三月の天使

三月の天使


「あのね、わたし人魚なの」

 そう言って憎たらしいくらいに朗らかに微笑むこの子の笑顔が消えないように、このままどこかに攫ってしまいたい。なんて。この子はこんなあたしの衝動にきっと永遠に気づかないし、何も知らない。肌寒い潮風が吹くなか、シロの揺れるペールブルーのスカートがくるくると回る。造花が咲くように、碧色の海に唄いかけるように。

「シロは金槌だろ」

 あたしが真面目な言葉を投げれば、シロはすこしムッとした顔で言った。

「こういうのは雰囲気がだいじなんだよ」

 あ、ちょっと怒ってる、かわいい。不意にくらっときてしまう軽い思考と緩みそうな自分の頬を脳内で思いっきり絞めて、あたしはふわっとした返事を投げ返した。

「そーゆーもんなの?」
「そーゆーもんです、あのね」

 不意に風が強く吹く。あたしが目を細めれば、シロは微笑んだままくるりとスカートを翻して、一回転した。シロのやわらかいくちびるが風を吸い込んで、音を放つ。

「すきなひとが、できたの」

 脳に直接、声が届いた。あまい、あまい声。まるで世界が止まったみたいに、波打ち際のしろい泡だけが視界の端で揺蕩う。シロはじっと、期待と不安が綯交ぜになった瞳であたしを見つめていた。反射で激しくなった鼓動が、うるさい。
 はやく何か言葉を返さなくてはいけない。そう思ってくちびるを開けど意味もなく空気が出入りするだけで、開いた口からはひとつの音も出なかった。スローモーションみたいにゆっくりとくちびるを動かせば、ようやく絞り出せた声。

「……そ、っか。おめでとう」

 やっとあたしの口から出た言葉はひどく素っ頓狂だったようで、シロがふっ、と吹き出した。

「おめでとうって、まだ付き合ってもないのに」
「……いつ、告白するの」

 あたしはなぜか、衝動のままに馬鹿みたいな質問をしてしまっていた。こんなことを聞いたところで、シロの気持ちは覆りはしないのに。あたしの恋にすら成れない執着は、伝えられやしないのに。

「告白は、実はもうしてて。ホワイトデーに返事をくれるんだって」

 プリズムのようにきらめく声音が響いた。しろい頬を淡く朱に染めたシロの小さな指先は、恥じらうように固く組まれている。
 その恋する少女の仕草がいつものかわいい姿の何十倍もかわいくみえて、同時にきっかけが自分ではないことに息が苦しくなった。

𓆛𓆜𓆝𓆞𓆟

 三月十四日。カレンダーにパステルカラーで書かれたホワイトデーの文字。
 あたしはシロと顔を合わせないようにわざと学校を休んだ。家族は少しあたしを心配しながらも仕事に行った。そのことに罪悪感を感じたけど、今日シロに会ってしまえば何もかもを台無しにしてしまう気がしたから。
 自室の天井の白を見つめてぼんやりと、けれどそわそわと、ベッドの上でただただ憂鬱のブルーに浸っている。たまにはこんな日も悪くないんじゃない?なんて、いつもなら思えるのに。シロのことになると本当に弱くて、自分で自分がどうしようもないと思う。

 午後、食欲が湧かなくてキッチンのパンを物色した。いつもなら美味しいはずのレーズン入りの食パンもいまいち味がわからなくて、すきなフルーツグラノーラは咽せて吐き出した。

 シロは今ごろ授業を終えて、きっとすきな人の告白の返事を聞いている最中なんじゃないかと思う。初心なあの子のはじめての告白と、その返事が言い渡される今日。"ともだち"の一世一代の大切な瞬間だというのに素直に応援できない自分がますます嫌になる。どろどろした気持ちがどんどん勢いをつけて、濁流のように心を呑んだ。
 あたしの方があの子のことを見てる。あの子と、シロと恋を知りたかった。シロと恋を知って、恋をして、愛を学びたかった。
 どす黒いこの気持ち、けれどそれも今日の告白の結果次第で押し込めるほかなくなるのだけれど。

「……はぁ」

 ため息混じりにベッドに飛び込んだあたしは、まるで子供みたいに熱くなってしまう目頭を片手で押さえた。

ーぴろりん、ぴろりん。

 不意にコロコロとした軽快な着信音が鳴り響く。あたしは驚いて、相手の名前も見ずに反射で画面をタップしてしまった。しまった、と思いながらも目頭を押さえたまま、空いた手でスマホを耳元に持っていく。

「……もしもし」
『……かぜちゃん、わたし』

 電話の相手は、シロだった。画面越しの無機質で透明な声からは、感情らしい感情が読み取れない。

「……シロ?」
 嫌でも様子がおかしいことがわかってしまって、慌ててシロの名前を呼ぶ。

『……フラれた』

 あたしのスマホのマイクから零れたのは、未練や諦観、たくさんの仄暗い感情の混じった声だった。

「……そう」

 シロがだれかと結ばれるのをあんなに嫌がっていたのに、いざシロがフラれてもちっとも嬉しくない自分がそこにいた。

『すきなひとが、いたんだって。いつからですかってきいたら、バレンタインよりずっと前からって。……なんで、なんでバレンタインの日に、フってくれなかったんだろう、なんで』

 感情の洪水。いつもはプリズムのように光を反射するの声が、今は太陽を失った月のように翳っている。

『……かぜちゃん、今ね、かぜちゃんの家の前まで来ちゃってて。…会ってもいい?』

 語尾になるにつれて、震えて嗚咽混じりになっていく声の響き。それを聞いたあたしは肯定や否定という過程をすっ飛ばして電話をぶっちぎって、自室を飛び出し階段を駆け降りていた。

「……シロ!」

 息を切らしながら勢いよくドアを開けば、泣いているシロがいた。

「かぜちゃ、」

 あたしはもうシロを放っておけなくて、拒まれても怒られてもいいから、とにかくその細い身体を抱きしめたくてたまらなくなっていた。バッとシロの身体を抱き寄せて玄関を閉じても、シロはただひっく、と嗚咽を溢すだけで、抵抗しない。
 玄関の内側、あたしたちは靴も履いたままで抱きしめ合った。あたしより頭二個分も低い位置にあるシロの顔をそっと覗き込めば、みないで、と顔を隠すシロ。

 けれどその手は緩くしか目元を抑えられておらず、泣いている目が指の隙間から丸見えだ。色素の薄い硝子玉の瞳には透明な涙の膜が張っていて、玄関に注ぐ微かな空の光を反射している。
 その散り散りのきらめきはまるでみずいろの魚のように見えて、海のように張っては零れる涙をぱちぱちと輝かせた。伏せられた繊細な長いまつ毛も、さらさらの髪に浮かぶ光の輪も、みんな今日のために一生懸命磨いてきたものなのだろう。

 そのすべてを悲哀に縁取られた彼女は、まるで片翼を失くした天使か何かのように奇麗だった。

ーでも、本当にあたしが本当に見たいのはそんな傷付いてぼろぼろのシロじゃない。

 あたしはだぼだぼの部屋着の袖をシロのやわらかい下瞼にそっと押し当てた。

「ほら、泣け泣け」
 あたしが言えば、シロは泣き笑いを浮かべる。
「……泣けって、ひどいなぁ」
「あたししか見てないから、好きなだけ泣けってこと」
「……ありがと」
 あたしの鎖骨のあたりに顔を埋めたシロは、ひぐ、と一際大きな嗚咽をこぼして、わんわんと泣いた。
「すきだったのに…!すきだった、のに…!」
(あたしだって、すきだったよ。)
「うぅ…!!う…!」
 嗚咽をこぼして、小さな背中を震わせて泣くシロ。もしもあたしが抱きしめ返す腕の力を1mmでも緩めたら、その瞬間泡にでもなって消えてしまいそうだ。
 そのくらいあたしにはシロが、恋破れた女の子が、儚い生き物にみえた。

(……あたしだったら、あんたを人魚になんかしないのに。)

 このまま本当にどこか遠くまで攫ってしまおうか、なんて。

三月の天使

三月の天使

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-27

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