桃皮茸

桃皮茸

茸小説です。縦書きでお読みください。

 六月の初めのことだった。
「うちの桃の実に茸が生えましてな、えろう苦労してますね、何とかなりませんかね」
 私が留守のときに、茸研究所にそういった相談の電話があった。学会にでかけていたフィンランドからもどると、助手の旗木君が報告してきた。
 「それは桃の木に生えたの」
 木から生えたとすると、木が弱っているかもしれない。その対策が必要となる。
 「それが、なっている実に生えたと言うんです」
 「その木だけの話なの」
 「いえ、その人の桃畑のかなりの木だそうです」
 「実に生えるというのは初めて聞くな」
 「はい、調べたのですけど、日本の文献には載っていません」
 「カビなんじゃないの」
 「いえ、赤っぽい茸だと言うことです」
 「今、生えているわけ」
 「一昨日の電話です、電話番号控えてあります」
 彼がメモを見せてくれた。山梨市一丁田中8000、三井嗣司とあり、電話が書いてある。
 「所長が帰ってきてから電話しますと言っておきました」
 「あ、ありがとう」
 この茸の研究所は茸培養会社のプライヴェートな研究施設で、研究スタッフ五人というこじんまりしたものである。食料茸の開発研究を行っているが、たまにこのように茸の駆除の話も持ち込まれる。そういった場合、所長である私がそこにいって様子を見て、こちらで解決できれば、引き受け、予算折衝をして、下請けに依頼し作業をしてもらう。
 この話はちょっと要領を得ない。
 電話を入れた。
 「茸国際開発研究所、所長の古林ですが、三井嗣司さんのお宅ですか」
 研究所の名前が大げさでいつも恥ずかしく感じる。まるで広大な敷地になん棟もの研究施設があるように思えてしまう。
 「へえ、電話した三井です、所長さんですか、すっませんです」
 「どのような状態ですか」
 「桃畑の三分の一ほどの木の実に赤い茸が生えおりまして、もうだいぶ枯れましたですが、実がだめになってしもうて」
 「どんな茸でしょう」
 「赤い奴で、かわいらしいのだけど、落ち葉に生える奴に似ています」
 「ハナオチバタケですか」
 「そういうんですか、ちょっと似てっけど、もっと柄が太いやつで」
 「それじゃ、今日伺って見せていただいていいですか、駆除できるかどうかわかりませんけど」
 「駆除しねえでもいいですが、見てもらいてえと思いまして」
 「それでは一時頃伺いますがいいでしょうか」
 ここからだと車で四十分ほどだろう。
 いつものように研究所の車を自分で運転して、三井桃園にいった。場所はすぐわかった。道沿いに石垣があり、一段高くなっているかなり広い桃畑である。石の門柱を通り、歴史がありそうな農家の前に車を止めた。
 エンジンを切ったと同時くらいに玄関が開き、年の割には背の高い、日に焼けた白髪の老人が出てきた。七十半ばだろうか。
 「世話かけてすみません、三井です」
 老人は車から降りた私のところに来て、深くお辞儀をした。
 「若井です」
 私は名刺を渡した。
 「農学博士さんですか、まず見てもれえますか」
 「ええ、桃の木は全部で何本ほどですか」
 「八十本ほどで、ばあさんと二人でやってますんで、手がまわらんで、袋かけなんかは人が手伝ってくれてますがなあ」
 家の周りから桃の木が植わっていて、袋がかけられている。老人が案内してくれたのは園の端のほうだった。太陽の位置からすると南西の方向になる。
 その一角の木の実の袋が外されていた。
 「出荷は八月に入ってからだけんど、色づき具合や、味なんぞ調べよう思いまして、端の木から袋やぶってみたら、まだ実は青くて硬いはずなんじゃが、ほれ、このように皆橙色になってて柔らかくなっちまってる、今は枯れてるが茸が生えておったです。こりゃ大変だと、この木はみな袋外したんだが、みな同じ状態でしたです」
 触ってみると、ぷーんと発酵の匂いがして、柔らかくなっている。ようするに腐っている。ただ黒くなっておらず、ちょっと透き通るような橙色である。きれいなものだ。茶色くしおれた茸が実にへばりついている。
 「ばあさんと二人でこの周りの木の実も調べました、一つの木から三つ実をとってみると、園の角にあるここの十八本の木だけこうなっちまってました。袋を開けたときは、実からきれいな赤い茸がでておりましてな、写真は撮りましたんで、家においてあります」
 三井さんは玄関の方に歩き出した。
 「ほかの木は大丈夫ですか」
 「農協の人が手伝ってくれて、かなりの袋を開けてみてくれました、ほかは大丈夫なので、また被してあります」
 「この袋は皆同じですか」
 「はい、農協にはいろいろな種類の素材の新しいものがでてますが、うちは昔から、岐阜の和紙問屋で作ってくれるものを使っとります。その店とは桃園を開いたときからのつきあいで、百二十年になります」
 「ずいぶん古いのですね」
 「わしで五代目だが、もうだめでね、子供たちはみな東京にでています」
 家では奥さんがお茶を入れて待っていてくれた。
 座敷のテーブルには、写真と古い書き付けが積んであった。
 「お世話になりますで」
 奥さんの梅子さんが二つの皿に桃を切ってもってきた。
 嗣司さんが崩れそうな桃を指差した。
 「これが茸がついたやつで、食ってみたら、酒みたいになってて、甘いんですわ、もう一つは、茸がつかなかったやつで、まだ青くて硬いが、甘いことは甘いと思いますよ」
 「それじゃ、まず、茸のつかなかったのからいただいてみます」
 こりこりしていて、青いのにかなり甘い、熟したらとても美味しい桃だ。
 「これはいい桃ですね」
 「国から金賞もらったことある桃です」
 「水密ですね」
 「ああ、純粋な水密で、白桃だけど、食べ頃は八月かな」
 「何種類か植えているんですか」
 「いえ、白桃だけで、三井白桃っていって、ほかの白桃と違って、花粉ができるんで、手で受粉やらなくていいんで楽ですわ、一代目が苦労して、二代目でやっとこうなったときいてます」
 「桃のことはよく知らないのですが、虫媒花ではないのですね」
 「うちの桃は虫も風も利用してましてな、白桃はあまり花粉がつかんもんだが、うちのはほっといても大丈夫だわ、その方がいい実がなります」
 茸がついた、柔らかく橙に透き通るようになった桃を口に入れた。つい「あ」っと声を出してしまった。
 「やっぱ、驚くよなあ」
 濃縮されたシロップを酒にしたように甘い。
 「発酵して、糖分がすごい」
 「ほっとくとすっぱくなると思うけんど、茸がついて枯れた頃にこうなったな、茸が元気なときには、桃の実は甘さが無くうまくないけど」
 「今年何か変わったことはありましたか」
 「四月のはじめに花にミツバチがきておって、あんのおとなしいミツバチに刺されちまった。蜂たちは茸が生えた木にたかっておったな、あんときは、こりゃよく実を付けるだろうと、喜んだんじゃが、今思うと、茸となんかかんけいあったかもしんええな」
 「こういうことは初めてなのですね」
 「わしゃ初めてだが、昔このようなことがあったと書いてあったな」
 老人はテーブルの上の茶色く焼けた紙の束を私の方に押してよこした。
 「なんでしょう」
 「栽培記録だがよ、一代目から、ずーっとあるんだ。わしも書いている、むかしのやつに、蜂が多く来て、桃の実が傷んだとあるんで、よくにてる」
 「理由は書いてありますか」
 「蜂がばい菌、黴を運んで、実を酸っぱくした。その中に砂糖のように甘い実も混じっていたとあるね」
 「似た状況ですね」
 「百年近く前のことですけんど」
 「菌類は条件が整わなければ、何十年も生えてこないことがあります」
 「そんじゃ、今年だけで終わるかもしれんですか」
 「その可能性もあります、お話はわかりましたので、サンプルを採取して研究所で調べます」
 「消毒はしたほうがいいかね」
 「もし茸の類や、酵母の類、黴だったら、胞子などがほかにつかないようにした方がいいでしょう、幸い、実には袋がかけてありますからだいじょうぶ、茸のついていない木では収穫した後、はずした袋は焼却してください、茸がついた木の実も焼却か、土に埋めるのがいいと思います。木には、黴にきく薬を撒いておいた方がいいでしょう。正常な木にも収穫が終わったらそうしてください」
 「ありがとうございました、それで、このお代はいかほどになりますでしょう」
 「いえ、いりません、むしろ、新種の茸かもしれませんので、もっと調べる必要がでてくるかもしれません、そのときはまたご協力願えますか」
 「もちろんだで、どんも、ありがとごぜえました」
 そのあと、茸のついた実を採り、かぶせてあった袋も集めて密封し、研究室に持って帰った。正常な木の実も比較用にいくつかもらった。茸のついた桃のあの糖度とアルコール度を知りたかった。この菌が何かに役立つかもしれない。
 研究室で黴のことに詳しいスタッフを呼んだ。
 「これ桃についた茸なんだけど、始めて見るんだ、解析頼めないかな」
 この道十年の中堅研究員である中井秀夫に、三井桃園で聞いてきたことを話した。
 「この茸が発酵を起こしたのか、発酵したので、茸が生えたのか、わかりませんね」
 彼は冷静に判断した。茸がやったものと思っていたが、確かに彼のいう通りかも知れない。
 「そうだね、発酵させた奴と、茸をそれぞれ調べてくれるかな」
 「桃がなったままこんなに発酵するなんて、それだけでも面白いのに、茸が生えている」
 彼は資料を冷蔵庫に保管して、すぐに研究を始めると言ってくれた。
 茸も酵母も同じ菌類で、真菌類に属する。多くの菌は周りに分解酵素を分泌する。分解したものから必要なものを吸収して生きている。酵母はキノコを作らない子嚢菌類で、その仲間で茸をつくるものに冬虫夏草や面白い形をしたスッポン茸、衣笠茸などがある。酵母ではよく知られているように糖分を分解してエタノールすなわちアルコールを作り出すが、茸でそういうものは聞いたことがない。
 果物の皮には酵母がついていてそのまま発酵させると酒になる。いい例がブドウで、ブドウの皮の表面にいる酵母がぶどう酒を作るわけである。ということは、今度の場合にも、茸とは別に、酵母の仲間が桃の皮について、発酵させた可能性も考えられる。
 それにしても、酵母は茸を作らない。桃の茸の形だけを見ると、落葉茸のようである。そうだとすると、担子菌と呼ばれる仲間で、子嚢菌とは違うものである。ただ、形だけで、判断してしまうのはよくないだろう。いずれにせよ、中井君がはっきりさせてくれる。
 中井君は、最初に桃の皮の表面に付着している菌類を調べた。何種類かの酵母菌が検出された。その中に、今まで報告されたことのない酵母菌が何種類かあった。試したところ、その酵母たちをブドウにつけてみると、アルコール発酵の能力を持っていることがわかった。その酵母の酵素の強さについてはまだ明らかになっていない。
 もう一つ面白いことがわかってきた。茸の方である。傘は赤い色で、かたちはシェード型、確かに針金落ち葉茸の一種のようだ。ただもう少し大きい、傘の高さは1・5センチ、開いた傘の下の直径は2センチだが、幹は太さが8ミリほどで、意外と太く、針金のように細い針金落葉茸とはずいぶん違う。
 遺伝子解析をしたところ、今までに報告されたことのない子嚢菌類と判定できた。酵母や冬虫夏草の仲間である。茸の菌糸も桃の皮の中にはびこっていた。菌糸にはアルコールを作る酵素はなかったので、この茸が桃の実を発酵させたのではないことは明らかだ。やはり皮にいた酵母の仲間の仕業だろう。
 新たな子嚢菌類の茸と、新たな酵母が桃の実からみつかったことになる。それらの酵母や茸の菌糸は、茸がつかなかった実からは検出されなかった。
 特筆すべきことは、この茸の菌糸の中には異常に多くの糖分があったことである。菌糸は茸のいうなれば細胞である。どの生き物も細胞の膜には糖分を細胞の中にとり入れるトランスポーターというものがある。この茸の菌糸の細胞の膜にはそれがたくさん存在することも明らかになった。これは、桃の皮にとりついた菌糸が糖分をためこんで、茸を発生させる可能性を示唆する。
 中井君はその茸の培養を試みた。子嚢菌類の培養はまだ確立していない。確立すれば、中国料理では貴重な衣笠茸などが養殖できるかもしれない。
 中井君の努力はすさまじいもので、2週間で培養を成功させてしまったのである。彼は新しい茸の論文を書きつつ解析を続けている。名前を「桃皮茸、とうひたけ」とした。
 とりあえずそこまでわかったので三井さんに電話を入れた。三井桃園に行ってから、まだ一ヶ月ちょっとだ。
 奥さんが電話にでて、今警察に行っているという。どうしましたときいたら、飲酒運転でしかられているという。ともかく会いたい旨伝えてもらうことにした。
 それからまもなく電話があった。
 「すんませんです、身に覚えがないじゃが、軽トラを運転して、町に買い物に行ったとき、抜き打ちにつかまって、アルコールが検出されちまって、おお、そうだ、いつでもいきてください」と、ちょっと疲れた声であった。
 「これからうかがってもよいでしょうか」
 「いつでもええですよ」
 ということで三井桃園をもう一度訪れた。
 三井さんの顔が赤い。
 「いやおはずかしい」 
 「どうしたのです」
 「わからんのですよ、この間から、なんだか体がふわふわしていて、医者にみてもらったが、異常はないと言われてたんだけど、警察につかまって、調べたら、血の中にアルコールがあったんですわ、だけどね、警察の署長もわしが酒を飲まんことをよく知っているので帰してくれましたがな」
 「じつは、桃の皮に酵母が着いているのがわかりました。葡萄に着いているのと同じ仲間でアルコールを作る奴らです、ぶどう酒作りには欠かせない大事な酵母で、それがないとぶどうが酒にならない」
 「桃酒が造れるわけだな」
 「そうですね、新しい酵母菌のようです、まだ実のうちからアルコールができているということは、酵母が皮から中に入ったことになります、普通はあまりないと思いますが、それが起きたのです、あの茸のためかもしれません。葡萄では木につけたまま冬になるまでおいておくと糖分が増えるというのがあります」
 「すごい病気ではないわけですな」
 「しかし、それが広まると、自然なおいしい桃が作れなくなります」
 「消毒は、うちではあまりせんですがな」
 「とりあえず、そのまま様子を見るのでいいと思います、他には広がっていないのですね」
 三井さんはうなずいた。
 「あれから問題ないようで」
 「それで、実についた茸のこともわかりました、子嚢菌という茸で、酵母も子嚢菌の仲間です」
 「そりゃどんな茸ですかの」
 「冬虫夏草をご存じですか、虫につく茸」
 「知っていますな、セミ茸なんぞが、うちの桃園にもでるで」
 「その仲間です、うちの研究室の中井というのが調べていますが、新種の茸として発表する予定です。桃皮茸となづけました」
 「とうひたけ、そりゃいいですな」
 「中井が直接その場所を見たいと言ってますので、そのうち調べにこさせますがよろしいですか」
 「いつでもかまいません、でるのは買いもんぐらいで、ほとんど家におるで」
 その日の三井嗣司は前に会ったときより、ちょっと年をとった感じを受けた。しゃっきっとしたおじいさんだったが、どこかおとなしい。

 中井はそれから三日後に三井桃園を訪れ、半日かけて園内を調べ歩いたようである。
 「面白いもの見つけました。桃皮茸が生えた木の近くでしたけど、冬虫夏草がありました。二種類のハチタケです」
 「どんな茸だった」
 「マッチの先のような茸でした。宿主はアシナガバチとミツバチでした」
 「ミツバチも」
 「ええ、きっと、桃の花の匂いに誘われてきたのでしょうね」
 「ミツバチの冬虫夏草は知らないな」
 「僕も初めてです、遺伝子解析にかけます」
 その結果がでたときには驚いた。アシナガバチの冬虫夏草はすでによく知られているものだったが、ミツバチの冬虫夏草は遺伝子配列が、桃皮茸のものとも、桃の皮に付いていた酵母とも似ていた。
 「これは面白いね、三井さんが、四月の初め、あの木にミツバチがたくさん飛んできたと言っていたな、関係ありそうだね、ちょっと凶暴なやつで、刺されたと言っていたよ」
 「もしかすすると、冬虫夏草に侵されているミツバチが、桃の花の受粉に関わったのかもしれませんね。そのとき、体内の冬虫夏草の何らかの成分が実に入り込んだ。実が大きくなると、その物質が皮についていた酵母に変化を起こさせ、実の中にもぐりこむようになり、強いアルコール発酵を生じさせ、もう一つは桃の皮にとどまっている酵母が実の中に菌糸をはりめぐらして、皮の表面から茸を作らせるようになった」
 「面白いストーリーだね、そうだったら大変だね、学会が騒ぐよ」
 「まだあるのです、実は枯れた茸を調べたら、とても糖分が高い。茸はアルコールを吸収して逆に果糖に変換するのかもしれません、今培養できないかやってますが、菌糸が増えれば、細胞の中の状態がわかると思います」
 「小さい茸だけど、食べると甘いということかな」
 「かなり甘い茸です」
 「新種の冬虫夏草が、酵母菌に変化をもたらしたわけだ」
 「そうですね、仕組みが分かれば、強いアルコール発酵をする酵母をつくることができるし、甘い茸をつくることができるかもしれません」
 「すごい発見になるね、予算は獲得しとくから自由に進めてよ、会社が大喜びだ、助手もつけるし、周りの人にも手伝ってもらってよ、後で皆に説明をするよ」
 「はい」
 彼の推測はかなり当たっていた。実の中から酵母菌がたくさん見つかった。これがアルコール発酵を起しているのだろう。皮からどのように実に入っていくのか調べる必要がある。
 桃皮茸の培養の結果もいい方向に行っているようだ。菌糸が培養地で伸び始め、もう少し増えれば、生化学的な解析ができる。
 八月の初め、調度、三井さんの桃の最盛期だ。培養した桃皮茸の菌糸から、アルコールを高濃度の糖分に変換する酵素が見つかった。実の中から検出された酵母はアルコールを効率よく形成する酵素をもつこともわかった。さらに、酵母菌と桃皮茸の遺伝子の違う部分がはっきりすれば、そこが茸を作ることに関係することがわかるのだが、桃の皮の酵母菌は一つではない、たくさんの種類が付いている。それらのすべての遺伝子にあたってみなければならないので相当時間はかかる。民間の遺伝子解析会社にも依頼して解析にあたっている。
 茸がどのような物質をだして、酵母菌に変化をもたらしたのか、これから調べなければならない。
 久しく連絡していないので、三井さんに電話をかけた。収穫時期で忙しいのか、なかなか携帯電話に出ない。固定電話の方に電話をした。
 「ご無沙汰しております。国際茸研究所の若井です」
 でたのは奥さんだった。
 「あ、所長さんですか、お世話になっております。実は主人は寝込んでしまっていて、医者に往診してもらっています」
 「どうされました」
 「中井さんがみえて、ほどなくですが、体が熱くて、よろけるようになりまして、頭がぼーっとすると言うことで、いつもの医者にきてもらったんです、ところが原因はわからず、医者は大学病院に行くように言ったのですが、本人がいやがってまだ行っておりませんのです」
 「食べ物は大丈夫なのですか」
 「ええ、少し食べる量は減りましたが、よろけるけどからだは元気なんです」
 「お話はできますか」
 「はい」
 「そういえば、収穫時期ではないのですか」
 「農協の人たちが手伝ってくれてまして、もうそろそろ終わりです」
 「中井とお見舞いに伺いたいのですが」
 「気を使わんでください」
 「いや、報告をしたいと思いまして、うかがってだいじょうぶでしょうか」
 「ええ、頭はしっかりしていて話は出来ます、どうぞいらしてください」
 「明後日あたりどうですか」
 「どうぞいらしてください。桃がおいしいときです」
 
 中井と三井農園に行った。
 三井嗣司は赤い顔をして横になっていたが、我々が行くと、からだを起し、椅子に寄りかかった。顔はむしろ、赤っぽく艶が良く、皺が少なくなっていて、前より若返って見える。
 「お体の方いかがですすか」
 「いやあ、おはずかしいですが、立つとよろけましてな、医者は酒飲んでるみたいだというんですよ」
 声も若い。奥さんが笑って
 「この人前よりよく食べるし元気なんですよ、ほら、顔の艶なんかよくなりまして、医者はよくわからんと言ってます、血液検査をすると、アセトアルデヒドが少し混じっていると言うんです、何ですかときくと、酒が壊れたものだって、お酒は飲まないのに」
 それをきいておやっと思った。中井君もそう思ったようだ。
 「これ今年の桃ですが、どうぞ」
 テーブルに剥いた桃が用意された。白く粉がふいているようで美味そうだ。
 「じいちゃん、食べる」
 「ああ俺はいい、どうぞ食ってください、今年は農協の連中に世話になっちまって、ほっといたわりにはうまくできてます」
 「それじゃ、いただきます」
 一口食べただけで、桃の汁がじゅうっと音がするように口の中に広がる。
 「おいしいですね」
 そう言って、中井君が茸の説明を始めた。
 「三井さん、あの茸は今まで見つかったことのない茸で、この桃園で進化したようなのです、学名にmitsuiという文字がはいります、もちろん桃の茸という意味のラテン語になります」
 「ほーお」
 「それに、桃の皮に着いていた酵母菌も新しいもので、まず皮の上にいるときに等分を作って、糖分は実の中にしみこみます。そのあとに、その酵母菌は実の中に入って、糖分をアルコールにすることがわかりました。皮から生えた茸は酵母がつくったアルコールを吸収して、茸の中で糖分を作る仕組みをもっているのです。甘い茸になるのです。ミツバチについていた冬虫夏草が、桃の皮にいた普通の酵母菌の遺伝子に変化を起こさせて、糖分やアルコールを作る酵母菌変化させ、さらに、同じ酵母菌の遺伝子を茸が生えるように変えてしまったのです」
 「ほー、そんなことがわかりましたか、三井農園も有名になりますな」
 三井老人は笑って、自分の作った桃をほうばった。
 話は終わって帰ろうと思ったとき、中井君がいきなり、
 「三井さん、ちょっと手を見せていただけますか」
 と枕元で言った。三井老人が「へえ、どうぞ」と手を伸ばした。
 老人の手は血色がよく、皺が少なく、しっとりしている。
 「ちょっと失礼して」
 中井君はズボンからハンカチを出すと、三井さんの手を包んだ」
 「汗はあまりかかないのですか」
 「いや、汗でますな、前はかさかさしてたんですが」
 老人は不思議そうな顔をして中井君をみた。
 「いや、失礼しました」
 私も彼が何をしたのかよくわからなかった。
 おいとまをして、研究所に戻るとき、中井君が運転をしながら、
 「先生、三井さんはミツバチに刺された言っていませんでしたか」
 と聞いた。最初に三井さんに会ったとき、おとなしいミツバチに刺されたと言っていた。そこではっとした。
 「うん、もしかすると三井さんに、桃と同じことが起きていると思ったのかい」
 「はい、ハンカチに酵母菌がいないか調べます」
 中井君はそう言った。
 次の日、三井さんから、電話がかかってきた。
 「昨日はどうも、寝ながら電話しておるんだが、朝起きましたらな、手の甲から、あの茸が生えよりましてな、傘開いておるんですわ、きれいな茸ですわ、今日八十八になりましてな、お祝いのようですの」
 そういって切れた。今日は8月8日立秋である。

桃皮茸

桃皮茸

桃の実の皮に生える茸が見つかった。その茸はーーー

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-12-17

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著作権法内での利用のみを許可します。

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