生ける屍

 ――Je pense, donc je suis.
 ――我思う、故に我有り。

 この世が真実であろうが虚無であろうが、それに疑念を持つ自分自身は確かに存在する、と。
 「思考」が存在すれば、それは人間の、私という個体の「存在証明」だと。
 そういったのはデカルトだっただろうか。

 私は不気味に白い天井を眺めながら、動くはずもない四肢に目線を動かした。


   ◇◇◇


 11月下旬、それは寒い日のことであった。
 
 なんの変哲もない、至って普通の平日。私はいつもの通り、学校へ行く準備をし、朝食をとってからゆっくりと家を出た。いつもと同じ朝。少し違うのは、急に冷え込んできたということ。昨日までの雨を境目に、ぐっと気温が下がった。道路はまだ濡れており、その気化熱は残存する空気中のわずかな熱量でさえ奪っていく。はーっ、と息を吐き出すと、白い息が空気中に拡散した。

 いつもの道を歩いていく。現在の大学に入学してから二年間ずっと通ってきた道。十数分歩くと、無駄に堂々とした校門が現れる。私はこの古めかしいデザインが好きだったが、周りの連中はというと、旧時代の遺跡などと愚痴をこぼすばかりである。まだガンの特効薬さえなかった時代だろ、と。たしかにそうだけれど、この二十年うちに医療技術が著しく進歩し、人間は滅多なことじゃあ死ななくなったのだけれども。ガンを克服し、生命維持装置が発達し、もしかしたら体がめちゃくちゃでも首から上さえあれば生きていけるのかもしれないけれども(さすがにそれは無理かもしれない)。そんなたかだか二十年くらい前の話、旧時代というにはあまりに大げさじゃないか、私はいつもそう思った。

 いつもの道を歩いていく。二年間、ずっと通ってきた道を。いつもと同じ平日だった。いつもと同じ朝だった。

 ――いつもと違う瞬間は、唐突に訪れた。

 どん、と、なんの前触れもなく右下腹部に衝撃が走る。その衝撃を合図に、私の記憶はスローモーションで再生される。嫌なほど鮮明に、まるで誰かが悪意を持って、私に見せつけるかのように。

 衝撃の正体を、私は瞬時に察することができなかった。目線を動かし、衝撃の飛んできた方向に目をやる。その僅かな間にも、右下腹部の衝撃はどんどん私の体を侵食する。同時に、足がわずかに空中に浮いているのがわかった。浮いているのだ、私が。やっと目線が衝撃の正体に追いついた。赤い、金属光沢の持った塊。車、そうそう車だ。それに気づくと同時に、全身を駆け抜けた電気信号がようやく頭に届いた。「痛い」。その信号は、脊椎を通って脳に入力され、私のニューロンのあいだを暴れまわった。「痛い」。その間にも、わずかに時間は進む。足が完全に浮いてもはやわずかに車に接しているだけの私。それに気付いて、目を丸くしている人間、、まだ気づかない人間。やがて車が私を仲介して壁と接するまでのあいだ見えた情報の全ては、未だに鮮明と思いだせる。その間に考えてたことも。私は死ぬのか、漠然とした不安。死んだらどうなるか。死ななかったらどうなるか。この運転手は居眠りか、飲酒か、オーバースピードなのか。そんなくだらないことの他にもう一つ。

 私は今考えている、という自覚。

 ――Je pense, donc je suis.
 ――我思う、故に我有り。

 ああ、ということはまだ生きてるんだな。

 その直後に、私の意識はプツンと切れた。


   ◇◇◇


 次に目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
 いや、正確には病院のベッドの上であることはあとから気付いた。

 私は目を開けようとする。ぼやける視界、はっきりとしない輪郭。微かに聞こえてきた声が母のものであると、そう気づいたのは数十秒経ってからである。徐々に視界が明るんできた。私の視界の中心で涙を流している母の輪郭が、少しはっきりとしてくる。その少し奥には、私の弟がいるのもわかった。今度ははっきりと、母の声が聞こえる。
 「よかった、本当に良かった。もう目を開けないかと思った。」
 母は泣いていた。そのせいで、声が震えていた。そのままの不鮮明な声で、母はこう続けた。

 体はね、ちゃんと動くようになるから―――

 弟の眉が、ぴくっと動いたのがわかった。同時に、私は自分の腕を見る。事故にあったとは思えない、綺麗な腕だ。そして、そこに意識を向ける。
 
 動かない。

 もう一度、指先に意識を集中する。

 ピクリともしない。

 事故の痛みがあるわけではない。むしろ、動かそうとしてもそこにない感覚、と言うのが正しい。
 神経が繋がっていない、私はそう考えた。
 脳から発せられた電気信号は、指先の筋肉に下行するまでのどこかで行き止まりになっている、そんな感覚。
 おそらくは、頚椎。

 私の体は、おそらく麻痺している。

 脳の発した命令を、体が受け取ることができない。命令を伝える幹線道路は断線し、そこより下には――頚椎より下には――命令が届かない。機能の問題ではないのだ。神経の問題。いくらパソコンが動いていたとしても、デスクトップにつながるコードが切れていれば、その情報はコンピュータの中でぐるぐる回るだけで、外界に対して表現することはできない。それと同じだ。別にデスクトップは悪くない。

 私の体は動かなくなった。私の体は死んだ。
 
 でも、私は生きている。あんな悲惨な事故でも、私は生きている。
 こうして、私は考える主体を持ち続けている。
 私は考えることができる、だから私は生きている。

 ――Je pense, donc je suis.
 ――我思う、故に我有り。


   ◇◇◇


 それから、私はずっと病床で過ごしている。
 体が動かないのだ。何をすることもできない。

 食事も取らない。排泄もしない。機能を失った私の体の代わりに、ベットの横にある大げさな機械が代わりの役目を果たす。
 そうやって、私は生きている。

 母や弟が見舞いに来てくれる時間が、私の大きな楽しみであった。
 ずっと、おしゃべりをしていられるから。
 この時間だけが、私の心を満たしてくれていた。
 弟は見舞いに来るたび、少しだけ複雑そうな顔をする。
 曰く、生きているのは嬉しい、でもお姉ちゃんの体が動かないと思うと寂しい、だそうだ。このかわいいやつめ。

 私は、自分の体が動かなくとも幸せだった。
 だって、私は生きている。

 彼らがいない時間は、日が経つにつれてどんどん増えていったのだが、その時間は考え事に費やした。
 考えている間、私は間違いなく生きている。

 未だに、不安に思うのだ。私は死んでいるのではないかと。
 これは、死ぬ前に見ている夢ではないか、と。
 
 ――Je pense, donc je suis.
 ――我思う、故に我有り。
 
 だがいつも、こう否定する。
 今「疑念」を抱いている主体である、「私」は、確かに存在するのだ。
 デカルトはそう言った。

 人間の住む世界とは、広く言ってしまえば人間の認知する世界だ。もっと言うと、脳が認知する世界。
 眼球から入った情報は、脳に送られて始めて認識される。見る、だけでは盲目なままである。
 耳でも、舌でも、皮膚でも一緒。全ての情報は、脳に送られて初めて認識される。

 極端な例を、私は大学の講義で聞いたことがある。
 虚偽記憶。
 実際にはなかった記憶を、あったものだと思い込むことで、それがエピソード記憶として脳に書き込まれる。その本人は、それが真実であると信じてやまない。実際には起こっていないことなのに。実際には存在しなかった事実を、脳が捏造する。

 そういうことなのだ。
 脳とは、私たちの自我がこの世界に接する窓口なのだ。その窓口がゆがめば、記憶だって当然歪む。
 強い意識が、思い込みが、脳の活動がありもしない事実を作り上げる。

 しかし、言い換えれば、脳が活動してるということは、生きているということなのだ。
 死者に脳は動かせない。
 生きているのかどうか、不安に思う。そんな発想が死者にはない。
 いや、死者には発想、思考というものがない。
 だから、

 ――Je pense, donc je suis.
 ――我思う、故に我有り。

 私は考える。だから私は生きている。それで十分。私にとって、生きているという実感は、考えるという行為によってのみ得られた。


   ◇◇◇


 ある日のことだ。私はいつもどおりベットに横たわっていた。
 その日は朝から、雨が降っていた。12月の雨は相当に冷たいのだろうが、今の私には感じることができない。
 ただ、と最近考えるようになった。
 医療技術の進歩で、それが補える日が来るのではないか?

 「そうしたら、私また体が動くようになるかな。」
 弟にそう話すと、彼は悲しそうな顔で笑った。

 この二十年で医療技術が大きく発展してきたように、今後の技術発展もおそらく目覚しいものになる。そうしたら、神経の代わりをなす線維ぐらいなら出来上がるかもしれない。淡い期待ではあったが、決して望みがないものではなかった。
 この姿であと数年、もしくは数十年生きれば――

 「希望は、ゼロじゃないよね。」
 私は言った。弟は肯定も否定もせずに、泣き出しそうな目でこちらを見ていた。

 「そしたら私ね、やりたいことがいっぱいあるんだ。友達に会いたい。学校にも行きたい、勉強しなきゃね。それから・・・」

 「姉ちゃん。」

 「かっこいい彼氏なんかもいたりして。ああでも、あんまり時間かかっちゃうとおばあちゃんになっちゃうなあ。」

 「姉ちゃん!!」

 急に弟が声を荒げた。驚いてそちらを見ると、彼の頬には光る一筋があった。
 「どうしたの、急に・・・」
 弟は泣き出していた。私は少し戸惑った。弟が泣いている理由がわからなかった。
 「何泣いてんのよ。別に私の体が治らないって決まったわけじゃ・・・」


 「姉ちゃん、体なくなっちゃったんだよ!!」


 彼の発した言葉の意味がわからなかった。体がなくなる、神経が繋がらずに動かないという意味だろうか。だから、神経をつなぐようなものが開発されたらの話だと言っているのに。そうやって私は自分の手を――

 ――ない。

 ――えっ?

 違う、ないのは腕だけじゃない。首から下、胴体のあった場所で、シーツの白が不気味に際立つ。

 ――全身が無い。首から下が。

 ――いつから?

 「最初からだよ。」
 弟は泣きじゃくりながらそう言った。最後の疑念は、声になって出ていたようだ。

 ――そんな、ばかな。
 ――そんな、ばかな!!!

 ――私の体はあった。動かなかったけど、そこにはあった。
 ――あったはず・・

 そこまで言って、自分の思考が止まった。
 ――はず・・だと、思い込んでいた?

 捏造記憶。
 母の言葉――体はね、ちゃんと動くようになるから―――この言葉で、私は自分の体があるものだと思い込んでいた?

 答えはすぐに弟が返してきた。
 「母さんはね、姉ちゃんにあんまり心配させないようにって、嘘をついたんだ。」
 弟が消えそうな声で言った。ようやっと絞り出してきた言葉なのだろう、私はそう思った。

 事故で、私の体は消えた。
 機能不全を起こし、生存のためには体を捨てるしかなかった。
 弟は泣きながら語った。

 ――Je pense, donc je suis.
 ――我思う、故に我有り。

 「そっか。」
 私は生きている。私はまだ考えることができるから。
 この事実を知って、悲しいと思うことができるから。
 何も、私が何も感じなくなった時、それが私の終わりだろう。

 その後、私は泣いた。弟も泣いていた。私の涙はどこから出てくるのか、それだけがわからなかった。


   ◇◇◇


 私はひとしきり泣いた。泣いても泣いても、涙は枯れなかった。
 この涙は、この大げさな機械から来るのだろう、そんなことも漠然と考えていた。
 あたりはすっかり暗くなっていた。弟は泣き疲れて私の胴体があった場所で寝息を立てている。
 病室の電気はついていない。けれども、はっきりわかる。

 首筋から伸びる無数のチューブ。その先にはあの大げさな機械につながっている。
 首から下には何もない。たったさっきまで認識していたのは、事故の前までの私のボディイメージということになろう。
 本当に、何もない。
 病室のベットの上に、チューブにつながれた生首がゴロンと転がっている。

 動かずとも、体があったならこんな思いは湧いてこなかったろう。
 不完全でも、体があったならこんな思いは湧いてこなかったろう。
 ただ、今は――
 電気をつけるのが怖かった。この姿を、鮮明に認識してしまうのが怖かった。
 この、嘘みたいな姿を。

 嘘なのか、本当なのか、私にはわからない。

 ――Je pense, donc je suis.
 ――我思う、故に我有り。

 でも、私は確かに存在する。思考の主体としての私。考える私。

 この私は、果たして人間か。私にはわからない。
 チューブで機械につながれた、考える私。思考回路としての私。自我としての私。
 この私は、果たして人間か。私にはわからない。

 何をもって「生」となし、「死」となすか。
 だいぶ昔に、脳死の問題として活発に議論されてきた。結論は――出たのかよくわからない。

 でも、私は考える。
 「生」とは、外界のあらゆる刺激に反応できる状態である。
 脳死は、考える私が欠落している。だから脳死は人の死だ、そう思う。
 では、今の私は。
 「生」か「死」か。

 一目瞭然だ。―――私は死んでいる―――
 考える私は存在する。ただ、動く私が存在しない。物理的に肉体が存在しない。
 私は、考える機械だ。私というプログラムが入力された、コンピュータとなんら変わりはない。
 今の私は、さしずめ

 ―――生ける屍―――

 そう、思った。いや、幽霊か。魂だけの存在。本来ならこの世に干渉することはできない、そんな存在。どちらだって大差ない、ぴったりな表現だと思う。
 ふっ、と頬元がゆるんだ。
 
 「姉ちゃん・・・」

 いつの間にか起きていた弟が、私の方を見ていた。ごめんね、そう繰り返す彼の目には、まだ涙が溜まっていた。
 何も、謝ることないのよ。私はそう言って、彼に最後のお願いをした。

 「そ、そんなの!」
 弟は狼狽した。無理だよ、そう言って彼は目を伏せる。

 「お願い。」
 私は、じっと彼の目を見た。彼の目にはまだ大粒の涙がある。
 「私を、人間のままでいさせてちょうだい。」

 彼は、じっと考えた。言葉の真意は理解していたようだった。
 幾許の葛藤があったのだろう。
 少しすると彼はその場を立ち上がり、半べその状態で二、三歩移動すると、

 ――ゆっくりと手を伸ばし、
 ――私の


 ――首元のチューブを抜いた。


 機械が、異常を告げるけたたましい音を発すると同時に、首元は流れ出る液体で濡れていった。その中に、弟の流す涙も混ざっていく。

 びー、びーといったブザー音もだんだん小さくなってくる。
 視覚がだんだんと狭まっていく。周りの方から、徐々に黒に汚染されていく。
 意識が遠のく。焦点が合わなくなる。ノイズが入る。しかし、目の前で慟哭する弟の姿ははっきりと見えた。
 ――ごめんね。背負わせちゃったかな。
 素直に謝ろうにも、声は既にでない。
 
 ――Je pense, donc je suis.
 ――我思う、故に我有り。

 私は思う。私は人間でいたい。体を持たない幽霊なんかにはなりたくない。
 体のない私は、魂そのものである幽霊とかわりない。
 ――私は人間だ!幽霊じゃない!
 私の中では、私にはまだ体があるのだ。周りからどう見えようと、私が見る世界がこの世界なんだ。
 「私を人間のまま死なせて。」これが最後の私の願いだった。

 徐々に黒の占める割合が大きくなってきた。もうじき死ぬんだろう、私は思った。

 ――Je pense, donc je suis.
 ――我思う、故に我有り。

 この世が真実であろうが虚無であろうが、それに疑念を持つ自分自身は確かに存在する、と。
 「思考」が存在すれば、それは人間の、私という個体の「存在証明」だと。
 そういったのはデカルトだっただろうか。

 私は不気味に白い天井を眺めながら、動くはずもない四肢に目線を動かした。

 生きるというのは、考えることだろうか。
 違う。今の私は否定できる。
 考えるだけでは、生きてはいない。魂だけの生者はいない。
 生きるというのは、足掻くことだ。

 ――Je pense, donc je suis.
 ――我思う、故に我有り。

 それなら私は生きていく。最後まで生きていく。最後まで考えていく。

 ――Je pense, donc je suis.
 ――我思う、故に我有り。

 私が何者かを。私は人間だと。

 ――Je pense, donc je suis.
 ――我思う、故に我有り。

 ――Je pense, donc je suis.
 ――我思う、故に我有り。

 ――Je pense, donc je suis.
 ――我思う、故にわ

生ける屍

生ける屍

――Je pense, donc je suis. ――我思う、故に我有り。 「デカルト」

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-03

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