モモカはぼくの恋人

 モモカはぼくの恋人だ。うっすらと青い血管が浮く生白い腕が、ぴんと伸ばされたり、左右に振れたりして、ときどき隣の子にぶつかってしまってモモカは謝る。頭を下げる動作がやけにのろいから、それも体操の一部みたいだった。菊池、と胸元に大きく書かれた体操服が、モモカは嫌いだった。名字がにがてなの、と言ったささやくような声を思い出すのとほとんど同時に、モモカの黒い髪が風になびいた。ひろがってそれから、髪の一本一本がモモカのもとへかえっていく。髪はまとめとけって言ったでしょ、とどこからか声が飛ぶ。モモカはまたゆっくり時間をかけて頭を下げた。それでまた髪が揺れて、モモカが顔を上げる前に先生は、モモカをどこかへ連れ去ってしまった。ぼくたちは俯いて、ひそひそしたりして、体操を続けた。汚れた靴の先っぽをつかむ。モモカはぼくの恋人だ。
 体育教官室という得体の知れない部屋の前で、モモカをじっと待った。モモカはあまりしゃべらないから、誰の声も聞こえない。保健室で待っていようと思ったけど、保健室の白さはモモカも苦手だったからやめた。ときどきクラスメイトが、ボールを追いかけるついでに目線を寄越してきた。もう昼休みだった。チャイムがいつ鳴るのか、そわそわしながらモモカを待った。モモカはそんなに怒られるようなことをしたのだろうか。あのきりんみたいに長いまつげが異様に恋しかった。五時間目は社会だよ、モモカ。モモカは社会も苦手だ。苦手なことばっかりだから、ぼくが手を取ってあげたいのに体育教官室に入っていく勇気がどうにも湧かない。あいつと一緒じゃないのかよ、とクラスメイトがボールをばんばん跳ねさせながら言った。ぼくは俯いて、汚れた足先をさわった。モモカはひみつの恋人だ。
 吹奏楽部の人は、なんだかもうしわけなさそうに渡り廊下を歩くな、と思った。ぼくはまだ体育教官室の前にいる。モモカは、まだ。実はさっき、立っているのがつらくなって保健室に行った。先生は思いのほかやさしくて、カーテンもピンク色だった。今度モモカに教えてあげたい。モモカは血を抜かれることも怖がった。血管がわかりやすいから、刺されたら終わりなのだと言った。保健室では血なんか抜かないし、第一モモカはモモカが思っているよりずっと不健康だろう。保健室に戻ろうかな、と思う。吹奏楽部の人たちが、楽器を大切そうに運んでいく。モモカはぼくの大切な人だ。
 日が暮れてきて、菊池という名字の人がぼくに声をかけた。五年二組の教室はどこかしら、と言うから、うまく説明できる自信がなくて、知りません、と言った。そうなの、と菊池さんは噛むみたいに言って、ぼくは気まずくてかがんだ。恋人のモモカを待っている。
 体育教官室から先生が出てきた。やっとだった。でも、モモカはいなかった。モモカをどこへやったんですか。先生は眉毛をまげて、とっくに早退したけど、と言った。どういうことですか。ぼくずっと待ってたのに。葬式、と先生は言って、あとはおうちの事情だからね、と諭すみたいに言った。モモカの家の葬式、というのは、うまく想像できなかった。名字をはがされるようなことだろうか。でもモモカは、名字がきらいだから。こんなに待っていたのに、なんにもできないのはさみしかった。なんにも聞いていないのもさみしかった。モモカはぼくが助けるんじゃなかったのか、そうじゃないなら、明日から保健室に通おうかなと思った。モモカには内緒の、真っ白なだけじゃない部屋。モモカにはひみつのぼくの恋人。
 

モモカはぼくの恋人

モモカはぼくの恋人

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-20

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