忘れないで

世界が傾く。伸ばした手の向こう側に見えた先輩の表情が見えない。先輩が遠ざかる。背後の青空がやけに眩しくて鮮やかに焼き付いていた。
今日は天気がよかったらしい。

そんなどうでもいいことが俺の最期の思考だった。

「……馬鹿なの?」
開口一番にそう言い放った先輩に俺は何も言い返せなかった。腕組みをして心底呆れた表情を浮かべた先輩が俺を上から下まで観察する。視線につられて俺も自分の姿を観察した。
半透明になっていて景色が透けて見えている。自分の向こう側が見えているのは何だか気味が悪い。
再び先輩に目を戻すと目があった。先輩が盛大な溜め息を吐いた。あれこれどこかで見たことあるぞ。
「馬鹿なの?」
「さっきも聞きました」
「百歩譲って死んだのは仕方ないよ、どうにもならないし」
いいんですか、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。余計なことを言ったら更にとやかく言われそうだった。
「何で大人しく成仏しないの。あの時の私の涙を返してよ」
「え、先輩泣いたんですか?」
「泣いてないけどさ」
「いや泣いてないんかい」
「まーそれくらいには驚いたし悲しかったってこと」
生前と変わらないテンポでの会話に心地よさを感じていたのに、いきなり爆弾を放り込んでこられて何も言えなかった。今回ばかりは全面的に俺が悪いから黙るしかない。
不意に沈黙となる。先輩は何やら考え込んでいた。考え事をしている先輩に話しかけると、怖い顔で睨まれるのだ。急用もないし先輩の考え事が終わるのを待つことにした。
やることがなくなり、暇になった俺は所在なく辺りを見渡す。今、俺と先輩がいるのはとあるビルの屋上の扉の前だった。屋上へは鍵がかかっており、立ち入ることが出来ない。俺が飛び降りたから仕方ないのだけど。
そう俺は飛び降りた。そこそこ高いビルの屋上から飛び降りて死んだ。別に特別な理由があったわけではない。何となく生きているのに疲れて面倒くさくなって、たまたまそこに良さそうなビルがあったから飛び降りた。そうしたら幸か不幸か死んでしまった。それだけだ。
そういえば何で先輩は一緒にいたんだっけ。思い出そうと試みたが、思い出せない。何処かへ行く途中だったのか、たまたま近くで会って一緒に歩いていたのか。それさえも思い出せなかった。
疑問は疑問を呼ぶ。先輩は何で此処にいるのだろうか。失礼だが死者を悼むようなタイプでも、後追いを考えるタイプでもない。
先輩に聞くのが一番だ。そろそろ考え事は終わっただろうか。先輩に意識を向けると先輩と目があった。目があうのは本日何度目だろうか。
「ねえ」
先輩がゆっくり口を開いた。
「外出ようか」
「え?」
「出れないなら此処にいても仕方ないしさ」
先輩は軽く屋上へと続く扉をノックした。そして俺の返事を聞く前に階段を降りていった。先輩の唐突すぎる行動に理解が追い付かないが、置いていかれても困る。慌てて先輩の後を追った。
ビルの外に出て人の多さに驚いた。多くの人が忙しなく行き交っている。今日は何曜日だったか。時間の感覚が麻痺していて解らなかった。
先輩は地面と空とを交互に見ている。一体何をしているのか。視線を辿ってみる。下は所々がひび割れたコンクリート、上はそびえ立つビルがあるだけだった。
「なーんにもないね」
先輩がポツリと呟く。先輩の横顔から感情は読み取れない。
「まあ殺風景ですよね」
「違うよ、君が死んだ痕跡」
「え」
「本当に此処で死んだのかってくらいに何もない」
先輩の言葉を理解するまでに数秒かかった。確かに俺が死んでからどれくらい経ったのかは解らないが、痕跡は一切ない。初めから何もなかったかのようだった。
それが悲しくて虚しくてやるせなくて。言い様のない感情が沸き上がってきて混ざりあって、ぐちゃぐちゃになって口から溢れそうになった。
きっと先輩は受け止めてくれる。そんな甘えにも似た考えと共にぐちゃぐちゃの感情を吐き出そうと先輩に目を向け、止めた。いや正確には止めざるをえなかった。
先輩は笑っていた。ただ静かに微笑む様は絵画のように美しくて、無機質で怖かった。
「そんなものだよ」
感情の排除された先輩の声が突き刺さる。
「君が死んでも、何一つとして変わらないんだね」
「……っ」
「そんなの解っていたはずなのに」
語尾は小声すぎて聞き取れなかった。聞き返す前に先輩は歩き出した。先輩の思考が何一つとして理解出来ない俺に出来るのは追いかけること。それだけだった。

人混みを縫うようにして無言で歩いていた先輩が不意にスマホを取り出して耳にあてた。電話でも来たのかと思っていたら、斜め後ろを歩く俺を肩越しに振り返った。
「未練は何?」
「俺ですか?」
「君以外に誰がいるの」
「だって電話」
「フェイクだよ、フェイク」
人にぶつかりそうになり、先輩は前を向いた。会話がしにくくなって俺は先輩の隣に急いだ。
「さっきから変な目で見られてたから」
「……俺のせい」
「でしょうね」
ふふ、と先輩が笑う。そうだ、俺は死んだんだ。つまり他の人には俺は見えていないということで、先輩は誰もいない場所に話しかけている怪しい人になっているのかもしれない。先輩の行動の意味を理解し、一人で納得していると先輩が同じ質問をぶつけてきた。
未練は何だと言われても思い浮かばない。特に理由もなく生きてきて特に理由もなく死んだから。
「わかりません」
「心当たりはない?」
「……ないです」
「自覚してないだけで何かあると思うんだけどな」
「でも本当にわからないんです」
「……なんだろうね」
先輩はそれきり黙ってしまった。考え事をしている訳ではなさそうで、話しかけたら答えてくれそうだ。沈黙に居心地の悪さを感じている今は何でもいいから先輩と会話を続けていたかった。
「先輩は何であそこにいたんですか?」
「あそこって?」
「俺が死んだ場所」
ピタリと先輩が足を止めた。つられて俺も足を止める。ゆるゆると俺の方を向いた先輩が何かを言いかけてやめた。言いにくい事情があるのだろうか。尚更気になった。無言でじっと先輩を見つめていると観念したように空を仰いだ。大きく息を吐き出して再び俺を見た。
「同じものを見てみたかったから、かな」
「どういうことです?」
「死ぬ前に君が見ていたのと同じ景色を見てみたかったの。そうしたら何か解るのかなって。鍵かかってたから無駄足だったけどね」
「どうしてそんなこと」
「さあ。何でだろうね。死にたい人間の気持ちを知りたかったんじゃない。解んないけど」
釈然としない答えだったけど先輩らしいと思った。
出会った時からずっと、先輩の考えていることはさっぱり解らない。ふわふわしていて掴み所がない、独特の雰囲気を醸しているのに何故か惹き付けられて。そんな不思議な人だ。光に集まる虫のように俺は先輩に引き寄せられて……。
「俺、先輩に覚えていてほしかったのかな」
意図せず口から溢れた言葉の意味は発した本人も直ぐには理解できなかった。しかし何故か心にストンと落ちた。先輩はキョトンとしている。理解が追い付いていないのか眉間にしわを寄せている表情は初めて見た。
「先輩、俺が死んでも何しても直ぐに忘れそうじゃないですか。でも流石に目の前で死ねば暫くは覚えていてくれそうじゃないですか」
そうだ。俺は先輩に覚えていてほしかったんだ。俺を惹き付けてやまない癖に俺のことなんて直ぐに忘れてしまいそうな先輩に、ずっとずっと覚えていてほしかった。
ボンヤリとだが思い出してきた。死んだあの日、先輩と会ったのは本当に偶然だった。でも先輩に会った段階で生きていることへの疲れや面倒くささは積もりに積もって限界まで達していた。そしてたまたま通りかかったビルがたまたま目に入って、吸い込まれるようにして屋上に行って、そして
「飛び降りたんだ」
「違う。それは違うんだよ」
やっと口を開いた先輩が首を横に振る。何が違うのか、問いかけようとしたのを視線で遮られた。
「飛び降りたんじゃないんだよ」
「え、だって俺は」
「確かに君は屋上のヘリまで行ったよ。でも飛び降りたのは君の意思じゃなかったんだ」
「……ちょっと待って下さい」
「私が突き落としたんだよ」
先輩の爆弾発言に大して驚きはしなかった。話の流れからそうじゃないかと予想がついた。だから俺が言葉を失った理由は別のところにあった。
嬉しかったのだ。他の誰でもない先輩の手によって死ねたことが何よりも嬉しくて、現実だと理解するまでに時間がかかってしまった。
「ごめんね」
「俺、先輩に殺されたんですね」
「そうなるね」
「じゃあいいか」
「え?」
「先輩に殺されるなら本望かなって」
「……馬鹿なの?」
「それ三回目です」
スマホを持った先輩の手が垂れ下がる。泣き笑いの複雑な表情をした先輩と、あの日俺に向かって手を伸ばした先輩が重なる。先輩、貴女はあの日こんな顔をしていたんですね。ようやく思い出せました。
世界が霞む。意識が朧気になっていく。先輩の手が伸びてくる。先輩が何か言うよりも早く俺は口を開いた。最も先輩に届いたのかを確認する術はなかったが。
「忘れないで」
今日もいい天気だったらしい。

忘れないで

きっと自分が死んでも世界は何事もなかったかのように回っていくんだろうな、と思いながら書きました。せめて誰か一人くらいには覚えていてほしいですよね。

忘れないで

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-07-03

CC BY-NC-ND
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