冬空ハーモニー

チャプター1

「私を殺してほしい」

 電車がちょうど目の前を駆け抜けていくところだった。無人駅から始発が行ってしまったところだ。ホームに二人、並んでベンチに腰掛けていた。
「懐かしいよねー。私たちが会ったのも、最初に挑戦してみようとしたのもここだもんね。感慨深いよ」
 ガタンゴトンと、さっき通り過ぎた電車の車輪が、軽やかに線路を擦る音がする。反応はなかった。もう一押ししてみようと、朝焼けの空を見る。思えば、初めて二人で出会ったのも朝だった。それに、ちょうどこのタイミング―始発が行った直後だった。
「志紀ちゃん、覚えてる? 最初に会った時のこと。急に泣き出すからびっくりしたんだよ、ねぇ?」
 反応があまりにもないので、不安になって横を見る。隣で彼女が微笑んでいた。私は不意を衝かれた。
「覚えてますよ」
彼女が飄々と言った。朝日が彼女側から昇り、彼女の顔を煌々と照らしていた。アスファルトに影ができ、かすかに影が揺れた。
「よかったー、忘れられてるのかと思った」
「そんなわけないですよ。ちゃんと覚えてます。初めて会った時のことももちろんだけど、計画立てた時のことも」
「なら怖い顔で黙らないで、何か言ってよね」
 何処からか、コーヒーの香りがした。苦いしきつい香りだが、不思議と嫌ではない。駅にカフェなんてあるわけないし、駅近のカフェはまだ開店の準備をしている様子がなかった。近くの家から香ってくるのだろう。隣で体をもぞもぞさせ、くすぐったそうに彼女が言う。
「コーヒーか…。そういえば、千里さんが初めて私に奢ってくれたの、コーヒーでしたよね?」
「そうだっけ? もう覚えてないや」
 コーヒーの香りは、くすぐったいほど鼻をくすぐる。ふふっと声を出して笑った志紀はそのまま自然に上を見た。志紀の顔に影が落ちる。私は何かやることすら思いつかないで志紀の長いまつ毛に魅入って、幾度となく一人でにやけた。
「何でついてきてくれたんですか?」
 志紀がふと言った。言いたくはなかったことが口から零れ落ちたような、志紀自身が驚いた顔をしている。
「え?」
「何で、初めて会ったばかりなのに、何にも言わずについてくれくれたんですか? それが私、信じられなくて―」
「だって、それが志紀ちゃんが、あの時一番してほしかったことじゃないの? 黙ってついてくこと。嫌だった? もしかして」
 私がけろりと言うと、志紀はもどかしげに首を振った。
「そうですけど、いくら何でも、疑うものじゃないですか?」
「疑うなんて考えなかったよ」
 志紀は顔をしかめて、嘘つけ、と言いたげに口を尖らせた。本当だよ、とそっと呟く。それでもまだ志紀は信じるべきか戸惑っているようで、静かに言った。
「でも、あの時会ったのが千里さんで、良かったと思いますよ」

 電車がちょうど目の前を駆け抜けていくところだった。貴重な電車だったのに。私は苛々と舌打ちをした。隣にいたサラリーマンが怯えた目でこちらを見て、足早に私の横から離れて行く。急いで階段を降り、慌てた様子で逃げていく姿を見て、何故だか笑いが込み上げてきた。
 それでもマイナスな気持ちは抑えきれず、時計を見て、うんざりしながらベンチに腰掛ける。冬に電車を一本逃すのはきつい。寒いのももちろんだが、誰もいないという静けさが一番身に染みる。一本逃すと、次は四十分待たなければいけない。この駅にはお洒落なカフェなんてものはもちろん、人っ子一人いないのだ。
 鞄からカイロを取り出し、急いで封を開ける。震える指で袋を掴むのにすらもたもたして、ため息が出る。
 しょうがないのでスマホの電源を付けようと思い、コートのポケットを探る。ポケットに手を突っ込んだ時、割と暖かく感じた。それでも、寒さでかじかんだ手でスマホを操作するのは簡単なことではなかった。それすら面倒臭くなって、またもや舌打ちが出る。乱暴にスマホをポケットに戻す。
 顔を上げたところで、目が一点に釘付けになった。
 女の子がいた。ショートボブの髪が風で揺れて、制服をきっちりと着ていた。灰色のブレザーに、萌黄色のネクタイをしている。都内の有名なお嬢様学校の制服だ。コートの下から覗く足が想像以上に痛々しくて見ていられない。
 どうしたの、と声を掛けようとして戸惑う。女の子はすたすたと先頭車両の方へ歩いて行くのだ。何の迷いもないように、そうすることが定めなのだと言わんばかりの歩き方だった。
 私は思わず立ち上がって女の子の後を追った。ずっと座っていたからか、足がもつれて転びそうになる。そうでなくても、私は朝に十分弱いのだ。
 先頭に来たところで、私が息を切らしながら自動販売機の影に隠れると、女の子が立ち止まる気配があった。私はそっと自販機の影から顔を出したが、途端に悲鳴を上げて踵を返しそうになった。
「どうしたんですか?」
 女の子が私の顔を覗き込んでいた。やっとのことで悲鳴を押さえ、手で口を覆いながら呟く。
「特に…何も…」
「そう言う人が一番怪しいんだって、知ってます?」
 女の子がさもおかしそうに言った。笑われた気分で、大人ながらに私はムッとして言い返す。
「知ってますよ」
「珍しいですね。人がいるなんて。いつもはこの駅を一日に使う人なんて、片手で数えられるくらいって聞きました」
 女の子は飄々と言った。ショートボブの髪をかき上げる仕草が若者を代表するようで、三十路の私には、とてもじゃないけれど見ていられない。目を逸らしながら答える。
「多分…そうですけど」
「お昼の電車を利用する人なんてほとんどいないって聞きました」
「それはそうだよ」
 だからどうした、と言いたいのをこらえて答える。女の子はベンチのほうに歩きながら、私にそこに座るように促した。渋々ベンチに腰掛ける。女の子がふわりと腰を下ろした。我ながら、よっこいしょと言いながら座った自分が恥ずかしい。
「いつもこの駅を使っていらっしゃるんですか?」
「今日だけ」私が答えた。「夜勤明けで」
「そうでしたか。お疲れ様です」
 女の子は律義にお辞儀をした。私も慌てて頭を下げる。この子といると、自分の大人げない部分がくっきり浮き彫りになりそうで怖い。何も言おうとしない女の子に、私が痺れを切らして尋ねた。
「学校はどうしたの?」
 女の子は不思議な笑みを浮かべていた。右手を口元に持って行って人差し指を立てる。
「休んできました。秘密ですよ?」
 秘密も何も、こんなに堂々と私に話しかけてきた時点で普通ではないし、私はこの子に会ったことを他の誰かに黙っていることが出来そうになかった。女の子は鈴が鳴るように笑った。
「そんな顔しないでください。大丈夫です。これでも優等生ですし。ちょっとぐらい休んだって、とやかく言われる筋合いはありません」
「そうかもだけど」
私は言葉を濁した。女の子が首を傾げる。
「昼に学生が一人で出歩くのは危ないよ?」
 言葉を聞いて、女の子は訳が分からないというように肩をすくめて見せた。私が説明しようとするのを片手で遮って、神妙な顔で口を開いた。
「私、これから死ぬんです」
 女の子が言った。私は一拍おいてから、素っ頓狂な声を上げた。
「は?」
 よほど私の慌てっぷりが面白かったのか、そんなに豪快に笑ったらお嬢様のイメージが台無しだよ、と言いたいくらい、女の子は大笑いした。私はからかわれた気分になったのと、女の子が次に何を言い出すのか怖くなるのと、それから、彼女の言葉が理解できず当惑したのが混ざった顔で言った。
「ちょ、笑ってる場合じゃないでしょ? どういうこと?」
「どういうことって、言葉そのまんまの意味ですよ。私、死のうと思ってここに来たんです」
 女の子は、気の置けない親しい関係の友達に、恋バナでもするかのような気軽さで言ってのけた。私は頭がこんがらがって、当惑しながら尋ねる。
「だから抜け出してきたの? 学校を?」
「そうです」女の子が答えた。「それ以外にないですから」
「ちょっと待って―お名前は?」
 女の子は私を値踏みするように眺め、それから乾いた笑みを浮かべて答えた。
「志紀(しき)、です。志すに、日本書紀の紀」
「日本書紀…随分ユニークな説明だね」
 私は気が抜けてベンチにもたれ掛かった。志岐はなおもクスクス笑い続けている。不思議な気持ちになりながらも、私は大人としての威厳を保とうと、厳かな声で言った。
「学校は何処? 多分…あそこだよね?」
 私がお嬢様学校の名前を出すと、志紀は素直に頷いた。
「そう、そこです」
「良く抜け出してきたね。あそこ、警備すごいでしょ? もちろん噂もそうだけど、私、学校の前通ったことあるけど、すんごいいかつい顔したおじさんが立ってたもんね」
「あー、確かに立ってますね。でも簡単でしたよ、抜け出すの。普通に保健室行くふりして、窓から出てきました」
 そう言って自慢げに胸を逸らす。意外に子供らしい顔が見れて、私が取り敢えずほっとしたのもつかの間、志紀が真顔になり、鋭い声で尋ねてきた。
「名前と学校名聞いて、学校に電話する気じゃありませんよね?」
「何で分かるの」私はむっとした。「勘がいいのは悪いことだよ」
「褒めていただいて光栄です」
 志紀はそう言って、口角を引いて満面の笑みになった。幼い笑顔につい頬が緩みそうになるのを、顔をパチンと叩いて直す。
「それで…死にに来たって本当?」
「そうです」
「どうして?」私が尋ねた。「何か嫌なことでもあるの?」
 志紀が黙ったのを見て、言い過ぎた、と後悔し始めた時、志紀は突然立ち上がった。
「言えません。だけど、手伝ってほしいんです」
「何を? 手伝うって、私、何にも―」
「死ぬのをですよ。私を殺してほしい」
 私は絶句した。まだ高校生にもなっていないであろう、林檎色の唇からそんな言葉出てくるなんて、信じられない気持ちだった。ただ、志紀は確かにそこにいて、自分が言ったことが絶対的に正しいのだという自信を持った顔をしていた。多分、何を言っても聞かない、図々しい子だ。
「ちょっと待ってよ。志紀ちゃん、今何歳?」
「十四です」
 ということは、まだ中学二年生だ。それなのに生き急いでいるなんて、私だって夜勤があったり、介護職で辛いこともあるが、死にたいと思うほど追い詰められたことは無い。それに、一番不思議なのは、彼女が普通に笑っていることだ。もしかしたら作り笑いで無理に笑っているのかもしれないが、私からすれは普通に心から笑っているようにしか見えない。
 私は心を決めて尋ねた。
「…手伝うって、具体的にはどういうこと?」
 このまま放っておいて勝手に死なれたりしたら、それこそ私の荷が重い。それに、少し興味があった。彼女がどうしてそこまで死に固執するのか、それから、何処まで本気なのか。
 志紀はにっこり笑った。
「はい。じゃあ、今日のところは計画を断念します。今から駅前のカフェにでも行って、一杯飲みながらお話ししましょう」

 カフェは閑散としていた。三十のおばさんと可愛い女子中学生との組み合わせがどう見られるか心配だったが、カフェに客はおらず、マスターも目がド近眼のようで、私たちの組み合わせに全く興味を寄せていなかった。
「ホットコーヒーを一つ…志岐ちゃんは?」
「私もです。アイスコーヒーで」志岐が小声で答えた。
「じゃあ、コーヒー二つで、アイスとホット。お願いします」
 マスターは恭しくお辞儀をして去って行った。ふうとため息を履きながら志紀を見る。窓の外を無邪気に眺める姿は、どう見ても、死にとりつかれている人間には見えない。
 早々に運ばれてきたコーヒーを一口飲み、私は思い切って口を開いた。
「計画って?」
 志紀は、ついてきたストローで氷をかき混ぜながら言った。
「ええ、全てお話します…その前に、お名前は?」
「私?」私が答えた。「私は千里(ちさと)。千里の道も―の漢字」
「なるほど、千里さん」
 志紀は一呼吸おいて、ストローを咥えた。冬なのに氷の殻からする音を聞くとは。若者の強さに感心した。
「簡単な計画です。千里さんが電車の運転手になる。私が線路に飛び降りる。それで、千里さんの電車が私を轢く」
「はぁ?」私が言った。「本気、それ?」
 私はむせ返りながら言うと、志紀は初めてむっとした顔を見せた。語気を強めて言い返してくる。
「本気です」
 世間知らずのお嬢様でも、いくらなんでも、見ず知らずの人を電車の運転手になんて仕立て上げたりしないだろう。私は目の前の子供を、何処までやる気があるのか品定めしようと眺めたが、志紀は飄々としてまるで揺らがない。
「私、考えたんです。死ぬにはどうしても人を巻き込まなきゃいけない。だけど、私事だけで人を巻き込んじゃいけないって。だから、誰か協力者を付けなくてはならない。私が線路に飛び降りるにしても、車に轢かれるにしても、屋上から飛び降りるにしても、必ず誰かが私が死ぬのを見るんです。それがトラウマになってはいけないなって」
 私は訳が分からなくなって額に片手を当てた。
「私は?」
「私?」志紀が言った。「千里さんのことですか?」
「私はどうなの? 私には、自分が死ぬところ見られたっていいってこと? 私のトラウマになることはどうでもいいってこと?」
 思わず声を荒らげる。志紀は気にする素振りも見せず、アイスコーヒーを一口飲んでから冷静に続けた。
「私は、犠牲を作らないための犠牲はあってもいいと思います」
 意味が分からない。自分と志紀の熱量の違いが恥ずかしく、心を落ち着かせようとコーヒーのカップに手を伸ばすが、早々にサーブされたコーヒーはすっかり冷めきってしまっている。かといって、淹れ直しを頼むほど私はクレーマー気質ではない。私は不穏な空気を感じて尋ねた。
「それ、志紀ちゃんが生きるのをやめたがってるのと関係ある?」
「あるかもしれないし、ないかもしれないです」
「その理由については全く教えてくれないわけ?」
 私がため息をつきながら言うと、志紀はこくりと頷いた。何処までも頑固だ。その後、三時間かけて、私がどれほど志紀から事情を聞き出そうとしても、教えられないの一点張りだった。
 私は切り込む方向を変えた。
「志紀ちゃん、十四歳だよね? 生き急がないでよ」
「生き急いでいません。私は死ぬべき」
 志紀がさらりと言ってのけた。風が私の横を吹き抜けるのと同じくらいに当たり前のことだとでも言わんばかりだ。こういう時、何て声を掛けていいのか、私のマニュアルには書いてなかった。カウンセラーでもない限り、この子の気を変えることは無理だ。それでも、私はむきになった。
「十四歳なんて、一番青春してる時じゃん? だから―」
「だから死ぬななんてのは聞き飽きました」
「違うよ。だけど、志紀ちゃんがここで死んだところで、何も変わらないってこと」
 志岐は不意を衝かれたように動きを止めた。ストローに添えられていた手がふと、困ったように宙をさまよう。
「どういうことですか?」志紀が尋ねた。
「だから、首相が突然死んだとか、女優が自分から死んだとか、歌手が誰かに手に掛かって死んだとか、そういうことはニュースとかで大々的に取り上げられて社会的におっきい影響があるかもしれないけど、私たちみたいな一般人が死んだところで、事故か事件で済まされるだけだよ? それに、大袈裟にされてもやじゃん。やっぱり平穏に死んでいくのが一番だよ」
 私が熱弁をふるうと、志紀が何かを考え込むように顎に手を当てた。とにかく私の言葉を聞いてくれる気があることに安心して、私は安堵のため息をつきながら、マスターにフルーツタルトを頼む。
「お腹空いてるんですか?」
「そうだよ」私は答えた。「志紀ちゃんも食べる?」
「ええ。私も―アップルパイ、お願いします」
 私がマスターに注文を終えると、志紀が口を開いた。
「そうやっていう人は初めてです。生き急ぐな、死ぬな、生きてればどうにかなる、っていう人ばっかでしたから。私が死んだ後のことを考える人がいるなんて知らなかった」
「そう?」
 心外だった。志紀はあっさり頷いた。すぐにデザートが運ばれてきて、私はそれを頬張って唇を噛む。
「やっぱ、疲れた時は甘いもの食べるに限るね」
「ですね」志紀がうわの空で答えた。
「ほら、志紀ちゃんも早く食べなよ。私が食べちゃうよ?」
「あ、ええ―食べます」
 志紀はそう言ってもアップルパイに手を付けようとせず、私が困っていると、突然パチンと手を叩いた。
「やっぱり、手伝ってほしいです」
「はぁ?」私は変な声を上げた。
「初めてだから。そういう人に手伝ってほしかったんです」
色々なことを尋ねても、志紀は死にたいと思っていること以外は何も教えてくれなかった。私はついに音を上げた。
「じゃあ、分かった、分かった。手伝うよ」
「え、ほんとですか?」
ちょうど今、アップルパイに手を伸ばそうとしていた志紀が驚いたように言った。
「信じてなかったの?」
 からかうように言ったら、志紀は手に持っていたフォークを取り落として、可笑しいほど真っ赤になって首を振った。まるで、意中の人を紹介された女子学生だ。
「信じてました、信じてましたって。だけど、そんなにあっさりオーケーされるとは思ってなくて…」
「あ、ひどい。やっぱり信じてなかったんでしょ?」
 私はクスクス笑いながらコーヒーをすすった。志紀はもごもご言い訳しながらストローで氷をつついた。
「信じてました―じゃあ、賛同してくれたってことでいいですか? 私に協力してくれるってことで!」
「うん」私が言った。「手伝うよ」
 こうして、私と志紀の不思議な計画が始まった。

冬空ハーモニー

冬空ハーモニー

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • サスペンス
  • コメディ
  • 青年向け
更新日
登録日
2022-02-06

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著作権法内での利用のみを許可します。

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