ちから




 数々の天才に肉薄した漫画を描かれる曽田正人さんが手がけた『昴』はダンサーが主人公である。双子の姉、すばるがバレエに出会い、悲劇というべき人生の転換点に突き動かされてその天才性を突き詰めていく様が実に危うく、そして狂おしい程に美しい。その続編、『MOON』になるとかけがえの無いパートナーとライバルを得て、一人のバレエダンサーとして成熟する姿が強く、また頼もしくて憧れるのだが、その物語ですばるに匹敵する天才っぷりを見せるのが世界的なバレエ劇団でプリンシパルを務めるプリシラ・ロバーツである。
 このプリシラ・ロバーツの凄みは是非漫画を読んで味わって欲しいと思うのだが、彼女のことで忘れられないのが大事な公演の前にNASAの老研究者との間で交わした会話である。曰く、ダンサーこそ、人類が初めて出会う宇宙人とコミュニケーションを図れる存在である、と。
 ドラマチックに話を進めるための大言壮語と一蹴できそうなこの会話に力強い説得力を持たせるストーリーを展開させていくのが『昴』の面白さであり、折に触れて読み続けたい漫画としての魅力だと思うのだが、思考上のお遊びとして実際に観客である宇宙人になってみれば、本当にその意味内容を理解できるか分からない。地球人と同じ身体構造を持っていれば、ミラーニューロンの力でも何でも借りることでその宇宙人の脳内で走る電気信号をシンクロさせ、バレエダンサーが正しくその身体で観ている景色を感じさせることは可能かもしれない。では、その身体構造が異なるとしたら?同じ現象を体内で生じさせることが難しいとしたら?踊る側と見る側との間のシンクロに頼った瞬時のコミュニケーションをその場で行うことが困難だとすれば、その交流を支えるのは相手を知りたいと思う関心ないし興味の持続しかないだろう。その時に、きっと伝統という長い月日を経て磨かれて来た「型」が物を言う。宇宙人がその美しさを解するか否かは問題でない。あることを伝える身振りとして継承されて来た身体表現は、「伝えたいことがある」という研ぎ澄まされた最初のメッセージをクリアに伝える。そのメッセージが交流可能な知的生命体という共通項でひしひしと伝わる。その身振りに流れ込んでいるものがあると分かる力。宇宙人の興味を引く。ここから世紀を跨ぐ宇宙人との交流が地球上で始まりそうだと思う私はメルヘンチックに過ぎるだろうか。しかし、そう易々と自虐できない迫り方を曽田さんが描くダンサーたちが体現してくる。




 何かがある。見る者に対してそう思わせる力場を生む表現。
 それを何者かが見れば交信は自発的に始まる。その交信を行う者が増え、その一定数が維持されれば、交信自体が一つの営みとして引き続き行われていく。そのダイナミズムは失われない。活動の生命が絶たれることはない。
 最近類と比較してその特徴を見出し、対象の本質として抽出する。その結果を様々な文脈の上に置いて見出せる一面の有無ひいては見出せた対象の各面の関係性を把握する。その価値を吟味し、後世に残るだけの耐久性を試す。それらを体系としてまとめる。それを教えて説いていく。古来より行われて来た叡智の継承の営み。
 この営みが形式化する側面があるから、表現活動に言葉を置くことの慎重さに重みを持たせる意味がある。例えば抽象表現についてはパターン化が進み、それが一つのパフォーマンスと看做されて仕舞えば、表現としての勢いが失われるのでないか。定型化のレンズを通してその表現を認識すれば対象に向ける好奇心は失われる。見ているものに対して心底残念な思いをする、その瞬間を私は恐れる。
 川の流れを堰き止めて、その命を腐らせたくない。
 見る側の知ろうとする目からは、表現する側も積極的に逃れようとする動きはあったのだと思う。デザイン性を際立たせる、または描く意思すら感じさせないアクションペイントで画面を埋めるなどの手法などがそれである。
 意味不明瞭なものであろうとすればする程にそれが何なのかを把握することは出来なくなるし、見る側との距離が開けば開くほどに獲得できる自由は抽象表現という川の流れを前へ前へと押し進めるだろう。しかし、知ろうとする目の恐ろしさは表現する側の自由そのものも何らかの形で言葉にできるという点にある。
「見る側を困惑させる、訳の分からないものを表すことを抽象表現という。」
 こう言えば、抽象表現も言葉の網の目に引っかかる。一ジャンルとして扱えるようになる。しかもそのジャンルは理解不能なのだ。そのうちに見る者の興味ないし関心は理解し易いものへと移って行く。力場が確実に縮小していく。



 言葉に立ち向かう言葉を重ねても論理の網の目をより狭く、より強くしていくだけだろう。
 説明できる作品をもって社会を変えていくのも表現の力の一つであると理解する。しかし、なぜその作品を通してでなければその主張を行えないのかという疑問は生じる。この疑問がまた、表現の勢いを削ぐ(この引っかかりをひょいっと乗り越えるものを私は現代アートとして楽しんでいる)。
 ならばいっその事、合気道の如く言葉=論理を逆手に取って投げ飛ばしてみてはどうか。畳に叩きつけられる論理が描いた軌跡を型にして、何を表現したか分からない、と決して言わせない方向に思い描く抽象表現を画面一杯に表現するのはアリじゃないか。



 その抽象画には製氷器のような仕切りが「基本的に」存在していると思った。その仕切りに流れ込む色にもベクトルがあるように見えた。だから、その抽象画にはメッセージ性を感じる。何かあると思える。それは赤い輝きに向けて為される生き物の羽ばたきであったり、また地上に向けて激しく落ちる雷の一撃であったり、日々用いられる漢字には成れなかった鳥類の晴天に透けた骨組みのようであったり、分裂した伝説の色とりどりな存在感であったりと内容が多様である。
 あるいは、仕切り自体が具象化する。死骸の上、育んだ命の果てに成る実が落ちそうなその一枚に見てとるカラフルなユーモアが面白い。そこまで見てきた絵によって把握していた枠組みがぐにゃりと変形した快感を加えれば、その面白さはより際立つ。
 または厚塗りの存在を纏った鳥が異様で圧倒される。かと思えば、散る花のような色が点在する一枚には生死が混ざった水彩の現在を感じる。
 基本的な部分から始まる世界がこれ程に厚くて、厚くて仕方ない。そういう私の感想がやはりその世界に取り込まれ、消化され、その一部と成る。言葉を取り上げられたような格好になった私はまた言葉を紡ぐ。仕切りの向こうに投げ入れる。
 バッテリーのような交流。開放感あるギャラリーで拝見できた中村一美さんの絵がもたらしてくれた、少しだけ熱い時間。



 知らない言語に接したとき、私は兎に角その用いられ方を観察する他ないだろう。かかる言語を用いる主体が発すること、指し示すこと、行う行動、その行動が取られた状況の他、私との関係性、私がその主体に働きかけたこと、その意味内容が相手にどれだけ理解されたかあるいは理解されなかったか。生じたとすればどういう誤解か、その誤解は解けるのか又は得られた共通理解のすり合わせ、その確認、エトセトラ、エトセトラ。
 私が生まれ育った背景をぶつけてみて、反対に向かい合う相手が生まれ育ってきた背景をぶつけられて、一時的にでも私たちは互いの理解が成り立つ新たな世界を作っていく。そのための空間を担保しているように見えて止まなかった、吉田花子さんが描く抽象画に描かれる太い白色。その周りを取り囲み、決して確定しない同系色を踏まえた色味。図象、その上に引かれた線は手持ちの道具で翻訳しても意味が定まらない。そして物理的に認められる画面に残ったズレ。浅い地層のような領域性。これら丸ごと、私とは違う存在がこの世に表したという事実を前に兎に角観る意欲を掻き立てられた。それが愉快で堪らなかった。
 素晴らしい表現と出会う喜びに目を洗われる。これは私が吉田さんの作品を前にして抱いたものを言葉にした感想に過ぎない。だから、きっと同じコミュニケーションを図った赤の他人が抱いた「それ」に否定されるだろう。こうして、吉田さんの表現は人の世界の網の目から逃れ続ける。そして見る側の足を冒険的に突き動かす。
 フロンティアな誘引力。
 プリミティブという引き出し。




 小説のテーマは、書こうと思えば意味が伝わる最低限までその内容を要約できるだろう。その意味で小説を構成する内容は余分だと指摘できる。ただ、この指摘は何を書いた小説かという問いに対して端的に答える場合には妥当であるが、作者が編んだ論理の表現を、内心で呟く自分の言葉で追体験するという小説の面白さを表すものとしては妥当ではない、と私は考える。
 一見して迂遠でもその描写や会話、文のリズムが物語の中核に向けて命めいたものを注ぎ込む。それが小説全体で行われ、読者の論理を刺激し、回路を染め上げる様々な感情を呼び起こす。
 論理は小説の肝である、と私は思う。その論理の伝え方に作者の工夫と個性が表れるのだと私は感じている。起こった事実をどこまでも正確に記しても小説としてきっと面白くない。語り手の視点にも関わることなのだろうが、何を語って何を語らないのか、その匙加減が小説の味を決める。その固め方と崩し方に小説家の技量は問われるのでないか、とアタリを付けている。
 第二次世界大戦におけるナチスドイツのフランス占領に向けて、目が不自由なフランスに住む女の子とドイツ軍に所属する男の子がその時に言葉を交わすまでの長い道のりを描く『すべての見えない光』は最も大事なことを語らずに最後までその物語を語り切った、最も詩的な小説だと私は評価する。この小説のおかげでストレートに物語る本を暫く読めなくなった。その語り口の形は、内容の透明度を決定的なものにする。言いたいことをズラすのでもない、誤魔化すのでもない。饒舌になるのでもない、朴訥に綴るのでもない。原文を知る翻訳者を私は信じる。なので、原文の素晴らしさを私は確信する。
 その選択と工夫。
 SNSで公開されているものを拝見できた熊倉涼子さんの絵には対象となるものが三次元又は二次元で描かれ、対等に共存していた。テーマを仄めかすものが散在し、そのズラし方に凝った狙いを読み解けそうである。重層的な言葉を呼び起こせそうである。けれど、私はそこで躊躇する。結果、そのラインを徹底して守ることを選ぶ。なぜなら画面に満ち溢れるイメージを壊したくないから。その良さを自分の言葉で削りたくないから。熊倉さんが手がけた世界の隅々まで、抽象的にはみ出たエネルギーまでこちらが拡がって受け止めたい。見事な物語を読むときには自然に行えるその試みを(なぜなら、小説は読者が時間をかけて読み進められるから)、いきなり出会う絵画表現を前に私が踏み止まって頑張る必要がある。私はその努力を楽しみたい。その方が面白そうだと結論付けてしまったのだから仕方ない。
 自身の読書体験を通じて、熊倉さんが用いる抽象表現に対する言葉を私は引っ込める。こういう実「力」も絵画の可能性を広げるものだと、一素人は夢想するのだ。


 

ちから

ちから

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-08-08

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