アイオライトの水底(ためしよみ)

静かな海に暮らす三匹の生き物の日常と、冒険と、おだやかなメメント・モリ。
試し読みです。


 見覚えのある朝焼け色が縮こまっている。聞こえるのは、けいれんのようなすすり泣きだった。
 静かに名前を呼ぶ。からだのふちから、怯えの色が広がってゆく。欠けて不自然なかたちになった左体側が、細くたなびいていた。
「食べられちゃった。ここのところ、はさみで。それとしっぽ。こわいしっぽ。でも、ぼくには毒があるから。まずくてはきだして、それで、どっかに行っちゃったんだ」
 この日をさいごに、きみは、泣かなくなった。
「だいじょうぶだよ。ぼく、いきてるよ」

*****

 誰もが一度は聞いたこともあるでしょう。わたしたちのごせんぞさまの話です。
 みなさんが思いうかべるより、ずっとずっと昔のことです。誰かがわるさをしたのではありません。それでも、なにかの罰のようだったと、聞いています。
 とにかく、あたたかな海がとたんに寒くなり、わたしたちの食べるものがなくなってしまったのです。食べものがなければいきてゆかれませんね。みなにいきわたるぶんがないので、数すくない食べものをめぐって、仲の良かったみんなのあいだで、けんかが始まりました。
 たくさんの生きものが傷つきました。もちろん、力つきるものもありました。それでもけんかはやみませんでした。みな、やめかたが分からないようでした。
 そのようすを見た海の神さまは、たいそうお怒りになりました。なんとかしてやめさせようと思った神さまは、海を分けることにしました。こうすれば、互いに会うこともなくなり、いっさいの争いは起きないだろう、と言いました。
そうして、海のさかいめができました。
 さかいめをこえてはいけない、というのは、こんなできごとがあったからです。いっさいのあらそいごとがなくなれば、神さまもさかいめを解いてくれるかもしれませんね。



「海のさかいめがなくなるのは、いつなのかなぁ」
「……神様が作ったとかいう、あれ?」
 まだ紫咲はそんなおとぎばなしを信じているのか、って言いたげな顔を碧央がするから、ぼくも負けじと顔をしかめてみせた。錫巴は少しはなれたところで、うっすら笑ってぼくたちを見ている。
 ぼくたち、というか、ぼくと錫巴のからだが小さかったころから聞かされている話だ。碧央は、からだの大きさがあのころとあまり変わらなくて、だけどぼくたちはみんな、おとなみたいには、大きくない。
「信じる、信じないじゃないな。おれは。太陽が出たら朝で、暗くなったら夜になるのと同じでさ。疑ったことなんてなかった」
「なんだ、スズもあの胡散くさい話を信じてるのか」
「だから、信じるかどうかじゃないんだって」
「…………」
「紫咲? どうかしたかい?」
「……ん。ちょっと待ってね、考えてるから」
 碧央と錫巴はぼくよりずっとかしこくて、ぼくはみんなよりにぶくて。ことばを出すがおそくなっちゃうから、これはいつものこと。
 碧央も錫巴もぼくを笑ったりしない。待っててくれるから、ゆっくり考えられる。
 考えているあいだにも、ゆらり、ちかり、ぴかぴかの泡がたくさんのぼっていく。灰色の中からやってきたお日さまの光が、泡をぷつぷつ、割っていく。今日はお天気がよくないけど、流れはずいぶんおだやかだ。
「……ええと、神さまのこととか、どうして海が分かれたのか、とかはわかんないや。でも、海にさかいめがあるのはほんとでしょ。だから、いつなくなるのかなぁ、って。そんだけ」
「……」
「……」
 あれ、碧央も錫巴も黙っちゃった。ヘンなことを言っちゃったかな。
 どう? ってきこうとしたら、碧央はぴょこっと頭をゆらして答えてくれた。
「確かに、いつ元通りになるのかは誰も言わないな。おとぎ話の誇張なのか実際にあったことなのかさえもはっきりとは区別していないし」
 しばらくして、錫巴もうなずく。
「おとなは、今はもう、争いがなくなった、としか言わないよなぁ」
「ね。それって、ふしぎじゃない? あの、ぼく今日ね、夢を見たんだ。ここと似てるけどちょっとちがうところでね、ぼくだけで泳ぐ夢」
 知ってるようで知らない場所を夢で見たから、もしかすると、って。海のさかいめがなくなったら、こんな場所にも行けるかな、って思ったんだ。ぼくたちはじつは、どこまでも行けるのかな、って。
 頭の中ではそう考えてたんだけど、ことばがおくれて、音にならなかった。ぼくはよく、頭の中のことばと音のことばが、ずれてしまう。
「―あぁ、あるんじゃないのか」
「碧央もそう思う?」
「どこかには。あるとは言いきれないが無いとも言えないし」
 碧央はいつも、ぼくが考えてることも聞こえたみたいに答えてくれる。それがぼくはとってもうれしいんだけど、碧央はなんでもないみたく、つんとする。
 きゅうっと伸びて首をかたむける。頭の上に、いくつもの輪っかができているのが見えた。「あめ」が降ってるんだ。少し冷たくなったらいいな。最近はお日さまがちかちか、まぶしくって、ちょっとあつい。
「……神さまっていうのは、皆を納得させるために、誰かが後付けした理由なのかもしれないね」
 上を向いていた顔に、錫巴のことばが、落っこちてくる。
「海が寒くなりすぎて、食べるものがなくなった。そのせいでご先祖さまたちがけんかをして、たくさん傷ついた。だから神さまが怒って海を分けた。この理屈が通るのは、神さまがいるって前提があってこそ、だ」
 おとなたちはみんな、自分だけの神さまを持ってるんだって。薄い色のついた大きな石だったり、すごくきれいな貝だったり、いろいろ。だけどぼくには、神さまがどんなかたちをしているのか、考えもつかない。
 錫巴は調べものがとくいだ。昔のきろくを見たり、どんなことがあったのかを想像したりするのが好きなんだって。だから、海のことも一番くわしい。
 もしも、さかいめを越えちゃったら。もとの海に戻れなくなって、「旅のもの」になるって教えてくれたのも錫巴だ。にどと、自分の海を持てなくなっちゃうんだ、って。
「昔、海が分かれた理由と、今、おれたちが、海のさかいめを越えてはいけない理由は違うだろう。争いを起こさないように……が、旅のものに、ならないように、に変わっている。これは合っているよね、碧央?」
「あぁ。で、今でも食いものは少ないのかどうかってとこだよな。紫咲、僕ら、食うのに困ったことはないだろ?」
「ぼくは、ないよ。いつもお腹いっぱい食べられるよ」
「な? でかいきみでさえそうなんだ。結局、神様なんて曖昧なものを持ちだしてむりに納得してるんだろ。そのほうが都合が良いから。いるいないじゃなくて、神様はいなくちゃいけないんだ。……というか、そもそもどうして旅のものになっちゃいけないんだろうな。僕みたいなのも居るってのに」
 碧央みたいな。
 僕も錫巴も、なにも言えなかった。
「やだな。おかしなことは言ってないよ」
 無理やりみたく、碧央は明るいふうに言う。
「だって僕はよそものだもの。……さ、もう行こう。間に合わなくなっちゃう」
「……うん」
「そうだね」
 ぼくは碧央の目の前で止まって、小さいからだを背中に乗せる。碧央はぼくの頭をぽんぽんたたいた。錫巴もぼくのとなりに並ぶ。ぼくが疲れたら、交代して、錫巴が碧央を運ぶんだ。
 ぼくは泳ぐのがとくい、錫巴は調べものがとくい、碧央はすぐにぱっとひらめくのがとくい。ばらばらだから、いつでも楽しい。
「それで紫咲。今日はどこまで?」
 赤い海藻の群れ、とぼくは答えた。いつも集まる南の緑岩から、あんまり遠くない場所。みんなと行くのは初めてだ。
 背の低い海藻をかきわけて進む。あんまり速いと、錫巴が追いついてこれないから、少しずつ、きょろきょろしながら。
 うっかり見のがした岩やかたい海藻は、碧央が頭をたたいて教えてくれる。だけどたまに、わざと教えてくれなくって、ぼくはのっぽの海藻に突っこんでしまう。そんなぼくを見て碧央も錫巴もからから笑う。
 突っこんじゃって落っこちてきた碧央を、また乗せようとすると、錫巴が碧央をひょいと受け取った。
「紫咲、さっきからぶつかってばかりだよ。ちょっと休憩したらどう」
「えぇ? スズは乗り心地が悪いんだよなあ」
 灰色がかった錫巴のからだを、碧央がしょくしゅでぺちりとたたく。明るい色の碧央のからだは、とってもきれいだ。夜色をうつしとった小さなひらひらに、背中にはお日さまの光をつなぎとめたかざり。ぴょこぴょこする二本のしょくしゅ。
 いつかめちゃくちゃでっかくなってやる、紫咲も錫巴も抜かしてやる、って碧央はいつも言う。きっと父さんも母さんも大きかった、って。きっと、っていうのは、碧央には家族がなくて、ずっと迷子だからだ。この海に、碧央のなかまはいない。よそものだよ、って、碧央はよく、自分で自分をからかうみたく言う。



 黒い海藻がとぎれた。砂からあわい色の貝がらが見えかくれしている。ときどき頭の上に輪っかができて、消える。輪っかのふちはいっしゅんだけ、ぱっと光る。
「いいか、今日は最高記録を目指すんだ」
「うん。あ、あそこ」
「あっ、連続で二つか。くそ、負けるもんか」
 大きい岩のはじっこに生えた海藻によりかかって、輪っか探しをする。碧央は負けずぎらいだ。ぼくはしょうぶのつもりじゃなくても、先に見つけたのはどっちか、聞いてくる。
「緑岩のところより見やすいな。あっ」
「あったね」
「紫咲! 今のは僕のだかんな」
「え? うーん、うん……碧央でいいよ」
「で、いい? 適当だな。そんなやつはこうだっ」
「ええっ? わっ―ふ、あははは!」
 しょくしゅでわき腹をくすぐられる。からだをよじってもよじっても、くすぐったいのは止まらない。笑いすぎて、あちこちおかしくなりそう。
 碧央は、錫巴にもしょくしゅを伸ばす。錫巴は驚いた目をして、でも小さくやり返してくる。ぼくたちは、やわらかい砂の上でもみくちゃになる。小さい碧央を、ぜったいに押しつぶしちゃわないように気をつけて。
 ばかみたいだ、ともんくを言いながら、笑いながら、碧央はしょくしゅのぴょこぴょこを大きくさせる。くるりと、ぼくと錫巴の上で回ってみせて、からだのひらひらをもとに戻した。
「―あ、」
 ひっくり返って見えた空に、碧央はため息をこぼす。
 ぼくにも見えた。朝焼け色だ。
 あおいろ。むらさき。まざったももいろ。白に、うすい赤。
 じりじり、たくさんの色がせまってくる。ぼくのからだに似ている色もあった。色は動きつづけて、すぐに別の色に変わる。くるくる、くるくる、めまいがしそう。
ひとつきりを見つめるんじゃなくて、ぜんぶをぼうっとながめる。そうすると、だんだん色が混ざりあって、碧央の色になる。
「良いな」
 碧央はぽつり、つぶやく。錫巴はそれを聞いて、思いっきり吹きだした。
「何だよ、良いって。綺麗じゃなくって?」
「良いものを良いって言ってなにが悪いんだ」
「いや、悪くはないけど。素直じゃないなぁ、碧央は」
「う、うるさいな。僕は、良いと思ったものを良いと言ったまでだぞ。普段はこの残骸を見ていただなんて知らなかった。場所によってこうも変わるんだな」
 いつもいるところは、大きな岩があったり急な流れが交じりあったりしているから、危ないものから身を守れる。そのかわり、ぼくたちはいつも、うすぐもりの灰色ばかり見ている。明るい色がやってくるのは、ちょっとだけ。
「紫咲、ありがとう。初めて見たよ」
「うん、すっごくきれいでしょ?」
「……良い景色だ」
 良い、かぁ。
 ぼくはうれしい気持ちとくやしい気持ち、半分ずつになっちゃった。きれいって思ってくれるって、期待してたんだけど。
 碧央は自分の色が嫌いだって言う。ほめると怒る。碧央のからだは、とってもきれいなのに。だからやっぱり、空にきれいって言うのを聞くのも、むずかしいのかも。
「これを見てしまっては、他の景色ではもう、満足できないなあ」
 知るって、怖いことだね。そう錫巴がぼくに笑いかける。
 難しい問いかけを、碧央じゃなくてぼくに、投げかける。
 錫巴は調べものが好きだ。だから、わからないことがだんだんわかっていくのも好きなんだと思ってたけど。
「知らなくても良いことも、気付かなくて良いことも、あるのになぁ。余計なものばかり見えるようになって、困る。ね、碧央」
「あ?」
 碧央は片方のしょくしゅをぴらり、上げる。
「まどろっこしいな。謎かけでもするつもりか? 勿体ぶって深刻そうに振る舞うのが流行りなのか? そんなの後にして、別のとこにも行こう」
 ぼくたちから降りて、ずんずん進んでく碧央を追いかける。ひらけている、大きなでこぼこの砂地。ああいうところは、急に流れが強くなるけど、だいじょうぶかな。
「碧央、待って。きみだけじゃ危ないよ」
「紫咲のくせに遅いぞ。早くおいでよ、紫咲も、スズも」
 ぼくはあわてて追いかける。
 だけど、どうしてだろう。碧央がいるところまで、進めなかった。流れが急なわけでも、岩があるわけでもないのに、前に進めなかった。まるで見えないまくがあるみたい。それに、ここを越えたら、わるいことが起きる気がした。
「だめだよ。ぼく、だめだ。行けないよ」
「なんで? 君ならこんくらい、どうってことないだろ」
「そうじゃなくて……」
「碧央、おれもだ」
 隣に来ていた錫巴が言った。ぼくたちは、見えないまくや壁みたいな、ぞわぞわするものに、さえぎられていた。
 こう、と、泳ぐときにいつも聞こえている音がする。目に見えないなにかが、すごいいきおいでぼくたちを追いこしていく。
こう、こう、ごう。すう、すうー。
 高い音と低い音のあいだにぼくをつかんで、はなして置いていって、なでるみたいに流れていく。うろこが一枚一枚、さかだつ感じがした。
「……さかいめ。そうか。ここがか」
 そういうことか、と、碧央はつぶやく。
 ここが、海のさかいめ?
「目に見えるものはなんもないじゃないか。それでもこっちには来られないのか?」
「うん……なんか、ぞわぞわして、やなかんじがする。ほんとにほんとに、行きたくないんだ」
「スズもだめなのか? どうしても?」
「だね。おれも何となく、そこに近付くのはぞっとする」
 ぼくと錫巴は小さく後ずさりをした。いつまでも近くにいると、なんだか泣いちゃいそうだった。かなしくもくるしくもないのに、からだのまん中がぎゅうっとして、さみしいのと似てる気持ちになっちゃいそう。
 だけど、碧央は動かない。
 ぼくたちのほうを見て、ただただ、じっとしている。
「碧央? こわくないの。早く、戻ろうよ」
「……僕はなにも。なにも、思わない」
 錫巴が大きくまばたきをした。ぼくもだ。まだ、からだじゅうにぞわぞわが残っているのに、碧央はなんてことなさそうに、しょくしゅをゆらす。
「僕が―よそものだってことと、関係あるのかな」
 海のさかいめは、ぼくたちだけのもの。
 だから、よそで生まれた碧央は、なんでもないの?
「君らがどうして不快感を覚えるのかさっぱりだけど……越えられないこともないんじゃないの? これ。旅のものとかもきっと、気にしないで越えてるよ、多分」
「気にしないで、って、それが難しいんだよ」
「そういうものか? ふうん。なんでなのかな……」
 心のそこからふしぎだな、って思ってるみたく言いながら、碧央は戻ってきた。ぼくはものすごくほっとする。錫巴もそうだったかもしれない。さかいめを越えてたたずむ碧央は、ぼくたちを置いて、今にもどこかに行っちゃいそうに見えたから。
「紫咲。さっき君が言ってたこと、あんがいすぐ叶えられるかもよ」
「え? なんだっけ」
「だから、ここと似ているけれど違う海。君が夢で泳いだって海。言ってたろ? どっかのそこにも行けるんじゃない? 怖いって思うのを克服できれば。さかいめが物理的なものじゃないなら簡単さ」
「んんー、でも、こくふく、大変だよ。うん。大変だけど……でも、みんないっしょなら、できるかな?」
 碧央はさかいめが怖くないけど、泳ぐのが苦手だ。ぼくと錫巴は泳ぐのがうまいって褒めてもらえるけど、さかいめが怖い。
 いいところと、そうじゃないところをくっつけたら、できる気がする。
 ぼくたち、みんなで、さかいめをこえられる気がする。
「じゃ、じゃあさ、どうすればいいかわかんないけど、みんなでさ! いろんなところに行けるようになるね。それで、さかいめもこえちゃうんだ!」
「大きく出るねえ、紫咲は」
「だって! 錫巴はいっつもたくさん考えててすごいでしょ、碧央はこわくなくってすごいでしょ。いっしょなら、なんでもできるよ」
「それは……買い被っているなぁ。おれ、そんなに物事を深く考えていないよ」
「っく、スズは頭でっかちだから間違ってないだろ」
「……」
「僕だって、さかいめらしき場所に来たのは初めてで、なにも知らないのと同じだ。急ぐことないさ。これから探っていけば越える方法の一つや二つ、見つかるだろうし」
「じゃあぼく、錫巴といっしょに、碧央を連れていろんなところに行くね」
「……おれもきみも、もっと長い時間、泳げるようにならないとねえ」
「うん! いっぱい練習するよ。ね、行くんならどこに行きたい? 錫巴は?」
「海藻が豊富なところかな。海によって、海藻はずいぶん違うらしいから。どう違うのかを知りたい。紫咲は、どう」
「ぼくは、碧央がいた海に行ってみたい!」
「ふうん。別にどうだって良いのに」
「そんなあ」
「だって僕はここしか知らないし。生まれ故郷なんて今更だ」
「どこか行きたいところ、ないの?」
「……僕はいい」
「そんなこと言わないでよ。ね、ね、どこに行きたい?」
「いいってば」
「だって、どこもないの? ほんとに?」
「…………」
「……ごめん、むり、言って」
「じゃあ、南の海」
「みなみ?」
「あっちの海はうんと暖かいって聞いた。景色も良いんだってさ」
 南の海は、きらきらの、べつせかい。
 じわりと、ぼくの目の前に、想像のさんごの森が広がる。まんまるな光のつぶつぶ。大きなイソギンチャク。見たことない色の海藻。すべすべとごつごつがいっしょになった森を、一気に抜けるのは気もちよさそうだ。
 考えるのはとくいじゃないけど、きらいでもない。想像の海を、ぼくは自分の中にしまっておくことにした。大事にとっておけば、いつでも、行きたいときに行けるから。
 やみいろになった大きめの石や海藻をよけながら、帰りの道をゆっくり泳ぐ。
 しばらく行くと、道がまっくろなかたまりでふさがれていた。かたまりは、もそりもそり、動いている。なかまたちが集まって、列を作ってるんだ。
錫巴がぼくを引きとめた。止まろう、と口の形だけで言う。
「どうして」
「おくってる」
 おくる。はじめて見た。
 おくりの儀式は、ぼくたちの海ではとっても大切な、さよならの儀式だ。
 列には、からだが光るなかまもいる。太陽の光とは違う、あおじろい光が灯っている。照らされているのは、碧央のからだみたくあざやかな、色のきれはしだった。
「あれはなに、ひらひらの。錫巴、わかる?」
「花びらって言うんだよ。植物、花の、一部」
 花。海藻に似ててきれいだ。
「おくりの儀式がとり行われるのは、大抵夜だ。ふだんと違うことをするから、そういうのは夜なんだ。それで、みんなでなるたけ美しく、華やかにする。彼らは、だいぶ遠くから来たのだろうね。ここがさいごの通り道なんだ」
 光を先頭にして、みんなはこっちに向かってくる。
 碧央が、列をまっすぐ見つめたまま、音を落とす。
「一緒におくってやろう。こういうの、構わないよな、スズ」
「勿論。おくる仲間は、多いほうが良い」
 碧央はしょくしゅをからだの横にくっつけて、ぼくと錫巴は砂に埋もれるかっこうになって、おくりの列をむかえる。
 こう。こう、すうー。泳ぐときの静かな音。みんなにも聞こえてるのかな。
 列を作るなかまも、むかえるなかまも、誰も動かない。砂が動く音、海藻がなびく音まで聞こえてきそう。自分の息を吸う音が、なるたけ小さくなるように気をつけた。
 二列になったおくりのなかまが、ぼくたちの前を通りすぎていく。さり、さり、砂の音が大きくなる。おじぎにはおじぎを返した。
 落ちた赤い花びらも、流れてどこかに行ってしまって、列のさいごも通りすぎていった。目を上げると、おくりのための道は、まっくらな道に戻っていた。
 顔を上げて、戻ろう、と碧央に声をかけた。
 碧央は列のなごりをじっと見つめたまま、動こうとしない。
「―紫咲。おくる理由は知ってるよな」
「うん、知ってるよ。前に教えてくれたのは碧央でしょ」
 おくるのは、ちゃんとさよならをして、おくられるものもおくるものも、また元気に泳げるようになるためだ。
 ぼくたちはおくられてから、ぐるぐる、海を巡る。そうして、まだおくられていないなかまのお手伝いをする。でも、碧央はちょっと違うんだったっけ。
「僕みたいなのは海に溶けて細かな粒になって、また海をつくりだす。海の一部になる。君らみたく手伝いはできないんだ」
「ぼくと碧央、違うのってどうして?」
「どうしてって、そりゃ僕と君とじゃあ身体のつくりがそもそも違うからさ」
「うーん……」
「っはは。納得できてないだろ」
 碧央はしょくしゅをこきざみにふる。錫巴はすうっと、碧央を見つめている。
「違うのは身体のつくりだけじゃない。おくられるまでの時間もそうだ。脳。心臓。血管。神経系。これら、僕らの身体を形づくる機能が持つ時間はある程度、最初から決まっている」
 碧央のことばは丁寧で、からだのすみずみまでいきわたっていく。だけど今は、全部がつるつる、ぼくのまわりに落っこちてく感じがした。
 ぱつ、錫巴と目が合う。合ったのに、なにも見えていないみたく、錫巴の目の色は、ぼんやりにごっている。
 そうか。物知りな錫巴は、碧央のことばの先がわかったんだ。
 ぼくの頭の中に浮かんだことばはたいてい、音になる前にしぼんじゃう。だから、碧央のことばに追いついて、かき消すこともできない。
 碧央は、夕方の日かげみたく冷たい声を、突きさした。
「僕はいくぶん、普通より早く溶けるらしい。だから君と一緒に季節を越せない」
 さっき見うしなった花びらがまた、近くの砂の上に転がっていた。そよぐ赤色と、朝焼けと、どっちがきれいだろう。
 拾いなおす前に、花びらは、流れにさらわれていった。

 あちこちのさかいめを越えるものを、この海では旅のもの、と呼ぶ。旅のものはおくりの儀式にまざれない。おくってもらうこともできなくなって、ふらふら、さまよう生きものになってしまうんだって。
 だけどぼくは思うんだ。もしも碧央が、生まれた海にどうしても戻らなきゃいけなくて、ずっと会えなくなっちゃうんなら、ぼくは追いかけるために、さかいめをを越えるだろうな、って。そんなふうになったら、ぼくは旅のものになるなのかな。でも碧央に会いに行くためなら、旅のものになってもいい。
 ただ、さかいめはすごく怖い。うろこがぴりぴりしてからだが動かなくなるし、怖いってしか思えなくなる。はっきり、危ないって分かる場所なんだ。


  *****


「さかいめには、黒いものと呼ばれる生き物が棲みついているらしい」
この前、海のさかいめに近づいたときは、すごく怖くって、ぞわぞわした。なんで怖かったのかな、ってずっと思ってたけど、錫巴も同じだったみたいだ。
 ぼくたちは資料館の近くに集まって、小さい声で話した。大人や他のなかまに聞かれるのは、あんまりよくない。だって、海を越えてはいけないっていうのは、だいじなきまりで、おきてだから。ぼくはともかく、錫巴が不良って思われちゃうのはいやだ。
「さかいめ同様、彼らのこともよく分かっていないみたいだね。けれどたいていお腹を空かせていて、他の生き物を襲って食べようと狙っている。中には、おれたちやもっと小さい仲間が大好物のもいるんだ。どうもうな生きものなんだ」
「さかいめが怖かったのって、黒いものが怖いから?」
「恐らくね。身体が危険を知らせてくれたんだろう。おれたちのご先祖さまが、危険を察知する仕組みを、おれたちに残してくれたってところかな」
「あぶないところには行っちゃだめ、だもんね」
 さかいめだけじゃない。流れがとても速い場所や、今にも崩れそうな岩があるところ。危ない、って言われる場所はけっこう多い。
「……だから、その、さかいめを越えるっていうのは」
 錫巴は、急に言いにくそうに、つまるみたくつけ足した。
「割と、それなりに、大分、結構……かなり、うん、難しいんだよ、紫咲。おれたちにはすごく難しい。分かるかい」
「うん。わかるよ。わかってる」
 あんなにぞわぞわする場所を、ぼくは知らない。それに、別の海に行って、帰ってきて、また色んなところに行って、って仲間にも、会ったことがない。そのくらい、さかいめをこえるのは大変なことなんだと思う。
「でもね、錫巴。ぼくはそんでも、いろんなものを見たいんだ」
「…………」
「がんばって泳ぐ練習して、黒いものにおそわれないくらい、速くなってさ。あ、そっか、一緒に行くんだから、碧央がいるから、もっとがんじょうにもならなくっちゃね」
「……紫咲、おれの話、聞いてた?」
「うん! 難しいんでしょ? できない、じゃないんでしょ?」
 難しいことはたくさんある。お話しすること。はやく静かに泳ぐこと。じょうずに笑うこと。だけど、難しいっていうのは、できないとは違うって、ぼくは知ってる。
「ぼくは、泳ぐしかできないから。もっと、他の方法も探さないとだけど、難しくって止まっちゃうよりもできること、あるかなって、えっと……」
 調べたり考えたりが苦手なぼくのかわりに、錫巴はいろんなことを教えてくれる。ちかごろじゃ、資料館のお手伝いも忙しいのに。
「―おれも、もう少し調べてみるかな」
 やれやれ、ってふうに錫巴は笑う。困らせちゃってるかな、って思ったけど、錫巴は「気にしないでな」って、ぼくのことばを止めてしまった。
「やれることをやるだけだよ。お互いに。結局、それが一番効率的だ」
「……うん!」
 資料館のお手伝いに戻る錫巴と、碧央を迎えに行く時間のぼくはそこで別れた。
 おとなたちから話を聞いたり、泳ぐ練習をしたりする勉強の時間が終わると、ぼくと碧央はいつも、届け物のお手伝いや、おつかいをしている。道順を碧央が覚えて、ぼくが泳ぐ。評判もいいんだ。碧央と一緒なら、みんなとのおしゃべりも上手にできる。
 今日の勉強には、泳ぎの練習の試験もあったんだ。僕は一番乗りで終わったけど、碧央はさぼろうとしてたのが見つかって、のこって練習することになってたはず。
 練習場所にこっそり近づくと、もうそろそろ終わるみたいだった。碧央が、長い話を嫌そうに聞いてるのが、ここからでもわかる。
お昼をちょっと過ぎた太陽の光は、あつすぎなくて、ちょうどよく気持ちいい。海藻も小石も、全部がきらきらをふりかけられたみたいだ。碧央のからだもはじっこが透けたみたいになって、とってもきれいだ。
試験官が、碧央のそばをふんわり泳いで向きを変えた。あんなに近いと、飛ばされないかな。ぼくや錫巴なら、もっとゆっくり、碧央の近くを泳ぐのに。
「……あ」
 ほらやっぱり、ふんばりきれなくてひっくり返っちゃった。でも助けてもらって、すぐに起きられたみたいだ。
 欠けている碧央の左側が、海藻みたく上に向かってそよぐ。
 ゆらりゆらり、小さいころ、ちぎられた碧央のからだ。
 迷子になったあの場所はいったい、どこだったろう。
 おいしくない海藻がたくさんあった。おとなたちもあんまり行かない場所。からだが小さかったぼくたちしか進めなかった、ごつごつ岩のすきま。
「―……くらくて、でも、明るいところ」
 思いあたる。そういう場所にいるのは、きっと。 
 あの日。碧央のからだをひとかけ食べたのは、黒いものだ。


  *****


 黒いものを間近で見た、と言いだしたのは、いつもはあんまり遊ばない仲間たちだった。名前も知らない。だけど、ぼくが覚えられないだけかもしれない。ぼくが話そうとすると、みんなは待ちきれなくていなくなっちゃったり、さえぎって自分の話をしだしたりするから。そういうとき、ぼくは頭の中がいっぱいになって、ぐるぐるしちゃう。
「ウソっていうんなら見て来いよ。北のさかいめだよ、あんなに大きいやつ見たことない。顔が横向きに付いてるんだ。目は小さかったけど、すごくギラギラしてた」
「ええ、こわそうだね……」
「なんだ、だったら一緒に行ってやろうか」
 ぼくと碧央は、ちょうどお使いから帰ってきたところだった。昨日で碧央のいのこりも終わり。お手伝いをしながら、行ったことのない場所の探検をしようって、相談してたんだけど。
さかいめ以外の抜け道を探そう、ってテイアンしたのは碧央だった。「怖いなら、君が怖くないとこを探せばいいじゃん」って言われて、ぼくはうれしかった。
「ぼくはいいよ。他にやりたいことあるから」
「ふうん。じゃ、そっちのよそものも来ないんだな」
 碧央は聞こえないふりをしたけれど、左のしょくしゅがちょっとだけ動いた。それをめざとく見つけて、誰かがくすくす笑う。
 みんなは、なんとなく、碧央のことが好きじゃないみたいだった。
でもぼくは、碧央が笑われるのが好きじゃない。すごく、いやな気持ちになる。
「ね、その言い方、やめてよ」
「紫咲には関係ないだろ。それとも、よそものは俺たちと口をきくのも嫌なのか」
「……うるさいな」
「ほら、いつもそうやって俺たちを見下してるもんな」
 とたん、碧央のしょくしゅが、ぶわりと立ったように見えた。また何かを言われる前に、ずいと前に出る。ぼくはこんなとき、やっぱり、ことばを出せない。
「え、えっと」
「……行くよ。僕も行く。連れてけよ」
 碧央は低くつぶやいた。


 碧央にはすごいところがたくさんだ。でも、一個だけ、直したほうがいいって思うのは、けんかっ早いところ(これは、碧央にぴったりなことばだって錫巴が教えてくれた)。
 誰にでもってわけじゃない。だけど、いやなことを言われて口げんかになって、しかけてきた相手をしおしおにさせちゃってるのを、ぼくたちは何回も見てるから、けんかっ早いのは正解だと思う。
「北のさかいめって、お昼でもけっこう暗いんだね。お手伝いもあんまりないし」
 いつもみたいに碧央を頭に乗っけて、前のかたまりについていく。行ってみたいって仲間はけっこういて、ぼくはぞろぞろの一番後ろを進んでいた。
「こっち側は未開拓だもんな、僕ら。良い機会じゃないか」
「碧央が意地はっただけじゃない」
「ばかにされて黙ったままでいられるかよ。言葉じゃ分からない連中には行動で示すしかないだろ」
「なんでもいいかたしだい、って錫巴が言ってたよ?」
「紫咲に? なんで。いつ?」
「ううん。碧央がけんかっ早いのってどうやったら治るの? って相談した」
「……それが出来てたら苦労しない」
 ふいに、かたまりが止まった。ざわざわしてるから、伸びをしてのぞいてみると、大きい岩が通せんぼしてるみたいだった。前に来たときはなかったのかな。遠回りをするか、ちょっとムチャしてまっすぐ行くか、どっちにするんだろう。
「―紫咲? 君、寒いのか」
 ぺしぺしっ、とつぜん、おでこを叩かれる。
「ぜんぜん? 碧央は? 寒いの? 北の海は寒いって、ほんとなんだ」
「や、僕は大丈夫だけれど。君が震えてるから」
「ぼくが?」
 寒くなかった。いつもより長く泳いだから、むしろからだはぽかぽかだ。
「ふるえてるって、気のせいだよ。やっぱり―」
 碧央を安心させようと、声をかけたときだった。
 どん、と大きな音がして、僕たちはいちどきに、右からやってきた何かに押されてしまった。ぼくでも碧央でもなくて、まわりがぶるぶる、びりびりしてたんだ。小さめの岩が、いっせいに、ごろごろ流れてくる。みんながわあわあ叫ぶ。上に下に、ぐるぐるからだが回る。飛ばないように、碧央を両ひれでおさえつけた。
 ぐるぐる、ぐるぐる。頭を何かにぶつけた。声が出ちゃうくらい痛かったけど、ようやく、ぼくは止まれたみたいだ。
 いつのまにか閉じてた目を開くと、まっくらで、なにも見えない。
「うう……。ここ、どこだろ。ねえ碧央、……碧央?」
 返事がない。はっと頭やひれを振ってみるけど、自分のからだがあるだけだ。
 碧央が、どこにもいない。
「……どうしよう」
 おっことしちゃった。
 碧央は泳げないのに。黒いものに見つかって、また食べられちゃったらどうしよう。こんどは、全部食べられちゃったらどうしよう。
 そうなる前に、探さなくっちゃ。
 自分のまん中のどきどきが大きくなる。ひびいて揺れて、すごくうるさい。
 重たく、がちがちになっていたひれをなんとか動かして、くらやみの中を進んだ。


 *****


 こんなに暗いと、あてずっぽうにしか泳げない。それでもなんとなくの方角は分かるから、南に行ってみることにした。
黒くて暗いのが音を吸いこんじゃったみたく、ひっそりとしている。自分のひれで動いた砂に何回もびっくりする。いくら呼びかけても、なにも返ってこなかった。
 せめて、もう少し明るかったら。ぼくだけじゃだめでも、戻っておとなたちに知らせて、探すのを手伝ってもらえるんだけど。
こつり、右ひれが岩の壁みたいなのにぶつかった。こっちは行き止まりなのかな。左右にひれを動かす。壁は、けっこう大きい。上に泳げば、乗りこえられるかも。
 前じゃなくって上に進む。するとまた、別のなにかにぶつかった。
「いたた、な、何?」
「うぇっ?」
「やだな、痛くないのに痛いって言っちゃった、あれ? ごめん、邪魔してる? 大変、大変。……ね、きみ、よその子だよね? なにしてるの?」
 なにか、は話しかけてきた。壁じゃない。
 生きもの?
「っていうか見えてないのか、そっか、あー……。なるほどね、そんな感じか。ごめん、ちょっと下に降りて。そこツンツンされるとくすぐったい」
「ご、ごめんなさい」
 ぼくが頭をぶつけてたのは、早口でしゃべる生きものだった。言われた通りに砂の上に着地すると、その生きものはもう一度「なにしてるの?」ときいてきた。
「え……っと、迷子になっちゃって。友だちと、その、はぐれちゃったみたい」
 ぼくのことばは遅くって、出てくるのにすごく時間がかかる。それでもどうにか伝えると、声は「なるほどよし、分かった!」と元気よく答えた。
「探すの手伝ってあげる。帰り道も教えたげるよ。全然見えなくってどうにもならないでしょ? ここ」
「あなたは、見えてるの?」
「うん。ぼくの武器はこの目だからね。……ちょっと待ってね、ヒジョウジタイだから、これをこうして、こうすれば……」
 見える? ときかれる前に、青じろくて丸いものが目の前に浮かんだ。ぼんやり、周りも見えるようになる。
 あたりは岩だらけ、だらんとのびきった海藻だらけで、ぞっとした。やみくもに泳ぎつづけてたら、もっと迷子になっちゃってた。やさしい生きものに会えて、ほんとによかった。
 失礼なことで、よくないんだろうけど、この生きものをじっと見てしまう。光ってるのは、おでこからにゅっと突きでた丸いものだった。からだの大きさは、ぼくよりちょっと小さくて、くりっとした目が大きい。なにより目立つのは、ぼくたちのよりずっとかたそうな、くろぐろとしたうろこだった。
「これなら付いて来られるよね。ぼくもゆっくり泳ぐからさ、来て」
「で、でも」
「はぐれたんでしょ、探すんでしょ。大切な友達なんでしょ」
「うん……」
 もごもごしているぼくに、生きものはきょとんとしてから、大きく笑う。
「それとも不安? 怖い?」
「あ、えと、」
「だよね、分かる分かる、そりゃそうだ、配慮が足りなかったな。正しいよ、君の勘も知識も想像も合ってる。―ここは、海のさかいめだ」
 生きものの大きな目が、ほんの少し平たくなった。
「じゃあ、あなたは」
「そう。きみらが黒いものと呼ぶ生きものだ。でも、ぼくはきみを食べたりしないよ」
「……ほんと?」
「っはは、んな碌でもない嘘なんかつかないったら!」
「ご、ごめんなさい」
「ぼくらは海藻しか食べないんだ。……少数派だけどね」
 だってここは、黒いものたちの住みかだ。いくら親切でも、それだって、危なくないふりをしてるだけかもしれないって思っちゃった。
「ま、用心に越したことはないだろうし。それに、君の偏見は君のものだけど君だけのものではないからね」
 行こう、と黒いものはひれをひるがえす。そのひょうしに巻きあがった砂が目印になって、ぼくもどっちに進めばいいのかが分かった。ななめ後ろについて、暗がりの中をすいすい進む背中を追いかける。
「さて、どの辺りで迷ったかは分かる? だいたいで良いんだけど」
「ええとね、北のさかいめに行こう、ってなって。ぼくたちの海からだと、みどりの水盆を抜けて、まっすぐなんだけど、そこ、知ってる?」
「旨い海藻が多いところだよね。そこから……だと、うん、よし、知ってるよ」
「でも、あの、とちゅうで大きな岩が落っこちてきて、通せんぼしてるんだ」
「あぁ、最近、あの辺りの地形は不安定になっているんだ。ぼくらの中にも巻き込まれるのが多くってね。そっか。そこで流されたってことだね……」
 よく迷子がいるっていう、ぼくたちの海とさかいめとの「すきま」に着くまで、ぼくたちはいろんな話をした。
 一日の過ごしかた。よく食べるもの。好きな景色。お気にいりの場所。きょうだい、家族のこと。友だちのこと。自分とは違う考えかたをする、仲間のこと。
「黒いものも、いろいろなの?」
「そ。言い訳するみたいで嫌だけど。君らだってそうだろ? 遠くまでゆっくり泳ぐのが好きなのもいれば、近くまで速く泳ぐ方が好きなのだっている。食べ物もそれと同じだ。決定的に違う部分もあるってだけでさ」
 錫巴みたく低い声で、碧央みたいな話をするからかな。難しそうな話でも、頭にすっと入ってくる。
 ぼくたちは海藻や苔を食べる。ほとんど、みんなそうだ。でも、黒いものは違う。もっとばらばらで、まぜこぜだ。
「海藻じゃ生きていけないやつらもいる。そういうのは他の仲間を食べて生きるしかない。中には海底の死肉を好む仲間もいるんだ。ぼくらはそういうとき、からだをあげる、もらうっていうんだけど」
「うん」
「事実、中には、君らを脅かしたり襲ったりするのが単純に楽しいって言うのもいる。食べるのは絶対に必要な行為だけど、ほら、うーんと……それで誰かを余計に悲しませるのってどうなの? ってぼくは思うね。ま、ぼく自身は君らを食糧にしていないからこうも言えるんだけど」
「……うん。かなしいのは、嫌だね」
「だろ? なんでもそうなんだ。楽しいことって責任が要るんだ。不必要に脅かす連中は、その責任をなにも考えていない奴等だよ、きっと」
「せきにん……」
「あ、あくまでもぼくの意見ね。自分勝手にぼくが言ってるだけ。ってのも、いつかさかいめを出たいからさ? そのときのために、そういうマイナスなアピールはやめてほしいんだよ。肉食じゃないぼくらが割を食うばっかりはもう散々だ。っはははっ、なんだかんだ言って、ぼくも自分のことばっか考えてるや」
「さかいめ、出るの?」
 しょうじき、話はだんだん難しくなっちゃって、ちょっとついてけなかった。だけど、さかいめを出るっていうひとことがきらきらしていたから、ぼくは聞いたまんまを繰りかえす。
「へへ、内緒だよ。その……ぼくらは黒いものの中でも、とりわけ小さい種類でね。君らの海を侵害するわけにもいかないから、さかいめのすみでひっそり暮らしてるってわけ。だけどいい加減に窮屈なんだ。遊べる場所は少ないし、ほんとにもう、狭くて、狭いし……早く広いところに行きたいんだよ」
「出てくの、怖くないの?」
 知らない海には危険もたくさんだ。この黒いものは、身を守るための、大きなキバやするどいトゲなんかも、持ってないように見える。なのに、怖くないのかな。
「まっさか、全っ然怖くないね! なーんて言ったらただの馬鹿だ。あっははは」
「……」
「やめ、やめてよ無言は。無言は痛いよ。……当然、怖いことだらけだよ。不安もあるけど、怖がってばっかりじゃ掴めるものも掴めなくなる」
「そっか。……あのね、ぼくもそうだよ」
「君も?」
「うん。ぼくも、さかいめをこえたいんだ」
「ここを? もっと遠くの海に行くためにってこと?」
「そう!」
「へえ、じゃあぼくら、仲間だね!」
 なかま。
 なかま? この、親切な黒いものが?
 ぼくはすごくびっくりして、何も言えなくなっちゃった。ぼくたちとおんなじことを考えてる生きものが、さかいめにいるなんて。
 まだ知らないだけで、実はたくさんいるのかな。遠くに行ってみたい、って考えてるなかまたちが。そんなみんなが集まったら、どんなことが起きるだろう。みんなでいっせいにさかいめを越えられるかもしれない。それとも、ぜんぜん違うとこに住んでる、ぜんぜん違うかたちのみんなが集まるから、海のさかいめなんて関係なくなっちゃうかな。さかいめがさかいめじゃなくなっちゃって、ぜんぶの海がつながって、どこにだって行けるようになるのかな。
 考えるだけでわくわくして、にこにこしちゃう。ずっと泳いでいけるような気持ちだ。
 錫巴も碧央も知らないにちがいない。帰ったら、すぐにお話しよう。


 *****


 黒いものは、ぼくを「すきま」に連れてくると、さっとすんでるさかいめに戻ってしまった。「君の友達が驚くだろうから」って、大きく笑って。
「ありがとう、話せて楽しかったよ」
「ぼくも! ありがとね、ええっと……名前は?」
「あぁ、君らには発音が難しいだろうから、好きに呼んで」
「じゃあ、クロ! また今度ね、クロ! 僕は紫咲っていうんだ!」
「っふふふは、安直! 紫咲ね、覚えたよ。とても良い名前だ」
 クロがはねとばした砂がもうもう舞いあがるのを見届けてから、ぼくはすきまじゅうをきょろきょろ探し回った。碧央は小さいから、埋もれちゃってるかも。
ようく目をこらして、止まりながら探していると、やっと、朝焼け色を見つけられた。
 碧央は大きな岩にへばりつくみたいにして、ぎゅっとからだをちぢこめていた。ぼくが声をかけても、すぐにはぼくだって分からなかったみたいだ。四回目の名前で、やっとこっちを見る。
「……びびらすな、紫咲」
「ごめん、ね、迎えに来たよ」
「そりゃあね! まさか落とされるなんて思わなかったぞ」
 頭ですくいあげると、碧央のからだはぷるぷるとふるえていた。
 からだがちぎれたときのこと、思い出させちゃったんだ。
 怖い思い、させちゃった。
 ぼくはせめて、碧央が安心できるように、ゆっくり小さく、からだをゆする。
「ほんとにごめんね。帰ろう。ゆっくり、かえろう」
「…………ゆっくりは君だろ」 
 とっくに暗い時間だから、しんちょうに、ソロソロ進むしかない。ゆすってるうちに、碧央は落ち着いてきたみたいだった。ふるえてる感じがしなくなっていく。
 ぼくはクロとお話ができたから、怖いのがちょっとなくなったけど。そうだよね。ここは黒いものがすむ、怖い場所なんだ。
 クロが特別で、みんながクロみたく考えてるわけじゃない。だから、すぐに黒いものたちと仲良くはなれないんだと思う。それでもいつか、もっとたくさんの黒いものとお話ができたらいいな。知らない海のことをたくさん知りたい。もっと多くのものを見て、聞いて。広い海を、好きなように泳ぎたい。
「……紫咲。聞いてくれるか」
「うん。どうしたの?」
 距離はあと半分くらい、ってときに、ずっとだんまりだった碧央が口をひらいた。
「僕見たんだ」
 声がぎゅっとかたくなる。ギリギリ音がしそうなくらい。なのに落ち着いてて、おだやかだから、変な感じがした。
「僕、あいつを見捨てた」
「―何のこと?」
「君から振り落とされた後に会ったんだ。一緒に行った連中のうちの誰かと。本気で見たがってるっていうより、興味本位でついてきたみたいだったけれど。
岩が降ってきて、そんであいつらも慣れない場所で散り散りになったんだろう。すぐそこがさかいめだって気付いてないみたいだった。……教えようとしたんだ。でも、大きな流れが突然来て、流されて。さかいめの方へ泳いでいくのが見えた。ヒレが動くのだけが見えた。なにも聞こえなかった。なにも動かなくなった。……戻ってこなかった」
「あ、―……碧央のせいじゃ、ないよ」
「分かってるよ。知ってるよ。でも紫咲、そうじゃ……そうじゃないだろ……?」
 思わず、進むのをやめてしまった。
 ぼくも、碧央も、おし黙る。だけど、さかいめにすむ、どうもうで危険な黒いもののことを考えてたのは、同じだったと思う。
「い、言わなきゃ」
「誰にだよ」
「おとなたちに。みんなに」
「言ってどうする。どうせ助けられないのに」
「でも」
「僕は言えないよ。君は何て言うつもりなんだ。禁じられてるのにさかいめに行きましたって? 黒いものに連れて行かれるのを見ましたって? 自分が食われるのが怖くて見捨てましたって? 無理だよ。言いたくないよ、紫咲」
「でも、でも」
「君だって狙われたのが自分や僕じゃなくて良かったって思ったろ」
「……う」
「自分が無事で良かったって、やられたのがばかなあいつらの仲間で良かったって、一片たりとも思わなかったのか?」
「…………」 
「…………」
「…………」
「……ごめん。言い過ぎた。流石に―意地悪だったよ。……っはははははははは、はぁ。共犯だね、僕たち」
 碧央は笑う。ぼくは笑わなかった。
 きょうはん、は、秘密を一緒に持つこと。いけないことを、黙ったまんまにしておくこと。そんなもの、ぼくはいらなかったけど、碧央だけが秘密にするって考えたら急にくるしくなって、だから何も言わなかった。
 ぼくたちだけの秘密のほかに、ぼくにはもう一つ秘密があるんだよって、言えなかった。言っちゃいけない。たぶん、まだ。
 大さわぎになるから? 碧央を怖がらせちゃうから? ぼくが碧央に嫌われたくないから? 全部がほんとで、全部がはんぱだ。
 クロと仲よくなったのは、ぼくだけの秘密にしよう。ないしょにして、碧央やみんなが怖い思いをしなくてすむなら、ぼくはちっともかまわない。
 さっきまでからだのまんなかにあった、わくわくする感じはもうなくなっていた。海を広くする方法はきっと、ぼくが考えるよりずっと、むずかしくって、複雑だ。もっと、考えなくっちゃ。考えて、泳がなくちゃ。
 ぼくには、まだまだ、足りないんだ。


「―あいつが帰ってこなかったら、おくられることもないんだろうね」
 ゆっくり泳ぎはじめると、頭の上から左ひれに移った碧央が、ふわりと言ってきた。ぼくは聞きかえすかわりに、ひれを小さく動かす。
「おくられるにはなきがらがなきゃいけない。それから帰ってくる場所も。これらを持ち得ないものは、だからおくられないんだろう。旅のものがそうであるように」
「おくりの儀式は、大事なのに?」
「そう。大事で、当然みたいにあるのにね」
「…………碧央は、おくられたい?」
 この海では、おくりの儀式は当たり前だ。だけど、クロやほかの黒いものたちや、旅のものはどうだろう。おくりの儀式はいらないよ、何それ、って思ってる生きものも、じつはいるのかも。
 碧央の中には、この海だけじゃなく、知らない遠くの海もある。だからぼくはちょっとびくびくしながら、それでもきいた。知りたかった。
「僕? そうだね、それはそうだ。どうせならとびきり盛大に」
「はではでに?」
「そ! 僕の身体の色に合うようにさ、豪華に飾ってほしいな。大勢を集めなくて良いから。地味だなんて絶対言われないような……飾りだって、花とかきれいな石とか、落ちてるのでも色々あるだろ。そういうのでさ。もし叶わないんだったら……そうだね。君に食べられるのも良いかな」
「えぇ?」
「同じ食べられるのでも、君からならいくらでも良い」
「ええと、ぼく、食べらんないよ?」
「それでもだ」
「ヘンなの。ヘンな碧央」
「っふふふ、変かな。……変だよな。でも本心だ」
 ぼくになら食べられてもいいっていう、碧央の気持ちが分からなかった。
 だけどいつもだ。ぼくは碧央の気持ちがわからないし、碧央だってぼくの全部はわかりっこないんだと思う。錫巴もそう。みんな、みんなのことがわからないけど、わかりたくて、一緒にごはんを食べたりおしゃべりしたり、泳いだりするんだ。
 だから、いくらヘンだなって思っても、ぼくはもっと、碧央がわかりたくってしかたなかった。

アイオライトの水底(ためしよみ)

アイオライトの水底(ためしよみ)

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-08-04

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