山に詳しい奴を探して、そいつも連れて行こう。いくらなんでもお前一人で行かせるわけにはいかない。」
嗚呼。皆どうせ分かってるでしょ。なんでそんなに私に構うのよ。私は涙が出そうでした。

6月 ―期末テスト―

23日(月)
今日から3日間、期末テストです。中間テストの結果は、私らしく、30点台がほとんどでした。得意な国語では、48点を取ることができました。レベルの低い話ですが、平均点くらいの点数が取れれば私は嬉しいです。
あいちゃんは、さすが塾に通って勉強を頑張っているだけあって、とても成績はよかったようです。順位だけは教えてくれませんでしたが、点数はすべて教えてくれました。私には到底届かない成績でした。ほとんどの科目が90点を超えているのです。私の想像ですが、順位は10位以内に入っているのではないかと思います。
「のぞみん、私が教えてあげようか?成績上げたいっしょ?」
「いいよ別に。あいちゃんだってたくさん勉強したいんだから、私に教えてる時間がもったいないでしょ。」
「人に教えるから自分が学べるということもあるのよ。」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな……」
「そうこなくっちゃ!」
私はあいちゃんに主要5科目をレッスンしてもらいました。あいちゃんはいつも楽しそうでした。でも、私の気持ちは晴れません。当然のことです。だって、紗希姉を探しに室堂へ行く日が、刻一刻と近づいているのです。
私の頭には、姉のことがまとわりついていました。今頃、私が勉強している間にも、長女の友希姉は妹を養うために病気を抱えながら働いています。いつどこで発作に襲われるかわからないという予期不安を抱えたまま、出社していきます。私だけがのんびりしていていいはずがないのです。セーラー服を着て毎日学校に通えていることは、ほかでもない友希姉のおかげであり、幸せなことなのです。私はテストが大嫌いですが、そのテストだって、受けられることは幸せなことなのです。
幸せとは何か。もし国語のテストでそれについて論述する問題が出たら、いい点をもらえる文章を書けるような気がします。
さて、今日のテストの話に戻りましょう。
今日は、3時限で、1時間目は自習でした。科目数と日数の関係で、初日の1時間目はテスト勉強の時間なのです。私は必死に音楽の勉強をしていました。今日の試験科目は、音楽と社会でした。
社会が、あいちゃんに教えてもらったかいあって、自己最高点が取れたかもしれません。嬉しい!本当に嬉しい!
社会は覚えるだけの科目だと思っていましたが、あいちゃん曰く、理解する科目だそうです。数学も国語も社会もすべて、理解することが勉強することだそうです。
反対に、音楽は完全に暗記ゲーです。授業内でリコーダーで演奏したアルプス一万尺と、ブルタバというクラシック曲について出題されました。短期記憶に叩き込んだおかげで、こちらは平均点くらい、まあそれなりの点数が取れた気がします。
明日は保健体育と技術家庭と数学です。
私の大の苦手な数学です。
でも、せっかくあいちゃんに講義してもらったのですから、なんとしても自己最高点を出したいと思っています。


24日(火)
数学のテストの真っ最中に、私は花純と佑香のことを思い出しました。この西の森中学校に今年度から転校してきて、4月に一度偶然会ったきり、一度も声を聴いていません。二人は一体どうしているでしょうか。
花純は数学が得意でした。女の子は文系科目の方が得意な傾向にあるイメージがありますが、彼女は全く逆でした。
前の学校で、私といつも親しくしてくれていたのが、花純たちです。私は彼女たちといつも3人で過ごしていました。でも、ペアを作るときには困りました。1人余ってしまいます。そんな時、私はいつも2人に遠慮して、別の余っている子と組んでいました。
今はあいちゃんがいるから違います。でも、もしあいちゃんのような子がもう一人いて、3人で過ごしていたとしても、きっと以前のようにはならなかったように思います。じゃんけんか何かをして、必ず平等であると思います。私は、今のこの環境が好きです。
中学2年のクラス替えの時、私は親しい子と誰とも同じクラスになれませんでした。そんな私を、花純がグループに入れてくれたのです。2対1。そんな構図が出来上がっていたと思います。
私は、それに対して疑問を感じます。遠慮するのはいつも私。グループが崩れる時、きっと私がこの2人から離れるのだと確信していました。
でも、今の私は違います。あいちゃんという最高の友達がいます。あいちゃんのおかげで今のこの場所を手に入れ、あいちゃんと一緒に日々を過ごせることは、私にとって最高の幸せです。もちろん、花純たちといた日々が幸せでなかったわけではありません。多少、不満があったという、ただそれだけのことなのです。
しかし、私は幸せばかりを噛みしめていてはいけません。今の場所があるのは確かにあいちゃんのおかげですが、それ以前に、友希姉という大前提があります。パニック障害という苦しみを背負いながら、私を養ってくれているのです。紗希姉のことも、絶対心配しているはずです。それでも、私のために頑張って働いてくれています。
私はテスト中、ずっと涙が出そうでした。
あいちゃんに申し訳ないです。せっかく講義してくれたのに、私は自己最高点を出すことはできなさそうです。私のメンタルが弱いせいです。私は、もっと強くならなければなりません。


25日(水)
今日の試験科目は、国語・英語・理科でした。私は文系科目が得意なので、国語、英語はあいちゃんの指導の成果もあり、かなり手応えがありました。しかし、理科のテストでは、わからない大問が5つもありました。テスト範囲は、等速直線運動や等加速度運動、仕事についてでした。
わからない問題がある度に、私は姉のことを考えてしまうようです。
昨日の数学の反省を生かし、理科の試験時間中はなるべくお姉ちゃんたちのことを考えないよう気を付けていました。国語は時間ギリギリですべて解き終わり、また英語も同様でした。お姉ちゃんのことを考える暇はありませんでしたから、きっとあいちゃんの講義の成果が発揮できたことと思います。
理科は今回の期末テストの中でもっとも自信のない科目です。なぜなら内容が物理分野だからです。ただでさえ苦手な理系科目、それでもって、特に苦手な物理とくれば、30点台であろうということは容易に想像がつきます。あいちゃんの講義を聞いたおかげで内容は半分くらい理解できていましたが、半分理解しているということは完璧に理解している分野の問題を全問正解しても、単純に考えれば50点くらいしか取れません。あいちゃんのように90点台をマークすることなど夢のまた夢でしょう。

さて、テスト返しの日が楽しみです。過去最高の成績を出すことができたか。それ以上に、ちょうどその日、瀬川さんに会うことになりました。
瀬川さんというのは、今度室堂へ行くときに付いてきてくれる山岳ガイドの方のことです。奥田さんが親切な方を探し出してくれました。
当日の段取りが徐々に決まってきました。
まず、ここ西の森を始発の列車で出て、そして始発の北陸新幹線に乗って富山に向かいます。そこで奥田さんと瀬川さんの2人と合流し、車で室堂平にできる限り近づきます。土砂災害が起こったあと、行政の許可なしで足を踏み入れるのは私たちくらいのものでしょうから、今現地がどのような状況になっているのかは全く想像がつきません。車で近寄ることもできないほどの荒野となっているのか、それともある程度は入れるくらいの、予想よりはマシな状況なのか。
私は過酷な登山となることも覚悟しています。
紗希姉を探すため。そして友希姉と紗希姉を再会させるため。
私自身のことなど後回しでいいのです。

パニック障害は、きっとストレスが原因なんだと私は思います。ただの予想ですが。
友希姉にとって、妹の紗希がいなくなったということは相当なストレスでしょうし、その上私を養わなければならない責任も背負っています。責任と、労働と、自らの気持ち。すべてを心の奥底にしまいこんできた友希姉のために。そして今もひとりでどこかにいるであろう紗希姉に、また家族で過ごしてもらいたいから。
私は頑張ります。何としても。

7月 ―目指した未来へ―

23日(水)
一昨日、終業式がありました。通知表がひとりひとりに手渡され、真野先生は両親に見せてぜひ褒めてもらうように言っていました。私には両親はいません。いるのは体調が悪いのを我慢して私のために懸命に働いている友希姉だけです。友希姉は私の成績に興味があるのでしょうか?それはわかりません。なので、私は友希姉のストレスがまた増えてしまわないように、あの紙切れは誰にも見せないことに決めました。
成績はここに書き出しておきます。それは、勉強を頑張れ、という自分へのメッセージのつもりです。
成績を上げないと、学費の安い公立高校に入学できません。だから、費用の高い私立高校に進むのだけは、なんとしても避けたいのです。

国語 4
数学 3
社会 3
理科 2
英語 4
美術 5
音楽 3
体育 2
技術家庭 3
合計(内申点) 29

西の森中学を卒業した者が行く高校としてメジャーなのは、地元の西の森高校です。優秀な子はずっと昔からこの辺りで名を轟かせてきた公立高校・朝丘(あさおか)高校や、朝丘高校よりもさらに偏差値が高く、県内で一番優秀な私立高校・天陽(てんよう)高校に進みます。朝丘は天陽は私からすれば雲の上の存在ですので、もちろん西の森高校を第一志望にするつもりです。
西の森高校に入るためには、だいたい内申点が35ほど必要だそうです。今の私の成績は29ですから、6も成績を上げなければなりません。これはたいへんです。内申点30くらいの子が進学する学校としては、明啓(めいけい)高校がありますが、あそこは私立です。学費が高いです。友希姉の負担になってしまいます。
私は勉強を頑張ります。それとともに、紗希姉探しをします。
あいちゃんという親友が私のそばにいてくれるから、私は大丈夫です。
紗希姉を見つけ出し、友希姉が健康を取り戻し、私は西の森高校に進んで幸せなスクールライフを送る。それが理想の未来です。

でも、一つ気がかりなことがあります。
それはあいちゃんの進路です。あいちゃんは良い家柄の子ですので、おそらく天陽高校を第一志望にするでしょう。別の学校に、分かれてしまいます。
あいちゃんなら大丈夫だと思いますが、それでも私は心配です。進学した後、私は一人でやっていけるのでしょうか。
それ以前に、私の家庭はどうなってしまうのでしょうか。

正直に言います。
怖くて怖くて仕方ない。
未来が怖い。
どんな苦しい未来が待っているのかと想像すると、悪寒や動悸がします。これでは私まで病気になってしまいます。それはいけません。
怖い。怖い。怖い。
あいちゃん。あいちゃんは、絶対、私のそばから離れないでほしいです。

さあ、弱音ばかり吐いていてはいけません。今週の土曜日、26日がいよいよその日です。室堂へと旅立ちます。
あいちゃんは準備万端だと言っていました。私の家でお泊り会をするという名目で両親から許可をもらったそうです。あいちゃんに親をだまさせてしまったことは申し訳なく思いますが、それはしかたありませんでした。
あいちゃん、奥田さん、瀬川さん、そして私。その4人で、あの室堂平へと足を踏み入れます。昔遊んでいた思い出の場所。変わり果ててしまった思い出の場所へ。

8月 ―探訪―

夏休みの中頃。8月上旬。8月の2日目。計4人でぼろぼろに崩れた室堂平に踏み込みました。麓の夏がキラキラと輝く、美しい景色でした。
西の森駅からJRで2時間、乗り継ぎ3回。そうして東京駅に出ると、そこから北陸新幹線に乗って黒部宇奈月温泉駅で降りました。そこで、奥田さんと瀬川さんの2人に合流しました。
私は終始泣きそうでした。不安に押し潰されそうで。
でも、あいちゃんが隣にずっといたから、堪えた。いつもはセーラー服で、スカートを履いている私たちが、今日はズボンにトレッキングシューズという出で立ちで遠出する。その目的地では、何があるかわからない。紗希姉との感動の再会が待っているのか、それとも死体となった姉と対面することになるのか。いつもと真反対の状況で、どうしても最悪の場合の想定が頭から離れませんでした。
「のぞみん、いよいよだね。」
「うん。」
「のぞみん、緊張してるでしょ?」
「まあ、ちょっとね。」
「大丈夫。だって、この倉沢藍子がいるからね。」
あいちゃんは私を励ましてくれました。あいちゃん、ありがとう。でも、ごめんね。

行きの車の中では、奥田さんが終始しゃべっていました。きっと、彼なりに私に気を遣ってくださったのだと思います。有名な男性アイドルの話や、奥田さんが好きなクラシック音楽の話、特にラフマニノフの話をしていました。車内では、奥田さんの話の内容とは正反対のヒップホップがかかっていました。
富山県は、米どころです。田畑ばかりの田舎道を走り続け、山に沿って走っていくと、いつしかその道は険しくなっていきました。
かつて使われていた立山黒部アルペンルートを通りました。毎年雪の壁ができると地域のニュースで報道されていた美しい場所とは到底思えませんでした。道路のコンクリートはひび割れ、ガードレールには苔が生えていました。おそらく観光客はケーブルカーを使ってこの道を行き来していたのでしょう。上空には一本の線が張られていました。
そこからは、美女平から天狗平までは車で行けました。
しかし、そこを過ぎると、ある場所に立ち入り禁止のロープが張られ、そこから先はコンクリートで舗装された道が途切れていました。天狗平から、私たちは歩いて室堂平を目指しました。高山であるためなのでしょう、夏だというのに薄く雪が積もっていました。

私は立ち入り禁止区域に入る前に警官に出会ってしまうことも予想していました。しかし、予想に反して、誰もいませんでした。本当に、誰一人として、人間がいませんでした。
天狗平から室堂へと歩いている最中、あいちゃんが独り言を言いました。
「紗希さんは、なんで失踪したんだろうね。」
誰もその質問に答えないでいると、続けてあいちゃんは言いました。
「それで、なんで行き先が室堂だったの……?のぞみんは、わかるんだよね?」
「うん、わかるよ。でも、理由は知らない。想像もつかない。」
私は嘘をつきました。私には、理由は分かります、いえ、わかる気がします。
「ふうん、そっか。」
あいちゃんが付いた相槌「ふうん」は、いったいどういう意味だったのでしょうか。なるほど、という意味が込められているのか、それともただ何となく口から出た言葉がそれだったのか。

紗希姉だけは、母を愛していました。9歳までは姉妹の末の子として過ごしていたわけですから、母が彼氏を連れてきたとき、たいていは一番かまってもらえます。男にかまってもらうことができれば、母も同様にかまってくれます。そうやって、紗希姉本人が言っていました。
友希姉は母のせいもあって元来しっかり者で、だからあまり母との思い出がないと以前言っていました。母が私を妊娠してつわりで苦しんでいるときも、看病していたのは友希姉で、紗希姉は、母に甘えていたとも聞いています。

紗希姉はいつも言っていました。室堂で、姉妹3人で遊んでいたあの頃に戻りたい、と。大学を卒業し、紗希姉は就職が決まっていました。周りの友達が卒業旅行などで遊んでいる間、紗希姉は一人、家で過ごしていました。あの時、どんな気持ちでいたのか、私には分かりかねます。きっと苦しい思いをしていたのでしょう。
一度だけ、紗希姉の左腕を見たことがありました。横向きの線、それは傷です。リストカットの痕跡がありました。リストカットをしてしまった理由は、今の私には分かりませんが、自分はなんてダメな奴なんだ。そんな風に思っていたとしても、そして、希死念慮を抱えていたとしても、まったく不思議はありません。
いや、きっと希死念慮を抱えていたことでしょう。リストカットをする人の心理を完全に理解することは、私にはできません。でも、きっと、死にたかったのでしょう。
死に場所として思い浮かんだのが、室堂だったのではないでしょうか。
紗希姉は、死にたがっていたのです。
美しかったあの室堂平で、死にたがっていたのです。
紗希姉は絵を描くことが得意でした。失踪したとき、スケッチブックと水彩絵の具が消えていたので、きっとそれらを持って行ったのでしょう。

室堂平についたとき、私はすべてを話しました。何があったのか、奥田さんに捜査のためとして教えていた情報もすべてあいちゃんに話しました。
「私が中1の時にね、紗希姉が失踪したの。持って行ったものは、スケッチブックと水彩絵の具だけ。姉ちゃんは絵を描くことが大好きだった。」
私が語り始めたのは、唐突でした。今までずっと黙って歩いてきたため、他の3人は少し驚いた様子で私の話を聞いてくれました。
「私はあわてて、どうにかして紗希姉に帰ってきてほしくて、奥田さんに依頼した。その時、私はまだ12歳だった。ガキかって言ってバカにされたけど、そんなことは関係なかった。どんなことを言われようと、されようと、私には紗希姉に戻ってきてほしいという思いだけしかなかった。
それでも、なかなかお姉ちゃんは見つからなかった。
そうしている間にね、中2の終わりがけに、出勤していったはずの友希姉が突然家に帰ってきた。私はまだ学校に行く前で、ちょうど顔を洗っていた時だった。
『電車の中でものすごい息切れがした。動悸も。もしかして、私……。』って友希姉は言って、ものすごく怖がっているように見えた。心臓病とか、そういうのになったとばかり思ったの。2人でいろんな病院を回って、なかなか診断がつかなくて、やっと西の森にある精神科の病院でパニック障害だっていう診断がついたの。それで、私たちは病院の近くに住むために、引っ越しした。それで、私は転校した。
友希姉にとって、電車に乗れないのは致命傷だった。職場に行くためにはどうしても電車に乗らなきゃいけない。そのうち会社に行けない日が増えてきたの。
どうにかしなきゃ。生活費を稼ぐために、何とかしなきゃ。そして紗希姉は帰ってこない。2つの心配事が重なって、本当に苦しかった。そんな時にね。
奥田さんから連絡があった。紗希姉の居場所が分かったって。そこが、この室堂だった。私は体育大会の日、すべてあいちゃんに話した。そして、ここからは知っての通り、瀬川さんや奥田さん、それにあいちゃんが協力してくれたおかげで今私はここにいる。
生きてるかな。
ねえ、もし死体が見つかったらさ、連れて帰っていいよね?」

「それは難しいな。」
奥田さんは冷静に言いました。
「そもそも、ここに来たと思われるときからかなりの歳月が経ってる。死体はまず見つからないだろう。それに、法律的な問題もある。連れて帰るためには、いわゆるバラバラ死体というやつにしなきゃいけない。それは紗希さんが不憫だろ。」
なんともグロテスクな話をしていましたが、奥田さんの喋りは流暢でした。
あいちゃんが言いました。明るさを保つよう努力したうえで。
「行こ、探しに。早く見つけよう。」

室堂平の真ん中に、大きな岩があります。私は真っ先にそこに向かいました。子供のころ、ここで遊んでいた時、あの岩の影が紗希姉のお気に入りの場所だったからです。室堂にいるとしたらここかな、そういう思いが半分くらい、もっと奥地に入って行ってしまったのかもしれないという気持ちが半分くらいでした。
岩陰をのぞき込みました。
すると、色褪せたスケッチブックと、カラカラに乾燥した絵の具が無造作に置かれていました。
紗希姉のものだ。

私は一瞬でピンときました。
この場所こそが、紗希姉が最期を迎えた場所だ。
私はおもむろにスケッチブックを手に取りました。走り回っている子供たちの絵、山々の風景画、記憶の中の美しい室堂。
私とお姉ちゃんたちの中だけで共有されている、美しさ。そして儚さ。
私はそんなものを感じました。
私は泣き崩れました。奥地を見に行っていた他の3人が、私の声に気付いてやってきました。
「うわあああああああああああああああああ………ああ……」
あいちゃんが私の肩に手を置きました。そして、一つの言の葉を贈るわけでもなく、何をするわけでもなく、ただそこに、居てくれました。私は嬉しかった。悲しかった。苦しかった。
紗希姉が描いた絵の中の1枚は、私たち姉妹3人の姿でした。満面の笑みを浮かべてピースしています。写真のような絵画でした。
お姉ちゃんは、私を愛してくれていました。私たちを置いてあの世へ旅立って行ってしまったけれど……。
そしてあいちゃん。私のためにこんなに親切にしてくれてありがとう。
私は感謝の想いでいっぱいになりました。
私は何時間もそこで泣き続けました。
いま、これを書いている私の足はがくがくしています。足が疲れたからです。そして、目は真っ赤に腫れています。

私は決めました。私が心のままにつづってきたこの文章を、お姉ちゃんに、そしてあいちゃんにささげようと。読んでもらうかどうかは関係ありません。彼女たちのために、私はこれを書くのです。

私は泣きました。思いっきり泣きました。
こんな風に、思いの丈を空にぶつけたのは久しぶりです。私が最後に泣いた日は、もう覚えていません。
あいちゃんは、帰りの新幹線の中で、手紙を書いてくれました。直接言うのは難しいから、文章に起こして整理してから私に言葉を贈りたい、とのことでした。
私は、その手紙を読んで、また涙しました。あいちゃんの私への想いに感動し、堪えきれませんでした。

「私はもちろんのぞみんのお姉さんに会ったことはないから、その人について知っていることは無いに等しいんだよね。でも、私にもその存在に対して思うことがあるよ。
それはね、私にとって本当に大切な、かけがえのない友達であるのぞみんをつくりあげたものの1つなんだなってことで。言葉足らずでうまく伝えられていないかもしれないけれど、私がのぞみんとこうして友達になって、学校でいっぱい話したり、勉強会をしようと約束したりできるのも、その「紗希さん」という存在があるからだよね。それは、生命をたどる意味だけに留まらず、今の「櫛森希望」っていう一人の人間自体に深く影響を及ぼしてきたと私は思うんだ。
私たちは中3で、受験生で、時間がいろいろなものに縛られているよね。だから、簡単には遠出する時間を作れないし、家族のことを一番に考えることは難しくて、どうしても、私みたいな普通の人間は、自分のことだけでいっぱいいっぱいになっちゃう。でも、のぞみんはお姉さんに会いに行く決断をした。そのことを、私はすごく尊敬しているんだ。
もちろん、その途中で苦しくなったらいつでもまた頼ってね。私はいつだって、いつまでだって、のぞみんの信友(勝手にこんなこと思っててキモかったらごめん。お互いを信じあっている、友達ってことです)でいるから。
お互い、勉強頑張ろうね!!
今より何倍も何百倍も成長して、また出校日や新学期会えるの、楽しみにしてるから。」

私は返事を書きました。
「あいちゃんの友達で良かった。」
これには、たった一言だけど、深い意味があります。
良かった、というのは過去形です。私たちは、今の今までは、ただの親友でした。でも、私たちは今日から、あいちゃんが言ったように、信友になります。お互いの苦しみを共有し、2人で一緒に成長できること。それが信友だと思います。まさに、私たちはそんな2人なのではないでしょうか。

返事を書いた紙を渡すと、またあいちゃんはシャーペンを手に取り、書き始めました。今度は、書くための所要時間はとても短いものでした。

「こちらこそ。
これからも『信友』でいさせてください。」

私たちは互いの顔を見つめ合いました。そして、ふふっと笑いました。

実は、友希姉の病気の治療が、思うように進んでいないのです。7月の最後の日、いつもの通院でそう言われたとお姉ちゃんから報告されました。
このままだと、退職に追い込まれてしまうかもしれないということでした。お姉ちゃんの主治医によると、入院も視野に入れているとのことです。
そうなると、私には家族がいなくなります。中学生では、1人暮らしは認められていません。私は、どうなってしまうのでしょう?
そんな不安も、手紙に書きました。信友のあいちゃんに、想いを伝えました。

「大丈夫。何があっても、私がいるよ。」

エピローグ

9月1日(月)
私は再び転校することになりました。次に行く学校は神保中学校というところです。
友希姉が入院することになったからです。退院時期はまだ分からず、長い期間になることが予想できます。
私は施設に入ることになりました。友希姉はそのことが決まったとき、私に謝りました。「ごめんね。何もしてあげられなくて。」
「ううん。お姉ちゃんは頑張ったんだよ。」
私はそう言いました。
今週末、私は入所します。海が近くて、素敵な場所だそうですから、私は不安に思いません。
高校卒業まで、そこで面倒を見ていただくことになりそうです。また迷惑をかけないように、と考えてしまいますが、あいちゃんにこう言われたので、気持ちを切り替えました。
「施設は子供を育てるための場所だよ。だか、いっぱい迷惑かけて大丈夫。私にも迷惑かけていいよ。のぞみんは頑張ったんだよ。」
友希姉にかけた言葉の後半は、このあいちゃんの台詞のパクリです。それしか思い浮かばなかったのですから、仕方ないでしょう。
私が正式に入所するのは今週末ですが、2学期初日から西の森中学校には登校しなくてよいと言われました。でも、私は今日学校に行ってきました。
クラスメイトが、私のために送別会を開いてくれました。さほど親しくなれなかった子も参加してくれました。
私は西の森中学にやってくることができて、本当に嬉しく思います。
あいちゃんに出逢えたからです。真野先生や、暖かいクラスメイトたちに囲まれて、素敵な日々を送ることができたからです。
あいちゃんへ、最後に一言、伝えたいことがあります。
愛してくれてありがとう――

愛してくれてありがとう

愛してくれてありがとう

中学三年生の少女・希望と、希望の親友・藍子の一年間を切り取った日記風のストーリー。しかし、希望は大きな問題を抱えていた。それを知った藍子は一体どんな行動をとるのか。 二人の絆が深まっていく様子を、ぜひご覧ください。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-02-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 4月 ―出逢い―
  2. 5月 ―体育大会―
  3. 6月 ―期末テスト―
  4. 7月 ―目指した未来へ―
  5. 8月 ―探訪―
  6. エピローグ