すいせい虫さん

作者はこの小説が嫌いです

猫をみていると私は人が嫌いだなということが強調されてくる。よく自分は人より動物が好きだというのだけれど、私の採点方式は減点法で片方がめっぽう低いからだろうな。
人間なんて言わずと知れたゴミで群れては群れて結局はすいせいむし。お兄ちゃんから教えてもらった言葉だ。
「お前は本を読むといい。"すいせいむし"に終わるから。」
私はお兄ちゃんを尊敬しているので"すいせいむし"はいやだ、本を読まねばとなった。
私の人を避ける厭世主義は本から、元を遡上してそれこそサケのように遡上していけばお兄ちゃんに、たどり着くのかもしれない。
また、ねこが私のベッドの真ん中で寝ている。
私は学校から帰ってきてから昼寝をするので寝ていられると邪魔なのだ。私は身をくねらせてねこを避けるように寝転がる。それに気づいたねこは起き上がり、背を思いっきり曲げる伸びをしてからひょこひょこと部屋を出ていった。さっきまでねこが寝ていた所は暖かい。

夢から覚めるときの心地はかならずしも良いものじゃない。
例えば学校。私は学校が人形劇に見えてならない。みんながみんな自分という他人を演じている。美味しくないものに美味しいといって、可愛くないものにかわいいといって。私は嘘がつけないのであるから、とても困ったものだ。まともな人間なんて必要なくてその場をやりきれればいい人間が増えてるって最近読んだ本に書いてあったかな。
中二病だなんて冷笑的になるのなら、逆に笑ってやればいい。私は、私で……
ねこが窓の外をみている。窓といっても大きめでそれをあければそのまま庭に続く。
ねこが見ている先には猫がいる。野良猫だ。
よくうちの庭にきてお見合いをしている。お見合いといっても文字通り見ているだけで、言葉は交わさない。じっとみて満足したらどこかへ去っていく。
いつのまにか現れてじっとみていると去っていく。
波のよう。無目的的。
きっと人間がこんな風にお見合いをすると笑ってみせたり動いてみせたり何かしらその時間に意味付けをしようとするんだろう。
動物をみるとよい、という感情にはなるけど反面人間が悪いという感情にもなってきて煩わしい。
彼らを相対化して苛立ってもきっと何も変わらないんだし、その"差異"によって私が輪郭を得ているのかな、とも思う。でもその輪郭は決して綺麗な物ではなくて……。

登校は気分が悪い。いつから学校は先進的で希望的なものから後進的で失望的なものになったのだろう。
晴れているとその日差しが喧しいし、雨だったりすると暗くなるし、その中で人々が無表情で電車に揺られていたりするともっと憂鬱になる。きっと私のこの感情を繊細に描写するにふさわしい日本語はなくて、ただこの実存に吐き気がする。
なぜ演技がしたい訳でもなんでもないのに演技の場へ行かないと行けないのだろう。これも演技?
仮面の下は仮面でその下も……と続いていって最終的になにもないのかもしれない。
きっと演技している時は義務的なアドレナリン的ななにかがでるから楽しさを感じるのだろうけど、それは空虚な楽しさで奥底の濁りは変わらない。
泥水をかき混ぜるだけ。
狂った振りをしているだけ。

端的に言えばこの学校を選んだことを後悔している。
嫌だ。家にいるとねこのことをそんなに好きだとは思えないけど、学校にいる時はそれが嘘のように、恋しくなってくる。ねこの絵を描いたり、なにかの拍子に猫を見るとうちのねこに似ているだとか、うちのねこの方がでかいだとか、思う。
家にいる時よりも人口密度は高いのに孤独はより感じるんだ。
すいせい虫は蛆の一種なのか。
ひとりでお弁当を食べるのはなんなのでとりあえず人の隣に座り込む。こんなことをする自分がバカみたいだ。でも、なんでもいいからアドレナリンを出さないと、とてもとても持たない気がする。すいせい虫にも虫なりの利用方法があるんだ。その時、私もすいせい虫のようになる。"変身"だ。
実はこの中に本当のすいせい虫はあんまり居なくてみんなつまんない学校でどうにか生き残るためにうちにすいせい虫を宿すのかもしれない。
人との会話なんて覚えていない。でもこれ以外にすることが見当たらないのだから、しょうがない。
役を上手く演じるにはその人になるのが一番だとなにかのドキュメンタリーでみた気がする。だけれど私は演じていることを自覚している下手な役者で、もしかしたら人との会話での笑いもうまく笑ってないのかもしれない。

下校。私は放心してスマホを覗き込む。
スマホと私は青い線で繋がっていて耳からは音楽が注入されている。私の点滴みたいなものだ。
これがないと生きていけないかもしれない。私は本以上に音楽が好きだ。勉強をする時もなにをするときも可能な限り音楽を流していて、おそらく音楽をきくのに費やした時間が一番人生の中で長いのだろう。
イヤホンの青い線から音楽という液体が流れ込む。
乗り換えのとき、人身事故の影響で電車が止まってしまった。
知ってる駅だから驚いた。同時に日が落ちて暗くなってきたのもあって不安になってきた。自分の身に関係ないものに感情移入してしまうのは悪い癖だ。分からないけど感受性みたいなものが私は豊かなんだろう。豊かといってもけっして楽なものでは無いのだけど。
現に、このようにとても不安になっている私がいる。
嫌だな。嫌だな。厭だな。
きっとその"人身"もかつては私と同類だったんだろう。仲間になれたかもしれないのに。きっとこの演技の世界に押し潰されてしまったのだろう。
私は泣きたくなってくる。ひとりで座っているのがたまらなく不安で、東京にいるお兄ちゃんにメッセージを送る。
「事故で電車止まっちゃった。ひま」
「勉強するべき」
とすぐ返ってきた。
「学校でしてきた」
「学校は勉強する所じゃないだろう」
いい高校を卒業していい大学にいったお兄ちゃんだから、言えるのだろう。まぁでもこれはきっと正しくて感情を排して勉強するのが一番なんだろうけど。
「してもあんたみたいにできないもん」
と駄々をこねる。私らしくないのは分かってる。
「俺は勉強ができない人間を軽蔑したりしない。なぜならやれば誰でもできるのは当たり前。逆も然り。方法論を模索することが一番の勉強なのだから、そういう意識をすればいいと思う。細かい勉強法は俺に聞いても合格体験記を読んでもいいと思う。そこから掻い摘んで自分のものにする」
と返ってきた。
私は無視して、おもむろに
「自殺する人ってなんだと思う?」と聞いた。
気を紛らわす効果があるかは分からなかったけどお兄ちゃんに聞けばなにか真理がわかるような気がした。
「自殺者と犯罪者は紙一重だと思っている。法律からの逸脱者が犯罪者であって、もしくは法律=倫理という法の奴隷で逸脱せずに負けた人達、またうつ病などが原因だとしたらばうつ病になるほどこの社会に適応できなかったという点での敗北者かな。関係の希薄化というものがあるけど、そういう方向の社会学的な話をしても冗長だからやめとく」
「コンテクストがよめない」
と送った。この文章の時点で冗長。
「うーん。これは某社会学者がよく例に出すけど
ジャン・バルジャンが教会の神父かなんかに救われたとき、法という枠組みが宗教という精神的な枠組みより小さいというのが自明になったろう?
それを踏まえてさっきの犯罪者の例を聞いて欲しいが、俺の一番伝えたいことはその人々は僕の、僕らと同じ人間であってもはや、まともな人間とかいう枠組みが機能しない中でそういう人間たちを法の枠組みという視点から見ないということだな。
自殺して、犯罪をして伝説になりうるというのはとてもよくある話だろう」
「なんて返信したらいいかわからないけど、おもしろいね」
「おもしろそうに思うってのが全ての始まりだよ」
……。咄嗟に思いついた話題をすぐ振った。
「あんたさ、年末は帰る?」
「別に帰る必要は無さそうだから帰らないと思う。
親や親戚とは徐々に縁を切りたいと思ってるしね」
「最低じゃん」
……。
「面白い本ないの?」
「参考書」
「私、あんたの高校に入りたかった」
「なぜ?」
「自由だし」
「自由なだけじゃないよ。自由だからおもしろいんだ。そもそもがおもしろいのに自由になるのだからもっと面白い」
「いいな。私は学校の人のこと嫌い」
「友達いないの?」
「友達はいない。知り合いだけ」
「こじらせてるね〜」
「あんたもじゃん。ってか友達を作ると人間強度が下がるんだよ。って言ってたよね」
「あー、某ラノベのセリフね。よく覚えてるな。最近思ったけどあれは、逆だよ。
人間強度が低いから友達を作る。精査すればその"友達"も友達と言えるか微妙な関係だけどね。
まぁでも某ラノベの主人公は本当に友達のような気がするね。人のために自分を投げ打つってのは本当の友達だと思うよ」
「ふーん」
「まぁじゃ、年末は帰る」
笑顔の絵文字と共に送られてきた。

年末に帰った兄はみるからに痩せていた。
お母さんもあんた大丈夫?とお節介にも言っていた。親心なんだろうと思う。
学校は冬休みであの箱庭から逃れることができるの時間的な避暑地にいるのだ。
しかしまたいつかは学校が始まるしで冬休みだといえどこうして俯瞰して見てみると心の休める気がしない。
「ほんとすみません。勝てなかったです」
友達の部活の試合、暇を持て余していたからSNSでおっていたが負けてしまったようだった。
この一言を某ラノベの画像をバックに載せていた。
私は部活に入っていないから対照的な世界が眩しくて目を細めることしかできなかった。
ねこが寄ってきて鳴く。
何が伝えたいのかわからないのがシュールだ。
撫でていると急に手を噛んできたり、走り回っているとベッドに乗って寝たりする。
雪のように白い冬毛でボリュームアップしたからだも相まってよりシュールだ。
ねこがどこかに行ったと思うとお兄ちゃんがねこの体を持って私のもとに連れてきた。
「モチモチ餅落ちてたけど……」
何が面白いのかわからないので無視したら、
私の上にそれを置く。
「かがみもち」
と言ったのが聞こえた。
私はいつの日かすいせい虫と離別できるのだろうか。
私のような人達、お兄ちゃんのような人達、自殺志願者のような人達がみんなで火星に移住してみんな好きなことをして、好きなことを語り合いながら暮らす。
そんな日々がいつからか始まって演技の必要もなくなって……。そんな日がいつからか始まったならば、私はどれだけこの生を自分を肯定できることだろう。
世界が終わる時?それとも終わったあと?
すいせい虫は地球にいて、そこでまた省き会いながら暴言を浴びせ合いながらウジみたいに暮らしている。
すいせい虫は害虫で、他人を攻撃して仲間と連帯することでしか自分という輪郭を形作ることができないのだ。そんな衛生環境の悪い場所からはやく居なくなってしまいたい、私たちのような繊細で上に上に伸びていく清潔な心はそんな場所ではもたないのだ。
もたないし、もったいない。
「知は力なり」という言葉があるけど、そんなことは無くて空気の読めなさや仲間と徒党を組んで人を虐めるのが力なり、なんだ。
もっと人に優しくすればいいのに、すいせい虫はすいせい虫だからアドレナリンの出る方向にいく。
優しさはすいせい虫の主食じゃないのだ。
全部全部、越えて脳みそだけで会話したい。
身体だったり能力だったりひそひそ声だったり嘲笑だったり、そんなものの縄に縛り付けられたら私は花瓶のように砕けてしまう。

お兄ちゃんがどうしても私を美術館に連れていきたいというから、いいよ。と返事をしておいた。
お兄ちゃんは必死に年末年始でもやっている美術館を探して私を連れていった。
美術館というのは小さい頃にしか行ったことがなかったから、初めての美術館みたいなものだ。
美術館はまったく小綺麗で強すぎも弱すぎもしない絶妙な明るさで作品を照らしている。
異世界、そんな感じがした。ここでは全てが自分を自分として表しているのに演技という感じがする。自分そのものを演じるという作品。
その作品たちに目眩がした。
また、作品に対して批評とも解釈ともとれるような言い草をして、最後には俺でも描けそう、とかいう。
あざとい笑顔につまらなそうな顔をした私を笑かそうとしているのがみえみえで気が悪い。
ないものを作るのは簡単そうで大変だなとか思う。
少し歩いて"end"という文字が筆記体で紙1面に繊細に描かれた作品の前に足を止めた。
ふとお兄ちゃんが
「芸術ってなにかって、考えたことある?」
と聞いた。そんな事あるわけないので
すぐ、ないと言った。
「昔友達と話していたけどね、
芸術ってのはガラスの破片。何かを正確に描写することであったりそんなものは狭義的にすぎない。
美術の授業だって、評価されるというのは根本的には無意味。では具体的にはなにか。それはふとした世界の一遍を少しずつ掻い摘んでできた自分という結晶を砕いた一片。触れると痛いがみていると綺麗、じゃない?人間ってのは全部経験したこと全て覚えてる訳じゃない。ある一瞬一瞬が自分を形作っているんだ。記憶の総体が自分。価値のある瞬間は永遠になる。」
価値のある瞬間は永遠になる。
この世界に天国がないならば、その一瞬は天国になりうるだろうか。そうすれば私は永遠に天国に居れることになる。私はこれで価値のある一瞬を掴むことでしか幸せという瞬間を感じられないんだ、と思った。
右手で胸ぐらを掴み、左手で殴った。
歪な形をした私の腕が端正な兄の右頬にくい込む瞬間が見えた。またその手はボロボロと崩れていって、涙の色をした破片になった。
じゃあ私たちは傷つけられて死ぬの。
声にならない程の声で言った。
「この世界を終わりにする方法ってある?」
私は涙ぐみながらに聞いた。答えは自分でもわかっていた。
「ないよ」
お兄ちゃんは笑いながら言った。

冬休みはお兄ちゃんに勉強を付き添ってもらいながら過ごした。独りで勉強するよりも賢い監視役がいるほうが全然捗るなと思った。
学年末の試験があるが、お兄ちゃんは定期試験の勉強はしなくていいとの事だったので受験勉強と模試のための勉強をしていた。意外におもしろい、と思った。
ふと母親がとんできて、「ねこちゃんを追いかけて」と言った。声色が緊迫していたからきっと逃げ出したのだろうと思った。私はシャープペンを放ってドアから飛び出そうと思っていたが、お兄ちゃんは「いつか腹空かせて戻ってくるだろ」と呑気だった。
私と母親とお兄ちゃんはねこを探し始めた。
しかし広大な世界から猫1匹をみつけだすというのは大変なことできっと無から何かを創り出すことよりも難しいと思った。
一心不乱に探してる途中、お兄ちゃんとあった。
3人でいた。どうやら地元の友達を呼んで探しているようだった。
その中のひとりが話しかけてくる。
「泣きそうな顔してるわね」
といって頭を撫でてきた。
撫でられるべきはねこの頭だと思った。
それからは夕方まで4人で探した。見つからない焦燥を嘲るかのような顔をした太陽が遠くの山に落ちていく所だった。落ちて当然だ、と思った。
さらにお兄ちゃんともう1人が「活動的」という理由で遠くの方に探しにいき、私ともう1人の女の人が細かい所まで見て回るようにした。
足が痛すぎてもう可動域がとてもとても狭まっていたがそんなこと構わずに探した。私の痛みなんかは頭の片隅にしかなかった。
「あら、かわいそうに」
私とその人は車かなにかに轢かれてぐちゃぐちゃになっている猫の死骸をみつけた。ぐちゃぐちゃになってる、というだけで目も当てることができなかった。
本当にそういうものが苦手だった。
私は泣きだした。背中を摩る感触だけが残っていた。
人間は言わずと知れたゴミだった。

いつの間にか気を失っていて気づいたら家のベッドで寝ていた。ショックで気絶したのか疲れて寝てしまったのかはわからない。カーテンからは月明かりの仄暗い光が差し込む。
隣ではねこが寝ていた。悪い夢でもみた気がした。
下の階のリビングでは楽しそうな声が聞こえてくる。
安堵した。
私は寝ぼけ眼でねこをだき抱えてリビングへ降りていった。
「毛むくじゃらなクリスマスプレゼントだな」
とお兄ちゃんが言った。
私はねこを解放して、3人の食卓を囲む輪に加わった。
私はとてもお腹が空いていた。
残り物をつまみながら彼らの話に耳を傾けた。
「…やはりアイデンティティを確立するのは肩書きではいけなくて、いやむしろ言ってしまえば自分という肩書きが必要なんだ。地域、農耕、閉鎖的、部落社会から国家主義へ、それからグローバリズムへいってアイデンティティの拡散。彼らは関係性の中でしか自己を形作ることはできないので…」
「そんなこといってるから留年するんだ。むしろ自己の融解というのがある、お前も昔言っていただろう。SNSは相手の外形的人格が無いのだから…。」
「むしろそれが良いと言ってるんじゃないか。脳みそだけ見て会話するってのはそういう…」
「実際はどうだよ。それで一般的コミュニティがなんか変わったか?地に足つけて考えろよ」
「それに関しては……」
あと2日で学校が始まる。また憂鬱な気分を抱いて機械的な自分を演じるんだろう。
すいせい虫が跋扈している箱庭で、はぐれ者ははぐれ者たちと出会ってこんな風に会話しているんだろう。とんでもない量のすいせい虫どもを掻き分けて足掻き続けて続けて、やっと出会うんだろう。
あなたは夢から覚めてたいと思いますか?

すいせい虫さん

ふだん、後書きとかいうものも前書きとかいうものも書かないのだけど一応この小説について書いておく。
"すいせい虫"は"酔生夢死"という四字熟語のもじった言葉で、僕はよくくだらない生き方をしてるやつのことを酔生夢死だな、と言う。大抵の場合、伝わっていない。
今回の小説はコナン・ドイルがシャーロック・ホームズを書くようなそんな敢えての不本意の凝結という他はない。文体も弱弱しさを憑依させた。また、できるだけ現代小説っぽい生ぬるさを回避したつもりであるが現代的な軟弱さというものは表現した。
この小説を書いてから少し経ってこのあとがきを書いているのだが、この小説の無力さに心底失望している。敢えて習作的な風味を言い訳にしているが、この文章が僕の脳みそからここへ書き記されたというのは疑いようのない、ほんとうのことである。
少し前の曲ですが「右に曲ガール」。
右に曲ガール的な人々に僕は内包されているので
こういうポスト構造主義的、いや"ポスト"ポスト構造主義的な「シラケつつ、シラケる」ノリが展開出来たらいいなと思っております。
また小説の形態がSFから次の何かへの過渡期、そんな了解を自己完結的にするべきなのかもしれない。
ライアル・ワトソン「ネオフィリア」では人間の進化は好奇心に基づいていて、例えばアフリカを出ただとか考古学的なものは全て人間の好奇心のせいである、というふうにも言っている。
僕の小説はいま、舟を漕ぎ出して新しい大陸に向かっているのかもしれない。
その舟が沈没しない限り。

すいせい虫さん

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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