蜜柑

男の顔を、しっかり思い出せたことは無い。

冬になると、やたらと蜜柑ばかり食べてしまうのだった。実家から送られてきた来た箱のなかには、まだつやつやしたそれが五、六個 転がっている。はやく食べないと腐るから、と誰が居るわけでもないのに言い訳しながら 一気に三つ程剥いた。爪が黄色くなる。黄色は嫌いだった。この部屋には、ベッドと、机が二つ。それに椅子がひとつ。ぜんぶ白色に揃えられている。親が買ってくれたベッド。親が買ってくれた机、親が買ってくれた椅子。取り留めがない。蜜柑は光りに当たって、はやく食べろとうずうずしているような そんな感じだった。親が買ってくれたベッド。引き出しのなかには、箱のコンドーム。親が見たら、たぶん黙って捨てるか、見なかったことにするだろうな。爪が黄色くなっている。色を塗りすぎたのか、もう折れかかっている。蜜柑は、半分に割って、そのままを口に入れた。口のなかがいっぱいになったが、まあ 誰が居るわけでも無し。泣いてもひとりきりの部屋。蜜柑をくちいっぱいに入れても、ひとりきりの部屋。くちいっぱいの蜜柑を噛むと、ぐじゅ と汁が溢れる。だらしない。くちが、小さいから。唇の端からどんどんと溢れて出てくる。関係無いけど、男が。なんたって「仕方ないなあ」みたいな そんな顔をするのを見るのが、好きだった。ほんとうはなんだってひとりで出来るのに、なんだってひとりで出来ないような そんな頼りない顔をすると、少しばかり眉が動くのが、見ていて気持ち良い。なんにも知らないくせに、気持ち良くなってやがる。と誰か知らないわたしのなかの人間が笑うのだった。蜜柑の汁が、噛むたびに溢れてくる。ぐじゅ。顎に伝う。汚れるだろうか。汚れているだろうか。親が買ってくれたベッドだった。親が買ってくれた全てだった。薄汚れた、シーツ。男とわたしが寝転んだそれ。ほんとうは、いやな気持ちでも、良い気持ちでも無い。別になんだって良い。どうだって、良くて。それで構わなかった。暫く、誰とも連絡を取っていない。行っても仕方が無い飲み会は断っているし、関わっても得にならなさそうなひとは切ることに決めた。みんなそうしているらしいから。裏切られるのが怖いから、ほんとうのことは誰にも話さないように決めた。なんでも話してしまうのは、馬鹿のすることらしい。馬鹿だと思われるのは、嫌だったし。せめて、自分を保つためにそれくらいしないと駄目だった。男の顔を、しっかり思い出せたことは無い。いつだって。さよなら、と撫でてもらってやっとドアを閉めた直ぐあとにも、やっぱり思い出せない顔だった。思えば、あんなに仲が良かったともだちの顔もそうだった、ような。いつか離れるひとのこと、本能的に覚えないようにしているのだろうか。いつの間にかすっかり小さくなった蜜柑、というか蜜柑の皮を いつまでも舌で触っている。なにか、思い出しそうだが。別に興味も無いのだった、自分が何を思うかすらも。興味が無いのだった。唇のほうが、顎のほうが。ベタベタとする。ほんとうに好きだったもの。なんなのか、もう思い出せない。思い出しても、仕方ないけど。まいにち何もしないのに疲れてゆく。四肢がシーツに吸い込まれるようで、一日中天井ばかりを眺めたりしている。このままじゃ、負けてしまう。と何に負けるんだか知らないが焦って泣いてみたりしている。汁でベタベタに汚れた顔を薄汚れたシーツでめちゃくちゃに拭って、思いきり息を吸った。もう男の匂いも、しなかった。なにか小さく呟いて、机の上のものをすべて床に落とす。すこしはすっきりしただろう。明日はなにをすればいいだろう。分からないまま、ただオレンジに汚れたそれだけが残った。

蜜柑

蜜柑

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-23

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