仲西さんとの始まりの日々、終わりの日々

 仲西さんがバラずくめの花束をかかえて目の前に立ちはだかったときの驚きったら、わたしのなかでは今世紀最大だった。
 ひとめぼれです。仲西さんはきっぱり言った。大学の食堂内がしんと静まりかえり、しかしかすかな波紋の広がる気配があった。わたしはひと口分のカレーをのせたスプーンを落としてしまった。生真面目そうな彼が仲西という他愛ない名字だと、その日の帰りに友だちから聞いた。それまで仲西さんの存在など一切視界に入っていなかった。
 翌日から仲西さんに追いかけられるはめになった。一日一枚、映画や舞台のチケットだのハンバーガーやカラオケのクーポン券だの、あげくにレンタルビデオの五十円割引券でわたしの気を惹こうとした(わたしってそれだけの価値? と、しばらく真剣に悩んでしまった)。見かけによらずすでに三十路を越えている仲西さんは、大学生になる前は割引券を安値で売りさばく営業をしていたらしい。当分はシカトを決めていたけど、ストーキングが半月もつづくとさすがに疲弊してきて、堪忍袋の緒が切れたわたしは、とうとう彼に向かって声をあららげた。
「もうこれ以上追いかけないでください。正直、ものすごく気持ち悪いんです」
 仲西さんはきょとん、と一拍おいてから、腑に落ちないようすで首をかしげた。
「じゃあ、どうしたら追いかけていいようになるの?」
「どうしても、追いかけないでください」
 わたしの断固たるもの言いに、仲西さんは挫けるどころか傾けていた首の角度をさらに落とした。
「監視されているようで、こっちは毎日びくびくしてるんです」
「うーん……がんばって追わないようにしてみるよ」
 なのに――まったく、なのに、だ。翌々日、大学の正門をでたところで、仲西さんに声をかけられた。わたしは心底げんなりした。
「あれほど、追わないでくださいって言ったのに」
「追ってなんかないよ。追うのはやめたの。きみに嫌われたくないから」
 仲西さんはにこにこ顔で言った。
「かわりに待ち伏せをすることにしたんだ」
 思わずため息がもれる。しかたなく、わたしは仲西さんと並んでバス停にむかうことにした。言葉はなかった。わたしの刺々しさと仲西さんの穏やかな空気がせめぎ合う、得も言われぬ響きだけが聞こえていた。
 その途中、仔猫の死骸が道に横たわっていた。血だらけでひどい有り様だった。
「きっと、飛びだしたところを轢かれちゃったんでしょうね」
 わたしは無感情のままに言った。
「そうでしょうね」
 仲西さんも抑揚のない声だった。
「悲しいですか?」
「ううん、悲しくない」
「こういうときって、すこしでも悲しいふりをしたほうがいいですか?」
「悲しくないんなら、そのままでいいと思うよ」
 でも、悲しくない自分が悲しいかな。と、仲西さんはひとりごちた。その瞬間、もしかしたら彼の肩に頭をあずけるくらいはできるかもしれない、とわたしは強く思い、その直後、やはり彼に触れるには気持ちが薄すぎる、と、強く強く思いなおした。
 バスがちょうどすべりこんでくるところだった。仲西さんは、あっ、と声をあげ、大慌てで両手を振りながらバスのほうへ走っていった。三十代の情けない背中。バスに乗りこむなり、ためらうことなく大声で運転席に、もう一名来ますんで、と告げ、そしてすばやく扉から顔をのぞかせ、早く早く、とわたしを懸命に手招きした。一名、という言葉づかいが存外おもしろくて、わたしはくつくつ笑いながらできるだけゆっくりとむかった。
 右足でステップの一段めを踏む。仲西さんを見ると、彼はすでにわたしの分の整理券を取ってくれていた。四、五人ほどの乗客はみな、うつむきかげんに座っている。車内はかすかに柑橘系のにおいがただよっている。思いきって左足でステップの二段めを踏んだわたしは、しかし乗らなかった。自分でも気づかぬ間に降りていた。
「乗らないの?」
 仲西さんはいつものようにきょとん、とした驚きのまま言った。ポロシャツの衿が乱れている。
 ごめんなさい。わたしは目でつたえた。ごめんなさい、このバスはちがうんです、と。
 わたしが乗るバスはこれではなかった。向こう側の道のバス停に来るバスが、ほんとうなのだった。
 扉の閉まる圧縮音。降りようと思えば降りられたのに、仲西さんはステップの手前の手摺りをつかんだまま、わたしの前から横滑りに去っていった。排気ガスが顔にかかる。それはさきほど嗅いだ柑橘系と混ざって、とても嫌なにおいに化けた。
 仲西さんを乗せたバスは、あの仔猫の死骸を踏むだろうか。はたして仲西さんはそのことに気づくだろうか。踏まれたあとの死骸はますますぺしゃんこになるだろう。そうしたらいったい誰が片づけてくれるのだろう。誰がお墓をつくってあげるのだろう。
 いっしょに乗ればよかった。もしかしたら付き合うようになっていたかもしれないのに。
 仲西さんひとりに罪をなすりつけたような気分になって、わたしは何滴か涙をこぼした。

仲西さんとの始まりの日々、終わりの日々

仲西さんとの始まりの日々、終わりの日々

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-03

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