碧のシンフォニー
私、蒼乃祥子(あおのしょうこ)は27歳のフリーターである。正確には6年前音大の弦楽部を卒業してから、一度も就職することなく…もちろん学生の頃もバイト三昧で好き勝手に暮らしてきた。男勝りの性格と曲がったことが嫌いな真っすぐな性格もあって、どうしても型に嵌められることが我慢できない私は、せっかく心配して良い就職口の話を持って来てくれる恩師に、ことあるごとに断りの電話をいれる始末で…。それがある日突然、”あいつ”が目の前に現れてから、私の生活は180度変わってしまった。”あいつ”のせいで私の安穏な人生が…どんどん浸食されていく。
”あいつ”のせいで私の安穏な人生が…どんどん浸食されていく。
第1章 蒼(あお)と碧(あお)
1
「祥子ちゃん、そろそろ先生を起こさなくてもいいのかい?」
そういってカウンターの中から声をかけてきたのはこのカフェ”シンフォニー”のオーナーの田崎さんだ。
「そうね、もうそんな時間?」
そう言って私は面倒くさそうに壁の時計を見上げた。時刻は10時30分を過ぎたところ…。
「あ…面倒臭い! 何で私があいつの面倒なんか見なきゃいけないのよ。天才かなんか知らないけど、顔が良いだけの単なるわがまま坊やじゃん」
さっきからそう息巻いている私の様子に田崎さんは苦笑いを浮かべながら、さっとカウンターのテーブルの上に一人分のモーニングセットを置く。
おいしそうに湯気を立てているトロトロの半熟オムレツにカリッと焼いたベーコン付きのプレートにはバターをたっぷり練りこんで焼いた自家製のクロワッサンサンドものっている。かわいらしい形のガラスボールにはきれいに盛られた新鮮野菜のサラダがあって、私はその横に田崎さんが淹れてくれた薫り高いコーヒーを小さなカップに注いで置いた。
「先生はヨーロピアンタイプの苦みを抑えた薫り高いコーヒーが好みだったね? ああ、ペリエも一緒に持っていくのを忘れないで…」
「はい、はい…」
私はさらに差し出された炭酸水の小瓶を受け取ってトレイの端にのせると、速足でカウンターの横にある小さなドアを開けた。このドアは店のバックヤードにつながっていて、その廊下の突き当りには上の階へとつながるエレベーターがあるのだ。
カフェ”シンフォニー”の入っているビルは3階建てになっていて、すべてはオーナーである田崎さんの持ち物で、二階が事務所兼オーナーの仕事場となっている。
田崎さんの本業は楽器の調律師で、実は日本の調律師の中で常にベストスリーに入っている凄業師だった。
日本中、いや世界中の一流の音楽家から引っ切り無しに調律を依頼された楽器が届けられるのだが、田崎さんはほとんど毎日といっていいくらい午前中はここシンフォニーに顔を出している。実際いつ寝てるのかわからないほど多忙な人なのだが、彼が言うにはこのカフェの雰囲気が好きなのだそうだ。カフェ経営はもはや趣味だと言って笑う田崎さんは、もう十年以上ここで店を開いている。
“シンフォニー”のあるこの街には、国立の音楽大学がある。この店のお客さんの大半はその音大の学生たちだ。
もちろん、わたしもその大学のOBで、10年前山梨の田舎から上京して以来ずっとここでバイトしている。
「あ…祥子ちゃん、きょう午後大学行って元(はじめ)のレッスン受けるんだろ? 今日はお客さんも少ないし…このあと二階のスタジオ使ってレッスンして構わないよ。まあ先生の都合がつけばいいんだけど…」
田崎さんはそう言って時々自分の仕事部屋でもある2階のフロアーをわたしのために開けてくれるのだ。
大学を卒業してもう6年も経つのに、未だここでバイト生活をしながら…半分学生もどきのような生活をしているのには訳があって…。
わたしが専攻していたのは、弦楽器のチェロだ。小学生の頃、たまたま母と母の友人に連れて行ってもらった当時世界的に有名なチェリストだった“ヨー・ヨーマ”のソロコンサートに連れて行ってもらって以来、大ファンになった私は、それからその音色に取り付かれたように夢中になった。
それからのわたしは、当時音楽には全く縁もゆかりもなかった田舎人である両親や祖父母に必死で拝み倒して、毎週末、片道1時間はかかる離れた町の音楽教室に6年間通い詰めたあと、現在の恩師、日本のチェリストとしては第一人者の『斎藤元(さいとうはじめ)先生が特別講師を勤めるA音楽大に進学したのだ。
大学時代はそれなりに充実した生活を送ったわたしは、卒業後は当然どこかのオーケストラに所属しながら大好きなチェロに関わる将来を夢見ていたのである。
それが…卒業を半年後にひかえた9月のある暑い日の午後…わたしの幸せな人生は一変した。
プロローグ1 蒼乃 祥子
「祥子、今日バイト入ってる?」
いつものように午後の講義とレッスンを終えたわたしが、大きな楽器ケースと楽譜の入ったショルダーバックを抱えて構内を移動していると、後ろから声をかけてきたのはピアノ科の同期で親友の理子(リコ)だった。
「今日は無いよ。 聡(サトシ)と約束あってこれから二葉園に行く予定なんだ」
「ああ…きょう聡の誕生日だったね? またみんなでお祝いなんだ」
「そう、子供たちが楽しみにしてるから行かないと…」
「はあ…? 楽しみなのは祥子の方でしょう? このところ聡も秋の留学の準備で忙しくって、あんたたちほとんど会えてなかったじゃん? しっかり甘えてきなよ。留学前に入籍するんでしょう? お祝いのパーティーには絶対呼んでね」
理子はそう言って私の空いている側の肩をポン!と叩いて去っていった。
この時期大概の卒業生は卒業後の予定は決まりつつあって、わたしは神奈川の地方都市にある市民オーケストラに就職することが決まっている。理子は音楽家の道は選ばず、ある大手の音楽系の出版社へと早々と自分の進路を決めていた。
そしてこれから会う約束をしている彼、波多野聡(ハタノサトシ)とは大学に入ってから知り合い、今では恋人関係にある。
聡は4歳の時に両親が事故で無くなり、頼れる親戚もいなかったことからある養護施設で育った。なんの後ろ盾もなく、
支援もなかった彼が、今では若き天才ピアニストといわれるまでになったのは、ひとえに持って生まれた才能と並々ならぬ努力があったせいだ。
彼の育った施設には、誰からか寄付された古ぼけたピアノがあって、それを聡は物心ついた時からずっと親友のように一緒に過ごしてきたのだ。
知り合ってから聞いたのだけれど、彼のなくなったお母さんはピアノの先生で、幼い彼をずっと膝の上にのせてピアノを弾いていたのだという。
その頃の記憶は朧気で、お母さんの面影もほとんど覚えていないんだ…そういって笑う聡の表情はひどく寂しそうだった。
待ち合わせの大学近くの交差点まで行くと、聡はすでに来ていて私の姿を見ると、日焼けした顔に真っ白な葉を見せて笑いかけてきた。決してイケメンというわけではなく、身長も168センチという女にしては長身のわたしと並ぶと目線も同じで、どちらかといえば真面目な好青年といったところだ。
大学にも奨学金をもらって進学したくらいで、昼間はレッスン、夜は深夜まで居酒屋でのバイトを掛け持ちしている至って普通の大学生なのだ。
けれど…ひとたびピアノの前に座れば、彼の指先から紡ぎだされる調べは聴く人すべての心を捉えるくらい素晴らしい音楽家なのだ。1年の時に推薦で参加した国内のコンクールで、聡は審査員特別賞を受賞してから、彼の名声は一気に高まり大学でも有名になった。
わたしが聡と仲良くなったのは、友人の理子を通じてだったけど、その時にはすでに聡は有名人。
自分とはまったく別世界の人だと思ってたから、最初はまったく無視してた。
けっこう不愛想だったにも関わらず、どこをどう気に入ったのか、聡はそれから猛アタックしてきて…。
しまいには私が根負けする形で付き合い始めたのは、1年の冬ごろだったのかな…?
「祥子はいつだって消極的すぎるんだよ。前から言ってるだろ、祥子はオケ(オーケストラ)よりソロの方が向いているんだよ」
「そんなこと言ったって、わたしは聡ほど才能があるわけじゃなし、実家の親からは、どっかのオケに拾ってもらえなかったら、さっさと田舎かえって就職しろって言われてるからさ」
わたしは無関心を装って大きな荷物を抱えながら、さっさと速足で歩きだす。
「待てよ、祥子。俺の話聞いてる?」
聡は慌てて私の後を追ってくる。小さなバックだけを抱えている聡は、無言で私のチェロを肩から奪い取ると、憮然とするわたしを追い抜いて行く。
聡が言いたいことはわかっているのだ。わたしのチェロは、ほかの学生たちが2,3歳のほんの子供の頃から学び始めるのに対して、わたしが始めたのは小学校の高学年から…。
実家が地方都市の片田舎だったこともあり、早々専門家の指導も受けられず、どちらかといえば独学に近い環境で学んできた私のチェロは、基本に忠実というよりはかなり独創的なのだ。
それを恩師の斎藤先生は、個性的でいい…と言ってくれるけど…。
「俺が二年の留学を終えて帰ってきたら、そん時は俺は祥子と一緒に音楽やりたい。俺のピアノと、祥子のチェロで日本中、いや世界中を演奏して回るんだ。俺たちにしか出来ない演奏をして、世界中の子供たちを元気にするんだ…!」
そう言って笑う、聡の少し下がり気味で切れ長の瞳はキラキラと輝いていた。
(何よ、のん気なこと言っちゃって…自分はさっさと海外に行っちゃうくせに…!)
その時のわたしは何故か素直になれなくて、何かにつけてはつい聡に対して反抗的な態度をとってしまう。
だけど聡はそんな私に対してもいつだってニコニコと笑いながら、ばかだなぁ…というようにわたしの頭を大きな手のひらでポンポンとはたくのだ。
そんな聡の態度にまたイライラして、聡のこと大好きなくせにまた憎まれ口をきいてしまう自分が嫌で…。
要するに、その頃のわたしは、自分だけひとりおいていかれるような寂しさを感じて、密かに聡に嫉妬していたのかもしれない。
だけどその頃のわたしは、そんな心のモヤモヤを直接聡にぶつけることが出来なくて、時々一緒に晩御飯を食べるという名目で理子を呼び出しては、居酒屋でグダグダと心の不満や不安を吐き出していたのだ。
「あ~もう! それを世間では惚気って言うのよ。馬鹿らしい…! 祥子、あんたねぇ知ってる? 聡毎日ピノのレッスンの合間に、アレンジの勉強しているんだよ。ほら、なんていったっけ? あんたの好きな曲、ほらアレクシアの…」
「幻夢…?」
理子が言っているのは、今世界で神の子ともてはやされている超が付くほどの天才バイオリニストで当時若干12歳の『ユーリ・アレクシア・レオン』が作曲したといわれる曲なのだ。
超難解な組曲で、オーケストラはおろか彼以外には演奏できないといわれている。
「はぁ~? なんでそれを聡が? 何のために?」
「馬鹿なの、あんた。祥子のためにきまってんでしょ? もう聡が哀れになってくるわ。わたしが何でピアノ辞めたかわかる?
聡見てると、自分の凡庸さと甘さに嫌気がさしちゃってさ…。自分みたいなのは、ちょっと斜めくらいから音楽にかかわったほうが幸せだって気が付いちゃったわけ。だからわたしは後方からあんたたちを支援しようって決意したんだから、観念しなさい…!」
理子の強引な物言いには思わず苦笑しちゃうけど、頑固なわたしはそうでも言ってもらわなければきっと、決心出来ないんだ。そう、自分でもよくわかってる。
そんな口の悪い悪友の理子に励まされて、それからわたしと聡の将来への第一歩は踏み出したわけで…。
だけど…そんな倖せは思わぬ形で終わりを告げることになる…。
あいつがやってきた。 1 祥子 side
『カフェ・シンフォニー』 午後3時を回った頃。
にぎわっていたランチタイムも落ち着いてきて、そろそろ夕方のシフトのメンバーが出勤してくる時間。
やっと一息ついたわたしは、いつものようにカウンターに座りながらマスターの入れてくれたコーヒーを啜っていた。
「あ~! 今日は忙しかったですね? こんなことならシンちゃんにもう1時間早いヘルプ頼んどきゃよかった。」
「ハハ…どうやら午前中の講義が1件休講になったって誰か言っていたから、その分みんなこっちに流れちゃったのかな?」
半分ぐったりしているわたしを見て、田崎さんはニコッと笑いかける。
シンフォニーはA音大のすぐ側にあるから、お客さんのほとんどは音大の学生たちだ。
フロアーは1階と2階へと分かれていて、1階にはテラス席とゆったりしたテーブル席があって、もちろん小さいけどカウンター席もある。
そして1階の一番奥には小さいけれど、ステージも作られていて、時々貸し切りで学生たちのミニコンサートも行われるのだ。
当然2階席からもステージが覗ける造になっていて、窓も大きく全体的に明るい。
そこは田崎さんの亡くなった奥さんのこだわりが、そこかしこに現れていて、さすが1流の設計士でインテリアデザイナーだっただけはある。
なんでもある有名なホテルの迎賓館も、彼女のデザインなのだと自慢げに語る田崎さんの表情はとても幸せそうで、今でもすごく奥さんの事を愛しているんだなぁ…と周りの人をほっこりさせるのだ。
「あれっ? 祥子ちゃん、今日なんか用事あるって言ってなかった?」
さっきからへばっているわたしを横目に、田崎さんはいつもの笑顔で話しかけてくる。
「うん、今日、園長先生の誕生日で夕方チェロを弾きに行く約束しているの」
「ああ…聡くんの…?」
「うん、毎月1回は行くようにしてるんだ。たまたま今日は先生の誕生日と重なったから…」
学生時代も聡と一緒に何度も足を運んだ場所だった。
聡がお世話になった場所というだけではなくて、今は70歳を越してまだ頑張っている園長先生を応援したくて、わたしはひとりでもずっと通っているのだ。
30代で最愛のご主人を病気で亡くした愛子先生は、ご主人が愛したこの古い施設を離れたくないからと、いつ行っても優しい笑顔を向けてくれる。
「今日も一人で行くの?」
「ううん、今日はスペシャルだから、理子の応援も頼んでるんだ。ああ見えて一応この音大の卒業生だからね」
そこでテーブルに置いたスマホがブルブルと震えだした。
画面をのぞけば理子の名前がある。
「もし、もし…理子?」
「ああ、祥子? ごめん、急ぐから用件だけ言うね! 」
理子はいきなりまくしたてるように自分の言いたいことだけ言って電話を切る。
昔から理子はこうと思ったら突っ走る質で、そうなったらもう誰にも止められない。
それがわかっているから、突然予定をキャンセルされてもわたしは笑うしかない…。
「どうしたの…?」
「ハハ…なんか前から理子が追ってる天才音楽家が、午後の便で日本に来るらしくて、今成田にいるんだって…」
呆れてそうわたしがつぶやけば、田崎さんはニコリと笑う。
「ああ、知ってる。12歳でウィーンのコンクールで金賞とった天才バイオリニスト、ユーリ・アレクシアン・レオンだろう? ユージンの秘蔵っ子でヴァイオリンだけじゃなくて作曲家としてもこのところ有名だからね」
「そうなんだ…ユージンはよく知ってるよ。日本でのコンサート何回か聞きに行ったから…」
ユージンは、言わずと知れた天才マエストロだ。彼がタクトを振るだけでどんなオーケストラでも満席になる。理子に言わせると、音楽だけでなく、彼の容姿も芸術的なのだそうだ。
「ユーリってそのユージンの息子なんでしょ? 似てんのかなあ? それなら理子が騒ぐはずだわ。昔から超がつくほどの面食いだから」
「さあ、どうなんだろうね? だけど彼の顔写真は一枚も無くて、誰も最近の素顔は知らないって話だからな…?」
12歳で賞を取ってから、ユージンは彼を一度も表舞台には立たせず、もっぱらCDとかの音源のみでみんながその存在を知っているだけで…。
だからこそ余計にその神秘性に惹かれるんだといつか理子が言っていたことを思い出す。
「あれ…? 彼のことなら元(はじめ)の方がよく知ってると思うよ。ユージンとも昔仲良かったはずだから…」
ええ~! はじめ先生そんなすごい人とも友達だったの!? ちょっとビックリだけど。よく考えたら、わたしの恩師、斎藤元先生は日本を代表するチェリストなのだ。
とっくに卒業したはずの出来の悪い生徒の面倒を、いまだに見てくれている先生に
本当に申し訳なくて…。
はぁ~! また今日何度目かのため息が漏れるわたしだった。
「お疲れで~す!」
そうしているうちに午後の交代時間になったシンちゃんが店に入ってくる。
「祥子ちゃん、そんなにゆっくりしてて大丈夫なのかい? 園までは乗り継ぎもあって結構時間が掛かるって言ってなかった?」
「え…? あ、大変…!?」
壁の時計を見れば、針はもう午後4時を指している。
あわてて立ち上がったわたしは、外したエプロンを掴んでバックヤードへとダッシュする。
「ああ、祥子ちゃん、チェロは調弦しといたから、上の事務所に置いてあるよ」
「サンキュー、マスター!」
ボーっとしていたせいでこのままでは遅刻するかも!
急いで2階に上がって相棒のチェロを抱えると、そのまま外階段から飛び出していった。
プロローグ 2 もう一つの『碧』 ユーリの章
暗闇の中をずっと手探りで歩いていた。
ずっと昔…まだ幼い頃、いつも優しく語り掛け…抱きしめてくれたあの細い腕は、きっと朧げな記憶の中の母のものだろう…。
3歳で母を病気で亡くしてひとりぼっちになったおれは、母以外に身寄りはなく…当たり前のように施設へと送られた。
「まあ、ずいぶんと綺麗な顔した男の子ね? あら、この子の瞳は青いのね?」
「何でも父親は外国人だったって話ですよ。ずっと二人暮らしだったようですが…男に捨てられちゃったんですかね…?」
「まあ、いいわ。さっそく例の方に連絡入れなきゃ、きっとお喜びになるわ」
突然連れてこられた部屋の中で、無遠慮に向けられる視線に晒されながら…怯えたように“3歳のおれ”は震えていた。
18年後ー。
「ユーリ、ユーリ…! 起きて! また悪い夢でも見てたのね? 」
誰かに揺すり起されて、おれは重い瞼をゆっくりと開けた。
「ん…? ナンシー…?」
まだ意識のはっきりしない頭で、ぼんやりと自分を見下ろしている相手の顔を見つめる。
「まったく、また明け方まで 一人で飲んでたのね? この頃ずっとじゃない? 」
彼女は眉間にしわを寄せながら、ベッド脇のサイドテーブルに並ぶシャンパンの空き瓶やグラスに申し訳程度に残っているに気の抜けた液体を手早く傍らに置かれたワゴンへと移していく。
彼女は『ナンシー・クロムウェル』おれの所属する音楽レーベルの責任者でもあり、実家でもあるこの古城、オーストリアの首都ウィーンから少し離れた場所にある『レスター・アライン城」のホテル部門の責任者でもある。
年齢で言うなら40代前半、シャープな顔立ちにショートカットがよく似合う彼女は、きっちりとしたグレーのパンツスーツを粋に着こなすキャリアウーマンだ。
「ユーリ・アレクシアン・レオン。それで…あなたはいつまでそうやってここで隠遁生活をするつもり?」
「さあ…? このまま引退してもいいかな…って思ってるけど…?」
ボサボサになった髪をかき上げながら、おれがゆっくりとベッドから起き上がると、ナンシーははぁ~と盛大にまたため息を吐く。
「ユージンを失ってあなたがショックを受けた気持ちはよくわかるわ、でももう一年よ。いい加減前を向いてあなたの道を歩いてほしいの。いつまでもこんな風に過ごしてほしいなんて、ユージンは望んでない…!」
「そんなことわかっているさ…」
(わかっている…十分すぎるほどわかっているんだ…)
おれはワゴンの端にあったミネラルウォーターの瓶を取ってごくごくと飲み干した。
『ユージン・アレクシアン・レオン』 その名前を聞けば…おれの胸は苦しくなる。
ユージンは世紀の天才マエストロであり、おれの音楽の師であり…父親だった。
おれは3歳まで日本で暮らした。 母は日本人で名前は倉木小夜子。N響オーケストラの期待の若手バイオリニストだったらしい。
らしい…というのは父と母の共通の友人だった恩師『斉藤元(はじめ)』からそうきかされたからだ。
母は未婚でおれを生み、オーケストラを辞めて街のバイオリン教室をしながらおれを育てた。けれど無理がたたって、病に倒れ29歳という若さで亡くなった。
おれはそれから施設に送られ、半年後に斎藤先生に見つけられるまで、そこで暮らしたが、先生の話だとそこは養護施設とは名ばかりで、養子縁組と偽って容姿の美しい子供を海外の資産家に高値で売り渡す人身売買をしていた。
当時先生は3年間ニューヨークに住んでいて、日本に帰国するまで母が一人で子供を産んだことも知らなかった。先生が記憶を頼りに訪ねた以前の住まいの近所の住人にそのことを聞いて、必死におれのことを探してくれたのだ。
それからのことはもう感謝しかないのだが…父と母がどうやって知り合って愛し合い、おれが生まれたのか…それも先生の口から教えてもらった。
母と先生は音大の同期で、入学当初からの友人であり、京都の旧家出身のお嬢様
だった母は、大人しい性格に似合わないほど意志のはっきりした女性だったと、先生は何故か悲しげな…どこか懐かしいような表情で話してくれたのだが、大人になった今ならわかる。
きっと先生は母のことが好きだったのではないかと…。
父のユージンとは音大の卒業後、留学したウィーンの音楽学院で知り合ったそうだ。当時のユージンはすでに音楽家としての頭角を現しており、才能だけではなくビジュアル的にも優れた容姿をした彼はどこに行っても目立っていて、留学してすぐにそんな彼に声をかけられてひどく驚いたと先生は言っていた。
ユージンは音楽の才能だけではなく、ウィーン社交界屈指の旧家であるレオン家の跡継ぎでもあった。
そんなユージンは先生のチェロを気に入って、何かと小さな音楽界に誘い出しては自分と同じステージに立つことを強要したのだそうだ。
最初は戸惑っていた先生もそんな気さくなユージンの性格が気に入って、それからは気の置けない親友同士として過ごした3年間は素晴らしいものだったと、誇らしげに先生は言った。
ユージンが母と出会ったのは、先生が留学を終えて日本に戻った半年後、すでに若き天才マエストロとして世界中で活躍していた彼が、初の日本公演として選んだのがN響で、当然先生を通じて二人は会い…一気にその距離は近くなる。
二人が恋人になるにはそれほど時間はかからなかっただろう。そんな二人の姿を先生はどんな気持ちで見ていたのだろう。
多忙なユージンと母がどんな方法で連絡を取り合っていたのかはわからないけれど、きっと先生が二人のために自分の時間を削ってでも動いていたのは簡単に想像できる。
はじめ先生…どこまで人が良いんだか…。
( ユージンは本気で小夜子を自分のそばに置きたがっていたよ…。
日本で保護されたおれは、1年間先生のもとで過ごした。その間に先生は、理不尽な大人たちに傷つけられたおれの心を少しでも癒そうとしてくれたに違いない…。)
母の記億はおぼろげだったけれど、優しい声と眼差し…子供心にもとても美しい人だったことはどこか覚えている。
母の奏でる美しいバイオリンの音色と…やっと動き始めた小さなおれの手を取りながら、バイオリンの指使いを何度も繰り返し教えてくれたことを忘れていなかった。
ある日、おれは先生に聞いてみた。
『ぼくのお父さんは先生なの?』
その時の先生の悲しげな顔は今でも忘れない。
「僕は君のお父さんじゃない。君のお父さんは君のことを知らないんだ。お母さんが亡くなってしまったこともね…。だからもうしばらく待ってくれないかな? 僕が必ず君をお父さんのところへ連れていくからね…」
ユージンは当時母と結婚の約束をしていたのだろう。
近いうちに母をウィーンに連れていくつもりで独自に準備を進めていたのに、彼の父親である当時のレオン家の当主は現侯爵であり、息子が音楽家であることは許しても、外国人の花嫁を迎えることは許さなかった。
そして京都の旧家族の出身である母も一人娘であったことから、父親からその結婚を酷く反対された。
当時の母は25歳…味方は先生しかおらず、一度は何もかも捨ててユージンの元に行く覚悟をしたけれど…。その時のユージンは28歳。華々しく活躍する、世界の音楽界の寵児としてもてはやされる存在で…。
決して今の自分の存在がユージンのためにならないと判断した母は、ひとり身を隠し、ユージンとも先生とも連絡を絶ったのだという。
そうその時、すでに母はおれを身籠っていた。
ちょうどその時先生は、ニューヨークに1か月の演奏公演に出かけていて、そのことを今でも悔やんでいると先生は言っていた。
自分がそばにいればこんなことにはならなかった。だから、君を放っておけないのだと先生は言ってくれたけれど…違うよ先生。それは先生のせいじゃない。
先生は十分すぎるほど、おれたちを助けてくれた…。
そして今だって…。
17年前、 ウィーンに渡ったおれはユージンの元を訪ねた。
初めて会う父親に、かすかな希望を抱いていたのは嘘じゃない…。
だってはじめ先生と過ごした10か月はとても穏やかで温かい日々だったから…血の繋がった父親ならもっと愛情を向けてくれる…当時4歳のおれは、どこか心の中でそんな期待を抱いていたのかもしれない。
だけど実際のその人は…ユージン・アレクシアレオンは、おれの音楽の師にはなっても、決して父親にはなってくれなかった。
ユージンという人間は、音楽に対してはストイックで決して妥協を許さない、自他ともに厳しい人間だった。
言葉も通じない…誰も心許せる相手のいない幼い子供にとって、音楽だけがユージンとつながる唯一の方法だったから…。
どんなに厳しくても手放すことはできなかった。それがなければ…生きていくことが出来ないほどに…。
そして…1年前、ユージンの死とともにその絆は失われてしまった…。
ベッドから起き上がって、まぶしい朝の陽ざしに思いっきり伸びをすると、おれはサイドテーブルの引き出しを開けて一通の手紙を取り出した。
「ナンシー、おれは日本へ…先生に会いに行こうと思う…。
あいつがやって来た。 2 ユーリside
午後2時45分。
予定の到着時間を大幅に遅れて、おれの乗った飛行機は空港に降り立った。
本来ならヨーロッパからの直行便を利用するところを、ナンシーはわざわざ中東を経由して48時間近くかけて東京に着く便を手配した。
なんでもどこからかユーリ・アレクシアン・レオンが日本に行くという情報が漏れたらしくて、マスコミの連中が騒いでいるからと、普段なら絶対に利用しない空路を行くことになった。
だけど…どんな理由があるにせよ、これはひどかった。
この便には偶然なのか、ファーストクラスは無くて良くてビジネスクラス、下手すれば中東から日本に出稼ぎにやってくるエコノミーたちで埋め尽くされていた。
(あ~! マジでやばい、)
周りの席は、ほとんどがアラブ人という状態で、おまけにどう考えてもまともな連中とは思えない野郎どもで、中継地であるヨルダンを過ぎたあたりからこちらの様子をちらちらと伺ってくる。
おれはわざと無視して、新聞を読むふりしながら決して目を合わさない。
身長が6フィート(180)以上あるとはいえ、どちらかといえば細身のおれは、連中から見ればガキ同然で…。
昔から見た目の繊細さからその筋の人間からは常に標的にされてきた。
だから嫌でもわかってしまう。奴らの目的を…。
(チッ…! 勘弁しろよ…! )
連中からしたら、こんな連れもいない細身のどう見ても“少年…?”な、おれは日本の首都・東京に出稼ぎにでも行く男妾に見えるのだろう。
それでもナンシーの気遣いで、前後左右の列の席は買い占めてあるせいで、とりあえず隣に並んでくる奴はいないが、それでもかなり居心地の悪さは否めない。
濃い目のサングラスに黒いキャップを目深に被り、白いTシャツの上に着たフード付きカジュアルコートの襟を立てる。
それでも油断していつの間にか居眠りをしていたらしい。
いつの間にか髭面の男が隣に来て、そろそろとおれの膝を撫でていた。
「 ……!」
嫌悪感から慌ててそいつを突き飛ばす。
そいつは一瞬怯んだ後、またニヤリと笑ってこちらに向かってきた。
「逃げんなよ、東京に着いたら…」
その言葉を最後まで聞く前に俺は席を立つ。
こんな奴のそばには一刻たりとも居たくない。すぐにでもこの飛行機を降りたいところだが、ここは空の上…。逃げる場所は限られている。
おれは迷わず少し離れた場所で、心配そうに見つめているキャビンアテンダントの側へと歩み寄る。
幸いなことにこの機の乗務員は女性だけではなく、男性も数人いるらしい。
急いで彼らの元へ行くと、小声で事態の説明をする。
するとすぐさまさっきの男の元に行くと、その腕を掴んで元の席に連れて行った。
それだけでは不安なので、おれはめったに見せない最大限の笑顔を駆使して、彼女たちのいるスペースに一番近い席を確保してもらった。
「Thanks You ! 」
サングラスを少しずらして、にっこり彼女たちに微笑めば…性別にかかわらず皆頬を赤らめて硬直する。
もの心着いた頃から、何度も体験した場面だったけれど、幼い頃はそれがどういうことかわからなかったが…。
どうやら一般的に自分の容姿がかなり人目を引くらしい…ということにある日気が付いた。
だが同時にそれは恐怖となり、幼いおれの心の奥深くを傷つけた。
今ではこんな風に時々はうまく利用するまでに受け入れられるようになったけれど…。
やはり顔を晒して音楽活動をするのには抵抗がある。
数時間後―。
そんなこんなでおれの乗った飛行機は、無事に成田に到着した。
あいつがやって来た。 3 理子 成田で
ヨーロッパ在住の仕事仲間から、早朝4時前に電話がかかってきたと思ったら、何と数年前から追っていた“幻の天才クン” がついに動き出したんだって…!
もうびっくりして、眠気なんて一発で吹き飛んじゃった。
彼の名前は、“ユーリ・アレクシアン・レオン” 名前からして美しい!!
噂では絶世の美少年だっていうから…前から生でその“ご尊顔” を拝めることを夢にまで見たほど…。
親友の祥子は馬鹿にするけど、ヴァイオリンの腕も天才的な上に、超が付くほどの美少年なら誰も放っておかないよね?
おまけにお父さんはあの”ユージン”で…。
祥子との約束も拝み倒して断って、今日は徹夜明けだっていうカメラマンの健ちゃんを無理やりたたき起こして連れてきたけど…!?
ん…ん…ん…!?
もう午前から3時間近く、国際線のゲートで張ってるっていうのに、一向にそれらしい人物に出会わない。何で…!?
「ちょっと理子さん、ほんとにその情報合ってますぅ…?」
さっきから健ちゃんは、少し垂れ気味の目に涙を浮かべながら大あくびをしている。
「確かにウィーンの空港から飛行機に乗ったって聞いたんだよ」
「それホントにアレクシアなんですか? 見間違いじゃあないんですか? それに行き先が日本とは限りませんよ?」
「いや、絶対来るって…!」
と…強気で言ってはみたものの…現在到着済のランプのついている便はヨーロッパ便ではなくて、中東はドバイからのもの…。
はあ~!
思わずため息が漏れる中…目の前を行くある背の高い少年(?)の姿に目が留まる。
濃いグレーのフード付きコートを着て、黒いキャップに濃いサングラスを身に着けてちょっとうつむきがちに歩く姿に何故か目を奪われる。
両手はコートのポケットに差し込まれたまま、特に荷物も持たずに足早に歩く姿は、旅行者というには身軽すぎる気がした。
一瞬顔を上げて壁の表示板を見た彼の横顔がとても繊細で、鼻筋から唇…細い顎のラインが美しく、思わず見とれてしまう。
「ちょ…ちょっと、健ちゃん。あの子撮って…!」
「え…!? いくら美形だからって盗撮はダメですって、…!」
その彼は自分の方にカメラが向いていると気が付いたとたん、帽子のつばで顔を隠すようにして足早に去ってしまった。
「ああ残念!? せめてちゃんと顔をみたかったなあ~!」
あたしは本気で悔しかった。このところ、拝めないくらいの美形だったのに…。
「もう理子さんの美形好みはもう病気ですからね。そのうち訴えられるんじゃないかってマジで心配です」
呆れる健ちゃんの背中をバシン!と勢いよく叩く。
「あたしに意見するなんて、10年早いわ!」
「もう~こっちは徹夜明けなんですからね。後でご飯でも奢ってくださいね!」
「はっ! あんたはあたしの奴隷で十分…!」
「そんなぁ~!」
思わずカメラマンの健ちゃんに八つ当たりしちゃったけど、それくらいあたしは今日の“一瞬の出会い”にかけてたんだけどな…?
だけどその時のあたしは、どうしてもさっきの“美形クン”が妙に気になって仕方なかったんだ。
あいつがやって来た。 4 斉藤 元(さいとう はじめ)
生涯の親友と言ってはばからなかったユージンがこの世を去り、小夜子もいない今、僕の心には後悔しかない…。
会えば絶対に惹かれるとわかっていて小夜子をユージンに会わせたくせに、彼女の…小夜子の口から語られるユージンの名前を聞きたくない僕は、彼らの前から逃げ出したんだ。
小夜子とは音大の1年の時…偶然通りかかった練習用スタジオの前で出会った。
誰かたぶん数人のヴァイオリン科の先輩たちにつかまって何か言い寄られていた
のだと思う。
小夜子は華奢で小柄な…おっとりした優し気な女の子で、上品な顔立ちも相まって一見お嬢様に見えたのだが、実際はずいぶんと違っていた。
彼女たちの表情から、決して穏やかな話の内容ではないなと感じた僕は、とにかくその状況を止めなければという思いで近づいて行った。
ところが近づいて実際、彼女たちの話し声が聞こえてくると、その僕の目論見は大きく外れることになる。
「何よ、生意気ね。ちょっとだけ貸してって言ってるだけじゃない? 」
「申し訳ありません。大事なものなので、他の人に貸すわけにはいかないんです…」
小夜子の前に立つ二人の上級生は、小柄な小夜子を見下ろすように鋭い視線を向けながら、どうやら彼女の愛器であるヴァイオリンを借りたいと言っているようだった。
「これは大切な人から送られたものなんです。どんなに頼まれても貸すわけにはいきません」
こちらに背を向けている小夜子の表情はわからないが、その声は凛としていて、強い意志が感じられる。
「何よ、1年のくせにグァルネリ(グァルネリアスの略称、名器ストラディバリウスと並ぶ3大名器のうちの一つ)を持ってるなんて生意気! どうせ本物じゃないんでしょ?」
「どう思われてもかまいません。貸せないものは貸せないんです!」
おそらくしっかりと胸にそのグァルネリを抱えているのだろう。
抱きしめるようにケースを持つ両肩が小刻みにブルブル震えているのが遠目にもわかる。
そうしているうちに上級生のうちの一人が、歪んだ笑みを浮かべながら、さっと片手を振り上げたのを見て、慌てて僕は駆け出した。
「何してるんですか…!?」
とっさに出た言葉だったけれど、二人には効果があったようで、
二人は一瞬 ”やばい“ というような表情をした後で、さっと踵を返してどこかへ走り去った。
「君、大丈夫?」
「は…はい…ありがとう…ございました」
そう言って僕を見上げる小夜子の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいて…その小さな声は、安堵からか小刻みに震えていた。
「とりあえず、どこか座ろう…」
僕は彼女をいったん落ち着かせるために、少し離れた渡り廊下の奥のベンチに誘う。
大人しく後をついてきた小夜子は、遠慮がちに腰を下ろしてから、大きく一つ息を吐いてから静かに話し始めた。
「さっきの人たちなんですが、同じヴァイオリン科の先輩なんです。入学当時から優しく声をかけてくれて…」
そこで小夜子の表情が暗くなる。
「それまではそんなこと一言もいわなかったのに、少し前から…このグァルネリを貸してほしいと言われてて…大切なものだからお断りしたんですけど、聞いてくれなくて…」
「そうなんだ…。でも君は正しいよ。そのグァルネリは君の相棒だろう? 大事な相棒をいくら世話になっている先輩だろうと任せられるわけないじゃないか。それが理解できない先輩たちの方が悪いのさ」
僕がそう言うとやっと小夜子はにっこりと微笑んだ。
それからなんだ。僕の中で小夜子の存在が特別なものになったのは…。
それからの数年を僕たちは仲のいい友人として過ごし、卒業まであと一年という時に僕のウィーンへの留学が決まった。
その頃にはもう小夜子を傷つけようとする先輩たちもいなかったし、留学といっても短期だったから、離れていても何も心配はしていなかった。
なによりその頃の僕は、小夜子に対する自分の気持ちを、本当の意味でわかっていなかったんだ…。
「すごいね? はじめ君、帰ってきたらもう隣に居られないくらい凄い人になっているんじゃない?」
「まさか? 僕が選ばれたのは偶然だよ。君だって卒業後のこと、考えているんだろう?」
「うん…」
そう言った小夜子の顔に浮かんだ一瞬の戸惑いに、僕は気づくことなく…その時の僕は、自分のことしか考えていなかった。
小夜子の実家は京都の旧家で、彼女はその一人娘だということ。
母親は彼女が10歳の時に亡くなって、当時父親は仕事で家にいないことも多くて、小夜子はほとんどお手伝いさんに育てられたんだと、前に寂し気に笑っていたっけ…。
彼女の音楽人生は5歳から始まった。
身体が弱く病気がちの母親が音楽好きで、たまたま目にしたヴァイオリンに興味を持った小夜子のために、グァルネリは、そんな妻にに請われた父親が、手に入れてくれたものなのだそうだ。
たった10歳の子供に、ゼロが6桁以上つくような高価な楽器を買い与えるなんて…。
まったく平凡な家庭に生まれた僕には想像もつかないけれど…?
(はぁ~!)
それを最初に聞いた時には、ため息しかなかった。
自分にはわからない世界があるんだなぁ~と漠然と思ったくらいで。
だけど、キャンパスで会う小夜子はまったく普通の女の子で、屈託なく笑う姿にいつしか僕の視線は、いつでも彼女の姿を追っていた。
もちろん僕はすぐ小夜子に連絡して、大学近くのカフェで待ち合わせをする。
「はじめ君、何か雰囲気変わったね? もう一人前のソリストになったみたい」
小夜子は変わらず屈託ない笑みを浮かべながら、キラキラした瞳を向けてくる。
そんな眼差しを向けられて…僕は忘れていた1年前の想いを一瞬で思い出した。
僕の後悔 (はじめの気持ち)1
小夜子への想いは少しずつ…前と同じ日常を過ごすうちに、自分でも気づかないうちに形作られていった。
本当に少しずつ…彼女の穏やかな話し声や楽し気な笑い声を聞くたびに、僕の心は小夜子の笑顔に引き寄せられていく。
「へえ、はじめ君、ユージンと友達になったの!? すごい!! いいなあ? ずっと憧れだったの…」
ほほを赤く染めながら、はにかんだように笑う小夜子の様子に、僕の胸はズキン! と鋭い痛みを覚えた。
「うん、ウィーンの音楽院で彼から声をかけてくれたんだよ! ビックリだろう?」
本当はユージンの話なんてしたくなかったのに、輝くような小夜子の笑顔をもっと見たくて、僕は聞かれてもいないのに一生懸命にユージンのことを彼女に語っていた。
いかに彼の音楽が素晴らしくて、見かけだけではなく人間的にも尊敬できる素晴らしい人物だと…。
だから、一人になると後悔ばかりが先に立つ。
(斎藤はじめ、お前はどこまでお人よしの大バカ者なんだ…。小夜子が好きでたまらないくせに、なんで他の奴を褒めているんだ…。)
そう心の中で呟きながら同時に、自分なんかがあのユージンにかなうわけがないともわかっていた。
そんな中、急なユージンの日本公演の決定の知らせが届いた。
「小夜子、一緒に行くかい? あとでユージンを紹介するよ」
「本当!? うれしい…!!」
満面の笑みを浮かべて大喜びする小夜子を横目でみながら、僕は内心大きなため息を吐く。
きっと小夜子はユージンに会えば、彼に惹かれずにはいられない…。
そしてユージンだって…。
それが分かっていて、何か予言めいたものを感じていた僕は、それでも二人をあわせない…という選択は出来なかった。
小心者の僕は、友人としての“ふたり”を失うことが怖かったんだ。
数か月後―。
すでに世界で名の知れていたユージン・アレクシアン・レオンの来日は、日本でも一台センセーションを巻き起こして、その合間をぬって僕らは再会を果たした。
そして…当然のようにユージンと小夜子は恋に落ち…僕はそれをただ見守る事しかできなかったんだ…。
2 出会いは衝撃的ー。 碧(ユーリ)side
とてつもなく苦痛だった長時間のフライトから解放されて、ゲートから通路に出た瞬間に大きなため息が漏れる。
(本当に酷いフライトだったな。ホテルに着いたら絶対にナンシーに文句を言ってやる)
荷物は別便で先にホテルに送ってあるため、身軽なおれはさっさとゲートをくぐって出口へと向かう。
気軽な旅行者を装っているため、細身の黒いジーンズにスニーカー、長めのフード付きコートの下にはTシャツという至って簡単な服装だけど、素顔を晒したくないおれは濃い色のサングラスとツバの広いキャップを深めに被って俯きながら歩く。
それでも昔から何故か人の目を引くようで、行き交う人はちらちらと此方を伺っていく。
子供の頃から他人の視線が苦手で、出来れば一生誰ともかかわらないで生きていきたいところだけれど、実際にはそうはいかない…。
それを避けるように右手でキャップのツバを引いてさらに顔を隠し、左手はコートのポケットに突っ込む。
するとポケットの中で、スマホがブルブルと震え出した。
あたりをキョロキョロと見回した後、通路の端にトイレを見つけてその中に入ってから通話ボタンを押した。
「もし、もし…?」
「あっ、ユーリ? 無事東京に着いたかしら…?」
向こうから聞こえてきたのは、能天気に明るいナンシーの声だった。
「ナンシー、いくらトラブル回避のためとはいえ、あのフライトは無いよ。」
「ああ、そう? でも無事に着いたンでしょう? それよりマスコミの連中は大丈夫?
うちの情報網からだと、あなたの顔は知れてなくても、日本にも根強いファンがいるらしくて、何とかその素顔を撮ろうと待ち構えている連中がいるらしいから気を付けてね」
「分かってるよ、気を付ける」
「でも、いい加減顔出しちゃった方が楽じゃない…? 君の顔はホントに羨ましいくらい芸術的だもん…」
「絶対にヤダ!」
「はあ~! わかったわ。まあせいぜい頑張って。これから元(はじめ)に会うんでしょ? よろしく伝えておいてね。来月になったら、マイケルもそっちに行くって言っていたから…」
「わかった…」
ナンシーは用件だけ早口で伝えると電話を切った。もともとはユージンの幼馴染だったという彼女は、唯一おれに好き勝手言える異性の相手だ。
マイケルというのは彼女のパートナーで、おれの音楽活動のマネージャーでもある。
ナンシーとの電話を終えてトイレを出たところで、数人の若い女性のグループと出くわした。
彼女たちはハッとしたようにおれの方を見て一瞬固まった後、ざわざわと何かつぶやき合っている。
その中の一人が何か口を開きそうになったところで、おれはサッと速足でそばを通り過ぎる。
とにかく、誰とも関わらないのが一番だとよく知っているから、さらにその先の人波
の中にカメラを抱えた人物の姿を捉えた瞬間、一気に緊張感が増していく。
(まずいな…今見つかるわけにはいかない…)
目の前を行く旅行の団体客に紛れるようにして、おれは空港の出口へと急いだ。
空港からタクシーに乗ってある地点まで移動する。
17年ぶりの東京には、なんの感慨も浮かばなかった。
東京を離れたのは17年前。4歳の誕生日を目前にした時だった。
当時の記憶は曖昧で…3歳で母が亡くなった後、数か月を施設で過ごし…そのあと、これから会う約束をしている斎藤元先生に拾われた。
それからはじめ先生と過ごした数か月間…先生は記憶も定まらない3歳のおれに優しくいろんなことを教えてくれた。
今おれが持っているその頃の記憶は、ほとんど先生から聞かされたことがすべてだ。
今となっては、母の記憶もほとんどない…。時々、夢の中で感じる優しく、碧…? そう名前を呼ぶ声を感じるのみで…。
夕方6時の先生との約束まではまだ数時間ある。
しばらく界隈をぶらぶらしようと思っていた時、その事件(アクシデント)は起きた。
空港でもそうだったが、どこに居ても少しでも立ち止まれば、その場にいる誰かに声を掛けられる。
それは…全く意図せずともおれの容姿は人の目を惹くらしい。幼い頃からそれは顕著で、それもあってユージンの元ではずっと引き籠りがちに過ごした。
もちろん音楽活動もそれなりに行っていたけれど、今までは周りの配慮もあって、素顔を晒すことなく続けられたのだ。
3月とはいえ、午後の遅い時間になれば気温もぐっと下がってくる。
そこでおれは散策をあきらめて、早めに予約したホテルにチェックインしようと、道路の向こう側にある地下鉄の入り口に向かうべく、目の前にある横断歩道を渡ろうとしていた。
目の前の歩行者用の信号が青に変わるのを、端に立ってじっと待つ。
とにかく目立ちたくないおれは、コートの襟を立てて黒いキャップを深めに被る。
車道側の信号機が赤に変わり、数秒後に歩行者用の信号も青に変わる。
それを見て、瞬時に歩き出そうとしたおれの、すぐ目の前にいた老婦人の持っていた手提げが足元に落ちて、無意識に拾って渡したあと、彼女は丁寧に礼を言って歩き出す。
それを何とはなく見送って、またおれが歩き出そうとした時、不意に後ろから ドン! と激しい衝撃を受けておれはよろめく。
よろめいたはずみで、すぐ横にあった信号機の支柱に、おれは額の左側を嫌というほど打ち付けた。
( ……!?)
一瞬何が起こったのかわからなかった。
瞼に星が散るとはまさにそのことで、チカチカとした光の束を見たあと、おれは支柱に片手をついたまま…顔を上げることもできなかった。
「くぅ~!」
痛みに呻くおれの直ぐ側で誰かの声がする。
「AH…S、Sorry…!」
たどたどしい英語で話しかけてきた相手の方を、おれは振り返って見た。
その時のおれは、相手の顔を確認する余裕などなかった。
かなり痛かったのと、不意打ちを食らったことで、それまでのおれの中に溜まっていたイライラが爆発する。
「あ~、痛ってぇ~なもう! どこ見て歩いてんだよ!馬鹿…!」
とっさに無意識で飛び出したのは日本語だった。
自分でも驚いたが、相手もびっくりしたように大きな目を開けておれの顔をガン見してくる。
そこにはシンプルだけど、清潔感のある装いの女の子が居て、最初はびっくりした表情をしていたが、おれの言葉を聞いたとたんに態度が豹変する。
「はぁ~!? あんたこそ、信号変わってんのに、いつまでもそこに突っ立ってるのが悪いんでしょうが!? 邪魔だっつうの!」
「ぶつかって来たのはそっちだろ…! あ~! これ、イタリア製の特注品で3000$(ドル)はするンだけど…」
彼女のまん丸い瞳が半眼になったかと思えば、とがった唇から次々に発せられる辛辣な言葉に、おれもついつい言い返す。
別にサングラスなんてどうでもよかった。
自分で選んだわけでもないし、代わりはいくらでもあるのに…。
何でだろうな…? 目の前の彼女を改めて上から下まで冷静な目で見つめる。
身長は女の子にしては高い方だろう…。
こじんまりとして、どちらかといえば清楚な感じの整った綺麗な顔立ちだが、まっすぐな眉とキッと引き結ばれた唇は、ずいぶんと気の強そうだ。
全体に細身な印象だけど、両足を踏ん張りながら両腕を組んで、おれを下から睨みつける様子はなかなか…。
今までこんな風におれを意識せずに真っすぐ相対してくる女の子にナンシー以外会ったことなかったおれは、その時なんか不思議な気持ちで彼女のことを見ていた。
しばらくバチバチ無言でやり合っていたおれたちの様子を行き交う人たちがちらちらと興味深げに覗いていく。
またしても人目を引いてしまっていたことにヤバいな…と感じ始めていた時、目の前の彼女が急に大声を上げた。
「うわぁ~! 大変だぁ!!」
急に焦りだす方向を見れば、彼女のものだろうと思われる楽器のケースが近くの植え込みの中にある。
(この大きさはチェロだな…?)
そう思いながら黙って様子を伺っていると、彼女はケースを慌てて引っ張り出して中身を確認している。
どうやら衝撃で弦を張っているペグが緩んでいるらしい。切れているわけでもないし、この程度なら簡単に直るはずなのに…。
彼女は困ったように躊躇していた。
他人の楽器がどうなろうとおれには関係ないと、そのまま見過ごそうとしたのだが…。
一応音楽家の端くれとしては、この程度のアクシデントなど、どうということはないのだが…。
最初は傍観していたものの…見ていたらだんだんイライラしてきた。
「自分の楽器も丁寧に扱えないなんて、音楽やる資格ないな…」
「ちょっと、あんた、何よ…!」
「なんだ、ペグが緩んでるだけじゃん、さっさと自分で直せば…?」
「わかってるわよ…! うるさいわね…!」
瞬時に彼女は言い返してくるが、彼女の楽器を見ればそれなりに大事に手入れされているのが分かる。
プロの音楽家なら自分で出来るはずだから、案外アマチュアレベルなのかもしれないが…。
そんなことを思いながら、無意識に手が出ていたのには、自分でも呆れた。
「あんた、ホントにプロのチェリスト? どう見ても学生には見えないけど? 自分の相棒もチューンナップ出来ないプロなんて初めて見た」
おれの言葉に彼女はまたムッとしたように唇をとがらせたが、それよりもおれは足元に落ちていたものに気を取られていた。
(こ…これは、『幻夢』…!?)
驚いた…。おれの足元にあったのは一枚の譜面で、そのタイトルは、おれが12の時に書いた自分の曲だったから…。
「これ、あんたの…?」
とっさに言葉が出ていた。
一目見ればすぐわかる。明らかに原曲とは違う、誰かの手が加えられたものだ。
「え…? ああ、それは…」
明らかに歯切れの悪い答えに、おれは彼女の顔をじっと見る。
「返してよ…!」
「教えてくれたら返す」
慌ててその譜面を取り戻そうと伸ばした彼女の手をおれはわざと交わす。
「私のだけど…だから、返して…!」
「このアレンジは誰が…? まさか、あんたじゃないよな?」
「違うよ、あたしじゃない、それは…」
言い淀む様子にイラついたおれの口調は、ついつい皮肉っぽくなる。
「へぇ~? これをアレクシアが知ったら驚くだろうな? 」
「このアレンジは私的なものだから、営利の絡む演奏会で使うことはないわ」
「どうしてそう言える?」
「一般的なコンサートホールで演奏したことは一度もないの。今日だってこれから…」
そこで彼女は何かを思い出したのか、言葉を切る。
彼女の視線をたどれば、おれたち二人を遠巻きに見つめながら何かを囁き合っている人の群れに気が付いた。
(はぁ~勘弁しろよ…)
おれは心の中で盛大にため息を吐く。
どこへ行っても、注目を集めてしまう…そんな自分の容姿に今は嫌悪感しかなかった。
「はぁ~。どうでもいいけど…これは個人的なものだって言ったな。このアレンジした人物はどこに居んの? 」
オリジナルの作者としては、偶然見つけた“偽物”をほうっておくわけにはいかない。
さらに食いつくおれの言葉に、困ったように眉を寄せた彼女は、不意に話題を変えてきた。
「ねえ、あんたなんか楽器とか詳しそうだけど、ピアノとか弾けないの?」
「はあ? まあ、少しなら…」
ちょっと面食らったおれは、反応が遅れてしまう。
彼女は素早く周りに散らばっている譜面をかき集めると、サッと片手を上げてちょうどやって来たタクシーを止める。
「一緒に来て!どうせ暇でしょ? こんなところに突っ立っていたンだから、ほら一緒に乗って…!」
彼女の動向をボーっと見るともなしに見ていたおれは、いきなり片手を掴まれて、そのタクシーの後部座席に押し込まれる。
(えぇ~!! ちょっと、待て…! )
新手の拉致か…!?
おれは内心かなり焦っていた。10代の頃から何度か誘拐未遂を経験している身としては、冷静ではいられないが…。
隣に座っているその張本人の女性は、あっけらかんとした様子で、これから行くのは都内の児童養護施設で、そこの園長先生のためにこれから個人的なミニコンサートを開くのだと語った。
誘拐を企てる人間がこれほど、呑気でいられるはずがない。
単なる物怖じしない性格なのか、ともかくその勢いに負けた感じは否めない。
実際にははじめ先生との待ち合わせにはまだ時間の余裕もあるし、その時のおれは、なぜか目の前で熱く語る彼女から目を離せなかった。
うぬぼれるわけじゃないけど、今まで自分を目の前にして、こうも平然としていられる相手をおれは知らない…。
異性同性にかかわらず、常に意識され、特別視されることにそれまで不快感しかなかったおれは、目の前の相手に清々しいまでの印象を抱いた。
そしてそれは目的地であるその施設に到着して、さらに納得させられることになる。
こじんまりした古い木造の建物の前で、子供たちの手を引きながらたたずむ老婦人の穏やかで、優し気な笑顔を見て、
ああ…彼女の言葉に嘘はないな…と納得したのだった。
あの『幻夢』の譜面も、彼女が言う通り個人的な演奏でしか使われていないと納得できるほど…なぜかその時のおれは無条件にそう思えたンだ。
僕の後悔 (はじめの気持ち) 2
それからの小夜子の口からは、ユージンの名前をよく聞くようになった。
もちろん、その頃の僕は、N響(Nオーケストラ)の若手チェロ奏者のひとりとして活動し始めたばかりだったし、小夜子も横浜のシティオーケストラに所属していて、お互いそれほど自由な時間はなかったんだけど…。
「ユージンは今超売れっ子で、忙しいはずなのにどんな時でも必ず毎日メールをくれるの…」
嬉しそうにそう言って微笑む小夜子の顔を見るたびに、僕の胸はギュっと締め付けられるように痛む。
僕もこの数か月はリハーサル等々で本当はかなり忙しい。
今日は小夜子の方から誘ってきて、横浜のビル街の一角にある最近若者に有名なイタリアンに来ていたけど、この自由時間のかわりに、きっと明日は一日中スタジオに缶詰だな…。
本当は断るべきなんだ。僕はユージンの代わりじゃない…。
判っているのに言葉に出来ない僕は、やっぱり弱いんだな。
それからも何事もなく時間は流れる。
だけど…そんな中で変化は突然に訪れた。
僕のニューヨーク・フィル(フィルハーモニー交響楽団)への移籍が決まったんだ。
実は前に、ダメもとで移籍を打診していた。
以前お世話になった恩師が向こうに居て、海外で活動してみたいと言っていたのは、もう何年も前のことだったのに…。
今頃…?
でも今の僕にとってはまるで救いの船にも感じられた。
そう…僕は、今の状況(ユージンと小夜子の共通の友人という立場)から逃げ出したかったんだ。
この半年の間にユージンと小夜子の関係はさらに深くなって、二人は恋人同士になっていた。
世界中にファンのいるユージンは文字通り世界中を飛び回り、忙しい合間をぬって何度も極秘で日本を訪れている。
もちろん小夜子に会うために…。
そのたびに煩いマスコミをかわすため、僕は協力してきたけど…。
正直辛い…。 逃げ出したかった。 小夜子の笑顔を見るためとはいえ、二人の間に立って連絡を取り合ったり、フォローするのは友人としては当然の姿なのかもしれないけど…。
そして…僕はニューヨークに逃げた。
正式には移籍で…。
ユージンは移籍を喜んでくれた。音楽家としては栄転ということだから。
そして、僕にこう言ったんだ。
“今まで、自分たちのことにまきこんでしまって申し訳なかったと…。”
そうユージンは良いやつなんだ。だから、これからも友人でいることは止められない。
そのとなりに小夜子の姿を見ることになっても…。
最初移籍のことを告げた時、小夜子は少し寂し気に微笑んで俯いた。
「あなたも遠くに行ってしまうのね…? 」
片方の頬から伝うひとすじの涙を見た時、僕の胸はザワザワとしたけれど、ぐっとその想いを抑え込んだ。
「ごめん、ずっと見守ってあげられなくて…」
「いいの…。はじめ君はずっとそばにいてくれた。私が甘えすぎていただけ…これからは自分で何とかしなければいけないの。だから、はじめ君はこれからは自分のことだけを考えて頑張って…」
涙を拭いて微笑む小夜子の顔から、しばらく僕は目を離すことが出来なかった。
それからの数年―。
僕たちの間に起ったことー。
特に小夜子に関しては、もう僕には後悔しかない…。
小夜子からは僕がニューヨークに居た4年の間、2回だけ手紙が届いただけだった。
それも最初の1年の間に…。
手紙の始まりはいつも、
“ 体調は大丈夫…? ちゃんとご飯は食べてる?” そして…。
“ 終わりは、“ わたしは今、しあわせです ”
そう締めくくられていた。
もちろん、僕を心配させないためにそう書いているのだと、心のどこかで分かっていた。
ユージンからは、お互いの家族から結婚を反対されていると聞いていたから…。
( だからって、ニューヨークにいる僕に何が出来るっていうんだ…? )
それからの2年間、小夜子からの連絡がないことを言い訳に、僕は彼女の状況を確かめもしなかったことを、一生後悔することになってしまった。
せめてあの時、たとえ1週間でも時間をとって、彼女に会いに行っていたら…小夜子が命を落とすことはなかったかもしれない…。
その前に、僕がニューヨークに行かずに小夜子の側でユージンとのことをもっとフォロー出来ていれば、もっと違う未来があったのでは…?
繰り返し何度でも浮かんでくる想いに僕は苦しめられた。
はぁ~! 本当に今の僕には後悔しかない。
あの時からずいぶんと時が流れて…僕の音楽人生も終盤に差し掛かっている。
今の僕に出来ること…。
もうすぐこの東京に “あの子” が帰ってくる。
小夜子とユージンの息子。
( わかっているよ。小夜子。君がユージンに内緒にしてまであの子を生んだのは、彼の名声を汚したくなかったからだろう…? でも酷過ぎるよ。僕にだけは話して欲しかった。
君の望みは、彼を…あの子を、ユージンを超える音楽家に育てることだったの…?
そのためにユージンは…。
いや…そのユージンも、もういないんだ…。あっちの世界で、君たちは会えたのかい? )
ユージン…小夜子。
あの子のことは僕にまかせてほしい…。
ユージンの息子…ユーり・アレクシアン・レオン。
それはウィーンに渡ってからの彼の名前だ。
小夜子が付けた名前は “碧(あお)”だ。
碧くん。君をもう一度音楽の舞台に立たせることが、今の僕に出来る唯一の贖罪だと信じて…。
僕はここで君を待っている…。
第1章 1 出会いは衝撃的ー。祥子side
余裕をもって出かけるつもりが、気が付けばぎりぎりになってしまったわたしは、慌ててシンフォニーを飛び出した。
片手には譜面の入ったバッグ。右肩には愛器のチェロケースをかけて駅までの道を急ぐ。
本当なら途中で友人の理子と待ち合わせをするつもりだったけど、その理子には1時間前に予定をキャンセルされたばかりだし…。
(あ~あ、ひとりなら旋律変えなきゃなぁ~。)
そんなことをブツブツ言いながら、何本か電車を乗り継いで目的地に近い最寄り駅まであと乗り継ぎが1本といいところで、出口を間違えたことに気づいた。
「あ~、もう! 何でよ!」
毎度のことながら自分のうかつさには腹が立つ!
今まで何度も通った道なのに、2回に1回は出口を間違えて、8車線はある大通りの向こう側にある地下鉄の入り口まで走る羽目になるのだ。
どうせならもう一度戻って、そこからやり直せば…? と思うところだけれど、この荷物を抱えてまた人通りの多い階段を降りる気にはどうしてもならない。
それなら少し離れた横断歩道を渡った方が早道と思い立ったわたしは、ちょうどその歩行者用の信号が青になったタイミングで走り出した。
横断歩道まであともう少し…というところで青信号が点滅を始める。
焦ったわたしは、前をよく見ずに横断歩道に突っ込もうとした瞬間、目の前にそびえたつ“何か”に頭からぶつかった。
ゴン…!
激しい衝撃音とともに、ガチャン…! と何かが吹き飛ぶ音がして、わたしも目の前が真っ暗になったと思ったら瞼の裏にチカチカと星が散っている。
(う~! 痛い…! 何が起こってるんだ?)
自分でもわけがわからないまま…頭とお尻の痛みに唸っていると、すぐ側から聞こえた別の声に思わず頭を上げる。
「クゥ~…!」
見ればしりもちをついた自分のすぐそばで、信号機の支柱に片手をついた状態で、唸り声を上げている一人の男性の姿が…。
もう片の手は頭に添えられていて、頭を打ったのか痛そうに俯いたまま、その場にたたずんでいた。
一瞬何が起こったのかわからずに呆然としていたわたしは、やっと横断歩道の手前でその男性とぶつかってしまったことを悟った。
「あ、あの…!!」
何か声をかけなければ、と慌てて口を開きかけた時、不意にその人物が振り向く。
その顔を見た瞬間、わたしの息が止まった。
(ウっ…! 何? この人…!?)
長い前髪の間からこちらを覗き見る目の目力が半端ない…! おまけに綺麗なアーモンド形の二重の周りには女子顔負けの長いまつげが…。
いや、まつげだけじゃない…! 完璧な形の鼻に女の子みたいに柔らかそうなちょっと薄めの唇は超絶色っぽい…。
こんな美形はテレビの中くらいでしか見たことないなぁ~なんて数秒無言で見つめてしまった。
おまけに相手が瞬きをした瞬間、彼の瞳が深い青色から碧色に変わるのを見ると、心臓がドクンと跳ねる。
あ…外国人かも…?
そう思ったわたしの口から出たのはなんとも変なイントネーションの英語だった。
「AH…S、Sorry…!」
「……!?」
次の瞬間、相手は無言で目を見開く。
「あ~、痛ってぇ~なもう! どこ見て歩いてんだよ!馬鹿…!」
そのあと普通に日本語で怒鳴られたわたしは、思わず呆気にとられる。
「はぁ~!? あんたこそ、信号変わってんのに、いつまでもそこに突っ立ってるのが悪いんでしょ!? 邪魔だっつうの!」
「ぶつかって来たのはそっちだろうが…! あ~! これ、イタリア製の特注品で3000$(ドル)はするんだけど…」
そいつは足元に転がっているフレームの歪んだサングラスを拾い上げて、わたしの鼻先に突き付けてきた。
(えっ…! マジ!? 3000$って…はぁ? 45万…!?)
そいつはこうして正面に立つと、見上げるほど背が高い。私だって167,8はあるんだからそれより10センチ以上高いってことか…。
っていうか、45万!?
そいつは現実離れした見かけとは全く違って、態度も口も最低なやつで。
気が付けば、目の前の歩行者用信号機は、それから何度目かの青信号に変わったところだった。
行きかう人々も、横断歩道の手前で声高にやり合っている私たちを、興味深そうにちらちら横目で見ていく。
やつは文字通り上から目線で、不機嫌そうにこっちを睨みつけてくるし、とりあえずは落ち着こうと、あたりを見回したところで、大切な相棒であるチェロのケースが、道路横の植え込みの中に突っ込んでいるのに気が付いた。
「うわぁ~! 大変だぁ!!」
思わず駆け寄って、植え込みの中からケースを救出すると、中身の無事を確認するべくその場でロックを外してケースの蓋を開けてみた。
チェロは弦楽器の中でも大型の方だ。当然収納ケースも大きく作られていて、多少の衝撃には耐えられるようにはなっているけれど…。
わたしは恐る恐る自分の愛器の状態を確認する。
(良かった…。)
傷はないことを確認して、ほっと一息ついたものの、4本ある弦のうち数本のペグ(弦の糸巻き)が緩んでいることに気が付いた。
普段から忙しい田崎さんが時間を作って調整してくれたのに…。
こんな不注意で台無しにしてしまったことが悔しい…。
さっきまであんなに憤っていたことなんかすっかり忘れて、目の前のことに意気消沈していたわたしは、すぐ隣から発せられた絶対零度の一言で我に返る。
「自分の楽器も丁寧に扱えないなんて、音楽やる資格ないな…」
さっきの超口の悪い超絶美形が、冷たい目をしてこちらを見下ろしている。
(はぁ!? 何よ! いちいち腹立つやつ…!!)
「ちょっと、あんた、何よ…!」
私が食って掛かると、そいつはひょいと片手でチェロのヘッドの部分を持ち上げる。
「なんだ、ペグが緩んでるだけじゃん、さっさと自分で直せば…?」
「わかってるわよ…! うるさいわね…!」
そういいながらでもわたしの手は動かない。そうこう見えてわたしは超が付くほどの不器用で…大体の調弦は出来るけど、肝心のところで完璧といえるほどの自信がない。
これは聡にもずいぶん笑われたんだけど…。
こんなところで他人にまで馬鹿にされるなんて…。まあ、いいか…。いまさら戻る時間もないし、とりあえずは先に園に行ってから調整しよう…。
そう思っていたところで、いきなりまた別の手が出てきたと思ったら、きれいな長い指がするすると動いて、あっという間にチェロのペグは元の位置に戻っていく。
唖然とするわたしの目の前で、そいつはまた何でもないように平然として言った。
「あんた、ホントにプロのチェリスト? どう見ても学生には見えないけど? 自分の相棒もチューンナップ出来ないプロなんて初めて見た」
(はあ? あたしプロ何て一言もいってないンだけど…!?)
その時、内心かなり怒りまくっていたわたしは、行きかう人たちからかなりの注目を集めていたことに気が付かなかった。
ふと目を上げると、近くで足を止めてそいつのことを、じっと見つめながら何やら囁き合っている二人組の大学生らしい女の子がいた。
その子たちだけじゃなく、10人中8人までが、ハッとしたように振り返って二度見していくのだ。
そりゃ、これだけの美形で尋常じゃないオーラを放っていれば、誰だって振り返るか…?
「これ、あんたの…?」
そいつがいきなり目の前に一枚の譜面を差し出してきた。
わたしが慌てて取り戻そうとすると、さっと引かれて思わず相手を睨みつける。
「返してよ…!」
「教えてくれたら返す」
わざと手の届かないところに構えながら、そいつは人間離れした綺麗に整った目に意地悪そうな眼差しを浮かべて見下ろしている。
そいつが持っているのはあの『幻夢』の譜面だ。それもアレンジ済みのやつ。
「私のだけど…だから、返して…!」
「このアレンジは誰が…? まさか、あんたじゃないよな?」
「違うよ、あたしじゃない、それは…」
『幻夢』の譜面は一般的にはオリジナルのみで、アレンジは公表されていない。本来ならオリジナルの勝手な変更は認められていないからだ。
ただこれは私的な演奏で、個人的なものだったから今までは誰にも知られなかったけど…。
「へぇ~? これをアレクシアが知ったら驚くだろうな? 」
「このアレンジは私的なものだから、営利の絡む演奏会で使うことはないわ」
「どうしてそう言える?」
「一般的なコンサートホールで演奏したことは一度もないの。今日だってこれから…」
そう言いかけてわたしは口をつぐむ。
(何で初めて会ったこんな態度の悪いやつにいちいち説明しなきゃならないンだろ…。おまけにこんなに注目されてヤダ…! もう面倒くさいな…)
「はぁ~。どうでもいいけど…個人的なものだって言ったな。このアレンジした人物はどこに居んの? 」
周りが騒ぎ始めているのに気が付いているはずなのに、なぜかやつは譜面のことだけ妙に気になるみたいで、ずいぶんと食いつき気味に聞いてくるけど、答えられるわけがなかった。
だって、これを書いたのは聡だもの…。聡が…わたしのために書いてくれたもの。
その聡は…もういないから…。
「ねえ、あんたなんか楽器とか詳しそうだけど、ピアノとか弾けないの?」
気まずさと早くその場を収めたくて、急いで散らばった譜面を拾い集めながら、側に立って尚も仁王立ちしているそいつに話しかけた。
大して深く考えもせず行動をしてしまうところは、いつも理子や聡に諫められることも多いけど、もう性分だからいまさら治らないと思う。
「はあ? まあ、少しなら…」
そいつは戸惑い気味に答える。
その顔には何で…? と書いてある。
ああそう、その時のわたしは何かこいつをそのまま返しちゃいけないような気がしたンだ。
どうしてだろう…? 深く考えることもなく、そう感じたままにわたしは動いていた。
ちょうど目の前にやって来たタクシーに手をあげて止めると、先に開いたトランクルームに自分の荷物を積み込む。
「一緒に来て!どうせ暇でしょ? こんなところに突っ立っていたンだから、ほら一緒に乗って…!」
それはもう有無を言わせない勢いだったと思う。本当にどうしてなのか、わからないんだけど…。本当にそうしなくちゃって、その時に想ったンだ…。
3 シンパシー(共鳴)1 SIDE 祥子
タクシーは少し人通りの少ない裏通りを進んでいくと、やがて住宅街の外れにある古ぼけた木造の建物の側で止まる。
建物をぐるりと取り囲むように桜の木が植わっており、少し膨らんだつぼみは、もうすぐそこまで来ている春の訪れを告げていた。
「着いたわよ、降りて」
先にタクシーを降りたわたしは、トランクからチェロを下ろして肩に掛ける。
いつもの癖でつい暴走してしまったことを十分わかっているから、タクシーの中でもいつも以上に饒舌になって語ってしまったけど…。
無理やりに連れてきてしまったことを、“彼”は怒るでもなく、なぜか黙って聞いていた。
(ああ、もう…こうなったら、どうとでもなれよ…!)
照れ隠しもあって、わたしはタクシーをさっさと降りて、建物の方へと歩いていく。
少し歩いて振り返れば、彼もゆっくりと降りてあたりを見回している。
(はあ、先生に何て言おうかな…)
勢いとはいえ、見ず知らずの人間を一緒に連れて来てしまったことを、先生に何と伝えようかとあれこれ考えていたのに、二葉園の玄関前に立っている愛子先生の姿を見た瞬間、そんな想いはすっかりどこかに飛んで行ってしまう。
「まあ、久しぶりね。祥子ちゃん。3か月振りかしら…?」
愛子先生は両脇にいる小さな子供たちの手を引きながらにこやかに迎えてくれる。
「はい、来週は先生のお誕生日でしょう? 今年も先生に私のチェロを聞いてもらおうと思って」
「ありがとう。聡君が居なくなってもう5年も経つのに、今もこうしてここを訪れてくれて、本当にありがとう」
先生はうっすらと目に涙と浮かべていた。
そう、わたしは恋人の聡を亡くした後も、こうして時々この園を、愛子先生に会うために訪れているのだ。
ここに来れば聡とずっと繋がっていられると思っていたから…。
「あら? 今日はひとりじゃないのね? 」
先生は少し離れた場所に立っている彼の姿に気が付いて、不思議そうにこちらを見る。
「あ…え、と…彼は…」
先生に彼を紹介しようとして思わず口ごもる。
そこでわたしはハッとして気が付いた。
あそこで出会ってここまで引っ張って来たものの、彼の名前すら聞いていなかったことに。
「碧(あお)です。倉木 碧(くらき あお)と言います」
その時彼が自分の名前を名乗った。
わたしはびっくりして、彼の方をじっと見つめる。
さっきまで無表情であまり感情を表に出さなかった彼は、今愛子先生ににっこりと微笑んでいる。
( …… !?)
超絶美形で、まるで人形のように整った顔から発せられる微笑みのオーラの威力は絶大だ。
もう70代に上がっている愛子先生ですらうっすらほほを染めているのだから。
「お兄ちゃん、イケメンだね? 祥子姉ちゃんの彼氏なの?」
そこで先生の横から数人の小学校低学年くらいの子供たちが飛び出してきて、あっという間に彼の周りを取り囲んだ。
「な…!?」
私が絶句していると、子供たちは無邪気に笑いながら、碧と名乗った彼を興味深々でキラキラした瞳を輝かせながら見上げている。
「ねえ、ねえ、早く入ってよ。こっち、こっち…!」
そして子供たちは楽しげに碧の両手を取って、建物の中へと引っ張っていく。
碧も驚きながら、彼らに手を引かれるままに中へと入っていった。
「ああ、びっくりしたわ。あんなに綺麗な人は初めて見たわよ。」
碧と子供たちの後姿を目で追いながら、はにかんだ様に愛子先生は笑う。
「本当に彼氏じゃないの?」
悪戯っぽく微笑む愛子先生に、わたしは全力で首を横に振る。
「違う!違う! 今日のサポートを理子の代わりに頼んだだけだから…」
嘘は言ってないと思う。さすがにさっき出会ったばかりで、名前も知らなかったなんて、とてもじゃないけど言えないかな…。
心の中で苦笑しながら、わたしも愛子先生の後ろについて建物の中に入っていった。
ここに来たのは3か月ぶりだった。
前回着たのはクリスマスの頃だったなぁ…と思い出しながら、玄関に置かれていたスリッパを取って履く。
ここはもともと民家をリフォームした施設で、愛子先生が亡くなったご主人と一緒に30年前に、それまで暮らしていた自宅を施設として改造して始めたものだったのだ。
木造の廊下はところどころ歩くと少しきしんだ音がする。
傷んだ所を修理したいんだけど、費用がねぇ…と先生は困ったように寂しげに笑った。
この30年間支援してくれる人は無いこともなかったが、それも微々たるものだ。
この施設育ちだった聡は、自分が有名になってこの施設の、一番の支援者になるんだとずっと言っていたのに…。
ねえ、聡。わたしじゃあんたの代わりにはなれないよ…。
わたしが愛子先生と、ピアノの置かれている小さな講堂に入っていくと、目の前の光景に思わず足が止まる。
子供たちに囲まれてピアノの前に座った彼、“碧”は、最初少し戸惑ったようにピアノの白い鍵盤を眺めていたけれど…ポロン…。
触れた指先から最初の一音が紡ぎ出される。
不思議だった…。
彼の形のいい指先が撫でるように鍵盤の上を動く…。
ピアノから発せられる一音、一音を確かめているようだ。
そこから目を離せずに…いつの間に側にやって来た子供たちに声を掛けられるまで、わたしは吸い寄せられるように、その姿に見入っていたのだ。
「祥子姉ちゃん、座りなよ」
ひとりの男の子が用意されていた椅子を側に引き寄せてくれる。
「ありがとう、信ちゃん」
そう言ってわたしはその椅子に腰を下ろす。
わたしが席に着くと、子供たちは少し離れた先に並べられている椅子に愛子先生を真ん中にして座って、期待を込めた眼差しをこちらに向けてきた。
正直こんなにわかメンバーで、大した演奏は出来ないと最初から諦めている。
確かに私のチェロに触れるあの手つきは、慣れたプロのように感じられたけど…本当にそう…?
ケースからチェロを取り出して、セッティングをする間、碧は時々首を傾げながら…微妙な音のずれを確かめていた。
するとある音をポン!と弾き出す。
「音合わせて…。どう? 間違ってないだろ…?」
碧の言葉にわたしはハッとして…チェロのある一弦を弾く。
さっき街角で、彼が調弦したチェロは寸分違わぬ正確さで音を紡いでいく。
(う…うそ…。何者? こいつ…)
どう見ても私より大分年下で、超絶美形の…整い過ぎて冷たく感じるほどの横顔に見とれてしまう…。
「それで、譜面は?」
「あ、ああ…これ…」
そっけない声に我に返ったわたしは、とっさにいくつかの譜面を渡した。
今日のパートナーはもともと理子の予定だったから、そんなに難しい譜面は用意してなかったけれど…。
もともとあの『幻夢』だって、わたしがソロで弾くつもりで持ってきたものだ。
誰かと組んで演奏するつもりはなかったのだ。
それにあれは何年も前に、聡が私と二人で演奏するために書いたものだ。
彼以外の誰かと演奏するつもりなんて、そもそも考えていなかったのだから…。
「はあ…? これ…ね?」
碧は『幻夢』の譜面を見て、何とも言えない微妙な表情をする。
(あんた、もしかして、アレクシアのファンなの…? あからさまに嫌な顔してる…。
ふん、そんなに嫌なら見てなさい…)
その時のわたしは、何だかイラっとして、目の前の彼に対して不意に意地悪をしたくなった。
「かるーく、ウォーミングアップとして、このお兄ちゃんに何か弾いてもらいましょう…!」
わたしはにっこり笑って、目の前の可愛い観客たちにそう言った。
子供たちは大喜びで目を輝かせて喜んでいるが、碧は驚いたように大きく目を見開くと、困ったように目の前の鍵盤を見つめている。
(どうよ…? あんたの実力見せてもらおうじゃないの…)
心の中でほくそ笑む私をよそに、碧は最初こそ戸惑いながら、恐る恐るピアノの鍵盤に指を走らせた後、一呼吸大きく息を吸い込むと、意を決したように弾き始めた。
最初は…小学生ならだれでもよく知っている『キラキラ星』。
曲名が分かると子供たちは大喜び。
愛子先生も嬉しそうに手を叩いて喜んでいる。
(うん、ここまでは想定内。そんなもんだよねぇ…)
ふん、ふん、と内心で頷きながら聞き耳を立てていると、明らかに旋律は少しずつ変わっていった。
最初は子供たちにもなじみのある曲を…と彼なりに気遣った結果の選曲だったのだと思う。
だけど、それが少しずつ微妙なテクニックなのか、感性なのか…最終的には全く別の曲に変化していくのだから恐ろしい。
(はぁ~!? あんた何者なのよ…!?)
あたしをはじめ、聞いている先生や子供たちも、もうキョトンっとして聞き入っていた。
意識しているのか、してないのか、碧はそれからまた2曲を一気に弾き終えて、鍵盤から手を下ろした。
「……」
しーん…。
誰も言葉を発せず、いや発することが出来なくて…。
いつもは騒がしいこの遊戯室が、シン…と静まり返っていた。
音楽的に無知な子供たちでさえ、この演奏が唯々素晴らしく…目の前の青年が只者でない雰囲気はわかる。
当の演奏者である彼も、呆然として膝に乗せた自分の手を見つめている。
その緊張した雰囲気を破ったのは、満面の笑顔を浮かべて拍手している愛子先生と、子供たちの歓声だった。
「すご~い、お兄ちゃん、本当のピアノ弾くひとみたい…!」
「ほんとね、素晴らしいわ…!」
その声に我に返った碧は、少し眉間にしわを寄せた不機嫌そうな顔で私の方を振り返った。
「あんたの方で、適当に弾いて貰えば、おれの方で合わせるから…」
「え、ええ…わかったわ」
わたしはその言葉に反応する
何故かはわからないけれど…きっとさっきの彼の演奏を聞いてしまったからなのかもしれないけれど…。
その時の音楽家(?)としてのわたしは、不思議と素直になれたのだ…。
最初に私が選んだ曲は、サンサーンスの『白鳥』
言わずと知れた名曲だけれど、もともと今日の選曲はにわかピアニストの理子をメインに考えたプログラムであって、こんなシチュエーションは想定してない。
少し戸惑いながら、私がゆっくりとその旋律をチェロで奏で始めると、それに合わせるように碧のピアノが追いかける。
その滑らかなピアノの音につつまれるように心地よくなった私は、その場にいる愛子先生や子供たちの存在も、目の前にいる碧の存在も忘れて…いつしかひたすらチェロの音色を紡ぐことに夢中になった。
こんな風に演奏に没頭したのはいつぶりだろう…?
案外初めてなのかも…?
5年前…聡が居た頃でさえこんな風に感じていただろうか…?
そんな錯覚にさえ捕らわれてしまった自分に戸惑いながらも、その心地よさに次第にそんなことも忘れてしまった。
どうして…なんて考える余裕なんてないほど、その時の私はそれぞれの旋律が絡み合い紡ぎ出すシンパシー(共鳴)に溺れたのだった。
。
頭で考えるよりも心で感じたままに動く、自分の指先から紡ぎ出される音を、魂が震えるほど心地よいその感覚を…。
その心地よさがずっと続けばいいのに…。
相手が誰かなんてどうでもいい…。
気が付けばわたしと碧は、用意していた譜面をはるかに超えた長い時間、演奏を続けていた。
きっと碧も同じ感覚だったのではないかと思う。
お互いがお互いの音にのめり込んで解け合うような…そんな不思議な感覚だった。
だから、演奏が終わったことも自分たちにはわからなくて…。
先生や子供たちの大歓声で、やっと現実に戻ったのだ。
「すごい! すごいよ! 祥子姉ちゃん! 」
子供たちはそう口々に叫びながら、こちらに駆け寄ってくる。
愛子先生は両目に涙を浮かべながら、泣き笑いではにかんだ様に頬を赤らめていた。
わたしはそれでもまだ現実に戻れなくて、ちらりと碧の方を見た。
碧は信じられないというように自分の手とピアノの鍵盤を交互に見つめている。
それからハッとしたように私の方を振り返って、碧と私はしばらく見つめ合った。
碧の驚いたような表情と何か言いたげに口元が動くのを見て、碧も私と同じように何かを感じていたのだと悟る。
結局それは言葉にならなくて、わたしたちはただ黙ってお互いの心の内を探るように見つめている。
(……)
その想いを言葉には出来ないもどかしさに私は唇をかむ。
ふわふわした高揚感はずっと続いていて…なんだろう?
まるで心地よい夢の中に漂っているみたい…。
もしかしてだけど、碧も私と同じものを感じているのだろうか…?
さっきから、信じられないものを見るような眼をしてこちらを見つめている…。
(まさかね…? あの聡とでさえ感じられなかった”シンパシー“を、今日初めて会った碧と感じるなんて…)
その時の碧と私は、周りを取り囲む子供たちの歓声やはしゃぐ声の一切が耳に入らないくらい、呆然としていた。
ブー、ブー、ブー…!
突然近くから聞こえてきた携帯電話のバイブ音に、私はハッとして顔を上げる。
見れば、碧がジャケットのポケットからスマホを取り出して、耳に当てている。
「もし、もし…? ああ、先生…? えっ…!? わかりました。すぐ向かいます!」
そう言うと碧はすぐ慌てて立ち上がった。
「すみません、用事を思い出してしまって…。それじゃあ、おれはこれで…」
早口でそう告げた後、慌ただしく講堂を後にする。
私たちが何か言葉をかけようとするまもなく、居なくなった碧の後を数人の子供たちが追いかけたものの、駆け足で通りまで出たところで、ちょうど通りかかったタクシーに乗って行ってしまったとのことだった。
「まあ、まるでつむじ風のような人だったわね?」
それを聞いて、愛子先生が楽しそうに笑う。
その笑顔につられて、つい私も笑ってしまった。
(あ~きっと、このあと先生にはいろいろ聞かれるンだろうなぁ…。)
苦笑いともつかない笑みを浮かべながら、私はさっきの不思議な感覚を忘れないようにしっかりと心に刻み込んだ。
4 シンパシー(共鳴)2 SIDE 碧
はじめて出会った相手に、まるで誘拐のごとく、タクシーに押し込められた時は、正直焦った。
マジで新手の誘拐かと思ったけれど、『幻夢』の譜面を持った彼女のことが妙に気なる。
言葉にはしなかったが、アレンジされた幻夢(それ)は見事な仕上がりだった。
なんでこんなところで出会ったふつうのチェリストがこんな譜面を持っていたのか?
調弦も満足に出来ないような弾き手が、書いたとは思わないけれど…。
誰が書いたのか、それを知りたくて…わざと断れないふりをしてついていったものの…。
ミニコンサートをする先が、まさか古ぼけた施設だとは思わなかった。
それほど、あのアレンジされた『幻夢』の完成度がすばらしく…個人的とはいえ、それなりの場所での演奏なんだと、勝手に思い込んでいた…。
動揺するおれを子供たちは、ある古ぼけたピアノの前に連れて行った。
(えっ…?)
目の前の椅子に腰かけて、なんか反射的にピアノの蓋を開いた…。
この数か月、いや一年余り…おれはピアノの前にまともに座ったことがない…。
ユージンを失ってから、弦が切れたように…おれの心は全く何物にも反応しなくなってしまった。
機械的に演奏は出来るが、それは心のこもらない無機質なものになってしまった…。
ある意味、おれの中の何かが死んでしまったのだろう。
ユージンが生きていた頃はすべてが輝いて見えた。
彼が期待し、指し示す方向を疑いもせず、おれは求め続けた。
そして…。
そうして築き上げたおれの世界は、ユージンの死とともに崩壊した。
「お兄ちゃん。このピアノ古いけど、ちゃんと音が出るんだよ。聡兄ちゃんがとても大切にしていたからね」
ひとりの年長の少年が、自慢げに語る。
「うん…」
それを聞いて、おれはゆっくりとピアノの鍵盤に手を伸ばす。
ポン…!
一般的なコードを弾いてみる。確かに、見た目とは違って、音は確かのようだ。
それから、ひとつひとつ確かめるように鍵盤を弾いて、音のブレを確認していく。
(なるほど…。思ったほどのブレは無さそうだ)
そう思った時、なぜか不思議な感覚がわいてくる。
このピアノの音がそうさせるのか、ここ数か月…どんな楽器を手にしても感じることのなかった何か…?
「かるーく、ウォーミングアップとして、このお兄ちゃんに何か弾いてもらいましょう…!」
不意に傍らのチェロの彼女から声がかかる。
そういえば、さっき子供たちが彼女のことを「祥子姉ちゃん」と呼んでいたっけ…?
彼女の名前は祥子というのか?
そういえば互いの名前さえ、名乗ることはなかったな…と心の中で苦笑いする。
だけどその時のおれは、不思議と嫌だという感覚は無くて、無意識に反応していたんだ。
最初に引いた曲は『キラキラ星』 子供受けする曲で、その昔…僕の緊張をほぐすためにはじめ先生が、幼いおれを膝にのせてピアノで初めて弾いてくれた曲だった。
お世辞にもうまいとは言えなかったけれど…。
それを思い出しておれは少し楽しい気分になった。
それからは無心で…気が付けば思いつくままに数曲を弾き続けていた。
ハッとして手を置けば、その場にいるみんなの視線を浴びていることに気が付く。
( しまった。 ついつい本気になってしまった…!)
「すご~い、お兄ちゃん、本当のピアノ弾くひとみたい…!」
「ほんとね、素晴らしいわ…!」
周りの歓声に苦笑いするしかなかったが、祥子彼女だけは、不思議なものを見るようにじっとこちらを伺っていた。
(まさか、バレてないよな…?)
ヒヤリとした内心を誤魔化すように、おれは無表情を装う。
「あんたの方で、適当に弾いて貰えば、おれの方で合わせるから…」
おれがそう言うと祥子はわかったと言って、静かにチェロを構えると弾き始めた。
1曲目は、チェロをメインにしたサン・サーンスの名曲『白鳥』
穏やかで滑らかなチェロの調べで始まるメロディーを、追いかけるようにピアノの旋律が優しく絡み合っていくこの曲は、湖の中を優雅に泳ぐ白鳥をイメージしてできた曲だと言われている。
はじめこそ少し硬さがあったものの…次第に滑らかになった彼女のチェロは、不思議なハーモニーを醸し出していた。
技術的なものではない。技術だけなら、彼女より優れたチェリストならいくらでもいるだろう。
そうじゃなくて…何だろう…?
言葉には出来ない何か…?
その何かに引きずられるようにようにして、おれの中の奥深くにある何かが反応している。
今まで感じたことにない高揚感に、その時のおれは周りのすべてを忘れてしまうくらい溺れていたんだ…。
時間にすれば、恐らく30分くらい…?
すべてのセッションが終わった時、その心地よい余韻に酔ったまま…しばらくおれは現実に戻ることが出来なかった。
(どうして…? 何故…?)
呆然として、自分の手と白い鍵盤をながめていた。
無意識に顔を上げると、こちらをじっと見つめる祥子の視線とぶつかる。
( ……!? )
その彼女の表情にも (何で…?)
そんな感情が表れている。
ただその頬は上気して赤く染まり、彼女も自分と同じような感覚に浸っていたのだとわかった。
言葉にならない沈黙が数秒続いた時、不意におれのポケットのスマホがブルブルと震え出し、ハッとしたおれはすぐさま画面に現れた名前を見る。
(ヤバい、はじめ先生からだ…!)
スマホの刻まれた時計を見れば、もうすでに約束の時間は過ぎている。
焦ったおれはすぐさま通話ボタンを押していた。
「もし、もし…? ああ、先生…? えっ…!? わかりました。すぐ向かいます!」
先生の反応を待たずに、おれはそれだけを早口でしゃべると通話を終わらせ、ピアノを閉じて立ち上がる。
それからのおれの行動は早かった。
「すみません、用事を思い出してしまって…。それじゃあ、おれはこれで…」
早口でそう告げた後、慌ただしく講堂を後にする。
もう後ろを振り返る余裕などなかった。
大通りまでの道は一本で迷うことはない。
ちょうどやって来たタクシーに乗り込むと、すぐさま待ち合わせになっているホテルの名前を告げる。
タクシーが走り出すと、おれはホッとしてタクシーの後部座席の背もたれに上半身を
預けて大きく息を吐いた。
(本当にあれは何だったんだろう…?)
さっき感じたあの感覚はまだ胸の奥に確かに残っていて…それが一時のものなのか、それとも…この先何かのきっかけでまた起こり得るのか…?
でもおれには何となくわかっていることがあった。
今までユージン以外にこんな感覚を自分に与えてくれる相手はいなかったのだ。
まさか…あの祥子というチェリストがそうなのか…?
あの時感じた高揚感はユージン以上だった。
この日本の街角で会った名もないチェリストに感じた不思議なシンパシーを、その時のおれはどう受け止めたらよいのかわからなくて…心の中に大きな衝撃を受けていた。
30分後、タクシーは都内にある世界的に名の知れたAグランド・シティホテルのエントランスへと続く道路へと入っていく。
後部座席のドアが開くのを待って、おれは勢いよく外へ飛び出すと、中央の大きな自動ドアを目指す。
ドアの内側には、きちんとしたお仕着せに身を包んだドアボーイが丁寧なお辞儀とともにともに迎えてくれる。
「いらっしゃいませ…」
彼らの穏やかな笑顔に小さくうなずいて、おれは広いエントランスフロアーの向こうに広がる待合ロビーに目を向ける。
時間は午後6時半を回り、ホテルで待ち合わせをする人々、外で食事をしようと出かける外国人旅行者たちが多く集まっていた。
その中に先生はいるはずなんだけど…?
しばらくその人波の間に視線を泳がせていると、後方から声を掛けられる。
「碧君、こっちだよ?」
おれが振り返ると、記憶の中の穏やかな笑顔を浮かべたはじめ先生の姿があった。
若干記憶より小さく感じたのは、気のせいだろうか…?
「先生、遅れてすみません! ずいぶん待たせてしまいましたか…?」
おれは先生の側に駆け寄ると、差し出された片手を強く握る。
「いえ、いえ、そうでもないですよ。ナンシーから午後の早い便で到着したと聞いていたので、もしや道に迷っているんじゃないかと少し心配になっていたところでした」
そう言って笑う先生の目は少し下がりぎみになっている。
「ああ…まあ、ちょっとしたトラブルには巻き込まれましたが…」
「え…? そうなんですか?」
「あ…いえ、そんな心配すほどではなくて…」
おれは苦笑しながら、ポケットから少し歪んだサングラスを出して見せる。
「え…? 事故にでもあったんですか?」
「いえ、そうじゃなくて…」
目を丸くして驚いているはじめ先生に、なんて説明しようかと心の中であれこれ考えていると、先に口を開いたのは先生の方だった。
「まあ、久しぶりの日本で、君も戸惑うことも多いでしょうから…無事で会えたのは何よりです。僕は君が思い切ってくれてうれしいです」
涙もろい先生は、それだけでうっすらと瞼に涙を浮かべている。
前に先生に会ったのは、まだおれが12の時、ウィーンで開催された国際コンクールで優勝した年に、先生は忙しい公演の合間に会いに来てくれたのだ。
思えばあれからおれの華々しい音楽活動は始まったのだが…。
「碧君、まだチェックインもまだなのでは…? 実はこの上のレストランを予約しているんです。僕は先に上がって待っているので、君はチェックインを済ませて着替えてから来てください。ナンシーの話だと、君の荷物は別便ですでに届いているはずですから…」
「はい、わかりました」
先生の言葉で、おれはハッとして我に返った。
そうだ。おれは空港からまっすぐホテルに向かうはずだったのを、途中下車して街中を散策している途中で、彼女に出会ったのだ。
急いでチェックインの手続きをして、コンシェルジュに従って高層階専用のエレベーターに乗る。
コンシェルジュの説明によると、最上階のスィートは他の階の客室からは切り離されており、1階のフロント前の特別なエレベーターで直接上がれるようになっているようだ。
もちろんこの客室を使う客は、特別プライベートを重視する顧客のみということだ。
おれのように特質的に隠れた環境で過ごしたい者にとっては都合がいい。
いつもナンシーの配慮は全くと言っていいほど無駄がなかった。
コンシェルジュが専用のカードキーでドアを開けると、その先には広い20畳近いリビングルームに壁には巨大なスクリーンとゆったりしたソファー。
さらにテラス側に近い方はさらに一段高くなっており、十分すぎるほどのスペースには、一台のグランドピアノが置かれていた。
はぁ~…。
思わずため息が漏れる。以前だったらこのナンシーの配慮を“余計な事”ととらえていたに違いない。
けれど、昨日のあの感情の後では…。
不思議と…嫌ではない。
昨日まで、あれほど音楽に向き合うことを避けていたことが嘘のようだ。
そっとピアノに近づいて…指先で触れてみる。
さっき…ほんの数時間前まで、ピアノに触れるのは怖かった。
かつて…あれほど夢中になって追い求めていた音楽への情熱が、もう自分の中にかけらも残っていないことを再確認することが怖かったのだ。
なのに…今はどうだ…?
もっと触れていたい…。
そう思えるほど、心の奥底に何かが芽生えている…。
だがそこで、おれは目の前に広がる光景にハッと我に返る。
テラスに面した大きな窓からは、パノラマのようにきらめく都会の夜景が広がっていた。
ああ…先生が待っているんだった。
瞬時にそれを思い出したおれは、隣にあるドアを開けて広いベッドルームのさらに奥にあるドレッシングルームへと向かう。
壁一面に広がったクローゼットを開けると、ウィーンにある自室のクローゼットをそのまま映したような光景が広がっていた。
(はぁ~。ナンシーのやつ、みんな送ったのか…?)
おれは苦笑しながらその中から濃いグレーのスーツを取り出して着替える。
さすがに一流ホテルのレストランにジーンズにスニーカーはマズいだろう。
それこそこんなドレスコードも久しぶりかも…。
そんなことに苦笑しながらおれは部屋を出てまたエレベーターに向かった。
先生が待っているのは、ホテルの30階にある夜景が堪能できるフレンチレストランだ。
客席の半分はプライベートに配慮した個室になっていて、ここなら外部の人間を気にすることなく過ごせるだろう。
おれは受付で待っていたスタッフに案内されて、先生の待つ個室へと案内された。
「先生。待たせてしまってすみません」
おれはそう言って先生の向かいの席へと腰を下ろす。
はじめ先生は、手にしていた食前酒のワインをテーブルに置いて、笑顔でおれに話しかける。
「いえ、いえ、おかげでゆっくり綺麗な夜景を楽しむことが出来ましたよ。こんな風に誰かと過ごすのは久しぶりですから…」
子供の頃からはじめ先生は何かと心配してくれて、ウィーンにいるときも何度も電話をかけてくれたり、ユージンを亡くした後のおれのことを気にかけてくれていた。
先生自身も世界的な音楽家で、世界をめぐる演奏活動をしながら日本の大学で特任講師を勤めているのだと聞いていた。
その実先生のプライベートに関して、おれはほとんど何も知らない。
ただいまだ独身であること以外には…。
「日本に来るまでの機内では大変だったみたいですね…? ナンシーから聞きましたよ。来日の混乱はうまく避けられたみたいですが…?」
「はぁ~。」
おれが困ったような表情をすると、先生はちょっと悪戯っぽく笑う。
先生はおれが子供の頃から自身の容姿のことで散々な目に遭っていることは知っている。
そのことが原因で今だに素顔を公表していないことも…。
「ナンシーにも伝えたんですが、僕は君にはこの日本でもっと愉しんでほしいと思っているんです。今までの君の生き方は、あまりにもストイックすぎる。日本にいる君と同じ年齢の若者たちはもっと日常を楽しんでいます」
「そうですね…」
少し自嘲気味におれは笑うが、それが難しいことは自分が一番わかっている。
人に対して不器用なおれは、近づいてくる人間をうまくあしらうことが出来ない…。
適当に愛想を振りまいて、その場を上手く収めることが出来ないのだ…。
それなら最初から誰にも会わない方法を選ぶ。
そうやって今まで生きてきたのだ…。
「先生…おれは…」
おれが話しかけたところで、オーダーしていた料理が運ばれてくる。
そこでおれたちは、しばらくは美しい夜景とおいしい料理に執心した。
5 心癒される場所 1 平穏な日常はどこへ…?
先週のある意味センシティブなあの「出会い」から3週間…。
私は忙しい日常に紛れて、あの感覚をすっかり忘れていた。
今日は月曜日でもあり、4月に入って新たな年度に入ったこともあって…『カフェ・シンフォニー』のフロアーにもちらほらと新顔の学生たちの姿が見える。
きっと音大の新入生たちなのだろう。
少し緊張気味に…でも期待に満ちたキラキラとした表情が初々しい。
ああ…わたしもそんな時期があったなぁ…なんて一人でほくそ笑んでいると、いつの間にかカウンターに戻って来ていたシンちゃんが話しかけてくる。
「何ひとりでニヤニヤしているんですか? 祥子さん。何か、いいことでもあったんですか?」
「はぁ? ない、ない。あったら、いつまでも此処にいないでしょ…?」
私は下げられてきたモーニングセットのトレイを片付けながらいつもの軽口をたたく。
時間は午前11時を少し回ったところ。
この時間は朝のモーニングタイムの終了とともにランチタイムの突入に入るタイミングで、いったん落ち着いた客足がまた増え始めるタイミングなのだ。
いよいよ最終学年に入ったシンちゃんもそろそろ来年の就職に備えて忙しくなる時期で、今までみたいに頻繁にシフトに入れなくなったこともあり、どちらかといえば早朝から午前のシフトに入ることが多くなった。
「そろそろ俺上がりますけど、新人3人とマスターと祥子さんだけで大丈夫ですか?」
そう言うちょっと心配顔のシンちゃんの背中を、私は大げさに叩く。
「大丈夫よ、あの子たちもそれなりに動いてくれるし、いざとなったら私が3人分まとめて頑張るから…」
そう言ったものの…1週間前から入った3人の新しいメンバーは、未だ高校生気分が抜けないのか、暇さえあれば固まって談笑中だ。
店内のちょっとカッコいいメンズのお客さんを見ては騒いでいる。
彼女たちを見るわたしの視線を追って、シンちゃんもその様子にため息を吐いた。
「今どきの女子大生ですね…?」
ハハハ…と苦笑いしながら、シンちゃんは彼女たちに何か注意を与えてはいるが、
「きゃあ、先輩すみませ~ん!」
そう言いながら散っていく様子にホント苦笑いしかない。
ランチタイムの後半に、もう一人のベテランパートさんが来てくれるまで何とか頑張るしかない。
軽く肩をすくめながら、カウンターの中でもうすぐ始まるランチタイムの準備を始めていると、奥の厨房からマスターの田崎さんが手招きする。
「ごめん、祥子ちゃん。今日は15時上がりで、そのあと大学のはじめの教室に呼ばれてるんだよね?」
「うん、この前も先生の就職話を断ったばかりで、ちょっと顔合わせ辛いんですけど…」
そう言って苦笑いする田崎さんは、いつもの穏やかな笑顔を浮かべながら私に小さなカップを差し出す。中には先日入荷した新しいハーブティーが入っている。
「気にすることないよ。はじめにとってはもう定番のコミュニケーションンツールの一つだからね。」
田崎さんとはじめ先生は高校が同じで、その頃から仲のいい友人同士だという。
「それより、はじめから聞いてる? はじめ、音大の講師を今期いっぱいで辞めるらしんだ…」
田崎さんも手に持ったカップを揺らしながら、ゆっくりと口に運んでいる。
「えっ…?」
田崎さんの話に、私は一瞬言葉に詰まる。
今まではじめ先生はいつだってそこにいてくれて、どんな時でも温かく見守ってくれているのが当たり前になっていた。
当然と言えば当然なんだけど…。
「はじめはね…大学時代にすっごい好きな子がいたらしいんだけど、どうもその恋は叶わなくて、卒業後逃げるようにニューヨークに拠点を移したんだ。彼がいまだに独身なのも、その所為かな…?」
「その先生が好きだった人は、今どうしているんですか…?」
何の気なしに私が発した言葉に、田崎さんは困ったように考え込む。
「ああ…これははじめには内緒ね。実は彼女亡くなったんだよ、もう19年前にね…」
「 …… 」
私は絶句する。先生にそんな過去があったなんて…。私の知る先生はいつだって優しく思いやりのある人だった…。そんな優しい先生に今の私は甘えるばかりで…。
もうアラサーなんだから、そろそろ自立して自分の方向性を出さなきゃ…そう思うものの、ずるい私は音楽をどこかで諦めきれずに、ずるずると今の生活を続けているのだ…。
「案外はじめは今日そのことを祥子ちゃんに話そうと思っているんじゃないかな…。だから、その話が出ても初めて聞いた顔しててね…」
「も…もちろん…!」
私はすぐさま何でもない顔をして頷く。
だけど内心ものすごく動揺していた。
(はじめ先生が居なくなる…!?)
頭の中でその言葉だけがグルグルと何度もめぐってくる。
けれどその時の私は、そのあと実際にはじめ先生と会った時、さらにもっと衝撃的なことを聞かされることになるなんて思ってもいなかった。
6 平穏な日常はどこへ…? SIDE 碧
日本に来てから3週間が過ぎた。
都心にあるこのAホテルの最上階スウィートに落ち着いてから、ホテルスタッフと時折訪ねてくれるはじめ先生以外誰とも会わずに過ごしている。
もともと引きこもり気味の生活をしていたせいで、食事はルームサービス、着替えもすべてホテルクリーニングに頼る生活にも何の不便も感じない。
外に一歩も出ない毎日を過ごしても、実際には何も困らないのだが、先生はそうとは思わないみたいだ。
先日部屋で一緒に食事をした時にも、出来るだけ外に出て散歩をするように勧めてきたり、せっかくだから日本国内でどこか行ってみたいところはないかとか、しきりに聞いてくる。
「無理にとは言いませんが、君だってまだ22歳の青年なんです。普通に生活してもっと若者らしい時間を過ごしてもいいと思うのですが…」
「若者らしい…ですか? 正直、僕にはそれが分からないんです」
「はぁ~…」
先生はそこで今日何度目かの大きなため息を吐く。
「まったく、ユージンは君をどうしたかったんでしょうね? 確かに彼ほど音楽的に最高の師匠は居なかったでしょうが…。父親としてはどうだか…」
先生のつぶやきともぼやきともとれる独り言を、おれは苦笑いを浮かべながらやり過ごした。
確かに、先生の言うとおり、おれとユージンの関係は普通で言うところの父と子とはずいぶんと違う。
出会った時からユージンは自分を父だとは言わなかった。おれも違和感なくそれを受け入れて今に至る。
おれたちの間にあったのは唯一音楽であり、それを通してのみお互いを理解していたのだと思う。
「それで、君には私の所属する大学で、特別聴講生としてしばらく過ごしてもらえないかと思っているんですよ…」
「えっ…?」
しばらく物思いに浸っていたおれは、先生の言葉に驚いて顔を上げる。
「さっきも言いましたが、年齢で言えば君は大学に通う学生と変わらない。本来なら彼らと同じように、キャンパスライフを楽しんで若者らしい時間を過ごすべきだと思うのです。それに君はすでに素晴らしい実績を積んでいる音楽家でもある。そこで、僕から君に一つお願いがあるのです」
先生は穏やかな笑みを崩さないままに、じっとおれの目を見つめてくる。
先生がこんな風におれに頼みごとをするのは珍しい。
思わずおれは先生の顔を真っすぐに見返した。
「いや、いや大したことではないんですが…実は数年前から僕が面倒を見ている子で優秀なチェリストがいるんですが、何と言いますか…自分で壁を作っているところがあって…。何とか君の視点からその壁を取り払ってほしいのです」
「はぁ…ですが今の僕に他人の面倒なんて…」
「もちろん、技術的な指導を求めるつもりはありません。何というか、君にしてほしいのは、彼女の感性をもう一段上げてほしいのです」
先生の言葉を聞いてさらにおれは黙り込む。さっき先生は“彼女”といったか?
年齢もそれほど変わらない学生で、まして相手が女性なら、もうその先はトラブルしか考えられない。
その想いが顔に現れていたのだろう。
すぐさま先生は言葉を重ねてきた。
「ああ、相手は女性ですが、彼女はそういう心配は全くない人なので、気遣いは無用です。ともかく一度会ってほしいのです。」
先生は、今のおれが他人に指導できるほどの感性も情熱もないと、どれだけ訴えようともあの柔和な笑顔で交わしてしまう。
「聞いていますよ、最近またピアノを弾けるようになったのでしょう? 来週には君の愛器である『ガレオン』も此処にやってくるらしいじゃないですか? ナンシーが嬉しそうに話してくれましたよ」
それを聞いて、内心悪態を吐く。
ナンシーのやつ、きっとホテルの関係者からほぼ毎日、おれがピアノを弾き続けていることを聞いているに違いない。
何処に居てもおれのプライバシーはないのかと文句の一つも言いたくなるところだが…。
ユージンの幼馴染でもあり、昔からおれの保護者代わりだと思っているナンシーは、そのパートナーのマイケルとともに何かと口うるさくおれのプライバシーに絡んでくるのだ。
ユージン以外に身内のいないおれにとっては、家族同様の存在なのだけれど…。
「今の僕にはまだ『ガレオン』(ストラディバリウスの晩年の名器で当時の所有者であるフランスの将軍の名前で呼ばれている。…ガレオンは仮名)を弾きこなすほどの情熱は無いんです。そうナンシーにも伝えていたのに…」
「ナンシーもうれしいんですよ。ユージンを亡くしてからずっと沈んでいた君が、やっとピアノの前に座ることが出来たんです。その先を期待してしまうのは仕方ないのでは…?」
「それは…」
自分もそうだと言わんばかりに、何かを期待するようにニコニコしながらおれを見つめてくる先生に、おれは何も言えなくなった。
(確かに少しづつピアノの感覚は戻って来ているような気はするけれど…。ガレオンは…?)
『ガレオン』はストラディバリの名器の中でも弾きこなすのがかなり難しいと言われている逸品だった。
難しすぎて、かえって駄作とまで言われていた。当時長く所有していたのはアラブの石油王で、彼も楽器というよりも芸術品として所有していたにすぎない。
そんなある日、ユージンとともに招かれて訪れた彼の宮殿の余興で、おれは初めてそのガレオンを手にした。
所有者のその石油王も、当時13になったばかりの子供にその楽器を弾きこなせるとは思っていなかったに違いない。
ただ、おれは…そのガレオンを手にした瞬間、不思議な感覚に囚われたんだ。
不思議な高揚感…腹の底から湧き上がる喜び…。
周りのすべてを超越するような感覚にすべてを委ねたまま…おれはガレオンを弾き続けた。
そして…それからガレオンはおれのパートナーとなった。
その先生との会食からさらに1か月後…。
おれはある閉店後のカフェに先生から呼び出された。
第2章 1 戸惑い
新学期が始まって1か月…。
長かったゴールデンウィークが過ぎるころには、大学のキャンパスも徐々に落ち着きを見せ、キャンパス内を行き交う学生たちの表情にもどこか余裕が見られる。
バイトのない今日、朝から私は、はじめ先生に呼ばれて大学を訪れていた。
今日はカフェ『シンフォニー』の月に一回ある定休日。
つまるところ今日はオーナーである田崎さんが、本来の家業であるところの調律師として地方に出かける日なのだ。
売れっ子音楽技師の田崎さんのもとには、世界中の音楽家からあらゆる楽器が送られてくる。
中には弾き手との細かい打ち合わせが必要なものも多くて、そういう楽器のために月に一度、自ら出向いて調整を行うのだという。
普段でもカフェに顔を出す以外はほとんど2階の仕事場にこもりっきりの生活をしている田崎さんは、いったいいつ眠っているのか分からないくらいに忙しい。
月に一度の地方行きは、かえって骨休めになるんだよ…と田崎さんはいつも笑いながら言うけれど、私はいつか田崎さんが過労死するのではないかと密かに心配している。
もう卒業してから6年も経っている今、未だに時々こうして大学に通っていることに密かに後ろめたさは感じるものの…キャンパス内で時折見知った子たちが気ままに“祥子さん”と声を掛けてくれることがうれしくて、ついつい頬が緩んでしまうのだ。
目の前に建つ音楽棟は当時、理子や聡と通っていた頃と何ら変わりないたたずまいを見せているけれど…。
あの頃にはもう戻れない。
化粧っけのないせいで、実際の年齢よりは若干若く見られることの多い私だけど、それでもキャンパス内ですれ違う娘たちとは明らかに違う自分の姿を目にする度に出てくるのはため息ばかりだ。
(来年の3月に先生が居なくなれば、もうここには来れなくなるかな…)
廊下の端に立て掛けられた大きな鏡に映る自分の姿が目に留まる。
背中の真ん中辺りまである栗色の真っすぐな髪はうなじでクリップで一つにまとめられ、身に着けているのはシンプルなダンガリーシャツに細めの黒いスリムジーンズ。
聡が居なくなってから恋をすることもなく、まったくおしゃれに気を使うこともなく過ごしてきたから、自分の歳さえ忘れていた。
再来月にはいよいよ20代最後の誕生日を迎えるのだ。
面倒見の良い恩師に散々迷惑を掛けてきた自覚のある私は、この先にあるはじめ先生の教務室に行くのにどうしても足が重くなる。
(はぁ~。どうしよう…)
今日は話だけと聞いているので、チェロは持って来ていない。
きっと先生は、自分が居なくなる来年以降のことを話し合いたいに違いない。
それでも聞かないわけにはいかないので、私は何度か大きな深呼吸をした後で、覚悟を決めて“斉藤元”とプレートのかかる目の前のドアをノックした。
午後4時_。
金曜の午後ということもあって、この時間になると学内の廊下にも学生の姿はそれほど多くない。
ある教務室の前で佇みながら、やっと決心をしてそのドアをノックしたのが10分前。
「はい…? ごめんなさい。先生、もう一度言ってもらえます…?」
部屋に入って、あいさつも早々に、はじめ先生から告げられた言葉に私は絶句した後、信じられなくてもう一度聞き返した。
「うん、実は僕には今の君にはもう教えてあげることは何もなくて…その代わりと言っては何ですが、僕の古い友人を君の新しい講師として呼んでいるんです。ほら、聞いたことは無いですかね? ユーリ・アレクシア・レオン、彼はバイオリニストとしては有名なのですが、作曲家でもあり、稀有な感性の持ち主でもあるのです…」
(何ですって…!? あのアレクシア・レオン!?)
「……」
はじめ先生は何でもないようにさらりと言うけど…散々親友の理子から耳にタコが出来るほど聞かされていた名前だ。
それをはじめ先生は日本に呼び寄せたのだという。それも私のために…!?
(嘘でしょう…!?)
動揺するなという方が無理なんだけど…。
はじめ先生はいつもの穏やかな笑みを浮かべながら、パニックになってさっきから固まっている私を可笑しそうに見つめている。
「だめです、先生。そんなすごい人に指導してもらうなんて…そもそもレッスン料が払えません…!」
私が必死の形相で固辞するも、先生は余裕の表情で返してくる。
「ああ、それなら心配はいりません。彼はある意味息抜きで日本に来ているので、君が心配するような通常のレッスンとは全然違いますから。愉しんでもらえればいいんです」
(息抜き…!? それに愉しんでって…!?)
絶句する私に先生は尚もこう言い募る。
「彼は今ホテルに居るのですが、来週には田崎のビルの3階を間借りしてしばらく滞在することになっているのです。その間、祥子ちゃんには彼の衣食住のお世話を頼みたくて。彼にはある事情があって、通常のハウスキーパーを頼むことが出来ないので…。レッスン料の代わりと言っては何ですが、こんなことを頼めるのは君しかいなくて…」
おいおい先生。わたしだってうら若き乙女なんですけど…? 確かアレクシアは噂では超美形と言われてて、女がらみのトラブルになったらどうするんだ…?
そう突っ込みたいところを私は抑えて先生に告げる。
「彼は今までずっとその素顔を隠してきたんでしょう? いいんですか? そんな風に晒しちゃって…」
至極まっとうな質問に先生はさらりと答える。
「大丈夫です。日本では彼は日本名を名乗りますから。その名前を知っている人は少ないですから…」
「はぁ…」
「もちろん田崎も協力してくれます。困ったことがあったら、田崎に相談してください…」
その言葉に思わずため息が漏れる。はぁ、きっと田崎さん、マスターも1枚かんでいるんだと判ると、ある意味これは逃れようがないミッションのようなものだと悟る。
(あ~! 理子が知ったら大変なことになる…!もうこれはトラブルにつながる予感しかないんだけど…?)
2 戸惑い 碧
早朝、それもAM6時を回った頃に掛かって来た電話をかなり不機嫌な様子を隠しもせずに切ったおれは、再びベッドに勢いよく身を沈めた。
電話を掛けてきたのは、ナンシーのパートナーでマイケル・ラドウェル。おれの個人的なマネージメントを担当してくれている人物だ。
もともとユージンのマネージャーであり、ユージン亡き後は引き続きおれの面倒を見てくれているのだが、これがナンシー同様なかなかおれに対しては過保護なところがあり、何かと構ってくる。
もうティーンネージャーの子供じゃあるまいし…20代になった今でもおれの身辺を心配している。
おれは頭の中でさっきのマイケルとの会話を反芻してみる。
「はじめのことは全面的に信頼しているが、僕も今はニューヨークの事務所からしばらくは動けないんだ。はじめからは、君の状態がウィーンに居た頃よりは格段に良くなっていると聞いているんだが、そうなのかい? 期待してもいいのかな…?」
「いいというのが、どのレベルを指しているのか、おれにはわからない…」
おれはリビングに鎮座しているピアノと、そのそばに置かれた一台のバイオリンに目を止めた。
『ガレオン』 ある意味おれのバイオリニストとしての代名詞ともいえる、ストラディヴァリの逸品…。
つい2日前、ウィーンのある財団に預けたままになっていたガレオンが事務所の雇った運び屋によって手元に届いたばかりだ。
この日本に運ぶためだけに数千万の保険を掛けるだなんて、通常の常識からすれば異常なのだろうが、もともとこの芸術品の価値は十数億円を下らないと言われている。
一般人からすれば馬鹿げた話だが…。
ナンシーにしてもマイケルにしても、今のおれに何を期待しているのか?
自分でも呆れるほど今のおれはポンコツ以外の何物でもないというのに…。
そう思いながらおれは立ち上がって、ガレオンに近づき、閉じたままのセピア色のケースに指を這わせた。
光沢のあるグラスファイバー製のケースは軽量で衝撃にも強い。
1年前までは片時も離さず、相棒として常に側に有ったはずなのに…。
そしておれは無意識にケースのロックを外して、ガレオンを手に取った。
慣れ親しんだその重みと感覚が、不思議と今日はまるで初めてのように感じられる。
(……?)
あとはまるで…。
その未知の感覚に引きずられるように、おれはガレオンを抱いて一音一音確かめながら、弦を弾いていく…。
不思議だった…。
まるで長い間、どこかに置き忘れていた何かが一気に溢れてきたような…。
戸惑うほどにそれは…切れ間なく身体の奥深くから湧いてくる。
それは心地よく…何者にも邪魔されない自分だけの感覚…。
そう…きっともう後には戻れない。
きっと新たな扉を開いてしまったんだ…。
4 新しい日常 碧side
はじめ先生との定期的なミーテングという会食の席で、おれがその提案を受けたのは、もう数週間前のことだった。
もう前のように、ただがむしゃらに無心で音楽に向かうことが出来なくなったおれに、
誰かを導くことなど到底出来るとは思えなかった。
ウィーンに居た頃、時々はユージンの知り合いに請われて、幼い子供たちに手ほどきの真似事を行ったことはあるけれど…。
大人の…まして、年頃の女性を指導したことなどない。
そこに先生のどんな意図が働いていたとしても、そこは当然断るのが正解とわかっている。
けど…そこは先生の方が1枚上手、ナンシーやマイケルを味方につけたうえに、外堀を埋めるように、その間のおれの滞在先まで用意していた。
完全に先生の術中にハマった形だったけれど…その相手がまさか…あの時の彼女だったとは…。
正直心の中では何度も考えもした。
ガレオンを手にした時、もしまた彼女と同じ時間、同じ場所で音を重ねたら…どんな世界を感じることが出来るだろう…?
けど、当然そんなことが叶うこともなく、一時の世迷い事と自分で笑い飛ばしてもみた。
だけど…それが…まさか、その彼女がまた今目の前にいる。
ガレオンを片手に…おれは凍り付いたように固まったまま動けなくなってしまった。
衝撃的な再会から数時間後―。
おれたちは、ぎこちない挨拶を交わした後、一方的なはじめ先生の説明を黙って聞きながら、互いの腹の内を探るように時々目線をあわせる。
「 …… 」
当然説明するのも面倒臭いので、数週間前に一度会っているなんてことは言わなかった。
そんなことを少しでも匂わせようものなら、はじめ先生は大喜びでまたさらにあれこれ提案してくることは目に見えていたから…。
それに簡単な互いのプロフィールは、さっきから先生が勝手に語ってくれている。
決して自分から望んでここにいるわけではないという意思表示も込めて、おれは必要最低限な会話しかしなかった。
正直、困惑しかない…。
「さて、そういうことで、顔合わせも終わったことだし、引っ越しは今週末ってことでいいかな? 田崎?」
「ああ…3階の部屋はいつでも使えるように定期的に掃除も済ませてるからどうぞ、僕の方は構わないよ。」
ニコニコ笑いながらオーナーの田崎さんはそう答える。
チラリと彼女の方を見れば、さっきから顔色を無くして何か考え込んでいる様子。
納得していないのは一目瞭然だが、彼女もおれ同様はじめ先生には逆らえないらしく、大きくため息を吐いている。
「先生、やっぱり無理があるんじゃないですか? 此処には学生たちも多く来ますし、彼みたいな有名人もしバレちゃったら…?」
「ハハ…君の心配は最もですが…大丈夫。一般には彼の素顔は誰も知りません。それに彼は旧姓を名乗りますから。大学では僕の特別聴講生、倉橋 碧(クラハシ アオ)として過ごしてもらいます。いいですね? 碧クン」
「は…はい」
おれは仕方なく頷いた。
内心では限りなく困惑と動揺しまくっているけれど…。
はじめ先生は、言葉と表情はとても穏やかで優しい人だけれど、内情は結構頑固で一途だとわかっているから、逆らっても無駄だ。
「祥子ちゃんもそれでいいですね?」
「はぁ…わかりました」
彼女の盛大なため息とともに、おれたちの新たな日常が始まったのだった。
3 新しい日常 祥子side
オープンしたてのカフェ・シンフォニーで…。
私はいつものように何度目かのため息を吐く。
恩師から衝撃的な依頼を受けたのが2週間前で、あれこれ考える余裕もなく、そのアレクシアと閉店後のシンフォニーで引き合わされたのがつい3日前。
その時の衝撃を思い出すたびにため息が出てしまうのはもう仕方がないと諦めるしかないだろう。
3日前の金曜日。
その日はシンフォニーの月に一回の定休日。
けれど、オーナーの田崎さんから特別なお願いがあると言われて、ついついいつものバイト代の二割増しという、美味しい誘い文句につられた私は、指定された午後三時、シンフォニーの前に立つ。
CLOUSE の看板を避けながらいつもは自動で開く扉を手で開けて中に入る。
当然、定休日の今日は店の中からは静かなBGMも客同士の会話も聞こえてこない…はずだった。
( …… ? )
耳に飛び込んできたのは、鮮烈なバイオリンの音色…。
それもレコードや、CD何かじゃない生のバイオリンの演奏で…。
思わず足を止めた私は、入り口の大きめの観葉植物の陰で、中を伺う…。
どうやら店の奥にあるステージで誰かが演奏をしているようだ。
誰なんだろう…? でも学生じゃないのだけはわかる。
この圧倒的な音量と研ぎ澄まされた音色からは、弾き手がかなりの名手であることは簡単に想像できた。
( え…? 誰…? )
曲名は『 La Campanella (ラ・カンパネラ)』 言わずと知れたパガニーニの名曲だ。
リストのピアノ曲としても有名だけれど、この曲も演奏曲としても人気が高い。
ドアの前で思わず足を止めて聴き入ってしまう。
それれほどそのバイオリンの音色は鮮明で鮮烈…。
何度も耳にした曲なのに、今日はやけに胸の奥底、まるで魂を揺さぶられるほどに直接的に祥子の何かを刺激してくるのだ。
何度も耳にしたことのある曲なのに、今日はやけに胸の奥底、まるで魂を揺さぶられるほどに直接的に祥子の何かを刺激してくるのだ。
ときおり激しく…それでいて、傷ついた心を優しく包み込むような温かさを感じる。
こんな風に演奏できる弾き手を祥子は知らない…。
誰なの…? 週末だし、学生の誰かが弾いてる…? いや、いや、やっぱり学生のレベルじゃないないよね? いったい誰なんだろう…?
純粋な好奇心に勝てずに、演奏が終わったタイミングで、祥子は静かにドアを開けて中に入った。
まだ繊細な旋律の余韻がそこかしこに残る店内…。
まず目に入ったのは、こちらに背を向けて談笑する見慣れた二人の男性のうしろ姿。
ひとりはこの店のオーナーの田崎さん、もう一人は私の恩師はじめ先生だ。
今日私が呼ばれたのは、はじめ先生が私に何か頼みたいことがあると聞いていたんだけど…。
ここにいつも忙しいオーナーがわざわざここに居るということは、単なる場所を貸してる、それだけじゃない気がするんだけど…?
そんなことを考えながら私は二人の元に歩み寄る。
「はじめ先生、田崎さん遅くなりました。ごめんなさい、待たせちゃいましたか?」
いつもの調子でおどけたように話しかける私…。
そこで私は二人の前にもうひとり別の人物がいることに気が付いた。
彼はステージの端に腰かけていて…私の声と同時に顔を上げてこちらを見る。
( ……!? )
瞬時に固まって動けなくなる私。
だってそこに居たのは私が知っている顔だから…。
なんであいつがここに居るのよ…!?
頭の中は???マークだらけ、もうパニック寸前になったところで、いつもののんびりしたはじめ先生の声に私は我に返る。
「祥子ちゃん、待ってましたよ。惜しかったなぁ…もう少し早く着いてれば、彼の演奏が聴けたのに…」
「は…? 彼って…」
そこで私は改めてその“彼”を見る。
先生たちのその後ろで、片手にバイオリンを携えたそいつは、じっと私を観察するように見つめている。
相変わらず熱を感じさせない冷たい眼差し…感情の現れない整った顔立ちはまるで人形のようだ。
あれから当然だけど、彼とは会っていない。
連絡先も交換していないし、まして名前も直接聞いたわけじゃない…。
私が知っているのは、“碧”という名前だけ…。
でもここに彼が居るってことは、はじめ先生の知り合いってこと…?
彼を見つめたまま、完全に固まってしまった私に、先生たちは一瞬驚いた表情をしたものの、楽し気に声を掛けてくる。
「さすがの祥子ちゃんも彼のイケメンぶりに声が出ないですか? そうでしょう? 彼の名前は倉木 碧。え…と、ユーリ・アレクシアン・レオンといった方が分かりやすいですか。有名ですからね。前にも説明している通りですが、彼は僕の知り合いの息子で、ある事情があって、しばらく日本で僕が面倒を見ることになったので、それで君にも紹介がてら少し関わってもらおうと思ったんですよ…」
それからあとのはじめ先生の言葉は全く耳に入ってこなかった。
何でわたし…? という疑問ばかりが浮かんでくる。
もうショックというよりは戸惑いだろうか?
けれどそれからあと、わたしはその碧にまつわるあらゆることに振り回されることになるなんて、その時のわたしはまったく理解していなかった。
5 交わる日常…二人の困惑
突然の意図しない再会から数週間後_。
はじめ先生の思惑に見事にハメられた私たち…私と碧(ユーリ・アレクシア)はあの時、不本意ながら師弟(?)関係を結ぶことになった。
その内容は、彼は本名を隠し日本で活動するために、はじめ先生の旧友であるここシンフォニーのオーナー田崎さん所有の2階事務所と3階の居住スペースを借り受けるというもので、その彼のハウスキーピングとして私に白羽の矢が立ったわけなのだが…。
何でわたし…?
当然そう思う私に、しごく当たり前のように先生は笑って言う。
「だって彼の感性は天才的なんです。そんな彼がこんなに近くにいるんですよ。教わらない理由はないでしょう。彼の感性はきっと君の成長に役立ちます」
「私は先生のレッスンで十分です」
「はぁ…。 前にも言いましたよね? 今の君に僕が教えられることはもう無いって…。自分でもわかっているはずですよ、そろそろ前を向くべきだって…」
先生に改めて言われた私は唇をそっと嚙む。
6年前のあの夏の日から…確かに私の日常はずっと変わらないまま…。
あの日…聡を失ってから…。
「祥子ちゃん…大丈夫かい?」
田崎さんの声で私はハッとして我に返った。
どうやらカウンターの前でボ~っとしてたらしい。時間にすれば十数秒ってところ?
カウンターに置かれたトレイの上のコーヒーカップはまだ白い湯気が立っていたから、そんなに時間は経っていないはず…。
「ハハ…ちょっと昨日夜更かししちゃって…」
とっさに言い訳しちゃったけど、あながちそれは嘘じゃない。
先日親友の理子から、熱いアレクシア愛を聞かされたばかりだ。
そのユーリ・アレクシアからレッスンを受けることになったなんて、今の理子には恐ろしくて口が裂けても言えない。
幸いなことにあれから理子は急な取材があるとかで、慌ただしくニューヨークへと飛んで行ったから、顔を合わせることは無かったけれど…。
理子に何て説明しようかと考えていたら眠れなくなってしまったのだ。
「はじめは、ああ見えて意外と強引だからね…。自分が良いと思ったらグイグイ行くんだよ。自分のことは空っきしなのにね。だけど、僕も今回のことは悪い話じゃないと思うんだよね。彼もいろいろあって、今は一線を引いた上でしか音楽に関われないし、でも先日彼のバイオリンを聴かせてもらったけど、何か吹っ切れた感じがして素晴らしかった。その彼のレッスンがある意味タダで受けられるんだ。これはラッキーだよ」
田崎さんは何か嬉しそうにそう力説してくれたけど、正確に言えばタダじゃない。
彼がここ(店の有るビルの3階)に滞在する間に、わたしは彼のハウスキーパーとして働かなきゃいけない契約になっている。
もちろん私にはここ、シンフォニーでのバイトもある。
その合間での訪問という約束なんだけど…。
はっきり言って、トラブルの予感しかない。
だって、だって、あいつ…はじめて此処シンフォニーで顔合わせしてから、この1週間…私たちの間にはまともな会話は全くないのだ。
そりゃ、不本意なのはわかる。相手は今休業中とはいえ、世界的な音楽家なのだ。
いくら恩師であるはじめ先生の頼みとはいえ、どこの馬の骨とも知れないアラサー女の相手など嫌に決まっている。
先生が言うように、今は倉木 碧(くらき あお)を名乗っていようが、あの美形は隠しようがない。
絶対騒ぎになるし、今どきの若い女子たちが放っておかないだろう。
私だってそんな騒ぎに巻き込まれるのは御免だった。
それに…私があいつに関わりたくないって思う一番の理由…。
それは、あいつ…倉木 碧はとてつもなくわがままなのだ。
私は何度めかの大きなため息を吐きながら、バックヤード脇のエレベーターのボタンを押す。扉はすぐに開いて乗り込むと、あっという間に3階へと到着する。
はぁ~! 思わず漏れた再びのため息。
小さく深呼吸して、私はエプロンのポケットから預かっているカードキーで目の前の扉を開く。
時間は午前11時10分前―。
普通の人ならこの時間はとっくに起きている時間、だけど“うちのせんせい”は絶対に起きてこない。
またぁ~!?
小さく舌打ちして、玄関からリビングに続く廊下を進む。
突き当りのドアを開けると、そこには大小の観葉植物に囲まれた30畳はあるかと思われる広いリビングがあって、中央にはL字型に置かれた革張りのソファーが鎮座している。
そのローテーブルの上に祥子は持っていたトレイを置いた。
私もオーナーである田崎さんのプライベートルームであるこのスペースには、今まで一度も足を踏み入れたことはなかった。
まあ当然と言えば当然なんだけど、そんな機会はこんなことでもない限りはありえないはずだった。
“こんな機会”…3週間前、突然恩師のはじめ先生から呼び出されて、依頼された“そのこと”によって文字通り祥子のすべてが変わってしまったのだ。
(あ~。引き受けなければよかった…)
何度思い返してみても後悔しかない。
あの時、先生の表情につい絆されたのと、ひと月30万という報酬に目がくらんでしまったのだ。
理子に知れたらそれこそ、“バっカじゃないの!”と罵倒されるに決まってる。
でもねぇ…。
祥子には祥子なりの事情というものがある。
実は先月、学生時代から住み続けているアパートが、老朽化のため今年いっぱいで取り壊しになると大家さんから言われたのだ。
だけどもっと気になるのは、もう一人の当事者であるユーリ・アレクシア…倉木碧の反応だった。
あの閉店後のシンフォニーで、ふたたび顔を合わせた時の碧はどこか他人行儀で、まるで感情が抜け落ちた人形のようだった。
もともと感情表現が希薄で何を考えているのか判り難い上に、あの常人離れした美貌だから、一般人の祥子からすれば彼はとても自分と同じ人間とは思えなかった。
絶対碧だって嫌だと思っているはずなのに…。
あの時の碧は、ただ黙ってはじめ先生の言葉にうなずくだけだった。
(何で…!? 一体何考えてんのよ…!)
それが分からないから余計に祥子は戸惑うばかりだ。
「もういい加減起きてくれないと困るんだけど…!」
寝室の扉を開けて、その中央に置かれたキングサイズの住人に掛ける声は、どこか尖り気味になる。
「……」
何の反応も示さないことに苛立った祥子は、ベッドの枕元に歩み寄るとその上掛けを勢いよく捲った。
「……!?」
けれど捲った瞬間、祥子はひどく後悔することになった。
そこに眠る碧の…無防備なあどけない少年のような横顔を間近で見てしまったのだ。
身長の割に小さな顔立ち、細面のすっきりと整った鼻筋と薄い形のいい唇。
色気のある印象的なまなざしは、瞼で隠されているけれど、その睫毛は細く長い。
少女のように澄んだ白い肌に影を落して、思わず祥子の鼓動は跳ね上がる。
ドキ、ドキ…!
(な…何よ、何で…あたしはこんなに意識してるんだろう…! こいつは21歳。あたしよりは7つも年下だし…あたしからすれば子供、そう子供同然なんだから…)
まだまだ落ち着かない心臓を無視して、私は無理やり声を絞り出す。
「もう、起きてってば、さっきから何回…」
そう言いかけた言葉の終わらないうちから、ぬっと突き出された腕に手首を掴まれて、私は言葉を失った。
「あ…ナンシー…いつものシャンパン頂戴…」
眠そうにくぐもった声は少しかすれていた。
(ナ、ナンシーって誰よ、知らないってば…!)
「は? いい加減にしてくれない? ホント困るんですけど…」
「……?」
そう言った瞬間に、パチッと目の前の惰眠を貪っている美形の瞼が開く。
「あ…なんだ、あんたか…。はぁ~っ、ここは日本だっけ…?」
そいつはおもむろに起き上がって、大きくひとつ欠伸すると、腰の辺りまで掛かっていた上掛けをはねのけて床に足を着けた。
寝起きということを全く感じさせない麗しい色気たっぷりの顔から視線を下に逸らせたわたしは、さらに赤面することになる。
そいつ、いや碧はどうやら夜寝る時に服を着ない質らしくて…。
おまけに私がそばにいても全く恥じらうことなく、全裸の姿を晒してくるのだ。
初日に、寝室のドアを開けた時の衝撃は一生忘れないだろう。
ベッド脇ですっくと立つ後姿は、まるで彫像のようだった。
細く引き締まった肩からウエストまでのライン…キュッと締まった臀部から延びる恐ろしく長い脚…。まるでマネキンを見ているようで、思わず見とれていた私は慌てて息を吸い込む。
その時の私は、息をするのも忘れるほど、とても生きた人間のそれとは思えなかったのだ。
だけどその時は後姿で、今日はまたもろに…見てしまった。
いくら通常運転の状態とはいえ、常人よりはるかに立派なそれを…。
「もう、人目があるんだから、服くらい来てよね…!」
真っ赤になった頬を隠すように顔を背けながら、私はソファーの背に引っ掛けてあったガウンをひったくる様に取って碧に向けて放る。
「あー、面倒くさ…!シャワー行ってくる…」
そう言い残して、碧は私の放ったガウンを手にして浴室へと消えて行った。
碧がここに住むようになってもう2週間近くが過ぎていた。
こんな風な朝が毎日のように続いている。
はじめ先生が言うようなレッスンなんてまだ一度もない。
そもそも碧にレッスンする気があるのかどうか、それだってわからないのだ。
あたしはまた盛大なため息を吐きながら、持ってきたトレイをキッチンに運んで、少し冷めたスープを温めなおすのだった。
6 交わる日常…二人の困惑 碧side
はじめ先生の友人だという田崎さんのセカンドハウスに引っ越してきてから2週間近くが過ぎようとしていた。
何となくの勢いと、はじめ先生に絆されて…。
日本行きは自分で決めたはずなのに、ここにきて未だ釈然としない想いに自分でも嫌になる。
大体日本に来て何がしたいとか、なんの目標もなく、ただ終わりのない退屈な毎日に嫌気がさしていただけだったから…。
ある意味自業自得なんだけれど…。
あることに関しては、まったくの予想外の出来事だった…。
蒼乃祥子…。
彼女との出会いは、ある意味軌道を逸していた。
それは単なる“事故”で終わるはずだった。
ちょっとしたどこにでもトラブル…?
たあいもない衝突事故で、ケガもなくその場で別れて終わり。
二度と会うこともない…。
なのに…その彼女が何故か、おれのプライベートの中にいる…!
まあそれは全くの偶然で…。たまたま共通の知人がはじめ先生だっただけだ。
いや、そうじゃない…か?
これが最初からはじめ先生の計略ならば…おれも祥子もまんまと先生の罠にはまってしまったことになる。
蒼乃祥子…。チェリストとして考えるならば、プロにするには技術的には十人並み。
ただ偶然聞いたその音色には確かに光る何かがある。
それを引き出してほしいと、先生は言うけれど…。
正直言っておれはもう自分以外の“誰か”には関わりたくない…。
まして音楽に関連する人間には…。
数ある音楽家の中で、おれは孤高のソリストとして一生を終わりたいだけだ…。
それ以上も、それ以下も望んでいない。
自分以外の誰かを受け入れられるほど、おれの人間としての器は広くない…。
はぁ…。
自分自身でさえ持て余している今、先生はいったいおれに何を期待しているんだろう…?
ここでの生活のリズムにも慣れてきた。
日曜以外のほぼ毎日、午前11時前に祥子がブランチを持ってやってくる。
あの勢いのまま、おれがまだ寝ていようがお構いなしに寝室に入ってきて、上掛けを剝がしにくる。
今までの人生の中で、ここまで無遠慮な人間をおれは知らない…。
「いつまで寝てんの? さっさと起きてくんないと、こっちが困るんだけど…」
「ナンシー、シャンパン用意して…」
「「は? いい加減にしてくれない? ホント困るんですけど…」
その声でおれはパチッと目を開ける。
そのままガバっとベッドから跳ね起きて床に足を着けると、目の前に顔を真赤にして固まる祥子が居た。
「もう、人目があるんだから、服くらい来てよね…!」
そう言ったと同時におれの顔にガウンが投げつけられる。
(ああ…ここはウィーンじゃなかったな…)
そんなことをぼんやりと考えながらシャワールームへと足を進めた。
そんなことをぼんやりと考えながらシャワールームへと足を進めた。
ウィーンに居た頃は基本自由で、朝はこちらから声を掛けないかぎり誰も起こしに来ないのが普通だった。
それがこんな風に自分のプライベートに、ずかずかと他人の誰かが入り来んてくるなんて思いもしなかったから、正直今は戸惑いしかない。
かといってその時のおれは、これから過ごす祥子との時間が、おれを少しづつ変えていくことになるなんて…おれはまったく気が付いていなかった。
7 はじめての衝突
ある日の午後、おれははじめ先生の大学に初めて呼び出しを受けた。
今まで何度かは先生からの連絡は来ていたけれど、こんな風に直接先生のいる教室に呼び出されたのは初めてだった。
昨日祥子が3階に上がって来た時には、今日のことは何も言ってなかったと思う。
正直言って先生には彼女の指導について了承したものの、実際には何のアクションも起こしていない。
正直困っていた。
あれ以降必要最低限の会話しか出来ていない相手と、それ以上踏み込んでどんな関係を築けというのだろう。
今日は水曜日、祥子は休みだ。
ここには来ない。
だから先生は教室におれたちを呼んだのか。
きっとレッスンの進捗状況を確認したいのだろう。
行きたくない…。
今は先生の顔を見るのさえ億劫に感じられる。
けれど、先生の要請を断る勇気は今の碧にあるはずがない。
はぁ…。
何度目かのため息を吐いたあとで、碧はゆっくりとベッドから立ち上がった。
祥子は数週間ぶりに、はじめのいる大学の構内へと足を踏み入れた。
午後の構内は午前中よりは人も幾分少なめだった。
途中すれ違った数人のグループの中に見知った顔もあって、軽く手を振ってすれ違うと、先生のオフィスまであと数メートルというところで、騒いでいる別の学生グループと出くわした。
彼らの言葉は聞かなくても自然と耳に入ってくる。
「ねえ、さっき見た? 斎藤先生のオフィスを訪ねて来た人。凄いカッコよかったよね?」
「うん、サングラスとマスクで顔を隠してたけど、背が高くて顔も小っちゃくて…芸能人みたいに顔整ってて…。誰なんだろう…?」
「ねえ、出てくるまで外で待ってみる?」
彼女たちは楽し気にキャッキャとはしゃぎながら騒いでいる。
彼女たちが話している人物が誰なのか、見なくてもわかる。碧だ。
祥子同様碧もはじめ先生に呼ばれたのだ。
はじめ先生の意図が分かるだけに祥子の足取りも重くなる。
何も聞こえないふりをして彼女たちの横を通り過ぎると、祥子ははじめのオフィスのドアをノックした。
「はい、どうぞ」
数秒後にはじめの少しハイトーンな声がする。
それを聞いて、祥子は遠慮がちにゆっくりとドアを開いて中に入った。
「失礼します。はじめ先生」
祥子が顔を上げて正面のデスクに座る人物を見ると、彼はニコニコといつもの優しい笑顔を見せながら、祥子に目の前のソファーに座る様に促した。
そして傍らに目をやると、案の定碧がそこに居て、白いシャツにジーンズを着て、向かいのソファーに気だるげに長い脚を組んで座っていた。
その時の碧はサングラスもマスクも外していたが、まったくの無表情で向かいに座った祥子をちらりとも見ようとしない。
その態度を見て、なぜだか祥子は無性に腹が立ってきた。
(何よ、こいつ…! 挨拶くらいしたらどうなのよ…!)
不機嫌な様子を隠すことなく、はじめが指し示す碧の向かいに腰を下ろして、鋭い眼差しで碧を睨みつけた。
「まあ、まあ祥子ちゃん落ち着いて、今日君たちに来てもらったのは、僕の方から伝えたいことがあったからなんだよ」
相変わらず温和な表情を崩さないはじめは、さっきから相容れず、剣呑な雰囲気を漂わせている二人の様子に苦笑いを浮かべながらも、自身のデスクから立ち上がると、二人の方に歩み寄ってひとり掛けのソファーへと腰を下ろした。
「僕はね、今期いっぱいでこの大学での職を辞して、ニューヨークへ移ろうと思っている話は前にしたかと思うんだけどね…。実は、前から結婚したい人が居てね…」
そういうはじめの表情は照れたように目じりが下がって、とても嬉しそうに感じた。
そしてはじめのその言葉が出た瞬間、それまで無表情だった碧が不意に頭を上げてはじめの顔を見る。
その表情にあったのは驚きと微かな喜び。
だが向かいの祥子が自分の方を驚いて見つめているのが分かると、瞬時にまた元の無表情に戻った。
「先生、おめでとうございます。どこにそんな方を隠していらっしゃったんですか? 全然知りませんでした」
祥子がからかうように言うと、はじめは小さく咳払いをして照れたように笑った。
「いえ、昔からの知り合いでずっと友達としていい関係だったんですが、お互いにそれなりの年齢ですし、何となくです…」
「それを聞いて安心しました。先生は一生独身を通されるのかと心配していましたから…きっと先生が選ばれた人ならとても優しい人なのでしょうね?」
「はは…いや、僕のことはいいですから、あの、本題に戻りますね」
半分照れ笑いを隠すようにはじめは、メガネのフレームを人差し指で持ち上げる。
「碧くん、君のヴァイオリンも先日聞かせてもらって、君の中ではまだまだと思っているかもしれないけれど、僕は君がこの世界に復帰するには十分だと感じました。ユージンがいた頃のユーリ・アレクシアと同じである必要は無いんです。今の君で十分です。いや、むしろ、これからの君の方が僕は楽しみです」
「先生…」
碧は言葉が出なかった。
今の自分で十分だと言ってくれる存在が、ウィーンには誰一人としていなかった。
碧の内面をよく知るはじめだからこそ、そう言えるのかもしれないが…。
「そこで、二人に提案があります。今から8か月後の12月24日、都内のあるホールを抑えてあります。君たち二人をメインにしたコンサートを企画しました。それに向けて今から準備して欲しいのです」
「……」
突然のはじめの爆弾発言に碧も祥子も黙り込む。
碧はともかく祥子はそんなステージに上がった経験は一度もない。子供たち相手の小さなコンサートとはわけが違うのだ。
「先生…無理です…私には…」
そう祥子が言いかけた時、それまで黙っていた碧が口を開く。
「まあ、今のあんたの実力では、せいぜい子供相手のお遊び程度だろうな…」
その言葉を聞いた瞬間に祥子はまた全身の血が逆流するのを感じた。
(そんなの、あんたに言われなくても分かっているわよ! 腹立つ!!)
祥子は、ギュっと爪が食い込むくらい拳を握りしめる。
「はぁ、だから碧くん、君にお願いしているのです。君も感じているはずです。彼女の才能を…。僕は、僕の最後の教え子として、彼女をこの世界に送り出したいのです。毎週水曜日のこの時間なら僕の教室を抑えられます。引き受けてもらえませんか?」
はじめ先生は、緊張したその場の空気を和ませようと、すぐさまそう言って碧の顔をのぞきこんだ。
碧がはじめの言葉に逆らえないのをよくわかっていてのことだった。
「あんたが本気で上を目指すのなら…おれもそれなりに考える。単なるお遊び程度に考えているのなら、プロなんてさっさとあきらめた方がいい…」
碧もあえて祥子の方を見ずにそう答える。
「……」
祥子は悔しくて、出来ることなら今すぐにでも断りたい…そう思っていたのに、何故か喉の奥に何かがつかえたように言葉が出てこなかった。
そうしているうちに気が付けば、祥子ははじめの求めるがままに、隣の教室に移動して、チェロを抱いていた。
傍らには満足げに微笑むはじめが居て、碧はピアノの前に座っている。
練習曲を数曲だけ弾いたところで突然碧はピアノの手を止めた。
「あんたは…。その自分勝手な癖を直さない限り、絶望的だな…」
シンと静まり返った教室の中に、碧の低く抑えた声が響く。
祥子も自分でも分かっていた。独学でレッスンしていた時期もあり、自分のチェロが正統派のそれよりもかなり外れていることも…。
その昔、聡もはじめ先生もそれは祥子の個性の一つだと言ってくれたけれど…この先、コンクールなどで結果を残そうと思えば、それは致命的な欠点になるのだ。
「まあ、まあ、今日は初日ですからね。まだ時間はたっぷりあります。これから毎日少しずつ直していけばいいのです」
はじめ先生は場を取りなすように笑顔で言った。
先生はもうすぐ居なくなる…。
いつまでも先生に頼っていられないのはわかっている。
こんな風に大学の教室を使わせてもらえるのも、先生がいる今だけなのだ。
それからしばらく、そんな気まずいレッスンが続いたあと…。
碧の何気なく吐いた一言に、ついに我慢しきれなくなった祥子は、勢いよく立ち上がる。
「祥子ちゃん…?」
心配そうな表情で見つめるはじめを尻目に、祥子は無言でさっさと楽器を片付け始める。
その様子を見るともなしに見ていた碧は、長い脚を組んで、その膝に肘をついて頬づえを組みながら、さらに追い打ちをかけるようにぼそりとつぶやいた。
「けっきょくあんた、やる気がないんじゃねぇの? それならやめちまえ…」
「ちょっと碧くん…」
はじめは二人の間でおろおろしながら様子を伺っている。
もともとどちらも激しい気性の二人だ。
はじめが二人を合わせる前に、先に知り合っていたという話を聞いて、密かに縁を感じて喜んだはじめだったが、まさか初っ端から頭を刈×事態になるとは思っていなかった。
優し気な下がり気味の眉がさらに所載無くなっている。
「……!」
すでに内心激高していた祥子は、無言でチェロを急いで担ぎ上げ、速足でドアまで行きつくと、一度振り向いて碧の方をキツく睨みつけた。
そしてドアを乱暴に開けて、去り際にもう一度碧の方を振り向くと、振り向き様に何かを彼の方に投げつけて来た。
ガタン…!
飛んできたその何かは、碧の肩先をすり抜けてピアノの譜面台に当たって、そのまま彼の足元に転がった。
碧の指先が自分の足元に転がる“それ”をゆっくりと拾い上げる。
細いヒールの女性用のミュールだった。
祥子は怒りに任せて、とっさにそれを碧に投げつけて来たのだ。
この片方のミュールがここにあるということは、彼女は今もう片方は何も履かず裸足でいるということだ。
その姿を想像して、碧はくすりと笑った。
(確かに…彼女は面白い…)
碧はさっきまで感じていたイライラが、なぜかすっかり消えていることに驚いた。
その頃、祥子は…。
一時の怒りに任せて、教室を飛び出して来たまでは良かったが、去り際にとっさに自分の履いていたミュールの片方を碧に向かって投げつけたことを激しく後悔していた。
(あ~あ、またやっちゃった…!)
素足をかばうように歩く祥子を見て、行き交う人々がみな一様に怪訝そうな顔を向けててくる。
いたたまれなくなった祥子は少し俯き加減で大学の門を出ると、目立たない場所まで移動して、ポケットからスマートフォンを取り出した。
本当ならこんな時、理子を頼るべきではないと判っていたが、こんな時だからこそ今の祥子の事情を誰よりも解ってくれるのも理子なのだ。
少し長めのコールの後、ちょっと眠そうな…抑揚のない声が聞こえてくる。
「理子? 私…」
「祥子…? どうしたの…? 今日シンフォニーは休みなの…?」
スマートフォンからは、時々欠伸を噛み殺しながら…少しかすれ気味の理子の声が聞こえてくる。
祥子がある事情があって、今動けないから車で迎えに来てほしいというと、今朝ニューヨークから帰ったばかりで、さっきベッドに入ったばかりだと眠そうに文句を言っていたが、それでもきっかり30分後、理子の愛車の真赤なミニが祥子の目の前に停まった。
「もう何なのよ、いきなり迎えに来いなんて…」
「ごめん、ちょっと事情があって…」
祥子は車の後部座席にチェロを押し込んでから、助手席のシートに乗り込むと、運転席の理子にる両手を合わせて御免と肩をすくめる。
「はあ…? で、何であんた片方裸足なの?」
あきれ顔の理子に、祥子は今日はじめ先生に大学に呼ばれたこと、そこで先生の知り合いの音楽家にレッスンを受けることになったことなどを掻い摘んで話した。
もちろんその相手がユーリ・アレクシアなんて言えるはずがない。だから先生の知り合いだと適当に誤魔化したのだけれど…。
別に嘘はついていない。
彼、碧(ユーリ・アレクシア)は、確かに先生の知り合いなのだ。
「その新しい“先生”がとてつもなく我儘な嫌味なやつで、口が悪いうえに、性格も悪くて…どうにも我慢がならなくなってつい…」
「つい履いていたミュールを投げつけたと…?」
「まあ、そんなところ…」
祥子の突飛な話を聞くと、理子は思いっきり吹き出した。
「もう、あんたいくつよ。十代のガキじゃあるまいし、来年には三十路だよ。もう少し大人になりなよ。」
「だって、ホントにあいつの顔を見ているだけで腹立つんだもん」
「あんたらしいといえば、あんたらしいけどね。それで、どうする? もう私の目も覚めちゃったし、気分転換にどっかドライブにでも行く?」
「行く!」
祥子は即座に答えた。
こんな時理子はとても歯切れ良い。
最初は寝不足で起こされたことに文句を言っていたのに、祥子の様子を見てすぐに態度を変えた。
理子とは大学時代に知り合ってもう十年近くなる。
理子は恋人の聡と同じピアノ科で、彼を通して知り合ったのだ。
聡と理子と祥子。いつもキャンパスで一緒だった。
だけど…5年前のあの日。
聡は突然の交通事故で逝ってしまった。 真夏の暑い陽だった。
それから理子は、ずっと祥子の側に変わらず居てくれた。
二人とも学生じゃなくなったけれど、ずっと仲のいい親友同士だった。
「ほら、座席の下のボックスに予備のスニーカーが入ってるから、それに履き替えて、そのままじゃ困るでしょ?」
「うん、ありがとう」
祥子は自分の裸足の足元を見て苦笑した。
本当に理子の言う通りだと自分でも思う。
昔から感情の起伏が激しくて、聡にはよく“まるで瞬間湯沸かし器みたいだ”といわれたっけ…。
それから二人は理子の運転で横浜までドライブすると、山下公園近くの埠頭に止めて近くを散策した。
「懐かしいな~! 思い出すよね? よく大学の講義の合間に聡と三人でドライブがてらここに来たよね? 最初は機嫌よくしていたのに、いつも途中からあんたたちケンカ始めるから、あたしはしょっちゅう仲裁役させられて…。さんざん機嫌取ったあげく、知らないうちに仲直りしているんだから、そのたびに思っていたわよ。今度こそ絶対に放っておこうって…」
「うん、でもわたしも聡もホントは理子にすっごく感謝してたんだ。私たち意地っ張りで頑固だから、理子が居てくれたから上手くやれていたの。聡が居なくなってよくわかった。
私たちお互いに甘えてたんだなって…」
祥子はちょっと寂し気に理子を振り返って笑った。
その頃の祥子にとって、聡は自慢の恋人であり、追いかけるべき目標だった。なんでも自由に意見が言えたし、ホントに数えきれないくらいケンカもした。
どんなに激しい言い合いしたって、次の日には何もなかったように笑顔で笑えた。
なのに…あの日。
聡は道路に飛び出して来た小さな子供をかばって、走って来たトラックにひかれたのだ。
祥子の目の前で…。
いつから呆っとしていたのだろう。
理子に不意に肩を叩かれて、祥子は我に返る。
「何、ぼ~っとしてんの? また聡のこと思い出しちゃった?」
「ううん、もう5年だよ。いい加減忘れないと…ね?」
おどけて笑って見せたけど、自分でもよくわかっている。
もう理子も自分も若くない。
何の不安もなく毎日を過ごしていたあの頃には戻れない。
1週間後…。
いつものようにシンフォニーの厨房で用意してもらったブランチを手に、祥子が3階の碧の居室に入っていくと、いつもならベッドに居るはずの碧が居ない。
あれから何となく気まずくて、もちろん当然のことながら一度もレッスンは受けていない。
祥子は出来るだけ碧の顔を見ないようにして、必要最低限の接触だけにしていた。
(もう、はじめ先生。なんでこんな面倒なこと押し付けてくれちゃったの…。はあ…もうどうしろって言うのよ…!)
心の中で密かに悪態を吐く。
さすがにあれから本人に面と向かって言う勇気はない。
だってこの仕事の報酬は破格なのだ。 しがないフリーターの身分としては、それだけは捨てがたい。
はあ…。もう何処に行ったのよ?
シャワールームからは何の音もしない。シャワーじゃなければどこ…?
3階の居住スペースを探した後、まさかと思いながらうち階段を使って2階のスタジオへと降りてみる。
恐る恐る閉じられたスタジオの重厚な防音扉を開くと…彼は居た。
広いスタジオの一方の壁際に置かれたソファーの上で、片手にはヴァイオリンを抱きながら…碧は眠っていた。
このスタジオの壁際には、調律師であるオーナーの田崎さんが、世界中の音楽家から送られてきている名器と言われるあらゆる楽器が保管されている。
中には細やかな温度、湿度管理が必要な楽器もあり、それは重厚なガラスケースに収められているものもあった。
今目の前に広がるその光景に祥子は一瞬息をのむ。
この部屋の窓はすべて高い位置に設けられているが、その高い窓から差し込む陽の光が、眠っている碧の顔を照らし、頬に長いまつげの影を作っている。
碧は人並み以上、いや人間離れした美しい容姿を持っている。
なんか、きれいすぎて人形みたい…。
目の前の人間が本当に生きているのか、シンプルな疑問から祥子は無意識にその手を伸ばしていた。
その影を落す長い睫毛に、指先が触れるか触れないか…ちょうどその時、閉じていた瞼が開く…。
慌てて手を引いたが、気まずい沈黙が落ちる。
黒い睫毛に縁どられた、美しい少し切れ長の目の…その瞳は間近で見ると光彩は深い海の色をしていた。
な…なに…?
その瞳を正面から見た瞬間から、呼吸が早くなり、自分の鼓動がドクドクと激しく鳴っていた。
自分でも心のうちに感じている、わけのわからない動揺に戸惑う…。
(ただ綺麗なメンズに慣れていないだけよ。どうってことない。それにこいつは見かけと違って、中身はとんでもないクズなんだから…)
心の中の動揺を隠すように、わざと不機嫌をよそおって祥子は言った。
「ここにいたんだ。ブランチもってきたんだけど?」
「なあ…」
碧は驚きもせず、腕に抱いていた名器を丁寧にケースに戻して、ソファーに座りなおした。
「あんた、この5年ずっとはじめ先生のもとで音楽を続けて来たんだろう? 先生は来年にはここを離れる。そうしたら、あんたは音楽を辞めるのか? あんたの中の音楽は、そんなに簡単に諦められるものなのか?」
碧の問いに、祥子は何も答えられなかった。
碧の言葉は直球過ぎて、祥子の心の最も柔らかい部分をそのまま揺さぶってくる。
あの日…聡を失ってから、祥子の中からすべての色が無くなって…あれだけ好きだった音楽がただの思い出になった。
けれど、完全に失うことも出来なくて、この5年温かく見守ってくれたはじめ先生の好意に甘え続けたのも祥子自身だ。
「おれは先生の頼みでなければ、あんたじゃなくても誰にも教える気はなかったし、関わりたいとも思わなかった」
いつの間に側に来たのか、碧は祥子の目の前に立って、彼女をじっと見下ろしていた。
その眼差しは冷たく…絶対零度の無言の圧がある。
自分が教えるからには、中途半端な姿勢は許さないと…。
祥子はただ息をのんで、碧のその澄んだ瞳から目を離せなかった。
いつもの祥子なら、きっとすぐに反発してまた鋭い言葉で切り返していたと思う。
でもその時は、何の言葉も出て来なかった。
「それで…どうするんだ? 受けるのか、受けないのか…?」
「それは…」
しばらくの沈黙のあと、碧の低く少し苛立ったような声が響く。
長い間、ずっと気にかけてくれたはじめ先生に報いたいという想いは強い。
本当ならこれはチャンスだ。
ユーリ・アレクシアンレオンは超一流の音楽家だ。そのレッスンを受けることはまさに奇跡なのだ。
「受けるわよ…」
祥子は小さくつぶやいた。
「何だって…? 聞こえない…」
聞こえてはいたが、碧はわざと聞こえないふりをした。
「受けるって言ったの…! 音楽家のくせに耳が悪いんじゃないの?」
そう言って悪態を吐く祥子の耳は真赤になっていて、それを見た碧は片方の眉を上げて笑った。
(素直じゃない女…)
そしてその日から、祥子と碧の奇妙な師弟(?)関係は始まった。
碧はもともと口が悪く、音楽に関しては一切の妥協は許さない。
祥子も碧に対してはその態度に遠慮がなく、口を開けばいつも激しい言葉の応酬になる。
「だからこの前から何度も言っているだろう…! そこはもっと強く明確に…!」
「はぁ? 無理! このキーのポジションなら、そんなに強くは…」
ピアノの前に座る碧の前で、練習曲を弾く祥子の口調はどんどん荒くなる。
はじめは、レッスン用としていくつかの課題曲を用意していたが、先週からそのうちの一曲、かなり高低差のあるこの数小節が上手く弾けなくて、ずっとこの調子なのだ。
キーを押さえる左手の何本かの指の皮膚は固くなっていたが、この数日のレッスンでまめが出来て赤く膨らんでいた。
それが弦の上を勢いよく滑らせた拍子に、ついに破れて指先に赤い血が滴る。
「あ…!」
祥子の手が止まると、碧はおもむろに立ち上がって祥子の後ろに立つと、近くの椅子を引いて彼女の背中にぴったりと寄り添うように座った。
碧の両足が祥子の腰を挟み込んでいる。
背中から延びた手が、不意に祥子の手からチェロを奪い取る。
「いいか、よーく見てろよ!」
碧は早口でそう言うと、祥子の背中越しにチェロを抱き,おもむろに弾き始めた。
長くきれいな指先が、何度も祥子の目の前を行き来する度、自分の心臓が激しく鳴るのがわかった。
碧が身動きする度に、彼の長い前髪が垂れて祥子の頬に触れる。
細身ながらしっかりとした彼の胸の筋肉が、シャツ越しに祥子の背中に触れているのだ。
それに…さっきからさわやかなシダーウッド系の香りが、常に祥子の鼻孔をかすめ、さっきからくらくらする様な眩暈を感じさせた。
(な…何で…!?)
祥子が突然の衝撃にパニックで呆然としている中、碧は平然と、さっき祥子が何回もつまずいていた箇所のフレーズを難なく弾いて見せる。
「あんたはおれの音を聞きすぎる。だからすべての音がズレるんだ。技術的な問題じゃない」
何でもない顔をしてそう言い放つと、また碧は元の場所へと戻って行った。
その姿を祥子は呆然と見つめてしまう。
(碧は…気にしないんだ…。)
祥子がいま感じている動揺など、碧にとっては何でもないことで…。
つまりは、まったく異性として意識されていないということだ。
(馬鹿らしい…)
気にしていたのは祥子だけ…。
この数週間、碧のプライベートに関わるようになって、変に意識していたのは祥子だけなのだ。
その事実に気が付くと、不意に祥子はすべてが馬鹿らしくなってきた。
そう思ったら、急に全身の力が抜けて来た。
(……?)
碧は不意に祥子のチェロの音色が変わったことに気が付く。
さっきまでは少し刺々しく、感情の起伏が激しかった音が、ある時から急に滑らかに、あふれるような情熱に取って代わった。
6月―。
季節はあっという間に初夏へと変わっていった。
吹く風がどことなく、熱い湿気を含んでいて…梅雨特有の纏わりつくような空気がある。
数日続いた梅雨空が、つかの間晴れたある日の午後―。
祥子は碧とともに、再び大学にあるはじめのオフィイスへと呼び出された。
いつものように祥子がドアを開けて入っていくと、碧はすでにそこに居た。
祥子の顔を見ると、はじめはにこやかに笑って碧の隣の席を勧め、祥子はうなずいて腰を下ろしたが、その時チラリと見えた碧の顔は、何とも言えない複雑な表情をしていた。
何かとてつもない難題を押し付けられたような…そう前に祥子のレッスンを言い渡された時のような…。
(……?)
碧はわざと視線を窓の外に向けて、祥子の方を見向きもしない。
少しムッとしながら、それでも背筋を伸ばしてはじめの方を見る。
こほん…はじめは少し気まずげに咳ばらいをひとつして、ゆっくりと話し始めた。
つまり…はじめの話を要約すると、こういうことだった。
はじめは自分が日本を離れる前に、祥子のために何か将来へ向けての布石を置いておきたかったのだろう。
今年のクリスマスイブ、都内にある音楽財団が保有する楽団のクリスマスコンサートに、ゲスト出演する計画を立てているのだという。
それも碧とのダブルキャストで…。
「どうですか? これはまたとないチャンスです。そのオーケストラの監督は私の古い旧友なんですよ。もちろん、碧、君が本名を出したくないのなら、倉木碧の名前で構いません」
「……」
思わず祥子は息をのむ。
きっと先に碧はこの話を聞いたのだろう。
だからさっき碧はあんな表情をしていたのだ。
それはそうだろう…。
碧は世に知れた天才音楽家だ。
それがどこの馬の骨ともしれない年上のチェリストを押し付けられたのだ。
逆の立場だったら、自分だって戸惑うはずだ。
「嫌だったら断れば…?」
祥子は碧を振り返って言った。
その声にはっきりとした皮肉を込めたつもりだった。
普段の碧の態度からすれば絶対に受け入れられないはず。
だから祥子の方から先に、彼が断りやすいように言ったつもりだったのだが…。
「わかりました…」
それまで黙っていた碧が平然と言い放つ。
「……」
「よれは良かった。じゃあさっそく準備をいそがせなければ。12月まではあと半年しかないですからね」
はじめは嬉しそうにつぶやいて、ひとりうきうきとはしゃいだ様子で部屋を出て行った。
残されたのは祥子と碧で、急に部屋の温度が急降下していくのを感じた。
「ねえ、何で断らなかったのよ。あんたからしたら迷惑なんじゃないの?」
沈黙に耐えられなくなった祥子はわざと不機嫌に訪ねた。
「迷惑ね…確かに面倒臭い。」
碧もいつもの口調で答える。
「だったら…」
「あんたには関係ないが、先生には言葉で言えないほどの恩義がある。だから…おれは断れない…」
碧は小さくため息を吐くと、鋭い眼差しを真っすぐ祥子に向けて来た。
「前にも一度言ったが…あんたもここでいい加減覚悟を決めたらどうだ? いつまでもこんなふうに、のらりくらりと逃げてないで、これがあんたにとっても最後のチャンスなんだろう…?」
真っすぐな碧の言葉に、祥子はひとことも言い返すことが出来なかった。
だって…彼の言うことは、一言一句正しかったから…。
そしてー。
その日から…碧と祥子の関係は、大きく変わっていった。
第3章 1 変わりゆく日常
3か月後―。
季節は春から夏へ…。
祥子と碧の関係も微妙な距離を保ちつつ、時間だけが過ぎていく。
はじめは最初だけ、あれこれと気を遣って何かと様子を見に来ていたが、祥子が嫌々ながらも現状を受け入れたこと、碧が黙って承諾したことに安堵して、それからは黙って見守ることにしたらしい。
午前11時―。シンフォニー。
あと30分もすれば、モーニングタイムからランチタイムへと移行する時間。
カフェの中はいつもに増して忙しく、特にここ最近開店時から満席なることが多くて、オープンから入っている祥子は、息つく暇もないほど忙しい。
「祥子さん、ちょっと休憩取ったらどうです? 今の時間ならちょっとくらいならおれたちで何とかなりますから…」
そう言って声を掛けてくれたのは、古参のバイト仲間のシンちゃんだ。
「ありがとう。でもあと30分でランチタイムでしょ? それに見てよ、外のあの行列…」
祥子はそう言いながら、店の前の歩道に続く人の波に視線を向ける。
このところ雨でも降らない限り、朝からずっとこの状態が続いているのだ。
その理由も祥子は誰よりもよく知っていた。
そう…理由は明確だ。
彼女の恐ろしく偏屈で、浮世離れした外観を持つあの“師匠”が、先月から何を思ったのか、ここシンフォニーに登場するようになったのだ。
それまで祥子が起こしに行くまで絶対にベッドから出なかった彼が、どうしたことか10時前には降りて来て、二階のテラス席の奥に陣取る様になってから、噂を聞きつけた若い女の子たちが集まるようになった。
「先生、今日もいつもの席に…?」
「うん、10分前から座ってる」
からかうようなシンちゃんの視線が店の中央階段を上がった先、ここからは観葉植物の陰で見えないけれど、周りに座っている客たちの様子から確かに彼がそこに居るという存在感だけが伝わってくるのだ。
一階にいる客たちも何となくそわそわしながら二階の様子を伺っている様子は滑稽であり、バイトのクルーたちも先を争うように彼のもとへ行きたがる。
さっきもオーナーから彼のもとに数種類の英字新聞を持っていくように指示されると、いつもさぼり気味の新人クルーが飛ぶような勢いで駆け寄ってきて、奪うように持って行った。
思わず田崎さんも呆気に取られていたほどだ。
「いいんですか? 祥子さん、彼のお世話はあなたのしごとなんじゃぁ…」
「いいの、いいの。この店の中じゃ、彼もお客さんの一人なんだから、好きにしてもらえばいいの」
「でもねえ…」
シンちゃんはそれでも気になる様子で、階段の奥を振り返って見る。
すると、さっきの新人クルーがちょっと青ざめた様子で降りて来た。
すぐ近くにいた別のクルーに何やら半べそになりながら話しかけている。
「だから言ったんだよな、近づくなって。先生の相手が出来るのは、祥子さんしかいないんだから…」
シンちゃんの言葉に祥子は思わず苦笑いする。
碧は極端な人間嫌いだ。ましてや下心を持って近づいてくる若い女の子が、大嫌いなのだ。
顔面偏差値は異常に高いくせに、その自覚はゼロ…。いや、自覚はあるが、そのことにまったく価値を見出していないというか…。
とにかく他人に対して恐ろしく辛辣なのだ。
けれどそんな状態なのに、彼に近づこうとする女の子は後を絶たず…。
まったく懲りないんだから…。
そんな中、私はマスターから手渡された何杯目かのコーヒーをトレーにのせて階段を上がった。
もちろん、碧のところに持っていくためだ。
ちょうど階段を上がりきったところで、祥子は立ち止まる。
ひとりの女の子が真っ赤な顔をして今にも泣きそうな表情で、祥子の脇をすり抜けて行った。
彼女の元居た方向を見れば、奥の窓際の席で、碧が一つの封の切られていない封筒を持って両手で破り捨てているところだった。
可愛らしい淡いピンク色の封筒で、いかにも女の子が好みそうなデザインだ。
(はあ…また?)
このところ度々こういう場面に出くわしている。
碧に渡そうと、毎回のように女の子が手紙を持って彼のところにやってくる。
けれど彼はそれをまともに受け取ったためしが無い。
いつもそのまま突き返すか、今日のように相手の目の前で破いてしまうのだ。
「あんたさぁ…やり過ぎじゃない? 何も破かなくたって…」
コーヒーをテーブルに置きながら、祥子はぼそりと言った。
「一回でも受け取ると、彼女たちは誤解する。曖昧にするよりはっきりと意思表示する方が、よっぽど親切だと思うけど…?」
そう平然とした態度で言い切る碧は、まったく隙が無い。
(顔面偏差値は異常に高いくせに、人間としての偏差値はどうなの…?)
この3か月、碧と接して分かったことは、彼は音楽家としては超一流、神がかり的な音感を持ち、見た目も一度見たら忘れられない美貌の持ち主だということ。
だけど中身は最低…。
偏屈で自己中なうえに優しさのかけらもない冷血漢なのだ。
ドン…!
碧の目の前に勢いよくコーヒーのカップを置く。
カップの中身が衝撃でこぼれ、テーブルの上に散った。
数秒おいて碧が顔を上げて面倒くさそうに祥子を見た。
「二週間、先生と東京を離れる。その間にこれを熟読しておけ…。」
碧は手元のファイルから数枚の楽譜を取り出して、祥子の前に突き出した。
祥子も反射で手を出してそれを受け取る。
「戻ったらすぐレッスンに入る。無駄な時間はないからな。忘れるなよ」
そう言うなり碧は立ち上がり、そのまま離れていった。
碧が移動するのを、その場にいる誰もが視線で追っている。
どこにいても本当に目立つ。
理子が言うとおり、どんなに才能があったとしても、これだけ見た目が良ければどうしてもそちらが目立ってしまう。
彼には彼なりの悩みがあるのかもしれないけれど…。
私には関係ないことだ。
今更ながらだけど、出来ることなら関わりたくない…けど、もう十分関わってしまった。
祥子はブツブツとひとり心の中で呟きながら、碧が手を付けなかったコーヒーを片付けた。
祥子は内心自分でも碧のことをどう処理してよいのかわからなかった。
完全に振り回されていると分かっていながら、ノーと言えない自分、それと碧がはじめから頼まれたからとはいえ、なぜ簡単に引き受けたのか…。
(あ~もう考えるだけで滅入ってくる。やめよ、やめよ、どうせあいつは二週間居ないんだから、その間に命の洗濯をして…)
ふと、目の前に置かれた譜面を見る。
碧が課題として置いていった譜面だ。
シンフォニー…?
表題にはシンプルにそう書かれている。
英語で書かれた文字は碧の少し右上がりの癖のある流れるような筆跡…。
さっと並んだ音符を目で追えば、思わず祥子は息をのむ。
(何…? この旋律…)
気が付けば夢中になって音符の流れを追っていた。
頭の中では、絶えず旋律が鳴り響き、徐々に驚きと感動が湧き上がってくる。
いつの間に碧はこの曲を書き上げたのだろう…?
譜面の端には日付と時間がある。
今朝の9時40分…。
碧はこれを書き上げてからすぐここに来て、座っていたのだ。
確実に碧は。ユーリ・アレクシア・レオンは、復帰に向けて前進している。
私は…?
急に息苦しくなって、祥子は慌ててテーブルを片付けて階下に降りた。
譜面は急いでロッカーのファイルケースに仕舞い込む。
どうせ、あいつはしばらく帰ってない。
今のうちに息抜きしようと、祥子はスマホを出して理子に連絡した。
その夜のビストロで。
祥子はいつものごとく、ビールを片手に、理子と日々の憂さ晴らしをしていた。
「あ~。今朝、やっと原稿はけたから、いいタイミングだったわ。ナイス祥子!」
理子は昔からお酒は強い。最初からペースも速い。
「理子、ペース早過ぎ。」
「そお? ほら、あんたも飲んで! ほんとにまあ、彼の存在を、よくも私に3か月も隠してたんだから! 信じらんない!」
理子は、すねたように上目遣いに祥子を睨む。
じつは、碧の存在を理子には、なかなか本当のことが言えなかったのだ。
理子は数年前から、アレクシア・レオンをずっと追い続けて来た。
その本人が、突然、祥子の音楽の師匠になったのだ。
祥子自身、その事実を、すぐには受け入れられなかったのに、まして理子が納得するわけがない。
まあ、結局すぐ別ルート(はじめ側)からバレることになったのだが…。
「もう、だからあんたと私の間で秘密は無し!っでもはじめ先生も、思い切ったことするわね。あのアレクシアをあんたの師匠にするなんて」
「ちょっと、理子。声が大きいよ」
それぞれのスペースは仕切りで隔てられているとはいえ、誰が聞いているかわからない。
「もう、理子。気を付けて。名前だって、碧って呼んで」
「分かったわよ。本当は単独インタビュー取りたいところだけど、はじめ先生と約束したから、今のところは大人しくしておくわ。そのかわり、彼の情報、時々は教えてよ!」
「いいけど、記事にしないなら」
「しない、しない! 個人的に興味があるだけ。だって見てるだけで、目の保養になるじゃん。あんたあんなに近くにいて、そう思わない?」
目の保養になるどころか、毎日ストレスだらけだとも言えず、祥子は小さく苦笑いを浮かべた。
確かにあの顔面偏差値は罪だ。
周りの女の子たちを惑わすには十分だが、本人にはその自覚が全くなく、逆にものすごい毒舌を吐く。
シンフォニーに顔を出すようになって、その毒気に充てられた人は何人もいるのに、それでも群がってくるのは、もはや病気なのではと思う。
「それで、あんたはどうなのよ。あんなイケメンと常に二人でいて、何も感じないわけ?」
「……」
一瞬黙る。
確かに、あの青い瞳を見ると、ドキッとする。
だけど、それだけ…。それよりも…。
碧の奏でる音楽。紡がれる音のひとつひとつの方がよっぽど気になる。
そう思ったら、急に頬がカッと熱くなる。
「あら~? 何、急に赤くなってんのよ。なんかやましいことでもあるんじゃないのぉ? 白状しなさいよ!」
「ない、ない。あいつ、ものすごいわがままで、毒舌家。絶対女嫌いだわ。毎日シンフォニーで女の子泣かせてるし」
祥子がそう言うと、理子は豪快に爆笑した。
つられて祥子も笑った。
けっきょく理子は、なんだかんだ言って、祥子を優先してくれる。
本当なら、こんなスクープ、見逃す手はなのだから。
世間の人は誰も知らない。
世界的天才音楽家。
ユーリ・アレクシア・レオンが、行き遅れ寸前の無名女流チェリストのために、レッスンをして、曲まで書いているなんて、だれが思うだろうか。
何はともあれ、もう後戻りは出来ない。
はじめは戸惑いしかなかった祥子だが、今では碧の奏でる音楽の一音一音が、祥子の中に眠っている何かを呼び起こす。
それが何なのか、祥子自身にも分かっていなかった。
2 碧のいない日々ー
碧が東京を離れて三日目の夜、祥子はシンフォニーのスタジオで、渡された譜面を広げていた。
『Symphony』
最初に目を通した時から、美しい曲だと思った。けれど、実際にチェロで弾いてみると、その印象だけでは足りなかった。
低い音から始まった旋律が、少しずつ明るさを帯びていく。ピアノの譜面に目を移せば、チェロが息を継ぐところへ、別の旋律が差し込まれていた。
それぞれ違う動きをしているのに、重なった時の響きが頭の中で鮮やかに聞こえる。
(こんなの、どうやって思いつくんだろう……)
譜面の端には、書き上げた日付と時間がある。
あの朝、碧はこれを持って、いつものようにカフェに座っていた。何でもない顔で新聞を読み、コーヒーを飲んでいたのだ。
自分が何日もかけて読み解こうとしているものが、彼の中ではもう完成している。
祥子は弓を握り直した。
もう一度、最初から弾く。
けれど途中の音程が崩れた。慌てて直そうとすると、今度は弓の返しが乱れる。
「……もう」
止まった音のあとに、自分の荒い息だけが残った。
ゆっくりなら弾ける。ひとつずつ確かめれば、指も届く。それなのに、旋律をつなげようとした途端、音が窮屈になる。
こんな音ではない。
わかっているのに、弾けなかった。
碧なら、一度譜面を見ただけで弾くのだろう。チェロが専門でもないくせに、祥子が何度もつまずく箇所を、何でもないように。
あの日、背中越しに伸びてきた長い指を思い出す。
悔しかった。
近くにいれば腹が立つ。いなくなっても、こうして自分との差を突き付けてくる。
(あんたには、わからないでしょうね)
思った途端、祥子は唇を噛んだ。
何がわからないというのだろう。
碧がどんなふうに音楽を身に付けてきたのか、祥子はほとんど知らない。ただ、目の前で簡単そうに弾いて見せる姿を見て、勝手にそう決めている。
それでも今は、彼が苦もなく出来ることを、自分には出来ないという事実がつらかった。
*
翌日のカフェでの休憩中、祥子はスマホで碧の名前を検索した。
ユーリ・アレクシア・レオン。
掲載されている写真は、横顔のみ。
それもかなり不鮮明。
十二歳での受賞歴。演奏を絶賛する記事。作品についての評論。
読むほどに、胸の奥が重くなる。
十二歳。
自分がまだ、音楽教室へ通うだけで精いっぱいだった頃だ。
祥子は画面を閉じた。
「何見てたの?」
カウンターの向こうから田崎に聞かれ、スマホを伏せる。
「ちょっと……調べもの」
田崎はそれ以上聞かず、コーヒーを置いてくれた。
その気遣いさえ、今日は少し苦しかった。
はじめ先生も田崎も、祥子には才能があると言ってくれる。碧の指導を受けられるように、わざわざ彼の滞在先まで用意してくれた。
そこまでしてもらって、何も変われなかったら…?。
やっぱりこの程度だったと、がっかりさせてしまったら…?。
「田崎さん」
「うん?」
「最近……碧って、私のこと、何て言ってました?」
田崎が顔を上げた。
「何か言われたの?」
「ううん。そうじゃなくて」
祥子はカップに目を落とした。
「本当に、教える意味があると思ってるのかなって」
田崎は少し黙ってから答えた。
「それは、帰ってきたら本人に聞いてみたらいい」
「……聞けないよ」
「どうして?」
言葉に詰まった。
はじめ先生に頼まれたから。それだけだと言われるのが怖かった。
*
一週間が過ぎても、同じ小節でずっとつまずいていた。
苛立って弾き直すたび、音はさらに乱れる。
祥子はとうとう弓を置いた。
スタジオの隅には、田崎が調整を終えた楽器のケースが並んでいる。壁際のピアノも、いつでも美しい音が出るよう整えられていた。
こんな恵まれた場所で練習しているのに。
譜面まで用意してもらっているのに。
祥子はチェロを抱えたまま、俯いた。
碧の曲を弾いていると、嬉しくなる瞬間がある。自分の知らなかった音を、この楽器から引き出せるような気がする。
でも、そのすぐあとに、怖くなる。
曲のよさを、自分が台無しにしているのではないか。
もっと上手な人が弾けば、碧の望む音になるのではないか。
譜面を閉じかけた手が止まった。
途中の余白に、碧の字で短い指示がある。
『ここは急ぐな』
祥子はしばらく、その文字を見つめた。
さっきから早く弾こうとしていた。指定の速さに追い付こうとして、出来ないところを勢いで越えようとしていた。
ゆっくり練習する自分が、ひどく下手に思えたから。
「……急ぐな、か」
呟いて、もう一度弓を取った。
今度は、問題の小節だけを弾いた。
一音目を確かめ、次の音へ指を移す。つながらなければ止めて、どこに無理があるのかを探す。
碧なら何秒で弾けるだろう。
また浮かんだ考えを振り払って、左手を見た。
今、動かさなければならないのは、自分の指だった。
*
帰ってくるまで、あと二日という日。
祥子は初めて、あの小節を止まらずに弾けた。
思わず顔を上げる。
誰もいないスタジオで、もう一度試した。今度も、音は滑らかにつながった。
「……出来た」
小さく笑った途端、目が熱くなった。
たった数小節だ。
碧が聞いたら、今頃そこかと呆れるかもしれない。
それでも、昨日まで出来なかった。
祥子は譜面に鉛筆で、小さな丸を付けた。
まだ、彼の才能を思うと苦しくなる。並んで演奏することを考えれば、不安も消えない。
けれど、この曲をほかの誰かに渡したいとは思わなかった。
碧のピアノと合わせたい。
その時に、彼の音を追いかけるだけで終わりたくない。
祥子は背筋を伸ばし、チェロを構え直した。
次は、続きの小節だった。
3 母のヴァイオリン
京都へ一緒に行ってもらえないかと、はじめから告げられた時、碧はすぐに断った。
「会うつもりはありません」
はじめは頷いた。そう答えることを、予想していたのだろう。
「そうでしょうね。僕も、君に無理をさせたいわけではありません」
「だったら、なぜ今さら……」
言いかけて、碧は口を閉じた。
母の実家、倉木家。
京都でも名のある旧家。
その当主である倉木総一郎が、自分に会いたがっているという。
七十八歳。病を得て、もう長くはないらしい。
母がユージンとの結婚を望んだ時、総一郎は激しく反対した。そして妊娠がわかると、一人娘を勘当した。
碧が知っている祖父の話は、それだけだった。
「病気になったから、会いたいんですか?」
碧の冷えた声に、はじめは目を伏せた。
「そう言われても仕方のない方です」
「おれにどうしろと? 許すと言ってほしいんですか?」
「僕も、そんなことは頼みません」
いつになくはっきりした答えだった。
碧が顔を上げると、はじめは膝の上で組んでいた手をほどいた。
「ただ、小夜子さんのヴァイオリンを、君に返したいとおっしゃっているんです」
「……母の?」
「グァルネリです」
碧は黙った。
母が亡くなったあと、その楽器の行方はわからなくなっていた。
幼い頃、母の膝のそばで見上げた、艶のある木の色。
弓が動くたびに聞こえた音。そこまでは覚えているのに、顔を思い出そうとすると、いつも輪郭がぼやけた。
「本当に、母のものですか」
「僕が学生時代に見た楽器と同じか、確かめたいと思っています。君も一緒に来ませんか?」
しばらくして、碧は小さく頷いた。
「……ヴァイオリンを受け取るだけです」
「ええ。それで構いません」
*
倉木家は、京都の静かな住宅地にあった。
門をくぐると、石畳の先に古い屋敷が見えた。
庭の木々はよく手入れされ、開け放たれた広い玄関の向こうに、長い廊下が続いている。
母は、ここで育ったのか。
碧はそう思ったが、懐かしさはなかった。
迎えに出た年配の女性に案内され、はじめとともに奥の部屋へ進む。途中、庭に面した回廊を通った時、どこかで見た景色のような気がした。
けれど、自分がこの家へ来たはずはない。
碧は足を止めずに歩いた。
総一郎は、庭の見える部屋で背もたれのある椅子に座っていた。
痩せた肩に薄い上着を掛け、膝には毛布を載せている。二人が入ると、ゆっくり顔を上げた。
その目が碧を捉えた途端、わずかに見開かれた。
「……碧か」
「倉木碧です」
碧は入口に近い場所で答えた。
総一郎は何か言いかけ、息を整えるように口を閉じた。傍らにいた女性が椅子を勧めたが、碧はすぐには座らなかった。
「来てくれて……ありがとう」
「母のヴァイオリンがあると聞きました」
総一郎の視線が下がった。
「ああ。ここにある」
傍らの女性が、部屋の隅に置かれたケースを運んできた。
古い革張りのケースだった。金具には細かな傷があり、持ち手の色も変わっている。
碧が手を伸ばす前に、はじめが静かに尋ねた。
「開けてもよろしいですか?」
総一郎は頷いた。
留め金を外し、蓋を開いたはじめの手が止まった。
「……小夜子さんのものです」
声が少しかすれていた。
碧はそばへ寄った。
深い飴色のヴァイオリンが、ケースの中に収まっている。
すぐには触れられなかった。
こんなに小さかっただろうか。
記憶の中では、母が抱えるその楽器は、もっと大きく見えていた。
「なぜ、ここにあるんですか?」
総一郎は、楽器に視線をおいたまま答えた。
「小夜子が亡くなったと聞かされたのは、ずいぶん後だった。その時、このヴァイオリンの行方も探したが、見つからなかった。最近、知り合いが見つけてくれた」
「母が亡くなったことは、知っていたんですね」
「知らされた時には……もう、すべてが済んでいた」
「おれのことは?」
総一郎が碧を見た。
「探した。だが、居場所がわかった時には、お前はもう日本にいなかった」
「それで、終わりですか?」
部屋が静まり返った。
はじめは何も言わなかった。
総一郎は毛布の端を握った。痩せてしわがれたその指は細く、節だけが目立っていた。
「斎藤さんから、お前が父親のもとで暮らしていると聞いた。私が出ていくより、その方がよいと思った」
「母を追い出した時も、そうやって自分で決めたんですか」
総一郎は答えなかった。
碧は、自分の声が思ったより冷たいことに気が付いた。
怒鳴りたいわけではない。今ここで、この老人を責めても、母が戻るわけではなかった。
それでも、何もなかったように楽器を受け取ることはできなかった。
「小夜子は……お前を産むと言った」
総一郎が、長い沈黙のあとに口を開いた。
「結婚も認めぬ。子供を産むことも許さぬと、私は言った。あの子は、それでも産むと……」
そこで声が途切れた。
「出ていけと言ったのは、私だ」
碧は総一郎を見つめた。
「戻ってくると思っていた。困れば、私を頼ると思っていた」
「母は、頼らなかったんですね」
「ああ」
総一郎は俯いた。
「私が……頼れなくした」
碧は視線を楽器へ戻した。
母は小さな音楽教室を開き、自分を育てたという。病気になってからも、この家には戻らなかった。
その時、母が何を思っていたのか、碧にはわからない。
ただ、幼い自分を抱いてくれた腕が、ひどく細かったことだけは覚えている。
「許してほしいとは言わん。」
総一郎の声が聞こえた。
「だが、最後に一度……会いたかった」
碧は答えなかった。
しばらくして、ケースからヴァイオリンを取り上げた。
指先に触れる木の感触は、初めてのはずだった。それなのに、顎へ当てる前から、胸の奥にかすかな痛みがあった。
*
その日は、楽器を受け取ったら、そのまま帰るつもりだった。
けれど、長く弾かれていなかったグァルネリの状態を確かめ、手入れを頼むことになった。
はじめが信頼する職人へ連絡を取り、碧たちは京都に滞在した。
倉木家に泊まるという申し出は断った。
ホテルに戻った夜、碧はベッドの端に座り、開いたケースを見つめていた。
蓋の内側の小さな収納に、古い布が入っていた。
楽器を拭くためのものだろう。端に、小さく名前が縫い付けられている。
小夜子。
指でその文字に触れた。
母の名前を、これほど近くで見たのは初めてだった。
*
滞在中、はじめは小夜子のことを少しずつ話した。
大学の練習室で、いつまでも同じところを弾き直していたこと。普段は穏やかなのに、自分の楽器を他人へ貸すことだけは、頑として断ったこと。
「そのグァルネリは、お母様との思い出でもあったんです」
ホテルのラウンジで、はじめはそう言った。
「君のお祖母様ですね。小夜子さんは、その方のことを話す時、とても嬉しそうでした」
碧は黙って聞いた。
自分の母にも、母を恋しく思う時期があったのだ。
今まで、小夜子を思い浮かべる時、そこにいるのはいつも幼い自分を抱いた母だった。
けれど、はじめの話の中では、彼女は笑い、迷い、ときには腹を立てる若い女性だった。
「……もっと、聞かせてもらえますか」
はじめはカップを置いた。
「ええ。僕の覚えていることなら、いくらでも」
*
手入れを終えたグァルネリが戻ってきたのは、京都へ来て一週間ほど経った頃だった。
碧はホテルで調弦し、ゆっくり弓を載せた。
最初の音を出した途端、手が止まった。
もう一度、同じ弦を弾く。
目を閉じると、狭い部屋の窓が浮かんだ。夕方の光。そばに座る母の横顔。
碧、と呼ぶ声。
はっきり思い出したわけではない。それでも、長く遠ざかっていたものが、すぐそばまで来ている気がした。
幼い自分は、母の弓が止まると、その手を引いた。
もっと弾いてほしかった。
碧は目を開けた。
頬を伝った涙が顎まで落ち、慌てて楽器を下ろした。
泣くつもりなどなかった。
母の顔さえ、満足に覚えていないのに。
机の上へグァルネリを置き、両手で顔を覆う。
廊下で足音が止まり、控えめにドアが叩かれた。
「碧君?」
はじめの声だった。
碧は返事をしようとして、できなかった。
*
帰京を前に、碧はもう一度だけ倉木家を訪ねた。
総一郎は前よりも疲れて見えた。長く話すのは難しいと、迎えた女性から聞かされた。
碧は椅子に座り、持ってきたケースを開いた。
「母の音を覚えている人は、もう少ないので」
総一郎が、ゆっくり顔を上げる。
「少し、弾きます」
許すと言うつもりはなかった。
祖父と呼ぶことも、まだできなかった。
ただ、この楽器が母にとって大切だったことを、総一郎にも聞いてほしかった。
碧が弓を動かすと、静かな部屋に音が広がった。
子供の頃、母が何度も弾いていた旋律だった。全部を覚えているわけではなく、途中からは、記憶を探りながらつないでいった。
総一郎は目を閉じて聞いていた。
痩せた頬を涙が伝っても、拭こうとはしなかった。
弾き終えた碧は、しばらく楽器を膝に置いていた。
「……小夜子が、そこで弾いているようだった」
総一郎が呟いた。
碧は首を振った。
「弾いていたのはおれです」
総一郎は目を開けた。
「ああ……そうだな」
碧を見て、かすかにその口元に笑みが浮かぶ。
「碧。ありがとう」
老人は目を閉じたまま、微笑んでいた。
*
それから二日後―。
倉木総一郎は永眠した。
翌日には東京に帰る予定だった碧は、日程を延長してそのまま葬儀に参列することにした。
決して許したわけではない。
ただ、最後に会った総一郎の顔には、深い後悔の想いがあった。
長い年月、祖父は祖父なりの贖罪の日々を送ったのだろう。
さらに数日後、東京へ戻る新幹線の中で、碧は膝の上のケースに手を置いていた。
窓の外を、知らない町が流れていく。
総一郎への気持ちは、整理できないままだった。謝罪を聞いたからといって、母の過ごした時間が変わるわけではない。
それでも、来なければよかったとは思わなかった。
隣では、はじめが静かに目を閉じている。
碧はスマホを取り出し、祥子とのトーク画面を開いた。
『明日の午後、スタジオで』
送ってから、膝の上のケースへ目を落とす。
この音を、彼女のチェロと重ねたらどうなるだろう。
碧はもう一度、文字を打った。
『聴いてほしいものがある』
それだけ打って、スマホをポケットにしまい、目を閉じる。
明日から、何かが変わる…。
そんな気がした。
4 開かれた扉
約束の時間より十五分早く、祥子はシンフォニーのスタジオへ上がった。
譜面台を整え、碧が来る前に少し指を慣らしておくつもりだった。ところが、防音扉を開けると、窓際にすでに彼の姿があった。
「……早いのね」
「さっき来たばかりだ」
碧はそう答えて、手元のケースを閉じた。
二週間ぶりに正面から見る彼は、相変わらず近寄りがたかった。白いシャツに黒いパンツという簡単な服装なのに、午後の光の中に立つ姿は妙に整っていて、声を掛けるのをためらわせる。
けれど、今日の碧は何かが違った。
祥子がケースを置いている間も、急かす言葉が飛んでこない。
「練習は?」
「あんたが言った通り、ちゃんとやったわよ」
つい身構えた返事になる。
碧は小さく頷いた。
「じゃあ、最初から聞かせて」
それだけ言って、ピアノの前に座る。
祥子は思わず彼を見た。
どうせ途中までだろう、とか。譜面を見ただけで練習した気になるなよ、とか。
そんな嫌味な一言が飛んでくると思っていたのに、碧は黙って待っていた。
「……何?」
視線に気が付いた彼が顔を上げる。
「別に」
祥子は慌ててチェロを構えなおした。
*
最初の数小節は、思ったより落ち着いて弾けた。
碧のピアノが入る。
その音を聞いた瞬間、祥子の指に余計な力が入った。
二週間、頭の中で思い浮かべていた音とは違う。
実際の響きはずっと繊細で、チェロの音のすぐそばへ来たかと思うと、静かに先へ進んでいく。
追い付こうとして、弓の返しが乱れた。
碧の手が止まる。
(ほら、やっぱり……)
祥子は唇を引き結んだ。
「そこの前から、もう一度」
「わかってる。今、ちょっと……」
「うん。急がなくていい」
言い返しかけた言葉が、行き場をなくした。
碧は譜面へ目を落とし、問題の小節を指で示した。
「ここまでは、その速さでいい。そのあと、おれの音を聞いてから動こうとするから遅れるんだ」
「……合わせなくていいの?」
「聞くのと、待つのは違う。自分の旋律を続けて」
説明は短かった。声も淡々としている。
けれど、前ならここで、何度もいわせるな。という言葉が付いてきた。
祥子は少し戸惑いながら、チェロを構え直した。
今度はピアノが入っても、自分の音を途切れさせないように弾く。
碧の音が、それに重なった。
何日も繰り返した小節を越え、次の旋律へ入る。そこまで弾いたところで、碧が手を止めた。
祥子は息を詰める。
「今ので、いい」
「……え?」
「そこ、普通に弾けるようになったんだな」
顔を上げた彼と目が合った。
からかっている様子はなかった。
「まあ……ずっと、そこばっかりやってたから」
「そうか」
碧はもう一度、譜面に目を戻した。
祥子は弓を持つ手を下ろせずにいた。
たったそれだけの言葉だった。
けれど、ひとりで何度も弾き直していた夜を、初めて誰かに見つけてもらった気がした。
*
最後の音が消えても、碧はすぐに弓を下ろさなかった。
祥子もチェロを抱えたまま、息をつく。久しぶりに合わせたせいか、肩に余計な力が入っていた。
「……もう一度、そこ」
碧が譜面を指した。
「私が入るところ?」
「うん。少し急いでる」
「分かってる。あなたの音を聴いてると、置いていかれそうになるのよ」
言ってから、祥子は口をつぐんだ。以前なら、そんなことは自分でどうにかしろ、と返されたはずだった。
けれど碧は、何も言わず、しばらく譜面を見ていた。
「じゃあ、入る前を少し変える」
「え?」
碧は答える代わりにヴァイオリンを構え、数小節前から弾き始めた。
祥子は慌てて弓を上げた。
さっきまで掴みきれなかった旋律の流れが、今度ははっきりと分かった。碧の音を追うのではなく、自分から入っていける。
チェロの低い響きが重なると、彼の旋律がその上を滑らかに伸びていった。
数小節先で、碧が弓を止めた。
「今の」
「……うん」
祥子は小さく頷いた。
「とても入りやすかった」
「なら、それで…」
碧は鉛筆を取り、譜面に短く印をつけた。
京都から戻って以来、何かが違っていた。
近寄りがたい雰囲気は変わらない。相変わらず言葉も少ないし、演奏中に向けられる視線も厳しい。
それでも以前なら、祥子が合わせられるまで、何度でも同じように弾いただろう。今日は、彼のほうが先に音を変えた。
「何?」
見ていたことに気づかれて、祥子は視線を譜面に戻した。
「別に…」
「言いたいことがあるなら言えば?」
「あんた……少し、変わった気がして」
碧の鉛筆が止まった。
「どこが?」
「前ほど、怒らなくなった…」
「怒ってない。前も…」
「そうかな? まあそういうことにしておくわ」
反論を待ったが、碧は鉛筆を置いただけだった。
「休憩する?」
「まだ弾けるけど」
そう祥子が返せば、
「手、気にしてる」
碧は表情を変えずにぽつりとつぶやく。
祥子は無意識にさすっていた左手から、右手を離した。
「少し硬くなっただけ」
「じゃあ、休めば?」
ぶっきらぼうな言い方に、かえってほっとした。
祥子がチェロをスタンドに置くと、碧もヴァイオリンをケースに収めた。開いた蓋の内側に目を留め、その指が一瞬止まる。
京都のことは、まだほとんど聞いていなかった。
「そのヴァイオリン……」
碧が顔を上げた。
「お母さんの、だったのよね」
「ああ」
「さっき、近くで聴いていて思ったの。柔らかい音がするって」
言ってから、楽器のせいだけではないと思った。けれど、それをうまく説明する言葉は見つからなかった。
碧はケースの中へ視線を戻した。
「俺が弾くと、たぶん、違うんだろうけど」
「お母さんが弾いていた時と?」
「さあ、覚えてない」
静かな答えだった。
「音は、ほとんど、記憶にないから…」
祥子は何も言えず、椅子の背に掛けたタオルを手に取った。
碧はヴァイオリンの位置を直し、蓋を閉めずに離れた。
「コーヒー、飲む?」
「……飲む」
部屋を出ていく背中を、祥子は少し意外な気持ちで見送った。
やがて戻ってきた碧は、二つのカップのうち一つを祥子の前に置いた。砂糖とミルクも、その隣に。
「ありがとう」
碧はヴァイオリンの位置を直し、蓋を閉めずに離れた。
「コーヒー、飲む?」
「……飲む」
部屋を出ていく背中を、祥子は少し意外な気持ちで見送った。
やがて戻ってきた碧は、二つのカップのうち一つを祥子の前に置いた。砂糖とミルクも、その隣に。
「ありがとう」
碧は頷き、自分のカップを持って窓辺に寄った。
祥子はコーヒーをひと口飲んだ。何か話したくなったが、今はこの静けさも悪くなかった。
「さっきのところ」
先に口を開いたのは碧だった。
「次は、もう少し音を出していい」
「出していたつもりだけど」
「まだ遠慮してる」
「あなた相手に遠慮する余裕なんてないわよ」
碧がわずかに笑った。
ほんの短い表情だった。それを見た途端、祥子は続きの言葉を飲み込んだ。。
「何?」
「……何でもない」
カップに目を落とす。
練習を再開したら、今度はもう少し踏み込んで弾いてみようと思った。
5 名前のない想いを抱いてー。
それから、穏やかな日々が続いた。
祥子はいつものようにシンフォニーで働き、時間を見つけてチェロを弾いた。そこに碧と音を合わせる時間が加わったことも、少しずつ日常になっていた。
午後になると、店の扉が開くたびに顔を上げてしまう。
碧だと分かると、ほっとする。その自分に気づくたび、祥子は手元の仕事に目を戻した。
「今日は遅かったね」
カウンターの端に座った碧に声をかけると、彼は時計を見た。
「時間にはまだ早いけど?」
「別に」
置いたコーヒーカップが、思ったより大きな音を立てた。
碧が顔を上げる。
祥子は伝票を取るふりをして、その視線を避けた。
何時に来ようと、彼の自由だ。それなのに、待っていたと知らせるようなことを言ってしまった。
「用事があったから」
少しして、碧が言った。
「はじめ先生と会ってた。ついでに、これ」
紙袋から取り出したのは、駅前にあるパティシエの焼き菓子だった。
「田崎さんに?」
「みんなで食べれば」
祥子は袋を受け取った。以前、休憩中においしいと話したことのある店だった。
「……ありがとう。あとで頂くわ」
碧はもうコーヒーを飲みながら、英字新聞を読んでいた。
覚えていたのだろうか。
今までの碧なら、決して自分以外の誰かのことを気にしたりしない。
ましてその人間を喜ばせようなんて気遣い一度もなかったはず。
何か、あったの…?
聞いてみたいと思いながら、聞けば自分だけが特別な意味を探しているような気がして、祥子は袋の口を丁寧に折り直した。
*
練習が始まれば、碧は相変わらず厳しかった。
「今の音、最後まで聴いて」
「聴いてるわよ」
「あんたが聴いてるのは、自分の音だけだ」
そう言われて、腹は立つ。
けれど弾き直せば、彼の言っている意味が分かった。
そして、うまく重なった時には、碧は、以前のようにすぐ次を要求しなくなった。
「今の、よかった。それでいい」
短い言葉に、祥子の弓が止まる。
「……もう一回、言って」
「何を?」
「今のやつ。よかったって」
祥子が笑うと、碧もわずかに口元を緩めた。
そんな表情を見る機会が少しづつ増えていった。
店で学生たちが、他愛のない失敗談を話している時。
田崎が冗談を言った時。
祥子が言い返す言葉に詰まった時にも。
そのたびに祥子は、碧が本当は、まだ二十二歳なのだと思い出した。
演奏している姿を見ていると、年齢などまったく感じさせない。
でも祥子には、碧は、自分よりはるか遠くにいる人に思えてしまう…。
それなのに、ふとした笑い方や、コーヒーが熱くて黙ってカップを置く仕草に、不意に胸が和んだ。
もっと見ていたいと思ってしまう。
自分のその気持ちに気が付いて、思わず戸惑う。
何か、おかしい。どうして…?
答えは、自分でも見つけられなかった。
*
ある日の練習で、祥子は何度も同じところを間違えた。
碧の視線を感じて、余計に指がもつれる。
「ごめん。もう一度」
「少し休んだら?」
「大丈夫よ」
弾き始めて、また止まった。
祥子は小さく息を吐き、弓を膝に置いた。
「……今日は駄目ね」
碧は何も言わず、譜面を戻した。
呆れられただろうか。
そう思って横顔を見ると、ちょうど彼もこちらを向いた。
「何かあった?」
「何もないわ」
「ならいいけど」
追及されなかったことに安堵しながら、少しだけ寂しくもなった。
前の碧なら、必ず一言あった。
そんなことを不満に思うなんて、自分でも勝手だと思う。
碧はヴァイオリンを構え直した。
「最初に合わせた曲、弾く?」
「今?」
「気分、転換に」
祥子は彼を見た。
碧はもう譜面を探していた。その横顔には、こちらの反応を気にする様子もない。
「……あんたでも、そんなこと言うのね」
「どんなこと?」
「何でもない」
祥子は弓を持ち直した。
弾き慣れた旋律が流れ始める。碧の音を聴きながら、ゆっくりとチェロを重ねるうち、指の強張りが、不思議なくらいほどけていった。
先ほどまで気になっていた彼の視線も、今は自然に受け止められた。
曲が終わると、碧が言った。
「ちゃんと弾けるじゃん」
「曲によるのかも…」
「じゃあ、さっきのも弾けるはずだろ?」
いつもの冷めた口調に、祥子は笑った。
「せっかく最近、ちょと優しくなったと思ったのに」
「は? 何だ。それ」
碧は怪訝そうに眉を寄せた。それがおかしくて、祥子はもう一度笑った。
(前の私なら、きっと怒って反発してた。変わったのは、碧? それとも私?)
*
6 初めてのデート?
帰り支度をする頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
祥子がチェロケースを背負おうとすると、碧が扉を押さえた。彼女が通り終えるまで、そのまま待っている。
たったそれだけのことに、また心が動く。
「ありがとう」
顔を上げると、思ったより近くに碧がいた。
「気をつけて。そこ、狭いから」
ケースが扉に当たらないように、彼の手が軽く添えられた。
祥子は頷き、先に廊下へ出た。
後ろで照明が消え、扉の閉まる音がする。追いついてきた碧と並んで階段を下りながら、祥子は何か話そうとした。
けれど、浮かぶのは今日の練習のことばかりだった。
彼となら、明日も弾きたい。
明後日も、その次も。
そう思ったところで、胸の奥が落ち着かなくなった。
「どうした?」
無意識に足を止めていたらしい。
数段下から、碧がこちらを見上げていた。
「……何でもない。今、行く」
祥子はケースの肩紐を握り直した。
碧は急かさずに待っていた。彼の隣まで下りると、また二人で歩き始める。
碧がわざと歩調を、自分に合わせてくれていることに気づいて、祥子はますます、彼の顔を見られなくなった。
碧…あんたは今、どう思ってるんだろう…。
こんな厄介な生徒を引き受けて、後悔してるかな?
1階に降りて、ビルのエントランスを抜け、自動ドアの外まで来た時、一台のタクシーが止まっていた。
「今日は遅くなったから、タクシーを呼んだ」
何でもないように碧は言う。
「いいよ。まだ通りは明るいし」
時刻は21時の少し前…。
いつもなら遅くとも、19時半頃までには終わりを告げるレッスンが、今日は祥子の不調のせいで、延長した。
というよりは…二人ともその日の音の余韻を手放したくなくて…やめられなかったのだ。
「だめだ。何かあったら、おれが先生に叱られる」
そう言いながら、碧は開いたタクシーの後部座席に、チェロを抱えた祥子を押し込む。
「ちょ、ちょっと…!」
不意に少し前、これに似た場面があったな…。ちょっと立場は違うけど…。
祥子がぼうっとしていた間に、続けて隣に乗り込んできた碧に、祥子は驚く。
「何?」
「腹減ったなと思って…。遅れついでにちょっと付き合え」
そう言われて、祥子は自分もひどく空腹なのに気が付く。
確かに今日は晩御飯を食べていない。
レッスンが終わってから何かコンビニで買って食べる予定だったから、まさかこんなに遅くなると思っていなかったのだ。
運転手にどこへ行くかと問われて、碧は少し考えている。
「ホテルのレストラン…とはいかないか、あんたのその恰好じゃ…」
碧の視線が、自分の全身に向けられていると知って、祥子の頬が赤くなる。
今日の祥子の装いは、何度も洗って少し型崩れした綿のシャツに、膝の空いたジーンズ。
もともとお洒落にそれほど興味のない祥子は、普段でもジーンズ姿が多い。
「じゃあ、ひとりで行けば?」
自然と卑屈になる自分を感じる。
でも碧は言う。
「はあ、どこでもいいや、じゃあ、あんたの好きなところで」
碧は本当に空腹らしい。
何も気にしていない様子の碧がちょっと憎らしかった。
普段から碧は、シンフォニーか、元先生とレストランで食事することが多い。
はじめ先生の言うところによると、昔からひとりで食事することが多かった碧は、他人に見られることが嫌いなのだとか。
レストランでも、ほぼ個室を利用するのだそうだ。
「どこでもいいの?」
「いい。文句言わない」
( ホントだね?)
祥子は少し意地悪な気分になる。
そこでタクシーの運転手に、祥子はある住所を告げる。
それほど遠くないところ、タクシーで20分くらいのところにある店の住所を告げた。
祥子は隣に座っている碧をチラリと見る。
黒い上質の長袖シャツに、細身の黒いスラックス。足元もどこかのハイブランドの革靴。
サングラスで50万近く使うくらいだから、きっと今日のコーディネートは、指三本くらいの桁は平気でいくのだろう。
祥子が言ったその店は、電車で数駅先の高架下にある、こじんまりした居酒屋だった。
今でも時々、理子と来ることはある。
でも本当はその昔、学生時代に聡とよく通った店だった。
祥子は先に立って狭い入り口の暖簾をくぐる。
後ろを振り向くと、携帯を出して料金を払い終えた碧が、ここ? というふうにこちらを見ている。
祥子は小さく頷いて、前を向いて店に入っていく。
その店はカウンターと、奥に小さなお座敷の有るこじんまりした居酒屋で、カウンターの中には4、50代の料理人風の店主がいた。
客席も半分くらいは埋まっていて、その多くは仕事帰りのサラリーマンで、奥の座敷では学生のグループらしい、賑やかな笑い声が響いている。
「お…! 祥子ちゃん、久しぶりだねえ! ひとりかい?」
店主がそう言った時、怪訝そうな表情をした碧が、窮屈そうに入り口から身をかがめて入ってきた。
やはり、長身の彼には難しかったのか、入り口の鴨居に額をぶつけたらしい。
「痛っ!」
びっくりしたように振り返る彼の様子がおかしくて、祥子は思わず笑う。
「兄ちゃん、ごめんなぁ! 狭くて、気を付けて!」
店主の声に、碧は気まずそうに横を向く。
「大丈夫? あんたのサイズ、日本向けじゃないもんね」
そう言いながら、祥子は片側の壁のフックにチェロのケースを引っ掛ける。
店は狭いが、その一角の荷物スペースは十分広い。
「こっちへ来て」
まだ戸惑い気味の碧を手招きする。
店主のおじさんもそうだが、碧が入ってくると、店内にいた他の客たちも一斉に話を止めてこちらを見た。
「……」
彼らの視線を受けて固まる碧。
「ほら、座ンな。兄ちゃん。あ、もしかして、言葉伝わんないか」
店主のおじさんは困ったように苦笑いする。
碧を見て、外国人だと思ったのかもしれない。
それを見て祥子は思わずふきだした。
「驚いた。こんな店があるんだな…」
碧は戸惑いながら、祥子の隣に腰を下ろす。
狭いカウンターの席は、彼にはやっぱり少し窮屈そうに見える。
でも、驚いたことに、それほど碧は嫌そうには見えなかった。
「祥子ちゃん、彼氏かい? 恐ろしくイケメンさんじゃないか?」
「はあ? 違うって。彼は音楽の先生。碧、この店、見かけは汚いけど、味は超一流なの。美味しいもの、食べたいでしょ?」
「はは、汚いだけ余計だよ。こんなに若いのに、先生なのかい?」
「そう、音楽の」
店主は、穏やかな笑みを浮かべながら、小さな器の小鉢を差し出す。
小鉢にはきんぴらごぼうが入っていた。
それを受け取った碧は、傍らの箸をとって、器用に食べ始める。
「あ…美味(うま)っ!」
その横顔を見ていると、祥子の胸に温かいものが広がった。
(食べる時は普通の男の子なんだね…)
最初は戸惑っていた碧も、店主の優しさと料理の味に、すっかりリラックスしたようすで、次々に注文しては、満足そうに平らげていた。
その時の祥子は素直に碧に接することが出来た。
純粋に美味しいものを食べ、美味しいお酒を飲めば、普段感じていた隔たりなど、すっかりどこかへ忘れてしまう。
碧も初めての日本酒を大いに気に行ったらしくて、店主にスパークリングの日本酒を出してもらうと、何杯もお替りしていた。
本当に最近の碧は、どんどん新しい顔を見せてくれる。
酔ってくると、いつもの毒舌に戻ってきたが、前のように全然嫌じゃない。
「何だよ。悔しかったら、あの曲通しで弾いてみろよ。そうしたら認めてやる」
「煩いわね。見てなさい、あんたなんか居なくても、ちゃんとひとりで立っていけるんだから…!」
「はい、はい、わかったよ。その前に、ちゃんと歩けんのか。また転んで、チェロ壊すなよ」
「……!」
ムカついた祥子は、碧のシャツの襟をつかんで、グッと引き寄せる。
「ふん! 余計なお世話!」
祥子はそれだけ言うと、壁のチェロを掴んで、ふらふらと外へと向かう。
オロオロして見ている店主にサッと会計を済ませて、碧は祥子の後を追った。
普段からシャンパンを飲みなれている碧は、アルコールにも強く、それほど酔ってはいなかった。
狭い入り口も、帰りは頭を打つこともない。
「また、待ってるよ!」
そう言って見送る店主にも、手を振る余裕もある。
「祥子!」
店の外へ出ると、側の街路樹にもたれて、立っている祥子の姿があった。
速足で駆け寄ると、その肩から、チェロを引き抜いて自分の肩に掛ける。
配車アプリでタクシーを呼べば、10分程度待ったあたりでやって来た。
「ほら、乗って…!」
「もう、大丈夫!」
そう言いながらも、祥子はタクシーに乗るなり、酔いもあって眠ってしまう。
「おい、祥子、住所は…?」
「……」
反応のない祥子はすっかり眠り込んでいる。
(はぁ…。こんなの、どうしろっていうんだよ。)
22年生きて来て、誰かとこんな風に過ごしたことのない碧は、すっかり途方に暮れてしまう。
おまけに相手は、完全に酔っぱらって眠ってる女だ。
スマホを取り出して、元に電話しようとして手を止める。
(先生に何て説明するんだ…?)
結局、碧はしばらく考えて、そのまま、また自分の家、シンフォニーに帰ってきた。
祥子をチェロごと背負って、エレべーターに乗る。
目の前に映る自分と祥子の姿に、碧は目を見開く。
(おれはいったい何をしてるんだ? )
4回のフロアーのボタンを押すと、エレベーターは徐々に昇り始める。
すると、背中の祥子が寝ぼけて碧の首に両腕を絡めながら、その首筋に鼻先を摺り寄せて来た。
「うーん、聡…いい匂いがするぅ…」
「……!」
祥子を背負ったまま、固まる碧。
それからどうやって部屋まで戻って来たのか、記憶がない。
まずソファーに祥子とチェロを下ろし、もう一度祥子を抱き上げて寝室へ運ぶ。
彼女をソファーで寝させるわけにいかない。
ベッドの上掛けを剥がして、そこに寝かせると、そっと上掛けを引き上げる。
その頃には、碧の酔いもすっかり醒めていた。
薄暗いヘッドボードのやわらかな光の中に、無邪気な祥子の寝顔がぼんやりと浮かんで見えた。
レッスン中、緊張した横顔。
さっき、居酒屋で、店主と、昔話をして楽し気に笑っていたあの顔。
碧をからかって、笑う悪戯っぽい口元。
思い出して思わず口元がほころんだ。
(おかしくなったのは、おれの方か…)
碧は小さく頭を振って、寝室を出ていった。
*
翌朝_。
カーテンの隙間から漏れる眩しい光に、思わず祥子は眉を顰める。
(あれ…? ここどこ?)
目を開けてあたりを見回すと、どこか見覚えのある部屋であることに気が付く。
(ここって、碧の部屋?)
瞬時に頭が真っ白になる。
昨日一緒に飲み、いや御飯を食べに行って…。
(あ…途中から記憶がない…。でもよかった。ちゃんと服着てる)
さっと自分の来ている服を見下ろして、ほっと一息つく。
もうここ何年もお酒で失敗は無かったはずなのに。
じゃあ、碧は…?
恐る恐るベッドを降りて、ドアに近づくと、ゆっくりドアを開けた。
「……?」
碧はいた。リビングのソファーで、長い手足を投げ出すようにして眠っていた。
もちろん、ちゃんと服を着ている。
リビングの窓からカーテン越しに、やわらかな光が碧の端正な顔に降り注ぐ。
長い睫毛が白い頬に影を落していた。
確かに、見とれるほど美しい。
実際にみとれていたのかもしれない。
「……!?」
しばらくして、碧の瞼が突然開いたのにおどろいて、祥子はうろたえた。
「な、なんで、ここで、寝てんのよ⁉」
「それ、おれに聞く? 何度起こしても、起きなかったくせに。あんた、酒癖、悪すぎ」
眠そうな碧の声を聞いたとたん、カッと頭に血が上る。
「悪かったわね。お世話になりました!」
祥子は、慌てて反対側のソファーに置かれたチェロを抱えて外へ飛び出した。
今日は月に一度あるシンフォニーの定休日だが、レッスンも、碧に予定があるため、入っていなかった。
そこで祥子は、電車で一駅ほどの自分のワンルームマンションに戻ると、溜まった家事を一気に片付けようと思った。
駅近で、スーパーも近く、日当たりも良くて治安もいい女性向けの物件だった。
大学時代から住んでいた古いアパートから、引っ越して来たのは3か月前。
碧の身の回りの世話をする報酬として、結構な対価を受けることになったのだが、それがなければ、ワンルームとはいえ、都心のこんな物件に住むことなんてなかったかもしれない。
(はぁ~。まあ、居、真の生活が出来るのも、あいつのおかげなのよね)
碧の世話をするといっても、実際に食事のほとんどは外食だし、洗濯も外部のクリーニングに持っていくだけ。
唯一、部屋の掃除くらいだが、それも週一でハウスクリーニングが入っている。
実際に碧もその点では、ほとんど祥子を煩わせることはない。
まあ、時々寝起きが悪くて、機嫌が悪くなることはあるけど…。
ぐっすり眠ったせいで、二日酔いもなく、昼過ぎにはすべての家事も終わる。
窓辺のひとり掛けのソファーに座って、祥子はゆったりと楽譜を眺めていた。
手書きのそれには、碧の端正だが少し癖のある文字で、ところどころ細かい注意が書かれていた。
そこにはー。
『ここは急ぐな』 とか 『自分のペースで』 だとか。
祥子にわかりやすい言葉で書かれている。
(まるで小学生に教えてるみたい)
そう思いつつ、笑ってしまう。
碧は、祥子からすれば音楽の先生で、もう今の自分からすれば、遥かに手の届かないところにいる存在なのに…。
昨日みたいに、一緒に過ごせば、ただの22歳の男の子にだってなれる。
祥子よりも6歳年下で、けれど偉そうで。
平気で人を罵倒する冷血人間。
けれど…。
正直そんなあいつから目が離せない自分がいることを、祥子はまだ認めたくはなかった。
第3章 1 復帰への道
テーブルの上のスマホが震えたのは、祥子との練習を終えた夜だった。
画面の名前を見て、碧は電話を取る。
マイケル・ウォルター
ニューヨークに居るエージェントからだった。
ユージンが生きていた頃からの付き合いだから、もう10年になる。
京都から戻る少し前、自分から短い連絡を入れた。
もう一度、弾くことを考えている、と。
その頃にはまだ漠然とした気持ちで、先に自分が何をしたいとかもわからなかった。
ところがマイケルは、碧が思う以上にその一言を待っていたらしい。
以来、二年前から止まっていた話が、碧の知らない間に次々と動き始めていた。
『もちろん、まずは君が演奏する姿を見たい。そのうえで判断したいが、前と同じ形で活動をする必要はないんだ』
その言葉に、碧は少し考えた。
かつては、目の前に用意された舞台に立つことに何の疑問も持たなかった。
父の求めるものがあり、自分にも、それを超えたいという思いがあったから。
でも…。今は漠然と思うだけで。自分が何を求め、何のために弾きたいのか。
誰と、どこで…?
考え始めると、以前にはなかった迷いが生まれた。
無意識に脳裏に浮かんだのは、ひとりのチェリストの姿だった…。
「……最初は、ここで始めたい」
電話の向こうで、紙を動かす音が止まった。
『日本?』
「できれば。今ここにいるから、それに…」
今はここを離れたくない…。そう言いかけて、碧は言葉を飲み込む。
『君が復帰するのに、最高のリソースがそこにあるとは思えないよ』
「分かってる」
碧は開いた譜面に目を落とした。
祥子のために書き始めたチェロの旋律。その脇には、彼女が今日弾きにくそうにしていた箇所を、あとで一緒に確かめるための書き込みがある。
「ここで、もう少しやりたいんだ」
相手はすぐには答えなかった。
『……君がそこまでこだわるのは珍しいな』
「駄目なの?」
『いや。日本側にも話はできる。元も居るし、ただ、準備には時間が要る』
「急がなくていい」
『はぁ、ずっと待っていた人間に向かって、よく言う』
苦笑する声に、碧の口元もわずかに緩んだ。
それから二人は、具体的な日程を話した。まずは関係者だけで演奏を聴く機会を設けること。公表は、そのあと碧の意思を確かめてからにすること。
電話が終わる頃には、翌週にもう一度打ち合わせをするという約束が決まっていた。
『ユーリ』
切る直前、マイケルが呼び止めた。
『戻る気になってくれて、嬉しいよ』
碧は鍵盤の端に触れた。
「……まだ、何も決まってないよ」
『それでも、自分から電話をくれたじゃないか』
返す言葉が見つからなかった。
『では、また来週』
通話が切れると、部屋は急に静かになった。
マイケルは、もともとはユージンのエージェントだった。
実家であるレスター・アライン城を管理するナンシーのパートナーでもある。
碧は携帯電話を置き、目の前の譜面をに戻した。
元先生には先日、その意思を伝えた。もう一度ステージに立ちたい…と。
でも、 祥子には、まだ何も伝えていない。
言えば、きっと喜ぶだろう。驚いて、それから自分のことのように笑う。世界中の人が待っているのだからと、背中を押すかもしれない。
それとも、煩い師匠から解放されて、清々するか。
その顔は、容易に思い浮かんだ。
公演が本格的に決まれば、いつかここを離れる日が来る。
それ以降の練習も、その次の約束も、今までのようにはできなくなる。
彼女はそれを、当然のこととして受け入れるだろうか。
碧は暗くなった窓の、遠くに見える街灯りを見つめた。
スマホが、もう一度短く震えた。
今度は祥子からだった。
〈譜面、忘れてない? 明後日使う分、そっちに置いてきた気がする〉
碧はピアノの上に重なった譜面を確かめて、短く返信を返す。
〈ある。預かっておく〉
すぐにまた返事が来た。
〈よかった。ありがとう。じゃあ、明後日ね〉
何でもない、いつものやりとりだった。
碧はその文字をしばらく見つめてから、スマホをテーブルに置いた。
復帰のための予定が、一つずつ埋まり始めている。
その中に、祥子と過ごす時間をどう残せばいいのか。
以前なら考えもしなかったことを、今は真っ先に考えていた。
数日後―。 カフェ・シンフォニー
平日の午後。
ランチタイムの少し落ち着いた時間に、不意に斉藤元がやって来た。
「あ、先生、いらっしゃい! オーナーなら、今日は今出かけてますけど」
カウンターの中で、洗い物を片付けていたシンが声を掛ける。
「ああ、いいんだ。今日は別件でね。碧は上にいる?」
「はい、さっきランチ持っていきましたから…」
シンは、ちらりと奥の厨房で、賄いを食べている祥子を見ながら言った。
「わかった。じゃあ、そのまま上に上がるよ。あとでコーヒーを二つ。頼むよ」
はじめはそのまま、フロアー横のエレベータ―へと向かう。
「シンちゃん、はじめ先生?」
「そう、何か碧さんに用事みたい。コーヒー二つって」
「ああ、いい。わたしが持っていくわ」
「わぁ、助かります。すぐ用意するんで」
祥子は賄いのカレーの、最後の一口を放り込むと、勢いよく 立ち上がった。
30分前にランチセットを運んだばかりだから、そろそろ下げに向かおうかと思っていたところだ。
碧のブラックコーヒーと先生用の甘めのカフェラテを、カウンターの上にシンちゃんが置いてくれる。
祥子はそれをトレーにのせて、外のフロアー端のエレベーターに向かう。
エレベータ―前で、と、数人の顔見知りの学生に出会うと、彼女たちは親し気に祥子に話しかけてくる。
「あ、祥子さん、また上にいくんですか? いいなぁ、自由に碧さんに会えて」
「まあ、商売だからね」
祥子が苦笑しながら答えると、彼女たちはさらに言い募る。
「最近は、あんまり降りて来ませんよね。もう今日は店に来ないのかなぁ…」
このところ、碧目当ての子が多すぎて、うんざりした碧はよっぽどのことがない限り降りて来なくなったのだ。
この前は、何を思ったのか、直接エレベーターで4階まで上がった子がいたらしく、それ以降エレベーターにまで、セキュリティのため暗証番号を設定することになったのだ。
「じゃあね」
彼女たちに手を振ると、降りて来たエレベーターにさっと乗り込むと、そのまま4階へと向かう。
碧がここに来てから、シンフォニーの客層がずいぶん変わった気がする。
もともと音楽ファンが良く集うカフェだったのが、最近は若い女の子が目立つ。
冗談で、田崎さんは、碧のおかげで売り上げが2割も増えたって言ってたけど。
祥子は慣れた手つきで、4階フロア―。居住スペースへの電子ロックを、手にしたカードキーで開けて入っていった。
碧の部屋のリビング_。
碧と元はリビングのソファーに向かい合って座りながら、碧の書き上げた譜面に、元が一枚一枚目を通していた。
碧は、元の表情を少し緊張しながら、注意深く見守っていた。
こうしてはじめに譜面を見せるのは、数年ぶりだった。
ユージンが生きていた頃には、彼の譜面に最初に目を通すのは、彼の役目だった。
「……」
はじめは、最初ひと通り、流れる音符を追っていたが、途中から指先でなぞりながら、頭の中で旋律を組みたてるように静かにリズムを刻んでいた。
最後の一小説を迎えると、パッと顔を上げて碧を見る。
「素晴らしいね。いったいいつ君はこれを?」
「先日…。何となく浮かんで書き留めてみました。」
はじめの目はキラキラと輝いていた。
案外少し涙ぐんでいたのだろうか? 喜んでいてくれることに変わりがない。
それを見て、碧の胸も熱くなった。
「ありがとうございます」
「これを…もう祥子ちゃんと弾いてるんだね?」
「はい…」
数秒考える時間があって、元は真っすぐ碧を見た。
「彼女のチェロはどう? 君の目から見て、率直な意見を聞かせてほしいな」
はじめの眼差しは優しい。
でもこういう時の先生は必ず何かを企んでいる。
「確かに祥子の感性には光るものがあります。技術的には何の問題もありません。ただ…」
「ん…。ただ何だね?」
「彼女は、何かに躊躇している。遠慮なのか、恐れなのかは分かりませんが…」
「……」
元は何か思い出すように目を閉じた。
「きっと、聡君のことがあるのかもしれない…」
「聡…?」
碧は、どこかその名前に聞き覚えがあった。どこだったか…?
「ああ、聡君は…祥子ちゃんの…」
元がそう言いかけた時、玄関のロックが外れる音がして、祥子が入ってくる。
「お待たせしました。先生は甘めのカフェラテでしたね? 先生、田崎さんが言ってましたよ。そろそろ血糖値を気にした方がいいって」
「ハハ…覚えておくよ」
元は他愛もない世間話の後、祥子にも座ることをすすめた。
祥子も、すんなりと座って、碧の方を見る。
碧も小さくうなずいた。
「碧くんから、君たちが新しい楽曲をレッスンしていると聞いたんだ。いい曲だね。僕は、機会があるなら絶対に発表するべきだと思う。祥子ちゃんはどう思う?」
「私は…」
祥子は少し困ったような顔をして、碧を見た。
それを感じて、碧は顔をしかめた。
「祥子、あんたはいつまで誰かの生徒でいるつもりなんだ? 一生誰かの陰で生きるつもりか? 分かっているだろう?」
碧に鋭く言い募られて、祥子は息をのむ。
今までも何度も言われてきた言葉だ。
最近は少し言葉つきが優しくなったと感じていたのは、私の独りよがりだった。
碧はプロの音楽家だ。復帰も近い。
いつまでも私のために縛り付けていいわけがない。
鼻の奥がツンとしたが、唇をかみしめて言葉を絞り出す。
「ええ、わかりました。先生にお任せします。じゃあ、私はこれで。まだ仕事がありますので」
そう言って席を立つ。
出来るだけ、平静を装った。でも指先は震えていた。
(そうだよね。私は碧に何を期待していたんだろう…? 自分だけの特別な時間?)
エレベーターの壁に寄りかかって目を閉じると、碧と演奏していたあの満たされた時間…。絡み合う旋律が生み出す感覚が胸にあふれてくる。
(私は、いつかこの感覚を手放すことが出来るかな…?)
*
それから元はいくつかの提案をして、帰って行った。
・ 半年後の12月24日 ちょうど横浜のシティホールの演目にキャンセルが出て、空いていること。
・ 主催するオーケストラが、ぜひ一緒に演奏したいとオファーがあったこと。
・ そのホールは初めて碧の母、倉木小夜子が演奏した場所であること。
恐らくは、考えなくても最善の方法なのだろう。
断る理由なら、いくらでもあげられる。
時期尚早。まだ復帰するにはその能力が足りない。それから…。
でもそのどれも、言い訳にしかならない気がした。
テーブルの上には、『シンフォニー』の楽譜があった。
さっきの元の言葉が不意に蘇る。
(聡って誰だ?)
さっきの祥子の眼差しが目に浮かぶ。
自信なさげに自分を振り返った彼女の表情に、何故か苛立ちを感じて、ついきつい言い回しになってしまった。
最初から祥子はどこか、投げやりで、態度だけは強気なのに、いざ音楽を正面から向き合う時には、目を逸らす。
それがさらに碧を苛立たせた。
そこで、テーブルの上のスマホが震えた。
碧のシンフォニー
初めまして。佐伯彩里です。今からずいぶん前にふとしたきっかけから書き始めた物語です。主人公は大人の女性でありながら、それを拒否して生きてきた真っすぐな女の子。もう一人の主人公は非凡な才能を世界的に認められた超、超天才音楽家だけれど、かなり偏屈的な世界観を持っている若干22歳の少年の面影を持つ青年です。何一つかみ合うことのない二人が、唯一音楽を通してだけ互いを理解できる…。
そんなある日、あることをきっかけにしてどんどん二人の距離は近づいていきます。お互いをかけがえのない存在だと認めた時…魂のシンパシーが始まります。切なさとワクワクするような高揚感を感じていただけたなら幸いです。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
「碧のシンフォニー」を書き始めたのはもう15年以上前でして…。
イメージは出来上がって、ストーリーも妄想の中では完結しているものの、なかなか文字に起こせず、今に至ってしまいました。
時代も平成から令和に変わってしまい、認識もなかなかに変わっておりまして…。
おまけに音楽家というシチュエーションにも関わらず、まったく音楽的知識は皆無という、その筋の方からするとなんじゃこれ…! という場面もあるのではないかと、思っております。そこはなんとかご都合よく解釈いただきまして、楽しんでいただけたらと思います。
出来るだけタイムリーに更新していきますので、最後までよろしくお願いいたします。 佐伯 彩里