水が、つめたい、と、おもったとき、そこはもう、わたしの帰るところではないのだと、知りました。
 すべてがすこしずつ、おかしくなっていた、わたしのせかいで、やさしかったのはだれかの音楽と、バウムクーヘンだけでした。夏のおわりに、土のうえに横たわる蝉をみつめて、おそってくる、どうしようもないさみしさを、なかったことにしてくれるひとはいません。蜃気楼の街は、いつも、わたしを手招いているのに、わたしはその街に一生、たどりつけないとわかっているのです。幸福な幻は、あのひとからの愚かしい行為を甘受しているあいだに、あらわれるものでした。現実逃避。痛くないよって、わたしの心が、わたしの脳に伝達しているのでしょうか。ほんとうは、すごく、痛いのだけれど、だいじょうだよ、と。好きだから、あのひとのことが、わたしはあのひとがいないと生きていけないのだと、精神に、肉体に、刻まれているために、どんなに虐げられても、わたしは、あのひとを、きらいになれないように、つくられているのかもしれません。
 うまれたときから。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-20

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