絵本(前田衛春)
※東大文芸部の他の作品はこちら→http://slib.net/a/5043/(web担当より)
夜
青いベッドはその日、気前よくその大きな両腕を広げ、砂浜を包み込んでいた。羽毛布団を喰わえる、かつて純白だったシーツはたわみ、挟まれた緑色した毛布はあえぐ。その時刻はちょうど、向かいの家から三里離れた教会で、幽霊が悪魔に祈りを捧げている時間だった。ステンドグラスはけたけたと笑い、キリストもそれにつられて引き攣った笑顔を覗かせる。机はひそひそとおしゃべりをかわし、椅子は足を組んでもたれかかる。幽霊はまだ灰色で、黒く染まるまでにはもう少し時間がかかる。幽霊は勇気を振り絞って、教会を去り、白い大鴉の指図に従い、悪魔の棲む聖堂へと赴いた。幽霊がそこで真摯な吐瀉物を撒き散らす中、悪魔はその蠱惑の瞳を、この年若い幽霊に放り投げた。幽霊は口を拭い、甘い眩暈を投げ返した。
「あぁ、私はこの日、全ての哀しみに歓喜の声を上げ、雄大な夜景を切り裂くところだったのです」
「正しい行為である。我は汝を許さん」
幽霊は、導きに従い夜景へと向かった。途中、何度も街灯を吹き消し、爛々たる黒猫の唾液を辿り、思いがけず美しい墓地に彷徨い込んだ。その中でも最も腐臭の強い墓を、その妖艶な棺をこっそりずらし、一人の女性を蘇生する。女性は目の前にあった土をすくい、身体へと塗りたくった。余った土は、幽霊に飲み込ませた。
「私は全ての月の立ち合いのもと、灯台から松明を盗むわ」
その宣言に合わせて、紫色の月は一斉に立ち光った。灯台もまた、女性を睨む。その艶めかしい光は、街中を舐め回していく。
歯ぎしりを響かせる青いベッドでは、三角と四角が削り合っていた。突くたびに互いに削れ、どんどん小さくなっていき、歪で切れ味がよくなる。それに合わせて、ベッドは歯をギリギリと擦り合わせ、シーツは甘くしょっぱいジュースを飲む。毛布はそれに耐えかね、だらしなく涎を垂らして懇願するが、三角に右腕を、四角に左足を切断される。滔蕩たる断末魔はそれでも静かであり、月は嘲り女性は焦れる。灯台が独り、悲痛な表情を隠さない。シーツは喉をならし、それに答えて三角と四角は更に烈しく互いを喰らい合い、その芳醇な匂いに引き寄せられて噴水がやってきた。噴水が勢いよく白い蛇を産卵すると、それまで黙っていた公園が嫉妬に悶え苦しみ、思わず今晩のおかずに大事に取っておいた蜜蜂を吐き出す。蜜蜂は嬉しさのあまりに、金色に輝くその身体を震わせ、蛇に向かってウインクする。そのあまりの事態に驚き慌てふためいた灯台は、右目に矢を突き刺して駆け出した。走る、走る、走る。紫色はにんまりと拡がり、青色はあちこちにボコリボコリと生まれて行く。幽霊は残りの街灯を吹き消し回り、女性は乳房を緑で擦った。
蠢く一匹が頭を擡げる。
「こんばんは、マドモアゼル。今宵は良い天気ですね」
「おっしゃる通りですわ。三日前もあそこで白い大鴉を見かけたばっかりですもの」
「それは、それは。どうりで今宵は一段と美しいわけだ。足音が聞こえますか」
「従順たるしもべ達よ、悪魔の導きが届いていますか。我は代弁者。響きを持て海となし、嘆きを持て空となすもの。汝に導きあらば、あぁ、迷わずに真っ直ぐに」
「そうです、そうです。下劣な太陽はいつも陳腐なことを言うのです。誠に貴女のおっしゃる通りです。私の吐息が聞こえますか」
いけない、と灯台は心の中で叫びながら、銀色に輝く螺旋階段を駆け上がった。うっすらと靄が立ち込め、虎と空と、剣と門とが立ちはだかる前に、まだ微かに紅い光を吐き出す松明を飲み込んだその灯台が。誰にも届かない大きな声で一段、二段、三段と数えながら駆け上がり。四段、五段。そこからまた新しい螺旋階段がうねる。一段、二段、三段。
ところで、その悪魔は抜け目のない悪魔だったのだ。いつもなら監視し、異常がなければ太陽をふっと吹き消す仕事をするだけだったが、今宵が特別な日であることを知っていた。なぜなら、あと三刻もすれば成人の儀を迎えようとしている幽霊がやって来ることを、裏切りの白い大鴉から聞いていたからだ。だから、今宵の夕食は魂の炒め物と星のステーキにしておいたのだ。
寸刻、三角と四角は動きを止めていた。互いの角が削れ、痣だらけになり、丸くなってしまっていた。三角の胸からは燈色に光る鮮血が、四角の首からは生々しい緑の体液が垂れ流れ、それをびちゃびちゃと舐め合うことに満足している。渇いたシーツは地団駄を踏み、隻腕の毛布は胸を撫で下ろす。とはいえ、慧眼たる青いベッドは瑣事に一喜一憂することなく、波にさらわれた巻貝を慰め、白い砂浜を敷き直した。巻貝が嬉しくなってそのことを伝えると、今宵が訪れるのを今か今かと待ち構えていた同胞達は歓喜の嬌声を上げて集まって来た。鯱、鯨、海豚、海亀。中でもその美貌で知られ、宝石のように透き通った透明の肌を持つ海月が前に進み出た。青いベッドは満足気に肯くと、海月達をこっそりと三角と四角の下に忍び込ませた。あまりにも美しい透明だったために、シーツも毛布も舐められなかったのだ。幽霊は全ての街灯を消し終え、女性は緑を下腹に這わせた。
愚鈍な三角と四角は気付くはずもなく、虚ろな眼で生温かい雑林を食みあっている。そこへ海月達は、目眩る優婉な身体をたゆたえ、ぷっくりと丸い口唇をもて、一斉に接吻をした。その柔らかく甘く、鋭く火照い愛撫は、腑抜けた三角と四角を、狂おしいほどにとろける誰も居ないあの遊園地に。狼の踊る荒地を見渡し、ブリキの白馬を見付けた三角は奇声を発してそれに飛び乗り、牛と豚を引っ叩く。その痛みと重みに恍惚とし、四角は狂騒を浴び餓える。互いの角は既に癒え、再び互いに削り合う。シーツは舌を出して待ち構え、隻腿の毛布は身悶えする。
開いた左目に銛を突き刺し、灯台は残れる力で駆け続けた。四段、五段。絶叫めいた大きな声で。七段。八段。九段。六段目は、星が煌めいていたから数えられなかったのだ。それが仇となった。とたんに螺旋階段はぐにゃりと軋めく。その地震の大きさに、悪魔はほくそ笑み、月は狂奔し、幽霊は祈り、女性は達した。
ようやく揺れが収まり、立ち上がって辺りを見渡したが、もう既に手遅れであった。噴水は折れて倒れ、大小様々の白い蛇が公園中に撒き散らされた。その多くはまだ未成熟で、生まれてすぐに枯れていったが、中に一匹、今宵が訪れるのを今か今かと待ち構えていた、堅い鱗を纏える、ひときわ雄大なる蛇が。金色に輝く蜜蜂も一目惚れし、狂喜乱舞し三味を掻き鳴らす。その妖楽に聞き惚れ、雄大なる白蛇も尻尾を振り乱した。
「こんばんは、マドモアゼル。今宵は良い天気ですね」
「おっしゃるとおりですわ。ほら、紫色の月があんなに」
「それは、それは。どうりで御嬢さんの肢体が一段と美しいわけだ。足音が聞こえますか」
「従順たるしもべよ、悪魔の導きに従い、そのまま迷わずに真っ直ぐに」
「そうです、そうです。下劣な太陽はもう吹き消されたのです。誠に貴女のおっしゃる通りです。ノックの音が聞こえますか」
「はい、すぐ近くに。今、開けます」
ついに分厚く重い桃色の扉が開かれた。月も幽霊も女性も皆、喜びの喚声を。両目から黄色い血を垂れ流す灯台は独り、怨嗟の呻き声を。雄大なる白蛇と金色に輝く蜜蜂は、互いに見つめ合い、熱い抱擁を交わした。その場の歓声は絶頂に。更に女性は、紅い光のほとんど消えかかった松明を、崩れ落ちた灯台の体内から毟り取り、身体の土で塗りたくった。それで松明が完全に消えると、痛覚にも似たその快楽に、左手で乳房の、右手で下腹部の緑を抱き締め、身震いしながら艶やかな声で。
「あぁ、私は全ての月の立ち合いのもと、にっくきあの松明を盗んだわ」
月達は皆一斉に強い光を発し、紫色が夜中を覆い尽くした。青色もまた、そこかしこに無数に生まれた。ついに、雄大な夜景が切り裂かれたのだ。この特別な日に成人の儀を無事に終え、年若き幽霊も今やもう黒色に。
そう、今宵は生誕祭。新しい悪魔が生まれる日である。
朝
トースターが吐き出した青いパンは、白い床とべっちゃり接吻した。白粉が塗られたパンを力づくで引き離した情趣を解さぬ餓える男は、真っ赤な口紅を塗りたくる。鮮やかに彩られたパンは、男の手首から遮二無二己れを放り投げ、次なる恋の対象へ。先刻から身構えていた黒い壁は、その頑丈な右腕を無作法に振り回し、その烈しい求愛を無惨にはたき落とす。すると、不意を打たれた礼儀正しい机が跳ね起き、咄嗟に愛を弾き返し、悲嘆の涙に暮れる。そのために、部外者なりと油断していた白い珈琲は振り向き様に足を滑らせ、茶色い芳香が充満する。その芳香に恋の炎を一段と滾らせた切なるパンは、熱い抱擁を浴びる衝動を。しかし、いつも足を組む驕慢なる椅子は、ただただ情熱を足蹴にする。ついには再び白い床に墜落したが、浮気のパンはもはや相手にされない。なぜなら、あの時パンは青かったからだ。だから今、色恋めく読める女の心に橙色の灯が燈されたのだ。
昼
一方、檻の外は水色の絵具でベタ塗りされていた。太陽には橙、雲には白の絵具が用いられていた。その惰眠を貪る太陽は、いつになく陽気な調子で雲に語りかける。
「こんにちは、今日は良い天気だね」
純白の服の、そのあちこちが破れている雲もまた、嬉しそうな調子で答える。
「こんにちは、本当に良い天気だ。仕事が楽で良いよ」
「しかも、この頃は残業も無いしね。九時出勤に五時退勤。理想の営業スタイルじゃないか」
「その点、君は羨ましいよ。生活リズムが安定していてね。こっちは君と違ってリズムが全然安定しなくて困るよ。そりゃ、昼間から休める時も多いけれど、その代わりに基本二十四時間体制なんだから」
「でも、その代わりに働いた分だけ報酬が貰えるじゃないか。こっちは残業がいくらあっても報酬が増えないのだから。そりゃ今はオフシーズンだから定時で出られるけど、書き入れ時には六時出勤に八時退勤なんてザラなんだから。これで報酬が変わらないとか全くやってられないね」
「そんなこと言って、君は六月になるといつも勝手にストライキを起こしまくるじゃないか。おかげでこっちは良い迷惑だよ。昨日から碌に寝てないのに、そんなことを思い出させないでくれないか」
「せっかくの良い天気なのに、そんなしけたこと言わないでくれよ。じゃあ、今日は君の分の仕事もやっておくから、休んでてくれよ。悪魔にはそう伝えておくよ」
「それはありがたい。なんたって、今日は本当に良い天気なのだから」
雲の純白の服が少しずつ脱がされ、その下に隠されていた、透き通った美しい肌が露わになる。そして次第に水色の匂いに身を委ねていき、なすがままに。
その頃、檻の中では、ようやく青いベッドが黒いズボンと赤いスカートを吐き出そうとしていた。羽毛布団と緑の毛布にとても愛され、すっぽり濡れてしまったズボンとスカートとの、当面の別れを惜しみながら。先に動いたのは、赤いスカートの方だった。艶やかなる陶酔に身を委ねていたい情惑に抗いつつ、青いベッドから身体を引きずりだしたのだ。しかし、黒いズボンは既に起きていた。黒いズボンは、赤いスカートが羽毛布団と毛布とから身を振り払おうとするのを、息を潜めてじっと眺めていたのだ。スカートがようやく身体をベッドから引きずり出したのを見ると、すぐさまズボンは身体を伸ばし、スカートの裾を摘んだ。その冷たくも吸いつくような感触に、スカートはあられもない情動を覚えつつも、それでも抗おうとした。だが、ズボンがひたひたと裾をからげていき、その中心部に触れられると、スカートは抗うのを止め、なすがままに。結局、青いベッドは黒いズボンと赤いスカートを再び吸い込み、大きな口の中でもぐもぐと甘噛みする。羽毛布団と緑の毛布は再会を祝しつつ、包み込むように愛撫するのだ。
やがて、太陽が昼休憩に入り、屋上で弁当を食べている頃、ようやく青いベッドが黒いズボンと赤いスカートを吐き出した。鉄格子の隙間から見える空は快晴、雲一つ無い、本当に良い天気だ。
それでも何も問題は無いのだ。昼は朝より長いのだから。しかも、夜は朝と昼よりもずっと長いのだから。
春
まだ赤くはない夕方近く、いつものように古びた明大前駅で、煤けた井の頭線から拉げた京王線へ、いつものように色褪せた階段に足を載せ、更にいつものように蹂躙された階段を駆け上り、照らつく中央改札に脇目も振らず、立ち食いそばにも押し寿司にも誘惑されず、まだ足の踏み場が残されている灰色の階段に足を乗せようとし、ヤニと吐瀉物の沁み込んだプラットホームの上、動物園の檻に群がっているかのような衆人が視界に入った、その瞬間に、視界の右端に数瞬ばかり、女の子のような何かがそこにいたような気がして、その強烈なイメージに、思わず餓える男が振り向いたところ、時既に遅かったのか、その何かを見付けることができず、群衆を掻き分けてその女の子らしき人影を遮二無二探し求めることもせず、そのまま人波に流され階段を一歩また一歩と上らされ、発車ベルにも掻き立てられ、細長くぎゅうぎゅうの牢屋に押し込められて、いつの間にか相も変わらず何の変哲も無い家に辿り着き、いつの間にか日が暮れ夜になり、更にいつのまにか十二時を過ぎ日付が変わり、蒲団に身を委ね明かりを消して目をつぶると、その強烈な印象がまざまざと浮かんできて、沸き起こる並々ならぬ興奮のあまり、静かな眠りに着くことなど到底叶わなかったのだ。だから、餓える男は明かりを点けて蒲団を跳ね除け、机に坐りペンを取り、紙を広げてその印象を描き出そうとしたのだ。
まず、その何かは女の子だったのだろう。顔ははっきりとは見ていない。いや、顔どころか腰より上の部分は全く浮かび上がって来ない。だが、スカートをはいていたのだから。紺色に緑のチェックが入ったスカート、おそらく制服用だろう、きっと女子高生だったはずである。スカートの長さはおよそ膝上五センチ。どのような靴を履いていたかは、まるで印象に残っていないが、足首からは、やはり制定のものであろう、真っ白なソックスが真っ直ぐに伸びていた、およそ膝下十センチまで。右足の、そのスカートから膝頭に向かって、そのソックスから膝頭に向かって、視線はその剥き出しの肌を舐めさせられていく。みずみずしく、膨れ上がった白みがかった柔らかな肌色を、スカートからふんわりと右の手で撫で下ろし、ソックスからすーっと左手で撫で上げていく。
そして、両の手がぶつかるはずの膝頭に、そう、その頂上に、青い絆創膏が貼られていたのだ。
青い絆創膏!
鮮やかな青色に、その真中が白い花模様で飾られた、あまりにも美しい絆創膏!
代わり映えはないが、それ故に却って清潔感と純粋さを刻み込む制定のスカートとソックス、その間に浮き出る初々しい肌、その肌が包む、他の箇所より美しさに劣る膝頭を覆い隠す色鮮やかな青い絆創膏、これこそがこれまで求めていたものではないか。餓える男は居ても立っても居られなく、家の外に飛び出したが、辺りは真っ暗だったため、またすぐに戻って来ざるを得なかった。
無論、なぜあの時に闇雲にでも探そうとしなかったのか、という後悔の念は確かによぎったが、そのようなつまらない後悔など押しやり、その日から彼は日曜日を除く毎日、明大前駅の構内、中央改札の手前辺りの場所、駅員と押し寿司売りのおばさんの視界から外れる場所で、朝と夕方、高校生が使う時間帯、人通りの最も多く彼の存在が目立たない時間帯に、押し合い圧し合い入り乱れ喘ぎ合う女の、その腰から下の部分、つまりは制服のスカートとソックスの間から耐え切れずに露わになっている艶やかな白肉を凝視し、昨日見たはずの絶頂を催させるあの絵をもう一度見ようとした。朝の早い時間帯でも夕方の遅い時間帯でも変わらずに煌煌と照らされる構内、灰色を基調とする磨き上げられた正方形のタイルが照明を反射しテラテラと炙れるその構内は、これから行ける者の前途、帰する者の家路を祝福するかのようだ。なぜそのことに今まで気付かなかったのだろうと、体内から溢れる歓喜の情に身を委ねながら、上からも下からもスポットライトを浴びせられた、はみ出した乳房にも似たその熟れた素肌を、次から次へと一心不乱に、睡眠不足の血走った目を走らせて行った。しかし、幾千の果実を見ても、その中心、その膝頭に青い絆創膏を貼り付けた、弾け飛びそうになるのを抑えようとして震える、今にも落ちてしまいそうなあの果実を見付けることは出来なかった。
一日経っても二日経っても見付けられなかった。三日経っても四日経っても見付けられなかった。七日経っても八日経っても見付けられなかった。十一日目の夕方に駅員がこちらに向かって来たため急いで逃げ、日曜日を挟んで四日間、明大前駅には行かなかった。十五日目からもう一度再開した。二十三日目の朝に、通り過ぎようとした一対の足にはっと目覚めさせられ、そちらをじっと見つめた。しかし、それは餓える男の求めるものでは無かった。確かに、膝頭に絆創膏を貼ってはいたが、それは変哲の無いただの絆創膏であった。しかも、膝上二十センチのスカートからはみ出ただらしのない太腿は、もう既に熟れ切ってしまい、腐り始めた泥濘以外の何物でも無かった。彼はすぐさま目を背け、別の景色へと己を向けた。
ついに一か月が過ぎたが、それでも彼はあの絵を見付けることが出来なかった。明大前駅以外の場所でも、いつも常に流れゆく果実に目を向け続けたが、そんな場所で発見することなど望み得なかった。無論、諦めることなど到底不可能であり、どんな手段を取ってでもその絵を見なければならないという衝動に駆られ続けていた。しかし、今朝、いつものように明大前駅に到着し、柱の陰に隠れて女子高生の足を見始めるや否や、何かが変わってしまったことを感じた。そしてすぐさま、その変化に気付かされた。そう、季節はいつの間にか変わろうとしており、制服もまた、それに合わせて衣替えに入ってしまっていたのだ。そのために、あの強烈な印象を覚えた時とはもう、明大前駅構内に漂う雰囲気自体が異なってしまっているのだ。もはや、どれだけここにいても、あの絵にもう一度巡り合うことなどできない。
その衝撃のために、ふらふらと家に帰り着き、そのまま寝込んで夜になり、たった今、蒲団からのっそりと起き上った。どんな手段を取ってでも、その絵を見なければならないのだ。彼の頭の中には、三日経ち、四日経っても見付けられなかった時から既に、ある考えが渦巻いていた。夜、人通りの少ない暗い通りで、女子高生を襲い、誘拐して監禁する。そのスカートとソックスが、あの絵に似つかわしくないならば、それを脱がせて切り刻み、鏡の前でそっくり同じ色・形・大きさのスカートを着せてソックスを履かせる。そして最後に、あぁ! その間に浮かび上がる剥き出しの素肌に、花模様で飾られた、あの美しい青い絆創膏をそっと貼り付ける。その芳醇な妄想に、いつも、そして今も興奮し身震いしているが、今はもう、それを現実に実行せねばならないのだ。彼は何らかの決心をした。目の前にあるパソコン画面に注がれる、そのドロンとした目は確かに据わっていた。
彼は或る行動に出た。
翌日の夜、彼の家に大きな段ボールと小さな段ボール、二種類の荷物が届いた。それを玄関先で受け取ると、すぐさま玄関扉の鍵を締め、ロックを掛けた。その二つの段ボール箱を、大きさの割にはとても軽そうに持ち上げ、部屋に運び、それらを降ろした。バタバタバタッと床上に響く音を尻目に、彼はまず大きい方の段ボールを開けた。そこには、紺色に緑のチェックが入ったスカート、そして真っ白なソックスが入っていた。続いて、小さい方の段ボールを開けた。そこには、市販の青い絆創膏が入っていた。更に、その絆創膏の箱を開け、一枚の、真中が白い花模様で飾られた青い絆創膏を手に取った。彼は、膝の上に飛び乗って来た猫をどけて、スカートとソックスを持ち、彼の部屋には似つかわしくない、大きな姿見の前に立った。そこには寝起きのようなぼさぼさの髪に、よれよれになったユニクロのティーシャツ、やはりだぼだぼになったユニクロのジーパンを履いた彼の姿が映っていた。彼はその場に座り、ジーパンを脱ぎスカートを履いた。膝上五センチ。その剥き出しの足に、ソックスを履いた。膝下十センチ。その間に生まれた膝頭に、青い絆創膏をそっと貼り付けた。彼はゆっくりと立ち上がり、姿見の方をちらっと見た。
そうして、彼の春は終わった。
夏
海にはどろどろとした濃い青色が塗りたくられ、その上にある過労で痩せ細った太陽には細く尖った黄色が、ほとんど全裸の淡い雲には水っぽい白色が押し当てられていた。やっとのことで太陽は、唯一の話し相手である雲を見付け、かすれた声で陽気に振る舞った。
「こんにちは、さっきまでは雲一つ無い快晴だったね」
「こんにちは、あまりの暑さに服を脱いで寝ていたのに、叩き起こさないでくれるかい」
「こんなに良い天気なのに寝ているなんてよくないことだよ。見なよ、ほら、砂浜の上で海に向かって、蟻のような三角と四角たち」
「あれもこれもみんなほとんど全裸じゃないか。それもこれもすべて君のせいだよ。暑くて暑くて仕方ないよ」
「そんな事を言わないでくれ、今日はほら、こんなに良い天気なのに」
「君は、どうして、そう変に元気なんだい」
「そりゃ、残業続きで全然寝ていないからに決まっているじゃないか。朝は五時過ぎには出勤させられるのに、八時近くまで毎日残業だよ。手当も一切無し」
「仕方ないね。君はこれまでずっと楽をしていたのだから」
「それなら代わりに君が働いてくれよ」
「嫌だよ、そんなことしたら三角と四角が居なくなって、海にどやされるだけなんだから。そんなのごめんだね。むしろ、もう一眠りしてくるよ。オフシーズンの間に楽をしとかないとね。じゃあ、おやすみ」
その頃、どろどろとした青い海は、白い三角と茶色い四角を、一つ、また一つと口の中に放り込んでいた。ほうばり、転がし、甘噛みし、こねくり回して舐め回す。時に誤って噛み砕き、飲み込んで溶かしてしまうが、普段はしばらく堪能してから、予め敷いておいた柔らかい砂浜の上に吐き出すのだ。とはいえそれらは内側からの、抗い得ない情欲に、またふらふらと惹き寄せられ、掬われて放り込まれてしまう。そうして再び砂浜の上で、濡れそぼった四肢を震わせ、憂える倦怠に身を投げ出しつつも、その奇妙な満足感のために舌をだらりと出し、また再びもう一度、強大で茫漠たるうねりに身を委ね切ってしまいたいと望んでしまうのだ。だからこそ、今もこれまでもこれからまでも、いつもつねにどこであっても、海は命を作り出して来たのだ。
太陽は昼休憩すら取れずに、栄養ドリンクを二本飲んで、鋭い黄色を放ち続けている。雲の白は太陽の黄色に上書きされ、どこにも見当たらない。今はもう、雲一つ無い快晴、絶好の海日和だ。
とはいえ、夏はもうすぐに終わってしまう。夏はとても短く、春と秋はそれよりも長い。それでも、ずっと長い冬はすぐにやって来るのだ。太陽が惰眠を貪り、悪魔が笑い仕事を始める冬が。
海
卵城の頂きにて、長く青いナポリの海を眺めながら、この海は本当に故郷の海と繋がっているのだろうかと思ってみたりもした。試しに写真に撮って見ると、その海は狭く白かったので、すぐにそのデータを消去した。湾口を挟んで見える、近く茶色いナポリの町並みは、遠く緑色した故郷の風景とは、あまりにも違うというのに。
近くにあった大砲に手を触れると、掌にざらつく焦げた血潮がべったりと。いつかこの海が赤い時もあったのだろうけど、今はその面影も残っていない。夕日に照らされたナポリの海は、青色である。
試しに、近くにあった小石を拾い、軽く海に向かって投げてみたが、海はまだはるか遠く、城壁にぶつかり壁に沿って転げ落ちた。その小石の転げ行く方、城壁の真下辺りでは、もう秋だというのに、何人もの遊泳者の姿。その中にただ一人、異郷徒が紛れ込むことなど許されはしない。
鞄の中からコーラを取り出し、残り僅かの黒い液体で喉を潤した。懐の中からメモ帳を取り出し、伝えたい言葉を走り書き、そのページを破った。空になったペットボトルに言葉をねじ込み、しっかりと蓋をして、その蓋を持ち、助走をつけ、手首をひねり、海に向かって思い切り放り投げた。
ペットボトルは風に乗り、城壁に当たることなく着水した。透明なペットボトルと青い海とは、仲が悪い。海はそれに何の魅力も感じず、平時の如くうねり続ける。ペットボトルもまた、そんな海を意に介せず、流線型で引き締まった四肢と真っ直ぐな瞳をもって、ただ自身の向かうべき道を進んで行った。やがてジブラルタル海峡を抜け、北大西洋から南大西洋へと抜けて行く。幾多もの暗礁が立ちはだかるマゼラン海峡も通過し、太平洋に乗り出した。そこからカリフォルニア海流に乗って北上し、北赤道海流を乗り継ぎ黒潮に身を委ね、幾年もの月日を経てついに、彼の故郷へと辿り着いた。そうして、ある海岸に漂着し、汚れた砂浜の上に腰を降ろし、そこで一夜を明かした。
翌朝早く、一人の女の子が近付いてきて、ペットボトルを拾い上げた。その女の子は、それを抱えて小さな足で懸命に砂の上を走った。その先には、一人のおじいさんがいた。おじいさんは、優しい表情で袋を指差し、女の子は両腕で思い切りその袋の中にペットボトルを叩きつけた。そのままゴミと一緒に焼却炉へと運びこまれ、彼の言葉は傲慢な炎で燃え尽きた。
秋
秋、性欲の秋。
色恋めく読める女は、夕食を済ませた後、黙々と食器を洗う情緒を解さぬ餓える男に、いつものように矢を放った。
「それじゃあ、行ってくる」
「あぁ、行ってらっしゃい」
そっけない返事にいつも以上に苛立ったが、読める女はいそいそと身支度をし、そして繰り出して行った。
辿り着いたのは、繁華街の外れにたたずむ高級ホテルであった。誰も居ない綺麗なロビーに入り、受付番号を入力すると、音声により指定された部屋へと案内される。部屋に入ってすぐに眼に入ってきたのは、夢にまで見た大きな天蓋ベッド。淡いピンクを基調に純白のレースが幾筋かに渡って掛けられている。読める女は、ときめきに胸を高鳴らせ、指定された時刻に間に合うよう、キャリーバックを置いて中身を取り出し、バスルームに入った。
バスルームも、誰も使ったことが無いかのような美しさ。敷き詰められた大理石、それに反射し混じり合う光の煌めき、そして磨き上げられた等身大のガラス。でも、それらに気を取られている時間は余りない。熱いシャワーを軽く浴びて、上から下まで、ミスは無いか丹念にチェックする。それからしっかり仕上げに取り掛かり、蒸気した体をしっかり拭き、持ってきた服にしっかり着替えてベッドに入り、カーテンを閉め指を絡ませ到着を待つ。
数刻もしない内に、ノックの音が聞こえて来た。返事もせず黙って胸を押さえていると、鍵の外れる音がして、扉が開いた。厚いカーペットを踏む柔らかい足音がだんだん大きくなってくる。それまで伏せていた眼を上げると、薄いカーテンに、待つ人の、すらりとした、その長い影が、もう、すぐそこに、映っていた。こちらから何か声を掛けないと、と戸惑っている内に、向こうからしとやかな声が流れて来る。
「いつの間にか、涼しくなったものですね。この辺りでも、ハギやキクがあちこちに咲いているのを見かけました。どんな年でも、変わる事無く、季節は巡って来るものですね」
その艶やかで、優美な様子に胸が潰れ、何も答えられないでいると、待ち人が続けて言葉を紡いでいく。
「私もこれまで様々な恋をしてきました。中には、抑えきれない情緒のために、却って自ら苦しむ結果となったものもあります。その中でも今なお、胸の晴れぬことが二つあります。その一つが、はかなくなられた、あなたの母君とのことです」
読める女は何も答えず、ベッドに指を沿わせながら次の言葉を待つ。
「新たに伴侶を得たあなたと今なお、このようにお会いできるのも、あるいはその御縁なのかもしれません。このようなことでは、御母堂の御恨みが晴れることもないかもしれません。ですが私は、今、咲き誇っている花をも愛でたいと思うのです」
予期していた言葉がついにこぼれ始めた。漏れる吐息を抑えつつ、それでも指を淡いカーテンの方へと滑らせて行く。
「とはいえ、春の花の美しさもまた、捨てられないことも事実であります。梅や桜の美しさなど言うまでもありません。古くから、春の優雅さに勝るものなしとも、秋のあはれほど心揺さぶられるものなしとも、言われいます。なかなかどちらがどちらより優れているとは、決め難いものです。あなたはどちらの季節に心を惹かれますか」
非常に答えにくい問いであるが、だからといって返事をしないわけにはいかない難題である。しかし、読める女の返事はもう既に予め決まっていたのである。
「まして私ごときが、どうしてその良し悪しを決められましょうか。ですが私は、今、咲き誇っている秋を愛でるべきだと思うのです」
と、口をつぐむこともなくはっきりと言い表す様子には、可憐さという言葉など相応しくはない。待ち人の動揺はカーテン越しにでも、伝わってくるほどであった。相手は、それでも動揺を押し隠そうとして、言葉を続ける。
「あなたも秋を好むと言うのなら、私と共に心を通わせようではありませんか。私には抑えがたい節々もあるのです」
その言葉に、読める女は間を空けずに答えた。
「それでは、あなたは春の優雅さはお捨てになるというのですか」
今度は、待ち人の方が、言葉を失ってしまった。読める女は、続けて言葉を解き放つ。
「確かに春の優雅さは何物にも代えがたい物があります。今、あなたを待つ人はきっと春のような美しさをお持ちのことでしょう」
「……」
「私の母は、春のような優雅さを持たず、秋の静かな日にはかなく亡くなってしまいました。そのために、秋に心を惹かれるのかもしれません。しかし、秋という季節は、ただ静かな情緒だけが漂う季節ではございません」
「……」
言葉を挟むことができずに絶句している待ち人の様子は、それでもなお、優美で艶めかしいものであった。動揺を隠し切れず、少しばかり後ずさりしている様を感じ取り、読める女は膝を滑らし、透けたカーテンに近付いた。
「桜のような華やかさは帯びてなくとも、紅葉のような秘めた情熱を帯びた季節でございます。だからこそ、私は秋を好むのです」
二人の間に、少しの沈黙が靡いた。待ち人が燻らせてきた何種類ものお香と、読める女が振りまいた強い香水とが絡み合い、澱んだ青色が流れる。それを振り払うかのように、待ち人が口火を切った。
「私は春の優雅さも、秋のあはれも共に捨てることができません。どちらもこの上なく愛でるのです。このようにもう、いつの間にか昔のような若さは失われたように思われます。ためらい、思慮深くなってしまったのです。あなたのように、秋ばかりを愛でるようなことは似つかわしくないでしょう」
「いいえ」
読める女は、また間髪入れずに答える。
「だから今、私は春をも愛でようとしているのです」
その強い言葉に、待ち人は足音を立ててしまった。ついに一歩退いてしまったのだ。読める女は、機を逃すことなく畳みかける。
「どうしたのですか。あなたは、私と心を通わせに来たのでしょう」
そのように言う読める女の声は、実は震えていた。しかし、待ち人は気付くことができずに、不用意な言葉を継いでしまった。
「しかし、はかなくなられた母君のこともありますし、なによりあなたの身はもう、一人のものではないのです」
「それがどうしたというのでしょう」
そして、それだけでないことをも、読める女はもう既に予め知っていた。その秘め事は、もう待ち人だけが知っているものではないのだ。読める女の母と、待ち人とが恋人同士の関係にあったばかりではない。読める女の夫と、待ち人の間にも血縁関係があることを。つまりは、待ち人の愛人との間に生まれたのが夫であり、待ち人はそのことを堅く秘密にし、公にはその愛人の夫、すなわち待ち人の父親との間に生まれたのが読める女の夫であると扱われていること、更には、その待ち人の愛人がつい先日亡くなったことを。要するに、待ち人の叔父の妻である母との間に生まれた読める女は待ち人の従妹であったのだが、それだけでなく同時に息子の嫁でもあり、その愛人が亡くなったことから、胸の晴れない二つの事の両方に縁を持つ読める女を求めるようになったことを、読める女は既に読んでしまっていたのだ。
「たとえそれだけでなかったとしても、そんなつまらぬ事共がどうしたというのでしょう」
まして、今は平安の世の中では無い。しかも季節は秋。女もまた、何人もの男を喰らいたい時代なのだ。張り裂けそうな胸を押さえて、懸命に叫んだ。
「ただただ、私はずっとあなたに会いたかったのです」
ついに読める女の指が、手が、たゆたうカーテンに触れる。それを離さぬようしっかりと握りしめ、思いっきり右に引っ張った。
視界には、開きっぱなしの分厚い本が入って来た。顔を上げて、寝ぼけ眼をこすりながら窓の方を見ると、いつの間にか朝の日差しが部屋に入り込んでいる。まどろみながら体を伸ばすと、後ろでバサッと何かが落ちる音が聞こえた。振り向くと、そこには、ベッドに敷いてあるはずの薄い毛布と蒲団が落ちて居た。
読める女は、読みかけの本を閉じて右手で握りしめ、大きな音を立てぬよう自分の部屋を出た。そして、すぐ隣にある餓える男の部屋へと静かに入って行った。餓える男は、まだ眠っている。起こさぬよう忍び足で近付いて行き、その寝顔に触れることができる距離まで近付いた。餓える男は、それでも気付くこと無く、ぐっすりと眠っている。読める女は、手にしていた本を両手で持ち直し、思いっきり放して、餓える男の頭上へと叩きつけた。
あまりの驚きと痛みに、言葉にならない呻き声で悶えている中、読める女は力の限りに叫んだ。
「この、臆病者!」
池
ヴェネツィアには海が無い。
ユーロスターの二等席で揺られ、ヴェネツィア本島に続く、長い長い橋を渡る間、窓の外にあれだけ広がっていたというのに。本島に到着して、早速ヴァポレットに乗ってはみたものの、誤って行き先の違う番号に乗船してしまい、どこか分からない島に運ばれていく間、飽き飽きしながらあんなにも見続けたというのに。波も立たなければ潮音も響かない、芳しい匂いもしなければ刺すような味もしない、そこにあるのは、ただただ当ても無く広がる水溜りであった。
ヴェネツィアには川も無い。
パンフレットでは街中を幾筋にも流れる、上流のように澄んだ水路が取り立てられ、テレビでは陽気なイタリア人と共に紹介され、世界で最も美しい場所の一つとして喧伝される水の都も、大通りを一歩外れて路地に入ると、人気の無い暗く狭い汚れた道々と、その隙間を埋める澱んだ水路が瘴気を漂わせている。ヴェネツィア本島を貫く、大通りに沿った大運河もまた、よくよく見ると、運河とは名ばかりで、異様に細長い池でしか無いのだ。流れてもいなければ澄んでもおらず、せせらぎも聞こえなければ鳥達も寄り付かない。流れているのは、ヴァポレットとそれらが垂れ流す油、観光客とわれらが投げ捨てるお金、そして商売人とかれらが撒き散らす粗悪品ばかりだ。
とはいえ、二日滞在し三日目にもなると、お気に入りのスポットも見付け、ようやくヴェネツィアの美しさも分かって来る。ヴェネツィアの美しさは、街中に張り巡らされた緑色した池でも、それらの間にふらりと立っている古い家々でも無い。まして、リアルト橋でも、その上で同じ方向を向いて引き攣った笑顔で誰にとも無く手を振っている観光客の群れでも無い。世界中を探しても他には無いであろう特殊な地域環境の中、それを壊さず、それに合わせて生活し続けて来た人々の営みにあるのだ。
お気に入りのスポットは、運河の中流域にそびえ立つカ・ドーロ宮、その二階、そのテラスから見渡せる風景が何よりも素晴らしい。ほとんどの観光客は三階から風景を見ているようだが、彼等はいつも他人を上から見下ろすことばかりを好む、自身の美しか解さない連中だ。古びた住居と同じ高さから、しかも広々と見渡すことができる、この高さからの見える景色こそが絶景なのだ。
とはいえ、ここで繰り広げられているのは、普段我々が風景とか景色とか言った言葉で表すものとはまるで違う。動きの無い、静謐で穏和なものからは全くかけ離れたうねりだ。狭い池の中を何艘ものヴァポレットが、エンジン音を軋ませ上へ下へと有象無象の観光客を運んで行く。その合間をすり抜けて、お金にも同伴者にも恵まれた幸せな観光客が、派手な手漕ぎのゴンドラに乗って優雅に渡って行く。時には、地元の人らしき人が集まって、魚を市場へと持って行く。中でも一番面白いのは、水上警察。パトカーが犯人を追いかける時のように、かなたから独特の警報が響いて来ると、ヴァポレットとゴンドラはすぐさま川の両岸へと船体を靡かせ、その間を水上警察専用の小型船が高速で通過して行く。その速さのために、池の水が大きく波打ち、ヴァポレットの窓からは船内に水が入り、ゴンドラは大きく揺れて、スリリングな気分を味わうことができる。実際、この街は警察が走り回る街である。つい先ほども、ここに来る前、陸地では、露天商売人が全速力で警察から逃げているのを見付けたくらいだ。水上警察が通過し終えると、ヴァポレットが動き出すまでの間、稀にしか味わえない一瞬の静寂がこの景色の中に現れる。しかし、それはほんの一瞬のことで、すぐさまヴァポレットのエンジン音とそれが池を切り進んで行く音とが、この風景を覆い尽くしていく。
一昨日ここに来た時とは違い、今日は観光を急ぐ必要も無く、充分に時間がある。いつまでもいつまでも、ここでこの景色を見ていても良いくらいだ。常に動きがあり、見続けても飽きることのない、この脈動を。
気付けば、いつの間にか日が落ち、辺りは暗くなっていた。ひっそりとして、人気も無い。あまり遅くなると危険だと思い、テラスから離れ、カ・ドーロ宮を後にしようと歩きだした瞬間、遠くから砲撃の轟音が鳴り響いた。驚いて振り向き、テラスに手をつき、音のした方へと顔を向けると、サン・マルコ広場の辺りから煙が上がっていた。
逃げなくてはと思ったが、もう既に手遅れだった。その砲撃は、戦闘開始の合図だったのだ。あちこちで一斉に鬨の声が上がり、地響きが伝わってくる。テラスの真下、カ・ドーロ宮の一階からも次々と兵士が出動し始め、暗闇の中ひっそりと運河を渡って来た、何艘もの小型艇、その乗組員達とすぐさま交戦状態に入った。
弾ける金属音とありとあらゆる叫び声が大気を震わせ、あちこちに火の手が上がってゆく。カ・ドーロ宮での戦闘は、小型艇の奇襲で始まったが、人数で勝る宮廷側がはるかに優勢であった。乗組員を次々と乗っていた小型艇の方へと追いやり、遠くから砲撃して船を爆発させて、血飛沫と共に沈めていく。普段なら闇に覆われたヴェネツィアの街が、その大きな紅い火によって染められる。それに照らされた運河はまだ、澄んだ青色に輝いていた。そこに次々と、紅い炎からはじき出された黒焦げた肢体と赤い血潮が落ちて行く。それでもなお戦闘は続き、運河は溢れんばかりの黒と赤で膨れ上がる。ヴェネツィアの夜はまだまだ明く、歓喜と虐殺、悲鳴と逃走、そして崩れることなく揺らめく古い街並みが眼前にくっきりと浮かびあがって来るのだ。
そのカフィーの絵を見たのはヴェネツィアに来る前のことだが、今ここに来てその表情がはっきりと分かる。その時以来、いやずっと前から、この運河は少しも流れてなどいない。そうして年月を経て、黒い肢体と赤い血が青い水に混じり続け、重く濁った先の見えないどんよりとした緑色の巨大な池が出来上がったのだ。その巨大な池は、ヴェネツィア中を覆い尽くし、海をも水溜りに変えてしまったが、それでもなお、古い街並みとそこに暮らす人々の営みを飲み込むことはできなかった。
今は、余所者の金でその表面を徒に掻き回され続けながら、不気味に鳴りを潜めている。
絵本(前田衛春)
ある時代、ある場所、ある場面、ある出来事を、写実的に描いていく。