墜落

 もえるような、あかの、空だった。夕焼けと呼ぶにふさわしいと、獣は云う。ぼくは、かなしみに支配された肉体で、きみに抱かれた。ひたすらに、なにかを忘れるために。忘却のためには、じぶん、という精神を、わずかでも破壊するひつようがあった。その壊れ方は、甘やかで、痛いというよりも、痺れるという感じだった。おとうさんは、機械人間となり、おかあさんは、海にかえった。きみのおにいさんは、土にねむったけれど、きみのコイビトは、きみとふたりの家で、いつも恭しく、きみの帰りを待っている。従順、といえば聞こえが悪いし、あたまのいい飼い犬みたいなので、その単語はむりやりに胃のなかで消化した。ぼくと、きみのかんけいになまえをつけるのならば、なにが適しているだろうと考える。親友、だの、腐れ縁、だのというかんたんで、ありがちで、あっけなく千切れてしまうような、そんな安易なものではないと思うのだけれど。
 コーヒーを飲みながら、だれもいない埠頭で、海をみている。おかあさんのいるところ。だれもいない、というのは正確ではなくて、ぼくのとなりにはひそやかな呼吸をくりかえす、獣がいる。人間はつまらないから、おまえも早くやめるといいと、ゆうわくしてくる。ぼくは、でも、首をふる。あいつがいるかぎり、ぼくはにんげんでいる。そう告げると、獣は、あたまのいいおまえと、ぬくぬくした巣で尻尾しかふらない犬を選べずにいるやつなんて、おまえからさっさと捨ててしまえと吐き捨てる。ぼくは、声を出さずに笑う。できないことをいうなと思いながら、コーヒーを飲む。火がもえうつったみたいに、海もあかかった。

墜落

墜落

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-06-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted