君のすむ街

君のすむ街

5章中、2章まで公開しています。

 青は存在しているだけで詩人だった。誰かが言ったわけでなく、私が勝手にそう思っている。きっと本人も気付いていないだろう。
 私がそこへ行くと常に見かけた。吉祥寺駅の北口を出てすぐ、狭い路地裏に小さな飲み屋が密集している辺り。どこの店も手垢で薄汚れている。大体が開け放たれており、店内と道との境界は曖昧だ。そのうちの一つ、隅の方に座って、小さな皿に入ったしょぼくれた肴を前に透明な酒を飲んでいる。もし声を上げて笑ったら二十代半ばに見えるかもしれない。しかし青はいつも口の端っこを斜めに吊り上げるだけだ。横顔に落ちている影は歳不相応に深い。見苦しくない程度に伸びた黒髪は十分に届いていない照明でその黒さを増し、いかにも物憂げに見える。小さな額に入った無名の画家の傑作みたいにその店の一風景となっていた。
 静かな男だった。それでも知らない奴に気安く話しかけられると、最小限の動作で愛想良く返事をして、冗談の一つも飛ばすくらいは気が利いている。入ってきた客が知り合いで、しばらくしてから青に気付き一緒に飲み始めることもあった。役者やバンドマンやカメラマン、青は誰からも好かれていた。本当の名前は誰も知らないようで、ただ青と呼ばれていた。一目で分かるほど貧乏たらしいが、驕られればありがとうと素直に口にした。
 私は一度だけ話したことがあるが、青はすぐに忘れてしまっただろう。黒い手帳を持ち歩いていて、それを見せてもらった。ページは半分くらい抜け落ちており、演劇に関するメモ書きがほとんどで、ところどころに染みがあった。インクとおぼしき黒や、なんだか分からない茶色や赤の。読み進むにつれ詩のようなものが多くなっていく。私が手に持っている手帳のページを青の細長い指がふいにめくった。そこに汚い字で書き付けてあった、一編の詩。前髪で隠れた伏目がちの両目が、一瞬だけぞっとした。震え出しそうな声で、たった一言、どうですかと呟いた。私は率直な感想を述べた。青はじっと中空を見つめていた。

 私がそこへ足を運ぶのは、はじめは月に一、二度だった。ある事情からほぼ毎日酒が必要になった。かといって一緒に飲んでくれるような友人もいなければ、ただ一人、自分に与えられた時間と黙って向き合うことも出来そうになかった。だから、別にどこでも良いと言えば良かったのだが、なるべく狭くて小汚い場所、それも粗野で未熟な人間の息遣いが感じられる場所が望ましい。そう思った。この街は、私くらいの年齢の男が一人で飲む店には不自由しない。しばらく駅の周りの安居酒屋をふらついていた。その店を選んで腰を落ち着けたもう一つの理由は、青と呼ばれているあの男がいるからだ。売れない役者と言われれば納得はするが、そのまま絵になるような見てくれではない。しかしその一挙一動が、私にとってはまるで詩のように見えた。話をするわけでもなくただ同じ店に座っているだけで、私は過ぎ去ってしまった季節を思い出し、やがて訪れるであろう寒く暗い時間のことを想像する。やがてどこからやってくるのか分からない、痛みとしか言い表せない感覚が訪れる。それだけが私にとって現実感のある事柄だった。
 若い頃、丁度青くらいの年齢の私は、詩人になりたかった。今詩人になりたかったという事実だけが重要で、あの頃の自分の姿を思い出すのはあまり好きではない。やがて才能を見限った若い詩人は、これまで自分が軽蔑し続けたものに屈服し、体中に恥を塗りたくり、額を土にこすりつけ靴の裏を舐めるようにして、生きるための、ゆっくりと死にながら生きるための金を得るようになった。人並みの結婚をして人並みの家を買った。いつか私が閉じ込めようとした長い時間に、皮肉にも私が閉じ込められ、猿ぐつわをされているような毎日だった。
 それでも、詩人になりたかったという事実、そのために若さを浪費していた日々は、数少ない私の誇りだ。これまで守り抜いたわずかな私の全てを、青の中に見出していた。

 明るい時間に青を見かけたこともあった。平日も週末も人で賑わう雑踏に、ひっそり構えている古本屋で。棚の中に収められた年老いた本を眺め、立ち尽くす姿を見た。手をポケットに突っ込み背表紙を目で追っていた。青、一体これまでに、どれだけの人間がお前の人生を読み、お前も読んで来たのだろうか。時には踏みにじられ、あるいは濡れてふやけたりびりびりに破り捨てられたりして。私はお前の倍くらい生きて、たくさんのページが破れた。自ら火を点けたいとすら思った。どの破れからも大して得るものはない。
 何か忘れたいことがあるわけでも、その逆でもなかった。ただ、一人きりでほんの少し明るい場所で酒が飲みたいだけなのだ。もう私は、いくら飲んでも酔えない。きっと高級な店に行っていい女を隣につけても駄目だろう。むしろそんな場所へ行けば、無意識に深い場所に押し込めてある恐怖が引きずり出され、胸くそが悪くなりそれをごまかそうとして偉そうに昔話でも始めてしまうかもしれない。そうしたらきっと気が狂ってしまうだろう。
 生と死、両方の匂いが、眼の血走った少年兵を見て連想する硝煙と泥と血の匂いみたいに、べったりと張り付いている青。いつも決まった席で、透明な酒ばかり注文して、栄養らしい栄養を摂っているのを見たことがない。それでも、たまに顔を上げたときに見える細くて黒目がちの両目は静かな輝きをたたえていた。
 青、お前も私と同じで、酔うために飲んでいるんじゃないんだろう。口の端っこだけで笑うお前は、親に置き去りにされたのに気丈に振舞っている子供みたいだ。お前に何があったのか、一体何者なのか、ちっとも知らない。しかし私は重ね合わせてしまう。
 私がその店に通い始めて一ヶ月ほど。我がもの顔で街を闊歩する若者たちが重いコートを脱ぎ始めたのを見て、一つの季節が去ろうとするのを知った頃。空は忘れていたのを思い出したみたいに粉雪を降らせた。お前がいつもの席にいない日がだんだん増えていく。やっと来たかと思えば、まるで昨日もそこにいたみたいに何も変わっていなくて。私の体も同じで、まだここでお前を眺め、ひっそりと呼吸を続けることが出来た。

 自分が猿ぐつわをしていることに気付かない振りをして、二十年と少しが経った。自分を切り刻みその残滓を積み上げて、詩という方法で表現した全てのものは打ちのめされた。そして今、二十年と少し前にはあんなにも嫌悪していた「責任」という二文字によって、社会に居場所がなくなってしまった。
 部下の失敗を一人で被ることになり、依願退職を迫られた。それほど有能でなく出世も遅い私には、遠まわしなリストラも同然だったが。自分に嘘を吐き続けることにいくら長けても、他人を欺くことは同じようにうまくはいかない。小さな部品が故障しただけで動けなくなる壁時計のように、ほんの僅かなひび割れであらゆる事柄がうまくいかなくなってしまった。妻からは負け犬と罵られ、子供は血を分けた私のことを豚と呼ぶ。事実私は負けたのであろう。その本質たるや、囚人であるという事実を悟られぬために、私は愛すべき存在に無関心を貫くことで折合いをつけようとした。仮面を被って日常を当たり前に過ごす器用さを持ち合わせていない私には、彼女らにとっての何者にもなろうとはしなかった。そのツケが回ってきたといえば多少聞こえはいいが、会社でも家庭でも私に誇れるものは何もありはしなかった。改めて思い知らされるまでもなく、自分ではよく分かっているつもりだったのに、彼女らが去ってしまってから私はようやく思い知った。
 杉並の家を引き払った私は、昔住んでいた吉祥寺の六畳ワンルームに引っ越した。かつての四畳半の部屋を思い出して、狭くなったのではなく広くなったのだと感じた。しかし二十年と少し前、四畳半にいた頃と比べると、私の頬は膨らんで垂れ下がり、服の上からでも分かるほど腹や太ももにたっぷりと肉が付いていた。だから新しい部屋は、私の身の丈にこれ以上は望めぬほど合っているとも感じた。もう他人のものになってしまった杉並の家のリビングの広さを思い出すと、ずいぶん無駄な広さだったという気がする。そもそもあの家にはどれだけ私の居場所があったのだろうか、よく分からない。
 荷物を運び終わった部屋には、主に衣類の入った段ボール箱が二つ、その他には鞄が一つあるだけ。段ボール箱を開けて、コートやズボンの間から灰皿を取り出し煙草に火を点けた。煙はすぐに見えなくなってしまうが、薄くなってしまっただけでこの部屋に閉じ込められている。
 落ち着くと空腹を感じて外へ出た。かつて住んでいた街とはいえ、適当な店がどちらに行けばあるのか分からない。仕方なく駅の方向へ歩き始め、程なくして強い痛みを急に感じ、その場にうずくまった。立ち上がることもできないような肉体的苦痛は実際にあるのだと知った。携帯電話を置いてきたことを後悔する。通行人が知らぬ顔で通り過ぎていく。何人目かでやっと声をかけてくれた。
 救急車で病院に運ばれて、私がもう一度その部屋に戻ってきたときには、自分がもうあと数ヶ月しか生きられないことを知っていた。積もり積もったストレスによる末期の大腸がん、手術をしても成功する確率は十パーセント以下だと言われた。
 そんな数字でも、賭けられるものがかつて私にもあったはずだ。しかし今のわたしがこの命のために賭ける理由が、何も見当たらない。清潔なシーツの上で規則正しい健康的な食事を摂ることにどんな意味も感じられない。どこかで細々と暮らしているだろう彼女たちも、もう私を見たくないだろうし、忘れかけている故郷の風景もただわずらわしいだけだった。

 今夜も影のように青がそこにいる。いつからか、青は血を吐くようになった。立ち上がってトイレに行くときの、今にも倒れそうな危うい仕草。そのあと私もトイレに行ったら、手の平を真っ赤に染めて鏡の中の自分を睨む青がいた。話しかけることができなかった。
 三月だというのに空気は冷たく雨が降る日も多くて、それでも青はたまに笑う。頬の肉がだんだん薄くなっていく。いつの間にか青は常連や店員と仲良くなっている。ほとんど毎日同じ席にいるのだから当たり前だ。よく今まで通り気の利いた冗談が言えたものだ。斜めに持ち上げる口の角度が、次第に次第にきつくなる。
 青、もう春だというのに分厚いオーバーを着て、もう巡らないお前の季節を隠していたつもりだろうか。それとも誇らしげな気分になっていたのか。もともと良くない青の顔色が、いっそう悪くなりほとんど土気色だった。最後にもう一度だけ話しておけばよかったかもしれない。別にこれといって話すことはないと分かっているけど、二度と話せないよりはきっとマシだった。
 私はもういつ終わりが来ても構わなくて、大量に飲んでは明け方近くに部屋に辿り着く毎日だった。それでも医者はなかなか、もうおしまいですねとは言わなかった。
 三十年ローン、私の肉体も精神も閉じ込めた家。それを売り払う手続きをして、他にも処分できるものは可能な限り処分した。残ったものは衣服や携帯電話などで、視界に容易に収まるそれらを見渡すと、結局私の肉体や精神を閉じ込めるものばかりだと気付く。例外として、一冊のノートがあった。何故残していたのか分からない、もう忘却の彼方にあったノート。若さと、若さゆえの弱さ。かつての肉や骨をがむしゃらにペンで叩き付けた私の詩集だ。
 もう誰もいなくなって、がらんとしてしまった家。明日引き渡さねばならない最後の夜に、その弔いをした。近所の酒屋で一番高い酒を買ってすごい勢いで飲んだ。まったく酔いは訪れなかった。静寂と、私の人生に不釣合いな拡張高いボトルだけがあり、やがて諦めという懐かしい感情が私を包む。このノートの存在を忘れてしまってからというもの、私の生は諦めの連続でしかなかったことに気付く。妙に冷めた気分で、庭へ出てジッポのオイルを撒いて火を点けた。たった一、二分そこらで全部真っ白な灰になった。顔色一つ変えずそれをじっと見ていた。私の表情は普段と何ら変わり栄えしなかったに違いない。もう、そういったことにどのような感情も持つ素質が無いのだから。

 青、お前は突然いなくなった。十日経っても一ヶ月経ってもその姿を見ることはなく、忘れてしまいそうになる頃、いつもの席の後ろの壁にかけられた額縁。
 白黒の写真。いったい誰が持ってきたのか。おそらく私が初めて会ったときから数年前の、まだ健康そうな顔の青。正面を向き口の両側を吊り上げて何の変哲もない笑い方。まるで遺影だった。
 誰も何も言わなかった。みんなが見て見ぬ振りをした。それでもどうしてそんな写真が壁にかかっているのか理解はしていた。常連の何人かは、お前の為に一日禁煙した。私もそうだ。その程度しか、薄っぺらい写真に成り果てた若者に向けてできることはない。お前がいつも吸っていた煙草の銘柄を、誰も覚えていない。
 もうお前が一体何者で、何を考えたり感じたりして、そして何者になりたかったのか知る由もない。私は白髪が増え、食べるものもあまり喉を通らなくなってきた。痛み止めの量も増えた。家具を一つくらい買っておけばよかった。今夜もバスタオルとコートを被って、冷たい床の上に新聞紙をひいて快適に眠るだろう。頭の中にはお前の詩が、お前の指がいつか描いた一編の詩がこびりついて離れやしない。
 一字一句、文字の形やあのときお前が見せた目の色まで、鮮明に思い出すことが出来る。

 一人で 落ちる太陽を見てる
 白い窓辺に 大切なものを置いて
 みんな笑顔を浮かべたまま
 きっと虹の上を 滑らかに歩く
 青は死に損ない
 ドアを開けて 俺を一人にして また開けて
 青は死に損ない、それをずっと待っている
 だから俺は死に損ない

 その詩を見せてもらったあと、青は少しの間ぼんやりと黙り、やがて静かな口調で私に教えてくれた。
 「大学に入って最初の一年くらいは、本気で詩人になろうと思ってた。アパートでひたすら詩を書いてた。ちゃんとした詩集をつくって人に見せたら、どこかで読んだことがあるみたいだと笑われたのでもうやめた」
 私は何か言おうとしたが、無意味なことだとそのときは思った。
 「今は、別の物を書いてるんだ。間に合うかな」

 まだ私は呼吸を続けている。青が座っていた席の斜め向かいで、水のような味の酒を飲んでいる。また詩を書き始めた。飲みながら書いて、太陽が顔を出す一歩手前の街を歩いて帰り、出来上がった詩の数を数えて眠る。そして今日も、ただ私は待っている。何の期待もせずに。煙草の煙や喧騒の向こうにある、白黒の写真を眺めながら。

 考えても考えてもすぐにそれはどこかへ抜けてしまって、気付けば時計の針は大分回っていて、まるで何もしていないのと同じ。だからなるべく考え事はしないようにした。それでもぼうっとする時間は必要で、私の思考全体の密度が薄くなってしまうだけだった。なんだか、だんだん頭が悪くなっていくみたいだ。
 秒針の音が気になる。目が覚めていつものようにアボカドを切って食べ、ミネラルウォーターにレモンを絞って飲んだ。流しには洗ってない食器が大分溜まっているけれどその存在をいつも忘れる。読んだ本の題名はちゃんと覚えている。「バートルビー 偶然性について」「疲れすぎて眠れぬ夜のために」「待つ人間、行く人間」内容はごめんね、よく思い出せないや。
 宮城県のものすごい田舎で一年浪人をして、私は東京の大学に入った。おしゃれな雰囲気に浮かれつつ、胸の高鳴るような日々を過ごしたのも最初だけ。一人暮らしも、サークルの人間関係とかもいちいち処理しきれなくて、はっきり言って辛い。誰かに会うのが億劫になってきて、授業にもだんだん顔を出さなくなる。電話もメールも気が向いた時にしか対応しなくなった。
 特にアルバイトが私の気分を暗くする。まず、面接に行ってもうまく話せない。知り合いと少人数で集まるのはいいけれど、沢山の人の前や初対面の人の前では口も頭も全然回らない。やっと働き始めたとしても、一週間続いたためしがない。

 ねえ、青、あなたと最初に話したのは一体どこだったんだろうね。阿佐ヶ谷の小さな劇場で出会った時だったかな。それとも駅前の焼き鳥屋さんだったのかな。多分私はいつもみたいに人見知りをして、ものすごく大人しかったと思う。もう覚えちゃいないよ。
 余計なしがらみなんて無くて、私も無口であなたも同じで。一緒にいるだけで安心するって程ではなかったけど、あなたは聞き上手だったから話しやすかった。二人とも酔っ払えば多少は饒舌になっちゃうしね。
 好きなだけ甘えさせてくれる、でもちょっと頭の回転が悪い年上の銀行員の彼氏は忙しくて、週末しか会えない。学校にもろくに行かないから、誰とも会わない日が続くと「やあ」とか「元気?」とか短くて意味も無いメールを青に送ってみる。あなたはその裏の意味をちゃんと読んで、わざわざ電車に乗って来てくれる。
 背が高くて痩せている。顔色はいつも良くない。遠くからでも分かる独特の空気を持っていた。精神年齢の低い私には、それが根拠の無い自信の表れなんだって思えた。久しぶりでも挨拶もろくにしないで、ほぼ無言でお店まで歩いていく。私はビールだって飲めるのに、あなたは最初に何飲む? ってちゃんと聞いてくれるんだ。
 「アルバイトの面接の前には、緊張をほぐすために日本酒を一杯飲んでから行くんだ」って言うと青は声を上げて笑った。高校生の時、学校に行きたくない朝も同じようにやってたって言ったら、薄い肩をデパートの屋上にある子供向けの乗り物みたいに揺らしさらに笑った。
 あなたは大好きな演劇の話とか、小説の話とかをよくしてくれたよね。なんだか、好みがすごく似ている気がして嬉しかったんだよ。恋愛でも友情でもなく。きっとこういう気持ち、全然伝えられていないけれど。いい感じに酔っ払ってから、あなたは今書いている、あるいは完成したばかりの脚本を決まって見せてくれる。最初は役者になりたかったんだけどだめだな、脚本を書いてる方が俺には合ってるよ。自分でも納得できて、観客にも出演者にも喜んでもらえるようなものを早くつくって有名になりたいよ。
 不思議なもので、題名は必ず忘れてしまうのに内容はちゃんと覚えている。果たしてそのような評価を受けるのに相応しいのかどうか、私には良く分からないけど、少なくとも私は大好きだった。あなたの弱い部分や足りない部分がよく反映されていたから。私はそんなあなたに少し嫉妬していた。
 人の流れに沿っていつも三歩先を歩く青は、溺れて流されているみたいだった。ほんの一瞬で向こう側へ行ってしまいそうで、取り残されるかもしれないって不安になる。そんな私の寂しさはかまいたちみたいに肉を深くえぐってすぐに元通りにして、通り過ぎていく。
 「もうちょっと飲もうよ」
 終電が迫ってるって分かっているくせに、決まってそう言う青。口元から首の辺りにかけて、熟れすぎて腐った果実みたいな悪徳の匂いが漂う。曖昧にはぐらかして、私はいつもやり過ごすのだ。

 田舎の親に住まわせてもらっているオートロックのマンション、家具は全部古いフランス製で統一されており、電気を暗くすると私は映画の中にいるみたい。目が覚めれば、だいたいもうお昼。パソコンの電源を入れて、それでテレビをちょっとだけ観て、アボカドを切って食べたり掃除をしたりする。
 あるときはキャバクラみたいな店で働き始めたけど、案の定おじさんと話が弾むわけもなくわずか三日でお払い箱になった。学校の図書館で借りてきた哲学の本をめくると、昔習っていたピアノが頭の中で軽やかに鳴り出すような気がする。きっと私は社会で何の役にも立っていない。知らない人から必要とされるなんて夢のまた夢。そのことについて考えてみても、無為に時間は過ぎていくばかり。重厚なカーテンで部屋を閉め切って、さらにページをめくるとピアノの音色はさらに弾み、もう私は外へ出たりする必要なんてないんだと思えてくる。外へ出れば、私は誰かに笑われているような気がするだろう。絶対にするだろう。
 週末は、年上の彼がどこかへ連れて行ってくれる。そうでもなければ私は青い目をしたお人形になって、捨て置かれていた方がいくらか気分が安らかだ。でも、笑っているだけでは駄目みたい。ちゃんと考えたり、それを口に出したりしなければ。風景のようにただそこにいるって、なんと難しいことか。単に努力をしないだけで、私は周りの全てに対して甘えているんだって、本当は分かっているのだろうけど。将来性のない、色白で、運動不足の私からやがて彼は離れていった。
 ごく稀にサークルの集まりに顔を出す。すると男の子が私を好きになったり、私が好きになったりといった事件が起こる。そしてすぐに私が冷めてしまって一方的なお別れ。私の中では結構いろんなドラマがあったつもりなんだけど、全部頭の中のブラックホールで起きた出来事でしかない。決まって、後からしつこいほど連絡が来る。こんなときの人間は、醜い。それが本質なのだろうか。別に私だって綺麗な存在ではないし、つくられたお花畑を見ても美しいなんて絶対に口に出したくないくらい、心はひねくれている。でもいわゆるオナニーのように、自らの嘘偽りない純粋な気持ちってやつに陶酔しながら自分勝手な好きを押し付けてくる、電話やメールの襲来。なんだか見てはいけないものを見てしまった気もするし、一方でこんなのは何でもないことだと感じることもできた。要するに、わずらわしいけどそれほど不快ではない、そんなふうに思っている自分が一番不快だった。

 電車から降りて改札へ向かう人の流れ。圧倒的なパワーとスピードで走る大きな虫の腹の中で揺られていた私たちが、駅前に一斉に放たれる。蜘蛛の子を散らすようにして、それぞれが向かうべき場所へ進む。
 体が既に覚えてしまっていて、何も考えないで家路に着く自分が、非常に疑わしく感じられる。他の人たちには向かうべき場所がちゃんと用意されている気がする、でも私には? 私は何度も銀色の糸で巣をつくってみた。誰かがそれにかかっても、いつも私は食べなかった。
 ねえ青、ひどく勝手なことを言うかもしれないけど、私たちはやっぱり似てるよ。あなたはこの街で、まるで溺れてるみたいに歩いてる。晴れていても濡れねずみみたいに、自作の拙い脚本を小脇に抱えながら。
 結構いい大学を出てるって、いつだか教えてくれたね。でもあまり考えることは好きじゃなさそうで、言葉の節々に、物事を知りすぎてしまった悲しみのようなものが浮かび上がっている。脚本の話をするとたまにテンションが上がる。そのときは少しだけ子供みたいな表情になっている。
 私はこれからどうやって生きていけばいいと思うかって、聞いたことがあったね。俺だってそんなこと知らないよって笑った。その表情に、悔しいくらい憧れてしまう。そして私が将来なりたいものや、もう絶対なれないと思うものについて話した。おかしいくらい正直に。口元をいつもちょっとだけ持ち上げて、微笑んでいたよねずっと。あなたはまるで子供の空想を聞いているみたいだった。それを大人の印だと勘違いした、愚かで愛すべき私がそこにいた。
 もう絶対になれないもの。一つ一つ挙げて数えて、自虐的な気分を楽しんでいる私。親が見ていたらきっと泣くだろう。まず普通のOLは無理。親みたいに教育者になるのも駄目。要するにコミュニケーションが大の苦手。看護師とかヘルパーとかも無理。誰かのために尽くすなんて、自分が嘘で塗り固められてしまっていつか動けなくなってしまいそうだから。花屋も朝が早いし力仕事だし、無理。
 ねえ青は、って何気なく口にした。ほんのわずかな表情の変化。私にはそれを見逃すことができなかった。今でも思い出すよ。あなたは息を一瞬止めて、短く吐いた。
 その瞬間が初めてだったんだ、私があなたの変化に気付いたのは。いつの間にそんなに胸が薄くなったっけ。笑ってる時間が増えたのは、言葉を発することが少なくなってしまったから。いつもの脚本も持ってきてなかった。もう間に合わないって、何もかももう遅いって。そんなふうに感じていたのかな、自分が何者かになれるということも、その逆も。可能性ってやつがもう残っていないんだって。
 これは私の想像に過ぎない。もっと単純な話なのかもしれない。でも、結局その通りだったんだ。悔しい? ううん、きっとあなたは悔しくなんかない。いなくなってしまうまでのあなたは、迷いなんてこれっぽっちもないように見えた。私が、思い出を美化しているだけかもしれない。けど残された人間には、それくらい許されるでしょう。
 「なりたいものは、たくさんあるよ」
 そう呟いて、また笑っていた。
 「ただ、なろうと思ってなれるものなんて、あんまり多くないから」
 胸がときめいてしまったわけではない。飲みすぎてしまったわけでもなければ、店を出て駅までひたひたと歩きながら私の全身を撫でていた冷たい向い風が、寂しさを引きずり出したわけでもなかった。もうちょっと飲もうよっていう青の言葉に、頷く。特に驚いたりもせずあなたは、むしろつまらなそうに後をついてきた。私の部屋のドアを開けて振り向いたら、通路に黒一色の版画みたいなあなたの顔が浮かんでいた。
 互いにさ、何を考えていたんだろうね。私は田舎から送られてきたとっておきの日本酒を引っぱり出し、あなたは「なんかすごそうなの出てきたね」と、まるでテレビの中の出来事を眺めているみたいに空っぽな言葉を吐いた。
 お酒は美味しかった。私も青も、ぐいぐい飲んだ。
 だけど二人とも妙に落ち着いていて、これから何が起きるんだろうって私はリアルに考えていたし、あなたの引きつったような笑い顔も薄暗いながらはっきりと見えていた。
 どんな言葉のやり取りがあったのか、よく覚えていない。私はオウム返しみたいに拒絶の意思を示し、あなたは口先で私をやり込めようとした。背の低いテーブルの周りであなたが私を追いかけて、二七〇度くらい回ったところで抱きつかれた。細い腕、案外力が強かった。もう私は別に抵抗なんかしないで、首の辺りから手を入れられて胸の先端を触られたら吐息が洩れてしまって、もっと触ってほしいと思った。とりあえず私は、他人とのコミュニケーションを欲している。その意思と、情けないくらいの女の性が自分の内側にあるのを見つけて、そのままどこかへ落ちていってるような気分になった。
 一人でひっそり息をして、この狭く暗い部屋で、きっと私はいつか忘れてしまうに違いない。どれだけ本を熱心に読んでも、一字一句すら覚えていない。田舎では、ひいおばあちゃんがまだ生きている。物心ついたときにはすでにほとんどベッドの上で横になっていたけど、たまに散歩に出かけたりしていた。私が会いに行くと黒砂糖やアメ玉をくれた。ある日散歩の途中で転倒し骨折してから、一気にボケが進行した。やがて老人ホームに入って、お見舞いに行くと一緒にいた年上のイトコと私の区別すらつかなくなっていた。
 体中に管を刺し込まれて小ぶりなベッドの上、花に囲まれて、今でもきっとまだ生きているんだよね。東京で、ウスバカゲロウみたいにまだふらふらとこの世に浮かんでいる素性も分からない男に、床の上で組み敷かれているあなたのひ孫が、ここにいるよ。押し付けられた唇、絡めてくる舌に反応している頼もしいくらいのわたしの性と生がここにあって、きっと私の心とか将来みたいなものは、こうしている時間にも絶え間なく揺れ続けている。
 その場で一回やって、ベッドに行ってもう一回やった。私を抱いて眠る青の腕の中で考えていたのは、私はこの人に恋なんてしないし、私は私が好きではないということ。それでもからだは満足していた。ぐっすりと眠った。何の不安も苛立ちも感じなかった。
 目が覚めるとカーテンの隙間から柔らかい日差しが入り込んでいて、少し開けると淡い水色の空が見えた。青はすやすやと眠っており、ゆうべよりも随分健康そうに見えた。
 音を立てないようにベッドから出て、テーブルの上に置いたままの携帯電話を見ると、親からの不在着信が数件とメール。ひいおばあちゃんが今朝早くに亡くなったということが書いてあった。今日は敬老の日で、今年あの人は百歳になっていた。
 もう大分前からあの人は死んでいた。誰の目にも明らかだったけど、もちろん口に出す人はいない。私の顔を、私の心を目の前にしておきながら、小さい頃はちゃんと可愛がってくれたというのに、私のことを全然分かってくれなかったあのときほど悲しくはなかった。むしろ何も感じなかった。心を湖に例えるならば水面には波風の一つも立たず、大方がそうであるように平凡な空、快晴でも曇りでもない空が、暗い場所で見る鏡のように色を失って映りこんでいた。そこへ石を投げ入れる者もボートを漕ぎ入れる者もいない、いつも通りの様子だった。
 恋人ではない男が、隣で裸で眠っているのは極めて珍しいケースだけど、湖のほとりの草花に変化があったという程度でしかない。むしろ私と青はいつかこうなるという予感は、以前からしていた。常にまったく同じわけではないけれど、こんな時間に目が覚めて、カーテンの隙間からこんな具合に日差しが入り込んでいる瞬間は、多分いつもそんな感じだろうと思える。そんな気分。
 なにも敬老の日じゃなくてもいいのに。そう思った。次にあの田舎町のことを考えた。確か毎年、公民館に大勢の人が集まり高齢者向けのパーティーを催しているはずだ。今後はどうするんだろうとか、法事は日にちをずらしたりできるんだろうかとか。
青を起こさないように気を付けて、裸のままベッドから離れ電話をかけた。私の声はとても落ち着いていた。母親の声は普段より弱弱しい感じがしたが、あくまで淡々として、いずれ来るべきものがたまたま今朝来てしまったのだ、という雰囲気に満ちた話し方だった。眠るような安らかな死に顔だったそうだ。それは嘘で、私への配慮なのかもしれない。でも、起きているのか眠っているのか分からないような状態が続いていたので、本当だとしても特に感想を持つことができない。とにかく明日帰るよ。そう言って電話を切った。
 部屋を眺め回し、床の上に落ちている下着や洋服を洗濯機に入れた。青の服はたたんでベッドの傍らに置いた。ポケットからくしゃくしゃになった紙くずが落ちて、何も考えずゴミ箱に捨てた。私は新しい服を着た。するするとパンツを履いてブラジャーを付け、部屋着にしているジャージと色褪せたTシャツをまとった。テーブルの上に飲みかけのグラスがそのまま置かれている。青の煙草もあった。青はまだ眠っていた。息をする度に上下する胸の動きはほんのわずかで一見しただけでは分からないほどだ。
 青の煙草を一本抜き取って、火を点けて深々と吸った。煙草を吸うのはこれが初めてではないのでむせたりはしなかった。そういえば昨夜の青の口の中も同じ味がした。しかし私の胸の中に入り込んでいる煙は新しい何かだった。吐き出すと、波打ち際の白い泡みたいにすぐ消えてしまう。
 青が目覚めると私はコーヒーを淹れた。ほとんど何も喋らないで二人でそれを飲んで、外へ出て駅前でご飯を食べた。天気も良かったし、私たちの周りは客観的に見て平和な光景だった。だけど青は自分の皿に半分も手を付けなかった。口数少なく、二人の間には体を重ねた名残のようなものもない。それでも居心地は悪くなかった。夜ではなく昼間に会っているという、ささやかな違いがあるだけだった。
 深い場所へ今にも沈みそうなうしろ姿。夕暮れ時には影に沈んで夜と一つになってしまいそうだっていつも思っていた。だけど私が最後に見たのは、太陽を浴びる灰色のアスファルトを歩く青。足を一歩ずつ前に出すのが、地面を踏んでいるというより地面に吸い寄せられているようだった。改札の中に消えたのを見届けて、さっき出来上がったばかりみたいなぴかぴかの街を、歩いて帰った。

 部屋に戻ると、鞄一つ分の荷物をまとめ、宮城県の実家へ向かった。それほど遅くに着いたわけでもないが、私が住み、育った街はすっかり暗くなっていた。実家から歩いてすぐの祖父母の家は、多くの人が集まっており賑やかだった。古くて大きな家。久しぶりにひいおばあちゃんがそこにいた。もう一ミリたりとも動くことのない顔を、私も含めた沢山の人が覗き込む。電話で母が言ったとおり、安らかな死に顔だった。老人ホームで最後に見たときよりも穏やかだった。翌日お葬式があり、額縁の中にもう忘れそうになっていた私の思い出とぴったり重なるひいおばあちゃんの顔があって私は少し泣いた。
 また東京でいつも通りの日々が幕を開ける。学校にはろくに顔を出さず、部屋の中で晴れの匂い、雨の気配を感じながら本を読む。内容は右から左へ抜けていく。気紛れにアルバイトの求人紙を持って帰っては、ちっとも読まずに古紙回収に出す。青のことは考えなかった、もしくは忘れていた。

 年の暮れに、久しぶりにメールをした。「やあ」とか「へえ」とかそんな感じの。いつも通りのやりとり。だけど青は来てくれなかった。
 またしばらくして、粉雪が降った日にあのうしろ姿を思い出して電話をした。どういうわけか、そのときだけメールではなく電話を。「この番号は現在使われておりません」と機械的なアナウンス。
 桜が咲いて散って、数少ない友達と吉祥寺に飲みに行った。ぼろくて安くて、でもちょっと賑やかな店。私の背後にその写真はあった。
 トイレに行って戻ってきて、額に入った白黒の写真の存在に初めて気付く。それをじっと見ていたら、どうしたのって友達に言われて、なんでもないって答えて元通り座って、貼り付けたような笑い顔になった。
 ねえ青、あの日々は一体なんだったのかな。一緒に過ごしたわずかな時の流れ。その背後に在る、あなたが過ごしてきた年月も。私はすぐに誰の写真か分からなかった。目と鼻の下にある薄い唇を見て、あの朝の煙草の味を思い出して鳥肌が立った。私の見たことのない笑い方をしていたから、その写真の意味が分かった。もうあなたが何になりたかったか、何になれなかったのか、知ることは出来なくなったと分かった。

 お葬式から東京に帰ってきた次の日、ゴミ箱の中身を捨てようとしたら見覚えのない紙くずが目に留まった。青が脱いだ服のポケットから落ちたものだ。ふと気になって取り出し、開いてみた。それはおそらく没にした脚本のためのメモの一枚。今でも白紙のダイアリーに挟んである。

 ……女の子が両手に持った花束をじっと見つめている。幕が降りてすぐにあがる。時間は夕方になっていてあらゆるものがオレンジ色に染まり、女の子はまだ花束を見つめていて、また同じように幕が降りる。再び幕があがったとき、舞台はすっかり暗くなっていて花束はしおれ、やがて女の子がしくしくと泣き出す。終わり

 私たちはいつも二人で何を話していたんだっけ、うまく思い出せない。店を出て電車に乗って、やがて西荻窪駅の改札を出て、あなたのうしろ姿を思い出しながら歩く。死ぬってどんな感じなんだろう。心の中でそう呟いてみる。頭上には星が憎たらしいほど明るく輝いている。
 バイトを真剣に探す、学校に真面目に行く、新しいサークルに入る、あるいは燃えるような恋をする。全部一ぺんは多分無理なので、どれか一つ明日から始めよう。あの星は私のひいおばあちゃん、それとも青? こんなロマンチックな妄想は久しぶりだよ。
 あれれ、なんだか泣けてきてしまった。くしゃくしゃになった青のメモ。あれはないよ、シュールすぎる。今度は笑えてきた。あはは。あんなので良かったら私にも書けるんじゃないかな。今すぐ走って部屋に戻れば、空気に溶けた私の思考を全部回収して、これまで読んだ本の内容を全部思い出せるような気がする! 私は走る。本当に久しぶりに全力で走る。最後に全力で走った時より大きくなったおっぱいが邪魔だ! 見ててよ、ひいおばあちゃん、あんたの遺伝子は、これから何をしでかすかわかりゃしないんだから。

君のすむ街

2009年6月に完成、2011年4月に改稿、星空文庫で発表。

二作目の作品です。
舞台になっているのは順番に吉祥寺、西荻窪、高円寺、荻窪、阿佐ヶ谷で
これを執筆しているとき自分が住んでいたのが三鷹です。
この区間が世界中でどこより大好きで、いつかもう一度住みたいと思っています。

あ、でも故郷も好きだし、北海道の阿寒湖も好きです。

君のすむ街

若者は消耗する。擦り減らし、絶え絶えになりながら、夢や冒険と折り合いをつける。街は狭いようで広い。何かが澄み切っていって、何かが音も立てずに壊れていく。中央線沿線で溺れるように暮らす、一人の若者を巡る群像劇。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-04-13

Copyrighted
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