あのゾンビがあたしを見ている

1

 もしもし、もしもし……っ! ああ、やっと繋がった。待って、切らないで! 苦労したのよ。登録が全部、●とか■とか▲とか、変な記号ばっかりで。あんたに繋がるまでずっとかけてたの。やっとかけられたの。お願いだから聞いて。どうして彼のスマホからって思ってるんでしょ。それもちゃんと話すから、今は切らないで!
 ……誤解されるのは仕方ないわ。そういうふうにあたしがしてきたから。それは認めるわ。嫉妬してたの。ごめん。そうよ、あんたによ。でも、地味なあんたに彼氏がいるとか、しかもちょっとイケメンだとか、そういうことじゃないから。あたしが憧れてた女の子のほんとに信頼してた友達が、あんただけだったから。
 可愛い顔で、お洒落上手で、しかも可愛い絵が描ける。きらきらしてたわ。羨ましかった。あたしね、今でこそすれてグレて不良じみちゃったけど、ほんとは仲良くなりたかっただけなのよ。家が近所で、小・中と一緒でね。ずっと仲良くなりたかったの。でもあの子の周りには、まるでお姫さまをガードするみたいに人が多くて。でもあの子が信頼してるのは本当に限られた人だけだった。そこもかっこいいと思ってた。
 中学3年生になってちょっと素行がワルっぽくなってきて、あたし、チャンスだと思ったの。可愛い絵は描けないし、顔もどうしようもないけど、お化粧してスカートを短くするくらいは真似できるでしょ? やっと友達になれるきっかけができるって嬉しくて。
 でね、やっとあの子と話せたの。努力の賜物よ。だけど判明しちゃった。あの子はあたしを知らなかった。当然なんだけどね。ただ学区が同じで、何回か同じクラスになったことがあるだけで、話したことなんてなかったんだから。ましてあの子は限られた面子しか認めてなかった。その他大勢以下のあたしは、あの子の視界に入ってすらいなかった。さすがにちょっと悲しかったわ。アピールしないで気付いてもらえるの待ってただけなんだから、そんなふうに思うの自体身勝手なんだけど。
 それからあたし、ただの猿真似だった制服の着崩しなんかも、なんか本気になっちゃって。煙草も吸ったしお酒も飲んだ。どっちもあたしには不向きだったけど。
 高校は、てっきりあの子は美術系でも行くんだと思ってた。それなら到底追いかけられないし、もういいかと思ってた。でも予想に反して、あの子は普通科に行くって言ってた。どの学校かを聞き出すのは苦労したわ。あたしは信頼に足る子じゃなかったから。
 それでね、あたし、やめとけばいいのに。結局あの子と同じ高校を選んだのよ。やっぱり仲良くなりたかったの。だって連絡先すら知らなかったのよ。人づてに会えば話すって感じで、ふたりで会ったこともなかった。で、入学して。あとはあんたの知る通りよ。あの子は必死に頑張ったあたしには興味なかったけど、あんたとはすぐ仲良くなった。連絡先を交換して、休日にケーキ食べたり買い物に行くくらいにね。シンプルに悔しかった。それでしょうもない――いや、あたしにとってはしょうもなくても、あんたは本当に嫌だったよね。ごめん。ガキくさい嫌がらせとか陰湿ないじめみたいなことして。
 それでさ。あるとき、あんたに彼氏ができたじゃない。そう、今の。このスマホの持ち主の。地味で全然お洒落じゃないあんたになんでって思ったけど、まあいいやって。あんたが彼氏とべったりになれば、あの子と引き離せる。あたしまだ諦めてなかったのよ。しつこいし、最低だよね。あんたはあの子にあたしがやってた嫌がらせのこと言ってなかったから、あたしとあの子は、まあ話せば喋るってくらいの仲ではあった。もしかして、あたしとあの子が普通に友達だから、あんた黙ってたの? それともあたしに、友達らしい友達があの子しかいなかったから? 本当にむかつくわ。どんだけ良い子なのよ。
 実際、帰りは彼氏が門まで迎えに来るようになってたからさ。あの子はひとりで帰るようになってた。あの子が気を遣ってそういうふうになってたんでしょ。知ってるわよ。朝は一緒に行ってるし帰りはどうぞっていう。そういう気遣いができる子だもん。あんたには感謝してる。それであたしが声かけてもらえたんだから。よかったら一緒に帰らないかって。
 珍しくたくさん喋ってくれたよ。やっぱりさ、一番の親友に先に彼氏ができちゃって、ちょっと寂しかったのかな。まああんたに非なんかないよ。初カレに夢中になるのは普通だもん。で、あの子の反応も普通。最近はあんまり話聞いてないみたいって言ってた。この件であんたに思うことはない。あんたがデートしてる日曜にケーキ食べたり買い物行ったり、すごく楽しかった。あの子は悩んでるふうだったけど、割り切ってるところもあったしね。化粧品の話ができるのは初めてだなって、嬉しいこと言ってくれたりもしたよ。
 ある日、あの子はあんたから相談を受けた。彼氏とぎくしゃくしてるって。
 あんたの彼氏、親なしのシセツ育ち、高校生になると同時に一人で暮らし始めたんだってね。ああごめん。たぶん秘密なんだよね。でも知ってる人多いと思う。隠してるふうでもないみたいだし。だからそれを踏まえた上で、あたしに打ち明けてくれたの。家に誘われて、それを断ったら変にぎくしゃくし始めちゃったこと。
 難しい問題だと思う。そういうのってペースがあるし。彼氏いたことないからわかんないけど。……え、意外? そりゃどうも。デビューして少しは男子の目が変わったようには思うけど、あたしは軽くないから。髪の色とかセットとか香水にばかりこだわってそうな男なんか御免だわ。
 あたしの話はどうでもいいのよ。あんたこそ余裕じゃない。
 聞いたら笑ったわ。あんたさ、そういうのをまったくないのを条件に付き合ってるんだってね。しかもその提示は彼氏から。バカじゃないかと思ったわ。それ付き合ってないじゃん。
 なんていうかな。自分で示したこと破る彼氏も悪いと思うけど、あんたもあたし的には微妙かな。最初にそういう約束があったとして、それが絶対的に続くなんて普通は思わないでしょ。あんたの読みも甘いし、男も頭悪い。でもその条件があったことを前提にして、あんたを家に誘ったんでしょ? 言い方ひとつだけどさ。あんたが相手を信頼してないふうにも思える。もし嫌だって言ったとしても、やめてくれないって思ってたわけでしょ。そういうことじゃない。じゃあ、この先も付き合っていくとして、ずっとお互い指一本触れない生活続ける気だったの? そこまで考える必要ないなんて言うなら、それもどうかと思うわよ。仮にも恋人なんだから。
 でも、あの子は良い子。あんたのくだらない話を親身になって聞いて、本気で悩んでた。
 新しい情報もあった。あの子とあんたの彼氏、会ったことがある。あんたに付き合って本屋に行ったらたまたまいた1回と、違う日に漫画の新刊を買いに行ったそのときに1回。ちょっと話したって。知ってた? いい話題だもんね。よく行く本屋さんで彼女の友達と会ったなんて。

2

 家に誘われて、断って、あの子に泣きついて。あの子、本当に本気でどうしたらいいか悩んでた。それで直接お願いしようと決めた。本屋で待ってたらきっと会えるから、迷惑だと思うけど付き合って欲しいって言われたの。これは知らなかったでしょ。当然よね。彼氏にとって面白い話じゃないし。
 狙い通り遭遇できたから、場所を変えて話した。さすがにお目当ての本を買い終えるまでは待ったわよ。その後、近くのファミレスに入って。ジュース飲みながら話したの。
 あなたたちには関係ないでしょって、はっきり言いやがったわ。余計なことしてるってわかりきった上で、決死の覚悟であの子が伝えたって言うのに。マジでムカついた。自分で妙な約束けしかけて、ちょっと慣れたら自分で破って、彼女困らせて、しかもその態度。結局ただの男ってわけ。気持ち悪いわよ。だいたいイケメンだなんてみんな騒いでたけど、特に背が高いわけでもない。あの高校に通えるんだから頭はいいんだろうけどさ、約束を反故にしといて頭はいいなんてタチ悪いじゃない。
 本当にね、普通にむかついたのよ。なのにこいつとの関係を上手く続けたいなんて、あの子に相談してあの子を困らせて。あたし悔しくて。手応えのなかったその日の後、あたし、ひとりで本屋に通った。あの子と帰れないのは寂しかったから、別れた後で引き返して。
 何日か後の学校帰り、あんたと一緒にそいつはいた。きっと本屋の雰囲気が好きなのね。じゃなきゃ頻繁に行かない。でもそれが仇となったわ。あいつがあんたと別れてから尾行した。普通のマンションだったわ。ちょっと古臭いくらいの。
 エレベータ―のないマンション。階段はひとつの5階建て。しかもどうも最上階らしい。こっそり尾けるのは大変だった。でもここまで来て諦めるわけにはいかない。ばれたっていい。部屋まで追いかけて1発殴ってやるつもりだったの。
 思った通り気付かれてたみたいで、ドアノブを持ったまま、あいつは静止してた。進みながら声をかけた。ちょっと、だったか、あんたね、だったか。忘れたけどキレ気味に。言い終わらないうちに手首を掴まれて、それがもうすごく冷たくて。真冬とは言えここまで冷たい? さっきまで手袋してたよね? って思って、なんかとんでもないことに首突っ込んだかもって怖くなった。
 部屋に連れ込まれて、すごい早さでドア閉めて鍵とチェーンかけられて、襟掴まれて……ごめん、あの……キスされたの。でもあっちからよ。いきなり。拒否する間だってなかった。どんどん深くなって息が苦しくて。あの冷たい手でマフラーの下から首を触られたとき、ぞっとした。
 マジで死ぬと思ったのよ。もがいたけど力が強くて逃げられなかった。爪が首に食い込んでね。もうほんとに死ぬと思ったとき、手にたまたま触れたものがあった。結構厚くてそんなに軽くもない。あたし、夢中でそれを振り被った。
 やっと身体が離れて、あいつは頭を押さえてしゃがんでた。あたし、はあはあ息ついてた。手に持ってたのはハードカバーの本だった。なんかの小説。余程中身が気になってて、あたしが追いつくまでのちょっとの間に、鞄から出して見てたのかもね。部屋に入ってすぐの傘立てに置かれてた。あたしを引きこんだとき、咄嗟に手近なそこに置いたんだと思うけど。
「こういうこと考えたんでしょ」
 今思うと、すぐに飛び出して逃げればよかった。だけどテンパってて。急に部屋に押し込まれたことも、ファーストキスを奪われたどころか相当深くやられたことも、自分が硬い本で力いっぱい人を殴っちゃったことも。ぶん殴ってやろうとは考えてたけど、それは痛い思いをさせるというか、あたしの気がそれで晴れると思ったからだし。とにかく動揺してた。
「俺が彼女を誘ったの、こういうことだと思ったんでしょ。もっとやる? 別にいいよ、俺は」
「……あんた、どうかしてんじゃないの」
 続く醒めた声に、辛うじてあたしはそう返した。まだ呼吸が整いきってなかった。あいつはあたしのそれには答えず、鬱陶しそうに溜息をついた。
 ゆっくり立ち上がろうとしてたから、あたしは身構えた。でも立ち上がってからも、あいつは乱れちゃった髪を手櫛で軽く梳いてただけだった。もうあたしに変なことをする意図はなさそう。自然とちょっと手が下りた。さすがに持ってた本を手放すことはなかったけど。
「ちょっとふたりで話したかっただけ。外じゃ言えないことだから」
 淡々とあいつは言ってた。
「間違っても誰かに聞かれたくないから、ここならふたりになれると思って。来てもらえなかったのは、まだ俺を信じ切れないから。だからまた後でいいやと思ってたんだ。約束を破る気なんてなかったけど、彼女がそう思うなら、まだ今じゃないんだなと思って。それがさあ」
 ずっと台詞でも読んでるみたいに喋ってたくせに、最後の一言だけはいやに感情が篭ってた。すごく苛立ってるみたいな。あいつは前髪の上から、がりって音がするほど額をかいてた。血が出ちゃうよ、ってあたしは全然どうでもいいこと心配していた。
「正直、彼女にもちょっとむかついてるんだよね。友達に相談するほどショックだったのかな。俺にはわかんないけど。でもそれよりもさ、その友達が、勝手に変な勘違いしたままの友達がさ。わざわざ家まで尾けてくるなんて。俺の気持ちなんか永遠にわかんないような奴に」
 ここであたしがなにか言いそうだと思ったのか、あいつは気付いたみたいに言い添えた。実際のあたしは、ただビビっちゃって変な声が出ちゃっただけなんだけど。
「安心して。彼女のことは好き。これからはちゃんと信頼してもらえる彼氏になるから。俺がしたかった話はそのときでもいいし。でも」
 ここで区切ると、あいつはわざとらしく息を吸った。
「別に君には関係ないことだよね」
 怖かったわよ。尾行なんかしてきちゃったこと、心底後悔した。だって関係ないのは本当だったし、誰が悪いかって言えばあたし。あたしが完全に悪いから、あいつも容赦ないことできたんだと思う。やることの選択おかしいけど。
 でも、なんでだろうな。意地かな。ここまでのことされてただ帰るなんて納得いかない。言いたいことを言ってない。あの子が悩むのを止められない。それが嫌で意を決した。さすがに言葉は考えたけど、あんたを困らせるようなことやめてって伝えた。それが間接的にあの子を助けることになるし。心臓はばくばく言ってたわ。でもちゃんと言えたのは、いっそもう絶縁されることになったって構わないから、それだけあの子の悩んでる顔を見たくなかったってこと。
「うざ」
 頑張ったあたしは、低く短く伏された。視界から汚いものを弾き出すみたいに、あいつがあたしから顔を背けた。あたしは無意識にその目線を追った。
 入ってすぐ、靴を脱いだらもうそこにはガスコンロと流し台がある部屋だった。そこには少しの調理器具が並んでいた。お鍋、フライパン、菜箸、まな板、包丁。薄暗い部屋で刃先が鈍色に光るそれが、一層の存在感を持って私の両目を縫い止めた。
 あはは。なんでこんなことになっちゃうのかな。今思うとさ、ついさっきのことだけど、どうしてそうなったのかわかんないの。思考回路を再現できないの。あたし、包丁を見たとき、今だって。ただそう思って、あいつを突き飛ばして持ってた本も投げ捨てて、包丁を取って、刺しちゃった。
 刺しちゃったって気付いたのは、傷を押さえるみたいに蹲ったあいつがちゃんと倒れてからだった。
 パニクるよね。なにしてんのあたしって、赤黒い血がべったりついた包丁を持ったままでおろおろした。冬で陽が落ちるの早くて、さらに暗くなってたから助かった。例えば真夏で明るかったりしたら、あたし、鮮明な血の色にビビってその場で失神してたと思う。でも安堵してる場合じゃない。まして怖がってる場合でもない。幸いなことにあいつは生きてる。お腹の傷から、手袋に血が滲んでいく。救急車。包丁を放り出して鞄を漁ってスマホを出して、コールしかけて指が止まった。ここで素直に救助要請なんてしたら、なんでこうなったのか問い詰められる。事故みたいな状況ならまだしも、誰が見たって今のここは事件現場だ。

3

 まだ死んでない。まだ助かる。だから救急車を呼ばないと。意思に反して身体が動かなかった。早くしないといけないのに。
 どちらにせよ、すごいニュースになる。あんたの彼氏、テレビでもネットでもちょこちょこ見るんだもん。そんな現代タレントみたいな男子高校生が被害者で、しかも加害者は別の高校の女子生徒で尾行された末になんて、こんなマスコミが喜びそうなネタはないでしょ。考えれば考えるだけ焦って、それで、不意に手に感触が蘇った。出そうになってさ。反射で口を覆ったの。そのとき初めて自分が手袋をしてることを思い出した。
 本にも包丁にもあたしの指紋はついてない。これ大丈夫なんじゃない? 冬で着込んでくれてるおかげか、返り血だってかからなかった。一番やばい考えが頭に浮かんだわ。髪の毛とか服の繊維とか、あたしがそこにいたって証拠は山ほどあるんだけどさ。本当にいけると思った。逃げれるって。
 そう、ここからじゃなくてもいい。近所の部屋の様子がおかしいとか、倒れてる人が見えたとか、そういうことを連絡すれば。怪しまれると思うけど、マンションの場所と部屋を具体的に伝えれば、たぶん出動くらいはしてくれる。ていうかして欲しい。じゃないとあたしが人殺しになっちゃう。そうと決まれば早くここを出なくちゃ。スタンスが決まるとちょっとだけ落ち着いて、そこで浮かんだのが、何故だかあんたの顔だった。
 あいつのスマホ、通学鞄の内ポケットに入ってた。似合わない可愛いクマのストラップがついた、無地の青い手帳型。あたしはそれを取って部屋を飛び出した。自分の荷物はなんとか持っていったわ。
 パスコード、あんたの誕生日だったわよ。博打で入れてみたらヒットした。さすがにちょっと羨ましかったかな。彼女の誕生日でパス解除できる彼氏とかさ。なんで知ってるのか? それは今度、機会があれば話すわよ。今大事なのはそれじゃないから。
 制服で走り続けるのは不自然だし、上手く話せない。どこかの狭い路地に入って、やっとあたしは救急車を呼んだ。予想通り、支離滅裂なあたしの言葉でも、場所を明確に伝えると応じてくれたみたい。近くにいて合図してくれとか言ってたけど、それは言い終わるまでに切った。とにかく急いでって言い残して。
 通話を切って、次はアドレス帳の検索。喉乾いたけど飲んでる暇はない。このご時世にアプリで連絡取らないのね。ほんと笑えるわよ。おかげで記号だらけの気持ち悪いアドレス帳を漁ることになった。あんたに連絡するために。不在着信だったら詰んでたわ。
 こんな状況、救急車だけで済むわけない。先述の通り証拠だらけよ。でもさ、こっちが悪いし種撒いたけど、あっちだっていきなり部屋に引っ張ったりキスしてきたり、少なくともあたしが100悪いことにはならないんじゃない? 運が良ければ正当防衛だって認めてもらえるかも。でも捕まることには変わりない。そうなる前にあんたに言わなきゃと思ったの。いくらあたしが悪いとしても、そういう対処なんだからさ。あんたの彼氏、やっぱりおかしいのよ。普通じゃないわ。それを言いたかった。忠告だなんて偉そうなこと言う気はないけど、あんなのと付き合ってたらあんたまでおかしくなる。そしたらあの子だって喜ばないのよ。あたしはそれが辛いの。わかってよ。
 救急車の音、聞こえてたわ。ちゃんと来てくれた。よかった。人殺しになるよりマシ。
 ……ねえ。あいつがあんたになにを話したかったのか知らないけど、きっとろくでもないことよ。どうせ学校も違うし、なんにもしてないんでしょ? だったらもうノーカンってことにして、それとなく距離置けば? それであの子も安心するし、あたしはきっといなくなるけど、あんたがまたあの子の隣にいればいい。お願い、切らないで。あたしの話じゃ嘘くさいなら、あの子が言ってたことを聞いて。あんたには言わないでって言われてたけど……仕方ないか。どうせもうあたしの友達なんてやめちゃうだろうし。
 あの子、あいつのこと、まるでゾンビみたいって言ってたのよ。取り繕ってはいるけど、感情がないみたいだって。人間のふりしてる人間外の人間っぽいもの。ゾンビよね。人間味が嘘っぽかったって言ってた。
 根拠はないわ。そう思ってしまう自分に、あの子も戸惑ってたし。あたしもそうは思わなくて、あの子のそんな感想が意外だった。でもほら、あの子、芸術肌だから。特別感性がいいところあるじゃない。だから些細な印象からそういうイメージしちゃうのかなって、それくらいに思ってた。
 それを聞いてたからかもしれないけどね。言ったでしょ。手が異常に冷たかったの。もしかして本当にあいつはゾンビで、でも人間のふりしてるうちに恋しちゃって、だから変な約束してまであんたと付き合ってたんじゃないのかな。告白はあっちからだったんでしょ。あんなに冷たいのおかしいもん。キスも本当は冷たかったのかな。だってあたし、ずっと混乱してて。どれが正しいのかわかんないのよ。全部あたしの妄想かもしれないし、そうじゃないかもしれない。途中が妄想で、途中が本当なのかもしれない。
 とりあえずさ、全部本当だと思ってるわ。その想定で動かないとね。警察に行く。どうせあたしだってばれちゃうし、このスマホもあいつのだし、自首したほうがいいじゃない。それにほら、警察なら一応守ってくれるでしょ。いくら犯罪者でも、裁かれる前の命なんだから。
 怖いのよ。我ながらバカみたいだと思う。でもあたし、本当に思うの。深く刺したのよ。生きてるはずないわよ。でも生きてたの。だからね、やっぱりあいつはゾンビなんだわ。立って歩いて、血を垂らしながら、あたしを平然と追いかけてきてるのよ。警察ならバケモノからだって守ってくれるわ。あはは。ねえ、ニュースになってない? 血だらけの人が歩いてるって。……そんなわけないか。本当にバケモノなら上手く繕うよね。人間のふりしてるときみたいにさ。
 とにかく、あたし――


 突然手からスマホが消えたことに、あたしは呆然としていた。
 ずっと高鳴っていた心臓が、勢いを増して更に大きく音をたて始める。背後で微かに靴音がした。その誰かにスマホを抜き取られた。
 真冬だというのに汗が出る。振り向けない。頭のてっぺんから足の先まで、一気に血が下りていく。
「ごめん。返して」
 平坦なその声に、ますます身が竦み上がった。あいつの声だ。聞き間違えるはずがない。刺されて倒れて、漏れ出ていた呻き声。そんなものとは無縁とばかりの、なんのダメージも受けていなさそうな今の言葉。
 あいつはあたしの横の隙間を跨ぐようにしてあたしの前に立った。制服にマフラーと手袋。たまに見かけるくらいだから他人に気付かれることもそうないのか、端から気にしていないのか、あいつは無防備な素顔のままだった。
 一言二言会話を交わしてから、あいつはスマホをポケットにしまった。鞄は持っていなかった。
 もう暗いから、路地裏では顔色はわからなかった。マフラーで口元を隠しながら、それでもあいつが笑ったことはわかった。含みのなさそうな温和な笑顔だった。あたしは跳び上がりそうになるのを必死に堪えた。
「ちょっと苛々しちゃってさ。でも、スマホ持ってくなんてあんまりじゃない?」
「ご、ごめん……」
「ああ、いいよ。返してもらったから」
「……」
 もう言葉が出なかった。あまりにも普通に喋っているじゃないか。あたしの視線は、間違いなく刺したはずのあいつのお腹のあたりを彷徨っていた。ブレザーのもとの色と相俟ってよく見えないけど、血で汚れた服装のまま歩いてくるわけがない。バケモノだから上手く繕うはずなんて考えたけど、本当にそんなことある? 本当にこいつは死に損ないのゾンビなの? 
 首にかかった指の冷たさが蘇る。この世のものとは思えなかった。
「警察に行ってもいいよ」
 怖さばかりが膨れていく中、その一言ではっとした。あたしがなにも言わないのを見て、あいつは続けた。
「嫌だったでしょ? もしかして初めてだったりしたんじゃない?」
 キスのことだとやっと気づいた。嫌だったのはそうだけど、初めてだったなんて知られたくない。あたしは無言だった。
「もしそうしたいなら、行って話して。俺も逃げたりしないから。ただそうなると、怪我のことも言わなきゃいけなくなるけど」
 あいつは手袋越しにお腹に触れた。
やっぱりあたし、本当に刺してたんだ。今更怖くなって叫びたくなる。
 そしてやっぱり、そんな攻撃を受けておいて、平然と歩き回っているなんて。こいつはやっぱりゾンビなんだとあたしは確信した。
 ゾンビなら殺したっていいだろう。あの子や彼女に危害を加える前に、あたしがやらなきゃ。なにか武器になるものを視線で探した。それらしいものは見当たらなかった。
「俺のほうから行く気はないんだけど。出血量ほど酷い怪我じゃなかったし」
 あたしの目は血走っていたと思う。追い詰められた獣みたいに周囲を探っていたあたしは、あいつのその言葉で冷静になった。今なんて言ったの?
「そうじゃなかったら、こんな普通に歩けないじゃん。追って来れるわけないでしょ」
「救急車は? 乗らなかったの?」
「階段下りてたら出くわしたよ。やっぱり俺の部屋に行こうとしてた。なんかの間違いですよ、俺はこの通りけろりとしてますよって言ったら帰ってくれた。一応、ざっとマンションの様子とかは見てたみたいだけど」
 あいつは大仰に身振り手振りでそう説明すると、浅く息を吐いた。白い息が靄みたいになるのが見えた。

4

 あたしは唖然としていた。あいつの言うことなんて信用できない。信用できないけど――そう思うこと自体、あたしのただの独りよがりだとしたら。ゾンビだなんだと妄想に耽って自分を正当化しようとしていただけで、本当に正しいのはあいつのほうだとしたら。アドレスの記号の件だって、いろんな偏見があったから気持ち悪いと思っただけで、芸能人だってことを考えれば妥当なセキュリティ意識かもしれない。電話番号なんて自分で登録名がわかっていればいいんだから。
 永遠に遠のいたと思った日常に、あたしは帰れる。あの子との約束を破ってしまったことには変わりないけど、弁明のチャンスがある。一部始終を話してしまった彼女に対しても、この感じなら、きっとあいつのほうも一緒に場を収めようとしてくれるんじゃないか。加害者のあたしが悪いと思っていて、被害者のあいつ自身がそれを見逃すと言っているんだから、あの大人しい性格の彼女がことを荒立てようとするとは思えない。納得するかしないかは別としても。
 こんな幸運、今を逃したら絶対に訪れない。
「あたし、行かない」
 それ一択だった。悪い未来は選ばない。あたしなりに反省して、償って生きていけばいい。罪の度合いで言えばあたしのほうが数段重いだろうに、それでも見逃してくれると言う彼に感謝して。
 顔を上げずに言ったあたしに、あいつは「よかった」と笑いかけた。その瞬間一気に力が抜けて、あたしはその場にへたりこんだ。
「大丈夫?」
「ごめんなさい、あたし、ほんとに……! ごめんなさい……っ!」
 次から次への涙が溢れる。もう前なんて見えなかった。止めどない涙を何度も手袋をつけた甲で拭いながら、あたしの謝罪は止まらなかった。慌てたようにあいつが歩み寄り、腰を折って頭を撫でてくれた。その仕種がまた優しくて、余計に泣けてきた。
「ごめん。ハンカチ持ってなかった」
「いい。大丈夫……」
「大丈夫じゃなきゃ困るよ。まだ話は終わってないんだから」
 一瞬、すべての思考が頭から消え去った。
 今のこの展開、ほぼエンドロールなんじゃないのか。真冬の夕方の、改心した女子校生と広い心を持つ男子校生という構図の。
 あたしの頭に手を置いたまま、あいつは言った。顔の下半分を、マフラーでわざと見せないようにしているようにも見えた。
「今日のことはお互い誰にも言わない。とりあえずこれでいいんだけどさ、ひとつお願いがあるんだよね」
「お願い?」
「そう、お願い。条件なんて出せる立場じゃないからね。だから君の協力が必要なんだけど」
「なに? なんでも言って。あたしにできることならなんでも」
 そっか、それくらい。やっぱりあたしのほうが引け目は大きい。咄嗟にそう考えて顔を上げた。あいつの手は、その勢いであたしの頭から離れた。
「俺の前に二度と現れないで欲しい」
 あたしから一歩離れながら、あいつは言った。手がまた服の下の傷を摩っていた。
「そう見えてないかもしれないけど、俺、むかついてんだよね。君が大嫌いなの。もう一人の子と一緒にわざわざ説教垂れてたあのときは、感心したくらいなのにさ。彼女、本当に大事にされてるんだなって。俺も適当なことできないなーとか。そういやあのお店、ケーキ美味しかったな」
 なに? なにを言われてるの? ああそうか、あたし、一歩間違えばこの人を殺してたんだっけ。自分にそんなことをした相手、好ましいはずがない。この人は間違っていない。早く消えないと。スクールバッグの取っ手を掴んで立ち上がった。無礼だとも思ったけど、そのまま背中を向けた。
「人間になろうとしてんだからさ。邪魔しないでよ」
 そんなふうに聞こえて、つい振り向きかけたのを、あいつは見逃さなかった。やめて、と低く鋭く声が飛び、あたしは俯きがちに前を向き直した。今の言葉は? 信じられないけど、やっぱり人間じゃないの? あの指の冷たさが物語る通りなのか。
「こっち見ないで。早く行ってよ。ちゃんといなくなるまで、俺、ずっとここにいるから」
 気付けば足が震えていた。もうこれ以上は耐えられなかった。バッグを胸に抱き抱え、あたしは走った。寒くて空気が冷たくて、肺が凍りそうだった。でも走らなきゃ。背中にまとわりつく気配がなくならない。そのうちに涙が出てきた。怖いから泣いているのか。どの恐怖に対して泣いているのか。全然わからないまま泣き続け、どうやって家に帰り着いたのかもわからなかった。
 驚いた母親に宥められても、まだあたしは泣いていた。ゾンビがあたしをずっと見ている。それを言うことすらも怖くてできない。手に残る人を刺した感触と、あの指の冷たい感触があたしをどんどん埋め尽くした。
 日常になんて帰れなかった。あたしはただ怯え、瞬きする度に瞼の裏で巡るあいつの優しい表情に震えていた。今日もまた自分の部屋から出られない。あのゾンビがあたしを見ている。あのゾンビはどこにでもいる。ゾンビだから周りの人たちを感染させる。だからもうあたしも、あたしの家族もゾンビかもしれない。もしかしたらあの子もゾンビになったかもしれない。確かめたいけど確かめる勇気なんてない。
 暖房の利かない自室の中、恐ろしい想像が脳をよぎっては消えていく。真冬はまだまだこれからだ。

あのゾンビがあたしを見ている

お疲れさまでした。
1-4、今回は書いてたページ数で割っただけ。
目をちゃんとお休みさせてね。

◇追記
なんか恥ずかしい間違いしてたので、一部修正済。

あのゾンビがあたしを見ている

なぜか彼氏のスマホから、クラスメイトが電話をかけてくる。という話。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-08-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
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