そんな日には ミルフィーユ

そんな日には ミルフィーユ

喋らずに食べきると願いが叶うというミルフィーユ。
小さな村にできたカフェで、ひとつまたひとつと、小さい笑顔が溢れていく。

寒い日には ミルフィーユ

 かじかんだ手を紅茶のカップに添える。途端に、火傷したような熱さと痛みが伝わってきた。慌てて手を放し、口元に持って行って息を吹きかける。
 窓の外を見ると、綿を細切れにしたような雪が舞っていた。どうりで寒かったのか、と納得の気持ちが半分と、ここを出る前には早く止んでほしい、と懇願の気持ちが半分。それでも、雪はなんてことないように、しれっとした顔をして、道行く人の肩に薄っすらと積もっている。
 ため息をつきながらメールの履歴を確認し、半信半疑で店内を見渡す。客は自分のほかに、帽子を目深にかぶった高齢の男性しかおらず、閑散としていた。奥のカウンターでマスターらしき人がコーヒーミルを手入れしているのが見えるが、それ以外は、目や耳を刺激するようなものは何もない。
 やがて紅茶のカップが空になったのを見計らってか、マスターがカウンターから音もなく出てきて、目の前に立った。右手には見事な彫刻が施されたポットを持っている。幽霊みたいだ、という感想を抱くより前に、彼が枯草のような声で言う。
「お代わり、いかがですか?」
「お願いします」
 指先が冷えてきたのですぐに答えると、マスターは軽く頷き、カップを手に取ってポットから紅茶を注ぎ、しずしずと受け皿に置いた。一礼して、またカウンターに戻ろうとするその背中に向かって、慌てて言う。
「あと、ミルフィーユ、お願いします」
 マスターはこちらを振り返り、深々とお辞儀をした。もう一度踵を返してカウンターの奥へ戻って行く時、彼が付けていた緑色のエプロンが軽快に翻るのが見えた。

 初めてこの店の噂を聞いたのは三か月前だった。
 小さな集落一杯の噂を知り尽くしている、村一番の情報通である朱莉が真っ先に私に知らせてくれた情報だった。スーパーも、コンビニも、カラオケなんかもあるわけがなく、静まり返った村の中で唯一の自動販売機の前で朱莉が缶コーヒーのボタンを押しながら言った。
「そういえば、来月、この村にスタバ出来るって知っとる?」
「知らん。私、朱莉ほど噂好きでないからね」
 朱莉が投げてよこした缶コーヒーを受け取りながら、肩をすくめる。朱莉は軽く睨みをきかせて、もう一本買ったコーヒーを本気で投げつけてきた。
「噂でないんやって」
 朱莉はそう言いながら、私が片手でキャッチしたコーヒーを、もぎ取るように奪った。コートを着ずに、制服にマフラーだけの朱莉は見るからに寒そうだった。コーヒーを朱莉の頬に当てて、私は首を傾げた。
「噂でないが? 本当?」
「本当やちゃ。だって、さっきお父さんと偉そうなビジネスマンが話しとるのを見たさかい。何か、コーヒー、とか、飲み物、とか、あとはミルフィーユって言うとったけ」
 朱莉は私の分の缶コーヒーも奪い、二つのコーヒーを手に、身震いしている。コート着てくればいいのに、と私が茶化すと、むっとして頬を膨らませた。
朱莉が情報通なのは、母がお喋り好きで、父が村長をやっているという、遺伝のせいもあるかもしれない。私は震える手で缶の封を切った。一週間に一回しか中身が入れ替わらない自販機で売っていたコーヒーは、口に入れても味がしなかった。
「ミルフィーユ?」
「お母さんからも聞いたが。それにな、村の外れの駒ばあちゃんも教えてくれたんやで」
「朱莉のお母さんと駒ばあちゃん? 信用できんちゃ」
 カフェインをそのまま体に流し込むようにしながら私が言うと、朱莉はあからさまに気分を害したようで、じゃあ誰から聞いたら信用できる、と呟いた。
「朱莉のお父さんから直接。朱莉が見たっていうことじゃ信用できんちゃ?」
 私が咄嗟に言うと、朱莉は面倒臭くなったようにガードレールに腰掛けた。缶コーヒー片手に頭を振る。
「もういい。噂でした。これ以上この話はなし、はい、終わり」
 不機嫌になった朱莉は扱いづらい。どうすることも出来なくて、私はただ缶コーヒーからちびちびと飲むだけだった。
ただその噂はただの噂ではなかったらしく、朱莉の言っていたようなスタバではなかったものの、私たちが会話した一か月後には、小さなカフェが開店した。
「ほら、私の言うた通りやったやろ?」
 朱莉が胸を張りながら満足げに言うのを見て、私は苛立つよりも彼女の機嫌が直ったことにほっとしていた。
「今度一緒に行かん? うまいミルフィーユがあるって聞いたちゃ」
朱莉は上機嫌に腕を絡めてきた。
「行こう行こう」
 私も朱莉の腕を取って、寒空の中、来週一緒に食堂へ行こうという約束をした。
私はそれ以降、たまに母が渡してくれるお小遣いを片手に、朱莉と一緒に食堂で暇をつぶした。もともと、DVD屋も本屋もスーパーもない集落だ。食堂が出来たところだけ、まるで都会になったように華やいでいた。
 そんな中、朱莉が食堂の不穏な噂を聞きつけてきたのは、十二月も終わろうとする頃だった。ダウンジャケットに手袋だけでどうにかしのいでいたのだが、流石にマフラーを付けないと寒空の下を歩けない時期になっていた。
「どうしたが?」
 学校へ行く時に待ち合わせをしているライトの下で、朱莉が妙にはしゃいでいるのが分かった。駆け寄ると、朱莉が歩みを進めながら、にやりと笑った。
「ほら、あのカフェあるやろ?」
「山の奥の?」
「それ以外にないちゃ」
 私が首を傾げると朱莉は呆れたように笑ったが、すぐに真顔に戻って私の顔を覗き込んだ。
「あそこの店主、魔法使いなんやって」
「はあ? 魔法使い?」
「そうながやちゃ。なんか、あそこのミルフィーユを食べてお願いをした人は、絶対そのお願いをかなえてもらえるらしいんだちゃ」
 私はクスクス笑った。朱莉はむっとして頬を膨らませる。
「信じとらんみたいだけど、本当ながやちゃ。最初ちゃ駒ばあちゃんが、腰が良なるように、って思いながら食べとったら、海老みたいに曲がっとったのがひょつんとしゃんとしたし―」
 朱莉が声を潜めて言う。それは聞いた覚えがあった。昨日、駒ばあちゃんと自動販売機の前ですれ違った時も、駒ばあちゃんは、まるで十歳若返ったかのように背筋を伸ばしていた。
 私は笑うのをやめた。朱莉はそれを見て機嫌がよくなったらしく、いつにも増して饒舌になった。
「それで、うちのお父さんも、マスターにおすすめされてミルフィーユ食べたって言うとったんだけど、その時に思うとったことが叶うたんだって」
「思うとったことって?」
「うちのお母さんに贅沢させてやったい、っていうやつ。そしたら、その翌日、なんと家のタンスから、お祖母ちゃんの持っとったダイヤのネックレスが見つかったがやちゃ!」
 どうやら朱莉の父は、それを売り払ったらしい。駒ばあちゃんの話だけでは十分な信用を持つことが出来ないが、朱莉の父が言うのなら信じてもよさそうだ。
私は新しくできた食堂の評判のよさに感心した。不変を好むこの村だ。都会っ子がやってくると、みんな声を潜めて何かと噂話が溢れる。そのハンデを超えているとは。
「他には他には?」
 私の食いつきがよくなってきたからか、朱莉は胸を逸らす。
「あとは、隣村の村長の息子、あの子が生意気にも彼女が欲しいなって思いながら食べとったら、なんとその一週間後に、好きやった女の子に告白されたんだちゃ」
「へー、あいつが?」
 隣村の村長は、ことあるごとに朱莉の父に助言を求めてこの村までやって来る。その時に不機嫌そうに連れてこられる息子は、私や朱莉と仲が良いとは到底言えなかった。
「そんなに気になってるんなら、頼んでみたら? ミルフィーユ」
「やだな、そんなものでないし」
 朱莉は両手で顔を覆った。いつにも増してお喋りになっていた朱莉からは、一度でいいから自分も願いをかなえてもらいたいという本心が見え見えだ。
「何お願いするが?」
「もう、私お願いしたいなんて言うとらんちゃ」
 願いを叶えてくれるというミルフィーユに、興味が無いわけではなかった。むしろ、目を輝かせてその話を聞かせてくれたせいか、自分も食べてみたいと思った。
 しばらく経って、私がその噂を忘れかけた時、朱莉がぽつりと言った。
「もし、お願いが叶うがなら、東京に行ってみたいって、言うかな」

 もう一度噂を聞いたのはつい三日前。朱莉がついにミルフィーユを食べてお願い事をしてみたと、興奮したように言った。
「何お願いしたが?」
「秘密やちゃ」
「えー、親友の私には教えてくれてもいいんでないが?」
「だちかんだちかん、絶対言わん」
 朱莉は頬を染め、それっきり何も言わなかったが、一度や二度、不可解な笑みが顔をよぎっていた。
翌日、朱莉の叔母が東京へ転勤することが決まったと聞かされた。朱莉は、自分もそれについていくのだと、目を飛び出させた。
「東京に?」
 私が驚いて言うと、朱莉はぶんぶん首を縦に振った。
「そう。叔母さんが、ついてきてもいいよって言うたが。お父さんとお母さんも、うちの働き手が増えるのが嬉しいみたいで、賛成してくれたちゃ」
「ってことは、高校―」
「中退して、あっちで働くかもしれん」
 昨日髪を切ったと嬉しそうに報告していた朱莉が、急に離れたように感じた。私は顔をしかめた。
「朱莉、上京したいってお願いしたが?」
「やったら何なの? けなるいなら、そっちもミルフィーユ食べてきてお願いしたらいいんやちゃ。私も東京に行きたいですって」
「けなるなんかないちゃ! ただ、どうしてここを出んならんのか分からんだけ。ここでは満足できんの?」
 私が言うと、朱莉が顔を赤くして言い返した。
「おかしいちゃ。あんたは私を応援してくれるって言うとったやちゃ? おかしい、おかしい、おかしい! 何で喜んでくれんの? 何で素直におめでとうって…」
「喜べるわけないやろう? 私に何にも言わんと抜け駆けして」
「やっぱけなるいんやろう? 嫉妬しとるんやろう? だけど、あんたが何て言うても、私ちゃ上京するって決めたがやちゃ! それが、ずっとずっと、夢やったんやさかいね!」
 朱莉は肩をそびやかして行ってしまった。

 マスターらしき人が戻って来た。右手にお盆を持っていて、その上にミルフィーユが乗っているのが見えた。彼はそれをテーブルの上に静かに置いたが、まだ食べないように、というジェスチャーをした。私は頷いた。
 昨日朱莉から送られてきたメールには、自分は東京に行くとずっと前から決めていたこと、私とはもう会わないようにすることが、回りくどく、長々と綴られていた。
 常連客らしいおじいさんが立ち上がった。そのまま手を擦り合わせるようにして店を出て行く。マスターがその後姿に礼をし、それからこちらを振り返った。
「噂を聞いて、いらっしゃったんですね」
「ええ、まあ…そんな感じです」
 マスターが、中身の減ったカップにちらりと目をやる。甘い紅茶は子供らしいと思われたかもしれない。紅茶にミルクをたっぷり入れたことが悔やまれた。
「前に来たお嬢さんは、貴方のお友達か何かですか?」
「きっとそうです」
 今思えば、上京すると聞いた時に、何故あれほどまでに自分が起こったのか分からなかった。きっと朱莉もそうだった。
「上京するって決まったらしいです、朱莉」
 私が無理に明るい声を出すと、テーブルの上に乗っていたミルフィーユを、マスターがそっと私に近づけた。
「食べてください。それで―」
「お願いを、する」
 マスターが頷いた。私はフォークを取ったが、すぐにマスターが片手を差し出して、ストップするようにと合図した。私は口を半開きにしたまま固まった。
「食べ終わるまで、喋ってはいけません」
「どうして?」
「それが、ルールですから」
 それ以上は何も言おうとしないマスターに、私はだんだん苛立ってきた。
「他にルールは?」
「ミルフィーユを食べ、何かをお願いすることができるのは、一生のうちで一回だけです」
「そっちゃどうして?」
「皆様に、平等に願いを叶える機会を与えるためです」
 嘘臭い、と私は思った。何が平等だ。
「もし、ここでお願いしても、これ以降、ミルフィーユを普通に食べることはできるやちゃ?」
「普通にお召し上がりになるのなら、何度でも可能です」
 マスターはどうぞとミルフィーユを指し示した。去って行くその姿を見ながら、私は黙ってミルフィーユを口に運んだ。
 不味くはない。ただ、美味しいとも言い難かった。本当ならパリパリのはずの層がふやけてしまっているし、挟まれたクリームが異様に甘かった。どうにかして喉の奥に押し込む。
 願い事はもう決まっていた。
 目をつぶって、ミルフィーユを咀嚼しながら心の中で三度呟く。
 それから、早く片付けようと、急いでミルフィーユを口の中に押し込んだ。甘すぎる紅茶で流し込む。
「食べ…ました…」
 紅茶のカップをガタンと机に置くと、マスターが幽霊のようにやって来てお皿を片付け始めた。
「どうぞ、またお越しください」
 もう二度とミルフィーユは食べたくありませんけど、と言いたいのをこらえて店を出た。まだ、ミルフィーユの甘さが口の中に残っている。自動販売機でコーヒーを買って、ガードレールにもたれかかって一口飲んだ。
 肩を大きく揺らして呼吸しているうちに、何とか落ち着いて来た。顔を上げて歩き出そうとするが、足が止まった。
 さっき自分が出てきたはずのカフェから、朱莉がこそこそと辺りを伺っていた。探偵のような地味なコートを着て、目を細めて気難しい顔をしている。
 咄嗟に自動販売機の裏に隠れた。見られていたらどうしよう。ミルフィーユを食べたことが、もし朱莉にバレていたら。それこそ、朱莉はもう二度と私に話しかけてくれなくなるかもしれない。
 朱莉の顔が引っ込んだのを見て、震える足で家に帰った。

「朱莉ちゃん、上京せんやちゃ?」
「え?」
 咄嗟に聞き返す。母が物置の奥底を探りながら言った。
「何かねぇ、私の周りの駒さんが寂しがっとってね。私も初めて聞いたことやさかい、え? って聞き返してしもたんだけどね、だけど本当らしいんだちゃ。千里(ちさと)ちゃ何か聞いとらんの?」
「聞いと…らん」
「もし千里が聞いとったら、そりゃあ寂しがるでしょうって駒さんには言うたのちゃ。きっと噂が独り歩きしてしもただけなんやって。だけど、駒さんは本当や、嘘でない、って言い張るばっかり」
 母はお目当てのものを見つけたらしく、より奥深くに腕を突っ込みながら呟いた。
「まあ、朱莉ちゃんなら、スカウトされて東京に行くって言われても、信じられんことはないやちゃ。千里ちゃ信じられんけど」
 母は気楽にそう言って、セーターを引っ張り出してきた。私に当ててみて、満足げに頷く。
「千里、中入るよ」
 母に急かされて、私はサンダルを放った。中に入ると、身に染みるような暖かさだったが、半開きの窓から、冷たい風が吹いていた。

「私、やっぱ上京するのやめるちゃ」

 朱莉が言った。
 片手にはいつもの缶コーヒー、もう片方の手は自分の短い髪をいじっていた。私はすぐには声が出せなくて、しばらくしてから掠れ声で言った。
「は? 何言うとんの?」
 思わず言葉が突いて出た。必要以上に強い言葉になってしまい、慌てて言い直そうとしたが、朱莉はそれを制して、寂しそうに微笑んで肩をすくめた。
「お母さんとお父さんは行ってもいいよって言うとるけど、やっぱ私がおらんと今後大変だなて思うて」
「だっかにそう言われたが? 駒ばあちゃん?」
 私が慌てて言っても、朱莉は首を振った。プルタブを引き上げて封を開けてから、一口飲む。それから、唇の端を引いた。
「誰にも、何にも言われとらんちゃ」
「じゃあ何で? 何でやめるが?」
 朱莉は一足す一の答えを言うように当たり前に言った。
「自分で決めた」
 私は急に足がすくんだ。立っていられなくなって、自動販売機の側面に寄りかかる。
「…私が、言うたさかい? 怒ったさかい? かんに、そんなことない、行ってきてもいいちゃ。朱莉、私のことなんて、気にせんでいいちゃ」
 今まで静かだった朱莉が、声を大きくした。顔が怒っていて、身がすくむ思いがした。
「自分で決めたって言うとるやろう」
「嘘やろう。言いにくいんやろう。私のせいや」
「自分で決めたがやちゃ!」
 朱莉が私の肩を掴んで揺さぶった。
「あんたのせいでない。あんたに言われたのは確かにショックやったかもしれんけど、それが理由でない。ずっと憧れとったものを、そんなことで手放すて思うとったが? 私がそんなに弱いて思うとったが?」
 弱いなんて思ってないちゃ、と呟いても、朱莉は苛々と指を鳴らしながら歩き回った。
「うちのお母さんに癌があるって分かったがやちゃ。それに、お父さんから、私が次の村長にならないかんって聞かされたんや。私はこの村から出れん。お母さんを看んならんし、お父さんの後を継がんならん」
「けどそっちゃ、自分のためでないやろう?」
 私が言うと、朱莉が鋭い目でこちらを見た。いつか遠足で、山の上で見た鳶が思い起こされた。朱莉は怖い怖いと言いながら私にしがみついて、それでもおにぎりを取られて大泣きしていた。
 朱莉は激しく論じた。
「自分ため、他人のため関係のうて、こっちゃ私が決めたことなの! だっかから言われたさかいとか、だっかから止められたさかいとか、そういうことでないが! 私が、私自身が、ずっと考えて決めたことながやちゃ!」

 思えば、朱莉は人に意見するのが苦手な子だった。
 小さい時から私の後ろにくっついて、私の真似をして、ずっと隣にいる子だった。私が積み木をしようと言ったらおもちゃ箱の中から積み木セットを持って来て、私が裏山に探検に行こうと言ったら怯えながらもついてくる子だった。
 朱莉が私より目立つようになったのは高校に入ってからで、朱莉が学年で一番かっこいいと言われる男子と面識があったことがきかっけだった。朱莉は何かと私をグループの中で引き出そうとしてくれたが、私は断った。
 それでも朱莉は懲りず、一緒に帰るという日課だけは決しておろそかにしようとしなかった。
 同じグループの子には恥ずかしくて言えないからと断り、私にだけは、顔を赤らめながらも秘密を話してくれた。
私、東京に行ってみたいんだちゃ。東京でいっぱいお洒落して、いっぱい働いて、かっこよなって、それにいっぱい恋もしたいんだちゃ。ここでは見れんような景色とか、人とか、でかいとおるがやろうなぁ。
うっとりとした顔で言う朱莉に、私は呆れて言った。
本当に行けるがー? 大丈夫ー? 朱莉一人になるんやで? 私はおらんよ?
それを聞くや否や、朱莉が驚いたように言った。
千里ちゃんも一緒に行くんだちゃ? あれ、私言わなんだっけ? 一緒に行って、一緒に楽しむがやちゃ?
面白いほどに慌てる朱莉は、私から見ても可愛かった。
だけどね。
朱莉がぽつんと言った。
だけど、もし千里ちゃんが一緒に来てくれんって言うても、私ちゃ行くって決めた。こん時だけ、千里ちゃんと離れてもいいかなって思うちゃ。て言うか、私、多分この時だけは千里ちゃんと離れんならんんでないかて思うんだやちゃ。
一緒に行かん? どうして? 私が田舎臭うて、東京で一緒におったら笑いものにされるさかいってこと?
朱莉が笑った。
ううん。違うちゃ。
朱莉はその後、何か言いかけたが、私が首を傾げているのを見ると、唇に人差し指を当て、お茶目に笑って見せた。

「私が、お願いしたがやちゃ…あのカフェで」
 声が震えていた。朱莉が顔を上げる。
「朱莉を東京には行かせんでいいちゃって。私が、あそこで、ミルフィーユ食べて、お願いしたがやちゃ」
「それで?」
 朱莉が言った。失望したようにも聞こえた。私は自動販売機にすがりながら言った。
「そのせいなんやちゃ。私が身勝手な都合で朱莉を引き留めたさかい。朱莉、東京に行って。私の分まで行ってきて」
「ちょっこし千里、落ち着いてちゃ。ほら、コーヒー飲んで落ち着いて」
「落ち着ける訳ないやろう! 私のせいだ、私のせいで朱莉の願いを無駄にした!」
「落ち着け、千里!」
 朱莉が怒鳴った。私はひっと身をすくめた。
「落ち着いて。私ちゃ上京したいなんて願うとらん。確かに、お願いしたいなとは思うたけど、本当にお願いはしとらんちゃ」
「お願い…しとらん?」
 私は持っていたコーヒーの缶を取り落とした。びちゃっと音がして、そこらへんにコーヒーの苦い香りが広がった。私のスカートに茶色い染みが出来ている。
 朱莉は諭すように言った。
「上京したいっていうお願いはしとらん。だけど、確かにミルフィーユを食べたちゃ」
「何を願うたが?」
 手が震えている。両手で頭を掻きむしっても、不可解な気持ちが収まることを知らなかった。
「千里の願いが叶いませんように」
 朱莉が不意に言った。
「意味的にはそう願ったんや。あ、でも、そのままお願いしたわけじゃないさかい、安心せい」
 怒りが口をついて出そうになった時、朱莉が慌てて言った。
「上京したいって私は千里に言うた。もしかしたら、あんたが私のために、貴重な一回きりのお願いを使うてしまうのでないか、て思うたが」
「何で?」
「だって、千里、優しいやろう?」
 朱莉が単純なことのように言い切った。手から、お腹から、足元から、力が抜けていくのを感じた。私は地面にへたりこんだ。朱莉が自分のコーヒーを投げてよこす。
「マスターに聞いた。お願いをしてもそれが叶わなんだ場合、そっちゃ一回にはカウントされんがやって」
「どういうこと…?」
「『千里ちゃんが他の人の利益となるようなお願い事をした時ちゃ、そのお願いは叶わんようんにしられ』」
 朱莉がうわの空で答えた。
「やさかい、千里ちゃんが千里ちゃんのために、きちんとしたお願いが出来るように願うたが」
 嘘だ、と言いかけて、口をつぐむ。朱莉はいつだって私を気にかけてくれていたことを、不意に思い出してしまった。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ」
 朱莉が困ったように首を傾げる。
「大丈夫だちゃ」
 それから、にかっと笑って言った。

「私は、千里ちゃん自身に幸せになってもらいたかっただけだよ。人のためなんかじゃなくてね」

 寒い、日だった。

そんな日には ミルフィーユ

そんな日には ミルフィーユ

そんな日には ミルフィーユ 喋らずに食べきると願いが叶うというミルフィーユ 友達と和解するためのミルフィーユ 一足先に逝ってしまった妻へ捧げるミルフィーユ ずっと会いたかった幼馴染とのミルフィーユ 前から持っていた夢を叶えるためのミルフィーユ そして、願いを叶えるために奮闘するマスターの、ちょっと不思議な物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-23

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