いつも笑顔が溢れる仲睦まじい家族だった。妻の作った弁当を持って、子供と手を繋いで、公園にピクニックに行くのが好きだった。こんな時間がいつまでも続いてほしいと願っていた。
 しかし、男は余命宣告された。五十歳まで生きられないと医師に宣告された。あと一年も残されていない。精神的に追い詰められ、家族との会話も次第になくなっていった。
 男は酷く絶望した。風呂にも入らず、食べ物も殆ど口にしなかった。死ぬ事ばかり考えていた。
 しかし、思いがけず救いを見つけた。極楽浄土という教えを見つけたのである。極楽浄土は、男の恐怖心を少し和らげた。それ以来、極楽浄土に心酔し、ありとあらゆる浄土宗の本を取り寄せ、熱心に念仏を称えるようになり、貯金もほとんど宗教に使ってしまった。
 そんなある日、男は、ある男のことを思い出した。二十年程前に、一緒に働いていた上司で、同じプロジェクトのチームだった男である。名前は思い出せないが、鼻が特徴的だったことは思い出せた。その男を出世の為に嘘の密告でクビにしたことを思い出した。クビを言い渡され男は、唇を噛み締めていた。
 男の体が震えた。震えの原因は、罪悪感などではない。もっと自分本位な浅ましいものである。震えの原因は恐怖感である。極楽浄土に行けなくなるかもしれないという恐怖感である。人を貶めた人間は、極楽浄土に行けなくなるかもしれない。償いをしなければ極楽浄土へ行けなくなるかもしれない。男の頭の中は、極楽浄土へ行けなくなるかもしれないという恐怖でいっぱいになった。
 男はクビにした男を探すことにした。残りの少ない金で人を雇った。
 五日後、幸運な事に男の居場所が見つかった。案外近くに住んでいるらしい。早速、車で向かった。道も空いていて、三十分程で着いた。男は、クビにした男がいるとされる建物の前で立ち止まった。
 その建物を見て背筋が凍った。暗く汚くおよそ人が住んでいるとは思えない陰鬱な建物だった。蜘蛛の巣がカーテンのように張り巡らされ、建物の壁は今にも崩れ落ちそうな程、老朽化していた。男は、あたりを警戒しながらドアを叩いた。暫く待っても、返事は無かった。何度叩いても返事は無かった。男は勘弁ならなくなり、ドアを蹴って乱暴にこじ開けた。
 家に入っても静かだった。鼠一匹いない静けさだった。こんなところに人が住んでいるはずが無かった。男は諦めて帰ろうとした。その時、微かに女の声がしたような気がした。奇声のような呻き声だった。
 男はその音を頼りに、家の中を進むことにした。ギシギシと音を立てながら進んだ。木の床が腐っていて、今にも壊れそうだった。そこら中に蜘蛛の巣も張り巡らされていて、空気もひどく汚れていた。何度も咳き込みながら進んだ。しばらく進むと仏壇がある部屋に着いた。
 その仏壇がある部屋が妙だった。仏壇自体は特に変わった様子もなく、お菓子などが供えられていた。しかし、仏壇の横にある物が異様だった。棺が置かれていたのである。木でできた大きな棺である。その棺が部屋の目立つ位置に置かれていた。どう考えてもにつかわしくなく不自然だった。しかしながら、そこには確かに棺があったのである。
 その仏壇の前に老婆がいた。マッチ棒のようにやせ細った女だった。その痩せ細った女が泣いていた。何かに縋り付くように泣いていた。震えながら泣いていた。
 男は立ち止まり、バレないように息を殺した。老婆は、男に気づく素振りは一切無く、ひたすら体を震わせ泣いていた。大粒の涙が床に際限なく落ちていた。
 その状態がしばらく続いた。十分程経った。すると、老婆は体を引きずるように隣の部屋に入って行った。男は、老婆がいなくなったのを確認してから、恐る恐る仏壇がある部屋に入った。
 部屋自体はとても人が住めるものとは思えない程、臭くて汚い場所だったが、仏壇と遺影だけはとても綺麗にされていた。遺影の写真には酷く窶れた男が写っていた。クビにした男だった。
 男は狼狽した。早合点かもしれないが、もしかしたら自分のせいで自殺したのではないか。そんな不安が押し寄せた。考えても考えても、そんな嫌な不安が押し寄せた。
 男は、意を決して老婆がいる隣の部屋の扉をゆっくりと開けた。
 そして、丁寧に頭を下げ「突然の訪問で驚かせてしまってすみません。落ち着いて聞いて下さい。私はあなたのご家族を理不尽な理由でクビにしました。申し訳ございません。償いをさせて下さい。」と謝罪した。
 すると、老婆の身体が石のように固まった。ピクリとも動かなくなった。そしてゆっくりと男の顔を見た。魔女の様な大きな鼻をヒクヒクとさせながら男の顔をじっくりと見た。
 そして動かなくなった。口を開けたまま涎をダラダラと垂らした。涎が床に大量に落ちていった。男は少し腹を立てて、「聞こえていますか?」と強めに言った。
 すると老婆が急に目をカッと見開き掠れた声で「あなたが死神かい?」と尋ねてきた。男は唖然とした。女が何を言っているかさっぱり分からなかった。老婆は完全にボケているらしかった。男がこれ以上話しても仕方がないと思い帰ろうとすると、老婆が男のズボンにしがみついて「命を取るのはちょっと待っておくれ。今から棺に入るから。」と懇願した。
 老婆は棺を開けた。棺の中に布団が敷いてあった。男は驚いて「何で布団があるんですか?」と聞いた。すると老婆はさも普通そうに「ここで寝てるからだよ。」と答えた。
 男は混乱して棺を閉めようとした。すると老婆は慌てて「失礼ですよ。うちの主人に挨拶してください。」と言って布団を捲った。そこには白骨化した遺体があった。老婆は「うちの主人です。男前でしょ。」と言って布団に潜り込んだ。そして「よし、殺しておくれ。」と言った。
 骸骨に服を着せていた。見ると老婆も同じ服を着ていた。
 男はただ呆然と立ち尽くした。そして無言で棺を閉めて、一階に降りた。
 家に帰り、なけなしのお金を持って、棺屋へ向かった。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-08

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