Garland for XX(ためし読み)

 白詰草の草原は僕だけが知ってる。
 そう思ってたんだけど、ちがってたみたいだ。
 海岸沿いの小屋、岩場の大きな穴。そういう場所とおんなじで、訓練から逃げて―さぼって、ってこと―逃げこむとこの一つがここ。
 かのじょは僕に気づいてない。赤いスカーフが目立ってる。
「ねえ」
 振りむかないから肩をたたいたらからだがびくっとして、それから黒い目が僕を見た。口がぱくぱく動く。しゃがんだら逃げられた。あいだには、にんげん二人ぶんのすきま。
「どこから来たの? 会うの初めてだよね。名前は?」
 人さし指を突きつけられた。あ。これのせい?
「えっと、使わないよ」
 爪がこわかったのかも。ひらひら振って、片方の手のひらに当ててみせた。力をちょうせつすれば、傷はつかない。
「きみを食べないよ」
 笑うのは苦手だけどがんばった。かのじょは距離をつめてくる。のどに手を置いて、指でバツ印を作った。
「声が出ないの?」
 ふところから出されたノートの文字は読めない。でもかのじょに僕の言葉はわかるみたいで、手のひらが伸びてきた。どうぞ、って、首をかしげて。
「僕はフェムト。ほんとの名前じゃないけど。番号」
 手のひらは動かない。急かすみたいにくちびるが尖った。
「ほんとのは忘れちゃったんだよ。いらないから」
 どうしてかも忘れちゃってるんだけどね。そう言うと、目元をぎゅっと悲しそうにした。関係ないのに、変なの。
 かのじょは下を向いて、なにかを探す。目当てのものを僕の頭にのせる。白い輪っか、白詰草を編んだかんむりだった。すごい。これがあれば、羽根の生えたひとになれそう。
「きみが作ったの? ね、僕にも作れるかな」
 かのじょの頭にのせる。ふわふわの髪に爪がかからないように注意して。そうだ、きみのこと、ヴィズって呼ぶね。白って意味。この花にぴったり。うらやましいな。僕は灰色だから。
 僕はオオカミなんだ。
 花かんむりがほしいなんておかしいかな?


 *****


 ヴィズと会えるかどうかは半分ずつだった。訓練、ぜんぶはさぼれないから。ヴィズは毎日、なにしてるんだろう。
 最近は、文字のかわりに絵を描いてくれるようになった。この草原は見つけたばかりで、こっそり来てるんだって教えてくれた。遠い村から引っ越してきたんだって。
 ヴィズはよく僕の耳にさわる。お気に入りみたい。力を入れるとぴくぴく動くのは僕の特技だ。でも仲間には笑われる。りっぱな牙や爪もないくせに、そんなこと、って。
 肝心の花かんむりづくりはやっとスタートラインに立ったとこ。片手で束にしたのをつかんで、もう片方で一輪、付け足すみたく編む。巻きつけるの、苦手だな。束の手の力をゆるめすぎるとやり直し。そうじゃなくても、細い茎をつまんで動かすのに時間がかかる。向いてないのかも。でもやめないよ。なんて言うんだっけ。そう、天使だ。あの輪っかみたいで、どうしてもほしいんだ。できそこないのオオカミでも天使になれるかな、ってね。
「……あ」
 またばらばらにほどけた。持ってたところがしおれてる。新しい花を持って深呼吸した。花はたくさん咲いてるんだ。いくら失敗してもいい。僕が訓練でうまくできないと、仲間は機嫌を悪くするのに、ヴィズはちがう。ずっとにこにこだ。  
 どうしてってきいたら、
『冠はフェムトのもので、私のものじゃないもの』
「それでもみんなは怒るよ」
『冠とは違うでしょ。もっと大変なことでしょ。だからちゃんとわけがあるんだわ、きっと』
「むずかしいよ。僕、怒られるのは嫌いなんだ」
『好きなひとに会ったことないわよ。痛くされたりもするの?』
「たまに。でも、それも訓練だって」
 怒られるのが嫌なのはいたいからじゃない。みんなの顔が変わっちゃうからだ。眉と目がきゅうと吊りあがる。なのに泣きそうで、僕もどうしていいかわからなくなる。
 あの時間、いつものみんなはどこに行っちゃうんだろう。見張りをしてるときの引きしまった顔や、爪を自慢しあってるときの楽しそうな顔。僕はそっちのほうが好きだから、なるべく怒られないようにしたいんだ。
『訓練ではどんなことをしているの?』
 僕のもたつく手つきを見ながらヴィズはきく。
「たたかう練習とか、遠くの音を聞きわける練習とか。たまにリーダーがお話するよ。一番えらいオオカミ」
『お話?』
「オオカミでいることに誇りを持て。誰よりも気高く、そして孤高であるべし。暗記させられるんだ。ほかは昔の英雄のお話とか。誰がどんなたたかいで活躍したのかおさらいするんだ。繰りかえしばっかりで、ねむくなっちゃう」
『つまらなくたって、何も無いよりはいいわ』
 ヴィズの声が冷えた。目は僕を通りぬけて、草原も空も透かす。今日は晴れてて、空はぴかぴかの氷をはめこんだみたいだ。
『仲間がいる、信条がある、小さいけれど共有できる歴史がある。良いことよ。……私には、ないから』
 ヴィズの話は時々わからない。絵が読めないときもあれば、つながりがむずかしいときもある。それでヴィズはどっか遠くに行っちゃうんだ。怒った仲間とおんなじで。
『全部なくなったの。奪われたの』
「だけど僕は、きみの友だちだよ。なんにもなくないよ」
『……フェムトは、やさしいね』
 僕の呼びかけでヴィズはすぐに戻ってきてくれる。会えるのは短い時間だから、なるべくたくさんお話していたい。たのしいこと、うれしいこと。いたくないこと。
 いたいと苦しい。からだじゃない、別のとこがちぢんでく。
『ありがとう』
 ノートに大きな笑顔の絵。
 僕は束を落としちゃってた。へにゃへにゃだけどまだ編める。今日はもしかしたら、初めて輪っかにできるかも。
 ヴィズもなにか作ることにしたみたいで、葉っぱと花をつんでいく。平らな形だ。かんむりよりもむずかしそう。
「なにを作るの」
 人さし指が口に当てられる。お楽しみ、ってわけ。
「できたら見せてね」
 もちろんだよ。 
 ずっと下を向いてたから首すじがきしんだ。頭を後ろに倒す。空はてっぺんが白っぽくて、はじっこは濃い水色。雲を追いかけたら、後ろにぺたっと倒れちゃった。
 風が気持ちいい。ヴィスが目を丸くして覗きこんでくる。
「なんでもないよ。空がきれいで気持ちいいなぁ、って」
 こんなこと、仲間には言えない。
 いけないことなのかな。花、空、雲、風、星、森、湖、見たことないけど海もきっと。すてきなものをすてきだって思うのはおかしいのかな。みんなはだめだって言った。ヴィズはうなずいてくれる。どっちも正しくて、まちがってる気がする。
 うつぶせになって、かんむりづくりをまた始めた。茎を回す、束にまとめる、花を増やす。リズムをつかめばやりやすい。あんまり考えないとき、うまくいくのはどうして? こうしたいって思うと離れてく。まちがえる。変だ。ぜんぜんゴウリテキじゃない(これはリーダーがよく使う言葉だ)。
 訓練でもそう。昨日のことを思い出した。



 牙と爪の手入れを念入りに、って命令でぴんときた。僕たち候補生はみんなだったと思う。抜きうち試験が始まるんだ。知識の試験と実技の試験で、一人ずつ、訓練の成果をリーダーに見てもらう。こればっかりは抜け出したくても抜け出せない。抜け出しちゃ、いけない。
 前に逃げたオオカミは「特別訓練」を受けさせられたってテイが言ってた。テイはたたかいで目を悪くして、食べ物を守ったり作ったりする係になったオオカミだ。僕がさぼっても訓練員に言いつけないでくれるし、たまに新鮮な果物とかをくれる。
「それってどんなことするの。テイは見てた?」
「……話に聞いただけだ。俺のダチがそいつとも親しくてな。そいつは、お前みたいに弱虫でオオカミらしくないやつだったんだと。それなのに、特別訓練明けの戦闘ではバケモンみたいに強くなってた。不自然なくらいに」
 りっぱな戦士の話なのに、テイはため息をつく。ケガのせいで濁ったまんまの片目は、僕じゃなくてまっすぐを見ていた。
「ダチは今も悩んでる。そいつは優れた、群れで最強の戦士になって、本当に良かったのか」
「群れでいちばんすごい戦士なのに?」
「生まれながらの戦士じゃなかったからな。夜に昼間の戦いを思い出して泣くような、かりそめの戦士だったんだ。英雄になった……ならざるを得なかったそいつは、臆病なそいつが嫌いだったろうぜ。反対に、怯えてばっかのそいつは、戦好きなそいつを憎んでたかもしれねえ。憶測ってやつに過ぎねぇが。何にせよ、特別訓練で自分がバラバラになって、壊れる寸前だったのは確かだ」
「そんで、ほんとにこわれちゃったの?」
「……どうだか」
 テイはそれ以上話をしたくないみたいだった。
 僕は「試験には出るよ」って約束をして、もらった果物を食べた。真っ赤なのにすっぱい。外れだ。
 こわれちゃいそうだったのはどっちだったんだろう。臆病なオオカミ? 勇敢なオオカミ? それとも両方? もし特別訓練を受けたら僕もそうなるのかな。戦士の僕なんて想像もつかないけど。
 僕の順番は最後だった。これまでの成績順だからだ。
 外は夕日。オレンジの実みたいだな、って思ってたらおなかが鳴った。そろそろご飯の時間だ。テイの用意してくれる食べ物はみんな平等なんだ。たたかいで活躍すればたくさんもらえるけど、僕みたいなのでもありつける。今日のご飯はなんだろな。
 なんてぼんやりしてたら名前を大きく呼ばれて、リーダーと試験官が待つ場所に通された。
「フェムト。知識の試験は他の候補生よりもできていたね」
「ありがとうございます、リーダー」
「引き続き訓練に励むように。まずはこの実技だな」
「はい。がんばりま―」
「ですが! 知識を実践に活かせないようでしたら意味がありません。このまま通常訓練を課すおつもりですか。やはりここは特別訓練を」
「判断するのはわたしだ。きみは黙りなさい」
 口を挟んだ試験官が黙りこむ。リーダーは足が速くて鋭い目を持ってて、遠吠えもよく響く。年上を押しのけて一番になったから、不満なオオカミもいっぱいいる。でもかっこいいし、リーダー以外にリーダーはいないよ。
 たたかいでは敵に勝つんじゃなくて、仲間を守るために動くんだ。身内には優しいぜ、ってテイが笑ってた。テイは同い年なんだって。
 身内には。敵には厳しいんだろうな。顔にある、一文字の傷がたたかいのあかしだ。
「彼はまだ幼い。そう早まらずとも、これからの訓練次第で強い戦士に成長できる。わたしはそう願っている」
 リーダーは笑いかけてきた。たまにこう、薄く表情をゆるめるんだ。僕はこの顔が大好きだ。
「さて、実技だが。今回は本番と同じ動きを行ってもらう」
 試験官が立ち上がって僕のとなりに立った。
「倒せは言わない。倒されても困る。それでも敵だと思って向かっていけ。遠慮はするな」
 部屋のすみとすみに立たされる。
 す、とすべてが止まって。
 始めの合図。
 風圧。
 試験官の姿は、灰色のゆらぎになっていた。
 一気に距離を詰めてきた試験官の爪をあわてて弾く。反動で尻もちをついた。急いで離れる。つぎつぎに襲いかかる爪をよけるのがせいいっぱいで、反撃なんてできない。試験官は面白くなさそうに息を吐いて「逃げ足だけは褒めてやる」ってあおろうとしてきた。でも乗る余裕もない。だって、候補生との訓練ではこんなことなかったんだ。僕の出来の悪さを知っているからみんな本気にならないし、そもそも相手してくれる候補生だって少ない。
 だから忘れてた。
 敵とたたかうのは相手の命をうばうことだって。
 この爪で牙で、誰かを。 
 そう思うと、寒い日の朝みたいにからだが震えた。僕たちが安全に暮らせているのは、今日のご飯があるのは、みんながたたかってくれるおかげ。なのに僕は目をつぶってたんだ。こわい気持ちや嫌だなって気持ちに。
「群れの皆が狂った戦好きだと思っているのか」
 試験官は言う。耳をふさぐ前に声が届く。
「相手の命を屠る。自分もその運命にあると受け入れる、戦士は覚悟ができている。戦いにスリルのみを求めるのは半人前の証。誇り高き戦士は相手へ誠意を尽くすのを怠らないものだ。だがお前の弱さは自己愛の強さだ。候補生と言えど無償の恩恵などない。縋るばかりの者は何も得られない。己の手をそこまでして守りたいか」
 お願い、その先は言わないで。
「いつまで甘えている。お前だけが特別だと誰が言った」
 片腕をつかまれて投げとばされた。床との摩擦が熱い。繰りだされる爪をよけて、はずみをつけて起きあがる。右腕は簡単に払われた。左手は少しかすった。灰色の毛が空中に散らばる。毛先のもつれまでくっきりだ。
 頭の中がぐるぐるする。言われたとおりだと思った。それに、逃げてるばかりじゃ評価されない。少しでも認めてもらいたいのに。リーダーの力になれる戦士に憧れてるのに。
 でないと、いつか特別訓練を受けることになる。僕が僕じゃなくなる。
 草原をながめてる僕。無視されてる僕。戦士になれない僕。暗いとこで泣いてる僕。どれも僕のはずで、でも。明日からちがう僕になっちゃうんだとしたら、白詰草もヴィズも、今の大好きを全部なくしても、なくしたことも忘れるの?
 急に左腕が熱くなって、柔らかいとこに当たる感じがした。吐き気のしそうな生あたたかさがやってくる。
「止め!」
 リーダーの声がひびいた。
 顔がくっつきそうなとこに試験官がいて、わき腹を押さえてるのが見えた。そこだけ色が濃くなってて、毛を伝うしずくが赤黒い。試験官はその場に崩れるみたく座りこんだ。やって来た他の仲間が運びにかかる。途中、「あのフェムトが」とか「信じられない」とかが聞こえた。
 扉がしまった。へなへな、力の抜けた僕をリーダーが支えてくれる。
「よくやった。うん……些かやり過ぎた部分もあるけれど」
 ああ、そっか。あの傷は、僕が。
「最後の一撃は実に合理的な動きだった。他の候補生にも見せてやりたいところだ」
 左腕の上側を強くつかまれてぎょっとする。僕のうす灰色が赤くなって、爪に向かって液体が垂れていた。熱かったのはけがをしたからだったんだ。それまではなんともなかったのに、わかったとたん痛みだす。そこが心臓になったみたく、どくどくする。「流石に痛いか」ってきかれてうなずいて、うなずくことしかできなかった。
「彼も同様だったろう。それが覚悟の痛みだ。覚えておくんだ、フェムト。きみはよくやったし、よくやっているよ」
「ありがとうございます。……でも、僕」
「焦らずとも良い。きみにはきみの、強くなるすべがある」
 そんなふうに言われたら、これでいいって思っちゃいそうだった。リーダーが喜んでくれるなら、今の弱虫な僕がいなくなるのが一番いい、望まれる戦士になって、なんにも悪いことなんかないって。特別訓練が嫌なら、受けなくていいように自分の力で強くなるしかない。試験官だって言ってた。僕だけが特別じゃない、いつまでも候補生でいるのは無理なんだ。きれいなものに囲まれてるだけじゃ、生きてることにはならない。
 だって僕は、オオカミだから。
「まずは手当てだな。それと、今回の試験結果を考慮して……まだ正式ではないが、きみをよりレベルの高いチームに配属させようと思う。どうかな」
「僕、は」
 どこかから白詰草の香りがする。
 リーダーの微笑みが、花を塗りつぶした。
「あなたの期待を誇りに思います、リーダー」
 部屋を出るとまっくらだった。家出してたおなかの虫が帰ってきても食欲は出ない。みんなに試験のことを言ったらどんな顔をするだろう。
 窓から見える星は銀色で、研いだ爪みたいだと思った。


「……きれいなもの、この花のほかにもたくさんあるよね。僕が見たことないものも、たくさんあるよね」
 今草原に寝てる僕と昨日の僕は、おんなじ僕なのかな。もともと僕の中にはたくさんの僕が住んでて、みんながわいわい話しあって、どうするかを決める。うまくいかないと、もわっとする。ヴィズもそう?
『私がたくさん。全部が私』
「僕がおかしいんじゃなくて、それがふ……わっ」
 ヴィズができたばかりの白詰草のマントをかけてくれた。はかってないのに、大きさはぴったりだ。それから満足顔でノートを広げる。にんげんの絵、オオカミの絵、一人と一匹が仲良く手をつないでる絵。上に大きく丸をつけてから、下に二重線を引く。
『私とフェムトは仲良し。ふつうじゃない』
「うん、誰かが見たらびっくりするよ、にんげんとオオカミなんだもの。お話にもあるよね、オオカミがにんげんを食べちゃうって」
『あなたは違う。怖くない。ふつうってなあに?』
「僕にはわかんないよ。ヴィズは頭いいから、わかるんじゃない」
『頭が良く見える方法を知っているだけよ。……それぞれが持っている「ふつう」は違うのに、みんな一緒のものみたいに「ふつう」って言う。可笑しいわね』
 ヴィズは花かんむりになりかけの束をさっと丸める。僕の耳のあいだにのせようとする手を止めて、かのじょの頭にのせてあげた。ヴィズならちょうどだ。僕のマントとおそろい。僕も作れるようになったら、おそろいが増えてくね。
 ノートの次のページを開いて、
『もう少しで完成ね』
「だね。そしたら次は、マントのつくりかた、教えてよ」
 まずは早く、輪っかが作れるようにならないとね。

 誰にも知られていない秘密の抜け道を戻るころには、あたりはもう薄暗くなっていた。抜け道から調理場近くの道に出て、みんなが「星の部屋」って呼んでる資料室をめざす。
 人気のない、一番大きな訓練場の柵ごしに、大きな夕陽が少しずつしずんでいくのが見える。日が暮れて夜になって、眠ってすぐに朝が来たら、また訓練が始まる。ゆううつな気分になるなら、お休みの日なんてないほうがいいのかな。でも、それじゃあ疲れて動けなくなっちゃう。
 星の部屋のドアをノックしても返事はない。誰もいないのかな。ここを管理しているのはおじいさんオオカミだけど、いたりいなかったりする。鍵はかかっていなかったから、そっと呼びかけてみることにした。
「あのー……すみません。返しに来たんですけど……」
 そろりと部屋に入る。この本、どの棚にしまってあるっけ。小さい僕じゃ届かなくって、おじいさんに出してもらったから―
「……ひっ!」
 真ん中にあるテーブルに近よってやっと、そこになにか……じゃない、誰かがいるのに気がついた。ぼさぼさの毛布を頭からかぶって、テーブルに突っ伏してる。ここに来るのは、僕やほんのちょっとの候補生くらいだ、っておじいさんは言ってた。じゃあ、これは誰だろう。わからないけど、起こさないようにしよう。
って思ってたのに、テーブルの横にうずたかく積まれた本にぶつかっちゃった。ごとんごとん! と大きな音がして、本の山はばらばらになる。
「―……んん? 誰か来たのか……?」
 ああ、やっぱり起こしちゃった!
「ごっごめんなさい、本、借りてたから、返そうって……」
「いや、オレもつい寝てしまっていただけだから」
 毛布の下からにゅっと出た腕が、机の上の小さいランプを引き寄せて、はちみつ色の灯りをつける。僕はそれでやっと、ずいぶん暗くなっていたことに気づいた。
「あ、えっと、……え? リ、リーダー?」
 ど、どうして、群れで一番偉いオオカミがこんなとこにいるんだろう。しかも寝てた。今、ちっちゃくあくびした!
「そうそう、じいさんから留守を任されてね。久し振りに来て……ふふ。懐かしい」
 いきなりリーダーに会っちゃって、しかも、いつもと違うふわふわした感じがして。緊張のどきどきと、ぜんぜん別物のどきどきで、からだが全部心臓になっちゃったみたいだ。
「それで、何の本を借りたのかな。じいさんにはオレ……失礼、わたしから伝えておこう」
 僕は持ってた図鑑を渡した。リーダーはふむ、と表紙を眺めて、迷わずに棚へしまう。リーダーになるには、たたかいのことだけじゃなくて、こういう知識もいるのかな。
「植物辞典か。草木に興味があるのかい」
 きかれたから、大きくうなずいた。
「薬草や毒草について知っているに越したことはないね。それに、植物を鑑賞し愛でることもわれわれにとって必要だ」
「楽しむってこと、ですか? でも……」
「日々の訓練や戦闘の中で無用と言われても、わたしやきみが生きている限りは重要だとは思わないかい」
 リーダーは僕に目線を合わせて、ゆるく微笑む。
「わたしが合理性を好むことはきみも知るところだろう。けれど、優先させはしても、絶対視してはいないのさ。心を癒したり、美しいものを愛したりするのを忘れてしまっては、オオカミの矜持も風情もない獣の集団になってしまうんだよ、フェムト」
「……僕の名前も、覚えてくれてるの?」
「もちろん!」
 訓練や試験じゃ見たことない、ぱちぱちした笑い方で、リーダーは続ける。
「わたしにとって、群れの皆は家族のようなものだから」


 *****


 こんなに出来ないオオカミがいるか、って、たぶん訓練員全員から言われたと思う。
 走るのも、泳ぐのも、とびまわるのも僕はぜんぜん上手じゃなくて、群れに来たばかりのころは、今より居残りをする回数も多かった。
 あれは初めて爪を使った訓練をしたときだ。草をまとめてつくった敵がわりの人形にさえ、爪をたてられなかった。ほかの候補生はみんな帰っちゃって、僕と訓練員だけが残ったんだ。
 あいそをつかした訓練員が休憩をしに行ったときに、リーダーがやって来たんだ―大事な会議が終わったあとで、たまたま見かけた、って言って。
「きみはまだ身体も小さいし、ここへ来て日も浅い」
 からだも大きくて、たたかいになれてる訓練員とは別の方法を試すといい、って、自分の爪さばきを見せてくれたんだ。ゆっくり、僕にもわかるように。
 なんでこんな風にしてくれるんだろう、ってあのときは思ったけど、きっと、リーダーがリーダーなのは、群れのみんなのことを大切に思ってくれてるからで―
「よーう、逃げ足だけは早いフェムトちゃん」
 なんて、考えごとをしながら歩いてたら、いつも意地悪をしてくる候補生から通せんぼされちゃった。今日は訓練がぎっしりで、次は別の訓練場なのに、囲まれて動けない。
「……ど、どいてよ」
「へえ、今日は逃げないのか」
「僕だって、いっつも逃げてるんじゃないよ」
「あぁん? 反論もできるようになったのか」
「試験の成績が良かったからって調子に乗ってんのか」
 左腕が引っぱられて、ふさがりかけの傷がひきつった。あわてて振りほどこうとすると、
「楽しいお話かい? おれにも聞かせてくれないかな」
 遠くから呼びかける声がした。きりりと歩いてくるのは優秀な候補生の部隊「シリウス」のオオカミだ。他の候補生とは別行動をするときが多いから、こっちにいるのは珍しい。僕を囲んでたやつらは顔を真っ赤にすると、「いや、別に」とかなんとか言いながら逃げていった。
 腕はなんともなさそうだ。よかった。
「ありがとうございます、えっと、その」
「いい、ちょっとおどかせばあの通りさ。見掛け倒しだ」
 緑の目が細くなる。りんとした感じが和らいだ。
「君がフェムトだね? 話があるんだ。少し良いかな」
 こっちに来たのは偶然じゃなくて、僕を呼ぶため?
「でも、次の訓練が」
「ああ。それは免除だ、免除。訓練員には話をつけてある。奴ら、おれらには甘々だからな」 
「免除ってどういう……ちょっ、待って」
 どこに行くんだろ。言われるままに長い階段や入り組んだ道、薄暗い洞穴を深く深く沈んでいくと、壁沿いにろうそくの灯りがぽつぽつと見えた。彼は突きあたりの岩壁に耳をつけて「よし」とうなずく。
「ようこそ、シリウスの本拠地へ」
 岩壁が動く。フェイクの扉になってたんだ。
 って、待てよ。呼び出しをくらうくらいとんでもないこと、僕、いつしでかしたっけ? 毎日なにかをしでかしてる……けど、どうしよう。
助けてもらったからって、どうしてひょいっとついてきちゃったんだ。ひどい目にあわされたり、ぼこぼこにされたりして!
「とって食うつもりはない。とにかく座れ」
「ひっ! あぁあ、はい!」
「……落ち着け」
 扉を開けてすぐ、丸い部屋が広がっていた。入口から一番近いところに座っていた、ツヤのある毛並みのオオカミが嗄れた声で言う。
「ん。ハトレったら、まだなんにも説明してないの?」
 目が大きくて小柄なオオカミが言うと、ハトレと呼ばれた緑の目のオオカミは「今からするところさ」とひとみを回した。
「さて、まずは自己紹介といこうか。おれたちはご存知シリウスと呼ばれている、候補生唯一の小部隊だ。おれが隊長のハトレ。こっちが奇襲のトラデア。偵察のサィス」
 よくわからないままおじぎをする僕を横目で笑って、「カタいなぁ」とサィスがころころ笑う。
「そして、君もこのシリウスの一員となる」
「―え? 僕?」
「あっはっは! その反応、待ってましたぁ!」
「……試験でリーダーに言われたろう。違うチームに入れると。聞いていなかったのか」
「まさか、シリウスだなんて」
「ボクらも! キミの噂、ヒドいのしか聞かないもん。って言っても、逃げ足の速さと火事場の馬鹿力の扱いづらさは試験官たちの折り紙付きらしいよね。噂になってるよ」
「ば、ばかぢから?」
「……定期試験であそこまで気張るやつは珍しい」
 うう。言い返せないのがちょっとくやしい。
「まぁまぁサィス、トラデア。その辺にしてやってくれよ」
 ハトレが苦笑して言葉を続ける。
「いくらリーダーに候補生贔屓の気があるとしても、相応の理由がある転属だぞ。彼は……この群れで一等優しい狼だそうだから」
 やさしい? そんなこと、一度も言われたことない。
 思わず首を振ると、ハトレは小さく笑った。
「群れのものは皆、君を弱いと言う。おれもそこには賛成せざるを得ないというのが本音だ。しかし君のその、折れない弱さは強さだよ。加えて群れに加わってからの日数が浅い。長いことここにいるおれたちとは異なる視点や意見が欲しい。力を貸してほしいんだ。
 それに、フェムトにも共通点はある。おれたちは全員、彼に似ていると言われただろう。どの頃を指すかは異なれど、ね」
 おれは前線にいた頃。トラデアは今、サィスは最初期、とハトレは歌うみたいに言う。
「それで君は、候補生の頃にそっくりだそうだ。……そうなんでしょう?」
「あぁ。悲惨なくらいな」
 暗がりから痩せたオオカミが出てきた。あれ? この匂い、
「テイ! なんで? えっだって、えっ」
 ちょっとため息をついてから、テイは「よう」と肩を動かした。
 たくさんのことがあって、頭がパンクしそう。一体、なにがどういうこと?
「テイは先生みたいなものだよ。シリウスも部隊とは言え候補生だ、学ぶことはいくらだってあるのさ。手が空いた時間に戦士から教えを乞えるならゴウリテキだろ?」
「シリウスは今のリーダーになってから出来た部隊だ。存在を快く思わん戦士も多い。その点、テイさんは若いしな。理解がある」
「俺も、戦士っつっても元、だけどな。それにどう頑張ったって若くはないだろ。お前らに言われても嫌味にしか聞こえんぜ」
「っふ、おっさん呼ばわりするとむくれるくせに」
「黙れクソガキ」
「あー! 自分がおっさんって認めたぁー」
 なんだか、昔からの友だちみたいなやりとりだ。テイと一緒だと、どんなオオカミでもぱっと明るくはなやかな気分になる、って誰かが話してたっけ。
「正式にシリウスへの転属が通達される前に呼んだのは、おれたちの目的を早いうちに知って欲しかったからなんだ。手遅れになるのは許されないからね、早いに越したことはない」
 手遅れ、ってことは、これから大きいたたかいがある、ってことかな。
「でも、次に敵が攻めてくるのはもう少し先になりそうだって、その、訓練で習ったよ」
「敵の侵攻や反撃だけがおれたちの懸念事項というのではないんだ。リーダーがいつまで保つか、が重要なんだ」
 頭にハテナを浮かべたままの僕に、テイは頭を下げた。
「フェムト。あいつを助けるのに、力を貸してくれ」
 助け? 僕が? リーダーを?
「蜜の盟約、は訓練で習ったろ」
 僕はテイに首を振った。群れの歴史を勉強する時間は、たたかう訓練に比べてずっと少ない。とくに僕は群れに来た時期が遅くて、教わるのも遅かった。
「じゃあ……そうだな。あいつがリーダーになってから、群れ同士の戦闘が少し変わってきたんだ。話し合いを沢山するようになったって言や分かっかな。で、うちと昔っから小競り合いが絶えない群れがあるんだがな。あいつはそことも交渉を続けてきて、やっと停戦協定を結べることになった。この取り決めを俺たちは蜜の盟約と呼んでんだ。実際の締結はあと数か月先だ。その日まで代替わりすることなくあいつはリーダーでなくちゃならねぇ。向こうにも盟約反対派がいるからな、反故になるような隙は見せらんねえよ。前にした、特別訓練の話を覚えてるか」
「うん。すごく強くなった戦士と、悩んでる友達のお話だったよね」
 そういえば、聞いたお話っていうわり、テイはすらすら話してた。
 強い戦士とその友達。それって、もしかして。
「キミ、リーダーが最強ってマジで思ってる? あんなん、皆が好き勝手に崇め奉ってるだけだって。実際さぁ……」
 サィスは話を促すみたく、テイに顔を向けた。
「ああ。候補生の頃、俺とあいつは特別訓練を受けてな。早々に怪我をした俺は見ての通りだが、あいつは違った。戦い続けるためにもう一度特別訓練を受けたんだ。……当時は縄張り争いが絶えなかったし、かなり特殊な例だったけどな。でかい戦闘で、前線で戦っていたあいつは瀕死の傷を受けたんだ。顔にデカい傷跡、残ってるだろ。あれだけの戦士を失うのは、群れにとってかなりの痛手だった。……幸い、一命は取り留めた」
 いさましい戦士としてたたかえるように。
 三度目の命を、無理やりつないだ。
「特別訓練なんざ思い出したくもねえ。あれを二回も受けて正常でいられる訳がねぇんだよ。それでも今の役目をこなせてるのは、大体が思い込みの力だ」
 テイは軽く身震いをした。
「本来なら身体も心もぶっ壊れてて当然だ。ハトレ……隊長が言った「保つ」ってのはそういうこった。自己暗示がいつ解けるか分からねえ。締結が無事に済めばその後はいつ解けたって良い。けどもう少しの間だけ、群れの天辺にしゃんと立っててもらいてえんだ」
 リーダーがリーダーでいられるように助ける。でも、僕にはいったいなにができるだろう。シリウスのみんなならともかく、僕になんて―
 僕がもごもごしていると、急にサィスが立ちあがって周りを見渡した。耳と鼻が動いてる。
「ジャマしちゃってごめん、緊急だよ。五時の方向にいつものやつら。新人の実戦訓練で守りが薄くなってるのに気付かれた」
「またか。大きく攻めてくるつもりか」
 シリウスのみんなは、爪を確かめてから出口に向かう。
「……済まないが、テイ、俺たちは出る」
「おう。あっちはお前らの管轄だもんな」
 みんなは一気に戦士の顔つきになる。候補生だけど、年上の戦士に混じることもあるんだ。
 ハトレたちに続いて、テイと僕も訓練場に戻ることにした。通路は狭くて、みんなで一度には進めない。
「……こいつらも、いくらリーダーのためでも命賭けるまでは考えちゃいねえよ」
 後ろにいるテイの呟きはいきなりで、びっくりして転びそうになった。
「こいつらがんな可愛いくていじらしいことだけ考えてる訳ねぇわ」
「えー、ボクらこーんなにかわいーじゃーん? ねー?」
「こら、強制させるんじゃない。それに、サィスのはあざといだけだよ」
「同感だ。……少しは黙ることも覚えろ」
「ふんだ。そうやって苛めるからひねくれるんですー」
「……もし懸念があるのなら、ここで」
「え、えっと」
 四対のひとみが、いっせいに僕を見る。怖いって思ったけど、おなかに力を入れた。
「ぼ、僕になにができるのか、ぜんぜんわかんないんだ。リーダーに似てるとかも、そんなのきっとみまちがいだよ」
「いいや。間違いじゃない」
 すっと答えたのは、ハトレのりんとした声だった。
「テイもおれたちシリウスも彼の不安定な状態をよく見知っている。……見て欲しい、とは口が裂けても言えないけれど。それにおれたちは全員、リーダー自身からお墨付きを貰っているんだ。選ばれているという事実を誇りとして、しかるべき行動をとることは理に適っているさ。
 すぐには難しいだろうが、過度に心配することもない。おれたちは普段と変わらない生活をする。そのことこそが、リーダーをリーダーたらしめる要因となる。……強いて言えば、蜜の盟約の場への随行が、一番の不確定要素かな」
「ずいこう……?」
「カンタンに言えば、すっごい大事な式典について行くすっごい大事な役目! 表向きはね」
 サィスが小さく伸びあがってつけ加える。
「色んなオオカミから聞いた感じだけどね。しょーじき、今回の取り決めに不満な連中はかなり多い。これは向こうも同じ……だから土壇場で何が起きてもおかしくない。リーダーの命を狙う奴だって出てくるかもしれない」
 リーダーは強い。だからもしそんなことが起きても、いつも通りならたたかえちゃう。
 だけど「思いこみ」が解けちゃったリーダーはどうだろう。万が一のことがあれば、蜜の盟約がめちゃくちゃになっちゃうかもしれない。
 そんなところに、僕たちがいれば。
「……彼の身を守る行動を取れる。身代わりになることもな」
「リーダーが無事ならボクらはどーだって良いみたいじゃない? ほーんっと、悪趣味な作戦考えるよねー計画部隊は」
「この案にリーダーが勘付かぬ筈はないだろうから、任務を最後まで全うする責任感と言うべきか……自己暗示を強める方策としては、そこそこ合理的だろうな。俺たちをそのような目に遭わせることは、彼自身が許さない。最後までリーダーとして振る舞うだろう」
「トラデアったら、一々言わなくっていーのにぃ」
 鈴の音みたいな笑い声をのせてサィスは呟く。
「結局は、蜜の盟約まであいつをリーダーでいさせるってのが目的だ。……済まねえな。酷なことを頼んでるのは承知の上だ」
「っはは、おれたちが可愛くないって言ったのはテイだろ? とっくに伝えただろ、やりたいことがあるって」
 言葉をしぼませたテイとは反対に、先頭を歩くハトレは大きく笑う。
「蜜の盟約が無事結ばれたあかつきには、群れを解散させる。解放する。それがおれたちの要求で、夢だ」
「かいほう?」
 なんのことかさっぱりで固まった僕に気づいてか、ハトレはこっちを振りかえろうとする。だけどすぐ後ろのサィスに突っつかれて、「説明はまた別の機会に!」と小さく叫んだ。
「ったく、襲撃がなかったらなぁ。またいつ全員で集まれるか」
「……この状況では集中して話など出来んだろう」
「中途半端なのは気持ち悪いんだよ」
「はいはーい、さっさと追っ払ってさっさと戻ろーねー」
 ほこりっぽくて暗い通路をやっと通りすぎて、これまた暗い階段をまっすぐ上る。一番小さな訓練場の水飲み場に出た。途中で、僕が見つけた抜け道にそっくりな場所があったから、なんだかひやひやした。
「んじゃ行くね。死なない程度にがんばろうっと!」
 サィスとトラデアはすごい速度で走っていく。
 残ったハトレは僕に向きなおった。
「まだ非公式ではあるけれど、フェムト、改めてシリウスへようこそ。今後、どうか君の力を貸してほしい」
 色んな顔のリーダーを、僕は思い出していた。
 訓練で静かにお話しているところ。よく通る声で、戦士たちを盛り上げているところ。資料室でうたた寝しているところ。群れを家族みたいって言って、にっこり笑ったところ。
 リーダーにとって、僕たちが家族なら―穴ぼこだらけの記憶しかない今の僕にとっても、リーダーは家族だ。
「うん。僕こそよろしくね、ハトレ」
 僕は大きく返事をして、うなずいた。
「隊長、こっちは俺に任せろ。もしヤバくなったら適当に言い繕っとくわ」
「宜しく頼みます。では」
 僕は食料庫に行くテイについていった。訓練の時間が終わるまで、もうちょっとある。
「しっかし、お前がシリウスの一員になるなんてなぁ」
「僕もびっくりしてるよ。試験の結果だってたまたまだし」
「んなことあっかよ。お前の実力だ」
「そうだったらいいけど。でも、へなちょこよりシリウスの方が目立つでしょ」
「ははっ、違ぇねえ」
 テイはちょっとだけ、遠くを見る目になった。
「お前を入れるたあ、やっぱりあいつ、無意識に重ね―」
 いて。いきなり止まったテイの背中にぶつかってしまう。
 顔を出すと、一匹のオオカミがやって来るのが見えた。
「……お。珍しく出てねえのか?」
「出張る必要はないと判断していたのだがそうもいかないようだ。これから合流する。ところで、後ろにいるのは誰なのかな」
 よく通る落ち着いた声。リーダーだ。
「ん? こいつか、具合悪ぃってんで薬をちょいと。なっ」
「う、うっうううん」
 回り込んで顔をのぞきこまれる。さぼったのがばれるんじゃないかと、変な汗が出てきた。
「っじ、自己管理できてませんでした」
「自覚があるのなら問題はない。具合はもう良いのかな」
「え? っえあああっはい!」
「そうか。……そうだな。テイの処置はいつでも適切だ」
 早く治るといい、ってリーダーは笑って、早足で駆けていった。
「―ったく、ああいうところは昔から変わんねぇってのが癪だよ。……蜜の盟約まではどうか、なんて言いながらよ、早く戻ってくれだなんて願っちまいそうになる」
 すぐに小さくなった後ろ姿を見て、テイは苦しそうに呟いた。
 元気が出るようなことを言いたかったけどぜんぜん言葉が見つけられない。じいっと顔を見上げてたら、「ごめんな」って言われちゃった。謝ってほしいわけじゃなかったのに。
「力を貸せなんて言っといて、愚痴まで聞かせるこたぁねえわな」
 食糧庫に着くとテイは黄色い実をくれた。一口で食べられる大きさの、つやつやの実だ。
「こういうときは美味いもんでも食うのが一番なんだ」
 皮は苦くて中身は甘い。当たりと外れが半分だ。
 訓練場に行こうとすると、仲よしのオオカミが訓練の中止を教えてくれた。たたかいが長引いてて、候補生は待機するように命令が出たんだ。
 休憩所に寝ころぶ。いろんな話があって疲れちゃった。
 おりてくるまぶたをこじ開けて右の爪を見た。長くない。するどくない。あいかわらずぶかっこうだ。
「……どうすればいいんだろ」
 群れが解放されたら、その後は。
 僕たちはそれぞれさよならをして、帰る場所に帰る。候補生も訓練員も戦士もリーダーも必要ない。だってたたかいはもう、いらないから。
 誰にも言ってないし、気づかれてもいないけど。あの試験のあと、僕はしばらくご飯が食べられなかったんだ。柔らかいものは特に。試験官の、真っ赤に染まったわき腹を思い出しそうになるから。誰かをケガさせたのは初めてだった。戦士はこれが当たり前なんだって思うと、ひざが震えた。いたいのや苦しいのは嫌だって、みんな思わないのかな。たたかいをやめたいって、思わないのかな。
 でも、僕の中にもいるんだ。勇ましさとどうもうさをとりちがえて、誇らしげにしてる僕が。
「……オオカミなら、戦士でいなくちゃだもんね」
 必死にやってた訓練はいらない、まちがいだったって急に言われても、そう、戸惑っちゃうんだ。崖で宙ぶらりんの気分になる。リーダーも認めてくれる戦士になろうって、弱虫はやめにしよう、って思ったのに、信じてきたぜんぶがぼろぼろ崩れてくみたいだ。
 寝返りをうつと、苦い薬草みたいなにおいがただよった気がした。ヴィズに会いたいな。白詰草のにおいをかぎたい。風の音を聞いて、日が落ちるまでかんむりを作ってたい。
 帰る場所は、あの草原みたいな場所がいい。でも、僕はちゃんとあれこれを取り戻せるのかな。もし、勇敢な戦士にも中途半端なオオカミにも、そうじゃないなにかにもなれなかったら。
 僕はほんとうに、からっぽになっちゃう。

Garland for XX(ためし読み)

Garland for XX(ためし読み)

拙作『Garland for XX』冒頭部分のためし読みです。 ジュヴナイル風味メルヘンファンタジーです。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-12-17

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