怪物は夜明けを知らない

ZOEAZ

 ―1―
 
 生きとし生ける者全て、使命を持って産まれてくるんだと私は思う。
 ただし成すべきことを本人が理解できるかどうかはまた別の話。運良く到達したとして、運悪くビルから飛び降りたあとだったら意味がない。
 その点、私は幸せ者だ。
 
 背中に声をぶつけられた。冷え切った早朝の風に前髪を乱された私は、顔をしかめながら振り向く。三月になったというのに、春の兆しは一向に訪れない。神崎新菜(かんざきにいな)が満面の笑みで近付いてくる。

「メガネ! 今日は早いじゃん!」

 新菜は私の隣に並んだ途端、白い歯を見せて笑った。丸い瞳、細い顎。いかにも女の子といった小柄で可愛らしい容姿は、彼女のいる場所にだけ春がきたように感じさせる。挨拶を交わし、再び足を踏み出す。

「いつもだったらメガネがニーナを追いかけてくるのに、逆って変な感じ! なんで? なんで早いの?」

 眼鏡をかけているからメガネ。新菜が私につけたあだ名だ。さすがに安直、とすぐに抵抗したのを覚えているが、楽しそうに彼女が呼び続けるものだから、次第に愛着が湧いてしまった。

「ねえ、どうして?」

 白い息を吐きながら親友が私の顔を覗き込む。
 途端、体温がドッと上がった気がして、慌てて目をそらした。新菜は時折、恋人に話すように甘ったるい声を出す癖がある。三年目の着古した制服の裾を無意味に手で直しながら私は答える。

「ち、父親が昨日から出張で、今朝はご飯の準備をしなくて良かったの。だから、この時間」
「え。じゃあメガネ、朝ご飯抜き? 一時間目、体育だよ。だいじょうぶ?」

 新菜は小首を傾げる。

「大丈夫。食べると逆に調子出ない……かな。なんか、胃が重たく感じるから」
「良いなあ。ニーナは朝食べないと死んじゃう」

 後方から、ハッハッと規則正しく呼吸をする犬が、飼い主をリードごと引っ張るようにして通り過ぎて行く。見るでもなくそれを見ていると「いつもご苦労様」と声がして、私は目を見開いた。幻聴かと疑ったが、どうやら新菜から発せられた言葉らしい。

「な、なによ急に」
「いや、急じゃないよ。ずっと思ってた。でも、ちゃんと伝えたいな、って思ったから」

 気付けば二人の歩みは止まり、騒がしかったはずの風はぴたりとやんで、視線だけが濃密に混ざり合った。色素の薄い新菜の瞳。瞳孔だけが黒々と宙に浮かんでいるのが神秘的で、やっぱり私は目をそらしてしまう。

「だってメガネ、妹もいるんでしょ。ニーナは一人っ子だから、メガネのそういうところ、尊敬する」
「いや、でも、あの子は家から出ないし、特に手はかからないよ。だってほら、私の妹は、」

 引きこもりだから。
 雰囲気を変えるために冗談めかして言ったつもりだった。しかし私の言葉を聞いた新菜は、少しの沈黙のあと「大変だね」と神妙そうな表情で呟くように言った。強い風が私たちの間を通り過ぎていき「いや、違うの、そういうつもりじゃなくて」言い訳混じりの私の言葉をさらっていく。
 頭の中で、様々な声がした。後悔、叱咤、懺悔。唯一の親友を失うのではないかという恐怖。胃液とともにせり上がってくるそれらを必死で飲み込み、慌てて私は記憶の引き出しを開けまくる。今の状況を打破する話題がなにかあるはずだ。

「――そういえば、メガネ、この間面白いこと言ってたね」

 確か、牙の生えた怪物が出てくる詩がある、って。
 意に反して、空気を変えたのは新菜のほうだった。詩の話などした覚えはなかったが、蜘蛛の糸とばかりに垂らされたそれを「言ってたね!」と掴み取る。



 ―2―
 
 頭を掻きむしりながら、周囲を見回す。
 おそらく工場になる予定で建設されていた建物のようだが、作業再開の様子はなく、荒廃している。人の気配は感じられない。それでも油断は禁物だ。神経を尖らせながら目的の場所へと移動する。
 俺の使命は、犯人を見つけて殺すことだ。
 物心ついたときから『理解』していた。寝て起きて食って排泄して、自慰の延長に犯人捜し。
 俺はまた、手で髪を乱す。それが癖だからだ。もう一つの癖は、踏みつぶした靴の踵を、さらに虐めるかの如くコンクリートに擦りつけながら歩くこと。悪ぶっているのではなく、犯人のせいで足が悪いのだ。

「っう……!」

 頭部に走るするどい痛み。犯人の顔を思い出そうとすると必ず起こる現象だった。いったい、どれほどのショックを受ければこうなるのだろう。なにもかもが不明だが、憎しみだけは『理解』している。
 俺はたまらず頭を掻きむしる。

「……殺す……絶対に殺してやる……」

 コンクリートブロックの残骸を避け、身体を左右に揺らしながら足早に進む。足を引きずる耳障りな音が、寒風に混じって鼓膜を叩く。
 そうしてしばらく歩いていくと、別世界のようにひらけた場所があった。大きく抜けた天井。真下にはドラム缶がいくつも並んでおり、静かに夕陽の光を浴びている。
 右から三つ目だ。俺は目的のドラム缶に歩み寄り、背後に回り込んだ。穴が開いていて、その中に――。
 俺は悲鳴をあげた。勢いよくなにかが飛び出したのだ。上がる心拍数。神経を逆撫でするように寒風が顔面を撫でる。
 再び思考が動き出すまで、数秒。
 落ちくぼんだふたつの瞳が、こちらをじっと見据えていた。俺は穴に手を突っ込んだ。中に隠しておいたそれを掴み、狙いを定めて空を切る。
 引っかかるような手応えがあったが、足元のそれは機敏に身体を翻して、影の中へと消えていった。
 手の中に残ったのは血の付いた大きなガラス片だけ。俺は強く舌打ちをする。
 いま逃げたばかりの猫のように『犯人』に素早く攻撃をかわされたらどうする? 
 夕陽の光を吸って赤々と輝く鋭利な凶器。
 拘束し、体重をかけて先端を沈み込ませれば、死に至らしめることができるかも知れない。だが、顔も知らない相手をどうやって追い詰めれば良いのだろう。
 次第に、ズキズキと頭が痛み始める。
 こんな粗末な計画ではダメだ。
 なにかもっと、決定的な案を見つけないと。

「絶対に殺してやる」

 地面に血が滴った。握り締めた手のひらに、しっかりとガラス片が食い込んでいる。

 
 
 ―3―
 
「メガネがこんなに面白い子だったなんて、もっと早く気付きたかった」

 換気のために開け放した窓から、吹奏楽部の奏でる音が入り込む。がらんとした教室。日直である私は、黒板に明日の当番の名前を書きながら新菜の話を聞いていた。「ごめん、もう一回言って」とせがむと「今の絶対聞こえてたでしょ」新菜は愉快そうに笑う。

「もっと早く気付きたかったって言ってるの。卒業まで二週間もないんだよ。高校、二人とも受かるかわかんないし、最後になるかも知れないじゃん」
「怖いこと言わないでよ」
「自己採点、ギリギリだったんだもん。もうだめかも」

 そう言って新菜は机に突っ伏す。
 私が神崎新菜と仲良くなったのは、三年生になってしばらくしてのことだった。一、二年生のときも同じクラスだったが、引っ込み思案な私にとって、クラスの中心的存在である新菜に声をかけるのはとても難しい。ようやく勇気を出せたのが、志望校に願書を提出した今年の一月だ。

「そういえば、お昼ご飯のときに話してくれた映画の続き、聞かせてよ。途中だったでしょ」

 私の言葉に、新菜は机から顔をあげる。

「聞かせて欲しいって……もうオチくらいしか残ってないよ。良いの? 言っちゃって」
「うん。見たいけど、いつ見られるかわかんないし。新菜から聞くの、面白いから」

 本当はちゃんと見て欲しいんだけどね、と新菜はいつもの前置きをしてみせる。ネタバレをしたくない気持ちと、誰かに話して楽しさを共有したい気持ちがせめぎ合っているらしい。映画好きの新菜らしい反応だが、すぐに子供のように無邪気な表情になった。
「ヒロインが殺されちゃうところまでは話したんだっけ? 誰が犯人か、この時点では――」

 私は新菜の声に耳を傾けながら、窓の施錠を開始する。
 窓枠に手をかけると、吹奏楽部が奏でるトランペットの音が、何度も同じ場所でつまずいていることに意識が向いた。少し前に戻っては、同じフレーズを繰り返している。何度も、何度も。私の目の前には、冬を引きずったままの冷めた景色が広がっていて、夢の中にいるような、どこか間延びした心地がした。トランペットの音。また繰り返し、最初から。終焉など迎えず、過程だけが延々と続く。

 ――怪物を知ってるか。

 頭の中で声が反響した。新菜の声。いや、自分の声かも知れない。声は内側から響き、ぐわんぐわんと次第に大きくなっていく。

 ――確か、牙の生えた怪物が出てくる詩がある、って。

 新菜が話している。私がそれを聞いている。
 過去のようで、未来のようでもあった。怪物を知ってるか。問いかけが繰り返される。私は答えを探した。知っていることと、知らないこと。
 怪物なんて知らない。詩なんて話した覚えがない。
 私はいま、どこにいるのだろう。

「――ガネ! メガネってば!」

 視界いっぱいに新菜の顔があり、思わず私は仰け反った。

「もうっ! 全然聞いてなかったでしょ!」

 眉をつりあげ、頬を膨らませて新菜は怒りを現わす。「聞いてた、聞いてたよ」私は弁解の言葉を並べ続ける。

「絶対ウソ! それなら犯人が誰だったか言ってみてよ! ヒロインを殺した男の正体は? 言えないでしょ!」

 両肩を掴まれ、前後に揺さぶられる。脳が掻き回される心地がして、軽い吐き気を覚えた。いつの間にかトランペットの音は止んでいて、新菜が私を見つめている。

「罰として今度一緒に映画見に行くの刑ね」
「わ、私、お金持ってない」

 本当のことだった。私の家は貧乏で、映画館なんて一度も行ったことがない。

「ニーナがおごる。お年玉崩して、絶対に一緒に見に行く」

 真剣な眼差しだった。
 二人きりの教室。窓から入り込む冷気に、私はぶるりと身震いする。「ねえ、メガネ」新菜の息が、私の顔に吹きかかる。

「ニーナ、ずっと思ってた。メガネってさ、さっきみたいに急にどっか行っちゃうときあるよね」
「そ、そうかな」
「ぼーっとしてるっていうか……ここにいない、って感じで……」

 言われてみればそうかも知れない。新菜の瞳が、わずかに揺らぐ。

「……もしかして、ニーナと話すの、ダルい? 友達にならなきゃ良かったって思ってたりする?」
「違う」

 私は声を絞り出した。

「違うから。私はずっと、新菜と友達になりたかったし、これからも一緒にいたいと思ってる」
「本当?」

 新菜は不安そうに質問を重ねる。

「本当」
「どっか行っちゃわない?」
「行っちゃわない」
「本当?」
「本当だよ」

 気まずさを感じた私は「掃除も終わったし、帰ろうよ」逃げるように身体を動かした。残り全ての窓を施錠していく。
 新菜はまだなにか言いたげだったが、私から映画の話題を振られると、すぐに嬉しそうに話し始めた。帰り道では腹を抱えて笑うほどに盛り上がり、ひとまず私は安心する。
 


 ―4―
 
 愛撫をする手つきと同じく、男の息がねっとりと少女の肌に吹きかかった。
 少女は長い睫毛を震わせ、腕を伸ばして目の前の男を招き入れる。閉めきったカーテンからわずかに染み出る月の光。彼ら以外、全ての人間が消え去ってしまったかのように静かな夜だった。

「知由里」

 男がそう呼ぶと、少女は自らの名前を吸い込むかのごとく、勢いよく相手の唇に吸い付く。ぐちゅぐちゅ、じゅるじゅる。およそ見た目には似つかわしくない下品な音を立て、少女は男好みのキスをしてみせる。

「知由里、もっと俺のほうへ身体を寄せろ」

 命令通り、なめらかな肌を猫のようにしならせ、男の身体にこすりつける。すぐに無骨な手が少女の慎ましい乳房を乱暴に揉みしだき始めた。先端を摘まんで引っ張ると、少女は悲鳴をあげて身体を仰け反らせる。

「可愛いなあ知由里は」

 男は嬉しそうに愛撫を続ける。

「俺たちは夫婦だ。夫婦ってもんは、ひとつにならねえとな」

 二人には大きな年の差があった。だが、何度も身体を重ねた甲斐あって、少女の身体は男を受け入れるための器へと変化している。

 ――生きとし生ける者全て、使命を持って産まれてくるんだと私は思う。

 誰かがそんなことを言っていた気がする。
 少女はそれが誰であったか思い出そうとしたが、身体の中心を一気に貫く感覚に思考が乱された。少女に使命があるとすれば、それはおそらく、夫の命令通りに動く可愛らしい人形でいることだろう。
 使命は常に果たされている。

「知由里、好きだ。愛してる」

 少女はたまらなくなって男の背中に腕を回した。狂ったように目の前の顔を舐め回す。男は小さくうめき声をあげた。膨張しきったそれが妻の中ではじける。
 

「――終わった?」

 部屋の隅から声がして、少女はそちらに意識を向けた。少女の隣には、萎縮した性器を露出させたままの男が、大きないびきをかいて眠っている。見るからに湿っぽい万年床。漂う、精液の匂い。

「りぃちゃん、大丈夫?」

 声の主は少女の返事を聞くよりも早く、質問を被せてきた。眼鏡の奥から覗く虚ろな視線。

「りぃは、だいじょうぶ。おねぇちゃんはだいじょうぶ?」
「私は大丈夫」

 何百回と繰り返した無意味なやりとりだった。それでも少女にとっては、眼鏡の女が自分を気遣ってくれていると感じられる瞬間が欲しかった。もっと話したい。だが、身体は次第に脱力感に溢れ、どんどん、まぶたが、重くなっていく。

「きょうもぱぱ、りぃのこと、すき、あいしてる、って、いってくれた」

 少しの沈黙のあと、眼鏡の女は「りぃちゃん、眠いでしょ」とだけ囁いた。そう言われると、どうしようもなく眠くなってくるのだから不思議だ。

「ねむい」
「じゃあ寝よっか」
「うん、おやすみ、おねぇちゃん」

 全てが無意味なやりとりだと、眼鏡の女は思った。



 ―5―
 
「俺に用ってなんだよ」

 呼び出されたとき、嫌な予感がした。こいつとは産まれたときからの付き合いだ。月の光が差し込む未完成の工場。並んだドラム缶を前にして、女は「言わなくてもわかるでしょ」と視線を投げる。

「嫌だ」

 吐き捨てるように言うと、女の視線が鋭くなった。

「まだなにも言ってない」
「わかってんだよ、お前が言いそうなことくらい」

 こいつはいつだって、大人しそうな外見からは想像できないような突拍子もないことを言い出す。
 女は数あるドラム缶の中からひとつを選び出すと、静かな動きで俺が隠していたガラス片を引きずり出した。
 どうして知っているのか、いや、こいつなら知っていてもおかしくはない。女の顔面にかかる眼鏡のレンズのように、するどい切っ先が月光を吸ってあやしく光る。

「これを使って、人を殺して欲しいの」
「お前、こんなガラスで人が殺せるわけないだろ」

 二人の発言はほとんど同時だったと思う。女がニヤリと笑うのが見える。ひどく不快な気分だった。

「わかってるわよ。こんなんじゃ、人は殺せない」

 言いながら、尖った先端を指でなぞる。

「……お前、俺になにをさせるつもりだ?」

 女がガラス片を放り投げた。俺は咄嗟に肩を縮めて、砕け散る音にそなえる。しかしそれは予想を裏切り、地面に転がるだけだ。女は俺の様子に、また笑った。たまらず舌打ちをする。

「なにも一方的な相談じゃないの。私に協力してくれたら、あんたのやりたいことを手伝ってあげる」
「……やりたいこと?」
「そう。私、あんたが探してる『犯人』、知ってるわよ」

 さすがに動揺を隠せなかった。
 なぜこの女は、俺の知らないことを知っている? 問いただしたい事柄が山ほど浮かんだが、犯人に近付いたせいか頭痛がひどくなり、俺は考えを遮断する。

「……あいつはどう言ってるんだ」

 代わりに問いかけた言葉に、今度は女が狼狽える番だった。
 こいつがなりふり構わず動くときは大抵『あいつ』を守るためだ。
 おそらく、人殺しは目的ではなく手段。案の定、女は目をそらした。「そうか」と俺は言う。なるほどな。

「……仕方ないじゃない。あの子は意思の主張ができないんだから。誰かが代わりにやってあげなきゃ」

 『あの子』は俺にとっても妹のような存在だった。誰よりも優しい人間で、他人を殺すくらいなら自分が死ぬと平気で言い出す。誰よりも優しくて、誰よりも、臆病者。
 俺の思考を読んだのか、眼鏡の女が言葉を重ねた。

「あの子も私と同じように、もうすぐ学校を卒業して、次のステージに行く。だからその前に邪魔なものを消してあげなくちゃ。誰かが、綺麗にしてあげなくちゃ……」

 俺は髪を掻きむしる。

「お前がやれば良い」

 どこかから猫の鳴き声がした。飢えて腹を空かせているのだ。だが、俺にはくれてやるものがなにもない。女は少しの沈黙のあと「私の使命じゃない」と言った。

「……確かにそうだな」

 こいつも人を殺すような女には見えない。
 俺は両手で身体をこすった。白い息がこぼれる。
 俺ひとりでは、犯人に近付くことすらできないのだから、こいつの言うように、誰かに頼るのは悪い話じゃない。

「貸しだからな。ちゃんと俺のときにも、協力しろよ」

 言うと、眼鏡の女は頷いた。

「それじゃあ、教えてあげるわ。あんたが探してる『犯人』の名前――」

 言い終わると「そういうわけだから、持ってきて欲しいものがあるの」と言葉を続ける。珍しく、心の底から笑っているようだった。
 


 ―6―
 
「明日で卒業かー……三年間って、ほんとにあっという間」

 前日に日直なんてツイてないよね、と神崎新菜は親友のメガネに愚痴をこぼしながら、教室の後片付けをしていた。黒板には『祝卒業』の文字とともに、みんなで書いた名前やイラスト、メッセージが添えられている。

「そうだね、私も、あっという間だった」

 メガネはポラロイドカメラで撮った一枚の写真を眺めながら言った。黒板に新菜が書いた、二人で手を繋いだイラスト。その前で、そっくりそのまま同じポーズをして撮ったものだった。最初は恥ずかしがっていたメガネだったが、こうして嬉しそうに眺めているのを見ると、頼み込んだ甲斐があったな、と新菜は嬉しく思う。

「卒業式が終わったら、合格発表だね。同じ高校、通えるかな」
「何度も言ったじゃん。絶対大丈夫だって」

 メガネは顔をあげ、困ったように微笑んだ。

「……メガネ、どうしたの?」
「え? なによ、急に」
「いや、なんか、泣きそうな顔、してる気がして」

 新菜は思ったままを口にした。二人の視線が交差する。メガネの目は少しもうるんでいなかった。

「いまから泣いてたら、明日の卒業式どうするの」
「見間違いかあ」

 それでも新菜には、目の前にいるメガネがいつもと違った雰囲気をまとっているような気がして、違和感が残った。

「ねえ、かけてる眼鏡変えた?」
「変えてないよ。なに? 新菜こそどうしたの」
「……おかしくなっちゃったのかな」

 言いながら、前にも同じように感じたことがあったなと新菜は思った。
 いつだったか。確か、三年生になって、初めてメガネに声をかけられたときだ。
 いつも教室の隅で本を読み、誰とも話さずに過ごしている生徒。だがある日突然、活発に話すようになったのだった。
 違和感しかなかった。それまでかけていなかった眼鏡を急に着用し始めたのも不気味だった。だが、話してみると不思議と波長が合い、違和感などすぐに感じなくなった。
 きっとメガネのプライベートな部分に変化の理由があるのだろう、と新菜は思っている。追求しないのは、せっかくできた友情関係を壊したくないからだ。親しくなってからわずか数ヶ月だが、二人はまごう事なき親友だった。
 父子家庭で妹がいる。そして、映画と詩が好き。あとはこれから知っていけば良い。

 ――受験に落ちて『これから』がなくなってしまったら? 

「メガネ、悩み事があったら、相談とか、してくれて良いんだからね」

 たまらず新菜は言った。返事がない。恐る恐る顔を覗き見ると、きょとんとした表情でメガネが新菜を見ている。

「そんなこと言われたの、初めてだよ」
「初めてって……ニーナ、前にも言ったことあるよ」
「そうだったっけ?」

 会話がすれ違っているような気がした。「ねえ、メガネ」問いかける。

「前に話してくれた怪物の詩って、覚えてる?」

 確か、牙の生えた怪物が出てくる詩。言い終わるよりも早く「怪物の詩!」メガネは食いついた。

「覚えてるに決まってるじゃん! あたし、あれすっごく好きだからね! 親友には教えてあげるって決めてるの」

 親友、と言われたことが嬉しくて新菜は「そっか」と頷いた。不安が一気に消し飛んでいく。メガネはそんな新菜の心の機微を悟ったのか、顔を覗き込むと「これからもずっと友達でいてね!」と言葉を続けた。
 大好きだよ、とまで言ってのけるものだから新菜は顔を真っ赤にして「もう!」と笑った。
 夕陽に照らされた二人。同じ高校に通えなかったとしても、きっとこの友情は永遠に続くだろう。いや、私が続けさせてやる。互いにそう誓い、帰り道を歩いて行く。
 ふと、メガネが足を止めた。新菜が振り返ると、メガネは自分のかけた眼鏡を執拗に直している。納得したのか、すぐに追いついてきた。


 
 ―7―
  
 怪物を知ってるか。
 そのとおり。
 するどい牙が生えている。
 憎い奴の一人や二人。
 牙に食わせて殺してしまえ。
 お前の理性は、いま俺が食った。
 
 
 とても良い卒業式だった。
 あまりにも新菜が声をあげて泣くものだから、私もつられてたくさん泣いてしまった。泣き顔のまま写真を撮り、クラスメイトみんなで卒業アルバムのフリーページにコメントを寄せ合った。新菜と仲良くなったおかげで、みんなが私に話しかけてくれた。

「これから打ち上げに行くけどメガネもどう?」

 目を赤く腫らした新菜に誘われた私は「妹を迎えに行かなきゃいけないから」と答えた。

 
「これで全部か」

 最後の一本を押し入れに詰め込む。

「度数の高い酒なんてなにに使うんだ。まさか、家に撒いて燃やすってんじゃねえだろうな」

 ずらりと並んだ酒瓶は、俺が近くの酒屋から盗んだものだ。というか、それを詰め替えたもの。外側は眼鏡の女の父親が愛飲しているらしい焼酎の銘柄だった。
 立ち上がろうとして、痛みに膝をつく。何度もアパートの階段を行き来させられたせいで、悪い足がさらに悪くなった。「家なんて燃やすわけないじゃない」と背後から声が飛んでくる。

「そんなことしたら、私たちが罪に問われちゃうでしょ。手を汚さずにあいつを殺すの」
「そんな魔法みたいな方法があるなら、さっさと教えて欲しいもんだな」

 実のところ、すでに方法は聞いており、準備は完了していた。決行日は今日だ。こいつの父親の帰宅が夜になるため、無駄話で時間を潰している。
 ふと、頭によぎるものがあり「怪物を知ってるか」と口にした。眼鏡の女が怪訝そうな顔で俺を見る。

「怪物? そういえば新菜……私の友達もそんなこと言ってたわね。牙のある怪物の詩が、どうとか……」

 女は眉間に皺を寄せた。それがどうしたのだ、と会話を促している。

「ほら、俺の親父、昔は詩人だっただろ。最初こそ売れてたみたいだけど、すぐに食っていけなくなって、今は別の仕事をしてる。その親父が書いた詩のひとつに怪物の詩がある」

 短い詩をそらんじてみせると、眼鏡の女は「それから?」と催促した。俺は面食らった。続きを求められるとは思っていなかったからだ。「それだけだ」「そう」素っ気ない声。

「どういうつもりで怪物の詩を書いたのかしら」
「作者の気持ちを答えなさい、ってやつか?」

 茶化して言ってみたが、眼鏡の女が乗ってくる様子はない。頭上のアナログ時計に目をやる。午後九時。予定では、あと一時間もすれば帰ってくるはずだった。なにを話して時間を潰そうか。逡巡していると、女が口を開く。

「ねえ、あんたって、自分の両親が結婚したきっかけって知ってる?」
「なんだよ、急に」
「後学のために聞いておこうと思って」

 時間を持てあましているのはお互い様、という表情だ。俺は頭をかきむしった。両親に対する記憶はひどく少ない。
 少しの沈黙。立て付けの悪い玄関扉から隙間風が吹いてきた。

「父親の詩がきっかけだったはずだ。母親は精神的に弱くて……詩に、救われた、って」
「それじゃあ、お父さんはお母さんのどこに惹かれたの?」
「……見た目じゃねえかな。子供の俺から見ても、すごく綺麗な人だった、らしい」

 出て行ったからあんまり覚えてねえ、と俺は言葉を続ける。原因は? と、眼鏡の女が視線で問いかけてきた。

「俺の身体が原因だ」

 足元に目をやる。女も、つられて俺の足を見る。

「……母親、いや、母さんが留守の間に、知らねえ奴が家に入ってきた。俺はそいつに……なにかされて……母さんの姿は、それっきり見てない」

 だから俺はその犯人を憎んでる。
 眼鏡の女は、俺の言葉を聞いたあと、しばらく考え込んでいた。
 やがて口を開き「知らないことと、知ってることが、混ざってる」と言った。
 俺もそうだった。

 
 玄関扉の向こうから、カンカン、と。
 風の音に混じって、階段を昇る音が聞こえる。「答え合わせは後」眼鏡の女が静かに移動し始めた。
 父親の足音だ。
 俺は押し入れを閉め、最後に「他の奴らは納得したのか」と問いかける。

「大丈夫。あの子を守るためだって言ったら、みんな納得してくれたわ。知らないのは、りぃちゃんだけ」

 二階建てのアパート。左端の部屋。近付いてくる、足音。

「……計画通り、進んでくれると良いんだがな」

 足音がぴたりと止み、鍵、が。

「怪物次第よ」

 そう言って、眼鏡の女は目の前から消えた。俺は、足元に寝ている少女に声をかけ、眼鏡の女のあとを追いかける。



 ―8―
 
 妻が帰ってきたのは何年前のことだったか。いっそ死んだのでは、と思っていた矢先の出来事だった。
 知由里が家出しようなどと考える理由は思い当たるだけでも三つある。全て夫である勇次に対する不満で、ひとつは、稼ぎが少ないこと。ふたつめは、でぶで不細工であること。みっつめは、ひどく嫉妬深いことだ。
 誰が見てもうっとりするほどの容姿を知由里は持っていた。散々周りから、勇次と結婚したのはなにかの間違いだと言われたものだ。自分でも最初はそう思っていた。だが知由里は「勇次さんの書く詩に救われたの」と嬉しそうに言い続けた。この女のために死ぬまで創作し続けよう。勇次は永遠の誓いを立てた。

 
「お前の注ぐ酒は美味いなあ」

 食道と胃が燃えるように熱い。全身から汗が噴き出し、頭はぼうっとしていた。それでも勇次は、空になったおちょこを傾け、妻が両手で持つ一升瓶の口を迎える。
 焦れったい、と思った。知由里の身体は若く、張りつめた肌はどこもかしこも美しい。家出している間、どれだけこの身体を他の男に捧げたのだろう。嫉妬が勇次の内側から込み上げ、性欲に変わる。ぐっと妻の身体を引き寄せた。

「ぱぱ、くすぐったいよぉ」

 どんな経験をすればここまで豹変するのだろう。昔は『勇次さん』と呼んでいたはずが、戻ってきた妻は『ぱぱ』と呼ぶようになっている。勇次の心がざわついた。妻の全身を嗅ぎながら、服を脱がしていく。

「りぃちゃんねえ、ぱぱにさわられるの、だいすき」
「本当か? 俺が喜ぶから、そう言ってるんじゃねえのか」
「ちがう。ほんとうにすき。だから、ぱぱのすきなこと、してあげる」

 知由里はそう言うと、正座した足をぴったりと閉じ、豪快に一升瓶を逆さにした。股間にできた三角の隙間がおちょこ代わりだ。痴女。だが、とてつもなく勇次を興奮させる。若くて美しい妻が、夫のためを思ってここまで身を差し出してくれる幸せ。溺れるように勇次は妻の下半身にむしゃぶりついた。ごくごくと音を立て、あっという間に飲み干していく。

「もっともっと。まだまだあるから」

 知由里は愛おしそうに夫の頭を撫でた。いつも飲んでいるはずの焼酎が、今日はやけに美味く感じる。ぐらぐらと揺れる視界。なりふり構わず、勇次は妻の愛を受け止める。

 
 なにが起きたのか。
 頬にざらつきを感じ、それが、ささくれだった畳の目だと気付いて、ようやく自分が知由里に突き飛ばされたのだと知った。勇次は朦朧とした意識の中で、妻がのたうち回りながら叫ぶ姿を見た。

「やだ! こないで! さわらないで!」

 狂乱とばかりに知由里は四肢を振り乱している。
 湿った煎餅布団が巻き上げられ、勇次の身体にぶつかる。激しい声に痺れる鼓膜。足が飛んできて、衝撃が顔面を打つ。

「ごめんね、りぃちゃん、お願いだから、大人しくして」
「あたしが押さえておくわ」
「ありがとうございます」

 誰に話しかけているのだろうか。知由里は時折、別人のような口調で宙に呼びかけている。「やめて!」繰り返す叫び。なにかから逃げるように、妻は強く抵抗している。
 勇次はただ、為す術もなくそれを見ていた。血の味がして、痰と共にそれを吐き出す。酒が全身に回り、起き上がることもできない。
 知由里の丸くて可愛らしい目が、吊り上がっていた。
 勇次はただただそれを見上げた。妻は、頭をかきむしりながら「よぉ、親父」と笑う。

「眼鏡の女から聞いたぜ。お前が犯人だったんだってなあ」

 身体が持ち上がる。胸ぐらを掴まれていた。息が苦しくて、勇次は咳き込む。知由里の顔がぐっと近付く。

「なんで俺だけその記憶が共有されてねえのか……理由は簡単だ。犯人を勝手に殺されちゃ困る。俺は、しかるべきときに備えて用意した武器みたいな存在ってことだ」

 知由里はニイと歯を見せる。それにしても、と続く言葉。

「骨の柔らけえうちから仕込んでりゃ、そりゃ股関節どころか足まで壊れちまうよなあ。身体の不調も俺だけの『使命』ってんだから不公平なもんだぜ」

 まあそれが、俺に与えられたもんなんだから全うするしかねえけどな。

 「知由里」と、勇次は回らない呂律で呼びかけた。

「なあ、もういい加減、俺を母さんの名前で呼ぶのはやめてくれ。虫酸が走る」

 知由里は押し入れに並んだ一升瓶を手に取ると、勇次の口にあてがい、一気に流し込んだ。勇次は身体を痙攣させて抵抗したが、屈強な男のように知由里の腕はビクともしない。

「俺の名前は『里奈』だ。母さんが留守にしている間に、お前が犯した一人娘の名前。覚えてるか? あんたがどうして俺を犯したのかは知らねえ。だが、それを知った『知由里』は首を吊って死んだ」

 真実とともに強制的にアルコールが流し込まれていく。

「もっと近くに身体を寄せろよ、パパ」

 目の前がチカチカと明滅している。息をしようと必死でもがく、その隙を突いて、次から次に胃に押し込まれる。致死に至るまで。音も、感覚も、なにもかもが、掻き回される。
 聞こえる声。

「あなたとの子供なら、愛せると思った。でも、私は、私だけの詩をあなたに求めていた」

 俺はただ、知由里を救いたかっただけだ。



 ―9―
 
 ぼんやりとした視界の中で、何十人もの人がわたしを見ていた。里奈、と誰かが言う。お母さんの声がした気がして、首を横に振った。
 お母さんは五歳のときに死んだ。お父さんと遊んだ次の日、家の天井にぶら下がって冷たくなっていたのだ。それからなにがあったんだっけ。
 たまに誰かが肩を叩いて起こしてくれたり、物音で目が覚めることがあったけれど、ずっと眠っていたし、いまもすごく眠い。薄く目を開け、周囲をうかがう。

「久しぶり、里奈」

 眼鏡をかけた長身の女性が私に話しかけてきた。

「ようやくこの日を迎えられる。私にとって、これ以上の幸せはないわ」

 すすり泣く声が聞こえて、視線をそちらに向けた。足元に小さな女の子が縋り付いており「やだ」「ぱぱにあいたい」と繰り返していた。五歳か、六歳くらいだろうか。

「りぃちゃん、良い子だから泣かないで」

 眼鏡の女性が『りぃちゃん』を抱き上げ、頭を撫でた。わたしを取り囲む数人が同じように少女の頭に触れる。「永遠に眠るの」と誰かが言った途端、少女はスイッチが切れたかのように静かな寝息を立て始めた。また、誰かが口を開く。

「みんな、里奈を守るために産まれてきたんだ」
「でももう、大丈夫。きっと一人で生きていける」
「あとはボクたちを切り離すだけ」

 眼鏡の女性は「ねえ、あれ貸して」と言って、隣にいた青年が持っていたものを受け取った。尖ったガラス、と思った瞬間、それを首に押し当てる。
 ぱっくりと裂けた皮膚から、白いモヤのような煙が飛び出した。それはわたしの周囲を漂い、繭のように包み込んだかと思うと、鼻や口を狙ってするすると入り込んでくる。
 瞬間、目の前に映像が広がった。教室、黒板、丁寧に書き留められたノート。

「私、里奈の代わりにたくさん勉強したのよ」

 ノコギリの要領で眼鏡の女性は首を切っていく。

「発表はまだだけど、ずっと合格圏内だったから安心して。授業も全部、里奈が読みやすいようにノートにまとめてある。私がいなくなっても、きっとそれがあなたを助けてくれる」

 記憶がどんどん流れ込んでくる。

「そう、里奈が友達になりたがってた『神崎新菜』と親友になったのよ。私の『使命』ではないから、少しだけ苦労したわ。志望校は彼女と同じ。無事に高校生になれたら、カラオケとか買い物とか、ふふっ、一緒に映画とか見に行ったりするの。新菜、私がおごるって息巻いてた」

 タンッ、と小気味良い音がした。斜め前に立っていた女性が、ガラスで作られた銃のようなもので頭を打ち抜いたのだ。脳漿(のうしょう)の代わりに飛び散るモヤは一目散にわたしの身体へ向かう。
「怪物を知ってるか」わたしの口から言葉がこぼれる。
 見ていて、と少年が、透明の階段から飛び降りた。地面に叩き付けられ、はじけ飛ぶ内蔵がわたしの顔を打つ。首を絞めた男性の、垂れ落ちる糞尿が私の記憶へと変化する。
 灰色の景色に色がつくように、目の前が、鮮明になっていく。
 ほとんど皮一枚になった首で、眼鏡の女性は一部始終を見ていた。わたしが息を吸い込むと「新菜と仲良くね」彼女の身体が崩れ落ちる。
 残ったのは、深い眠りについた少女と、足を引きずる青年だけだ。

「なんでこういう重要な役回りを俺に任せんのかね、あいつは」

 転げ落ちたガラス片を拾い、横たわるわたしの目の前に青年は自分の手首を向けた。

「口開けてろよ、全部流し込むからな」

 ガラス片を押し当て、薄く張りつめた皮膚を切り開いていく。だらだら、どろどろ、煙が、わたしの顔面に垂れ落ちる。

「現実と向き合うのはツラいかも知れねえが、今日からお前は、お前の人生を歩むんだ。誰のものでもない、お前の……」

 柔らかいような、暖かいような。モヤを吸い込むたびに、愛おしさがわたしの胸を満たしていった。背後で聞こえる、少女の安らかな寝息。
 青年の指先が、とろりと白く溶けた。

「それじゃあな、里奈。二度と会わねえことを願う」
 
 ゆっくりと、上体を起こす。
 床を探ると、手になにかが当たる感触があり、わたしは無意識のうちにそれを目元にかける。
 湿った足元には目もくれず、カーテンを一気に開けた。



怪物は夜明けを知らない

怪物は夜明けを知らない

生きとし生ける者全て、使命を持って産まれてくるんだと私は思う。 ただし成すべきことを本人が理解できるかどうかはまた別の話。運良く到達したとして、運悪くビルから飛び降りたあとだったら意味がない。 その点、私は幸せ者だ。 /2019年製作。自殺がテーマのアンソロに寄稿予定だった作品です。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-22

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