糸 -ito-

糸 -ito-

糸 - ITO -

     
 ちょうど街がハロウィンでオレンジに着飾っていた頃だ、俺はやっと彼女を見つけた。彼女の名前を知って1年、やっとだ。勤め先を突き止めて、数日ビルの前で彼女のことを見ていた。秋嶋美丘、31歳。間違いない。名前と年齢しか分からなくてとても苦労した。もう少し情報があればもっと早くに見つけられたのに。そう思いながら腕のスマートウォッチをチェックすると、野田さんから連絡が入っていた。そんなの無視だ、俺は今日ぜったいに彼女に接触するって決めてたんだから。


     ⑴

 1階にコーヒーショップが入ったビル。上階を利用するための出入り口が脇にあり、そこから秋嶋美丘が出てきた。その前の道路を挟んだ向かいの歩道で彼女を待っていた俺は、柵から腰をあげ道路を左右に行きかう車に目をやった。そして、少しのチャンスを伺って道路に飛び出した。右から来た車は急ブレーキを、左から来ていた車はクラクションを鳴らした。大きな長い音だった。けれど、俺はそのまま道路を突っ切って走った。肩からかけていた黒いトートバッグだけがクラクションを鳴らしていた車と接触して、俺から離れて飛ばされて行った。歩道近くにかろうじて辿り着いた俺に走り寄ってきた人の顔を見て俺はにやりと微笑んだ。
「大丈夫?」
 秋嶋美丘だった。彼女は俺の腕を掴んで慌てて歩道に引き寄せた。もうすでにすっころんでいた俺は、半ば引きずられるようになって、「痛っ!」と思わず声が出た。
「ごめん、けがは? 危ないじゃない!」
 俺の顔をのぞき込むその表情は血の気が引いたような驚いた顔だった。一歩間違えたら彼女は目の前で人身事故を見ることになったかもしれないんだ、そりゃそうだな。俺は返事をするではなく、トートバッグを目で探した。何事もなかったかのように車が行きかう道路の端で、辛うじてトートバッグは飛ばされただけで、姿を留めていた。よたよたと歩いてそれを拾う。彼女はそんな俺に手を貸すようにしていた。トートバッグを拾って彼女に向かい合って立つと、彼女は俺を見上げた。
「けがはしてないの?」
「はい、大丈夫です、それよりこれ」
 俺はトートバッグから小さなBOXを取り出した。
「よかった、潰れてない」
 ホッとして笑った俺を、彼女はただ見ていた。「ほら、これ」とBOXを手渡すけれど、彼女は怪訝な顔をした。
「あなた誰ですか? これは、なに?」
 そうだった、言葉が足りなかった。こんな俺は怪しいに決まってるじゃないか。説明しようとすると照れくさくなる。だけど伝えて渡さなきゃ。
「結婚してください」
「は?」
「って、香川東弥さんから」
「香川・・・東弥? なんなの? ふざけてるの?」
「いえ、彼の記憶が今、俺の中にあるんで」
 じっと見つめたまま、手のBOXを彼女の目線まであげた。
「記憶・・・? あなた、メモブレ?」
「はい、そうです。メモリーブレインです」


     ⑵

 彼女と俺はタクシーに乗っていた。「話を聞かせてもらってもいい?」と言った彼女に連れられて後部座席で並んで座っていた。今ここで話すのは違うと思い、黙っていたら彼女から俺に声をかけた。
「名前は?」
「俺ですか?」
「うん」
「百田糸です」
「いと?」
「はい、縫い物に使う糸と同じ字です」
「へえ」
 そっ気のない返事。タクシーの中で目があったのはこの時だけだった。「あ、そこで止めてください」と、彼女が運転手に話しかけたからだ。ゆっくりと道路の脇にタクシーが止まり、俺と彼女は車を降りた。
 葉の覆った白く高い壁の建物。淡い夕日の色がその白い壁を色付けていた。その手前にある階段を降りていく。手すりは錆びかけているけれど古い趣がある。そこに見えるのは上品な印象の、地下階のカフェだった。
「あの・・・、カフェだったらさっきのビルの下にもありましたよね」
 彼女について階段を降りながら声をかけると「あそこだと職場の人に会うから」と言われた。なるほど。階段を降りきると足元にはレンガが敷き詰められていた。彼女が茶色いドアを開けると、ふわっと珈琲の香りがした。しっとりとした照明の中、彼女は奥のほうの、半個室のようなスペースの場所を選んだ。
「座って」
 言われて俺は、小さく頷き、L字にデザインされたソファの奥に腰かけた。「珈琲でいい?」と聞かれて、「はい」と答えた。淡々と会話をするけれど、彼女に落ち着きがないのは見てとれた。店員に注文を頼むと、彼女もL字のソファに腰かけた。そして右手に座る俺の顔を見た。
「私のことは、どうやって?」
「東弥さんの記憶から」
「メモブレって、私、会うのは初めてなんだけど」
「そうですか。説明からしたほうがいいですか?」
「どういう人かはわかってるよ。亡くなった人の持っていた記憶が降りてくるんでしょ?」
「そうです。東弥さんのは、1年くらい前に降りてきました」
「1年? なんて?」
「秋嶋美丘さんに渡さなきゃって」
「渡さなきゃ・・・?」
 あ、と思い出したように俺はトートバッグの中からあらためてBOXを取り出した。さっきは受け取ってもらえなかった小さな白いBOX。鮮やかなブルーのリボンのついた大切なもの。
「東弥さんの、結婚してくださいっていう言葉と共に」
 彼女の目にはすでに涙が溢れていた。
「だけどごめんなさい、その前にこれをきちんと提示しておきます」
 BOXをテーブルに置いて、俺は左手の薬指を見せた。漆黒の、二センチ弱ほどの丸い石のついた指輪だ。中央の金色であしらわれた小さなマークがメモリーブレインであることの証である。その指輪を外して内側の表記を見せた。レプリカには決して細工できない匠な刻印が入っている。それを見て、彼女は頷いた。俺は小さく深呼吸をして、BOXを彼女に差し出した。
「遅くなりましたが、受け取ってください」
「ありがとうございます」
 少し震えた手で、彼女はBOXを手に取った。
「今、開けてもいいですか?」
「どうぞ」
 ブルーのリボンをゆっくりとほどいて、BOXの蓋をあけた。中には指輪のケースが入っている。取り出して彼女はそのケースも開いた。中に入っているものは俺の席からもしっかりと見えた。きれいに輝く宝石と、その土台はシルバーだ。彼女はそれを取り出すと、声を出して泣き出した。ちょうど運ばれてきた珈琲は、店員によって1度カウンターに持ち帰られた。俺が左手の指輪を見せたからだ。この指輪には、そういう意味がある。

故人との時間を邪魔してはならない。


     ⑶

 何から話しましょうか。まずは俺のことでしょうか。俺は百田糸。26歳。メモリーブレインである。それを知ったのは自身が5歳の時だ。
当時、両親が仕事をしている時間帯、預けられていた施設で近しい年ごろの子供たちと遊んでいた。赤ちゃんから小学生低学年くらいまでを預かる大きな施設だった。ある時、いつも一緒に遊ぶ女の子が5日ほど施設を休んだ。特に気にもしていなかった。最近居ないなってくらいだった。だけど6日目、俺はとても不思議な気持ちになった。昼過ぎからバタバタと慌ただしい先生たちの中から、自分たちの世話をしてくれている先生を引き留めて声をかけた。
「先生、向日葵の絵の続きを描きたいから預けた絵を返してください」
 それを聞いて、立ち止まって先生は不思議な表情をした。
「糸くん、一昨日きちんと書き終わったでしょう? ほら、あそこに飾ってある」
 先生が指さした廊下の壁に、大きく1本の向日葵を描いた絵が貼ってある。
「え? 違います。わたしのやつじゃない・・・」
 わたし? って自分でも思った。思ったけど、「糸くんじゃなくて、あゆみのやつ」と口にしていた。
「あゆみ?」と聞き返す先生は、途中から顔つきが変わって、俺に名前を聞いた。
「あなたの名前はなに? 教えてくれる?」
「しばはら、あゆみ」
 違うよ。糸だよ、って思いながらそう答えた。しばはらあゆみ、よく一緒に遊んだ女の子。彼女はその日、入院していた病院で息を引き取った。先生があの時慌てていたのも今なら理解ができる。その時の俺にはさっぱりわからなかったけれど。急に手を引いて施設の奥の、難しい本がいっぱいある部屋に連れていかれた。
 少しして怖い顔をしたパパとママがやってきた。だけどふたりを見ても、パパともママとも思わなかった。
「糸くんのママ、こんにちは」と言ったら、ママは泣きだした。パパはますます怖い顔になった。俺は何をしてしまったんだろう。でも俺は俺じゃなくて、しばはら、あゆみ。
 その部屋でずっと頭を撫でてくれていた先生が野田さんだ。野田さんの説明はまたあとで。俺は野田さんに連れられて園庭に出た。外ではずっと手を繋いでくれていた。時折聞こえてくるのはパパとママの大きな声だった。良くない話をしている気がした。「きみが糸をしっかり育てていないからだ!」と叫んだのはパパだった。その時俺はあゆみじゃない、俺は糸だ、と思い出した。
「ねえ先生、パパとママは?」
「うん、大事なお話をしているからもう少しね」
 繋いだ手に力を入れると、先生はまた頭を撫でてくれた。そしたらドアが開いて、ママが走って出てきた。
「糸! 糸!」
 急に抱きしめられて苦しかった。「ママ、苦しい」というと、ゆっくり顔を覗き込んだ母が泣きながら微笑んだ。「糸なのね?」と問いかけるので、「うん」と大きく返事をした。すぐ傍にはパパが立っていた。パパも大きな手で俺の頭を撫でた。
 だけどその後、俺を残してパパとママは居なくなった。

 その日以来、パパとママには会っていない。家にも帰っていない。今までいた施設にも行くことはなくなった。泣いても叫んでも自分の思うようにはさせてもらえなかった。見た事のない家に住むことになった。与えられたものは全て新しいもので、今まで大切にしていたおもちゃもコップも、気に入っていた靴も何もかも手にはさせてもらえなかった。ただ、ずっと傍に野田先生だけは居てくれた。それだけが唯一の安心だった。
 これが、自身がメモリーブレインだと知る子供の、最初の記憶パターンだという。俺も同じだった。慌てる周りの大人たち。去っていく両親。変わる環境。受け入れるしかない葛藤。子供心に覚えている記憶。次第に増えていく諦めと、他人の記憶。知らない人の想い出。


     ⑷

 秋嶋美丘に渡した指輪の、リング部分にはイニシャルが入っていた。美丘さんのMと東弥さんのT。とてもきれいだった。1年前、東弥さんの代わりに店へこれを受け取りに行った時に初めて見た。「代理で受け取りに来ました」と言って、左手の黒いリングを見せると、証明書もなくこの指輪は受け取れた。
「お引渡し日になっても来られないので香川様に連絡を入れてみたんです。けれど電話も出られませんで。そうですか、そういうことなのですか」
「はい、3日前にご病気で。それで俺がメモリーを受け取りました。代わりに引き取らせていただきます」
「よろしくお願いいたします」
 切なそうな表情で店員はこのリングをケースに入れるとBOXに詰め、リボンを添えた。

 BOXを持ち帰った日、野田さんは第一声「また?」と言った。事務所のコンピューターを操作して保管庫No749を選ぶと、小さな荷物用のエレベーターが上がってくる。事務所の地下は壮大な保管庫になっている。事務所内の指定の場所に保管庫No749が届いた。扉を開けると、俺はそれを中に入れた。
「だって、東弥さんが大事なものだって言うから」
「だけど、父親からこれ以上の何もするなと言われているでしょう? ほんとに糸は毎回毎回問題を起こしてくれる」
「それは父親の意思であって東弥さんの遺志じゃないじゃないですか」
「規定の範囲内でしか動いちゃダメよ」
 事務所の珈琲ポットを手にしていた野田さんは、そんな風に俺に小言を言いながら「飲む?」とカップを用意してくれた。頷くとそのままカップに珈琲を注いだ。
「あなたもメモブレになって10年になる。規定違反は重い処罰が課せられるんだからね? わかってる?」
「わかってますって」
「わかってないから言ってるんでしょ?」
 眉間にしわを寄せながらカップを手渡す野田さんに「はいはい」と軽く返事をすると、頭をこつかれた。5歳の頃から、俺の傍に居るのはこの人だけだ。父親でも母親でもない。家族はいないの?と聞いたことがある。糸だよ、と野田さんは答えた。癖のある髪はいつもひとつにまとめている。どんな時も、いつもブラウンのスーツを着ている。ラフな服装も見たことないし、他の色のスーツも見た事はない。ずっと一緒に住んでいるけれど、よくある普通の家族といったものではない。都会から隔離された一軒家で、そこから外に出たことはない。15歳まで。生活に問題はないし、学業もすべて自宅で行う。部屋にはたくさんのプログラムされたコンピューターと書籍類、外部の情報も全て外に出なくてもわかる。乗ったことのない電車も、行ったことのないコンビニも、遊んだことのない遊園地も、関わったことがないだけで、どんなものかは全て知っている。きちんと知識として俺の中に宿る。そんな完璧な状況を与えてもらえるんだ、メモリーブレインという人間は。
 今はこの事務所の2階に住んでいる。相変わらず野田さんと一緒だけど。他に事務手続きをしてくれる相川さんという60代の男性と、全国の戸籍を管理する国家資格を持った、高崎さんという30代の女性が一緒に働いている。メモリーブレインの事務所はどこもそんな感じだそうだ。
 1年前、今回の案件も、朝起きたら俺の脳に降りてきた記憶から名前と、わかる範囲の情報を保管庫No749に入れた。保管庫の番号に特に意味はない。コンピューターで調べて空きのある保管庫を適当に選んだだけだ。そうしてロックをかけると、それに反応したパソコンを管理している高崎さんが、多大な戸籍と個々の情報データの中から、一致する人物を探す。そうして香川東弥がヒットした。故人から一番近い親族にアポイントを取る。俺を通して記憶の整理をしたい親族である場合、相川さんが今後のスケジュールを立て親族と契約をする。親族が記憶整理を希望しなかった場合は、それで終了、だ。
 流れを見ておわかりのとおり、発信は親族側ではなく、あくまで故人。何かやり残した、何か伝えたいことがある。そんな未練だけがメモリーブレインの脳を選んで降りてくる。この世に存在するメモリーブレインの中から、俺が選ばれた。そう感じながら毎回、故人の想いと記憶を受け取る。

 数日間、親族とコンタクトを取り、相川さんからもらった返事はこれだった。
「糸、今回はストップだ」
「ストップ? なんで?」
「父親の希望だ」
「だから、なんで?」
「母親が、息子さんを亡くしてから精神的な病にふせられているらしい。母親を刺激することなく、このまま何もなく息子さんを成仏させてやりたいそうだ」
「なんで? 東弥さんは望んでるのに?」
「ご両親が受けないと言っている限り、これ以上は何もできないだろう? 諦めろ、糸」
「諦めろって、じゃあ秋嶋美丘さんはどうなるの?」
「全てご両親の許可が必要だ」
「でも、婚約者でしょう?」
「秋嶋さんにも、息子のことは忘れて新しい人生を歩んでほしいそうだ」
 相川さんは俺の肩をポンと叩いた。
「俺たちの仕事はこれで終わりだよ」
「でも!」
 言い争うのを聞いていた野田さんは、俺の腕をとった。
「メモリーブレインが触れていいのは規定の範囲内で」
「だけど、東弥さんが俺に訴えてきてるのに」
「想いだけを受け止めて糸の心はしんどいと思うけど、彼の件は忘れましょう。こんなのいつものことでしょう? また次のメモリーが降りてくると思うから、ひとりに構ってられない」
「野田さん!」
 誰もがそうやって、故人の記憶と想いを勝手に終わらすんだ。これは聞くけどこれは必要ない。生きている人間が勝手に都合のいいものだけを受け取って、大切な想いかもしれないものまで終わらせてしまうんだ。それがとても悔しい。

  どうして俺はメモリーブレインなんてものに生まれてきたんだろう


     ⑸

 あれから1年。やっと見つけた秋嶋美丘さんに、俺は東弥さんが渡したがっていた指輪を渡した。任務完了だ。ただ、それは生きている人物の誰もが希望しなかったものだったけれど。

「ありがとうございました」
 彼女はBOXから取り出したばかりのその指輪をはめていた。そんな姿を見れただけで十分だ。俺が先ほどのカフェの店員に頷くと、運ばれてこなかった珈琲があらためて届けられた。新しく入れられたものなのか、時間が経っているのにしっかりと湯気があがっていた。
「でも、びっくりした。こんなに突然声をかけてくれるものなの? メモブレって」
「いえ、俺のはちょっとイレギュラーというか、たぶん怒られます」
「どうして?」
「東弥さんのご両親からOKが出なかったのを、俺が勝手に持って来ちゃったんで」
「OKが出なかった?」
「はい、東弥さんのことは忘れて、新しい人生を歩んでほしいそうです」
「新しい・・・」
 彼女は言葉をつぐみ、指輪をそっと撫でた。
「俺には納得いきませんでした。東弥さんは指輪を渡してほしいと俺に伝えてきました」
「東弥が?」
「結婚してくださいって、その言葉はちゃんと伝えたかったから」
「そう・・・」
「どうですか? 今は新しい人生、歩んでますか?」
「私?」
「はい、ここ数日あなたのことを見てました。でも毎日ぜんぜん楽しそうじゃなかった。ため息ばっかりついて」
「ここ数日って・・・そんなことまでするの?」
「今回は依頼をもらえなかったので、戸籍からの情報は得られなかった。むしろ組織からそれ以上の情報が漏れないように通常以上に厳重に管理されるんです。直接連絡が取れないから、自分で探すしかない。でも俺にはあなたのことは名前と年齢、そしてあなたの笑っている顔しか東弥さんの記憶から読み取れなかった。だから探すのに1年もかかっちゃいました」
「そんなに」
「それでもこれを、どうしてもあなたに届けたかったから」
「そこまでしてくれたのは嬉しいけど、あなたが注意を受けてしまうんだよね?」
「俺にはいつものことなんで」
「そうなの?」
「勝手な行動ばっかしてて、いつも怒られてます」
 クスッと笑うと、彼女も小さく笑った。
「あ、よかった。やっと笑ってくれた」
「え?」
「東弥さんが見たかったのと同じ笑顔だ。ずっと探してました」
 そう言った俺を、彼女は優しく抱きしめた。
「ほんとにありがとう。お礼言っても言い切れない」
「そんな」
「ううん。東弥が自分でメモブレを選んだんだとしたら、きっとあなただから選んだんだと思う」
 彼女は俺から体を離すと、そっと左腕に触れた。
「ただ、さっきみたいなのはもうやめてね」
「さっき?」
「無理やり道路を横断しようとしたでしょ? 事故にでも合ったら身も蓋もないから」
「それなら大丈夫です。俺の人生は俺のものではないんで」
「どうして?」
「俺は、誰かの記憶を届けるだけの道具ですから」


     ⑹

 事務所に戻ると新しく降りてきた記憶をメモして保管庫に入れた。今日は3人、まとめて降りてきた。毎日毎日、誰かの記憶が届く。幸せなものならいい、残虐なものもある。そう、国家がメモリーブレインを特別に扱うのは、事件性のあるものの場合、捜査のひとつとして利用価値があるからだ。苦しい記憶も、体が切り刻まれるような痛い感覚も、どんなものでも降りてくる。そんな精神状態との戦いを15歳まで繰り返して、生き残れたものだけがこうやってメモリーブレインとして働くことができる。時に、死を選ぶものもいる。
 部屋の窓は開いていた。慌てて締めた。野田さんに見つかったら怒られる、戸締りはきちんとしなさいよって。母親みたいだけど母親じゃない。16歳になったら暮らしていた一軒家を野田さんと出た。この事務所に引っ越してきた。初めて外に出られた。というのはおかしいのかも知れない、5歳までは自由だったのだから。だけどもう5歳の記憶なんてものはなかった。他人の記憶を扱う能力はあるのに、自分の記憶はどこかに置いてきてしまった。
 この部屋に住んで初めて自分で外に出てモノを買った。電子ピアノだった。支払いをしたのは野田さんだったけど、自分で欲しいと言ったものがこれだった。どこかに薄っすらと残っていたのは、ピアノを弾く指先だった。ずっと施設の先生をしていた野田さんの指だと思っていたけれど、そんな話をした時に、それは母親ではないかと野田さんに言われた。こっそりと教えてくれた。ピアニストだったそうだ、俺の母親は。とっくにそんな世界から名前を消してしまっている。メモリーブレインの両親の情報は知りえる場所には残されない。子供が親を探さないように。生きているのかもわからないほどに。
 数日後、部屋で、ピアノの鍵盤を触っていると携帯が鳴った。携帯に、野田さんや相川さんや、高崎さん以外の名前が出たのはどれくらいぶりだろう。
「はい、糸です。もしもし? 美丘さん?」

 秋嶋美丘さんと、会う約束をした。もしかしたら連絡をするかもしれないと言われ、携帯番号を交換してあった。「用が、できる気がするから」と彼女は言った。「どんな?」と聞き返しても、微笑むだけだった。そんな彼女が、やはり連絡を入れてきた。どんな用なんだろう?
 次の日、初めてあった日と同じカフェで会うことにした。奥のL字ソファの同じ席に座って待った。少ししてやってきた美丘さんは、今日は笑顔だった。
「ごめんなさい、待たせてしまって」
「いえ、用ってなんですか?」
 まだ注文していなかった俺の分も珈琲を注文すると、同じようにL字ソファの隣に彼女は座った。そして白い皮のバッグから白いBOXを取り出した。
「それ・・・」
「先日はありがとう。嬉しかった。東弥が指輪を準備してくれていたこと知らなかったから、本当に嬉しかった」
「うん」
「でもこれ、お返ししようと思って」
「え? だってこれ、東弥さんが渡したかったものですよ?」
「わかってる。でも、東弥が渡せなかったものは、私も、もらわないままのほうがいいと思って」
「どうして? イニシャルだって入って・・・あなたのものだよ?」
「うん。だけどこれをもらう前の、そこで終わったのが私と東弥だったんだよ」
 どうしてそんなことを言うのかわからなかった。明らかに見てわかる、昨夜さんざん泣きはらしたと伝わる目。それでも彼女はとても笑顔だったんだ。
「あなたがこれの存在を教えてくれただけで、幸せだから」
「・・・どうして。無駄だった? 俺が1年かけてあなたを探したことも、これを渡したことも。結婚してほしいって言葉も」
「ううん、無駄じゃないよ。心に残ったから」

 彼女は自分の意思を揺るがさなかった。指輪の入ったBOXは、また俺の手に戻ってきてしまった。保管庫No749に1年間入ったままだったそれを、俺はもうそこに戻したくはなかった。
「この間会った時すでにこうするって決めてたから、俺の電話番号聞いたの?」
「う・・・ん、わからないけど、そうかも知れない」
「もう好きじゃないの? 東弥さんのこと」
「そういう問題じゃないよ」
「そうでしょ? そういうことでしょ?」
「違うよ。愛してるから、彼の居ないところで勝手に何かが変わるのがイヤなだけ」
「何も変わらないですよ?」
「ううん、変わるよ。私の想いが変わってしまうよ」
「どんな風に?」
「また会えるんじゃないかって」
 人の記憶を伝えて、毎日伝えて、たくさんの人の心を知っているのに、まだ知らないものがあった。故人の想いを伝えているのに、亡くなっているってわかっているのに、会えるんじゃないかってどうして思うんだろう。
「難しい?」
 俺に問いかけると、彼女は珈琲を飲んだ。どうしてそんな清々しい顔をしているんだろう。俺自身、こんなにモヤモヤしているのに。
「死んでるから会えないよ」
「ストレートに言うね」
「ごめんなさい」
「時に、期待をさせてしまうことがあるってことを、あなたには覚えていてもらいたい」
「期待?」
「実はまだ生きているんじゃないかとか、極端な話、あなたは彼の生まれ変わりじゃないか、とか」
「生まれ変わりだったら年齢おかしくなりますよ」
「極端な話よ。彼が生前に持っていたものを譲り受ける、そういうのなら何の問題もないの。でもね、これはもらう予定だったかも知れないけれど、私がもらえなかったもの。それをもらうっていうのは、想いが進んでしまうからダメ。そういったことに感謝する人ももちろん居ると思う。だけど私はそれにすがってしまってはいけないと思う」
「どうして?」
「・・・彼がもう居ないことを、もっと知らされるみたいで辛いよ」

 悲しいのは、恋人を失ったこの人なのに、どうして自分より俺のほうが悲しいみたいな顔をするんだろう。

「糸くん、あなたは優しいね」
 俺は、優しくなんてないよ。
「それから・・・、恋人を失った私よりも、この仕事をしているあなたのほうが、寂しそうだよ、糸くん」


     ⑺

「ねえー、野田さん」
 声をかけたらまた野田さんに怒られた。「食べてるものを飲み込んでから話しなさい」ってね。手にしていたハンバーガーを、食べかけのまま皿に戻して話を続けた。
「俺って寂しい人なの? 一般的に考えて」
「どうして?」
「なんか、ちょっと思ったから」
「どういう点が?」
「それがわかんないから聞いてんでしょ」
 だけど、ふふっと笑うだけで野田さんは答えてくれなかった。
「俺って、世の中の役に立ってる?」
「そりゃもちろんでしょ」
 事務所には相川さんも高崎さんもいるけれど、いつも会話するのは野田さんだけ。仕事以外の私語は滅多にしない。そんなことを考えてたんだ。そしたら急に思いついた。
 残っていたハンバーガーを一気に食べ終わると、俺はドリンクを数口飲んだ。
「用があったら呼んで、ちょっと部屋で寝てくる」
「ちょっと糸! お皿ちゃんと片付けてよね!」
 部屋で寝るというのは嘘だ。真っ先に携帯を手に取って、それからベッドに横になった。ってことは、寝るって言ったのもあながち嘘でもないっか。クスッと笑って携帯に美丘さんの名前を表示させた。そして発信ボタンを押した。数回呼び出し音が鳴って、電話がつながる。
「もしもし? 俺、糸だけど」
「あぁ、この間はどうもありがとう」
「いえ。指輪は保管庫にきちんと入れてあるので、必要な時がありましたらいつでもお申しつけください」
「わかりました」
「あと、お願いがあります」
「え? 私に?」
「はい」
 俺はベッドに横になったまま、大きく深呼吸をした。
「俺と、電話で話をしてほしいです」
「話?」
「時々でいいんで、こんな風に。ダメですか?」
「ダメじゃないけど・・・、彼の話はもう」
「いえ、東弥さんは関係ありません。違います」
「じゃあ、どうして? 相談とかなら、友達は?」
「友達は、いません」
「え?」
「あなたと話していると、自分のことを確認できる気がするんです。ダメですか?」
「ダメっていうか。なんの話をするの?」
「えっと・・・、髪切ったの? とか」
「ええ? 電話じゃ髪型見れないのに?」
 時々野田さんが高崎さんと話している会話を思い出して言ってみたら、変な感じになってしまった。
「例えば、例えばの話ですって。じゃあ、今日は雨が降るみたいよ、とか」
「なにそれ。世間話?」
「そうです、それ。世間話」
「そんなの楽しい?」
「楽しいです。あんまりやったことないんで」
「やったことないって・・・」
「とにかく、今これが楽しいです。あ、ていうか俺めちゃくちゃお喋りですね。早口になっちゃって、どうしよう。あ、聞いてます? 呆れてたりします?」
「聞いてるし、呆れてはないけど。ひとつ聞いてもいい?」
「なんですか?」
「どうして私?」
「それは・・・どうしてだろう」
 答えられないでいると、彼女はクスクスと笑った。
「そっか。わかった。いつでも、って言いたいところだけど、私にも仕事とかあるから、出来るだけ夜に、とか時間決めてもいい?」
「わかりました」
「うん。じゃあ、今日はこれで終わりにしてもいい?」
「はい。じゃあ明日また、夜にかけます」
 電話を切ると、そのまま目を閉じた。とても心地よかった。

 電話の内容は、きっと毎日つまらないと思われていただろう。電話をするようになって数日したときに、学校から帰ってきた母親にその日の出来事を話す子供みたいだと言われた。最初の頃は美丘さんも自分の話をしたりしていたけれど、気付いたらいつも一方的に俺が話して、美丘さんが聞いてくれていた。「美丘さんは? なにかある?」と聞いても、「私はなにも」といつも答える。楽しい時は一緒に笑ってくれて、辛い時は「大丈夫だよ」と言ってくれる。
 俺に降りてきた記憶の話は第三者の他人にはしてはいけない。この規定だけはきちんと守っていた。事務所の人間、そして故人に一番近い親族のみ。だから美丘さんには、降りてきた記憶に影響された自分の感情だけしか話せなかった。今辛いとか、とても苦しいとか。美丘さんはとても大人だ。そういった常識はもちろん知っている。何かを聞き出そうとすることもなく、話を聞いてくれる。俺が安心する言葉をくれる。野田さんとはまた違う。声を聞くだけで温かい気持ちになれた。
 電話で話している最中に記憶が降りてくることもあった。そんな時は美丘さんから声をかけてくれる。
「このままで仕事する? それとも、切ったほうがいい案件?」
 辛い感情が降りてくる日はいつも、「このままで」とお願いした。見えるもの、伝わってくるものをメモに取りながら「辛いよ」って言葉にすると、美丘さんは「うん、そうだね。辛いね」と寄り添ってくれた。そんな毎日が、俺にとって大きなものになっていた。


     ⑻

 ある朝、目が覚めるといきなり息ができなかった。苦しくて手に取れるものを掴んで投げた。手に触れるものが何かはわかっていない。ただ掴めるものは何でも手にして投げた。物音に気付いてほしい。野田さんの名前を呼びたかったけれど声は出なかった。

  ヤバい、首を絞められている。

 投げまくっていた何かの音に気付いて野田さんが部屋のドアを開けて俺の口に何かを含ませた。知ってる、それ。前にも一度こういうことがあった。睡眠薬だ。俺の脳に降りてきた記憶の中に入り込んだ痛みを取り除くには、一度眠るしかない。深い眠りに入ると降りてきた記憶が一度フラットになる。次に目が覚めた時にはゆっくりと呼吸ができた。
「首、やられた人?」
「そうみたい、首絞めて殺された」
 20歳過ぎの頃に、同じようなことがあった。殺された時の記憶がそのまま降りてきた。俺自身に何も起きていないのに、全身の血が腹部から流れ出るような感覚だった。あの時は涙が止まらなくて3日ほど泣き続けた。怖いという、殺された人の記憶が頭から離れなかった。まるで自分が怖いと思い続けているような感覚だった。
今日のは、怖いという印象はなかった。ただ、思考回路が止まったみたいに何も考えられなくなった。
 事務所の3階、いつもは足を踏み入れないフロア。この3階の一室に移動した。四方にカメラを設置した特別室。刑事だという男性2名と女性1名、野田さん、そして高崎さんが端のテーブルでパソコンを数台広げて待機していた。「よろしく」と手を差し出した刑事さんは随分太っていて、窓の無いこの部屋では暑そうだった。それを見て野田さんがエアコンを入れた。もう数日でクリスマスだというのに。
「きみに記憶を届けたのはこの人物で間違いない?」
 写真を見せられた。自分と近い年齢の女性だ。俺はそれを見て頷いた。「富田セリさんです」と名前を答えると、刑事たちが顔を見合わせて頷き合う。
「彼女は、きみに何の記憶を届けにきた?」
「犯人の顔です」

 厄介な記憶が降りてきてしまった。野田さんが自然と俺の頭を撫でてくれていた。施設での5歳の頃のあの日のように。だけどこれは俺の仕事で、俺に助けを求めてきた人の大切な記憶である。犯人の顔を、膨大なこの世界の情報の中から探さなければいけない。
「野田さん、お願いがある」
「なに?」
「5分だけでいいから、部屋に戻ってもいい?」
「なんで? もう始めるよ?」
「お願い、5分だけだから」
 俺は野田さんの了解を得て部屋に戻った。携帯を手に取ると電話をかけた。出て、お願いだから電話に出て。願うように待って、電話は繋がった。
「もしもし?」
「あ、美丘さん? 少しだけ時間ちょうだい」
「どうしたの? それに仕事中はやめてって」
「お願い、少しだけ」
 ただ話しているだけなのに、美丘さんには俺の感情が伝わってしまう。その日も察知したのか、俺とは逆に落ち着いた声でゆっくりと話してくれた。
「どした? 何かあった?」
「大丈夫、だよね、俺」
「え? わかんないけど、どうしたの?」
「大丈夫だって言って」
 無理を言う子供みたいに、俺は彼女からの言葉を待っていた。お願い、言って。

「うん。大丈夫だよ、糸」

 部屋の外で野田さんが聞いていたなんて知らなかった。もう一ヶ月になるかな、美丘さんと電話で話すようになって。いつも、なにかが苦しくて、うまく伝えられない俺に美丘さんは「大丈夫だよ」って言う。それだけで安心するんだ。
「うん、大丈夫。俺は大丈夫」
 言い聞かせるようにしていると、美丘さんはもう一度繰り返した。
「大丈夫だよ、糸」
「うん。あのさ、美丘さん」
「なに?」
「この仕事終わったら、デートしてくれる?」
「デート? 電話じゃなくて?」
「うん、ダメ?」
「いいよ、少しだけね」
「じゃあ、行ってくる。何日かかるかわからないけど、終わったら電話する」
「うん、大丈夫、糸なら」

 この案件はそんなに簡単ではなかった。あんなに美丘さんが「大丈夫だ」と言ってくれたのに、正直俺は大丈夫ではなかった。時々襲う吐き気。
「セリさん、ずいぶん長い時間首を絞められてた」
 時間が進むごとに状況が鮮明に浮かんでくる。同時に彼女の苦しみが俺の体にシンクロする。どういう状況か説明すると、刑事さんは怖い顔をして言った。
「ロープで首を縛った状態で、一気に殺さずにギリギリの状態で長く生かしていたなんて、犯人は狂ってる」
 そうなんだ、狂ってる。細くて華奢な女性がこれを数時間味わっていたなんて。感覚が届いているだけの俺でも死んでしまいそうだ。野田さんは俺の傍で何度も睡眠薬の入ったドリンクを見せた。飲めば楽になるけれど、また一からのリスタートになってしまう。犯人の顔は時々ちらっと見える程度だ。首を絞められていたセリさんの意識が朦朧としているからだろう。だけどどうしても見定めて犯人を捕まえたい。セリさんの記憶に時折聞こえる犯人の笑い声にも苛立ちを覚えた。
 犯人の顔を映像化できたのは2日ほど経ってからだ。正式には覚えていない。1日以上経った頃から、睡眠薬をもらわなくても自然と眠気に襲われた。見え始めた犯人の映像が途中で途切れてしまうのは逆に苦しい。眠気を取り払うために何度も自分を痛めつけて作業を続けた。野田さんも刑事さんも、みんなやめようと言ったけれど、やめたくはなかった。

「犯人がわかってから、ほぼ1日、寝てたわよ。よくがんばったわね」
 野田さんの声だ。俺は温かい布団の中で体を横にしていた。自分のベッドだ。腕には管が繋がっていた。
「今は点滴中、何も食べてないから栄養だけでも」
「犯人は? 捕まった?」
「まだよ、でも特定できたからあとは刑事さんの腕次第。すごく感謝してた、これで犯人をぜったいに捕まえるって」
「そりゃ、セリさんの命のためだからさ。もう、彼女は戻ってはこないけど」
 ベッドで横たわったままで、涙がすっと流れた。耳が濡れて冷たかった。
「疲れ切っている状態で新しい記憶が降りてくるかも知れないけれど、無理に受け取らなくてもいいから」
「いや、ちゃんと仕事はするよ」
 そう言って俺は目を閉じた。また、眠ってしまった。その間に、俺の携帯で野田さんが電話をかけていたことなんて、まったく知らなかった。


     ⑼

 美丘さんの携帯電話が着信を知らせた。表示されたのは俺の名前だ。
「もしもし? 糸くん? 大丈夫?」
 美丘さんの声に反応したのは、もちろん俺ではない。
「もしもし。初めまして、野田と申します」
「え?」
「百田糸の携帯からかけております。秋嶋美丘さんで、お間違いないですか?」
「あ、・・・はい」
「今お時間よろしいでしょうか?」
 野田さんは、俺の携帯でそのまま美丘さんと話していた。

「いつも糸がお世話になっております。私は、糸が5歳の頃から世話をしている、母親代理のようなものです」
「はい」
「糸が、メモリーブレインとしてあなたと会ったことは存じております。その後、時々電話で話し相手をしてくださっていることも」
「あの・・・何かいけなかったでしょうか」
「いえ、とても感謝しております。糸は以前より柔らかい印象になりましたし」
「そう・・・ですか」
「3日前から、ある案件に取り組んでいたことはご存じですか?」
「詳しく内容は知りません。ただ、大変そうというか、不安そうな感じでした」
「はい。その仕事が落ち着きまして、糸は現在部屋で安静にしております」
「安静、って、どこか悪いんですか?」
「少し体力を使い過ぎてしまって。本人は目を覚ましたところなので、まだ気づいていないと思いますが、1週間ほどは食べ物が喉を通らない状態になると思います」
「そんなに? 入院とかしてるんですか?」
「いえ、自宅です。病院と同じ設備は完備しております」
「そうですか」
「で、秋嶋様にお願いがございまして」
「私にですか? なんでしょうか?」
「糸の見舞いに来ていただけないでしょうか?」
「お見舞いですか?」
「秋嶋様のご迷惑にならなければ、ですが」
「迷惑なんてことはないです、なかなか電話が鳴らなくて心配してましたし」
「そうですか。その時に、少し、糸の話をしたいのですが。よろしいでしょうか?」

 次の日の昼間に、美丘さんがうちの事務所に来た。
「美丘さん!」
 可愛い小さな花束を手にして、俺の部屋に入って来た。
「どうして?」
「野田さんに教えてもらって来たんだけど、よかったかな?」
「え? どうしよう、俺もう4日も風呂入ってないし、パジャマだし。てか、美丘さんに会うの、指輪を返してもらった日以来だから、どれくらいぶり? うわーどうしよう」
 ひとりで慌ててひとりで動揺しまくっていた。美丘さんはクスクス笑って、それから俺の頬に手をやった。
「お疲れさま。大変だったって聞いたんだ。やつれちゃってる」
「でも、大丈夫だよ。すぐ元気になるから」
 美丘さんはベッドの横に椅子を置いて、俺と話をしてくれた。時々新しい記憶が届くと席を外してくれ、終わったらまた話を聞いてくれる。「今度のは大丈夫だった?」って。そんなに長く話してもないのに、また疲れてしまって俺は知らない間に眠ってしまっていた。

「今日はわざわざお越しいただき、ありがとうございました」
 俺が眠ってしまったあと、美丘さんは野田さんと、事務所一階の商談室に居た。俺の、過去の話をしていた。


     ⑽

 十代の頃。野田さんと今の事務所に引っ越して、ひとりで外に出るようになった頃。学校のように共同生活を送ったことのない俺は、初めて空手教室に通った。教室を運営しているのが野田さんの古い友人らしく、蒲田先生といった。蒲田先生はメモリーブレインである子供とのレッスン経験があり、指導中に記憶が降りてきた場合の対応もきちんとした人だった。俺も不便なく教室に通っていた。教室の生徒は俺のような特別なわけではなく、他は全員ふつうの人だった。自然と教室に通うのが楽しくなり、20歳になるまでに黒帯を取得していた。教室で知り合った同年代の数名で仲良くなり、よく一緒に出歩いたりした。
 ある時、仲間と集まっている時に、新しい記憶が降りてきた。声をかけて彼らから離れると、俺は記憶から届く情報をメモに起こしていた。その情報を、仲間のひとりが狙っていた。決して漏れてはいけない個人情報だ。いつも外では携帯に記録する。その携帯が、信用していた友人に奪われたのだ。システムに詳しいやつだった。携帯のロックは簡単に外され、その日の情報以外にもいくつかの個人情報が盗まれてしまった。それによって何かの事件には発展さえしなかったけれど、事務所を一時閉鎖するほどの結果を導いてしまった。
 蒲田先生のレッスンを一緒に習っていたやつだった。3年くらい一緒にいた、俺のメモリーブレインとしての状況もよく理解してくれている、大切な友達だと思っていたんだ。だけど後から知らされたのは、俺の持つ情報を狙って近づいたという悲しい事実だった。
 それからは携帯は事務所でしか使わなくなった。代わりに外ではスマートウォッチを使うようになった。夏場も可能な限り長袖の服を着て、スマートウォッチを保護するようになった。何よりも、俺の脳に届く情報が第一で、どこにも漏れてはいけない。俺の命よりも他人の情報が最優先の生活になった。
 それ以来、俺には友達はいない。

「糸くん。糸くん・・・」
 目を開けると、申し訳なさそうな表情の美丘さんが居た。
「起こしてごめんね、糸くん」
「ううん、来てくれてたのに、俺寝ちゃったのか」
 体を起こそうとしたけれど、美丘さんはそれを止めるように俺の体に手を添えた。
「体、つらくない?」
「大丈夫」
「食事取れるくらいに回復したらデートしよう?」
「え?」
「言ってたでしょ? 終わったらデートして?って、糸くんのほうから」
「言ったけど、本当にいいの?」
「いいよ、楽しみにしてる。だから、しっかりと疲れとって体休めてね。電話はまたしてきてくれていいから」
「うん、やったあ」

 野田さんは、美丘さんを事務所の外まで送って、大きくお辞儀をした。
「本当に今日は来てくださってありがとうございました」
「いえ、糸くんのお話、聞けてよかったです」
「彼が、自分の話をする時は子供みたいになる。無邪気に喜ぶし、素直に怒る。仕事の時は別人みたいに大人の顔をするんだけどね、それはもう十代の頃から。さっきも子供みたいに何度も手を振ってあなたのこと見送ってた。それが私はとても嬉しいの。これからも、あなたがいいなら、いいお友達で居てあげて」
「はい、喜んで」

 俺は、美丘さんが帰った後、スマートウォッチに話しかけていた。毎日の日課だ。俺にとっての、何かあった日の日記みたいなもの。
「美丘さんが、お見舞いに来てくれた。なんか可愛い花束を持ってきてくれた。なのにさ、野田さんが木の木目ガッツリの渋い花瓶に入れたから、可愛さ半減しちゃった。ほんとセンス悪いよなあ。あと、デートの約束した。だから早く体力戻さなきゃ。あと・・・」
 そこで録音を停止した。あとは・・・、覚えていない。

  自分のことを記憶できる容量が俺にはあまり無いから、こうやって録音しておくんだ。


     ⑾

 数日後、野田さんの許可が出たので美丘さんと出かけることにした。
「本当に遊園地でいいの?」
「いい、遊園地がいいの」
 普段からぶらぶらと街を歩いたりする。ふらっと立ち寄った店で珈琲をテイクアウトして、ビルの間の空を見上げたり人の笑い声に反応したり。ゆっくりした時間は身体には優しいけれど、ひとりで歩く街は、俺にちょっと他人行儀だった。
 遊園地の人気は意外とまばらだった。
「そっか、クリスマスも終わっちゃったし、こんな寒い時期にわざわざ来ないか」
 俺より少し後ろをついてくるみたいに歩く美丘さんが、俺の言葉を聞いて笑う。
「空いてていいじゃん」
「ですよね」
 振り返って笑うと、美丘さんも笑った。
「美丘さん、絶叫系とかいけるひと?」
「あー、だめ、ぜんぜんだめ」
「まじでぇ? どうしよう何乗ろうかなあ」
「かといってこういうのも、三半規管やられる系だめだよね?」
 コーヒーカップのアトラクションを指さして言うと、「あぁ、苦手」と美丘さんは苦笑いをした。
「乗れるの何もないじゃーん」
 売店で温かい珈琲を買って、ふたりでベンチに座って飲んだ。
「なんか、いつもと変わんないんだよなあ」
「なにが?」
「思いっきり遊ぶつもりだったのに、いつもぶらぶらと街歩いてるのと同じ感じ」
「ごめん、私が乗り物乗れないからだよね」
「仕方ないよ、酔いやすいんでしょ? 美丘さん」
「うん、ごめん」
「俺はさ、いつもいっぱい着こんでるから寒くないけど、美丘さん寒くない? マフラー貸そうか?」
「いい、いい、大丈夫。それよりさ、袖長すぎない? 指まで隠れてるじゃん。だらしなく見えるよ?」
「そう? でもあったかいよ」
「そういう問題じゃなくて、コートの袖のとこ折り曲げたら大人っぽくなるんじゃない?」
 そう言って美丘さんが俺の左手のコートの袖に手で触れた。
「やめて!」
 俺は叫びながら立ち上がって、左腕についたスマートウォッチを守るように左手首を右手で掴んだ。珈琲の紙コップは手から離れて足元に転がっていた。当然、珈琲はもう飲める状態ではない。美丘さんは隣で座ったまま驚いていて、小さな声で「ごめん」と何度も言った。心の中で、大丈夫、大丈夫って、美丘さんは大丈夫って呟いて、美丘さんの隣にまた座った。紙コップは美丘さんが拾ってくれた。
「本当にごめん」
 美丘さんが何度も謝るから、大きく首を振った。そしたら、また頭の中に何かが降りてきた。
「ごめん、美丘さん。降りてきたみたい」
 美丘さんの顔は見れないまま、俺はもう一度立ち上がり、美丘さんから少し離れた場所へ移動した。

 スマートウォッチを起動する。録音ボタンを押して、口元に近づける。頭の中に届く映像と記憶、聞こえてくる言葉を声に出していく。
「えっと、逃げろ・・・」
 逃げろ? 今すぐそこから逃げるんだ。何度もそう届く。どういった案件? また事件? そう思ってふと美丘さんに視線をやった。えっと、ちょっと待って。頭の中に届く声に記憶がある。

  東弥さんだ。


     ⑿

 遊園地に居てはいけない。美丘とここを出ろ。出来るだけ早くタクシーを拾って、きみの事務所に帰るんだ。あそこが1番安全だ。

 東弥さんの声は、強く頭の中で響いてくる。頭が痛い。とにかくそのまま美丘さんの手を取って走った。
「え? 糸くん? 今度はなに?」
「帰る」
「え? 来たばかりだよ」
「いいから!」
 叫ぶように言うと、美丘さんは何も言わなくなった。美丘さんの手を引いて、ふたりで歩いた園内を戻っていく。メインゲートを出たところにタクシー乗り場があった気がする。時々振り返りながら、美丘さんが転ばないように手を引いて。
 タクシーに乗ると、運転手に事務所の場所を伝えた。ホッとして座席に凭れると自然と目を閉じた。
「大丈夫?」
 美丘さんの声に頷いて返した。目を閉じて脳裏に浮かぶ映像を整理する。ぜんぜん見えない。だけど東弥さんの声だけはずっと届いていた。事務所の近くまで来ると「もう着くよ」と美丘さんの声がした。そして俺は目を開けた。
 事務所に入ると、野田さんが「あれ?」と俺たちを見て言った。
「もう帰って来たの?」
「野田さん! セリさんの・・・」
 と言いかけたら野田さんの手で口を塞がれた。
「秋嶋さんの前で情報はだめよ、糸」
「待って、違うんだ。東弥さんが」
 その名前に、美丘さんが反応した。
「東弥?」

 その後俺たちは商談室にこもった。3人で。いつもなら第三者は入れられない。だけど今回は美丘さんに居てもらわざるを得なかった。
「とにかく、話していいかな。スマートウォッチに録音できてないから、全部吐き出したい」
「いいわよ、糸」

 東弥さんの声がした。逃げろと言った。今までにない感覚だったから、戸惑った。故人の記憶が届いて、それを残された人たちに届ける。終わったらそれで、もう俺の中からその故人の記憶はなくなっていく。もう届かなくなる、はずなんだ。なのにどうして東弥さんの声がしたんだろう。それも、両親に伝えたかった内容や、美丘さんに渡すはずだった指輪の件とは明らかに違う。今、俺と美丘さんに向けて伝えられた、「逃げろ」だった。
「セリさんを殺した犯人の仲間だ。俺と美丘さんを狙ってるって教えてくれた。俺たちのことを離れた場所から見ているって。だから逃げろって」
「本当にあり得ないわ」
 野田さんはそう言うと、携帯を手に取った。「あ、高崎さん? 商談室に来れる? あと、相川さんに、この間の刑事さんに連絡を取るよう伝えてくれる?」俺と美丘さんはそれを見て事の重大さを感じていた。
「これは本部に連絡するわね、糸、あなたは本当に問題を起こしてくれる。メモリーブレインとして優秀過ぎて怖くなるわ」
「それは褒められてるの?」
「どうだか。秋嶋さん、あなたも居てくれる?」
「はい、わかりました」

 刑事さんが到着して、相川さんと高崎さんも集まると商談室で話の続きを始める。俺はそれまでに忘れないようメモを取ったりしていた。
「美丘さんごめん、なんか巻き込んでしまったよね」
「ううん、大丈夫、集中して。とりあえず糸くんに声を届けた東弥のせいにしとく」
 冗談のように言う美丘さんは無理に笑っているように見えた。

「犯人の仲間っていうそいつの顔は見た?」
「見ました」と答えると、美丘さんが「え?」と言って俺の顔を見た。
「東弥さんの声がして、そのあと美丘さんのほうを見た時に、1人居ました。券売機の影に隠れるようにして美丘さんを見てる人が。そいつと、東弥さんから届いている映像の男とは同じです」
 俺が高崎さんのほうを見ると、データを管理するパソコンを2台同時に作業し始めた。
「それにしても、セリさんの事件に関連する人物から狙われている状況なのに、どうして糸の手助けをするのが香川東弥さんなんでしょうね。やっぱり、秋嶋さんが一緒に居たからなのかしら」
 野田さんが話す横で高崎さんはどんどん指を動かす。何かタイプしている。「どうぞ」と俺のほうを見たので、俺は男の特徴を細かく話した。どんどん絞られていくデータの写真の中から俺がこれだと確信するまでに5分ほど。初めての状況に美丘さんは何も言わずじっと見ていた。
「こいつだ、間違いない」
 写真が確定すると、そこから名前や年齢、個人情報が全て特定される。一連の作業が終了すると刑事さんが言った。
「糸くん、新しい情報をありがとう。ここからはきみたちのことだ」
「俺たち?」
「犯人たちは、きっと糸くんをメモリーブレインと知って、一緒に居た彼女も狙ったに違いない。またいつ狙われるかわからないから、事務所からは出ないことをおすすめするね」
 刑事さんが帰ったあと、商談室でそのまま話をした。
「メモリーブレインが狙われた事件は過去にも存在します。なので犯人が捕まるまでは、糸はもちろん、秋嶋さんも狙われる可能性がある。本当に巻き込んでしまってごめんなさい」
 野田さんは美丘さんにお辞儀をした。
「いえ、また東弥が関わっていることにびっくりしてますし」
「そうね、そこよね。糸、今は? 何かまた届いたりする? 香川さんから」
「いや、特には。遊園地を離れてからは全く何も降りてこない」
「ふたりが遊園地に居ることを知っていたことも気になるのよね。事務所からずっと糸を尾行していたという可能性もあるし。そうなるとやっぱり、不便かも知れないけれど、犯人が捕まるまでは秋嶋さんもここに居たほうがいいと思うんだけど」
 美丘さんは「わかりました」と小さく返事をした。


     ⒀

 事務所の2階、居住スペース。空いている部屋の一室を美丘さんに提供することになった。ホテルのようになっているので洗面もシャワーもそれぞれについている。そのような部屋が5つある。俺の部屋も、野田さんの部屋だってその一室だ。食事だけは、ダイニングスペースで野田さんと一緒にとっていた。一度、俺の部屋を訪れているので、美丘さんもそれは承知していた。必要なものを自宅に取りに行くこともできないので、野田さんが衣類や洗面用具などを準備していた。仕事の休暇取得等も、うちの事務所で済ませていた。
「なんか、変な感じ」
「なにが?」
「急にできたお休みに、ホテルにこもる、みたいな」
「確かに」
 俺が笑うと、美丘さんも笑った。ダイニングスペースで珈琲を入れて、そのあと俺の部屋で話していた。
「犯人、早く捕まるといいね。私たちのことがっていうんじゃなくて、セリさんだっけ? 彼女のためにも」
「うん。思い出すだけでも息ができなくなる。彼女の記憶、恐怖しかなかった」
「そういうのって、沢山あるの?」
「セリさんみたいなの?」
「うん」
「いや、俺はほとんどない」
「東弥みたいなのは?」
「家族に伝えたいことがあるとか、そういうのは多いよ?」
「ううん、指輪届けてほしい、みたいなやつ」
「あぁ、これも初めてのパターンだったかな」
 ベッドに座る俺と、椅子に腰かける美丘さんが向かい合っていると、新しいメモリーが届いて、俺はデスクのメモに降りてきたものを書き留めた。すべて書き終えるのを確認したのか、美丘さんが俺に話しかけた。
「セリさんも、伝えたいことを伝えたら、もうそれからは何も届けてこないの?」
「うん。美丘さんが見舞いに来てくれたでしょ? あの日以降ぜんぜん何もない。犯人はまだ捕まってないけど、俺が刑事さんに伝えた情報に間違いがないって確認してくれたんだと思うよ。そしたらもうなにも降りてこなくなる。それが普通かな」
「だったら、東弥の場合って、もしかして渡したかった指輪を私が糸に返してしまったから、やりたかったこと達成できてない、って感じちゃってるのかな?」
「でも一度渡したよ?」
「そうだけど。他に理由がわからなくて」
「あれじゃない? 俺に妬いてんじゃない?」
「え?」
「毎日電話してるから」
「まさか」
「冗談だよ。危険な状況を教えてくれたってことは、美丘さんのこと今でもずっと愛してるからでしょ?」
「またそんなこと言う。期待、させないで?」
 東弥さんが、実は生きていて、美丘さんのことを愛し続けている。そんなことはないのに。そう思わせてしまう言動をまたしてしまった。
「ごめん」
「でも実際、糸くんに今でも話しかけているっていうのが、実は現実なんだよね? それって、糸くんにとっては迷惑だろうし、これからもそういうことが起こる可能性あるってことなのかな」
「迷惑じゃないけど、でもあるかもしれないね。東弥さんからのメッセージがなかったら、俺たちに何かあったかも知れないってのは、事実だから、美丘さん」
 俺は先ほどメモした用紙を手にして、ドアに向かった。
「これ、保管庫に入れてくる」
 1階に降りると、新しい情報を書いたメモを、コンピューターで空いている保管庫を探して入れた。普通なら親族とのやりとりが終了したら終わり。で、また新しい何かが届く。毎日ずっと、ただそれだけだったのに。
 保管庫を元の地下に戻すと、今度は保管庫No749を選んだ。少しして保管庫が届くとドアを開けた。中にはずっと入ったままの白いBOX。それを手に取った。
「ねえ、東弥さん。俺は何をしたらいいんですか?」


     ⒁

 それから一週間もしないうちに、事件は動いた。犯人とその仲間が警察によって逮捕された。ニュースでは捜査にメモリーブレインが関わっていたことも、当たり前のように報道していた。
「これほんっとやめてほしい」
 朝食を食べながら野田さんが言った。メモリーブレインを探偵かなにかと勘違いして依頼してくるようなことも多々あるからだ。
「いっそのことやっちゃいます? どんな事件でも解決お任せあれ! みたいな」
「冗談でもやめて。それに、故人からの記憶を届ける意味のある仕事をしているっていう責任と自覚をちゃんと持ってよ。あなたの存在価値を大切にしてほしいんだから、糸」
「はーい」
 世間は正月で、テレビでは特別番組ばかりが流れていた。それでも俺には休みなんてなくて、毎日なにかが降りてくる。
「ねえ、野田さん、俺最近よく頭痛くなるんだけど、また薬もらっといてくんない?」
「夜更かしばっかしてるんじゃないの? 」
「そんなことないよ」
 美丘さんは自宅に戻った。毎日の電話は、その日からやめた。きっと東弥さんは、俺に嫉妬している! と絶対的自信があったからだ。東弥さんを不安にさせてはならない、と思った。大切な指輪、預かってるし。
「あぁ、また来た。野田さん、メモ用紙ある?」
 目を閉じて降りてきたものを頭の中で整理する。少しして目を開けるとテーブルにメモ用紙とペンが置かれていた。俺は言葉や目で見えるものの情報を一気に書き留めた。メモ用紙を保管庫に入れに行くために席を立って、なんとなく思い出した。
「ねぇ、野田さん」
「ん?」
「美丘さんとこ行ってきてもいい?」
「なんで一々聞くの?」
「今思い出したんだけど、美丘さんって内科クリニックの先生なんだよ」
「内科? 確かに勤め先はクリニックだったけど、あの人医者なの?」
「うん、1年間調べに調べて探して、やっと見つけたからねあのクリニック。見てもらって頭痛薬もらってくる」
「うん、まぁ、いいけど」

 初めて美丘さんと会ったのはこのビルの前だった。エレベーターで3階まで上がると、受付を済ませて待合室で待った。数人待つ人がいて、順番に呼ばれていく。どう考えても俺の番ではないであろう順番で、受付の女性が俺の名を呼んだ。
「百田糸さん」
 返事をして受付に声をかけると、「ご案内します」と奥の部屋に連れて行かれた。診察室と書かれた扉を通り越して、奥の表示のない部屋だった。受付の女性がドアをノックして中に案内してくれる。
「こちらでお待ちください。秋嶋がすぐにまいります」
 小さく会釈をして、中に入るとドアが閉められた。それほど広くはない応接室のような場所。奥のデスクには数台置かれたパソコン、全て電源が入っている。少しして、美丘さんが部屋に入って来た。
「どうしたの? 頭が痛いって受付のものから聞いたけど」
「うん、前から片頭痛持ってて。最近ひどいから薬ほしいんだ」
「そうなの?」
「いつもは主治医のとこ行くんだけど、ここって内科クリニックだったなぁって思い出して。野田さんに聞いたらOKもらえたから来ちゃった」
「それはいいんだけど、・・・片頭痛っていつから?」
「覚えてないや」
「頭痛いだけ? 吐き気とかは?」
「そういうのはないよ」
 俺の返事を聞きながらパソコンに向かって美丘さんはキーボードを打ち始めた。
「なんか医者っぽい」
 笑いながら言うと、「医者です」と返ってきた。そしてキーボードを打つ手を止めて、俺を見ると続けた。
「あれからは、東弥のメッセージなにかある?」
「ううん、ないよ」
「そう」
「どうしたの? 寂しくなった?」
「そういう冗談いいから」
 ちょっと、冷たい印象の美丘さんだった。
「いつも主治医の先生からはどんな薬をもらってる?」
「SFC200を1回2錠ずつ飲んでる」
「やっぱり」
「ん?」
「たぶんだけど、もう10年近く飲んでない? それ」
「だから、覚えてないんだよね。野田さんに聞こうか?」
「ううん、私から連絡入れておく。今日もそれ出しておくね。とりあえず1週間分」
「え? たったそれだけ? 1か月分くらいほしいんだけど」
「それは待ってくれる? 野田さんに相談してから」
「うん・・・わかった」

 美丘さんはもちろん仕事中だからさ、世間話してる場合じゃないんだろうけどさ。少し素っ気なく感じて、俺も「ありがとうございました」と声をかけて部屋を出た。俺がビルを出たのを確認して、美丘さんは野田さんに電話を入れていた。


     ⒂

 美丘さんからの電話に出ると、野田さんは「お電話いただけると思っていました」と言った。事務所ではなく、野田さんは自分の部屋で電話に出ていた。
「もしかして、私の専門分野をご存じでした?」
 美丘さんも、クリニックの奥の、あの部屋で電話をかけていた。
「ええ、先日うちに滞在されるとき、職務の休暇申請をするのにクリニックの名前を知って、もしかして、と思っていました。超脳科学、ですよね?」
「そうです。さすが野田さんですね、内科は表向きということで一般人向けに開いているだけです。専門は超脳科学、メモリーブレインの特殊専門科です」
「糸に近づいたのは、それが目的ですか?」
「野田さん、勘違いされてませんか? 糸くんに初めて会ったのは、わざとじゃないですよ。東弥の指輪の件で彼が現れて、びっくりしました」
「ではそれ以降に関しては、意図的に、ということで間違いないですか?」
「意図的にとは?」
「研究材料ってことですよね? 糸は」
「そう思います?」
「はい」
「だとしたら、野田さんはどうなんですか?」
「どういう意味でしょうか?」
「糸くんをこのまま、これからも国の犠牲にするつもりですか?」
「犠牲だなんて、誤解されてませんか? 彼は人の心の役に立ってます」
「それ、本心で言ってます?」
「もちろんです」
「だったらどうして、SFC200をずっと常飲させているんでしょうか? あれは、頭痛薬なんかではないですよね」
「確かに。そこはあなたの専門ですものね」
「糸くんの脳が壊死するのを抑制しているだけです。それが国の犠牲になってるって言ってるんです。野田さんは知ってるんですよね? そうやって薬を飲み続けることで、最終的には脳死に至ること」
 息を凝らすように、美丘さんが野田さんにそう問いかけた。その答えはこうだった。
「知ってるわよ」

 何も知らずに俺は事務所に戻った。野田さんは部屋で仕事をしていると相川さんから聞いたので、自分もそのまま部屋に戻った。その日も、届いた情報をメモに書き留めて、夜遅くに新しく保管庫に入れた。相川さんと高崎さんが帰宅したあとだったので、事務所はとても静かだった。2階に戻ると、ダイニングスペースで野田さんが待っていた。
「糸、ちょっといい?」
「うん、どうしたの?」
「秋嶋さんのことなんだけど」
「あぁ、今日薬もらってきた」
 ウォーターサーバーの横にある棚に置いてあったクリニックの薬袋を手にして、俺は野田さんに見せた。
「薬はやっぱり、今までの先生のところでお願いすることにするわね。なのでもう、あちらのクリニックには行かなくていいわよ」
「どうして?」
「国からの指示だから、専属のところでじゃないとダメだって私も怒られたわよ。だから秋嶋さんも1週間分しか出してないでしょ?」
「そうなんだよね、それだけしか出してくれなくて」
「こうなるのを分かっていて、糸が悲しまないようにとりあえず出してくれただけ。迷惑かけられないから、もう終わりね、この件は」
「そっか、仕方ないね」
「それから、メモリーブレインで関わった人との交流も禁止だから、今後秋嶋さんとも連絡を取らないように。わかった?」
「え? なんで?」
「規定だから、守るように。電話もダメよ。あなたが誰と連絡を取ったかなんて、すぐにわかるんだから」
「そこまで監視する?」
 イラっとして、俺はそのままダイニングスペースを出た。野田さんから美丘さんに来てもらったりしてたくせに、急にダメってなんだよ。
 だけど何かを考えようとすると、誰かの記憶が脳に降りてくる。俺の思考を他人の情報が邪魔するんだ。美丘さんのことを考えようとするのに、できないもどかしさにもイライラした。


     ⒃

 野田さんの監視は厳しいもので、携帯に入っていた美丘さんの情報は削除されていた。当然のように電話をかけることはできなくなった。あまり外にも出なくなった。今年の冬はとても寒くて、寒いと頭痛が特にひどくなるから、いつも事務所のヒーターの前に座り込んでいた。誰よりも着こんでもこもこになっている俺を見て高崎さんがよく笑っていた。事務所はいつもと変わらなかった。
 入れたばかりの温かい珈琲のカップを、両手で抱えて座り込む。飲むというより温まるために珈琲を入れた。
 その日に新しく届いたメッセージがあった。
 東弥さんから。
 以前、美丘さんに指輪を渡した、あのカフェの映像だった。

 野田さんが居ないすきに、俺はタクシーを拾ってあのカフェに向かった。遊園地での一件以来の東弥さんからのメッセージだった。何かあるという確信があって。そしてそれにはもちろん、美丘さんが関わっている。
 店に入ると、あの奥のL字ソファ席に美丘さんが座っていた。
「美丘さん!」
 声をかけると、驚いたように美丘さんは立ち上がった。
「なんで?」
「東弥さんが教えてくれた、ここに行けって」
 そしたら美丘さんは、俺を急に抱きしめたんだ。
「どしたの? 美丘さん」
「あのね、糸くん。聞いてほしいことがあるの」

 この時に俺は、初めて美丘さんが超脳科学、メモリーブレイン特殊専門科の医師だということを知った。俺と5歳しか変わらないのに、この若さで教授クラスのすごい人だった。東弥さんが俺のところにメッセージを降ろしてきたことに美丘さんも驚いたと言っていた。香川東弥さんも、同じ超脳科学、メモリーブレインの特殊専門科医だったそうだ。
 東弥さんは2年前に、ある病気を発症した。手術も受けたが完治はしなかった。日々悪化する症状に向き合い、東弥さんは最後に美丘さんに実験をしようと言った。命が尽きたら、メモリーブレインに思いを託す。そう言って亡くなった。何を託すのか、美丘さんも知らないでいた。
「そしたらあなたが現れたの、糸くん」
 青いリボンのついた白いBOX。東弥さんがメモリーブレインに託したのがあの指輪だった。
「東弥が亡くなって、でも全然メモリーブレインからの連絡はなかった。ご両親がストップをかけていたなんてことも知らなかったし。亡くなる前に実験だなんて言ってたけど、そうやって東弥からのメッセージが届くなんて、やっぱり無理なのかって思ってた。そんなの研究でわかる内容ではないから」
「だけど、1年経って俺が現れた」
「びっくりしたよ。実際に東弥とは付き合ってはいたけど、結婚の話したことなんてなかった。東弥が糸に、結婚してくださいってメッセージを届けてくれたから、ご両親ふくめ、婚約者っていう立場に置き換えられただけ。実際にはそんなとこまで話進んでなかった。だからね、イニシャルの入った指輪、本当に嬉しかったんだ」
 東弥さんが美丘さんのことを愛していたことは間違いない事実で。美丘さんが危険な目に合いそうなときに助けてくれたのも事実だ。俺と東弥さんの間にある仕組みなんて俺には全然わからないけれど、東弥さんの実験は成功した。
「俺が指輪を届けたのには、意味はあったのかな」
「あるよ、大いにあるよ」
「よかった」
「ただ、謝らなきゃいけなくて」
「なにを?」
「研究者の、こんな試すような内容を隠していたこと。本当にごめんなさい」
 このカフェに来てみてよかった。美丘さんに会えて、話を聞けてよかった。ホッとした。
「俺は嬉しいよ。そんな大きなふたりの賭けに参加できた」
「糸くん・・・」
だけどね、美丘さんの表情は硬いままだった。
「糸くん、あとね、お願いがあるんだ」
「なに?」
「SFC200、あの薬はもう二度と口にしないでほしい」
「どうして?」
「きちんと、伝えておくね」
 そう言って、いつか俺が脳死になる確率が高いことを話した。息をするのが苦しかった。
「薬を飲み続けたら? 脳死?」
「そう、糸くんのペースだと、70%の確率で脳死になる。早くてあと4年もつかどうか」
「じゃあ、飲まなかったら? 生きてられるの?」
「寿命は大きく伸びる。生きてはいられるけど・・・」
「けど、なに?」
「脳の一部は壊死すると思う」
「そしたら、・・・俺はどうなるの?」
「メモリーブレインではいられなくなる」
「誰かの記憶が届かなくなるってこと?」
「そう。それと・・・」
「なに?」

「あなたの記憶は、ほとんど無くなる」


     ⒄

 美丘さんとは、あれ以来会っていない。連絡も取っていない。だけど、ひとつだけ変わったことがある。どんなに頭が痛くても、SFC200を飲むのをやめた。定期的に野田さんが先生から預かってくるけれど、飲んだふりをした。わからないように処分した。俺は脳死よりも、俺で生きることを続けたいって思った。
 美丘さんが言っていたとおり、俺に届く誰かの記憶は少しずつ減っていった。最終的には何日も記憶が届かない日が続いて、おかしいと気づいた野田さんに、薬を飲んでいないことがバレた。主治医のいる総合病院に連れて行かれて検査を受けた。野田さんは、その検査結果を見て俺に言ったんだ。
「もう、あなたに価値はない」

 うん。俺は、ただの百田糸。

 事務所に帰ると、野田さんは俺の部屋を片付け始めた。
「自分が必要だと思うものだけ、カバンに詰めて」
 言われたけれど、自分の必要なものがわからなかった。いつも手に付けているスマートウォッチと、あとなんだっけ。俺はここで何をしてるんだろう。必要なものって、何?
 野田さんが衣類などを勝手にまとめて、一緒に1階に降りた。男の人と、女の人が俺を見ていた。この人たちは誰だっけ。さっき、「ただいま」って声をかけたんだ。どうしてこの人たちに「ただいま」って俺は言ったんだろう。
 よくわからないけれど、頭を下げてから事務所を出た。事務所の前の桜の木は満開だった。

 連れて行かれたのは、1階にコーヒーショップが入ったビル。エレベーターに乗ると、野田さんが「3」のボタンを押した。着いた階は病院だった。人がたくさんいた。みんながこっちを見たけれど、気にせず野田さんはドアを開けて中に入った。カウンターにいた人が制ししようとしたけれど、野田さんは何かを見せてそのまま入っていく。
「糸、おいで」
 呼ばれたので着いて行った。
 一番奥の扉を開けて野田さんが入ったので、俺もそこに続いて入った。
 中には白衣の女性がいた。胸くらいまでの黒い髪の綺麗な人。デスクに座ってこちらを見ていた。その女性に野田さんが話しかけたんだ。
「見ての通りよ。満足?」
 そう言われて、女性は俺の方を見た。よく分からなくて会釈した。
「糸、この人のことわかる?」
 野田さんがそう聞くので、俺は首を横に振った。そしたら女性は俺に言ったんだ。
「薬、飲まなかったのね?」
 それに対して何も答えられなかった。わからなかった。
「あなたにはやられてばかりだわ」
 野田さんは、俺の荷物を詰めたバッグから何か書類を、女性の座るデスクに置いた。そしてある部分を指さして、
「秋嶋、これは、糸の母親の旧姓」と女性に向かって言った。
「だからなんですか?」
「調べさせてもらった。糸が5歳で家を出てから2年後に、両親は離婚した。糸には姉がいた。5歳年上の姉。彼女は母親に引き取られた。名前は美丘」
「そこまでご存じでしたら、糸を返してもらいます」
 何度も俺の名前が出てくるので、俺はきょろきょろしていた。野田さんは、俺に「家に帰りなさい」と言った。
「俺の、家?」
 よくわからないけれど、「うん」と答えておいた。
「秋嶋さん、最後に聞かせてもらってもいいかしら」
「なんですか?」
「香川東弥がメモリーブレインの中から糸を選んだのは、偶然?」
「こればかりは、私に何かできるものではないです。メモリーブレインの神秘です」
「そう。糸のことは?」
「糸が私に会いに来てくれた時に名前を聞いて、もしかしてと思った。苗字は違うけど、名前が一緒だった。滅多にない名前、糸。弟は、子供の頃に急にいなくなった。最初は死んだと聞かされたけど、お葬式もしていない。なにより、糸の名前を言うと周りの大人から怒られた。少しでも何か話そうとしたら、最終的にはそんな人はいないと言われた。私は一人っ子でしょって、頭がおかしくなるくらい何度も言われて、糸はいなかったことになった。その状況が不自然過ぎて、きっとメモリーブレインなんじゃないかって。どこかで生きているんじゃないかって、大人になるにつれて感じていたから、そう信じてこの仕事を選んだ」
 野田さんは、女性の座るデスクの上に俺の荷物を置いた。
「糸、もう会うことはないわ。さようなら。元気で」
「さようなら」
「ちゃんと、あれ、渡しておきなさいよ。大切なものなんでしょ?」
 そうだ、思い出した。
 俺は、着ていたジャケットのポケットから箱を取り出した。白い小さなBOX。渡す相手はこの女性だ。
 女性のデスクの俺の荷物をよけると、目の前にその白いBOXを置いた。

「結婚してください」

 精一杯の笑顔で伝えたのに、女性は涙を流していた。
「糸、どうしてそれ・・・」

 俺の必要なもの。スマートウォッチと、保管庫No749の白いBOX。「結婚してください」の言葉と一緒に渡すこと。

糸 -ito-

糸 -ito-

何から話しましょうか。まずは俺のことでしょうか。 俺は百田糸。26歳。メモリーブレインである。 メモリーブレインとは、故人が思い残した記憶を 受取ることのできる人間のことである。

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  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-11-04

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