からだ

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 彼女と異なる性別をもつ筆者だからこそ、その裸に対して抱いた素直な感想を書く。なぜなら、裸はその姿で歩くことが法的に許されない。常識的な観点から見てもそこに疑問符が付く。裸にはそういう類の制約が何重にも覆い被さる。それを承知で選んだ表現。何よりも「わたし」を表せられるものとして採用された裸。紹介文に、彼女は自らの身体をメディアとして扱うと記されていた。その場で同じ説明も聞けた。ならばこそ、一枚、一枚の作品の中に存在する彼女の身体の全てを無視できない。その作品を見た一人の男として誤魔化してはいけない。ヌード写真という性的表現はそこを超えるものだと思うから。だから、そこを踏み台にしなければいけない。だから私は書く。
 私は彼女の乳房、乳輪の形が良いと思い、腰付きから足先までのスタイルが良いと思い、特にお尻が艶かしいと思った。そうして彼女の顔を見て、彼女の身体全体を見て、彼女が存在する自然を見て、彼女が同化しようと試みる岩肌を見て、その紋様の珍しさを見て、荒々しい様子を見せる波の動きを見て、雲の多い空を見て、彼女のポージング。岩の存在感が縦に伸びるなら、何も隠さずに彼女は伸びる。岩の存在感が横に広がるなら彼女は真っ直ぐ寝転ぶ。接写して、自撮りして、積極的に平面と化す。大小様々な岩が並ぶなら、顔を隠してうずくまり、手足を曲げて岩を真似る。努めてその存在を象る。即興的な身体表現が生々しくて自然に合う。彼女の胸が押し出す血潮の唸りが激しい波音と響き合っているように見えてくる。特にモノクロの写真において。彼女の距離感はとても近い。
 直面する自然、という前置きに基づいてみても彼女の写真はどこまでも私的に見えて仕方ない。一般論にまで昇華されていない。
 構図が上手くなったという説明をその場で聞けたから、未熟に由来する感触なのかもしれない。荒削りだから込められる彼女なのかもしれない。なら、私はそれが好きだとここに書く。
 結婚式場と葬儀場でのどちらに就職するかの岐路で、後者を選ぶと答えていた彼女は勤める動物病院で一晩に数匹の死に接することがあると言う。避けられない死を語る彼女は、今生きている自分の若さを撮りたいとも言った。常に言葉にならない思いも。そのための表現が裸を撮ることだった。
 どこかで聞いた話、そう思えるのは彼女の動機を私がこうして言葉で書くからだ。彼女の熱量は撮った写真、撮った映像でこそ最も伝わると強く記す。その場で見せて貰えた室内で撮った彼女の作品集にあるのは様々な表情と雰囲気だった。特筆したいのはその独特の雰囲気である。それはフィルムならではの味わいと言えばそうかもしれない。しかし、何度も記すが記録のために同じ性能を備えた機械であるくせに、出来上がる写真に個性が表れるのが「写真」の魅力である。
 動機を燃やして焼いたような、吐いた息をそのまま固めたような彼女が部屋の中に沢山残っていた。内心、中てられそうで頁を閉じたぐらいに。センセーショナルなヌード表現だから耳目を集める、と一刀両断できる程の腕前を持ち合わせていない私はそのセルフポートレートに諸手を挙げる。彼女の名乗りを追いかける。
『I AM SHAROL』。
 先に記したようにこれまでの彼女と会場の彼女の作品とを比較すれば、写真表現の成長を見つけられる。ここで村上春樹さんがエッセイなどで書かれることを参照すれば、その表現方法はこれからどんどんと射程範囲を伸ばしていくかもしれない。彼女自身でありながら、彼女以外の人たち(男女問わず)にも届くようになっていくかもしれない。彼女の良さだと思う私的な密接さが昇華されていくかもしれない。
 それでも「Waves」の展示で初めて彼女の作品を知ったから、彼女の表現を追いかけたい。
 裸の彼女は立っている。下からのアングルに応えずに目を瞑っている。上空の天気は晴れと、時間と共に厚くなる予感を秘めた曇り具合。けれど光量は十分。彼女は綺麗に写っている。荒々しく流れ込む波の白さと肩を並べて、木枠に囲まれている。可能な撮影を行なった中で何度も見返す、二枚の写真。
 シャロル・シャオ。
 個人的でない彼女もきっと素敵だと、私は思うのだ。

からだ

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  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-07-30

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