徒歩で測るきりん。走らない僕ら。







奥には行っちゃいけない。手前で遊ばなければならない。標語のように繰り返し,ボクらにルールを教えてくれた遅起きの(しかし明け方零時過ぎの)飼育員さんは去年の今頃亡くなった。皺で笑う飼育員さんは小さい兎さんの病気への罹りやすさから雄鶏からの逃げ方(特に花壇のブロックの駆け抜け方),『時に雌鶏は何故自らが産んだ卵を割ってしまうのか』ということまで教えてくれた(ストレスなんて一言も使わなかった。ボクらが悪いということだって。)。五年生の一部の教室と生物室や音楽室などの家庭科室を除く特別な教室で各階を作る『中校舎の裏』には命を終えた動物の,石で作ったお墓が並ぶ。ひんやりと暗く,まず近づかないそこは当時流行っていた『ペットセメタリー』の評判と合間って,ボクら低学年を避けさせた。裏門の百段あるという階段にあっさりと辿り着いたとしても,オタマジャクシを見れる中庭の小さい池に行けたとしても,ボクらはそこを通らない。多分に息をしたりもしない(変な意味でなく,耐えられるか不安になって。)。
 ちゃんと初めてソコに行ったのは可愛がっていた三毛と言えない小さい兎が1羽亡くなって,埋める弔いをしたかったからだった。飼育員さんも一緒に行った。いつも見る青いつなぎ姿と黒い長靴が頼もしかった。その日も残っていたぬかるみと水溜りに堂々と足を突っ込んで,飼育員さんはたくさんある石の隙間,そこに慣れていないと,そしてきちんとその場所を見ていないと分からない隙間を見つけて,手に収まるスコップで『サクサクッ』と兎の身が収まる穴をゆっくりと掘っていった。ボクはお尻を浮かした体育座りで手伝いも出来ずにその手つきを見ていた。眺めるなんて出来なかった。病気の原因に,ボクは無関係と言い切れなかった。下痢はストレスによっても引き起こり,可愛がることがストレスにならないなんてヒトにも言えないのだ。僕は兎を可愛いがった。兎は手の平で『ふるふると』震えていた。
 飼育員さんがその地に作った深くない穴に兎の死体(当時こんな風に言えなかった。ボクは少しオトナになった。)を埋め,掘った量よりちょっと多くの土を被し,ボクから石を受け取った飼育員さんが穴の上に縦に置いた。僕の手は低学年生の長さしかなく,他の石を倒すことなく飼育員さんの掘った隙間にまで届かなかった。1人では出来なかった。飼育員さんが必要だった。祈ること。それは1人で出来たことになった。
 校舎の裏から現実に飼育小屋への道を帰る時に,飼育員さんは『ボクだけに』と言った。
「その動物園には『奥』があって,そこは正方形の部屋になっている。そこでは死が色々な取り扱われ方をする。死因究明の探究心,自己責任の痕跡探し,あるいは深い弔い。部屋には原則1人が入るというのが僕が働いていた動物園の規則だった。語られない,記されない,暗黙に伝わって知ってしまうルール。動物たちはみんなそこを通っていった。ドアーは常に内開きだ。帰ってくるコなんて,居ないからね。」
 ボクは下を向いてはいたが心のうちでは飼育員さんの顔を,その口から感じる意思を見上げていた。整えられた髭は飼育員さんの呼吸に揺れていた。汗なんてかかなかった。いつもそうだったから。明日もそうなるはずだから。
「一月だけ,僕は担当した。これでも獣医師の免許を持っていて,学部で『色々と』やってたから。動物園だから動物が沢山運ばれてきた。大型だとライオンやゾウ,キリンもいて,小型だとペンギンあたりか。大体が既に息絶えていたか,そうじゃなければ僕がこの手で,ということだ。そういう作業だったから。そういう内容の仕事だったから。体表からして温かさはあっても,それはもう生きていた名残りで作業に伴う外界の気温との接触によってすぐに消えた。気のせいか硬くなったようにも思えた。自然よりも素早く,そして不自然にね。死を進めているようだった。これは良い事か,とやっぱどこかで感じたよ。これは本当に良い事か,と。」
 隣の席に座る絵が上手なマミコちゃんがお父さんの本棚から借りてきたと言っていた画集に解剖の,ここでは人の解剖図のスケッチが載っていた。クラスで目立ついわゆる『主要の』メンバーの,さらにボス的な存在のケンジ君がそれを見てはスゲーっと言って,彼がみなす『弱気な』クラスの男子生徒に自慢げに見せびらかしていた。解剖を平気と感じるのは凄いことらしい。飼育員さんとは違って。
「最後の一頭の前に,あるキリンが部屋にやって来た。20歳前後で,飼育下では確か平均より低い寿命だった。身につけられるところにきちんと身につけていた筋肉は若々しく,血液のポンプは循環をやめられそうになかった。死因は不明。不可解なところは縫われたような首の付け根,あるいは胴体の始まるすぐそこの切られたような痕。でも出血なんてしていない。だから僕がある程度のケリをつけるか,またはそのためのメドをつけることが必要だった。」
「タンキュウシンがあったの?」
 花壇で最初に出してから,校舎裏から帰って来ている今迄に出さなかったボクの声は他の人が聞き取れる声量と意味と内容を備えて,飼育員さんに向けられた。枯れたりなんかしてなかった。
「そうだね,探究心があった。それが僕の仕事だったし,この時は僕自身が知りたがっていたかもしれない。どこに原因があるのか。何が良くなかったのか。一度は自分の脚という脚で立ったキリンという存在を止めてしまったのは何なのか。それが僕は知りたかった。数枚の紙の上の文字にして,それを誰かに伝えたかった。」
 タンキュウシンは大事だと熱血が売りの理科の先生が毎時間,毎時間かかすことなく授業が始まって冒頭に必ずいう。今日も言っていた。タイミングはいつもより7分ぐらい遅かったけど,言っていた。チューリップの球根の図解だって,やっぱりタンキュウシンの賜物なのだ。
「用いる器具は大きいもので,中々に壊れたりしない。力に学んだ技術を持って,コツとちょっとの決め事をもって『調べ』を進める。トクンって少し心臓が跳ねるけどそれは僕のなんだ。正方形のその部屋で鼓動打つのは僕の心臓しかなかったから,迷いはしないんだ。トクンって打つのは僕の心臓。何かに跳ねる僕の心臓。作業途中では落ち着く,僕の心臓。でも落ち着けなかった。器具をいれたキリンは閉じた瞼を開いたんだ。偶然にも僕を見て,偶然にも目を合わせて。」
 「生き返ったの?」
 僕はその結論を期待してしまって飼育員さんに今日二度目の確認をした。それはその時の僕には重要で,自分には無関係なことと思えなかったから。でも。
「いや,生き返りはしていない。『調べ」は終わりを迎えて,もう続けられていないんだ。それは確かに終わってる。僕が一番それを分かっている。」
 飼育員さんの答えにガッカリし,風船から漏れた空気の期待みたいにボクの気持ちはもやっとしてイライラもした。じゃあ何だっていうんだ?じゃあ何があるっていうんだ?
「瞼が開くことがないとは言えない。仕組みは良く分かりはしないし,そのことをその時に確認なんてしなかったから。でもないことはない。ありえないなんていえない。実際に経験したし,その目に僕も写っていた。」
 話を続ける前に飼育員さんはボクを見たようだったけど,ボクは見返したりしなかった。花壇の間に足を突っ込み,靴が汚れるのを気にせず,下を向いてボクは歩く。飼育員さんは見返さないボクを見て,また前を向いたようだ。話は続けられ,歩む足の様子も真っ直ぐになった。
「動物にも意思はあり,機能を停止した身体にそれはない。それが僕が習い,大体のヒトが思っている理屈だと思うんだけど,感じる意思なんて理屈じゃない。開き続けた目はそれだけで,僕の中でキリンの意思を感じさせた。想像させたよりは強く,明証できるよりは薄く。そのキリンの意思は何もいいやしないけど,とても僕の作業を観察していた。余すところなく,過分にもならずに僕の仕事をともに体感していた。仕事終わりまで側に居て,耳元近くで質問1つもしなかった。身体の隅々まで『調べ』てもそうなんだ。僕はキリンの意思を推し量って意思から休んで器具もおいて,『調べ』るなんてやめれば良かったかもしれない。そんな立場もあり得た。けれど僕の探究心はもう先に進んでて,可能性を掻き分けたそのけもの道を器具を両手に確実なものにしていくのが精一杯だった。後ろなんてなかった。止まるなんて,もっと無かった。キリンもその先を見ていたよ。その長い首で,意思を電気のように走らせて,心配そうに僕のことも見下ろして。」
 意思なんて当時のボクにはよく分からず,飼育員さんの話には分かるよなんて言えなかった。でも意思を感じるのは無視できず,兎が乗った手の平を開いてみたくなった。一方的じゃないんだろうか。『それはあった。』と言っていいのだろうか。飼育員さんはそう思う?なんて聞いても意味はあまりないのだろう。飼育員さんの話にはもう,しっかりとキリンが立っていたのだから。
「最後には『調べ』終わった。これはさっきも言ったね。『調べ』は終わった。メドはついたから手を書きやすいように『綺麗に』して,正式な書類の前の紙に文字を綴ってから2mmの細いペンを置き,僕はキリンを扉の向こうに運ぶために内側に扉を開けた。係りの人が来て,キリンと台を運んでいった。キュッと最後にローラーは鳴って始めの角を曲がっていった。キリンとはそれから会っていない。」
 飼育小屋の近くで雄鶏が鳴いた。暴れん坊の雄鶏だ。僕も最近突かれた。突然過ぎて花壇の逃げ道に入り損ねたのが『原因』だった。『調べ』はもうついている。もう何も言うことはない。
「最後の一頭は象になって,瞼は最後まで閉じられていた。その月を始めた1日から終わりを迎える31日まで,キリンの瞼だけが開いた。偶然なんてない,なんて言えやしない。これは浪漫のない話だし,有名でなくとも看板掲げた作曲家が1フレーズも楽曲提供なんてしてやくれないだろう。でも大事で,大切だ。その出来事は。ことの顛末は。キリンの意思は今も語らない。キリンの意思は今もその先を,見据えたままだ。」
 「さっ,」と短く切って「手伝ってくれよ。」と飼育員さんは飼育小屋の中に入って,生きている兎の穴ぐらから地表まで気を使って掃除を始めた。荒い外用の箒を2本持って,1本はボクに差し出し,もう1本は自分が使うようだった。僕はまず小屋に入る必要があった。そこからして躊躇った。飼育員さんの予定ではもう,僕のお手伝いは消せないスケジュールらしい。ずっとボクにその1本の箒を差し出し続けた。ボクはまた,小屋の中に足を踏み入れた。そこの小屋には兎が住んでいて,最近小さな子兎が産まれた。三毛とも言えない子兎も居た。その子は手のひらに乗るぐらいだった。







 午後の10時には帰って来て 午前5時には起き,同じく午前7時に着いているM駅を出た光景はバスが多く,M市の側からそのバスやあるいはM駅発の各駅停車する電車に乗る人も乗らない人も少なかった。M駅があるM市は新興住宅地が出来たことで『そこに住む人』が増えた元M町である。M市には市になった現在でも国内で何番目と覚えられはしないが小さくもないN山を以前から市であるK市との間に抱えていて(こおの中腹に動物園はある。),M町である時から動物園や初めてのハイキングに訪れるレジャー客が少なくなかった。その点は今も変わっていない(現に『それらしき人』も僕と一緒にM駅に降りた。)。
 にもかかわらず,M市の側からそのバスやあるいはM駅発の電車に乗る人も乗らない人も少ないのは,M町から車で1時間走った距離にある,以前から市のK市に勤務地を置くファミリー層が早朝から車を走らせて出勤するからである。したがって,M駅の前で待つロータリーのバスに,またはM駅発の各駅停車する電車にはそのファミリー層は乗らない。また,元M町の時から住んでいる人々は林業など,その地に合って持続して可能な自営業で生計を立てている。そこにまずバスや電車は関わらない。したがって,元M町の時から住んでいる人々も公共の交通機関は利用しない。よって早朝である午前7時に着いているM駅を出た光景はバスが多く,M市の側からそのバスやあるいはM駅発の各駅停車する電車に乗る人も乗らない人も少ないのだ。
 そんなM駅の事情も考慮するとやり過ぎじゃないかと思えてしまう程に今日は雲がない晴れだった。だから暑くなると容易に予想でき,必ずかくと分かる汗への対策として『No.8』のロゴ付きの帽子を被り,数枚の着替えとハンドタオルを詰めたバックパックを抱えた僕は昨日のうちで連絡を取ったミムラ園長の指示で,M駅前のロータリーで『スズキミスズ』さんが運転する車を待っていた。待ち合わせ時間と場所はM駅のロータリー前,午前7時で,腕時計の長針はもう午前7時を過ぎていた。様子がクリアに見えるM駅前の,現在のロータリーにて『スズキミスズ』さんを探す必要はなかった。だから僕は待つしかない。今はただ待つしかない。
 面談を終え,今日を迎えるまでの数週間,大学前期のテスト期間に何度かBAR『サバンナ』に足を向けた。そのいずれも開店時間前の日中で,実家から送られて来た地元の名産品を持って行ったり(1人暮らしを考慮しない,個数と重量がオーバーしたものであったりしたものも含めて。),テスト期間のストレスをサトウ氏のピック音で割ったりしてもらっていた。オーナー・マサルとはその何度かのうち,3回は会えた。『いっそ,こっちでバイトするかい?』と3回目に会った時には言われて,『考えておきます。』と冗談のメモリを半分越しながら笑って答えた。『待ってるよ。』とオーナー・マサルも応えて笑った。サトウ氏も『同意です。』と開店に向けてする準備の澱みなさで言っていた。
 最後のテスト終わりが大学生の夏休みの始まりである。最後に『文化人類学』のテストを終えた僕はだから,もう夏休みに入っていた。日程と,移動時間に勤務時間を加えると,二ヶ月あるうちの一ヶ月半,動物園のバイトで終わることになる。時々はキムラと会う以外は,BAR『サバンナ』に日中でも行けそうにない。
 一ヶ月半の初日である今日は腕時計で午前7時を10分を過ぎている。僕はM駅構内に直接入っているコンビニエンスストアで飲み物でも買おうかと考え始めていた。しかしそれはやめた。ロータリーに入ってくる手前の交通整理のために数台の車の通行を停めていた信号を超えて,赤のミニクーパーが入って来た。車内に居る運転者まで分かってしまうM駅前のロータリーが,すぐにその人が女性であると僕に教えてくれた。入って来た時間は午前7時10分過ぎで,運転者が女性。他にM駅前のこのロータリーに入ってくる車はない。ミニクーパーであることは関係ないが,何故か確信の決め手となる。この人が『スズキミスズさん』なのだと。





 ビル・エヴァンス・トリオの 『My Romance』が流れる車内は基本的に話が終わった空気に落ち着いていた。沈黙していることとは違って空気は重くなっていない。ただ話さないだけだ。M駅前のロータリーから動物園までの距離が順調に縮まり,2人の時間が左回りのカーブとともに進んでいる。
 待ち合わせに待っていた僕の前にミニクーパーを停め,車から降りたスズキミスズさんは僕を見つけてから一度も離すことなく目を見て,話しかけてきた。お互いの名前の確認,遅れたことへの謝罪,それについては何の問題もないことの答え。『宜しくお願いします。』という礼儀。初対面の人々が交わすひと通りの,何でもないやり取りを済ませて,スズキミスズさんは僕をミニクーパーの助手席に促しながら,僕の荷物を置くためにトランクを開けた。僕は肩から降ろしていたバックパックを持ち上げ,2本の傘以外に何も入っていないスペースの左端にそれを置いてから,トランクを閉めるために控えていたスズキミスズさんに『僕が閉めます。』と声をかけて実際に僕の手でトランクを閉めた。勢いよく閉めないようにと気にしていたので,トランクが閉まる音は耳障りにならない適度なものとなった。
「シートベルト,締めてね。」
 スズキミスズさんは運転席のシートベルトを引っ張り,留め金の音がするまで差し込みながら,助手席に乗り込んで来た僕に言った。
「『シートベルトは閉めない信条で。』と決めていても,お願いね。シートベルトは,閉めてね」
 そのような信条は持っていなかった僕は「はい。」と答えつつ,助手席側のシートベルトを留め金の音がするまで差し込んだ。それを確認したスズキミスズさんは「じゃあ,出発するね。」と言ってブレーキペダルを踏みながらサイドブレーキを解除し,ギアを一速に入れてブレーキペダルから離した左足でアクセルを踏み込んでいった。ミニクーパーは動き出した。ロータリーに関して感じるものは後で構わないとばかりに,ミニクーパーはとても順調に青信号を超えて動物園への道路を走り出した。
 通常の国道から入るN山への道はその標高分を真っ直ぐには進まずに回り込むものとなっている点で,通常の山を囲んで走る道路と同じであった。行き交う車が殆んどないところがM駅前のロータリーを思い出せる以外は早朝の,晴れた空が少しずつも近くなり,反対に遠く広がっていく麓の景色が車内からでは吸い込めない澄んだ外の空気を感じさせて気持ちが良かった。まだ1時間40分は確実にある動物園への道程を,黙りながらもスズキミスズさんの『安心・安全』を思わせる運転に乗ってこのまま過ごすのも悪くはないと思ってしまいそうになる。けれども僕らはこの時間をこれから一ヶ月半過ごす。それはやっぱり『ある程度の関係性』になるものだ。僕らは少しは話をするのが,話をしない方向よりは雲間から見える景色も幾分変わるように思った。僕は話題を,お腹が空きそうな時間の,『余裕がある宅配メニューを見る早さ』で探さそうとした。が,その『早さ』はスズキミスズさんが『少しずつの話』を始めるより,遅かった。
「クーラー,強くする?」
  車内に取り付けられているエアーコンディショナーは夏ということで冷房機として使われていて,つまみは『徐々に車内の気温を下げていく弱』に,動かせる程度に固定されていた。
「いえ,そのままで良いです。」
「そう,分かった。」
 そう言うスズキミスズさんは,また来る右回りのカーブに向けてハンドルを曲げる予備動作を始めていた。
「免許はいつか,取るの?」
 と右回りのカーブに進入して曲がりつつ,スズキミスズさんは僕に聞いた。
「はい,取ろうとは思っています。具体的に何時だ,とは決めてはいませんが。身分証明書としても使えますし,移動も便利になるとは思いますので。」
 そこまで言って,スズキミスズさんが『僕をこうして送ること』に対する遠回りが信条な皮肉か嫌味か,はたまた文句を言っているという可能性に思い至った。そして僕は謝罪の言葉を発するべきか,それともこのまま流すべきかを,カーブを抜けて戻って来ない荷重を気にするように考えた。しかしスズキミスズさんは『運転をする者の技術』とばかりに,先に漂いそうな雰囲気に対処した。
「誤解しないでね。今の質問は何でもない,皮肉でも嫌味でも,勿論遠回しの文句の,どれでもないの。何でもないの。」
 スズキミスズさんはまた『少しずつの話』を続けた
「貴方をこうして車で送り迎えすること。それは私が自分で決めたの。だから嫌でもないし、また義務でもない。」
僕は『逆に答えるべき義務がある』と思い,スズキミスズさんに向けて言った。
「いえ,誤解はしてません。でも,僕は感謝したいです。スズキさんに。感謝します,有難うございます。」
 スズキミスズさんは『私の答え方を考える』ようにハンドルを握り直して,答えた。
「感謝の言葉は何も言わずに受け取るべきね。これは嬉しい義務。」
そう言って「いいえ,どう致しまして。」とスズキミスズさんは横からみると分からないかもしれない笑みを,口元に浮かべた。
 ビル・エヴァンス・トリオの 『My Romance』はスコット・ラファロがかなでるウッド・ベースのソロに入った。ウッド・ベースを構成する『木という木,弦という弦』を活き活きさせてその音色を響かせる。『車内に入りまた出て行く』を繰り返す空気も手伝って,車内は変わって,また進んでいくようだった。
「私たち,○○君と私の,私たちね,こうして一緒に朝をこれから一ヶ月半は過ごすよね?」
 スズキミスズさんはまだ硬いがさっきよりは柔らかい感触で,しかしやはり『少しずつの話』のように確認して来た。僕は「はい,そうですね。」と答えた。
「それはやっぱり『ある程度の関係性』になると思う。そしてその関係は『時間が経っても滑らかに』するのがいいと思うの。」
 スズキミスズさんも僕らの関係をやっぱり『ある程度の関係性』になるものと考えていたようだった。そして僕が『話題で作って確かにしようとした事』を,スズキミスズさんは『直接の約束事』として決めようとしていた。それでも良い。僕はそう思った。
「はい,そう思います。」
 その答えを聞いて,スズキミスズさんはさらに『少しずつの話』を進める。
「飽きることが問題だと思うのね。人は何にでも慣れることがある。それが飽きるにまで繋がってしまっている。そこをどうにかしなくちゃいけない。」
 血液型なんて持ち出したくないけど,『いわゆるB型』である僕は確かに飽きっぽい。努力と忍耐でなんとか日数は伸びているがそれでも,飽きるものは飽きる。対象は関係ない性質(タチ)の悪さもある。だから付き合いも含まれて,キムラに心配されたりもする。
「例えば,2人それぞれ面白い話を用意して軽妙に話す,とかですか?」
 僕はスズキミスズさんが肝心とする『どうにかしなくちゃいけない』ことについて提案ごと聞いてみた
「それも悪いことじゃないけど,私が無理。『軽妙に』なんて話せない。」
 スズキミスズさんは『少しずつの話』で僕の例えばの提案を,『少しずつの話』としては受け難いという風に,でもきっぱりと却下した。
「私が考えるのはね,飽きるのは『すべてを知って,これからも分かる』と,言えてしまう,そんな時間の過ごし方だと思うの。」
 スズキミスズさんは『少しずつ』続ける。
 「自己紹介,あるでしょ?人を知る地盤としては便利だと思う。でも人の射程距離みたいなのも決めちゃうとも思うの。自己紹介と違う振る舞いが有ってもいいのに,『そんなのあっちゃいけない。』って決めちゃう。」
 ここでハンドルを操作してスズキミスズさんは続けて「人の流動性を無視する気がするの。それはあまり良くない。」と言った。
 自己紹介。僕がBAR『サバンナ』でオーナー・マサルとの面談で,オーナー・マサルに対して話したことで,僕とはまた違った見方をスズキミスズさんは持っていた。そしてそれは,間違いとも思えないものだった。スズキミスズさんは『型』の良し悪しを気にしている。簡単に,同じものを作って手にできる『型』の良し悪しを話してる。
「でも手掛かりがない山登りがないように,手掛かりがない知り合い方もあり得るとは思えません。地図がなくても星を見て,そこに立つ大樹など,確かにあるものを手掛かりにしますから。『それともまた別の知り方がある』,とスズキさんは考えているのですか?」 
 右回りのカーブを曲がり終えるまで待ってスズキミスズさんは,『うん。』と少し頷いて『少しずつ』話した。
「うん。手掛かりを捨てた方がいい,って言ってる訳じゃないの。分かることがなければ,何にも分からないから。そうじゃない。」
 ハンドルを話せない動物園までの道を油断せず,スズキミスズさんは話す。
「組み立て方が決まってない,そうね,レゴブロックって感じが近い。コマはブロック型とかで決まっているだけど,あれ,自由に組み立てて構わないでしょ?」
 そこで曲がって,また『少しずつ』続ける。
「プラモデルと違うの。A-1から,例えばD-4までに出来た両腕と右脚,腰に胴体を並べて,部品が足りない左脚についてメーカーにクレームなんて電話でもしなくていい。」
 僕は左脚だけ2つも出来た主人公の乗っていたロボットを持っていた。一度も遊べない。そんな主人公だった。
「勝手に知っていい。勝手に知り合えばいい。過ごした時間で抱いた『そのヒト』が次にあってはめ込めない。または,」
 ここでまた曲がって,スズキミスズさんは『少しずつ』続ける。
「または『そのヒト』を崩すものであっても,また勝手にしていい。そんな自由な積み立て方。なかなか飽きは来ないと思う。」
 今度は『どう思う?』と言うように話さなかった。それを察して僕は,思ったことを短く言った。
「終了時間がない図工の時間。そう思えば多分,飽きません。そう思います。」
 スズキミスズさんは『うん。』という仕草で答える。
「そうすれば,もう少し一流か,または誰かには褒められる陶芸家も増えるかもね。」
 スズキミスズさんはそう言って,確実に『少しずつ』言った。
「だからそうしよう。コマだけ並べて,あとは勝手にしよう。違うと思っていい。『○○君の中の私』を,壊してくれても構わない。私も壊すし,また組み立てる。」
 ここで僕らの朝の車内は決まった。『ある程度の関係性』のために,それに飽きなんて来させないために,『少しずつの話』のように僕らは話をしたりする。『壊してもよく,組み立ててもよく。』。
 曲がり角は最後になって,そこでは日差しは車内に入って来なかった。
「では,そうしましょう。」
と僕が言ってからスズキミスズさんは,「うん。」と正面で今度は分かる微笑みを浮かべて答えた。園内入口近くで車道に覆いかぶさって来ている葉を超えて,割れるようにやっと車内に入ってきた朝の光は,スズキミスズさんを一番綺麗にした。スズキミスズさんは細く整った眉に程よい睫毛,切れ長の目尻を小さな目を浮かべ,面長で薄い唇を揃えた顔立ちをし,黒髪は長く,白シャツに七部丈のカーゴパンツとパンプスを簡単に動きやすく履いて,隣で運転する今日知り合った女性であった。
 車が園内の,従業員専用駐車場へ向かう今になって,僕はスズキミスズさんを見たようだった。




 動物園の全体像はオーストラリアに近い形で,名称はそのまま『M市立動物園』だ。ある場所と訪れるなら目指す場所もM市なのだから,何も間違ってはいない。
 『M市立動物園』と大きく掲げたアーチ型の看板と鉄柵で軽く作った玄関を抜けた動物園の内部は,3ブロックに分けられる。ジャブのような珍しい動物から定番の動物の一部が居るAブロックがまず最初に見れる。ラマが珍しい動物に当てはまれば,カバは定番の動物として園内の安定感を保つ。来園者が抱いて訪れる動物園への期待を受け止めてしっかりとならすのがAブロックの役割になる。
 そのAブロックからCブロックへと繋げるBブロックには閉鎖的な建物が他のブロックに比べて多い。その閉鎖的な建物には哺乳類に限らず,爬虫類や両生類を交えて小さな展示が謎めいて数多く設置されている。ここでは子供たちだけでなく,大人な来園者も楽しめる。Aブロックで退屈を吹き飛ばして楽しんでいる子供達を見た大人たちが安心し始める時間と場所という面もあるが,ここに住んで生きている生き物たちの魅力が大人たちを惹きつける。世界一の毒を持っていたり,一番手足が長かったり又は短かったり,暗闇で光ることが出来たりするその生き物たちはひっそりと来園者を待ち,謎を解き明かして人を驚かせたり感心させたりする。実力を備えたボランチのようなものだ。影ながらのゲームメイクに,来園者は動物園をもう1つ違って楽しめる。
 最後のCブロックはある意味マンネリで,しかし居ないと物足りない大型の動物たちが生きて居る。ゾウにキリン,馬に巨大な『怪鳥』と呼ばれる鳥類,建物の中の『昼の夜行性』で起きているライオンなど,
動物園のイメージを担う大型動物たちに来園者は『これだよ,これ。』とCM俳優みたいに言ってしまう。『動物園の締め』も兼ねるこのブロックで動物たちは新人俳優になんて影響されない味を持ち,固定ファンが絶えないベテラン俳優のように,堂々としてありのままに活動している。さすがの集客力を有するこのブロックでこれからも『THE 動物園』のイメージと記憶は引き継がれていく(ちなみに青いベンチもここにある。だから僕は今日からよくここにいることになる。)。




 スズキミスズさんに再度のお礼を言い,スズキミスズさんが再度義務としてそれを受け取ってから,僕はスズキミスズさんに従業員口から,ここで働くものが一日に二度は必ず席につく事務室がある建物に案内された。その入り口から右に曲がって事務室はすぐにあった。ミムラ園長は事務室の出入り口から最も遠くて最も目立つ,対角線上の事務机に座っていた。
 ミスズさんと一緒に入ってきた僕を見逃さないように視界に収めたミムラ園長は,荒っぽくも礼節は欠かさないように『おうっ。』と手をあげ,キムラさんに無言の笑顔で礼を言ってから口髭を崩しながら「うん,こちらへどうぞ!」と深い肺を思わせる響きと声量で僕を簡易なパーテーションでし切って設けられたと思う『応接室』へと案内した。
 僕はミスズさんの車中から脱いでいた帽子と,しょっていたバックパックを下ろして手に取りつつ,まだ顔見知りにもなっていない従業員の数人の視線を軽度に受けつつ,パーテーションを過ぎて見えた応接用の固めのソファーとガラス張りされたテーブルを見つけ,しかしすぐには座らずに自分の名前と挨拶をミムラ園長へ済ませた。
「園長のミムラです。宜しく!」と見た目通りに大きく強い握手を交わしてから,ミムラ園長は僕がソファーに腰を下ろしたのを確認してから座った。ミムラ園長はやはり礼儀を欠かさなかった。
「○○○○だったね。どうだい,スズキの安全安心な運転で辿り着いたとしても,わが 『M市立動物園』は遠かっただろ?しかも朝早くだ。もう嫌になってないかい?」
 ミムラ園長はイタズラ心を隠すどころか,見せびらかしているような笑顔と声量で聞いてきた。『ニヤニヤ』以上に『ニカニカ』として。ミムラ園長の意図に乗るように(そして同室のスズキミスズさんに聞こえてしまう可能性を気にしつつも),僕は答える。
「はい,園長の言われたとおりここの動物園は遠かったです。朝であることも含めてそう感じました。ここまで運転をしてくれた『女性のスズキさん』がいなかったら,僕はロータリーで人を待つバスの一台に乗ってどこまで自宅に近付けるかを試しに帰ったりしたかもしれません。」
『ニカニカ』としていた口元の形で蓄えた髭を持ち上げて,『ガハハっ!』と突き抜けるようにミムラ園長は笑い,「色んな意味で,正直で宜しい!」と口元を今度は『ニコニコ』させながら言い,「じゃあ,法的にも逃げられないように契約書を交わそうか!」と燃やし続けるイタズラ心と短く『ニカっ』とした笑みを持って,僕が働くのに必要な事務手続きとバイト内容の更なる説明を済ませていった。
  ミムラ園長は朝に必ず飲むというレモンティー(夏は冷たく,冬は寒い。今は夏だ。だからそれは冷たい。)を僕の分も淹れて,ガラス張りされたテーブルに置いてくれた。
 ミムラ園長は園内におけるユニホームである作業服を既に着ていた。その体格は太身だが引き締まっていて,運動をかかしていないことが浮き出て見える胸板の張り具合から十分に判断できる。腕も握力を左右する前腕も鍛えられていて,口元に蓄えた多くても整えられた髭と幼少から一貫した天然パーマに波打つ髪の毛と大きい両目と合わせて見れば,『シルエットで熊に間違えられ易く,しかし決して怒らない人の良い熟練の木こり』という印象だ。そしてその印象を裏切らない様に,ミムラ園長は基本的な声が大きい。事務室廊下を今から来る誰でも,先程の僕との短いやり取りを聞いているのでないかと確信もって推測出来るほどだ。でも不快じゃない。それはミムラ園長の魅力と人柄だけでなく,声の透き通り方によるのだろう。くすぐるように空気を震わせ,芯だけは残しすぐに形を解いて空気に溶け込む。『テノール歌手になればいいのに。』と,仲の良い知り合いに一度は言われたことがあっても良い声だ。ミムラ園長の風体と合間って,ますます人はミムラ園長を知りたくなるだろう。
「BAR『サバンナ』の首の長いオーナーはどうだい?まだ生きてたかい?」
 後半がメインであるかのようにミムラ園長は,レモンティーを飲んで順調さを増した声で僕に聞いてきた。浮かべてから気付くのが微笑みなのだということを思い出しながら,僕は答えて聞いた。
「はい,オーナー・マサルは『まだ生きています。』。僕がここに居る今でも首は長く,そして元気です。最近,お会いしてはいないんですか?」
「僕がここから離れられない理由があってね,まあ出産を控えてるのがいたり,体調が悪いのはいたりと,『ここからは離れるな。』とばかりに忙しくてBARにも顔を出せていないんだ。でも,そうかそうか,まだ生きていれば何よりだ。首も長いようだしね。」
 そう言って『ニカ』っとする。ミムラ園長のイタズラ心はいつでもあって,また何処までも果てしないようだ。
「オーナー・マサルから大学時代の同級で,人を見る目をミムラ園長から頼られてバイトの面接官をしているとも仰ってましたよ。」
 僕はオーナー・マサルから聞いたことを偽らずに,しかしミムラ園長が『調理し易いように』言ってみた。ミムラ園長は嗅覚もするどく,またこちらの意図も分かって期待通りに答えてくれた。
「そう言えば役割を果たしてくれる『イイヤツ』でね,バイトの面接官を『担っていただいている』のさ。その意味ではオーナー・マサル氏は嘘を言ってはいないな。発言の裏側まで真実であるなんて,『蓄えた口髭を剃り残して』でも言わないけど。」
  今度は僕もミムラ園長と同じように『ニカ』っと笑い,ミムラ園長は1つ増やして『ニカニカ』っと笑った。そして『一応真面目に』と『ある程度は親友のために』いう具合に2人の話を少しだけした。
「僕らの大学で僕は獣医学部に,あいつは法学部に在籍していてね,他学部間交流の一環という飲み会で知り合ったのさ。あいつは首が長く,僕は見ての通り,熊みたいだろ?その場ですぐにコンビにされたよ。キリンと熊のアニマルコンビ。さすがにオサルやコアラみたいな漫才はしなかったけど,仲良くなるきっかけにはなった。僕らは似てるんだ。なんていうか付属部分が。」
「付属部分ですか?具体的にはどういう?」
「例えば小学校の頃のクラブの所属。予測なんて裏切らず,僕は飼育員。そしてあいつも飼育員だった。ただの飼育員じゃなくて,放送部を辞めてなった飼育員だ。さすがに放送部を辞めた理由は違っていたけどね。僕は元々の希望通りの飼育員になることが出来たってやつで,あいつは『トラブった』って言ってた。先輩の横顔にたった1発の正拳付き,なんて言ってたな。理不尽だったらしいよ,放送部の伝統ってやつは。あとは靴のこだわり方とか,2人して靴紐の材質とか気にするんだ。僕はあいつよりオシャレじゃなくて,実用性重視だけど,あと初体験の時期とかその時の失敗とか。いつか君にも話すと思うよ。まあ,『今は朝』だから。いつかね。うん,まあ上げたら切りがないっても言えないけど,そんなとこ。切り捨てようと思えば切り捨てられる部分が,似てるんだよ。」
 『今は朝』だから聞けない部分は確約されたいつかに聞くとして,ミムラ園長とオーナー・マサルの仲の良さがその共通する付属部分とそれについて話すミムラ園長の語り口で感じられた。ミムラ園長が尽くし忘れない礼儀はオーナー・マサルについては崩されている。『適当に信頼しているし,適度に疑える』といえるその崩され方は,長い年月付き合うことで把握している2人の距離感なのだろう。密接不可分ではないけど,こいつと居るのがまあいいや,とからかうことが出来るのだ,この2人の間では。
「良い関係なんですね。」
 僕がそういうと『おっと』という顔をしてミムラ園長は言った
「悪い関係ではないさ。『良いもの』とも思わないけどね。」
 ミムラ園長が崩さないのはここでもあって,『ニカ』っと忘れず笑うのだった。




 真面目な横顔を見せたミムラ園長に紹介されて,僕は今朝出勤している皆に自己紹介を上手く行って,拍手で迎えられた。それから短く自己紹介を返してくれた中にはスズキミスズさんもいた。スズキミスズさんの自己紹介は二度目で,『さっきから知り合いました。』と言ってその場を少し和ませた。
 それから僕はミムラ園長と一緒に軽く園内を案内されてからすぐに清掃に取り掛かった。清掃するにはない方が良いゴミをあるという前提で探して拾い集める作業だ。嫌でも園内を『細分化してよく見る』。ミムラ園長の分かりやすい大きな説明に,その方がより詳しく園内を加えて知ることが出来る。
僕はローラ付きダッシュボックスを中心に外用の大きな竹の箒やちり取り用具,雑巾や拭き掃除を補助する数種の洗剤スプレーなどを取り付けた掃除道具一式を所定の場所から取り出して,持っていた帽子をまた被り,ハンドタオルも持ってそれを押し,まずは清掃のバイトに取り掛かった。
 事務室と同じく清掃道具が置かれていた所定の場所がCブロックにあったことから,僕の清掃はCブロックから始まる。Bブロック,Aブロックへと向かいながらあるという前提でゴミを探し,見つけて拾い,ローラ付きダッシュボックスに捨てる。ベンチだけ,あるいはテーブル付きベンチがあれば補助的な洗剤を吹きかけたりして汚れを落とし,最後に拭き取る。来園者に聞かれたら案内もする。案内し終わったらまたゴミや汚れの探索に勤しむ。動物たちを『見かける』ことはあっても,『見る』ことはない。清掃人は別の視点で園内を見て回り,別の速度で時計を進める。来園者も清掃している僕を『居ないもの』として扱う。体内でいえば僕は変調を来たさない限り気付かない新陳代謝園のようなものなのだ。園内を健康にし続けて,動物たちを見に来た来園者が気にもしない。それが恐らくは正しい姿で関係性なのだ。
 ミムラ園長からは特にルートややり方などの指示もなかったことから,僕はこの一回目の清掃で予め清掃ルートと大まかな清掃のやり方を決めることにしていた。効率性と内容を高めていくには土台となるベースなやり方があった方がいい。僕自身が気付かない点への指摘があれば修正し次の日に活かしていく。指摘が寄って立つ立ち位置からの視点を真似て目を肥えさせて,指摘の前に気付き,指摘がないようにすることにも心掛ける。まずは辿って決めること。見つけることが出来たゴミや汚れを1つ1つ,取っていく。
 午前9時40分から開始した園内の清掃は,約2時間後の午前11時20分にAブロックにある園の出入り口に着いた。主に飲食のために生じたゴミは紙コップや空き缶,空き袋や中身を残した弁当箱などとなった。園内のごみ箱は園の関係者の(特に僕のような清掃を仕事内容とするものの),ゴミ収集の便宜を図るために設置されているもので,確かに来園者がそこに捨てなければならないことはない。だから堂々と置かれたゴミもある。また,ゴミ箱設置の目的に気付いていながら,面倒臭さで捨てる後ろめたさを感じた来園者は,ゴミを上手く隠す努力をしていく。清掃する者として,その後ろめたさに何処か心の交流を感じないこともないが(相手は一応こちらを意識して気づかいの空気を感じさせている。),ゴミを集めるという点に置いてはこちらの方は些か厄介でもある。何せ隠されたゴミを見つけなければならないのだ。堂々と置いていって下さい,とは言えなくても,隠して下さいとも言えない。結局はこちらがどうにかするしかない。その『発見』は磨いていかなければならない。
 清掃道具を所定の場所に戻してから,昼食は園内のパーラーで購入して事務所内で食べさせて貰った。そこでは鳥類担当でその笑顔と親切心を絶やさないカネモトさんと話した。自己紹介は既に朝済ませていたので話題は清掃の感想,なんて難しいお題を振られながらも僕の大学やバイトをすることになった経緯,朝のやり取りを踏まえたミムラ園長の好印象などに及んだ(カネモトさんは朝ここに居て,やはりミムラ園長との話は他の人にも聞こえていた)。スズキミスズさんも後から加わった。話すことは『ある程度の関係性』のコマにはあまりならない,世間話に留まった。
 昼食後の午後1時からはデータ入力のバイトをした。僕がパソコンに入力すべきデータは大型動物のもの,身長・体重,血液から知れること(その型や疾患の有無など),罹患した過去の疾病から現在のものなど,動物たちの管理に欠かせない紙媒体にある記載情報であった。当然の重要データで,バイト初日の僕にでも,入力して共有や検索可能にして欲しいとのことだった。数値の変化が見た目を超えて,動物たちに生じている異常をより正確に知らせるのだから,ミスはより一層あってはならない。僕は人並みにパソコンが使えるが,ミスも少なくない。入力スピードと正確さのバランスを右に左にと意識して取って入力していく。それでもミスがあるのだから油断は出来ない。また左肩が凝りそうであった。少し指をキーボードから離せば,Bブロックの小さな生き物の検診を終え,事務処理をするために事務所内に戻って来たミスズさんがホットコーヒーを僕の分もいれてくれ,僕が座る机の,パソコンにかかる恐れのない離れた場所に置いてくれた。「すいません。ありがとうございます。」と言うと,ミスズさんは「どういたしまして。」と『心は』篭った定型文のように返事をくれた。義務感はあるのがやはりスズキミスズさんだった。僕は早速コーヒーをすすった。熱く火傷した舌で,心も意識も引き締まった。
 午後3時前。ここで僕はその日のデータ入力を終えた。ここからもう1つのバイトをしなければならない。Cブロックにある青いベンチに座っての,観察を。







 誰も座ったことがないベンチがあるとはあまり思わない。ベンチの設置には場所に応じた目的があって,それは憩いと談笑であったり,期待と不安の待ち合わせであったり,暗闇の足元を凝らして見るための『誰もいない1人の場所』であったりする。ベンチは座られるためにそこにあり,ベンチがあればヒトは座る,あるいは『座る可能性の前髪』を弄る(今日の僕は座りたいか,昨日の僕は座ったんだ。明日も座るのだろうか,今日もまだ座っていないけど,という風に。)。可能性がある限り,それがないと言い切れず,だから誰も座ったことがないベンチがあるとはあまり思わない。ヒトはベンチに座る。ベンチはヒトに座られる。
 3分割出来る園内の,そのメインともいえるCブロックにある青いベンチは全体を見渡せる真ん中にあって,座る僕が初めてのヒトとばかりに塗られた色を一滴も零すところなく,また他の誰かに痛めつけられたことなんてないとばかりにギシッとなんて鳴りもしなかった。夏とはいえ冷えたベンチにデニムを通って一緒に蒸れた体温が伝わる。特に僕の臀部と座する部分の区別は曖昧になった。擬人化して2人の体温は同じくらいになったらしい。僕はもう青いベンチに座っていた。





青いベンチに座っての,檻の外からの観察は午後3時から始まって午後5時からの,閉園30分前までの3時間を経過するまでしなければならない。そしてその総合的な結果はバイトが終了した後に作成することになっている報告書へ,書き込むべき一項目として書き込み,ミムラ園長に提出することになっていた。ミムラ園長が説明してくれた観察の意図は,『園に一番近い他人として,この動物園を見てもらう』点にあるという。来園者のような『利用はしても,やはり他人』でも,従業員のように『働いて,やはり他人になれない』という一方的な立場では『見えない何かを見てする指摘』をして欲しい。それがミムラ園長の語る意図だった。だから中々に気を抜けない。悪い意味での適当な書き込みは避けるに越したことはない。僕はだから真剣に,距離と角度と必殺の可能性を探る見習いのスナイパーの気分で,檻の外から青いベンチに座って観察を『しなければばならない』。
 青いベンチの背後には木々が生い茂って『もう森にしか』見えず,午前から様変わりしたと言える暑い日中に木陰を作っていても,僕は被っていた帽子を髪型を正す以外には脱いだりせずに被り続けていた。温度を聞くと『もう初夏なんて蹴っ飛ばして』,秋の手前で砂遊びをする子供のように興奮した季節のように感じてしまう。夏に強いなんて公言するヒトは,夏を雰囲気で楽しんでいるのだろう。それは透明で綺麗な出汁を小匙で掬う美味しさだ。煮込まれて『グツグツ』という暑さの中に飛び込む青年の気持ちはそこに入ってやしない。
 園内のパーラーでおじさんの慣れていない手つきで削られ盛られたカキ氷は150円で購入し,ブルーハワイの青さを垂れ流した。青でベンチと親密さが深まったりはしていないだろうけど,先が丸まらずに開いたままの専用ストローをストローとしては使わずに,口の中から冷やす努力を進める。この努力はミムラ園長からの命令だ。管理者責任を鑑みた日中症対策であり,園内の動物たちを見回る来園者(特に子供連れの家族の一員たるその子供)から偉く目立つベンチのに座る僕による,カキ氷の美味しさを伝える動態展示でもある。これもミムラ園長からの『業務命令』なのだ。それは『わざとらしく』なんて,決して許されないほど強い。
 溶ける前に『シャクシャク』齧ることが出来るほどに氷を頬張り,毛細血管の縮小も恐れずにそれを繰り返しては,嫌でも顔を上げた。展示には意図があり,園内の奥まで楽しませてお帰り頂くのが方針ともなれば,ベンチと僕がいるこの動物園の真ん中辺りの端っこにも見応えある動物は悠々と歩いていた。嫌でも目立つのは首が長いキリンとその手前の背が高い園内時計の2つだけれども,カバも気になって(地上最強生物候補の一頭だったはずなので),ゲージの中でたまに飛ぶ『怪鳥』も気にした。『怪鳥』はとても手に乗りそう体調でなく,一応鍛えている程度の2本の腕を束ねて無事に乗せても支えきれない体重をその身に備えていた。『怪鳥』を含む鳥類の飼育担当であるカネモトさんがその笑顔と親切心を表したような『名称と特徴』を,ゲージの前にかけたプレートで一文字の漏れもなく載せていたのに読みもしなかった僕は,『怪鳥』が最初から苦手だった。カラフルな羽毛と体毛に大きすぎてラグビーボールのように不規則そうな嘴は,何処を見ているか謎の視線を何処かに向けて飛びもしない。首は3時間中で2回振ることが分かった以外,僕は『怪鳥』の何も知らないままだった。
 考えで時間を埋めようとすれば『怪鳥』は鳴く。そのタイミングはアメフトの名クォーターのように『出端を制する。』。一切の投げ込みも許さない。一切の飛躍も許さない。地面を歩む蟻のように地べたを這った論理を推し進めてくるようだった。僕が苦手と踏んだようにして,鳴いた後の声帯を休ませずに準備して。なかなか真剣に『しなければならない』観察には,『何のために,どんなことを』考えるべきかを考えなければならない。僕はそう思う。単なる事実の列記じゃない。焦点のある事実の組み立てじゃなければならないと思っている。意思を通さなければならないと思っている。観察はそういうものだと,僕が『しなければいけない』観察なのだとも。しかし『怪鳥』はまた鳴く。『出端を制する。』。僕は考えが纏まらない。





ブルーハワイがかかったカキ氷までカップの底で変換された水のように『グチャグチャ』になって,僕は専用ストローを,今度はストローとして使って飲み干した。頭痛がしない晴れた空の下で僕は観察すべき考えを見つけられず,ただの事実が強い陽射しに仕方なく焼かれて内側に反る薄切りベーコンのように生っぽさを失っていく。青いベンチと流れる雲間に落っこちて,僕は1時間を過ぎていった。
 「何をしているのですか?横に座ってもいいですか?」
 幼い子の声の特徴としてその子の声も基本的に高く,柔い力強さを備えていた。多少高いところから落ちても怪我しない,関節のような柔らかさだった。上の空を見上げていたために下ろした顔と視線はしかしもう一段階下に下げなければならなかった(幼い子の声,と気付いていたにも関わらず,予想よりも予想に反して。)。その子はロングのストレートヘア(染めてもいない黒。)を結びもせずに腰元まで綺麗に下ろした女の子であった。目は一重だが優しく,でも鋭く,ふっくらした丸顔がほとんどの印象を収めて良い感触となった。女の子は襟元にフリルが施された白のシャツを上から覆って着ている黒のワンピースについて来させてエナメルで厚底の黒い靴にリボンを乗せていた。靴下は涼しげな半透明の,とても小さく細いものだった。白が控えてついて来る女の子はもう一度僕に質問と確認をした。
「何をしているのですか?横に座ってもいいですか?」
 僕は「もちろんどうぞ。」と確実に先に答えてから,白があとからついて来ている女の子が言う『横という隣』に座るのを待って質問に答えた。
「今何をしていたかというとね,ここから,この青いベンチから見える動物園の観察をしていたんだ。例えばあの前の方でぐずっている男の子と,そしてお母さんとお父さんの家族や,首の長いのがここからでも分かるキリンや,あそこのあの大きな鳥を。」
白が控えてついて来る女の子は『なるほどです。』とばかりにこちらを見てから,次は確認でもあり質問でもあることを聞いてきた。
「でも上を見てましたよ?」
 今度は僕が『なるほど。』と思い,『確かに。』と納得して答えた。
「確かに。君が見た時,僕は上を向いていた。青いベンチと過ぎ行く雲間に挟まれた気分になっていた。でもそれも観察のうちなんだ。観察へ向けた途中の,寄り道だ。帰り道の公園で,立ち止まって話す階段の3段目なんだ。」
 白が控えてついて来る女の子は小首を傾げた。まるでお母さんに良く噛みなさいと言われているように,自分でもそう心掛けているように。
「分かると思う。私といつものミッチャンみたいな感じ。」
「ミッチャンは君の友達かい?」と聞くとすぐに「うん!」と跳ねて,白があとからついて来る女の子はさらに答える。
「ミッチャンはね,私の席よりも黒板に近い2つ前の,でも斜めの席に座ってるの。私と一緒で髪が長くて,でもそれも私と違って結んでるの。お姉ちゃんにいつもしてもらってるって言ってた。細い三つ編みみたいで魚の骨みたいなんだけど,すごく似合ってる。すごく見ちゃう。ミッチャンはよく笑って,ミッチャンは上手に話すの。私と好きなものが似てるんだ。ミッフィーちゃんに黄色い花,口ずさんじゃう歌,憧れる男の子。ちょっとだけのフリル,傘先で鳴らす橋の柵の,晴れた日の綺麗な音。たまに何かに怒って,取り敢えず無視するところがあって,私はそれがちょっと嫌だけど,でもミッチャンは好きなの。だから私はミッチャンと友達なの。」
 一所懸命にミッチャンについて話す女の子の,言葉と言葉の軽い息継ぎと一拍の合間に僕はしっかりと相槌を打って女の子の話をちゃんと聞いた。僕が「ミッチャンはいい子なんだね?」と聞いた言葉に「うん!」と笑顔で女の子は言う。自らのことのように,きっと他人ではないように。
 白を控えさせた靴の重みを利用して女の子は下を向いてその足をプラプラさせ,抱いているように思えなかった構えを解き始めたようであった。夏の空気も和らいだ。今はカキ氷が必要なかった。
僕はこの子の家族を探すために周囲を見た。男の子はまだぐずっていて,その子の両親は分からない原因に困り果てそうになっていた。お母さんはしゃがんで男の子の背中を摩る。お父さんはしゃがんで軽く組んだ前の手で,いつでも抱っこする体制をキープし続けている。男の子は気付いてはいるのだろう。泣いている涙が起こす乱反射の世界の中でも,一番近くに居る彼の母親と父親のいつまでも待つ心遣いに。でも泣きやめない。泣き止まない。何故なのか。何故なのだろうか。ここで『怪鳥』がまた鳴いた。女の子はそっちを見ていた。
「男の子はなんで泣いているんだと思う?」
  思っていた疑問が流れるそのままに,僕は女の子に聞いてみた。近い年頃に思えたからという見た目にもたれた安易な質問だったかもしれない。それともベンチに座る2人の年齢差で青いバランスが崩れるのを避けるための,崩れるのを先送りにするための質問に似た一人言だったかもしれない。でも女の子は考えた。空気とか,状況とかその前に場に出た質問に答えるために,女の子は考えていた。単純なる誠実さ。横に座っても対面する気持ち。それがすべてとは言わないけれど,そんなに要らないなんて口に出来そうにはなかった。
「うーん,わかんないっていうのが一番の答え。私ね,ぐずったことがないの。赤ちゃんの時からそうだったって,お母さんが言うの。今もそうなの。私ね,欲しいものやしたいことは『いつも全部』言うの。目の前の人に。言わなきゃいけない人に。遊びに行く時,お泊まりする時。お洋服を買いたい時。いつもお母さんに言うことが多いの。お父さん,遅いお仕事で家にあまりいないから。家にいる時は何でもさせてくれるし,してくれるから。だからお父さん好きなの。お母さんが嫌いって訳じゃないけど。でね,叶わない時に泣くの。しゃっくりするぐらいに泣くの。だからぐずったりしない。私は言うから。それでも言うから。」
 僕もぐずったりした記憶はなかった。母に聞けば一度はあるにかもしれないが(いやないかもしれない。母はかなりの都合で記憶を並べ替える。母の記憶は気分に左右される。お利口さんと言われている僕は母の中で,ぐずったりしたことなんてないかもしれない。),僕自身の体感としてはしたことはなかった。黙って拗ねる。遠くを見る。大きな立て看板の,綺麗な女の人を見たりする。僕の解消方法は内側と外側の間の距離を大きく取ることだった。僕は黙って拗ねた。遠くを見て,大きな立て看板の綺麗な女の人を見つめていた。横に座る女の子とは違う男の子が近くに2人居る。1人は泣いてもう1人は,隣り合って座ってる。
「でも想像してみるね。ミッチャンと私の間でね,想像ゲームが流行ってるの。これはね,色んなものになってみるの。鉛筆さんとか消しゴムさんとか,筆箱の中の猫さんとか。この前はカオルチャンの髪を留めていた輪ゴムになったの。カオルチャンの髪ってね,とっても太いの。そしてね,やっぱりまとめる髪の量が多いの。だから苦しいよーとか,はじけるよーとか思ってるって想像してみたの。あ,カオルチャンとは仲良しだよ。だからこれは笑えることなの。その想像ゲームをやってみるね。あの男の子に,なってみるね。」
 そういって男の子をじっと見つめ始めた女の子は足をプラプラさせることまでやめて,深く集中していた。さらに白は控えて見えた。襟元のフリルだけが何も知らずに可愛らしく,首もとを着飾っていた。
僕も見てみる。男の子はまだ泣いていた。お母さんは根気強く座り続けていて,お父さんは立ち上がり腰に手を当てていた。溜息を少しづつ漏らしているように,息を薄く吐いているような顔をしていた。
「男の子は欲しいものがあって,それを買って貰えなかったかもしれない,と思う。ジュースは飲んだし,お菓子も食べたけど,欲しいそれだけは買って貰えなかった。私もあるけど,一番欲しいものを二番目とか三番目とか違うもので代わりにするの。それがガマン,って分かるし,大事だって分かるけど,ずっとはやっぱり嫌。動物園に来た今日は特に我慢出来なくなった。オトナって『次は買ってあげる。』っていうでしょ?あの男の子もそう言われたかも。それが一番嫌だったんじゃないかな。」
 女の子は『どう思う?』という顔をして僕を見た。一番あり得る想像だと思った。筋が通っていて,『大人としても子供としても』経験したことがある場面だ。『そう思う。』と思って,そう答える。女の子は『うん。』と一先ず満足して,違う続きを想像をまた始めた。
「次にね,あの男の子はしようとしたことが上手く行かなかったのかもしれない。お父さんのためと思って片手で一所懸命に手を伸ばして取ったのに,倒しちゃったケチャップの赤い入れ物だったり,お母さんを楽にしてあげようと思って手を伸ばして,持とうとしたのに取ろうとしたでしょって怒られちゃった,あの袋の荷物のできごとなのかもしれない。喜んで貰えると思ったことで怒られることって悲しいもの。喜ばれなかったことより,分かってもらえなかったことが悲しいもの。怒るより泣いちゃうくらい,悲しいもの。」
 白が控えて慰めるように,女の子はまたちょっと下を向いた。言いたいことを口にする女の子はそういうことが多いのかもしれない。口にする分より言わないより,何もしないよりは何かをしてしまうために。誤解に慣れてしまった大学生の僕は泣くよりは怒り,説明をするよりは焼き鳥を食べて取り敢えず笑うことが多くなっている。悲しくないはずはないけれども,誤解が解けない少なからずの経験のために,僕は泣いたりしないで,遠くを見て黙るのだ。
「困らせた顔なんて見たくないのにボクのせいって思ってしまって,あの男の子は泣き止めないかもしれない。あんな時ってただ抱っこして貰って,ただ歩いて貰ったら泣きやめたりするの。肩に顔をくっ付けて,まだ泣いたりしてるんだけど,お父さんの背の高さで歩く足音聞いて,チラッと見える景色も変わって,お父さんとお母さんが違った話をするの。少しずつ笑って,楽しさも包まれる腕と体から伝わるの。『みんなの間に何もないこと』に甘えられるの。こうだったなんて言えないし,学校のマミコ先生だったら絶対許してくれないやり方だけど,お母さんとお父さんだったらいいと思うの。何も言わないで泣き止んで,また一緒に手を繋いだりして,今度は両手でケチャップ取ったり袋を持ったりして,それでいいと思うの。」
 抱きしめられたら飛んでいけないし,遠くに離れていけもしない。未だ恥ずかしく顔を上げられずに自分でも歩かず,でも一緒に連れられてお家まで一緒に帰らざるを得ない。『何でもないよ。』と言わないで,『何でもないこと。』と扱われるのは曖昧が多い優しい余分となって,お父さんの頼もしさになる。前髪を掻き上げるお母さんの感触になる。いつかは顔を上げられる。いつかは『あのね?』と話を始められる。
「抱っこされて機嫌が直っちゃったのに,甘えたくてそのままでいて,ついついしちゃった宙に浮く足の『プラプラ』で脇腹をくすぐられてすごく笑っちゃった時は,今思い出しても何とも言えない恥ずかしさと嬉しさを感じる。想像の正しさの一事例になるかは分からないけど,君は想像が上手だ。僕には君のした想像の経験がある。だから君の想像はどちらもあり得ると思う。どちらも間違っていると言えない。」
  女の子は白が控えてついて来て隠せない笑顔を浮かべた。『でしょ?』と言いたそうだが言いはしない『オトナな』顔をしていた。お母さんに引き寄せられて抱っこされたげな男の子は,お父さんが荷物を持ってことでお母さんに抱っこされた。顔はやはり埋めていた。泣き声が止んだのは気のせいじゃなかった。
「ところで,もう聞くのも遅いかもしれないけど,君の家族は?まさか1人でここに来た訳じゃないよね?」
 僕が最初にすべきだった質問を聞いて女の子は『もちろん。』という顔をして,「ここにいるよ。だってお父さんが車を運転してみんなで来たんだもん。」と答えた。しかし近くに家族はいない。男の子の家族しか居ない。
 白が控えて付いてくる女の子はキリンよりも手前にある背の高い園内時計に目をやり,『もう行かなきゃ。』という風にベンチからジャンプして下りて,最後に振り返り,「付き合ってくれてありがと,お兄さん。もう行くね,じゃあね。」と言ってかけて行った。
 僕は一応手を振り下ろそうとしたタイミングで女の子はまた振り返った。襟元のフリルはちょっと揺れ,女の子が手を降ることで大きく揺れた。僕は応じてもっと手を振りかえした。女の子は向いていた前に顔を向けて走っていった。
 初まりと同じようにたった1人で青いベンチに座っていても,『怪鳥』は三度鳴いても,双六の1つのコマのように『振出しのスタート地点』に戻ったわけではなかった。僕にはやることがある。僕はそもそも観察をしていたのだから。
 







  穴を掘るには月明かりが適している。だから明るい月が一番高く,煌々と光っていることが穴を掘るスコップの,持ち上げた腹をより鈍くすることになる時間に外に出る(『暗い』はいけない。意識は容易い。自分の何処かが,どこでもいいから,じんわりとでも見えなくてはならない。)。ここで腕時計のベルトの穴を,一個繰り上げて締めるべきだ。ぎちぎちになんてならない。ウエストほど測ることはなく,首回りよりは気になる手首から,僕らはもう一回りは痩せている。動けるほどの水分以外は,お腹が空いても口にしない。食べることができることに満足はしない。何かをするためになら。穴を掘るためにでも。
 しかしボクの履く靴の紐は長い。長過ぎて踏んでしまい,その度に,街中や駅の出入り口で(改札口は駄目だ。人が通って迷惑をかける。),しゃがんで直して,結んで立ち上がることに神経を取られて歩かなきゃいけない。玄関から持ってきたのは骨とスコップのうち,コンクリ地面に置いたスコップは浮いた無骨な矢印みたく,『向かうべきはその先だよね?』と行く先を決めつけて見ている。置いた袋の中の骨はお互いの形に文句も言わず,折り重なって纏まってる。スーパー帰りの卵並みに取り扱ってるから,その1本も折れてはいないはずだ。カシャンといったし,ガシャンといわなかった。けれどボクはクシュンとする。12月を過ぎた時期に風邪を引いた,ボクに気付く。熱が出るにはまだ早い。骨と袋とスコップの三角関係に手を入れずにボクのお家には帰りはしない。
 ボクのお家の階段からは見えず,直線2つ目の信号を左に曲がって見えるロータリーは静かで,たとえ車が一台もそこを通り忘れても,赤信号の点滅の合間に抜け出した原付バイクも事故なんてなくても,腕と一緒に上げた手と渡る横断歩道は『正しい』。そして真向かいの,シャッターを降ろし忘れた歯医者さんに残るウィンドウに映る姿は『宣誓します。』と言えそうだ。だから宣誓しますと口元で言ってみた。だけど宣誓することはスポーツマンシップに則ってもない(タクシーのおじさんにまだ腹を立てたけど,これは別に宣誓することじゃない。宣誓すべきことにならない。)。良い事なのだろうか?それとも積極的に悪いとは言われないことなのだろうか?クラスのヨシダ君は真面目だから,朝会が宣誓だけで終わりを迎えそうだ。一度話しただけのコイズミさんは宣誓に乗せて結局自己アピールを上手くしそうだ。じゃあボクは?それなのにボクは?お母さんと一緒に自転車に乗る子供はいつも質問をして『アレはナニ?コレはアレ?』と繰り返してすぐ聞く。昼間にお母さんは答えてくれる。じゃあ今は?月明かりの真下にある今は?オトナが忙しそうな今なら?増える疑問の整理整頓に手間取ったから横断し切った歩道の信号は『他にもヒトがいる』とばかりに,そのカラーを赤に戻す。振り返ってカラっという。冗談じゃない。ジョークでもない。袋の骨は生き返らない。袋の骨は首が長い。 穴を掘るには土が要る。セメントでもいいんだけど,それはとても『骨が折れる。』。では土は何処にあるのだろうか。『動物園には』あるのだろうか。疑問は尽きない,歩道を歩く。






『奥の動物園』には入れた。監視カメラは電源ONのまま,問題なんて抱えずに作動しているようであったし(REC中って感じのランプが『見つけた!』とばかりに赤く光っていた。),開園口である閉じられた門にはボクの足跡がくっきりと残っているだろう(昨日から残っていた水溜りに右足を突っ込んでしまったし,それを洗うだけでなく落とす時間なんてボクにはありやしない。)。やるなら今日しかない。するなら今しかない。『奥の動物園』は木々が緻密に生い茂って地面から見上げる限り『もう森にしか』見えなかった。『そうじゃないよ。』と訂正してくれるのは恐らく内開きの最後のドアーがここからでも見える,園内の端っこの建物だ。それは白く正方形を積み上げて作られた塊の正方形のようで,振れば『とても大きな運命』を6つの数字で占えた。ボクが大体振れば4だ。今はどうかは分からない。建物も預かり知らぬと月明かりの下でそっぽを向いている。誰も見ていないから肩を竦める。しょうがないから近辺を歩く。骨とスコップはついて来ている。
 群生するといっても接触しているわけでもなく,隣接しているともいえない『もう森にしか』見えない木々の間に隙間は見つけられる。けれども,どれも適したものと思えなかった。正確には『ここが適した隙間』と確信できなかった。その要素が掴めない。これが理由と並びたてられない。しかしそんな時の深呼吸,と彼は良く言っていた。だから目を閉じて,深呼吸をする。心の中の変化を感じ取る。それは内心で,とても自由だ。油断していると何食わぬ顔で抜き去り,周回遅れの顔をする。だからしっかりと感じ取らなければならない。電気を1つでも多く付けっ放しにして,逆に消してはならない。要素は何だ?何が足りないのだ?





 鳥類かと思ったのが最初で,違うと思ったのが次になった。視線は数羽の鳥を固まりの集団となって飛び立たせ,そんなところに鳥が寝泊まりしていたことにボクを気付かせる(その飛び立ち方は同種の鳥類の視線によるものとするには突発的過ぎた。)。視線は圧力を増し忘れてた2階の部屋の開けっ放しの窓のように空気をすべて出して入れる。『ことごとく』変えていく。ここから一緒に出て行かなくてはならなず,ここに近寄ったことが正しくなかったのだと思ってしまう。ここにいるには特別な理由がいる。黙ってしまう程に。言葉をなくしてしまう程に。次に出す声が枯れていないか心配をしてしまう程に。気持ちを収めて,差し出すように。
 裏から押し出された空気が雲になって留まるように抵抗する一時の曇り空になって,明るい月を覆い隠す。それでも漏れる光が間違って隕石が落ちた場所のように,狭くて出来やしない大きい走り幅跳びをすればすぐ着くような近くの木と木の間の,隙間を射した。条件は分からないままでも満たされることもある。ボク自身で満たすことが出来ないだけで,ボクに関係なく満たされもする。足りない何かは埋まったのだ。それは視線そのものでなく,視線から生じたことなのかもしれないのだ。それを探求する時間はない。視線がずっとあるとは誰も言っていない。弔うなら今なのだ。そうなのだ,そうなのだ。




ミミズが居ればその胴体は切れたように思えるぐらいに地面に刺すスコップの先をそのままにして,穴の深さがまだ浅いのを確認する。見ている視線を頭上に抱えて(『有り得ない鳥類』と名付けて), もう土の塊は飛ばした。骨を埋めるにはまだ足りないので,踏み込むスコップの先で土に亀裂をもっと入れなくてはならない。そこで働くテコの原理。持ち上げる土塊。乗せて投げる土の塊。汗は出ない不健全さを招く気温はまだまだ冷える。二酸化炭素で曇らせる眼鏡を拭くのを忘れたことを,今思い出したから幸運だ。そう,幸運なんだ。地面に投げた袋から顔を出した大腿骨に肋骨も,その通りだと言っている。視線は『有り得ない鳥類』のまま,黙ってまだ見つめている。
 



 


 掘った穴にはきちんと上がって,地上に帰る坂道は作っておいた。握力はもうなく,弱りつつある太腿の支えももう切れる。スコップを杖のように使うのはヒトの智恵だ。今はもうヒトのボクはそれに倣って,地上に向けて歩みを進める。頭頂部を抜けて『もう森にしか』見えない木々の奥を見てしまうボクは先程から渦巻く曇り空の残り時間を推し量るように見上げる。そうしてから『有り得ない木キツネ』の気配を探す。瞬きをし始めた向こう側の瞼がそのうち眠りにつくように,途切れて感じるその視線を書き留める。あとは骨を埋めるだけだ。しかし急いで,但し確実に穴に向かって埋めるだけだ。
 主だった骨しかないから,ヒトと同じように206本もないから,袋の骨は数回の投げ込みで全部終わる。最後に投げ込むのが首の骨になったのは偶然だと言い切った。そうじゃないなんて,今のJ-POPにも使われたりしないと思ったからだ。長い首の中間を握り締め袋から取り出し,射し込む残り僅かな月明かりでその様子を観察した。関節の数に違いは無かった。骨の幅に指が入り込む隙間はあった。ボクの指幅にピッタリだった。投げたらボクの手首から先が行ったきり帰って来なくても,納得できない方が不思議だった。試しに投げ込んだ。その推測は間違うものになって僕の手首は無事にあり,袋には1つも骨は残らなかった。
 感じない時間が長くなり,晴れ模様を増す上空の月が煌煌とする前に埋めた穴の上でボクは骨を埋め終わった。スコップはもう突き立てなかった。眼鏡について落ちない土を落とすこともできずに,月へ帰すようにそのままにした。汗はやっと出て,いつも通り背中に多く流れてチェックのシャツに,去り忘れた水溜りみたいに所々の薄黒いシミを作った。右足だけがよく疲れていて,左足が続いて疲労感を示したのは右利きのボクで,利き足も右なボクならではだった。いつ立ち上がれるなんか保証されていない。可能性は尽きなくても,あり得ることであったとしても,もう立ち上がらないと決めるぐらいに。
 でも深い弔いに余分な力は要らないのだ。ボクはもう目を閉じた。深い弔いには身体の中の暗闇がいる。内心の,とても自由な広がりのような暗闇にはボクの眼鏡もなく,手の平に乗る兎もいない。指先から何かを始めることもできないし,『ボクは歩み出した。』なんて物語も始まらずに終わりを迎えない。声帯は疲労と酸素の通り過ぎてカラカラで,震わせたらあかぎれみたいに血が出るから黙っていて,沈黙を減らすように勝手にしている黙考も寄せては返す波間の浅さみたいに弔いを損ねる。何もしなくていい。そう,言わなくても書かなくても,ト書きみたいに呟かなくてもいい。もう,いいんだ。もう。
 そうして『有り得ない鳥類』ももう消えた(同時かどうかは分からない。だったとしたら偶然かもしれない。)。そしてまた会えるかは,知れなかった。






 曇りの日よりも雨の日の方が動物園は暗くなった。傘を差す不便さがあり,雨雲から降り落ちて跳ねる雨粒で濡れる概ねの足下が気になることもある。これらの不便さは柵の向こうで傘も差さずに雨に濡れる動物たちの姿に徐々に,人によっては最初から急激に吸い込まれる。動物たちは何とも思っていなくとも,不平等感を来客者は感じてしまう。または文化を纏いすぎたヒトとしての自分達の傲慢さのようなものを心の隅で大まかに,意識の縁で確実にキャッチしてしまう。動物園がひた隠しにしていたある種の後ろめたさを倉庫の奥から思わず出してしまったように,ヒトはそこに気付かされてしまう。
 観察してから9日目に初めて降った雨の日の今日はやはり来客数が僕の目にも見えて少なく,遠方から来て今日が動物園来園の日と詰まって動かせないテトリスのブロックのように『こなして』いる最小限の核家族が数組,ここ2時間で確認できたぐらいであった。今,目の前から正面向いて動かさない視界の外れへ移動している核家族の,父親が押すカートと合羽代わりのシートの保護の中に座る男の子は,さっきから近づいて離れる動物たちをよく見ていないのが分かる。簡易な関節と色ぬりで完成になった人気のヒーローの手を大きく上げたり,目の前で小さくお話をしたりすることに夢中だ。たまにする悲しそうな顔は裏切られた期待に対するものか,それともそれ以上のものなのか。動物園の端っこで雨合羽を着てベンチ裏の,『もう森にしか』見えない木々のすぐ手前で何かの掃除をしているようにして観察を続ける怪しい僕には『知ることが出来ない彼の気持ち』だった。
 対する曇りの日の湿気。この点を考慮しても,人の気持ちは密かにぬかるみ始めるのが曇りの日の動物園だった。晴れの日よりは余裕がなく,しかし偉く静かに興奮していると,ここの動物園のベンチに座る僕は感じた。それは降水確率と肌で感じる実際の湿気感が高まることに比例し,低空飛行の数値に安心したりしていた。もうすぐ降るかもしれないことに,特にお母さんは気を取られて,いつでも差せるように購入した傘を準備して(手に持ったり,あるいはお父さんに持たせたり,子供と一緒にカートで運んだり。),意識しない急ぎ足で園内で暮らす動物たちに近づき離れ,近づき離れを繰り返す。子供は敏感にもそのスピードを察知してわざとゆっくりとだだこねる子から,思い出を強く残そうと大声をずっと出す子も居た。動物好きで物知りそうなお父さんは(こういうお父さんは綺麗な口角と,たまにある口髭と一緒にタートルネックの上でニコっと笑って説明を始める。),しかしスマホの操作に気を取られ説明を満足にせずに『雨が降るぞ。』と告げるべきかどうか,残り時間を別の遊びに費やすかの判断を迫られている。ゆっくりとのんびりと,それこそ悠々とした象のような歩みで動物たちと交流しようとしている人はほとんど歩かない。多分,カフェにでも居るのだろう。明日でいいやと,コーヒーを飲んでホッと息をついて動物園には来たりしない。




 
  それから3日続いた曇りを抜け,快調に続いた晴れの日が到来して4日過ぎたその日,僕はスズキミスズさんと車に乗って朝を過ごし,清掃,データ入力,観察をして帰って来た園内の事務所で,ミムラ園長を始めとする園内の皆から仕事終わりで始まる歓迎会の招待を受けた。主には正式な新人のタチバナ君のためであり,ミムラ園長のイタズラ心も加わって,ついでのバイトの僕が歓迎されることになった。開催場所は動物園へと辿り着くための最初の別れ道の右折道路の先にある,一軒家が固まって仮のように街を作ってる地域の一角に建つ,大型動物担当のコスギさんの一軒家で行われた。コスギさんの一軒家は白い二階建て,二つの大型鉄板を使ってBBQが出来る大きな庭に,コスギさんのアクアブルーメタリックなプリウスと奥さんのホワイトなワゴンR,中学生になる長男の自転車をギリギリ収めてゆとりない,ガレージ付きであった。一応お泊まりは可だという。自宅は遠い乗り換えと,合計2時間の電車移動を要する僕は,だから確実に申し込んだ。冗談目かして,形式的なお断りと実質的な了解を得ることができた。
  参加者は園内関係者10人に近所の顔見知り3家族が加わって,かなり大所帯な歓迎会となった。だからメニューはやはりBBQ。たまに奥さんや料理得意な独身女性陣のアクセントな一品料理(クラッカーなおつまみを超えたり越えなかったり。)がテーブルに並べられた。主役のタチバナ君と一応主役な僕が余興の始まりとばかりに自己紹介を『させられ』,過去の恥ずかしさを吐き出せとバイト料の減額をちらつかせてミムラ園長がいうものだから,勘違いでから回ったタウンページの恋電話の話をした。偉く笑われた。未熟な調査と短絡的な舞い上がりに告白までしたのが完璧だったと称えられて,バイト料が減りそうになるオチだけはどうにか回避できた。
 2本の瓶ビールから焼酎の水割り(割合は焼酎:水で6:4。)を定番の透明グラスで飲んでいた僕はミムラ園長から出頭命令を受けた。断るとロクな目に合わない一方的な雇用関係にある僕は,撤退理由とともに隣に空いた席に座った。僕は顔が赤くなりやすいが,ミムラ園長もそうらしい。確かまだ瓶ビールを1本と半分空けたぐらいのはずだった(空いたグラスは見逃さないのが僕の心情だ。)。
「雨の日も観察したんだって?」
 グラスの乾杯の親交の音に構わず,ミムラ園長は僕がバイトでしている観察の,8日前の雨の日の観察について聞いてきた。
「はい,雨合羽を着て,ベンチ裏を掃除している風にして園内の観察をしました。だから晴れの日みたいに堂々と,曇りの日みたいにじっくりと,とは行きませんでした。」
 僕の答えに『やるじゃないか。』と軽く笑ってミムラ園長は「いい心がけだ。」と評価してくれた。今までも雨の日に観察しなかった者がいないわけではないが,やっぱり少ないらしい。雨の日にまで観察をした人は。
「観察結果は最終的に,総合的なものとして君から口頭でなく,書面をもって報告して貰うことになっている。だけど,そのうちの1日ぐらい,薄く切って貰ったローストビーフみたいに摘まんで聞いても問題なんてないな。だから聞こうと思う晴れの日でもなく,また曇りの日でもない日の動物園は君の目にどう見えた?」
 僕が少し間を置いたのは,あるいはどのぐらい加工すべきかと考えたからだった。僕が抱いた雨の日に園内で思ったことは動物園で働く人達の,デリケートな部分に気になるものを置くことになると,それこそ思う。ミムラ園長は怒ったりしないだろう(あえて雨の日の観察について質問しているのは,ある程度の予測も入っているだろう。)。でもミムラ園長が気にしないが確かにある内側の重しになってしまうこともありうる。だから話すなら,僕がまず決めなければいけない。それでも話すのか,それとも躱すのか。 決めることと行動することに伴って影響する,僕の心の部屋の様子を。
 白が控えてついて来る女の子は『それでも』と言っていた。私は『いつも全部』と言っていた。そして今夜の僕はクリーム色のタートルネックを着ている。白の長袖Tシャツを内に着て。
「雨の日でも来園するヒトは,曇りの日のヒトより落ち着いていました。ただ晴れの日のヒトより悲しんでもいました。多分来園したヒトはこう思ったのかもしれません。ココがもしサバンナなら,移動しなければならない理由がない限り,動物たちも雨宿りをするだろう。ココがもしサバンナでなくても,僕が本当に掃除を軽くしていたベンチ裏の,『もう森にしか』見えない生い茂った木々の隙間にでも偶然にも留まれたのであれば,当たらない雨の細い線と伏せる幹のうねりを見比べることも出来ただろうと。でも違うんです。そのヒトは傘を差し,動物たちを見る視線に前髪を一滴も濡らすことはないのに,視線を送る先の動物たちは違うんです。」
 僕はミムラ園長の目を見ながら,その様子と一緒に話を始めた。僕は話すことに決めた。話すことに伴う僕の心の部屋の様子と生きることにした。ミムラ園長はビールを一度飲んでも,きちんと話を聞いていた。そこに快や不快はなく,『続きが聞きたい。』という意思があった。
「『雨に濡れる僕たちを,僕たちは悲しいものと思わない。』と,想像すれば動物たちは発するかもしれません。ベンチ近くの大きな鳥が3時間中2回は首を振り,ベンチに僕が居ると大きく鳴くように,動物たちは発するかもしれません。可哀想と思うのはヒトの見方の1つであって,何にでも適用するのは間違いかもしれません。でもそれも違うんです。傲慢だとかそんな話ではありません。園内で感じてしまうヒトと動物たちの一方的な,管理者を経由して可能な鑑賞という借り物の関係の彫りの深さが悲しみを, 水のように誘うのです。相手の立場に立って想像できる,気持ちを広げた幅が大きい,来園して欲しいと思える人ほど誘われるのです。内在する動物園の構造図に。」
 ミムラ園長は残していたビールを飲んで,僕は作ったばかりに焼酎を定番グラスで一口飲んだ。経済的にいえば,動物園は来園によって生じる利益で運営される。その来園は動物たちによって誘引される。その仕組みはアミューズメントパークと同じで,デパートとも一緒だ。違うのは動物は生きているということと,園内で初めから生きてはいなかったという不自然さだ。連れてこなきゃいけないし,不自然にもここで分子学的に『発生』させなければならない。園内は管理されている。それは動物たちにも言えてしまう。内在する,動物園の構造図。
「うん,分かった。」と目的語を意図的に隠してミムラ園長は応じた。そこにいやらしいとか,恥じるといったものの雰囲気は真昼のビル間を飛ぶ蝙蝠ほどあり得ず,大事に答えるための準備というのが適するものであった。
「それは僕らが必ず考えたことで,また考えるってことが続きすぎて,考え慣れていることでもある。動物園で真剣に働く程に,いい加減な気持ちを忘れたままにする程にだ。」
ミムラ園長はいう。
「動物たちはココにいるべきでない,なんていつもどこかで思ってる。自然がいい,なんて安易にいう訳ではない。生存率と死亡確立との比較で考えれば,管理されている園内がより生きることができると言えるしな。僕らが気にして止まないのは動物たちの生きる道程に,僕らが大きく介入し過ぎているのでないかという点だ。動物たちが危険を犯しても得るものがあるとして選んだわけではない決定。しかし決定的に違う。一方しか選べないから選択だから,大きい介入の選択の反対側では見えないもう一方の可能性がとても潰されている。そんなことが1つも見えやしない,感じられもしない。それが酷く怖い。そんなこと,していいのかって思う。」
 『一方的』だから『疚しい』。それが『大きい』ものだから『怖くなる』。意思を強く意識し,『個々人の貴重さ』をどうしても意識てしまうヒトだからこそ抱える感覚。動物たちにそんなものはないと断言し切れない想像力。ヒトが勝手に抱いているかもしれない。言わなきゃ誰も気にしない。それでも心のどこかで,論理の片隅で生じる倫理観のようなものなのかもしれない。僕が雨の日の観察から感じて,今ミムラ園長が話したことは文化の裏に隠された,無邪気な探究心と残酷さなのかもしれない。
  ミムラ園長はもう散って緑の葉を付けている木が『せめて』と残したような,綺麗な桜色が施された小皿を苦労なんて言わない距離だけ取り上げて手前に置いた。そこにはピーナッツがあって,ミムラ園長はその数個を摘まんで口にする。僕にも視線と小皿を傾かせて食べるかどうか聞いてきたが,僕は遠慮した。焼酎を2回,僕がさらに飲むまでミムラ園長は考えるようにピーナッツを真剣に食べていた。何故やめないのか。何故続けるのか。自分のいつもの質問に,同じになって新鮮さを失くしたりしないように答えを出すように。
「でも僕らがこの職業を選んだのには,動物園で出会った動物たちとの触れ合いがある。首だけじゃないキリンの長い舌。林檎をつまむ象の鼻。馬とのぎこちないコミュニケーションの短い体験,ライオンの余裕。姿や生き方も大きく違うけど,どっかで通じ合えると感じる動物たちの園内の姿。僕らはとても素直に感じ入ったんだ。小さい体で背伸びもして,同じ生きているものの凄さと喜びを小走りで駆け抜けた園内で感じたことがあるんだ。動物園で動物が好きになった。これは僕らの事実だ。そしてこの事実は今も終わっていないと思う。この体験が僕らだけじゃないって,思うんだ。そう信じている。とても我儘であってもだ。」
 ミムラ園長は続ける。
「動物園で生まれて育んだこの心が伝えることが僕が園長として動物園を運営する動機で,辞めない覚悟なんだ。大人になって動物園自体を反対してくれてもいい。そこに動物たちを大切に思う気持ちがあれば,動物園に良いところはきっとあっていい。」
小さい頃に感じた感触をこれからの子も感じて繋がっていくのであればと続ける動物園。生死に関わる矛盾を殺すことなく,その奥で抱え続けている。動物園はその奥も含めて生きている。動物園には奥がある。
 『良いところはきっとあっていい。 』。それは間違いにはならない。
「悪いところより良いところを見る方が,起きて美味しい朝食にありつける。」
「うん?それは何かの格言か?」
 僕が焼酎に向かって言ったことに,ミムラ園長は確認のように聞いてきた。
「いえ,僕の父の発言です。母が不在の時に限って,父は僕によく言っていたんです。おそらく父は結婚生活の妙のようなものとして言っていたと思うんですが,僕の中では『色々と使える』言葉でした。初めての友人を作る時も。2人目の恋人を作る時も。また動物園でこれからもバイトするにあたっても。」
 意図することをお互いに測るように,ミムラ園長と僕は見合ってから『軽い笑いがいい』とばかりに笑った。
「上手いはぐらかしにも聞こえるな。」
 そう言ってミムラ園長は残りのビールを飲みほした。僕の焼酎は半分以上を迎えて,まだなくならない。小皿の上で散らずに桜色がピーナッツの茶色とあまり上手でないという風にテーブルにあった。今度は1つ頂いた。割って食べるのは,久し振りだった。





 歓迎会自体は午後11時辺りにはもう片付けが済み,あとは形式上の名前が不要な飲み会となった。ミムラ園長とはそのまま飲み会に入り,タチバナ君とオオバヤシさんも交えてミムラ園長が水族館にも勤務していた話から,タチバナ君の熱意テストにオオバヤシさんの横槍入りの単なるタチバナ君いびりへと発展していった。僕も少しは横槍と多めの冗談も言った。酔いに関係なく楽しかった。
 トイレのために立った席からそのままコスギさん夫婦(というか親切な奥さんからでなく,専らいたずら好きで仕切りに野宿を進めるコスギさん)から無事にあてがわれた今日の寝室に上がって荷物の整理をしておく。飲み会が何時まで終わるか知れず(明日は週一の休園日で安心して明け方まで飲める),まだ付き合う時間の中で増える飲酒量を考えるとすぐに眠れる用意と鈍いままに起きて不都合のない準備を整えておく必要があったからだ(スマホのメールチェック,電車の時間から考える明日の起床時間,着替えとなるTシャツにたまに忘れる靴下はあるかという僕の半端な細かさについて。)。今日のバックパックにはTシャツ,下着,そして靴下がきちんと入っていた。午前の11時台に出る電車に乗れば午後2時には僕が住む街に着く。その時間であればその日の気分で決まる用事と決められている用事(キムラと少し会う。)の双方は済ませることが出来るだろう。起床時間は決まった。睡眠時間に関係なく,午前の9時には起きようと思う。
 立ち上がり切る前の中腰で,見上げる格好で,換気のためと涼を取るために開けていた窓を見れば今も『今日は晴れていた』。でも立ち上がると途端に見えなくなる。僕が眠る予定のこの部屋は生い茂る木々を前にして酔いの宴の様相を着々と増している大きな庭を左側に捉え,二階建てのその二階にある。だから僕がきちんと立って近付けば窓のすべては木々で覆われ,木々の頭をさらに抜けた月と空なんて見えなくなる。そして何かも暗くなる。もっと近付けば太い幹とともに木々の1本1本が手でも触れて,木と木の間の,蓄える葉と葉の間の隙間はちゃんと分かるのだろう。でもこの距離では,二階建てのその二階の窓に一番近付いたこの距離では木々の葉が闇の衣を纏ってこちらを窺うように,何も漏らしはしない。でも隙間はあるがはずなのだ。見た目だってすべてじゃない。
 一番近づいた窓との距離を後ろに一歩だけ下がって座り,胡座をかいて僕は目を瞑る。想像してみる。ここからでは『もう森にしか』見えない木々と木々の間にあるはずの,成長して木々が蓄えた多くの葉と葉の,一枚一枚が偶然にも作る宙の隙間を。今も晴れている今日の明るい月明かりが通るそこを。こんな時間にいるわけがない木こりが,必要である理由をもってその斧である1本に切れ込みを入れることが出来るように,敏捷な男の子がそんなところにいるはずがないフォックスをどうしても捕まえる為に,とりあえずの鉈を振って木々を落とさざるを得ないのを助けるように,あるいは何かを弔うために穴を掘るヒトなどにも結果的にその手元を照らしてしまう,晴れた日の明るい隙間の月明かりをもたらすように。
 『怪鳥』は今日も鳴いていた。カネモトさんがいうには『怪鳥』は連れてこられたらしい。今日も鳴いていた理由にあるかは限らないのにどうしても関係させてしまう。どうしても『そういう目』をもってベンチ裏の『もう森にしか』見えない生い茂る木々を背に,『怪鳥』が鳴くのを聞いてしまう。そうじゃないところはないのか。そうじゃない聞こえ方はないのか。疑問があるなら,そしてどうせなら,初めから想像してみる。
 『怪鳥』が園内のソコで生まれ育ったとすれば,ベンチ裏で生い茂る木々は行ってみたいところで帰りたいところになんてならない。探究心をもってただアソコに行ってみたいのだ。アソコがどんなとこなのか。どんな様子をしているのか。それが知りたいのだ。でも『怪鳥』は,早々と園内のソコを出ることは出来ない。飼育担当のカネモトさんはにこやかで親切にも抜かりがない。鍵はかかって扉は開かない。でも探究心は収まらない。ではどうする?どう折り合う?
 何もしないことを含めても,やれるだけのことはやらなければ,どうにかなんてなりはしない。『怪鳥』はだから考えた。『怪鳥』は馬の鳴き声や隙間を縫って『怪鳥』を覗き込むヒトの声,そして別の(『怪鳥』と近いと思う)鳥類の鳴き声に反応したりする。鳴き声は反応になる。それは『怪鳥』自身がよくわかっていることだ。じゃあアソコの木々もそうなのでは?鳴いてみよう,声をかけるように。鳴いてみよう,呼ぶように。いつかは近付くかもしれない。いつかはアソコとソコを行き来したりしているかもしれない。想像も尽きずに,希望は生まれる。希望を持って鳴くのだ。『怪鳥』は鳴くのだ。
 ある木々の幹は園内のソコにある2本の棒よりゴツゴツしてはいるが,『怪鳥』をきちんと支えてくれる。上手く飛べず,跳ぶことしかできない羽でも『怪鳥』はいいところにとまったようで,明るい月明かりが鬱蒼とした暗さを抜き去って線のように地面の幹まで照らしている。何かが埋まったあとを残して誰も居ない,何も来ていない木々の中で『怪鳥』はまだ終わっていない今日のうちにもう一度鳴く。風が吹いたりしないから,声はソコだけに止まる。あとはもう鳴かない。過ごす時間を,過ごすだけだ。
 カラフルな体毛ごと身体を揺らせば,葉が数枚落ちる。月はまだ晴れていて,雲はまだ横切らない。『もう森にしか』見えない生い茂る木々。園内のソコにいない『怪鳥』。ベンチには誰もいない。けれどもベンチは青いのだ。





 階下へと降りていく僕はぐずったことがない。泣いたこともあまりない。白が控えてついて来る女の子に話した通りで,嘘なんてなかった。
 階段途中にもあった小さな窓。上部に鍵と取っ手を付けた換気のためだけのもので,たとえ外に向かって押して開いていても景色なんて見えないけど,換気なんてしないとばかりに閉じている今は僕の顔がそれでも良く写している。
階下へと降りていく僕はぐずったことがない。泣いたこともあまりない。白が控えてついて来る女の子には,もう話した。





(第三章了。つづく。)

徒歩で測るきりん。走らない僕ら。

徒歩で測るきりん。走らない僕ら。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-08

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