深大寺のそば


 深大寺のそばに行きましょう。伯母、内山 圭子の誘いだった。中井 政雄に一年に少なくとも二度、母の命日、四月十二日の前、それから師走に電話がかかってくる。山門の前で待ち合わせ、本堂でお参りをし、元三大師堂、釈迦堂、鐘楼と巡り、伯母のその日の気分でお気に入りの蕎麦屋に入る。そしてこの半年のこと、とりわけ結婚する相手を見つけたかどうかを報告させられる。大学卒業、就職してから数年間続いてきた。
 四月十五日は曇天、いつものように中井は中野のアパートを出て、伯母と山門前で待ち合わせ、深大寺にお参りし、今日は山門から少しだけ歩いたところにある蕎麦屋に入った。伯母は盛り蕎麦に甘味というのが定番、中井は夏目漱石の小説を読んで以来、天ぷら蕎麦にしている。伯母は蕎麦を食べている間はたわいない話、季節の様子などを話す。
 この後、蕎麦が終わり、甘味となって、伯母は、近頃はどうしているの、と言う。それまでは見ているような見ていないような視線なのに、このときばかりは見つめるようにしている。中井は、能力以上の仕事に追われ、物書きはものにならず、いい人との出会いはない、と答える。ほぼ決まったやり取りになるはずだった。
 だが、今日は違った。店の奥の座敷席に菊川 やえを見たからだった。よく似た年配の女性、母親か、それに赤ちゃんと一緒だった。やえは一年余前と変わらぬようだった。

 中井は山口の生まれ、高校まで過ごした。大学受験で不合格、浪人し、東京の予備校に通い、そのときから伯母の家に厄介になり、東京の大学の文学部に入った後もそのまま過ごした。文学部に入ったのは、物語が好き、作家になりたかったからである。しかし応募した作品は一次審査すら通らなかった。就職に際して、伯父が、引き続き書けばいい、食べていくため勤めをしなくてはいけないが、文学とは離れた会社の方いいのではないか、と言って、中堅企業をいくつか勧めてくれ、その一つに入った。仕事を面白いと思ったことはなく、中野のアパートで夜そして休日、書いている。しかしいまだものにならない。
 三年目、係長が代わり、菊川が上司となった。三十前、背が高く、長い黒髪、面長、切れ長の目に黒縁の眼鏡、鼻筋がとおり、薄い唇、指が長かった。会社全体からすれば地味な部署だったが、三十前で係長とは同期の第一線だった。仕事はよく出来た。上司に誠実に仕え、中井を含めた部下への配慮も丁寧だった。勤め人として至らぬ中井だったが、菊川は失敗にも決して怒らず、適切に指示をした。そんな菊川に中井は女性として意識することなく優秀な上司として接していた。
 係の懇親会で、同僚が中井は小説を書いていることを話した。菊川は興味を持って、読ませてほしいと頼んだ。中井は気恥ずかしかったが、翌日、それまでで一番気に入っている短編を渡した。翌朝、中井が出勤すると、封筒が置かれており、中にはカードが入っていた。
  とても心温まりました 書き続けてください 読ませてください  菊川 やえ
と書かれていた。
 それ以来、中井は気に入ったものが書き上がると菊川の机の上に置いた。短編であれば翌朝、長編でも一週間後、感想のカードが置かれていた。
 一昨年の十月のある日、菊川が休んだ。少々の風邪では休まぬ菊川だったが、翌日には普通の様子で出勤したので、周囲は特段気にしなかった。しかし菊川の目の腫れに中井は気づいた。そして菊川も中井に気づかれたことに気づいたようだった。
 金曜日、中井が一人残業していると、直帰のはずの菊川が用務先から戻ってきた。そして、もう少しで終わるのでしょう、お腹が空いたので食事に行きませんか、と言った。
 菊川はお気に入りの韓国料理店に連れて行ってくれた。韓流ドラマのファンであり、韓国語を少しずつ勉強していると言う。サムギョプサル、サムゲタン、チジミ、ビピンパを食しながら、ドラマや小説の話をした。仕事や個人的なことは話さなかった。しかし中井は菊川が中井に気づかれたことを気にしていると感じた。それでもあえて口にしなかった。
 週明け、月曜の朝、中井が出勤するとカードが置いてあった。
  金曜日はありがとう 休んだ日はお付き合いが終わったので一日泣いていました 心遣いに感謝して もしよければまた食事に行きませんか  やえ
 それが始まりだった。菊川と中井は周囲に気づかれぬように週末、一緒に過ごすようになった。彼女は代々木に住んでいたが、深大寺のそばで育ったので、深大寺や神代植物公園が散策の場所となることがしばしばだった。菊川さんという呼び掛けが二人のときはやえになった。
 十二月二十九日、冬休みの初日、やえと中井はいつものように深大寺で蕎麦を食した。やえはいつもと違い、何か心に秘めていた。中井はやえの言葉を待った。蕎麦を終えて、熱いお茶を口にしたとき、やえが言った。
 お腹に子供がいるの。妊娠三ヶ月。別れた人の子だけれど連絡していない。産婦人科の先生には、妊娠中絶をすると二度と子供を持てないかもしれない、と言われた。産むつもり。あなたに迷惑はかけられない。これまでありがとう。許してもらえるなら大晦日を一緒に過ごして最後に。
中井が何を言おうとやえの決心は変わらなかった。
 大晦日、やえと中井は大勢の参拝客の中にいた。中井が甘酒を頼もうとしてやえを見ると、彼女は、自分はあなたのを一口貰えればいい、と言った。中井が甘酒の紙コップを受け取って、やえに持たせた。周囲から庇うようにやえの肩に手を回した。やえは守られていることに安らぎ、一口飲んだ。中井の目を見た。中井が頷くと、やえも頷いて、また一口飲んだ。結局、やえはほとんど飲んでしまい、自分のしたことに気づいて、ごめんなさい、と言った。中井は残りの一口を飲んだ。それから二人は参拝し、中井は彼女を実家に送った。
 それが中井がやえを見た最後だった。彼女は年末付で退職していた。しかし中井の中でやえは消えなかった。

 伯母はいつものように、近頃どうしているの、と聞かなかった。一昨年師走、あなたの笑顔は素敵だった、去年の春、師走と沈んでいた、今日はいずれでもない、どうしたの、と直截に言った。
 中井はいつか伯父に言われたことを思い出した。圭子は東京の大学教育学部を出て、山口に戻るつもりでいた。教員採用試験を山口と東京で受け、山口は落ち、東京で中学校の英語の先生になった。二人姉妹の妹、中井の母は地元の大学でいい人に恵まれ、結婚し、年老いた親の面倒を見たが、中井が大学に入ってすぐ病で他界した。その際、母は中井のことを圭子に託した。子供のなかった圭子にとって、中井は子供のようなもの、山口を守り、亡くなった妹への責務だった。圭子の思いは強い。申し訳ないが、そういう圭子に付き合ってやってほしい。
 中井はやえとの経緯を伯母に話した。そして座敷席で蕎麦を食べ終え、甘味を楽しそうに食べている菊川母娘を見た。伯母も中井の視線を追って、奥の座敷席を見た。驚いたようだった。そして突然立ち上がり、座敷席に向かった。中井は何が起きているのか解らなかった。
「お久しぶりです。菊川さん。」
 伯母が母娘に声をかけた。菊川母娘が伯母を見て、言った。
「まあ、内山先生。お久しぶりです。」
伯母と菊川母娘と話し始めた。中井はいまだ不思議な動画を見ているようだった。
 やがて伯母が振り向き、こっちにいらっしゃいと招いた。やえが驚く顔が見えた。中井が立ち上がると、伯母は菊川の母親に話しかけ、二人は店を出て行った。
 中井は赤ちゃんを抱くやえのそばに立った。
「お久しぶりです。」
やえも返した。
「お久しぶりです。お座りになりませんか。あなたが内山先生の甥だなんて。」
中井は座った。母となったやえの笑顔は温かく力強かった。
 それが二人の再会、再度の始まりとなった。

深大寺のそば

深大寺のそば

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-02-04

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