海路



 「私」という認識の視点に立って発する「私は」という言葉と同時に生まれる「私以外の者」たちが、同じように発する「私は」という言葉によって更にまた「私以外の者」たちの存在が確認される。言語の意味内容が有する一般性を獲得しながら存在の固有性が追い求められるこの半永久的な誕生において、私は誰かにとっての「他者」=「私以外の者」となり、同じことが他者となる「私」に起きる。客体として他者を置く事態はこうして一つに括られる、その生を全うする間に知れる全てを知ろうとして「私」たちがその口と舌で言葉を操ることを止めない限り。
 物理的存在として現にそこに居るかどうかでない、そこに居ることに対する疑いが全く認められない振る舞いに表れる歓待の意思から、可能性という命を与えられた無数の他者が主体の周囲を埋め尽くす。ミャンマーで神社仏閣を訪れた時に李明維氏が目にしたのは、裸足になるという作法の下で訪問客がその場の神聖性を思い残すことなく感じられるよう、ボランティアの方々が常に掃除を怠らない姿だった。そこに認められる歓待の意思からヒントを得た『如実曲経(ラビリンス)』は、身体の外側に向けて穂先が長くなるという特徴を有する竹箒を手にしたパフォーマーが会場の真ん中に置かれた籾を掃くパフォーマンスを、入場してから退場するまでの一時間半に渡って行う。その所作は重く慎重で、先ずは外向きに開いた足運びで折り畳める紙の立体(「へ」の字の形をしたもので、会場の真ん中にある黒い籾の山を丸く囲むように置かれている)に近づいて行く。時間をかけて籾の山に辿り着けばパフォーマーは手にしていた竹箒を近くの床に置き、ゆっくりと籾の山の囲いを折り畳んで解いていく。その作業を終えると今度は折り畳んだ紙の立体を手に持ち、背後に置かれた竹籠に向かって歩いていって籠の中に大切に収める。そうして再び戻った籾の山の前で手にした竹箒を使い、パフォーマンスの核となる「籾を山から掃き、また山に戻す」という動きを始める。上半身が内側に捩れるようにパフォーマーは踏み込み、竹箒の動きと足捌きによってためた力を解いていく。その穂先に至るまで伝えられる力の流れは籾の一粒に至るまでその痕跡を床面に描き、書道の「はね」に似た美しさを会場の観客に目撃させる。
 パフォーマーは踏み込む度に無数の鈴が鳴る装身具を両足首に身に付けているが、シャン!という音色が届くその時がパフォーマーの意思の発現を教える瞬間である。それを耳にする度に観客は内から外へ解き放たれる力の始まりを知り、それを追えるのだが、この観察が間接的に知れるパフォーマーの動きとシンクロする感覚を生み出す。自らが美しく籾を掃いているという認識は、どうしても覚える長時間の鑑賞の疲れを消していく。他方でパフォーマーはその場で鑑賞する人たちを決して見ない。歓待はそこに居ない誰かのために(も)向けられている。だから見ていた鑑賞者がパフォーマンスに飽きたり、また偶々通りかかって興味を持った新たな鑑賞者が現れたりと会場内で人の出入りが激しくなることは『如実曲経(ラビリンス)』において望まれる。ゆえに一時的な共生の意識はその場の誰もが読み取れる雰囲気として常に生じ、その気配は時間が経つにつれ濃厚さを増していく。場がそれ自体で生きているようにも把握できる有機的な連動が、見えない「私」たちを育てる。そこで抱いた感情を「嬉しい」と自然に表現できる。
 現在、オンライン上でも開催中の『Taiwn Now』の演目の一つとして、インターメディアテクの入り口に設けられたスペースで披露された『如実曲経(ラビリンス)』は会場でのパフォーマンスを既に終了しているが、フランスで行われたパフォーマンスは動画で拝見できる。興味があれば、その連綿を目で追って欲しい。




 東京都現代美術館で開催されている『ユージーン・スタジオ 新しい海』を鑑賞した後、私はその感想を書くのを躊躇した。何故なら、各作品にあるコンセプトが洗練されたデザイン性をもって表現されている。だから見惚れるぐらいのシンプルさや、縦横に意識を及ぼした空間装置としての見事な工夫などを明確に表した寒川裕人さんの各作品を紙面にある順路通りに見ていけば居心地の良い展示会場が素敵に感じられるし、肩の力を程よく抜ける。そうして会場を出てからいつものように「どうだったかな?」と感じたものを咀嚼しようと意識を向けると、コンセプトと各作品の間に隙間を見出せない「素人な私が言えることがない」。言葉を紡ごうとぐるぐると回し、温め直した私という思考はそこで空振りになった。
 恐らく、決して多くはない絵画鑑賞の経験から得た私なりの見方ではユージーン・スタジオの表現の核を初見で上手く捉えることが出来なかったのだろう。以下は、いま書きながら気付けることを纏めようと試みた言葉である。
 混雑防止やテーマに即した表現の歴史などをスムーズに把握できるように展示会場内で各作品を鑑賞する順路が決められているが、この順路を守らなくても支障はなく、鑑賞者の自由に任されている部分は大きい。けれども『新しい海』ではかかる順路が極めて重要となる。
 『新しい海』の紹介文の役割を担う「ホワイトペイティング」シリーズにはキャンバスの上に道行く人々が「口付けた」という事実だけが存在している。教えられなければ分からないその過去から発想する誰かに向けた思いの痕跡が時間経過によってその意味合いを増していくことは、真っ白な画面を前にして想像できる。そのために費やす時間が物理的な見方から私を引き離す。沈静化は認められるが、その脅威が去ったわけではないコロナ禍の現況を思えばその力は強まる。
 次いで吹き抜けの空間に蓄えられた水が示唆する「庭」という仕切られた見方と、その左右に設けられた合わせ鏡を用いて拡げられる認識の虚実が静かに揺れる空間として現れる「海庭」がさきの「ホワイトペイティング」シリーズとセットになって本展示の雰囲気を強く印象付ける。これによって寒川さんのイメージを伝える他の各作品を鑑賞者が無理なく引き受けられるよう、日常に慣らされた主体のネジはひと回し、ふた回しと緩められていく。この二作品を必ず鑑賞してから『ユージーン・スタジオ 新しい海』の内部へと足を踏み入れる来場者は、だからどこか浮いている。
 その状態で行う鑑賞者の目の前には例えば「レインボーペイティング」シリーズを構成する淡い虹色と個々の点描によって個々人から成る世界の多様性が表され、また「私にはすべては光り輝いて映る」ではキャンバスとして選ばれた加工済みの真鍮が醸し出すものと今にも消えそうなドローイングが多面的に写す隠り世のような非現実さ(翻って現実として見るものの可塑性)が、さらに真っ暗な空間の頭上から流れ落ちる金箔と銀箔の粒子がスポットライトに照らされる「ゴールドレイン」では多様に行える解釈の可能性(寒川さんご本人はそこに生と死を、私は虚(うろ)の中から人が見出す有意味の輝きを)が示唆される。
 前述したように「私」と名乗る私は誰かにとっての他者なのだから、他者を想像することは私を生む。想像する他者と、他者を想像することで生まれる私が立つ「そこら辺り」こそが決して枯れない余白を、思うものを描ける世界を生む源なのだ。こう捉えるとき、必要になるのは深化された思想を学べる鬱蒼とした表現の森ではなく、ある程度切り拓かれ、そこを通りかかる人が木々の間から気付けるぐらいに開かれた場を提供すること。その場を訪れ、やり取りを行う者が現れることを望み、またパフォーマンスのような目に見えない交感を「期待する」こと。あるいは広がったスペースに座り込み、誰かと巡り会えるその時に向けて私を整理整頓する。要らないものかを検討し、捨てて生まれた余白に好きなものを置き、キャラ変とまではいえない自分自身の模様替えを計画する。未来に向けたそういう類の諸作業をこそ、私は「話す」べきではないか。
 ならばユージーン・スタジオの表現に対して行うべきは感想を述べることでなく、作品を通して交わること、その「思い出」を振り返ることかもしれない。
 「Our dreams」はドビュッシーの『夢想』を頭の中で演奏するというルールの下で空弾きする彼らの姿を撮影した映像を鑑賞者に見せる。彼ら同士は互いを了解していない。けれど、私たち鑑賞者は架空のピアノに手を乗せて同じ曲を弾く彼らを見る。因果関係を要しない共時性は、展示会場の一角で神の視点に立てる私たちの頭の中に生み出される。
 「Our dreams」を鑑賞する際、設置されたヘッドホンのイヤー部分に用意された専用ガーゼを苦労して取り付け、スクリーンに流れる映像と音楽を限られたスペースで私は視聴した。その時にはもう、通路で並ぶ他の鑑賞者を意識して切りのいいところで視聴を終えようと決めていた。なぜなら、その何分か前に私が同じ配慮を受けたから。同様の配慮を私はそれを誰かに返したいと思った。そして、その通りに行動した。
 もしかすると私と違い、次に待っていた方は「Our dreams」を最後まで視聴するかもしれない。けれどその気持ちは理解できる。なぜなら出来れば最後まで視聴したいと私も思っていたし、また他の来場者も思ったりするのだろうなと想像するからだ。
 そういう判断及び行動をした。それを後悔しない私だ。だから私はここに記さないある種の答えを、「私」という壁に、私なりに飾るのだ。
 その場に在る見えない「私」たちは言葉を介することなく(あるいは言葉を必要としない暗黙の了解をし合って)連綿と生きる。その事実を又はその方法を誤解なきよう何時、何処で、どの程度具体的な形にするべきか。悩みに揺れる心の上で、私はこの問いへの答えを先送りにしたいのだろう。いつか辿り着くかもしれない場所へ、思い続けているその場所へ。この手で触れられるものが、そこには無いから。だからこうして、私は私を運ぶ。いつかまた違う私で寒川裕人さんが手掛けるユージーン・スタジオの表現が、『新しい海』では拝見する機会を得られなかった『想像#1』がどういうものかを思い描きながら。
 東京都現代美術館のショップで購入できるカタログも含めて、『ユージーン・スタジオ 新しい海』をお勧めしたい。

海路

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  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-11-30

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