ダイナマイト

 ある夏の昼下がり、僕がいつものように古ビルの一室を改装した事務所で昼休憩をしていると一人の老人が勝手に入ってきた。ポロシャツを着た清潔な身なりの老人だった。いつも入り口の鍵をかけているのにその日はかけ忘れていたようで、老人はどういうわけかそれを知っていた。老人は僕の元まで歩いてきて、そして軽く頭を下げてソファに座り、言った。「私ね、死のうと思うんですよ。」それから、長い沈黙が続いた。近鉄電車の汽笛が聞こえた。瀕死の換気扇がカタカタと回っている。状況を整理しようにも、あまりに非現実的なので何も考えられなかった。概して老人は若者に対し横柄な態度を取るものだが、この老人は勝手に入ってきたというのに不思議と横柄な感じはしなかった。そしてそれはさらに僕を混乱させた。
 僕は部屋の匂いを嗅いだ。現実感が消失した時、僕はいつもそうして現実感を取り戻そうとした。深呼吸するみたいに、ゆっくりと鼻腔に空気を通過させ匂いを分析した。
 カビたソファ、隣接するトイレからの下水の匂い、瀕死の換気扇、その他諸々の独特な匂いを芳香剤でかき消そうとして敗北した匂いだった。ひどい匂いだが、無臭よりはありがたかった。それでようやく現実感が戻ってきた。
 僕が言葉を選んでいると老人が先に口を開いた。「こうも長く生きていると辛いことは何度もありました。その度に死のうと思いました。そういう経験ってないですか?だけど、そう言いつつも、今まで長々と生きてきました。死ぬのが怖かったわけじゃないんですよ、多分。でもね、今回ほんとに死ぬことにしたのです。いや、死ななければならないないんです。もしかして、今回死ぬために今まで生きていたんじゃないかと思うほど。今回の死で、私の人生がハッピーエンドすると思うんです。」
 また長い沈黙が続いた。瀕死の換気扇がカタカタと悲鳴をあげて回り続けている。老人の言葉はほとんど何も理解できなかった。ただ、老人の声は僕の心の、久しく使われていなかった部分を刺激した。まるでコンサートホールで大太鼓が空気を振動させて聴衆の心さえも揺らすように。僕は老人の声を通じて、老人の真意を理解した。「手助けをしていただきたい」と老人は言った。僕は老人の真意を理解し、老人は「あなたは物分かりがいい」と言った。僕は椅子から立ち上がり、ズボンのしわをはたいた。老人は微笑んだ。葉脈のようなシワの一本一本の中を今まさに液体が通っているようなリアルな笑みだった。

ダイナマイト

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  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-02-03

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