解放

ZOEAZ

 極彩色のネオン。往来を走る車が、威嚇するようにクラクションを鳴らした。美亜(みあ)は不安から、繋いだ手にぎゅっと力を込める。十二月に入ってから、一段と日没時間が早くなったように感じるのは気のせいではないはずだ。太樹(たいき)は、美亜の手を握り直した。冬が近付くと一日が短くなったみたいで切ない、と少し前に、美亜が言っていたのを思い出したからだ。

「言った通りだろ、美亜。誰も、俺たちのことなんか気にしちゃいない」

 そびえ立つビル群に取り囲まれながら、太樹は美亜の顔を覗き込む。二つの瞳が風を受けた湖面のように揺れた。

「……でも、明るいところだったら、きっと気づかれちゃうよ」
「そうならないように、これから工夫するんじゃないか。大丈夫。絶対に大丈夫だから」

 太樹は、目深に被ったパーカーのフードを空いたほうの手で後方にずらした。視界がひらけ、夜の街の賑やかさが五感に飛び込んでくる。美亜は怯えた表情で周囲の様子をうかがった。すぐ近くを通り過ぎたサラリーマンが、いぶかしそうにチラと一瞥した。だが、それっきりだ。夜の街の人々は、二人の姿などまるで見えないようだった。太樹と美亜は手を繋ぎながら、そうしてしばらく、過ぎゆく人の顔を眺めていた。
 高校二年生の須藤太樹は、入学当初からクラスメイトの沢渡美亜(さわたりみあ)に好意を寄せていた。いわゆる一目惚れである。入学式で見かけた瞬間から、自分でも驚くほど簡単に恋に落ちたのだ。
 しかし、太樹は問題児であった。他人よりも少しだけ我慢することが苦手な太樹は、物心ついた頃から喧嘩っ早かった。教師ともソリが合わず、上から押さえつけようとしてくる人間には容赦なく抵抗した。気付いた頃には乱暴な生徒として悪名高く、高校に進学しても彼の評判は変わらない。
 反対に、沢渡美亜はどこまでも模範生であった。教室の隅でじっと本を読んでいるだけの無害な生徒。教師たちの評判も悪くはなかったが、特筆すべきところもない、といった影の薄い存在である。太樹は素行は悪いが情に厚く、友人の数は多かった。美亜といえば、他人と一緒にいるところを誰も見たことがない。
 対極の二人である。
 だから、太樹はなんとかして接点を作ろうと、図書委員を務める美亜の元へ足繁く通った。細かい字がびっしりと並んだ、読みもしない小説をいったい何冊借りたことだろう。そのたびに美亜からは杓子定規な対応が返ってきて、太樹はほとんど意地のように図書室に通い詰めた。
 もしかして男と話す姿を誰かに見られるのが嫌なのかも、という気付きがあったのは、彼女が同じ図書委員でも男女でわずかに声のトーンが違っていることを知ったからだ。太樹は人気のない時間帯を狙った。その配慮が功を奏したのかも知れない。もちろん、太樹の持ち前の気さくさにも打ち解ける要因があった。初めは警戒していた美亜も、次第に口数を増やしていった。
 良くも悪くも短絡的な太樹が、美亜に告白したのはそのすぐあとのことだ。グズグズしてると美亜を誰かに取られてしまうかも知れない、という懸念が彼を支配していたのもある。人気のなくなった放課後の図書室。戸締まりを確認している美亜に、太樹は真っ正面から自分の気持ちを告白した。

 ――入学式で一目惚れしたんだ。でも、こうして美亜との時間を過ごしているうちに、優しい性格とか、小さなところに気がつくところとか、どんどん美亜の良いところを知った。俺と付き合って下さい。

 悪名高い乱暴者とは思えない、真摯な言葉の数々に美亜は驚いた。同時に、この告白を聞いても少しも嫌な気分にならなかった自分にも驚く。美亜はこくんと小さく頷き、はい、とだけ呟いた。初めて異性から告白されたのだ。美亜は恥ずかしさから赤面し、その正面には嬉しさで顔を火照らせた太樹がいた。二人はその日から世間で言う“カップル”となった。
 美亜は太樹にとって、なによりも大事な存在だ。親姉弟よりも大事、といっても過言ではない。
 太樹は二人の付き合いを、周囲に公表すべきだと考えた。気持ちが通じたことを純粋に祝福されたかった部分ももちろんあるが、美亜は自分のものだということを仲間内に知らしめておきたくもあった。だが、美亜は「それだけはやめて」と頑として首を縦に振ろうとしない。太樹はその意図が全く理解できなかった。聞けば、美亜の母親は男女関係に厳しく、常日頃から男性のことを悪し様に罵っているらしい。全く家に帰ってこない父親がその背景にいることで理由は察することができる。だだ、その潔癖具合はなかなかのもので、テレビドラマで男女が口付けしようものなら「汚らわしい!」と言って、慌てて電源を落とすほどの過激さであった。
 恋愛が汚らわしいというのなら、いったい、美亜はどのようにして産まれてきたのか。
 当たり前の性知識。そんなことは、小学生でも知っているはずだ。だが美亜の母親は、男は自分勝手で、残酷で、汚らわしいから関わっては駄目なのだと、来る日も来る日も美亜に言って聞かせているらしい。美亜は、太樹との交際が母親に知られるのを極端に恐れていた。

 ――友達に言うだけならバレないんじゃねえの?
 ――だめ。お母さん、自分から毎年PTAに参加してるんだよ。みんなのお母さんとほとんど知り合いなの。どこで通じるかわかんないんだから。

 仲間内に打ち明けることができず、誰にも祝福されることなく美亜との交際が続いた。ひた隠しにする日々に、太樹の不満は着実に蓄積していく。そこまでビビる必要はない、そう言いたい気持ちは山々だったが、顔を真っ青にさせながら太樹との待ち合わせ場所に現れる美亜の姿を見ると、すぐそこまで出かかっていた言葉は、ぐっと身体の奥へ押し戻されていくのであった。

「俺が、女になれば良いんだよ!」

 他人よりも少しだけ我慢が得意ではない“彼氏”が、名案とばかりに“彼女”に言い迫った。付き合ってからちょうど二ヶ月目のことである。一日の授業を受け終えた二人は、通学路からそれた場所にある、最近空き家となった一軒家の生け垣に隠れるようにして待ち合わせていた。出会い頭に太樹が言った台詞が件のものであったため、美亜は目を点にして相手を見つめるしかなかった。
 太樹はブレザーの内側から、一枚の写真を取り出して美亜の前に提示した。中央に写っているのは、クラシカルな丈のメイド服を着た女だ。緩やかにウェーブしたダークブラウンの髪が似合っている。

「実はこれ、俺なんだ。一年生のときの文化祭でやらされた女装。こんときの俺はすげー嫌々やってたんだけど、そういえばツレに可愛い可愛いってめちゃくちゃ言われた記憶があるんだよ。そんときはきめえから黙れって感じだったんだけど、いま思えばこれって使えるんじゃねえかなと思って」

 美亜は口をあんぐりと開けて、太樹の言葉を聞いていた。太樹は学生鞄の中から、コンビニのビニール袋に乱雑に詰め込んだそれを取り出した。姉ちゃんの化粧品、適当にパクってきた、と笑ってみせる。
「美亜はメイクしたことある? あるなら助かる。文化祭のときも、俺はされるがままだったから」

 ――その日、完成したメイクはひどいものであった。

 なにしろ美亜は母親がああであるから、今まで色気づいたことは許されなかったのだ。初めて触る化粧道具。どこに使用するものなのか不明で、使い方も、加減もわからなかった。だが、童顔で肌が綺麗な太樹は、軽く粉を叩いて紅を引くだけでも、様になる顔をしていた。

「姉ちゃんにバレないように、俺、メイクの練習してみるよ。美亜は図書室で、化粧の仕方が載っている本を何冊か探しておいてくれ。一日でも早く、一緒に外を歩けるように頑張ろう」

 勢いに押されるまま、美亜は頷いた。
 隠れた関係でいることに業を煮やした太樹が、紆余曲折を経て編み出した妙案が「第三者に男だと思われなければ良いだけなんだから、俺が上手く女装すれば美亜と公の場に出ても問題ない」という奇天烈なものであったことは、どれだけ彼が現状に不満を抱えていたかがうかがい知れる。美亜はそれが理解できるから、彼の提案を拒否することができなかった。それに写真の中に映るメイド姿の太樹が、どこからどう見ても可愛らしい女のように見えたことも美亜の背中を押した。

 ――きっと完璧にメイクすれば、太樹は私よりも女らしい見た目になるだろう。仕草にも気をつけて、丁寧な言葉遣いを選んで……。
 気付けば美亜は、彼の手助けをするために資料を集め始めていた。美亜はあまり表には出さなかったが、心の底では、太樹と一緒に外を歩きたいと強く思っていたのだった。

「冬が近付くと、一日が短くなったみたいで切ないね」

 美亜は、完成したメイクを様々な角度から見て確認しながら言った。太樹が「まだ六時なのに、もう真っ暗だ」と呟いたことに対する受け答えであった。授業終わりの帰り道。空き家の生け垣に身を隠した二人は、息をひそめながら互いの顔に視線を送る。
 携帯用の読書灯に顔を照らされた太樹は「美亜は、もっと一日が長ければ良いと思う?」と問いかけた。

「思うよ。だって学校の授業が朝から夕方まであるじゃない。そこから図書室に行って、帰って、ご飯食べたり勉強したり。あっという間に寝る時間なんだもん」
「俺は、もっと美亜との時間が増えると良いなと思ってるよ」

 目を細めて、わざとらしく口角を上げた。その艶めかしい仕草は“合コン必勝法”と書かれた本からの受け売りである。

「……ずるいよ。真面目に答えた私が、薄情に聞こえる」
「美亜もそう思ってくれてる?」
「……当たり前でしょ。そうじゃなきゃ、こんなこと、手伝ってないよ」

 唇の薄さを補うために輪郭はややオーバー気味にとっており、細かいラメが入ったオイル入りのルージュを塗ることで、より立体的な印象を与えている。唇にインパクトを持って行きたいため、今日の太樹のメイクは目元などは控えめであった。それでも、睫毛をマスカラで長くしたり、血色を良く見せるためにチークを叩いたり、怠ることのできない部分は山ほどある。美亜はその全てを、バランスを考えて太樹に施した。

「これなら、もう、外に出かけても良いんじゃない?」

 鏡に映る完成品を見つめて、太樹は言った。あれから太樹自身も自宅でメイクを練習していたから、美亜の腕前が自分を追い抜いていることは一目瞭然だった。バラエティショップで購入した仮装用のウィッグではあったが、髪が短髪でなくなるだけでもぐっと女らしさが増すように感じられる。太樹は指で毛先を弄びながら「絶対バレないよ」と言った。自然と口調が丁寧なものになっている。

「……私、やっぱり止めたほうが良いと思う。絶対、失敗する。誰かに見つかって、ひどい噂が立って、お母さんにも伝わって……彼氏が女装してたなんて知ったら……」
「美亜は心配性だな。実はさ、今日、姉ちゃんの服も持ってきてるんだよ。ロングスカートと、パーカー。これで頭を隠せば、ウィッグの人工的なつむじが隠れて、本物っぽさが増すと思うんだ。なあ、美亜。今から街のほうへ行ってみない?」

 きっとまた、彼女の口からは否定的な言葉が出てくるだろう。だが、太樹は美亜の瞳の奥が期待で色付いていることを知っている。太樹の馬鹿な考えを、ここまで真剣になって協力してくれたのだ。答えなど待たずとも、その手を取って飛び出せば結果は自ずとついてくる。
 美亜の顔は真っ赤に火照った。異性を、ましてや彼氏と手を繋ぐのはこれが初めてだったのだ。ネオンの極彩色が近付く。二人はこうして、ようやく外の世界に飛び出したのであった。


「これ、昨日発売した新作のアイシャドウ。二種類出ててね、こっちのオレンジ系のパレットは俺に似合うし、ピンク系のほうは美亜に絶対に似合うから、どっちも買っちゃった。この中間色が絶妙で、すっごく使いやすそうなんだよね。また今度、塗り合いっこしよう」

 ある晴れた冬の日曜日のことだ。待ち合わせ場所に現れた太樹は、開口一番にそんなことを言いながら、ショップの袋の中身を美亜に見せた。ロングスカートにムートンブーツ。タートルネックでのど仏を隠し、ウールのコートで骨張った節々を巧妙に隠している。時刻は昼過ぎ。お互い、自宅で昼食を食べてからの集合であった。二人は通りに面したカフェに入り、ホットコーヒーをふたつ注文した。太樹が当たり前の顔をして美亜の分も支払い、オープンテラスに向かい合って腰掛ける。

「ねえ、今日の俺、どうかな」

 期待するような眼差しで、太樹は美亜に問いかけた。
 着ている服は相変わらず姉から拝借しているらしいが、メイクの腕は格段に上がっている。見つめ合う瞳。ワンデイのカラーコンタクトは、発色の良さよりも、自然な印象で黒目が大きく見えるものを選んでいるらしく、黄色や茶が混ざったようなヘーゼル色は太樹の肌の白さによく似合っていた。それに、くるんと綺麗にカーブした睫毛は、先日購入したと言っていたマスカラ用下地とホットビューラーが一役買っているのだろう。アイラインやアイシャドウは控えめで、茶系のグラデーションでまとめられている。ふと、あることに気付き、美亜は「あ」声を出した。

「もしかして、チークと口紅は同じものを使ってる?」
「当ったりー! やっぱ美亜は目敏いね。兼用のやつらしくてさ、クリームチークみたいな感じで、口紅を頬骨の上に塗るんだよ。口紅とのまとまり感も出るし、最近の俺のお気に入り」

 太樹は心底嬉しそうに、美亜に向かって語って聞かせた。端から見れば、女同士の会話にしか聞こえないはずだ。現に太樹は、女装をしている間は女っぽい声を心がけている。
 表通りを散策し、気になった店には一緒に入っていく。美亜の身体に服をあてがい、良いなと思ったもので大きなサイズがあれば太樹も試着した。双子コーデとかどう? なんて美亜の腕に自身の腕を絡めながら、太樹は小首を傾げた。美亜は「さすがにそれは遠慮しようかな」と言った。太樹は「ひどーい!」と泣き真似をする。そうして二人はくっつき合いながら街を歩いた。仲の良い友達同士なんだろうな、と、道行く人は思っていたに違いない。

「あれ? 沢渡さんじゃん」

 何件目かでようやく美亜の眼鏡にかなう服が見つかったとき。やけに正面の女がこちらを見てくるなと太樹が思っていたら、案の定声をかけられたのだった。いくら晴れているからといっても季節は冬だ。寒くないのかと心配になるほどのミニスカートに、サイハイブーツを合わせた出で立ちで現れたのは、同じクラスの神薙であった。神薙は二人の姿を上から下までじろじろと見ると「なるほどね」と勝手に納得した。

「最近、うちらの間で噂になってたんだ。沢渡さん、すっぴんなのに、なんでか最近すっごくキレイなんだよね。失礼かも知んないけど、ずっと芋だと思ってたからさ。こりゃ絶対彼氏できたわ、ってみんなで言ってたの。でも……」

 なんか理由がわかった気がする。そう言って、神薙は美亜の腕を取ったままの“女”をチラリと見やった。その視線は相手を値踏みするような明け透けなものであった。太樹は自己紹介する気などなくなり、じっと相手を睨み付けた。

「……この人、中学の同級生じゃないよね? 沢渡さん、アタシと同じ学校だったもんね」
「……うん。趣味の……趣味の集まりで、知り合ったの」
「ふーん……“趣味”か……。沢渡さんって大人しいイメージだったから、そういう外での集まりに参加してるイメージなかったな。なんか、意外なことばっかり知った気分。ごめん、邪魔しちゃったね。じゃあまた」

 去って行く後ろ姿を見ながら「なにあれ。感じ悪」と太樹は毒づいた。だが、美亜の顔に視線を移したとき、事態の深刻さにようやく気付いたのだった。美亜は唇の色をなくしていた。俯き、買ったばかりの服のショッパーを抱えながら「もう、帰ろ」とだけ言った。


 あっという間に、沢渡美亜は“同性愛者”だという噂が広まった。
 美亜はそれから三日ほど学校を休んだ。その間、太樹はなんとか美亜と連絡を取ろうとしたが、美亜の母親がいる手前、自宅に電話することはできない。人づてに様子を聞こうにも、美亜と仲の良い友人は誰一人としていなかった。結果、太樹は美亜が四日目に登校するまで、一度も相手の声を聞くことはできなかったのである。授業を終え、帰り道をそれたところにあるお馴染みの空き家に待ち合わせをした。現れてくれないのではないかと思ったが、美亜は静かに屈み込み、太樹のいる生け垣の影に姿を隠した。
 美亜の目蓋は赤く腫れ、目はひどく充血していた。制服のスカートごと膝を抱きながら、美亜は口を開く。口の端は血がにじんでいる。

「……お母さんに問い詰められたの。女の子と付き合ってるのか、って」

 わかってはいたが、その単刀直入さに太樹はたじろいだ。

「違う、って否定しても、お母さんは絶対納得してくれないってわかってた。だから、言ってやったの。異性に対してあれだけ悪く言っていたんだから、同性と付き合うのなら良いと思った、って。揚げ足取りなんて、普段の私だったら絶対しないことだよ。お母さんの顔が、ぶわって怒りで膨らむのが見えた」

 太樹は制服のズボンについたホコリをつまみ、捨てるでもなく指でこねた。美亜の話に口を挟むべきではないことは理解できた。小さく相づちを打って、相手の言葉を促す。

「……私の部屋、外から鍵がかけられるようになってるの。小さいときなんて、何度も何度も部屋に閉じ込められた。だから自分の部屋なのにいつまで経ってもリラックスできなかった。……激怒したお母さんに部屋に詰め込まれたとき、私は意外と冷静な気持ちだった。いつかはこんな日がくると思っていたから。私は、窓から出ようとした。でも、いつの間にかそこにも鍵が取り付けられてたの。……私は、そこでようやく、お母さんがおかしいことに気付いた。今まではちょっとだけ心配性なんだって思ってた。でも、お母さんのあれは、もっと深刻で、もっと……病的」

 視線が絡み合った。美亜の瞳は不安げだがまっすぐで、太樹の身体を支えている芯の部分を見つめているようだった。美亜は言う。

「男とか女とか関係ない。私が付き合っているのは、須藤太樹って名前の一人の人間なの。だから、もう……女装なんてしなくて良いよ。私、誰になにを言われても、太樹くんは私の大事な人ですって胸を張って言うよ。……今まで、無理させてごめんね」

 声を震わせながら。美亜はおずおずと手を伸ばし、太樹の手を握りしめた。暖かな体温が伝わってきて、太樹は美亜の強い決心を知った。同時に、その揺らぎのなさが、太樹の中にわずかな違和感を生み出させた。太樹は一度、目をそらし、少し考えてから、もう一度相手を見た。言わなければ全てが上手くいく。だが、いま言わなければ、ずっとこの先我慢していくことになる。太樹はほんの打診のつもりで、美亜に問いかけた。

「あのさ、誰になにを言われても良いなら、俺が女装してても構わないってことだよね」

 美亜は瞬時に顔の色をなくし「は?」と素の声を出した。

「なに言ってるの」
「いや、俺さ、もう気付いてると思うけど、無理して女装してたわけじゃないよ。確かに最初は苦肉の策だったけどさ、コツとか掴み始めてから、なんか段々楽しくなってきて……」

 堰を切ったようにとめどなく言葉が溢れてくる。黙るべきだ、隠すべきだ。わかっていても、もしかすると理解してもらえるのではないかという期待が、太樹の口を軽くする。

「化粧用品とか、あり得ない数の商品があるわけじゃん。あの中から、俺の肌質に合ったものを選んで、顔の短所を消して、長所を作っていく。化粧品の組み合わせがぴったり一致したときの顔の映え具合といったら、笑っちまうくらいだった。俺、自分が女装しなければ、メイクがこんなに楽しいなんて気が付かなかったんだ。こんなに毎日が楽しくてキラキラしてるなんて、男の格好じゃ絶対に気が付かなかった……」

 いったい、自分はなにとなにを天秤にかけているのだろう。太樹は、目の前の美亜が、次第に怒気を膨らませていることを見て取り「だから美亜には感謝してるんだよ」と形だけの言葉を繋いだ。

「……太樹くん、よく考えてよ、もし私と結婚して、私との間に子供ができたら。その子は自分のお父さんが女装してることを、どんな気持ちで見ると思う? 子供は親の背中を見て育つんだよ、女装なんてだめにきまってるじゃない」
「……でも」
「子供の友達にも、その親にも変に思われる。それに、きっとそれが理由で虐められるよ。近所の人だって、変態の一家だと思って白い目で見てくるに決まってる。それでも、太樹くんは女装するって言うの? 未来の家族よりも、自分の一時的な快楽を優先させるの?」

 目を三角にした美亜は、ほとんど一呼吸でそこまで言った。太樹は、小さく頷いた。

「……私が、こんなに嫌って言ってるのに……。もしかして、本当に“女”になりたくなっちゃったとか? 性同一性障害、なら、手術とか色々……」
「違うんだよ。俺はただ、女装するのが好きなだけの男だ。身体を女にしたいんじゃないんだ……」

 この微妙な違いを理解してもらうには、どれほど言葉を重ねれば良いのだろう。美亜は顔を歪ませ、少しだけ身体を反らして太樹から距離を取る。太樹の体感温度が急に下がった気がした。

「……俺、美亜と一緒に化粧品の話するの、すっごく楽しかったよ。好きなものについて語れる相手ってなかなかいないじゃん。なんか“親友”みたいだな、って思って嬉しかったんだよ……」

 もう、すぐそばにまで別れの気配は近付いていた。太樹の目からは、自然と涙が溢れていた。太樹は今でも美亜のことが大好きで、できることなら一緒にいたかった。太樹の手を握りしめていたはずの美亜の手はすでに外され、彼女の髪の毛を掻き上げる仕草に荷担する。
 「なあ、もう無理だと思うけどさ」顔を手で覆いながら太樹は懇願した。

「今からでも良い、“友達”になってくんねえかな……」
「……無理に決まってるじゃない。友達でも、言って良いことと悪いことがあるんだもの」

 太樹は「だよな」と頷いた。目からは涙が止めどなく溢れ、だらだらと鼻水が垂れていた。美亜のことが誰よりも好きで、大事だった。でも、彼女との間に走った深淵にも似た亀裂は、どんな言葉をもってしても修復できない。太樹は「だよな」ともう一度、呟いた。
 永遠の別れが、二人の間に横たわる。
 二人の上空を一匹の烏が通過し、どこまでも他人行儀な風が頬を撫でた。いつか、それぞれの道を歩んだ二人が、思い出話として今日のことを語る日が来るのかも知れない。我が子を抱きしめた美亜が、夫と共に見るワイドショーで、女装の男が野垂れ死ぬニュースを冷めた目で見る日が訪れるのかも知れない。
 それでもまだ、今だけは泣かせてくれと太樹は願った。



解放

解放

極彩色のネオン。往来を走る車が、威嚇するようにクラクションを鳴らした。美亜は不安から、繋いだ手にぎゅっと力を込める。十二月に入ってから、一段と日没時間が早くなったように感じるのは気のせいではないはずだ。太樹は、美亜の手を握り直した。冬が近付くと一日が短くなったみたいで切ない、と少し前に、美亜が言っていたのを思い出したからだ。/2019年製作。女装がテーマの作品です。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-22

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