内関



 逸る気持ちを抑えきれずにレンズを向けてシャッターを切った時の一枚のように引き伸ばされた色の流れは、自由を謳歌する抽象表現のそれである。ただし、マリー・ロージーさんが描く抽象表現は一色又は隣り合う二色以上が混然となる前の状態に留められているため、色を有していたもの(人や物など)の存在が窺える。だからその抽象表現を前にして鑑賞者がひた走る描き手の意欲に振り落とされることがなく、画面に描かれたものに対する関心を保つことが難しくない。
 モチーフはどうだろうと目を向ければ、線描と立体の異なる印象が思うままに重ねられている。その結果として著名な高祖父ポール・セザンヌ氏が描いた一枚のように物としてのキャンバスの画面に限られた空間は歪み又は厚みを増し、観る側が意識せずに抱くかっちりとした枠に収まる「絵画」というイメージは解きほぐされる。想像の手足が伸びる感覚は、さらに見事な筆致で描かれる個々の具象表現によって画家の関心を強く示し、また同時に鑑賞者の関心を一層強く引く。前述したようにブレて写した一枚のような景色が縦に横にと流れていくその世界の中にあって何故、この赤く又は青い林檎だけこれ程瑞々しく描かれたままなのか。打って変わって淡い色で整えられた静かな別の一枚に存在するこの果物群は何故これ程に綺麗に並べられ、上流から下流に向かって流れる川を思わせる、そういう勢いと力を蓄えて見せるのか。
 関心は他人に対する期待と理解への意欲を生む。現状における様々な問題点を置いて振り返れば、ソーシャルネットワークが活況を見せるのも関心という熱を利用者の内心に供給し、繋がれることへの希望を見出せるからだと考える。人と人とを結ぶ関心というパイプをマリー・ロージーさんは抽象的な色又は具体的な物として表現する。そうして様々な答えを、一枚の絵として待ち受ける。



 解釈はある特定の立場ないし価値基準に基づいて行う対象作品の一つの語り方に過ぎないのであって、他の立場ないし価値基準に基づく見方を否定しない。そのために、作品を解釈することは寧ろ作品の多面性ないし多様性を示すものであると私は考える。
 マリー・ロージーさんの絵画作品はフランスで予測不能と評価されているという。つまり、その絵画表現が難解か又は行える解釈を否定せざるを得ない何かがそこに描かれている。
 解釈が困難という評価は、表現がその内部で湛える意味内容の豊かさを示唆しているように聞こえるし、事実その評価通りに汲み尽くせないイメージが凝縮された表現は数多くある。だが一方で、意味ありげに見えるものをそれらしくコーティングした謳い文句になっていやしないか。絵画鑑賞の機会を得、思うところを文字にして書くことによって満足してしまうことを厭う意識が、目を細めて抽象表現を称える私の言葉を底意地悪く見つめる。
 表現作品に対して向けられる解釈し難いという言葉を覆う煙を払い、底意地の悪い私を理性的に又は感情的に納得させられる地金のようなものを見出せたりしないか。その疑問の糸口を探ろうと解釈した作品を見る私はきっと口を噤み、そして会場内に展示された絵画作品を物としてじっと見ている。
 代官山ヒルサイドフォーラムで開催中の『マリー・ロージー展』にある作品の中には、白の陶器のカップが置かれた画面下部から上方に向けて扇形に繁茂する植物が描かれた一枚があった。咲いた花だけでない、枝葉や蔓やらが絡まるように画面上方に勢いよく発現する様からは表現されたイメージのパワーを感じ取れる。何も注がれていないから空洞を内部に抱えるカップと、それ以外に何も描かれていない周囲の空白とが相まってイマジネーションの創造力が分かりやすく表されている。私はその構図を心から楽しんでいる、いや楽しんだ。
 と、ここで口を噤むという選択を拒みたくなる発見はある。それは下部に描かれたカップの底と接する空間に現れていた沈みであり、ひとつのカップが有する重みの表れである。
 何故?
 沈む様子から分かるのはそこが床のように硬くはない、弾力性を有しているということだけで、その正体を知れる手がかりとなるものが他にない。カップも空白も含めて描かれたもの全てが画家のイマジネーションなのだと解釈してみても、抱いた疑問は解消しない。なぜなら、そこに描かれた世界の底には弾力性という物質に宿るべき性質が与えられている。画家の頭で明滅する情報としてのイメージを超えた存在感が筆に託されている。
 ならば、それはこの世に存在するゴムのようなものか又は存在しない未知の物質なのだろう。理性に任せてこう答えてみても、しかし私は納得しない。前者に記したゴムのような物又は後者に記した未知の物質のいずれかが画面下方に存在すると想定してもその動機は解明されない。何故、画家は弾力のある空間をそこに置いたのか。カップの重量分だけ沈む描かれた世界の底と比べれば、画面上方に溢れ出る植物群の勢いはより盛んに感じられる。この点こそがその一枚の良さを十分に表しているとそこで気付ける。では、正にそのためでは?絵としての良さを増す工夫。いや、と感情的な私は再び首を振る。カップの沈みに認められる影は優しい。この部分だけを見ていてもいい、それ程に見事な静物の表現だから、それ以上の意味を見出せる(または求めたい)。だからカップを沈ませる存在が描かれるに至った動機が気になって仕方ない。だから画面下部を、それからその絵の全体を見つめ続ける。そして解だけが形にならない。
 ディーゼルに置かれた隣の一枚についても事情は変わらない。黄金色に光り輝く四個のポットの美しさから、物としてのポット表面が描く湾曲に目を移せばそこに写る景色に気付く。すなわちポットが置かれたそこは外界で、展示空間にいる私が存在するこの現実とは別の空間として、混ざり合おうとする色彩の流れに巻き込まれる事なくそこに存在している。大切な何かとして反射されている。
 いやいや、そんなトリックめいた描き方はこれまで散々行われてきた、したがってそれもまた意味ありげの枠を超えはしない。拙い知識に基づいて理性的な私は、謎に魅入られようとする感情的な私に向かって言う。
 しかしながら冷静な言葉を浴びる感情はこの絵の謎を何と言えばいいのか、悩む。ポットの曲面に歪んで写る風景は黄金色に上手く溶け込めない田園の緑陰を手放さず、二度と戻って来ない昔日と共にあり、二個のポットに角度を変えて写る人らしき色の塊が気持ちに焼かれた思い出のようにも見えてくる。この感覚に従えば、ポットに写るその景色は現実の風景ですらないのかもしれない。そのポットを見ている者の、その絵を観る私とは別人の感傷なのかもしれない。
 いや、その感傷は絵を描いた画家自身のものかもしれない。いやいや、同じ感傷をイメージしてしまった、理解してしまった鑑賞者自身のものという表現かもしれない。いやいやいや、と続いていく。その絵の中の、奥へ奥へと歩まされる。
 関心という謎。
 確信された未知。



 噛み合わせがいい方法の、いいとこ取りをするのが妥当という単純な話にならない事情が絵画その他の表現に存在するとすれば、それは絵画その他の表現に透けて見える「自身の選択」と名付けられる表現者と表現されるものとの間の関係性にならないか。なぜなら、かかる関係性の強弱如何によってはその選択が、例えば己の内の得体の知れない何かを表したくて仕方ないという動機に突き動かされたものとして鑑賞者の目を引きつけることになる。反対に、万人に受ける絵として仕上げられるからという狙いが作品の向こうから顔を覗かせ、鑑賞者の目に止まり、冷静に検分されて鑑賞者の足を早めることにもなる。そう考えるからだ。
 表現したいものを表現するにはこれしかなかったという表現者自身の確信。それがこの作品にはあるのだな、と鑑賞者側が勝手に錯覚してしまう程の緊密な関係性が作品に表れている。表現する作品を前にして「完成した」というピリオドを打てる唯一の存在である表現者が、誰よりも先んじてそう確信すること。その判断がどう表れているかが表現において肝心になるのでないか。
 抽象的表現が認められるとはいえ、マリー・ロージーさんの作品には確かにメッセージ性がある。コロナ禍の世界状況を踏まえて発する身近な連帯の大切さ、その広がりの重要性を描いた「さあ、手を揃えて」。またはピン!と限界まで伸びたリールを更に引き千切らんばかりに駆け出そうとする犬たちを描いた一枚では、野生を縛る理性への批判若しくは理性的に御す必要を感じさせる野生の無鉄砲さ又は理性と野生の危うい均衡を生きる人間への皮肉と愛を込めた一句。これらの作品は鑑賞者に見られることを強く意識している。したがって、マリー・ロージーさんは自身の作品が鑑賞者に解釈されることを想定し、また待ち望んでいる。だから彼女の作品には具体的にも又は抽象的にも関心が表現され、画面に敷き詰められている。
 こう記せば、マリー・ロージーという画家が全てを受け入れる聖人君子のように聞こえるかもしれない。しかし、彼女は画家だ。表現したいことを表現する一人だ。その意欲は並じゃないと私は思う。なぜなら、先述してきたように彼女が描く関心はときに解釈を揺さぶる。言葉で解消できない謎(ひょっとすると彼女自身も画家として説明できないもの)を美術で引き締めて提示する。作品の多面性ないし多様性を示す解釈に対して何故、そのようなことを?ここでもまた生まれる謎があり、鑑賞者はそれを上手く収められない。作品に抱く印象や感動を持って帰ろうとする言葉からはみ出るこの部分を鑑賞者は記憶し、いつまでも持て余す。この瞬間にこそ、彼女という画家の笑みが表れる。
 遊び心は誰にでも宿り、そしてもっともっとと外に向かって出掛けて行く。見たい、知りたい、聞いてみたい。なぜ、なに、なんで?一体どうして?
 具体的なものとして関心を描く画家には、自由を謳歌する表現が必要だった。自由に遊び続けたい画家においては、一緒に遊べる可能性に満ちた誰かが必要だった。その誰かと力強く手を繋ぎ、ぶんぶんと振り回して駆け回れるこの世界に在るものを、画家が誰よりも愛した。だからそれを具体的に表現した。そのために要した全てを詰め込んだ。だからこそ、一枚の絵にかかる制約をはみ出る。その出掛け方を鑑賞する誰もがそのはみ出た部分を「謎」と呼ぶ。そうして私たちはずっと遊んでいられる。イマジネーションと永遠に付き合える。
 私が最も好きになった「鳥かご」は、抽象と具象を行き来する無数の鳥たちの羽ばたきに包まれた少女と世界の双方が残像として描かれる。逆転したその発想はどこかの画家が過去において、そして今でもキャンバスに表現しているのかもしれない。けれどその表出の仕方や程度はきっと違う、「何を、どれだけ信じるのか」という自由を許された私たちの間において。
 「鳥かご」の世界で具体的に描かれた少女の足元、そこに表れた銀色のサンダルの片一方。もう一つ、力漲る木の枝に止まり、その体躯ごと意識と視線をこちらに向ける灰色の一羽は茶色を差し色とし、鋭い爪で樹皮を掴んで、じっと動かない。その周りで始動している羽ばたきと少女の歩みにイメージされる動と対比される、それらの静。
 感動相手に動けなかった私から、この一枚に贈りたい言葉だけが溢れて仕方ない。


 

内関

内関

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-12-23

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