慈しむひと
へんじのない、ねむるひとのかたわらで、うっそりとしている金糸雀の、かなしみが血液にまざって、からだのなかを循環するあいだに、わたしたちは、母星を打ち捨てなければならない。花を吐くひとびとのことを、観察対象として、実験体として、愛玩動物として、つかいふるして、ころさないでほしい。まだ、こどものサクマが、金糸雀のためにミルクティーをつくっている。わたしは祈りつかれて、泥につかったようにねむるひとたちを横目に、金糸で刺繡を施す。金糸雀はときどき、うめき声をあげる。じつに獣めいている。サクマの淹れるミルクティーは、いままで飲んだミルクティーのなかでも一等に上品で、おいしい。
もてあそばれるために生まれたわけじゃないと、きみは泣いていた。三年前の海で。わたしたちのそばにはかならず、海があった。海は、すべての母である。おかあさんと呼べば、慈しみを帯びた声で応えてくれる。ときには荒々しく、わたしたちを叱咤し、その包容力で、どんな罪人をも赤子に還らせる。花を吐きつづけるよう強要されたことで、肉体も精神もずたぼろにされたきみを、海はやさしく抱いて、深いねむりへと誘った。そのまま、きみは、おかあさんのうでのなかにいる。いつか、かえしてくれるだろうと思っていたけれど、もう、わたしたちはこの星を、失わなければならない。サクマのおとうさんも、金糸雀のいもうとも、海はかえしてくれない。こどもをひとりじめしたい、おかあさんみたいだ。おかあさんから、無限の寵愛をうけることが、還るということなのだろうか。それは果たして、幸福か?そもそも、幸福とは?可愛がられること?守られること?愛されること?永遠に?
(わかんない)
わからないから、きみの吐いた花の形を思い出して、針を刺す。
サクマがミルクティーの入ったカップをひとつ、わたしの近くに置く。
ふだんは暴力的に、わたしとサクマを愛する金糸雀が、いまは、人形のように静かにじっと、そこにいる。
慈しむひと