雪が降る日の午後8時

「沙里ちゃん、今日はもう帰りや。JR止まるで。」
「大丈夫ですよ。地下鉄でも帰れますから。」
 新海沙里は名古屋駅に隣接する大型デパートのテナントである、惣菜屋のアルバイト店員だ。大学で心理学を勉強しながら、ここで働いて学費を稼いでいる。売れ残ったコロッケの処理をしながら、私と店長の尚美さんは帰りの電車の心配をしていた。何といっても、JRは頻繁に運休になることで有名である。薄情な同僚はとうに姿を消してしまった。
「尚美さんこそ、歳末セールの時期に一人で後片付けなんてしてたら、身体を壊しちゃうやない。」
「そう言ってくれて助かるわ。でも沙里ちゃん、今日は早く帰らな。明日はラストライブ見るんやろ。」
「でもそれは夜だから、午前中はたっぷり寝ることにしとるんです。それに、尚美さんだって見るんでしょう。お互い様ですよ。」
「あら、じゃあ明日の準備までお願いしちゃおうかしら。」
「そりゃ嫌や。レコード大賞にも出とるんだから。さっさと終わらせましょう。」
 二人はにっこりと笑った。
 私と尚美さんは、三日月というバンドを応援している。共通の趣味のおかげで、うちらは親しくなれたと思う。ここで働き始めて始めて間もない頃、尚美さんの方から「ねえ、沙里ちゃんは三日月って知ってる?」と話しかけてくれた。グッズのトートバッグを使っているから、一目見れば分かったはずなのに。私がうまく話せなくても、尚美さんが話題を作ってくれたから居心地が良かった。
 三日月は明日をもって解散する。高校で知り合って以来二十年、ずっと横に並んで歩んできたメンバー達は、年が明けたらそれぞれの道を進んでゆく。
 彼らのおかげで、私はたったひとりの友達を持つことができた。三十歳年上でもバイト先の店長でも、友達は友達だ。私なんかが人と親しくだなんて、三日月がいなかったら出来なかったに違いない。
 あの時彼らと出会わなかったらと思うと、少し怖い。中学も高校もずっとひとりぼっちで、大学でも誰一人として仲良しの人は出来なくて。そんな人生、最悪や。いつもの仲間と一緒に都会で夜まで遊んで、翌朝「おはよう」と言ってまた一日を共に過ごす。そんな青色の春は、私には無かった。でも、誰か一人でも友達がいるのと一人もいないのとでは雲泥の差だ。学校ではいつもひとりぼっちでも、人はみんな、誰か一人は大切な人が必要なんだと思う。三日月がいなくなったら、三日月を失う私とは、尚美さんが仲良くする理由なんてない。私の周りには誰もいなくなってしまう。
 じゃあ、明後日から、私はどうしたらいい?
 答えは簡単だ。だって、どうしようもないんだから。自業自得だから。

 私はずっと、あの子のことを気にしている。小学校の頃、まだ私に友達がいたあの頃。元親友の浅倉さやかだ。彼女は出来の良い妹と比べられ、不憫な環境で暮らしていた。
 彼女は五年生の時、罪を犯した。
 同級生の更級琴音をいじめた。私は加担こそしなかったけど、見て見ぬふりをしていた。あの時は人の気持ちを全然分かってなかったと思う。琴音は、ついには学校に来なくなった。中学受験をしてどこか遠くの場所で生活しているということしか、卒業後のことは分からない。さやかはというと、中学の頃に不登校になったせいで高校は通信制だったということしか知らない。それも、ゴシップに詳しい当時同じ部活だった子が教えてくれた話だった。私も、小学生の時浅倉と一緒にいた奴だから、という理由で仲間外れにされた。私たち二人は、中学に居場所なんてなかった。
 もう私たちが絡むこともなく、かつての親友はバラバラになってしまった。卒業アルバムの写真は、一度もちゃんと見ていない。
 中三の時に一度だけ、塾の帰りにコンビニに寄った時、髪が鮮やかなピンク色になったさやかを見た。彼女の周りには金髪の屈強な男や露出の多すぎる服を着た女たちがいたから、とても私が話しかけられる状況じゃなかった。
 私は何もかも全部、さやかのせいだと思っていた。彼女と私は三日月のように、二人はずっと一緒にいられると信じていたのに。さやかが変わってしまったから、二人の間に壁ができちゃった。
 でも、今は二人の責任だと思っている。私がさやかの悪行を止めていれば、私が琴音に手を差し伸べていれば、未来は違ったかもしれないから。
 私もさやかと同じ、罪人だ。
「さやか、なんで逃げるの」
「琴音が追いかけてくるからに決まってんじゃん。今日は私、あんたと一緒に遊ぶ約束してない。うちは沙里と遊ぶから。」
「いつも沙里、沙里って。私のことなんで無視するの?」
「無視なんてしてないじゃん。今こうして喋ってるし。」
「昨日、明日は琴音と遊ぶって約束したじゃん。今日は私も入れてくれるんじゃないの。」
「そんな約束してない。」
「なんでいつも私を入れてくれないの。私も友達でしょ。今日くらいいいでしょ。」
「誰がそんなこと決めたの。うちは沙里と遊ぶって言ってるじゃん。沙里、行こ。」
「先生に言うよ。さやかが約束を破ったって。」
「どうぞご勝手に。沙里。」
 さやかにはもう琴音が見えていなかった。
「うん。鉄棒しよ。」
「おっしゃ、抱え込み回りで対決だ!」
 私はただ、さやかという友達のことが好きだった。一緒に遊んでいると楽しいから。琴音のことは、それには関係なかった。
「更級さんが言っていることは本当なの。」
「嘘に決まってる。先生こそ、まるでうちが悪いみたいに言うなんて酷い。何も悪いことしてないよ。」
「でも更級さんは浅倉さんに無視されたりしてるって言ってるわ。」
「そんなことしてないよ。そんなにうちのことが疑うなら沙里に聞いてよ。沙里ならうちと琴音が喋ってるところ見てるよ。喋ってるなら無視してることにはならないじゃん。」
 とにかく児童の人気者になりたい若い担任教師は、さやかを問い詰めることはなかった。歪んだ関係を見抜き、そして修正できるのは私しかいなかったんだと、何年も経ってから気付いた。でも、私は何もしなかった。その後、学年主任だったか教育主任だったか、大仰な肩書きの男から私たちは呼び出される。相談室と銘打たれた部屋は、実際は埃だらけの倉庫のようなものだった。
 私は後になって、自らが犯したことを理解した。さやかには当然非があるが、自分も同じなんだって。
「更級が言っていることは本当なんだな。」
「嘘。無視してないし仲間外れにもしてないし琴音の物を取ったりもしてない。琴音が間違ってます。」
「じゃあどうして更級が声を上げているんだ。何もないなら更級が先生に相談することもないだろう。正直に言いなさい。」
「琴音が間違ってるって言ってるじゃないですか。うちは正直です。」
「更級の気持ちを考えろ。ここで嘘をついても良いことはないぞ。」
 私は隣の特活室で琴音が泣いていることを知っていた。でも、私にも琴音が言っていることはあまりに大袈裟すぎると思っていた。さやかは私と遊びたいんだ。琴音じゃなくて、私と遊びたいんだ。だから当然じゃないか。琴音と遊ばなくたって。
 何も分かってなかった私にとってあの時のことは仕方なかったんだ、と信じていたい。そう思っている私は馬鹿だって、そんなことはもちろん分かってる。
 本当に、私はさやかのことを何も理解していなかったんだ。なぜさやかは何もしていないと言い張るのに琴音は苦しむのか。
 さやかも、私以外に友達と呼べる人はいなかったと思う。何年生の時に一緒だった誰々ちゃんとか、そんな関係の子は見たことがないから。
「何で先生はうちのことを信じてくれないの。どうしてうちが嘘つきだって決めつけるの。」
「じゃあ新海さん、あなたはどうなの。」
「私も、さやかと同じです。」
 今は思う。あの時のさやかは、自分の気を引きたかっただけなんだって。さやかはただ、寂しかっただけなのだろうって。さやかは琴音を仲間外れにすることで、私とより近づこうとしていたんだ。そのために、親友の目の前で悪事を働いていたんだって。
 担任の女が口を挟んだ。
「自分の行動は必ず自分に帰ってくる。このボールみたいに。」
 その場にあったバレーボールを壁に投げつけた。
「あなたたちは必ず更級琴音さんと同じ目に遭う。」
 バレーボールは大きく跳ね返った。
 誰も自分と関わってくれない辛さを身に染みて感じた中学生の頃、あの時の琴音の気持ちが、やっと分かった。

 相談室に連れていかれた日からしばらく経ったある朝、琴音は話しかけてきた。声があまりに小さすぎて、何を言っているかさっぱり分からなかった。
 こんなに近いキョリで話すのはいつぶりだろう。なんか身長差が大きくなった気がする。私が最近どんどん伸びてるから、そんなもんか。
「なんて?」
「プロフ帳、交換しない?」
「まあ、別にいいよ。」
 熊の絵が描かれたファイルにかわいい紙が留めてある。きっとよくある大量生産の安物だ。中の用紙も熊のキャラクターが印刷されていて、いかにも琴音が好きそうだと思った。そういえば、前にさやかと一緒に文房具屋に行ったとき、同じのを見かけたと思う。たぶん気のせいだけど。
「似顔絵のところは沙里ちゃんのいらないシールでいいから。特にないところは書かなくていいから。」
「琴音に書くから、私のも書いてよ。明日持ってくる。」
「いいの?」
「まあ、別に。一方的に書くだけって、フビョウドウじゃん。」
「さやかには、このこと話すの?」
「話した方がいいの?」
「そうやって聞いたって、どうせ話すんでしょ。私がなんて書いたのか、さやかに見せるよね。」
「さやかが見たいって言ったら見せるんじゃない。あんたがさやかに読んでもらいたいなら私から見せるけど。」
「いや、いい。できれば沙里ちゃんだけにしか見られたくない。」
「わかった。じゃあそれは今日書いとくから、明日私の分ちゃちゃっと書いてよね。」
さやかと交換したかったら、直接さやかに渡すよね。わざわざ私に預けるわけないか。じゃあ何も言わなくていいよね。琴音は私と交換したいんだし。
 登校してから朝の会までの時間は少なくて、すぐに先生は教室にやってきた。教卓の上にカゴが置いてあって、そこに宿題の漢字ドリルと計算ノートを提出する。みんなまだ友達と喋っているから、カゴの中身は軽そうだ。
「沙里。ねえ、今琴音と何喋ってたの。」
「特に何も。」
「ええ、ほんと?」
「ほんとだって。嘘ついてないよ。」
 私は熊の絵のプロフ帳を、さっと机の中に隠した。なんとなく、さやかに見られちゃいけないような気がして。
「それよりさ、昨日のドラマ見た?」
「見た見た。めっちゃ泣いちゃったよ。」
「私も。松井さん歌もうまいし演技もうまいし、めっちゃいいよね。」
「沙里、もう完全にファンじゃん。」
「だってカッコいいんだもん。」
 私はさやかと一緒に宿題を出した。琴音が離れたところからそっと見ていたことに、私は気付いていた。
 今日の一時間目は社会。つまんないし眠いし、授業中に琴音のプロフ帳書いとこう。そうしたら帰ってからもう一回録画でドラマ見れるし、コーリツいいよね。

 約束通り私は次の日、自分のプロフ帳を渡すと同時に琴音にきちんと返した。その日の六時間目は算数だった。帰りのあいさつが終わったあと、あの子は早速返しにきた。地味なボーダー柄のプロフ帳は、枠外まではみ出るくらいぎっしり書いてあった。ちょっと、これ文字数多すぎじゃない。こんなに真っ黒なプロフ初めて見た。
 名前、住所。電話番号は家電とお母さんの携帯の二つが書いてある。たぶん掛けることないよ。みんなスマホ持ってるんだから、家電とか親の携帯になんて恥ずかしいじゃん。
好きな食べ物はハンバーグで、デミグラスソースをかけるのが一番好き。小二男子とかに人気ありそうなやつじゃない。どうせならショートケーキとかシュークリームとか書けばいいのに。そんなんだからみんなの中に溶け込めないのよ。
 チャームポイントは目。確かに琴音の目はぱっちりしてるし二重だし、私もあんな目だったらよかったな。
 好きな音楽は『THE FLOWER』。ここは最近のトレンド分かってる。私も大好きだよ。もしかして琴音もドラマ見てるのかな。これ、昨日のうちに受け取れたら話できたのに。もう一日経っちゃったから、今日話すには時代遅れ。ほらやっぱりね、みんな昨日のバラエティの話してるじゃん。
「持ち主の好きなところ」は、優しいところ。これ、本当にそう思ってる?私、琴音に優しくした覚えないんだけど。まあ、たぶん私に取り入ってさやかに近付きたいってことだよね。これを見るかぎり。
 え、でも。もしそうなら謎すぎる。このプロフ、さやかには見せたくないんでしょ?
結局、琴音は何がしたいの。私だけとこんなものを交換して、何のイミもないじゃん。
 明日、この部分を問い詰めてやろう。その時の答えによっては、さやかに言わなくちゃ。さやかは私の親友で、琴音とは友達じゃないから。「琴音が変なことしてきたら、ホウコクだよ」って約束してるもん。グループを超えて親友になるなんて、そんなことが簡単にできるはずがない。みんなそうだから。琴音が何も分かってないだけなんだ。

「今日は、更級さんはお休みです。」
「今日のお休みは、更級さんです。」
「今日も、更級さんはお休みです。」
「更級さんは今週はお休みです。」
「更級さんは、しばらくお休みするそうです。」
 あの日、琴音が教室に来た最後の日だった。
 伊藤さんが中尾さんに、何かを囁いた。「あのね、琴音ちゃんが来ないのは、さやかちゃんと沙里ちゃんのせいなんだよ。」
私の耳には、そう聞こえた。

「沙里ちゃん、沙里ちゃん。」
「あ、すみません。」
「ボーッとしとったよ。大丈夫?」
「全然大丈夫です。何でもないですよ。」
「急に変なこと聞いとるのかもしれんけど、沙里ちゃんてさ、どうして三日月が好きなの。」
「何ですか、急に。」
「三日月が好きって言うと、何の曲好きなの、とかどんなところが好きなのって聞かれるやない。沙里ちゃんはいつもなんて答えてるの?」
「分からないって。」
「分からない?」
「だって三日月は三日月ですから。どんな曲とかどんなところとか、そういうんじゃないの。」
 三日月のメンバーはバンド活動だけでなく、ドラマに出演したりバラエティタレントとして活躍したりもしていた。小野くんがボーカル、松井さんがギター、村岡くんがキーボードだ。
「私は小野くんが好きだから、三日月も応援してるって言ってる。本当に好きなのは三人揃った姿なんだけどね。沙里ちゃんは松井くん推しでしょ。でも、誰にも松井くんが好きって言わないのよね。」
「言わないっていうか、言えない。私より松井くんに詳しい人なんて、いくらでもいますから。」
「そうね。上には上がいるもの。
 私、何も知らない人に小野くんが好きって言うと、必ず気を遣われるから嫌なのよね。小野くんがやりたいことを思う存分やれるようにって、私はそれを願ってるんだけどね。まあ、解散して欲しくないとは言えないけど。」
 自嘲気味に尚美は顔を綻ばせた。きっと、あの三人だけのガヤガヤした雰囲気を頭に思い浮かべたんだろう。
「確かに、それはありますよね。松井くんが好きだって大学の友達に言ったとき、松井くんなら引退しないから良かったねって言われたんです。」
「あと、私は十五年くらい応援してるって言うとさ、もっと気を遣われちゃうのよ。」
「それは辛いですよね。私は『夢幻泡影』からだから深くはないですけど、歴の長さで決まるわけじゃないのに。」
「えっと、それって九年前じゃない。沙里ちゃんも結構長い方ね。」
「でも尚美さんは『Blue』の時からじゃないですか。ブレイクするより全然昔ですよ。」
「あ、もしかして。そういえば沙里ちゃんて家庭教師のバイトもしてたでしょ。」
唐突に尚美さんは話題を変えた。
「そうですよ。」
「それ、もしかして『夢幻泡影』の影響?ちょうどFLOWERと同じ時期じゃなかったっけ。話題になったよね。」
 夢幻泡影とは、九年前に松井さんが主演したテレビドラマのことだ。主題歌は『THE FLOWER』。
「それもあるけど、それだけじゃない。」
「どういうこと?」
「心理学をやってるのも、家庭教師をやってるのも将来の為ですよ。」
「まあ、偉いわね、沙里ちゃん。うちの息子も見習って欲しいわ。」
「なんだ、オバサンの息子がどうかしたのか?」
 突然会話に参加してきた男性は、向かいに入っている精肉店のオヤジだ。この二人、まるで夫婦みたい。
「何よ、オッサン。こっちは女同士の話をしとるってのに。」
「そこの姉ちゃんの恋の話か。」
「いや、そういうわけでもないですよ。」
「オッサン、前言ったやろ。私と沙里ちゃん、このお姉さんな。三日月を応援しとるんよ。沙里ちゃん、実はオッサンの娘はかなりの三日月オタクなんやで。」
「ええ、そうなんですか。」
「おお、そうや。俺の娘は村岡くんが大好きでなあ。彼氏もおらんと村岡ばっかり追っかけてやがる。姉ちゃん、彼氏いるか?三日月ばっか追いかけとると、うちの娘みたいに逃げられるで。」
「あら、ご心配には及びませんよ。私、理解ある彼氏がいますから。」
「嘘、沙里ちゃん彼氏おったの。」
「ええ、去年からずっと付き合ってる人がいます。」
「最近の若い子は進んどるんやね。
 ていうかオッサン、そこで喋るだけなら邪魔や。手伝うかここから去るか、どっちかにしや。オッサンの店より流行っとるで、片付けも準備もあんたより大変や。」
「そう言いなさんな。初めからそのつもりや。」
「まずはそこのボードを書き換えて。大晦日の大セールや。」
「俺の字汚いけどええんか。」
「ええわええわ。このペン使い。」
「はいよ。」
 始まったな、と思いながら私はこの九年に思いを馳せる。二人の名古屋弁はもう耳に入らなくなった。
 小学六年生の春、三日月を応援し始めるきっかけとなったドラマ『夢幻泡影』が放送された。不治の病に侵された普通のサラリーマンとその周囲の愛を描いた、ヒューマンドラマだ。
 中学生になる直前の頃には、松井くんが科学者役で主演を務めた映画が公開される。これはシリーズもので、この時は二作目だった。私は第一作をレンタルビデオ屋で借りて予習してから、公開初日に映画館へ駆け込んだ。今、私は心理学を学んでいるが、本当は自分も研究者になりたかった。成績がどうしても上がりきらず、高校受験の段階で諦めてちゃったけど。もちろんそれは、この映画の影響をもろに受けてのことだった。
 その年、三日月はデビューから十五周年を迎えた。かつてそれの発表のために会見を行ったグアムで、彼らはライブを行った。私は参加できなかったけど、心はその地に飛んでいた。
 松井くん一人でなく、三人の尊さに気付いたのはこの頃のことだ。
学校よりプライベートが充実しているタイプだった私には、この思いを共有できる相手が周りにいなかった。唯一と言ってもいい友達であるさやかは不登校になってしまっていたので尚更だ。しかし今は、尚美さんやさやか以外にも何人かファン仲間がいる。彼女らのほとんどは、ネット上で知り合った。
 私が高校生になると、自分を含めたファン達は三人の様子に違和感を感じ始める。
 楽曲が暗い。ニューアルバムをリリースしても、一つの作品として統一感がない。三人で出演していたレギュラー番組でも、いつものガヤガヤ感が薄くなっていた。今までと、何かが違う。
 そしてついに、あの日がやってきた。
 その時、私はたまたまテレビを見ていた。ニュース速報で、画面上部に「大人気バンド『三日月』が来年末で解散を発表」と流れる。金縛りにあったかのように、私は動けなかった。
 まさか三日月が。別のグループの話に決まってる。いや、そんなはずはないんだ。名前が全く同じバンドなんて聞いたことないから。
 不仲になった?いや、それも違う。まさか仲違いで解散するなんて、らしくない。芸能界に嫌気が差した?そういえば十五周年の特番の時、三人中二人はさっさと辞めるつもりだったって言ってたっけ。速報が出ると同時に公開された三人のコメントを読もうとスマホを操作する私の手は、小刻みに震えていた。
 あの日以来初めてテレビでパフォーマンスした時に歌っていた曲は、ファンの間では有名だけど世間にはあまり知られていない、幻の名曲と呼ばれるものだった。
 明日、もう私は三人を追いかけられなくなる。松井さんは言っていた。最後まで笑顔でいよう、と。私は絶対、今年が終わるまでは泣かない。
 私はあの日、そう心に決めたんだ。

「ふう、やっと終わったわ。もう八時や。」
「さて、帰りましょうか。おじさん、お手伝いありがとうございます。」
「いえいえ、どういたしまして。」
「沙里ちゃん、これまかないや。持ってき。」
「こんなにたくさん。いいんですか。」
 売れ残りだと尚美さんは言っているが、ラップに包まれた豚カツはかなりの量だ。こんなにたくさん余ってたっけ。
「ええよええよ。明日は大変やんね。どんぶりにでもして食べて。」
「すみません。ありがたくいただきます。」
「じゃあ、よいお年を。沙里ちゃんのシフト、今年は今日が最後やんね。来年もよろしくね。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。よいお年を。」
「姉ちゃん、頑張ってな。」
「ありがとうございます。」
 従業員用の小さなガラス扉を開けて外に出る。太平洋側の地域にしては珍しく、真っ白な雪が積もっていた。夜でも明るい都会の空から、パラパラと粉が落ちてくる。この調子だときっと、明日の朝には辺り一面の銀世界だ。
「よいお年を。来年もよろしく。」自分にしか聞こえない小さな声で、私は呟いた。
 尚美さん、「来年もよろしく」って言ってたよね。私に向かって、よろしくって、言ったよね。そっか、「よろしく」か。あと一日と四時間経っても、尚美さんは私とよろしくしてくれるんだ。
「ああ、寒。」
 眉毛は下がり、マフラーで覆われた喉を通って空気が身体に入ってくる。私は下唇をそっと噛んだ。
 明日は笑って三日月を送り出そう。新たな門出を迎える彼らが、安心して飛び立てるように。私はもう大丈夫。あの速報から一年、覚悟を決めるための時間は十分だった。
 さやかや琴音の姿を胸に刻み込み、彼らがいなくても私は努力し続ける。未来のみんなのために、私は必ず夢を叶えるから。

 名鉄名古屋駅周辺に人だかりがある。電話をかけているサラリーマン、タクシーに乗り込む親子。かわいそう、今日の帰りは遅くなってしまいますね。
 反対に、私が向かう方向にはスムーズに人々が流れている。傘を畳むために立ち止まると、背後から初老の男性にぶつかられてしまった。「ごめんなさい!」と言うために振り返ったが、男性は無視して行ってしまった。
「あ、」夜の街の明かりと白い雪が合わさって、美しい。遊んだ帰りであろう女性たち、居酒屋から帰ってきた男たち。普段なら煙たく思ってしまう人たちも、白く明るい夜を背景にすると綺麗だった。元来た道を数十メートルほど戻り、スマホを掲げて一回、カシャ。そして私は、一直線に駅のホームへと進んだ。
 JRはまだまだ運休にならなさそうだった。

雪が降る日の午後8時

雪が降る日の午後8時

デパートの惣菜屋で働く新海沙里と、店長・尚美さんの交流を描いたストーリー。沙里と尚美は2人共、三日月というバンドを応援していた。沙里はその共通の趣味のおかげで尚美と仲良くなれたと思っているが……。 「仲良し」って、いったい何?そんな思いを込めました。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-08-22

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