少年
前回うpした『最低』の前篇だか後篇だか。
別名「八島シリーズ」の完結編ではありますが、書きなおします。
十五の夜
手が滑った。
俺は地面に散らばったペンケースやキャンパスノートを拾い集めると、猿のように背中を丸めて廊下を歩いた。部屋に入り、机にかばんをおくと、リビングのほうからピアノの音が聞こえてきた。
俺だって昔はピアノを習っていた。でも練習が嫌でサボってばかりいた。だから小学校高学年になってもバイエルひとつ弾けなくて、母に恥をかかせた。レッスン代の無駄だから今はもうやめている。
ピアノを弾いているのは兄貴だ。今年高校二年になる兄貴は、最近は学校と塾とピアノ教室にしか行かない。ピアノ教室はそろそろやめるらしいから、もうすぐ学校と塾にしか行かなくなるだろう。
リビングに行くと、グランドピアノの横で母が兄貴を凝視していた。独身のころ高校で音楽を教えていた母はまるっきり「教師」のような顔をしている。あの顔で見つめられると体の芯から冷え切って、その場から逃げだすためならなんでもできる、とさえ思う。だから俺はピアノの練習が嫌だったのだ。
俺は椅子に座る兄貴の後ろを通り過ぎ、冷蔵庫からオレンジジュースのビンを取り出して栓を抜いた。カップに注ごうと思ったとき、手が滑ってビンが落ちた。
「どうした」
割れてしまったビンを見つめる俺に、兄貴が問いかけた。
「早く掃除しなさい」
母は俺を見ずにそう言い、兄貴の手に触れて「このくらいで演奏をやめちゃだめよ」と諭すように言った。兄貴は再びバッハを弾き始めたが、動揺したのか指使いを間違えた。ドン! と母が床を踏み鳴らす。
兄貴は最近、演奏をとちってばかりいる。そのたびに母のいらいらが募り、家の中は冷え切っていた。
俺は砕けた破片を片づけながら、どうせやめるんだからとちってもいいのに、と思った。でも兄貴も母も完璧主義だから仕方がないとも思った。
昔から小さな生き物を殺して楽しんでいた。
カエルやバッタ、セミなんかは何匹殺したのか見当もつかない。カエルの手足を縛って庭に転がし、上から石を落として圧死させた。虫は握りつぶしたり歯で頭を噛んだりして殺した。虫は苦くてバリバリしている。
真夜中、リビングを通り、グッピーが泳いでいる水槽の前に立つと、一匹アミですくった。暴れるグッピーを台所のまな板の上におくと、ヒレを指でつまんで腹に箸の先をつきたてた。グッピーはしばらくのたうちまわり、やがて動かなくなった。
俺はグッピーを水で流した。
こうして二、三日に一匹ずつ殺しているから、もう水槽には数匹しかいない。でも誰も気づかない。毎朝エサを与えている母ですら気付いていない。見えない俺に朝食を出すように、水槽にエサを入れることが母の『習慣』になっているのだ。
まな板を片づけて物置に戻ると、ベッドに腰かけてラジオをつけた。ラジオは音を最小にするか、イヤホンを使わないと母に怒られる。直接文句を言われるわけではなく、物置の戸をガーンと蹴られる。
音を最小に絞ったラジオを枕元におき、最近覚えたタバコに手を伸ばした。ふと自分の手を見ると、まるで死期が近い老人のようにぶるぶると震えていた。
最近、家にいるときだけ、よくこんなふうに手が震える。
グッピーが全部いなくなったので、水槽には金魚が入れられた。赤いのと黒いのが二匹。二匹なら二日で終わるじゃんって俺は思ったけど、口に出さなかった。
その夜、ものすごく久しぶりに父が家に帰ってきた。父は職場の近くにもうひとつマンションをつくり、そこで自由自適に暮らしている。今日帰ってきた理由は、たぶん兄貴の進路のことだろう。
俺は最近になって髪の毛を赤く染め、それを見せびらかすように父の前で毛先をつまんでもてあそんだ。
「卒業後、一年浪人して、東大に入れるつもりなの」
母はなんていうか、屋台で百円くらいで売っているお面のような笑顔で父に話しかけた。テーブルの正面に座っている兄貴を見ると、「あちゃー」という顔をしていたので、俺はぶっと吹き出した。
「どうして現役で行かせないんだ」
父は床を這うような低い声を出した。
「そのほうが、ようちゃんも気が楽だと思って。ようちゃんはマイペースにゆっくりやっていくタイプだから」
「ようするに成績が悪いんだな」
父は口角をあげ、馬鹿にするような目つきで母を見た。
母は顔を赤くしてテーブルに手をついた。
「そんな言い方やめて!」
「俺の息子が東大なんて無理だよ。考えてみろよ、こいつには散々金をかけてきたが、このありさまじゃないか」
母は立ち上がり、ロックギタリストの激しい演奏を思わせるような韓国語で父に詰め寄った。父は薄く笑いながら「何を言ってるかわからないぞ」とおどけて返事をした。
俺は首をひねって金魚を見つめた。今夜は赤と黒、ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、な、とおやつを選ぶように頭の中で歌った。か、み、さ、ま、の、い、う、と、お、り。
「ようちゃん、ようちゃんって、お前は浩太のことは考えないのか」
急に父が俺を指差したので、俺はぎょっとした。この家で兄貴以外の人に名前を呼ばれるなんて、ものすごく久しぶりだ。
「え、俺?」
「浩太だって息子だ」
いやいや、勘弁してよと思いながら、俺は首をひっこめた。
「今は、ようちゃんの話しをしているのよ!」
「お前は昔からようちゃん、ようちゃんだ。俺に似ている浩太が嫌いなのか。自分に似ている洋平しか可愛くないのか」
「浩太にだって同じようにしてきたわ! この子はそれを嫌がったのよ!」
俺は母のなす『英才教育』にほんの数年で嫌気がさした。抵抗のために「勉強しなさい」と言われた日には、台所の皿を片っ端から割り、壁に穴を開け、寝室に見るも無残なカエルの死体を放りこんだ。小学六年生くらいになると母はすっかり呆れたのか俺に話しかけてこなくなった。
「勉強させることだけが教育じゃないだろう」
「何よ、偉そうに言わないでよ! あんたは家にいないじゃないの。この家は私が守ってるのよ。あんたの家じゃないわ! 私の家よ!」
母はものすごくエネルギッシュな女性だ。たぶん家族の中で誰よりもパワーがあり、それをもてあましている。母は体の中で踊り狂う力を、兄貴を育成し、自分のステータスをあげることに使うことにした。
実際、母の努力はすばらしいものがある。背が高いだけでなんのとりえもない兄貴を、まがりなりにもある程度の優等生にしあげたのだから。俺からすれば兄貴はかなりがんばっているように見えるが、パワフルな母からするとまだ足りないらしい。
「いい加減にしろよ! お前がそんなんだから俺は家に帰りたくなくなるんだ!」
「○○○○!」
母が叫んだ韓国語は意味不明だが、どうやら父には理解できたらしい。父は顔を真っ赤にして家を出て行き、母は叫びながら父の背中を追いかけ、手当たりしだいに玄関にむかって投げた。父は力まかせにドアを閉めて行った。
「マジで一年浪人すんの?」
喧騒の中問いかけると、完全に力をなくしてテーブルにつっぷしている兄貴が「しょうがねえ」とくぐもった声を出した。
「がんばって大学行けよ。そうしたら一人暮らしすればいいじゃん」
「無理だ。お母さん、俺が東大に入ったらマンションかりて一緒に住むって言ってる」
「マジで?」
嫌だ嫌だ。テーブルにつっぷしたまま、兄貴はぶつぶつとそんな台詞を吐いていた。
「嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ」
How low?
ある日家に帰ると、兄貴が玄関の段差に座り込んでいた。
兄貴が浪人して三カ月くらいがすぎている。予備校は毎日のようにあるらしいのに、最近の兄貴は一歩も家を出ていなかった。
「どうして行かないの?」
兄貴の後ろで、母が顔をしかめて問いかけていた。
「どうして行かないの? 勉強が嫌になったの? 何が辛いの? 勉強せずに働くつもりなの? ねえ、どうなの? お母さんに不満があるの? どうして何も言わないのよ!」
母はなめらかな金属を思わせるような発音で叫び、兄貴の背中を蹴り飛ばした。
俺は安っぽいベルトのチェーンをいじりながらその光景を見ていた。いつのまにか手がぶるぶると震え、チェーンがぶつかりあって美しい音をたてている。
俺は兄貴の心情を思った。身長は百八十センチをこえ、体力的にはとうに母に勝てる年だ。それなのに母の暴力から逃げることもできずに、ただ嵐のような言葉に耐えている。なぜ殴り返さないんだろう? と反抗的な俺は考える。一発殴るだけで、今日のこの場はおさまるのに。
「やめろよ」
ふいにそんな言葉が口をついて出た。
母はぴたりと動きをとめて俺を睨んだ。母と目を合わせるのは本当に久しぶりで、こんなに険のある顔の女性だったっけ? と思った。
「やめろ、もうやめろ」
俺はうわごとのように繰り返し、母の胸倉を掴み上げた。
このまま殴ってもよかったのに、
「浩太!」
兄貴の声が俺をとめた。
俺は母を突き飛ばした。母は玄関のたたきに正座のような形で倒れ込み、手で顔を覆って泣きだした。
「お母さんがどれだけ苦労してあなたたちを育てていると思っているの? チョッパリに馬鹿にされないように、どれほどの苦労をしていると思ってるの」
「誰も馬鹿になんかしないよ」
兄貴は手のかかる恋人をなだめるように優しい声を出した。
「馬鹿みたい」
俺は言い捨てて物置部屋に入った。
四畳の部屋には布団とタンスとラジオしかない。他の私物は入りきらないから子ども部屋においてある。
俺はラジオをつけて横になり、タバコを吸った。
俺は高校に行かずぶらぶらしている。兄貴は引きこもっている。母のいらいらはとどまることを知らず、おさえきれないパワーを常にもてあましていた。
玄関のほうで何かが壊れるすさまじい音がしたので、きっと母が何かを兄貴に叩きつけたんだろうと思った。戸を少しだけ開けて玄関のほうに目をやると、兄貴が父のゴルフクラブをふりあげて壁を破壊していた。
「ようちゃん! やめて!」
ラジオからカート・コバーンの壁を震わせるような歌声が聞こえていた。
「ようちゃん! やめて!」
俺はラジオの音量を最大にした。ふと焦げた臭いを嗅いで振り返ると、落としたタバコがシーツに火をつけていた。このまま放っておいたら火事になるよなって思いながらそれを見ていた。
火は美しい模様の熱帯魚の群れのように広がっていく。なんてきれいなんだと思った。このままずっと見ていたかったのに。
「焦げ臭いぞ!」
いきなり、必死の形相の兄貴が戸を開けた。その右手にはゴルフクラブが握られており、擦り傷がいくつもついていた。
バスタードロップ
兄貴はもう受験生をやめるって。
俺は子ども部屋でテレビを見ていたけど、少しも面白くなかった。最近の芸人やアイドルはわからない。
兄貴は机を占領するほど大きなパソコンの前で、さっきからずっとカチカチやっている。俺はパソコンとかそういうものはわからない。たまに覗き込んだが、知らないキャラクターのアニメだった。
兄貴のドロップアウトを母は何カ月も認めなかった。母は大騒ぎしながら兄貴を連れまわして病院を渡り歩いたけれど、結果はかんばしくなかった。完全に引きこもった兄貴はでっぷりと太って、顔に吹き出物が浮かんでいる。もはや痩せて青白い顔だった優等生ではない。
でも俺は、今の太っている兄貴のほうが好きだった。こっちのほうがずっと兄貴らしいと思った。
「それ面白いの?」
問いかけても兄貴は答えない。兄貴は完全に閉ざした殻の中に入っている。その殻は強固なもので、母が怒鳴っても泣いてもなだめても壊れそうにない。さなぎのような兄貴は猫背で、丸くて、岩に見える。
このあいだ、数ヵ月ぶりに父が帰ってきた。
父の髪には白髪が見えた。父も年をとって、今さらながら家族ってものに会いたくなったようだ。父は兄貴の惨状を見ると口元に手をあてて笑い、母に「ざまあみろ」と言った。
母の苛立ちは、そんなこともあって絶頂に達したようだ。
家の中は真冬の風呂場のように冷え切っている。母は寝室に閉じこもって出てこない。父は仕事から帰ってくると台所で酒をあおり、そのまま布団を敷いて眠ってしまう。
「なあ、あんたって童貞?」
俺はカチカチやっている兄貴に問いかけた。返事はない。
「別に、いいんじゃねえの童貞でも。だって結婚したってあんなものだし。ろくなもんじゃねえよ。あんたみたいに童貞でパソコンやってるのが一番いい」
俺は壁によりかかってライターを指先でもてあそんだ。
「家族の中で兄貴が一番まともだよ。この家、クソみたいじゃん。殻に閉じこもらないやつのほうがどうかしてる。俺の周りにいるやつの中で、まともなのは兄貴だけだ」
俺はずるずると滑って床に寝ころんだ。睡魔が訪れる。口から火のついたタバコがぽろっと落ちた。転がっていくタバコの行き先を見ていると、ゾウのような緩慢な動きで兄貴が立ち上がり、タバコを拾い上げて机に押し付けて火をけした。
俺は岩のような兄貴の足元で眠った。何週間も風呂に入らず、歯も磨いていない兄貴はすえたような臭いがしていた。
ふと体が痙攣して目覚めると、体に毛布がかかっていた。顔をあげるとパソコンの画面が兄貴の顔を青白く照らしていた。
「寝てねえの?」
問いかけると、兄貴はちらっと俺を見て「少し寝た」とほほ笑んだ。
母が倒れたって父に聞いたときは、俺も「ざまあみろ」って思った。火病をこじらせて死ぬんじゃねえのって思ったけど、ただの風邪だった。
「悪いけど、母さんの世話を」
言いかけた父の言葉を、壁を殴って止めた。
子ども部屋に入ると南極の氷山のような兄貴がパソコンの前に座っていた。
兄貴の足元にはカップラーメンとカロリーメイトの箱が積み上げられている。兄貴は手作りの料理とかいうものを一切口に入れなくなった。一日に一回、貪るようにカップラーメンを口に入れ、それからあわただしくパソコンにむかう。
栄養不良なのか風呂に入っていないせいなのか、兄貴の頭からは髪が抜け落ち、歯には黄色い歯垢がこびりついている。顔中に吹き出物ができ、部屋には何十倍にも凝縮された獣のような臭いが満ちていた。
「お前たち、ちょっといいか」
父が遠慮がちに子ども部屋のドアを開けた。
父は兄貴の臭いが不快なのか顔をしかめ、中には入ってこずにドアのところで腕を組んだ。
「母さん、このところ年をとったのか気弱になっているみたいだ。お前たちのどちらかが世話をしてくれれば元気になると思う。年をとってからの病気は辛いから……」
父は学級崩壊しているクラスの担任のように、しわがれた声で呼びかけた。
俺はタバコに火をつけた。携帯電話を開くと、このあいだの合コンで知り合った女の子からメールがきていた。
「――浩太、どうだ? ぶらぶらしているんだから母さんの世話くらい……」
「え、俺?」
俺は父のほうを見た。母に「ざまあみろ」とまで言った父の豹変に驚いた。
「母さんはお前に冷たくもした。でもそれは、父さんの親戚のほうにお前の素行のことをいろいろ言われて、母さんも悩んだからなんだ。母さんはお前が嫌いなわけじゃない」
「親父、金くれ」
俺は携帯電話をズボンのポケットに入れ、父のほうに手のひらを差し出した。
「なんだって?」
「美容院行きたい。俺、バイトしたいんだ。そのために髪の毛黒くするから」
「働くつもりのか?」
「家出てくからアパート借りてくれよ。敷金礼金とか払えないからさ。あと家具も買って。したら家賃くらいは自分で払う」
父は重苦しいため息をついた。
「母さんの世話は……」
「あんたさあ、おかしいだろうよ。あんたが世話しろよ。夫婦だろ? 誓い合って結婚したんだろ? なんで俺たちに自分たちの辛さを押し付けるんだよ。自分たちでなんとかしろよ。なあ? 俺間違ったこと言ってるか? ああ?」
俺は壁を殴った。拳の形に穴が開く。それでも飽き足りず壁を蹴りあげた。
「さっさと金よこせよ。殺すぞクソジジイ」
父はポケットに手を入れて財布を取り出すと、万札を二枚取り出した。俺は札を取り上げ、鼻を鳴らして父の横を通り過ぎた。
携帯電話が震えだしたと思ってズボンのほうに目をやると、自分の手がのたうちまわる小動物のように激しく震えていた。
斎藤
一発で受かったパチンコ店のバイトだが、立ち仕事が多くて足が棒のようだった。
俺はどうも労働にむかないタイプのようだ。マネージャーがいないときを見計らってサボっていると、バイト仲間の男がジュースを買いにやってきた。
そいつは片目が灰色に光る変なやつで、いつも足をひきずっているから仕事が遅い。だが俺よりはずっと真面目だからマネージャーには可愛がられていた。
「話しがあるんだけど」
そいつは斎藤という名前だった。俺は自動販売機の前で斎藤に話しかけた。
「俺?」
「ああ。俺、八島浩太っていうんだけど」
「知ってる」
斎藤は目を細めた。
「実はアパートを追い出されて」
俺は事情を説明した。
引っ越ししてわずか一カ月で俺はアパートを追い出された。いつもの癖でタバコの火を消さずに寝てしまい、ボヤを出したのだ。最近の俺は寝ぼけながらタバコを吸う癖がある。実家にいたときはボヤを出したりしなかったから、たぶん兄貴が消してくれていたんだろう。
「もうお祭り騒ぎでさ。管理人には怒鳴られるし、実家の親父が呼びされて、なんかリフォーム代? みたいなもの請求されて――まあそれは親父が払ったんだけど、とにかく出て行ってくれって言われたんだ」
「それで? 実家に帰るのか?」
斎藤は茶色くてウェーブがかかった前髪を揺らして小首をかしげた。
「実家のお袋が調子悪いんだよ。まあもともとおかしい人だったんだけど、なんか最近老けこんじゃって。家にいると世話しろとか言われてうざい」
「ふうん」
「しばらく泊めてくれ。迷惑はかけないからさ。食費くらいは払うよ」
斎藤はきょとんとした顔で俺を見た。いきなり話しかけて何を言っているのかと思っているのだろう。俺と斎藤は別に友達じゃないし、今までは挨拶すらしなかった。
「頼むから泊めてくれよ。今実家に帰ったら、俺は親父とお袋を殺す」
俺が言うと、斎藤はその灰色の目を見開いた。整えられた眉が上にあがる。
「俺が両親を殺したらあんたのせいだ。あんたが泊めてくれなかったから殺したんだって、警察とかに話す」
斎藤はぶっと吹き出した。
「何笑ってんだよ」
「いや、悪い」
言いながらも、斎藤は笑いをこらえているかのように小刻みに肩を揺らした。口元を手でおさえながら、斎藤はすうと息を吸って息を整えた。
「いいよ。俺の家にこいよ」
「マジで?」
俺は立ちあがり、斎藤の前に立った。斎藤はすらりと背が高く、一重まぶたの優しそうな目をしている。
「でも、俺のアパートは狭いし何もないけど」
「そんなもん気にすんな」
俺がそう言うと、斎藤は再びぶっと吹き出した。こいつ、笑ってばかりだ。失礼なやつだな。
「悪い……じゃあ、今日は一緒に帰ろう。着替えは持ってるのか?」
「実家にあるんだ。今からとってくるよ」
俺は制服の上着を脱ぎ、休憩室の椅子に放り投げた。
「え、バイトは?」
「もう辞める」
俺はパチンコ店を飛び出した。
黒夢
実家にいたときは気付かなかったけど、この家はむかつく臭いが漂っている。それは兄貴の獣の臭いなのかもしれないけれど、俺は違うような気がする。
俺たちが子どものころ、母は毎朝のように漬け込んだキムチを食卓に出した。台所にはキムチの鼻を刺すような臭いが染み付いているし、物置部屋の近くからは俺が吸っているハイライトの臭いが漂っている。
「ああ、おかえり」
父は本格的に実家に帰ってくる気になったようだ。崩れた積木のようになった家に帰ってくるなんて正気の沙汰ではないと思ったが、父は父なりに家を守ろうとしているのかもしれない。それが家族だとでも思っているのだろうか? よくわからない。
「親父って、あのマンションどうしたの?」
父は職場の近くに小ぢんまりしたマンションを持っていて、一年の大半をそこで暮らしていた。もし父が使わないのなら俺がもらおうと思った。
「解約した。このところ不景気で、父さんも羽振りが悪い」
父は顔をしかめた。
「ふうん。なんでもいいや、金くれ。なんか目が悪くなって、メガネ買いたい」
父は黙ってリビングのほうに行くと、引き出しからへそくりらしき封筒を取り出して俺によこした。中を開けると一万円札が五枚入っている。
「お前、家に帰ってくるんだろう?」
「いや」
言い捨てて、着替えがおいてある物置部屋にむかった。スーツケースにすべて詰め込んで、ついでに子ども部屋のほうをのぞいてみると、相変わらずの兄貴がカチカチやっていた。
「お前か」
兄貴は俺のほうを振り向くと、ほっとしたように笑った。
兄貴は昔からそうだ。俺が部屋をのぞくと「お前か」と言ってほっとする。子ども部屋をのぞくのは、俺でなければ母だからだ。兄貴はいまだに母に監視されることを恐れているらしい。
遠くのほうで父が寝室のドアをノックしている音がしている。
兄貴が引きこもりなら母も引きこもりだ。だが母の「こもり」は長く続かないだろう。母はひなが一日大人しく部屋にいるような人ではない。今はこもっているが、そのうち出てきて何かよからぬことをするだろう。母はそういう人だ。母は、別にすごく悪い人ってわけじゃないけど、やることがすべて裏目に出てしまうのだ。そういう星の下に生まれたんだろう。
部屋を出ると、父が腕組みして俺を睨んでいた。
横を通ろうとするとぎゅっと腕を掴まれた。
「バイト抜け出したのか? さっき、店の人から電話があったぞ」
「もう辞める」
「うちに帰ってこないのなら、どこで寝泊まりする気なんだ? 漫画喫茶とかやめてくれよ。そんなことをするくらいなら家に帰って――」
「お前に関係あるかよ」
「うざいかもしれないが聞いてくれ。母さんの具合がよくないのは風邪のせいじゃない。どうもノイローゼみたいなんだ」
俺は父の腹を殴った。
「だから? ノイローゼであいつ死ぬの? ふうん。そんなことはもうどうでもいいんだよ。わかるか? 俺はもう、お前もあいつもどうでもいいんだ」
言い捨てて通り過ぎる瞬間、父がぽつりと「狂ってる」と言った。俺は振り返った。父が怯えたような顔で台所に入っていく。
狂っている。
狂っている。
だけどこの異臭漂う家で、どうかしないほうがどうかしているんじゃないか。
この家が『家』として機能しているなんて信じているのは父だけだ。だから俺を息子だと思っているし、自分を父親だと思っているんだろう。
兄貴がピアノの鍵盤をぶち壊したときの切なくも美しい旋律を覚えている。
父は母の病気をきっかけにして家族を団結させたいのかもしれない。だがもう無理だ。父は遅い。母は失敗した。
斎藤
斎藤は車を持っていないらしい。俺は単車を持っていたので、パチンコ店まで斎藤を迎えに行って、そのまま斎藤のアパートにむかった。
「なんで足悪いの?」
「昔、事故で」
斎藤は鍵を取り出してドアを開けた。斎藤の部屋はがらんとしていて何もない。小さなテレビとタンスだけはあるけれど、あとはちゃぶ台がおいてあるだけだった。
「事故って、交通事故?」
「いや」
斎藤は無口なのか、この話題は不快なのか、ほとんど返事をしなかった。
「ラーメンでいいか? 夕飯」
斎藤はキャベツが浮いたインスタントラーメンをつくり、俺たちはちゃぶ台で食べた。朝から晩まで働いているくせに、斎藤はこんな貧しい暮らしをしている。
「どうして俺に頼んだ?」
畳の上に転がってテレビを見ていると、斎藤がそう問いかけた。
「何が?」
「他にも友達いるだろう? どうして俺に泊めてくれなんて頼んだんだ」
「ああ。別に意味はないけど、あんたが一人暮らししてるって誰かに聞いたことあったし、あんたなら大人しそうで断らないだろうって思って」
「素直なやつだな」
斎藤は笑うと体をひねって冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「八島は未成年?」
「いや、飲む」
俺は勧められるよりも早く缶ビールに手をのばした。
「その目、病気? 白内障かなんかか」
「いや」
斎藤は灰色のほうの目を軽くおさえる。俺は起き上がって斎藤の顔を見た。目が黒いほうの右顔はかなり整ったいい顔に見えるのに、灰色のほうの左顔は蝋人形のようでなんだか怖い。
「喧嘩?」
「まあ、そんなようなもんだ」
斎藤は大人しそうに見えるけれど、実は若いころは不良だったのかもしれない。バイクの事故かなんかで足を悪くしたのかもしれない。俺は断りも入れず二本目の缶ビールに手をのばした。
「布団は一組みしかないから、八島はこたつで寝てくれ」
時間的にはまだ早いがこたつにもぐりこんだ。手をのばしてタバコに火をつけ、深く吸い込んで目を閉じた。ふと気配がして薄く目を開けると、斎藤が俺の指からタバコをとり、ビールの缶に放り込んだのが見えた。
「おやすみ」
斎藤の横顔はやけにかっこいい。
しばらく眠って、朝方体を震わせて起きると、薄暗い中で斎藤がわずかな光を頼りに雑誌を読んでいた。
俺は少しだけ顔をあげた。
「寝てねえの?」
「いや、少し寝た」
斎藤は微笑んだ。兄貴といい、こいつといい、なぜ俺の周りのやつは少ししか寝ないんだろう? どういう理由があるのか。
「寒くねえの?」
「いいから、寝てろ」
斎藤はこたつ布団を引き上げて俺の顔を隠した。
チカ
「八島くん!」
パチンコ店の前で斎藤を待っているとき、髪の毛をくるくるに巻いたチビな女が駆けよってきた。
「八島くんじゃない。久しぶり。いきなり辞めちゃうからびっくりしたよ」
「あんた誰?」
素朴な疑問をぶつけると、チビ女が絶句したように目を見開いた。
「覚えてない? あたし、よく一緒にシフト入ってたんだけど!」
「俺、仕事のときは意識が飛んでたから」
チビ女はげらげら笑い出して「何それー」と騒いだ。俺は腕を組み、首をかしげてチビ女に近づいた。
「んで、俺になんか用?」
「あ、うん。八島くんって、斎藤さんと一緒に暮らしてるって聞いたんだけど」
誰に聞いたというのだろう。この女が調べたんじゃないだろうかと思ったが、証拠はない。
「だから?」
「斎藤さんって、ホモなのかなー? あたし、何度か声かけたけど、返事してくれたことないんだよね。シカトされてて……」
チビ女は可愛らしい上目づかいで俺を見つめた。
「変な妄想してるんならやめてよ。俺はホモじゃないし」
「いや、別に本気でそう思ってるわけじゃないんだけどね。斎藤さんがあんまり話してくれないから。あたし、嫌われてるのかなー? ほら斎藤さんってすごくかっこいいから。あたしああいう人タイプだから、嫌われてると寂しいの」
「そんなに気になるんなら、紹介しようか」
そう言うと、チビ女は大きな目をぱちぱちさせて微笑み、胸の前で手を合わせて騒ぎだした。
「うそー、ホント? うれしい! 八島くん優しいね!」
「ちょっと待っててね」
俺はチビ女から離れると携帯電話を取り出して斎藤にかけた。
「……はい」
「俺だけど、悪いけど今日は用事あるから迎えに行けねえ」
「ああ」
「夕飯もいらねえから。今日は帰れない」
「わかった。わざわざ電話してこなくてもいいぞ。律儀なやつだな」
斎藤は薄く笑いながら通話を切った。
俺は振り返ってチビ女のほうに近寄った。
「バイト終わったあと、駅前の喫茶店で待ってて。斎藤と行くから」
「うん!」
「名前教えて?」
「チカ」
「あとでね。チカちゃん」
チビ女は元気よくうなずくとパチンコ店に入っていった。
俺は一足先に喫茶店にむかった。
一度だけ猫を殺したことがある。
小学生のときだ。野良猫が庭でトカゲを食っていた。「チッチ」と手を出すと、人慣れしているのか足に絡みついてきた。その猫を抱き上げると、ポケットに入っていたハイパーヨーヨーの紐をほどき、猫の足に巻きつけた。
暴れ狂う猫を掴んでぐるぐる振りまわした。実はこのときはまだ殺すつもりではなかった。たとえば、気弱なクラスメイトの胸倉を掴んで窓から突き出すように、ちょっと脅すだけのつもりでそうした。
しばらくぐるぐる回していると、猫の動きがとまった。見てみると紐が首に巻きついていた。猫をおろし、胸に触れると鼓動を感じなかった。死んだようだった。
俺は小さくて可愛いものを見るといじめたくなる。なぜかはわからないけど、そう感じるのだ。小さくて可愛い女の子で、がりがりだったりするとなおいい。単純にセックスしたいし、そばにおきたいし、殴ってやりたい。
チカは喫茶店に入ってくると、俺を見つけて手をふった。
「斎藤さんはまだなんだ」
「あいつこないよ」
俺はタバコの煙を思い切り吸い、丸い輪の形をつくって吐きだした。
「……こない?」
「ああ。こない。つーかあいつにあんたのこと言ってねえ」
「だ、騙したの?」
チカは胸の前で手を握った。ボディーランゲージの多い女だなと思う。
「なんで斎藤が好きなの? シカトされてるんなら、脈なしじゃね?」
「なんでって……かっこいいから」
俺はため息をついてテーブルに頬杖をついた。
「かっこいいけど、あいつはたぶん無理だよ。あきらめなよ。俺でいいじゃん? 俺じゃだめ? ただかっこいいってだけの理由なら、誰でもいいよね?」
「ええー、そんな……」
「いいじゃん。俺にしておきなよ。俺はあんな無愛想なやつじゃねえし。俺にしようぜ。ねえ、だめ?」
「ええー……」
「ねえ、俺のどこがだめなの? あいつがいいんなら俺でもいいじゃん。それに、俺と一緒にいたら、あいつも声かけてくれるかもしれないよ? だって友達の俺の彼女ってわけだから、さすがに無視はできないよね」
「ええー」
さっきから、この女これしか言ってねえ。だがその顔はまんざらでもなさそうだった。
「はい、もう決まり。俺にしておきな。俺といると楽しいよ。俺、斎藤ほどかっこよくはないかもしれないけど、絶対斎藤といるより楽しいよ」
俺はまんざらでもなさそうだが、どうしようか戸惑っているらしいチカの腕を掴んだ。
「ね? いいでしょ、チカちゃん。俺にしておきな」
ふらりと入ったラブホテルで、チカは首を絞められて死んだ猫のように丸くなって眠っていた。俺は携帯電話を取り出すと、シーツをはぎとってチカの全裸を写した。
シーツをはぎとったせいか、カメラの音に気付いたのか、小さく震えてチカが目を覚ました。
「撮ったの?」
「うん?」
「あたしの裸撮ったのね!」
チカは顔を赤くしてわめいた。俺はチカの頬を指ではじくと、床に散らばった服に手をのばした。
「ちょっと! 消してよ!」
チカはヒステリックにわめき散らすと、俺に掴みかかってきた。
「うるせえよ」
「消せ! 馬鹿!」
俺はチカの肩をおしてベッドに押し倒した。馬乗りになり、頬を一発張り倒して見降ろした。
「消してやるからホテル代払って」
「なんですって?」
「ホテル代、払ってくんないかなあ? ジュース代も。二万円でいい」
「……それくらい払ってあげるから、消してよ」
チカは脱力して低い声を出した。俺は携帯電話を取り出し、チカに見えるように画面をむけると画像を削除した。
「……あんたって、気持ち悪い男ね」
財布から二万円引き抜いて俺によこしたあと、チカは目を赤くしながらそう言った。
「気持ちいい男ですって自己紹介したかよ」
俺は服を着てラブホテルの部屋を出た。
黒く塗りつぶせ
「小銭ねえや。タバコ買って」
ファミレスからアパートに帰る途中の自販機の前でそう言うと、斎藤は「ああ」と言ってタバコを買ってくれた。俺は飯代くらいは払うと言ったことをすっかり反故にしているのだが、斎藤はそれについても黙認している。不気味なやつだ。
こいつといるとどうも調子が狂う。
「今日は実家に帰る」
「そうか」
「たまには家に帰らないと。金がねえ」
「そうなのか」
斎藤は俺の話しには興味がないらしい。斎藤をアパートまで送っていって、俺はそのまま実家にむかった。
実家はやはり不快な臭いに満ちていた。
玄関を開けるとキムチの臭いが漂ってきた。台所で母がキムチを漬けている。
「おかえりなさい」
母は痩せた青白い顔で微笑み、真っ赤になった手を幽霊のように垂らしながら立ちあがった。
「こうちゃん。今夜、夕飯はどうする? お母さん久しぶりにすき焼きしようと思ったんだけど」
母はキムチをつまみ食いしたらしい。口裂け女のような、頬まで真っ赤な唇で笑った。
よくない。これはよくない兆候だった。俺は逃げるように子ども部屋に入ってドアを閉め、兄貴の本棚を引きずってドアにあてがった。
「どうした?」
兄貴は必死でドアを封鎖する俺を不思議そうに見ていた。
「ようちゃん、こうちゃん。お母さんの話しを聞いて」
コンコン、と母はドアをノックする。
「うるさい!」
俺は本棚を殴った。振動で漫画の本がバラバラと落ちる。
コンコン、コンコン
コンコン、コンコン
恐ろしい口裂け女がドアをノックする。
「落ちつけ」
冷静な兄貴が俺の肩に手をおいた。俺は手を震わせながら部屋のすみまで這っていき、壁を殴って怒鳴った。
「ちくしょう! お前、さっさと死ねよ!」
「落ちつけ」
兄貴は俺の頭をぽんぽんと叩いた。
「ようちゃん、こうちゃん。お願い、お母さんの話を聞いて。お母さん間違ってた。あなたたちに一言謝りたいの。一言――」
「うるさい! 死ね!」
俺はドアに漫画本を投げつけた。
思った通りだ。いつか母は出てきてろくでもないことをすると思っていたが、どうやら彼女は『家族の再生』ってものをしようと思い立ったらしい。
母が本気なったらもうやばい。彼女のパワーは俺たち家族を巻き込んで、とんでもないところへ連れ去ってしまう。彼女が特別なのか、世の中の母親ってやつがみなそうなのかわからないけれど、良くも悪くも彼女は家の中心だ。彼女はこの家の真ん中にどしんと座り、采配をふるう。ろくなもんじゃねえ。
「浩太」
兄貴は震える俺の手を掴み、なだめるように何度かなでた。
しつこく壁を殴っているうちに拳の形に穴が開いた。母のすすり泣きが遠ざかっていったので、俺はほっと息をついて座り込んだ。
「あいつ、ずっとあんな感じ?」
問いかけると、兄貴は苦笑して小さくうなずいた。
「今日は親父いねえの?」
「仕事」
「そっか……」
俺はため息をついて壁によりかかった。そんな俺を見て、兄貴はふっと笑うと財布から一万円引き抜いて俺によこしてきた。
「いや、いいよ」
首をふって断ったが、兄貴は無理やり俺のポケットにねじ込んだ。
引きこもりの兄貴から小遣いをもらってしまった。親父からはいくらせびってもなんとも思わなかったのに。俺はいらいらしながら立ちあがって本棚の位置を元に戻し、ドアを開けた。自分のいらいらの理由を解明できない。それがむかつく。
俺は家を出るとすぐにチカに電話をかけた。着信拒否されているのか圏外になった。そんなときのために俺は携帯電話をもう一つ持っている。もう一つの電話でかけると、コールが三回鳴ってチカが出た。
「……はい?」
「八島だけど、今から出てこい。駅で待ってるから」
「はあ? あんた何言ってんの? あんたなんかにはもう二度と会う気ないから!」
「すぐに駅にこいよ。こなかったらお前の動画ネットでばらまく」
「……なんですって?」
チカは堅い声を出した。
「ラブホテルで、お前とやってるところを動画に撮った。写メもある。こなかったら全部実名でばらまいてやる」
「そんな」
チカがわめきだす前に通話を切った。
駅にいると真っ青な顔のチカがやってきたので、何も言わずに手を繋いで近くのラブホテルに入った。シャワーのあいだに逃げられるといけないので一緒にユニットバスに入り、チカに背中を洗わせた。
いらいらしている。自分の感情をぶつけるように乱暴にチカを抱いた。
俺は彼女っていうものをつくったことがない。今まで何度か挑戦したが、だいたい些細なことで腹が立って連絡をとらなくなる。俺はそういうものにむいていないのだろう。
「帰る」
終わってすぐに服を着た。振り返るとチカは頭までシーツを被って丸くなっていた。
四つん這いでベッドにあがり、頭部分のシーツをなでると、チカはちょっとだけシーツを下げて例の可愛らしい上目づかいで俺を見た。
「送ってやろうか?」
俺は珍しく寛容な部分を見せた。チカは赤い目でしばらく俺を見ていたが、やがて小さく首をふった。
「じゃあ、また電話するから」
ラブホテルを出て、斎藤のアパートにむかった。
チャイムを鳴らすと斎藤はすぐにドアを開けた。上は今日一日着ていた普通のシャツだが、下はトランクスだったから目が丸くなった。
「今日は泊まるんだと思ってた」
斎藤は笑って俺を中に招き入れたが、下はトランクスだから全然かっこよくなかった。
「もう寝るけど、お前は?」
斎藤は布団を敷きながら聞いていた。俺はうなずいて、部屋においてあったジャージに着替え、電気を消してこたつにもぐり込んだ。
俺は基本的に夢を見ない。俺にとって眠りとは黒く塗りつぶされた画用紙が目の前に横たわるようなものだ。最近はあまり眠ってもいない。ほんの三、四時間ほどで目が覚めてしまう。
何度か浅い眠りを繰り返し、夜が白くなったころに起きた。いつも朝方に目覚めたときはどんなに寒くても汗をかいていて、必ず体が震えている。
ふと横を見ると、斎藤が起きてぼんやりと壁を見ていた。
「寝てねえの?」
尋ねると、斎藤は軽く笑って「少し寝た」と言った。
「なんで少ししか寝ないの?」
かすれた声が尋ねると、斎藤は少し目を細めて俺を見た。
「お前、寝ているときずっと何か喚いていた」
「え?」
「悪夢でも見たのか」
俺は額に手をあてた。自分が寝ているときのことなどわからない。でもきっと、それはとんでもなく不気味な光景だっただろう。
「……悪かった」
「いや、いい。心地よかった」
「はあ?」
「八島の喚いている声が、耳に心地よかった」
斎藤はさすがに眠いのか布団に横たわって目を閉じた。俺は起き上がり、勝手に冷蔵庫からビールを取り出して飲んだ。
黒い眠りの中で、俺はいったい何を喚いているんだろうと考えた。でも考えてもわからなかった。世にも恐ろしい悪夢を見ているのかもしれないが、覚えていないのだ。
ザーザーザー
朝から晩まで働いている斎藤が貧乏をしている理由がついにわかった。ある休日のことだ。
「今日はデート?」
俺はラーメンを食いながら斎藤を見上げた。普段はあまり出かけないやつが、財布に金を入れていたからだ。
「いや」
「じゃあ買い物?」
俺の質問に斎藤は苦笑いすると、財布をポケットに入れて「ちょっとヘルスに行ってくる」とおよそ似合わない台詞を吐いた。
「あんた風俗行くの?」
「よく行く。週に一、二回くらい」
「彼女つくればいいじゃん。あんたもてるんだろ」
斎藤は渋い顔で首をふった。
「俺は、彼女はつくらない」
まるで突き刺すような、有無を言わせない言い方だった。大人しい斎藤がこんな声を出すところを初めて見た。
斎藤は足を引きずりながら玄関にむかった。そのとき、ふと斎藤に優しくしてやろうという気持ちが働いた。家賃を払っているわけでもなく、食費を出しているわけでもない。それどころかときどきタバコ代をせびっている。たまには優しくしておかないと叩きだされるかもしれない。
「送ってやるよ」
俺は立ち上がって上着を羽織った。
「いいのか?」
「ああ。どこの店か教えて」
「駅前の店。このあたりじゃ一番安い」
斎藤はこの街の風俗店についてかなり詳しかった。すました顔をして、実はかなりスケベな男だ。
斎藤を駅前の店まで送ってやって、そのまま実家のほうへむかった。どうしてそうしたのかわからない。斎藤のアパートに帰ってもよかったのに。
いわゆる、虫の知らせってやつかもしれない。
俺の実家は不快な臭いに満ちていた。
「わああああああああああ」
ドアを開けた瞬間、地の底から這い上がってくるような叫び声を聞いた。
「早く閉めろ」
父が小走りでやってきて、乱暴に玄関のドアを閉めて鍵をかけた。
「わああああああああああ」
夏の終わりによく聞くセミのような声だと思った。セミの群れがめいめいに鳴き声をあげているのだ。子どものころはよくセミを捕まえて、足や羽をむしったり頭をとったりして遊んだ。俺が殺したセミたちがこの家に集結したのだろうか。
「母さんがケーブルを切った」
父は俺の腕を掴んでリビングに連れて行き、ソファに座らせた。
「ケーブルってなんだよ」
声は二階から聞こえてくる。二階にあるのは子ども部屋だ。俺はリビングの天井を見つめた。
「インターネットのケーブルだ。プロバイダも解約した」
「プロバイダ? 解約?」
父は手で額をおさえると重苦しいため息をついた。
「もうパソコンでインターネットができないということだ。そのせいで、朝から洋平がずっとああなんだ……」
俺は怒りを覚えて立ち上がった。
思った通りになった。母はいつかよからぬことをするだろうと思っていたが、よりにもよって最悪なことをした。母は兄貴の子ども時代を、青春を壊し、ついにたったひとつ残った兄貴の世界までも壊してしまった。
「お袋どこにいるんだよ!」
テーブルを叩いて怒鳴ると、父は視線だけ上にむけた。
俺は階段を駆け上がった。兄貴の凄惨だが悲しい声が聞こえる。「わああああああああああ」俺は子ども部屋のドアを開けた。
「こうちゃん」
母は、顔を血だらけにしてそうつぶやいた。
母は床にうつぶせで倒れていた。その横で、セミの抜け殻のような兄貴が顔を手で覆って泣いていた。机の上のパソコンが無残に壊れている。
母は兄貴と『話し合い』ってやつをしようとしたのだろう。目に浮かぶようだ。インターネットを使えないようにしたら、兄貴が殻を破って心を開いてくれるだろうとでも思ったのだろう。
母は殴られたらしい。顔が腫れあがり、額も割れている。
俺は母を無視して兄貴のほうに目をやった。重症なのは兄貴のほうだ。見た目ではわからないけれど、今この世界で、兄貴ほど重症を負って助けを求めている人はいないだろう。
「兄貴」
俺は左手で兄貴の肩に触れ、そっと右手で背中をなでた。
「わああああああああああ」
「兄貴、この家を出よう。こんな家にいるとだめになる。どっかおかしくなっちまうよ。一緒に行こう」
腕を掴んで立ち上がらせようとしたのに、兄貴は首をふって動かなかった。
「どうして? 行こうよ! この家以外だったらどこでもいい。どんなところだってここよりは悪くねえ」
「それでも俺は、この部屋から出られない」
兄貴は嗚咽に混じって、ひどくかすれた声を出した。兄貴のそんな声を聞いたのは初めてだった。
「兄貴……」
「浩太、ごめん」
兄貴は頭を抱えて泣いた。
俺は信じられない気持ちでこの惨状を見つめた。なぜこんなことになったんだろう。殻にこもる兄貴は安定していた。あの状態でずっといられたんだ。それを無理やり引っ張りだそうとして、兄貴の世界を壊して、このざまだ。
「浩太」
部屋の前で父が俺を呼んだ。俺は震える手で自分の髪を掴みながら振り返った。
「浩太、お母さんをこっちまで連れてきてくれ。手当てをしないと」
「自分でやれ」
俺はふらふらと立ち上がった。すました父の顔がむかつく。こいつはいつだってそうだ。
「父さんが部屋に入ると兄さんが暴れるから……」
「腰ぬけ! あんた父親だろ! あんたなんとかしろよ! 親のくせに逃げてばっかりいて何もできないのかよ!」
「それは、お前もだ」
父は眉間にしわを寄せたまま、不器用に笑った。
「なんで……なんで俺だよ」
「お前だって逃げ出しただろうが。どこで何をしているのか知らないが、父さんから金をせびって、兄さんからも小遣いをもらっているそうじゃないか。家がこんなに大変なときに」「黙れ」
「まあ、でもそれも仕方ないかもしれない」
「言うな!」
「お前は、父さんにそっくりだ」
父は笑い声をあげた。それは俺を馬鹿にするような笑いだったのかもしれないし、自分を馬鹿にする笑いだったかもしれない。
兄貴と母は似ている。性格も顔もそっくりだ。そして、俺は父と――いや、だが認めたくない。この父親は、家族をほったらかして何年も帰ってこなかった。金がなくなって帰ってきてもなんの行動も起こさなかった。口先だけの男、ただその場を切り抜けることしか考えず、何事にもまともに向き合おうとしない。
「こうなってしまったらもうおしまいだ」
父は震える声でそうつぶやき、ふらふらと階段を下りた。
「何がおしまいなんだよ!」
俺は階段の手すりにぶらさがって怒鳴った。父は下のほうから俺を見上げる。
「もうすぐ警察がくる」
「警察――」
「兄さんは警察に逮捕してもらう。もし出所してきたら施設にでも預ける。もうこれ以上は面倒だ」
俺は階段を駆け下り、父の胸倉を掴み上げた。
「わああああああああああ」
「いくらなんでももう背負いきれない。お母さんとは離婚する。お前だけは面倒事を起こさないって約束するんなら養ってやってもいい。父さんは疲れた」
「クズ。お前は父親失格だ」
「なんとでも言っていい。とにかくこれ以上は手に負えない」
俺は父に殴りかかった。二階では兄貴が悲鳴をあげている。兄貴は穴に落ちたかのように引きこもった。その穴は深く、誰も引っ張りあげることはできなかった。
そして俺も。
斎藤
俺は逃げ出した。
電話が鳴っている。手が震えてうまく携帯電話が開かない。何度か失敗して地面に落とした。それでもなんとか拾い上げて通話ボタンを押すと、斎藤の低い声が聞こえてきた。
「悪い。寝てたか?」
「いや」
「最終バスを乗り過ごしてしまって。もしよかったら――」
「迎えに行く。駅にいてくれ」
俺は単車に乗り、猛スピードを出して道路を走った。
奇跡的に事故ることなく駅にたどり着くと、出口で座り込んでいた斎藤が俺を見つけ、微笑んで軽く手をあげた。
「悪いな」
斎藤を後ろに乗せ、アパートとは別の方向へ走った。
「どこ行くんだ!?」
斎藤の質問に無視を決め込んで、住宅街のほうへ足をむけた。民家のガレージに空のポリタンクが転がっているのを見つけ、それを盗むと斎藤に押し付けた。
「持っててくれ。落とすなよ」
「いいのか?」
怪訝な顔をした斎藤にポリタンクを持たせ、住宅街を抜けるとセルフサービスのガソリンスタンドを探して走った。心臓の高鳴りが激しい。ほんのちょっとした拍子にでもスリップして事故りそうだ。
セルフのガソリンスタンドでポリタンクに灯油を入れた。抱えると、かなり重い。
「何をする気なんだ?」
斎藤の問いには答えず、ポリタンクを押し付けて再び走った。バランスがとりづらく何度もよろめいて、そのたびに背筋が凍りついた。
「八島! 落ちついて運転してくれ!」
さすがの斎藤も大声を出した。手だけではなく腕のすべてが震えている。転倒しそうになりながらもなんとか家につくと、バイクをとめた。
「どこだ?」
「俺んち」
家は静まり返っていた。電気も消えている。きっと、もう警察がきたのだ。そして兄貴は連れて行かれ、両親は――病院にでも行ったのだろうか? まあいい。そんなことはどうでもいい。
俺はポリタンクを開けると、中の灯油を玄関にまいた。そしてドアを開けると灯油の道をつくりながら家の廊下を歩いた。
「八島!」
斎藤が怒鳴り、俺の腕を掴んでとめようとする。
「どけ」
「馬鹿、何をするんだ」
斎藤の手を振り払い、ポリタンクをさかさまにした。大量の灯油が流れ出して俺の服を濡らし、大きな水たまりをつくった。これだけの灯油でどこまで燃えるだろう? 家をすべて燃やすことができるだろうか。
「投身自殺でもするつもりなのか?」
心底困惑しているという顔で斎藤が尋ねる。ハンサムな斎藤はこんなときでも小奇麗な顔をしていて、それが妙におかしかった。
「こんな家消してやる」
俺は灯油の水たまりを蹴った。
「こんな家があるからいけないんだ。ここは家なんかじゃない。ここは牢獄だ。こんなところにいたから兄貴はだめになった」
「待て」
ポケットからライターを出した俺の手を斎藤が掴んだ。気がつけば斎藤の足元も灯油で濡れていた。
顔をしかめたくなるような石油の臭いが満ちている。それでも、以前のこの家の腐臭に比べればずっとましだった。あんな臭いに囲まれて生活していては、俺や家族がおかしくなるのも無理はない。
「この家、臭いんだ。燃やさないと」
「臭いのは灯油のせいだ」
「違う! その前からこの家は臭いんだ!」
「俺はそうは思わなかった」
斎藤は万力のような力で俺の手を握った。なんとか振りほどこうとしたが、その力は強くて手の力だけでは抗えない。
体の奥底から腹が立って、斎藤の額に頭突きをかました。それでひるんでくれるかと思ったが、斎藤は目すら閉じず俺の手を握ったまま俺の腕を背中のほうにひねりあげた。足を蹴りあげてやろうかと思ったが、あまりにも斎藤にがっちりと拘束されているため、ほんのわずかにも動けそうになかった。
「離せ!」
「落ちつけ」
斎藤は筋肉質なやつだとは思っていたが、かなり力が強い。しかも喧嘩慣れしている。
「離せ! こんな家は燃やす!」
頬に涙が伝っていた。
何も考えずに斎藤を連れてきてしまったが、失敗だ。斎藤なんか放っておけばよかった。
兄貴を警察に売った父が憎い。兄貴を追い詰めておきながらのうのうと暮らしていた母が憎い。父と母を抱擁してきたこの家が憎い。
「落ちつけ」
斎藤は俺の手からライターを奪い取った。
「火をつけろ!」
「そんなことしたら、お前も俺も焼死だ」
斎藤は苦笑し、ライターをポケットに入れた。
「自分の袖や足元を見てみろ」
俺は斎藤に手を掴まれたまま自分の姿を見た。めちゃくちゃに灯油をまいたせいで、あちこちに液体が飛んでいる。俺たちの足元はぐっしょりと濡れ、水たまりの真ん中に立っている。
「俺の家族は最低だ」
「お前を見ていればわかる。――だが、お前は死ななきゃいけないほど悪い人間じゃない」
斎藤はまるで女の子にするようにそっと俺の肩を抱いた。
「帰ろう」
斎藤は灯油まみれの俺を抱き、外に連れ出した。俺は斎藤の肩によりかかって歩きながら、泣いた。
斎藤は俺の単車の荷台に乗せると、自分は立ったままでしばらく背中をなでてくれた。斎藤は優しい。優しいが、なぜ俺に優しいのかわからない。こんな優しさは女の子の前で見せるものだ。
「俺が運転する」
斎藤はヘルメットを手に取ると、俺のポケットから鍵を抜き取った。
「……あんた、運転できんの?」
「目を悪くしてからはしていないけど、お前よりはましだ」
斎藤の運転は超安全運転で、自転車にすら抜かされそうなくらいだった。俺は柔らかく顔にあたってくる風を感じた。
「あんたさ、昔の兄貴に似てるんだ」
あまりにもスピードが遅いから、普通にしゃべっても支障がない。俺は斎藤の背中に額をつけた。
「お前の兄貴?」
「うん。あんたほどじゃないけど、俺の兄貴も高校生のときはイケメンだった。痩せぎすでがり勉だったから全然もてなかったけど。でも、いいやつだった。今じゃ太って見る影もないけど、自慢の兄貴だよ……今でも」
「ああ」
「住む場所を探してたとき、あんたを選んだのはそういう理由だよ。まあ、断らなさそうっていうのも大きな理由だけど」
「素直なやつだな」
斎藤は笑った。
チカ
斎藤のアパートで、灯油まみれの服のままで眠った。このとき寝タバコでもすれば焼死できたのだろうが、お節介野郎の斎藤にライターもタバコも取り上げられたので吸えなかった。
起きたときは昼過ぎで、すでに斎藤は仕事に出ていた。服をゴミ箱に捨てて着替えると、電話をかけてチカを呼びだした。
「駅前で待ってる」
それだけ言って切り、コンビニでタバコとライターを買った。
遠くのほうから子猫のようなチカが走ってくるのを見ているとき、ふいに我慢できなくなって駆け出し、そのままの勢いでチカに抱きついた。
「な、何?」
「わざわざきてくれてありがとう」
俺は顔に笑みをつくると、付き合い始めの彼女にするように優しく腰を抱き、チカの鞄を持ってやった。
「どこに行きたい? チカの行きたいところに行こう」
俺はチカとぴったり体を合わせて向かい合った。
「え……そんなこと言われても」
チカは妙におどおどした表情で俺を見つめた。
「じゃあファミレス行こう。昼飯食べた?」
「え、ううん」
「奢るよ」
警戒するチカを抱いたままファミレスに入り、女の子が好きそうなものを片っ端から注文した。
「どうしたの?」
チカは怯えた顔で俺をうかがった。俺は微笑んで首をふると、ホットケーキを口に運んだ。ファミレスにいるあいだ、俺はパフェを食べているチカからずっと目を離さなかった。
ファミレスを出ると、繁華街を手を繋いでぶらぶらした。クレープを買い、公園のベンチに座って膝の上にチカを乗せ、かわりばんこに食べた。
夜まで手を繋いで歩き、夕飯を食べてからラブホテルに入った。バスルームからバスタオルを巻いて出てきたチカを抱きしめ、二人で寝ころんでテレビを見た。
「どうしたの?」
「何が?」
「なんで今日は優しいの?」
俺はその問いに答えず、首をふってチカを抱きしめた。握ったら折れそうなほど細いチカの首筋に鼻を埋めて目を閉じた。
それから、特に何もせずに裸で抱き合って眠った。
真夜中。チカの悲鳴で起こされた。
「なんだ?」
「あんた、悪い夢でも見たの? すっごくうなされてたよ!」
俺は額の汗をぬぐった。チカの体も汗で濡れ、照明が反射して輝いているように見えた。チカの体についた汗は俺の汗かもしれない。
「そう……ごめん」
「ううん、いいけど、大丈夫? 本当にすごい声だった」
「心地よくなかったのか? 俺のわめいている声が」
「何言ってんの。心地いいわけないじゃん。うなされてるんだから」
チカは本当に心配そうな顔で俺の肩に手を乗せた。
俺はチカの頭をなでて、その顔を胸に引き寄せた。
「チカはいい子だね」
俺はチカを抱きしめたままベッドに横たわり、毛布を頭の上まで引き上げた。
「八島くんって不思議な人」
チカはぽつりとつぶやくと、俺の背中にそっと腕をまわした。それからチカはぽつぽつと自分のことを話した。今まで付き合ってきた男のこととか、家族と折り合いが悪いとかそういう話しをしていたが、あまり覚えていない。興味がないので聞き流した。
それから話し疲れたチカは俺に抱きついたまま眠った。
夜明け。俺はベッドにチカを残してホテルを後にした。チカのアドレスを着信拒否にし、ケータイを閉じた。もうチカに会うことはないだろう。
俺はいつもそうだ。ときどき思いついて彼女をつくろうと思うが、すぐに嫌になって連絡をとらなくなる。俺が彼女をつくることは不可能なんだろうか? 斎藤のように顔がよければうまくいくのかもしれない。
ワールズエンド・スーパーノヴァ
ある日、眠っていると昼ごろに斎藤に起こされた。俺はすっかり斎藤の生活習慣に慣れ、Tシャツとトランクスで寝るようになっていた。
のそのそとこたつ布団から出てみると、父が玄関のタタキに足をおろし、フローリングの床部分に腰をつけて座っていた。
「探した」
父は無表情でそう言うと、ジャケットのポケットから封筒を取り出した。
「息子がお世話になったね」
そう言って、座ったままそれなりに厚みのある封筒を斎藤に渡した。斎藤はためらわずにそれを受け取り、少し探るような目を俺にむけた。
「なんなんだよお前」
そうつぶやくと、父は小馬鹿にしたような顔で俺を見た。
「兄さんは精神病院に入院させた。あの家はもう父さんとお前の二人きりだ」
俺は目をしばたかせた。俺が家に灯油をまき散らしてから数カ月たっている。そのあいだに何があったのだろう。
「お袋はどうした」
俺は叫ぶように問いかけた。
「国に送り返したよ。もう二度とうちの敷居はまたがせないと言っておいた。さあ、もう帰ろう」
「どうして俺を迎えにきたんだよ。俺も切り捨てればいい」
「決まってるじゃないか」
父は「よいしょ」と掛け声をかけて、床に手をついて立ち上がった。
「お前まで切り捨てたら、家族がいなくなってしまうからだ。一人は辛いぞ。お前も、もう少し年をとればわかるさ」
俺は斎藤のほうを見た。斎藤はやるせなさそうな顔で俺を見ていたが、俺と目が合うと封筒のほうに視線を落とした。
「お袋と、兄貴と、俺を天秤にかけたな。あんたはそん中で俺が一番軽いって判断した。俺だけなら背負えるけど、お袋と兄貴は背負えないって……」
「そうだ」
「全員背負えよ! 家族だろ? 家族を背負っていくって覚悟して結婚したんだろ? 全部背負えよ! 背負ってくれよ……俺だけくみとるなよ……どうせ捨てるんなら俺も捨ててくれよ……」
「八島」
ふと頭に暖かさを感じで顔をあげた。斎藤が、例の優しい顔で俺を見下ろしていた。
斎藤は俺の頭をなでた。
「お父さんと一緒に家に帰れ。そのほうがいい」
「あんたは俺が邪魔なの?」
「違う。八島、見てみろ」
斎藤はシャツをめくると俺に背中をむけた。すると斎藤の背中に白い、亀裂のような斜めの傷跡が刻まれているのが見えた。
「俺の足が悪いのは事故じゃない。二十歳のとき、道で元カノに刺されたんだ。俺は若いころ不良で、クズのように生きてきたから、罰を受けた。目を悪くしたのもそうだ。悪行が自分に帰ってきたんだ。俺はもうどんな女性とも付き合わないし、結婚もしない。一人で生きていかないといけない」
「一人で――」
「そうだ。一人は辛い。お前がこの部屋にきてそれなりに楽しかった。でもお前は俺の家族になれないし、俺はお前の兄貴になってやれない。お前は自分の家に帰って、それからどうするか決めろ」
斎藤は俺から手を離した。見つめると、斎藤の灰色の目がきらきらと光る。
俺はそのとき、斎藤がなぜ女にもてるかわかった。斎藤は完璧にハンサムだけど、実は完璧ではないのだ。目や足が悪く、人間として欠けている。きっと、だからもてるのだ。斎藤は完璧じゃないからかっこいい。
「これから遊んで暮らすのもいい。自分の好きなようにやれ。でも、お前はまだ一人じゃ生きていけない子どもだ。それを覚えておいたほうがいい」
「うん」
うなずいた俺を見て、斎藤はわずかに顔を緩めた。
久しぶりに帰ると家はすごくきれいになっていた。俺が巻き散らした灯油も消えている。
子ども部屋はがらんとして何もなかった。机もパソコンも片付けられているのだ。戸を開けて中をのぞくと、今でも兄貴が「お前か」と言って微笑むような気がする。
父はわずらわしいものがなくなって上機嫌だったが、ときおり家族で行った海外旅行の写真を見ていたりする。その行動の意味は俺にはわからないけれど、父には何か思うことがあるのかもしれない。
俺は、父が毎月くれる小遣いで遊んで暮らすことにした。
斎藤にそのことを話すと「お前はそれでいい」と言った。斎藤はどうして他の大人と逆のことを言うのだろう。変なやつだ。
相変わらず斎藤はもてるし、そのおかげで俺にも女が絶えない。
父はおしみなく金をくれ、俺は家の中でも外でも好き勝手やっている。
適当に女の子をだましては寝て、だましては別れた。そんな俺を斎藤は「お前はそれでいい」といつも、どんなことをしても肯定した。
最近になって気付いた。俺のような最低のクズと一緒にいて安心する斎藤は、俺よりももっと悪質なクズなのだろう。斎藤が過去にどんなひどいことをしたのか知らないが、俺がそのときに斎藤のそばにいたなら、きっと「あんたはそれでいい」と言っただろう。一人だけクズなんて寂しい。クズはたくさんいたほうが安心する。父が俺を切り捨てなかった理由も今ならわかる気がする。
俺たちはいつもファミレスか居酒屋で飲む。たまに斎藤目当ての女の子が誘ってきたりする。俺はその女の子をだましてホテルに連れて行く。ほんの気まぐれに優しくして短期間付き合ったりもする。
俺はいまだに、そうやって好きに遊び続けている。
もう家にいても手は震えない。
少年
ある作品のわき役として何気なく書いた「八島」なる男ですが、気が付いたらこの男を書きたくて仕方なくなった。
一時期は八島のことばかり考えていたし、ときおり夢にまで出てくるしまつで、私はこの男にとり憑かれでもしているのかもしれません。