ペンギンの行方

部屋には一筋、黄色いラインが伸びていた。
 それは真っ直ぐ、玄関の方に伸びていた。
 黄色いペンキで書かれたラインは、下駄箱の半ばぐらいで急に途絶えていた。何を意味するのか、何かの境界線だったのか、リフォーム屋さんが消し忘れたのか、前の住人の趣味だったのか、全くわからない。

 部屋は家具もカーテンも絨毯も全て、水色で統一されていた。
 それは何だかプールの底みたいだった。襖の黒い縁だとか、消してあるテレビのモニターがないと、距離感までおかしくなりそうだった。

 「南極の氷が、溶け出しているんです」
 大家さんはそう僕に説明して、黄色いラインを指さした。
 「あ、ああ、最近よく言いますよね、地球温暖化でしたっけ」
 丁度夏真っ盛り、外では蝉が苦しそうに鳴いている。

 「いえね、前に住んでた人が、よくそう言っていたものですから」
 そうなんですか、と僕は風呂場を覗きにいった。僕が膝を抱えてようやく浸かれるような狭い湯船が、ぽっかりと口を開けていた。窓のない浴槽。電気をつけなければ、薄暗くて何も見えない。
 「僕、普段、南極の氷がどうとか、考えたこともなかったんですがね」

 父が無理矢理渡してきたペンギンの置物のことを思い出した。南極がどうとか、どうでもいいけれど、あれをどこに置けばいいのか、少し悩んでいた。

 「何だかすごく、危機感みたいなものを感じていた人だったんですかね」
 「昔南極の調査員だったとかって有名な人でしたよ」

 実家に比べればここは音に溢れていて、ずいぶん賑やかだった。通り過ぎるバイクの音、裏の方でなく犬、鳴りの部屋に住む人の生活の音、というか足音。

 「水の出しっぱなしだけは十分に気をつけてくださいね、何人も死んでますから」
 僕は大家さんが、そんなことをぼそっと呟いたのを聞いた気がした。何だか聞き返すのも億劫だったから、生半可な返事をして、水洗トイレのドアを閉める。

 「それより、前に住んでいた人は、どこに引っ越したんですか」
 大家さんは、不思議そうに目を見開いて僕の方を見た。
 「そんなこと知りたいんですか」
 部屋をこんな風にリフォームするくらいだから、さぞかし切れ者だったんだろうと聞いてみたけれど、大家さんはどことなく冷たかった。
 「南極です」
 ああ、と僕は腑に落ちて返事をした。

 夜、僕は僕あてに届いた手紙を読んでいた。手紙というか、支払いの催促の手紙ばっかりだった。滞らせている僕が悪いのだけれど、同じような文面を見るたびに、何だか気分が滅入って、机から上半身を投げ出し、床に倒れ込む。
 目に見える全てが水色だった。果てしなくどこまでも続いているような、曇りひとつない水色が、ただ視界に広がるばかりだった。

 この部屋の前の住人は、南極に行って、南極に行って、何がしたかったんだろ何で水色なんだ、意味がわからない。
 黄色いラインもよくわからない。窓から差し込む日の光か何かが、このラインに沿っていたりするなら、すごくオシャレだと思ったけれど、全然そういうわけでもない。
 そもそも意味なんてあるのか、ないのか、そんなことを考えているうち、昔見た南極物語のタロジロを思い出していた。

 タロジロ。他の犬たちは、バタバタ死んでいったけど、あいつらだけ、生き残ったんだっけ。よく思い出せないけれど、そんな感じの話だったと思う。

 水色。一面の水色。目を細めて、その奥深い所をじっと眺めてみるのだけれど、ただただ、何だか吸い込まれてしまいそうな気持ちになっていくだけ。


 「アデリーペンギンでしょ」
 友達はこの一面水色の部屋に、少し唖然としていたが、特に気にも留めない素振りで水色の椅子に座った。
 「何が」
 あれ、と友人はペンギンの置物を指さした。
 「この間水族館で見たわ」
 どこの、と聞くと案の定、僕が昔小学生の遠足で行った水族館だった。
 「コウテイペンギンじゃないの」
 「コウテイペンギンはもっとずんぐりむっくりでしょ、首の周り黄色いし」
 へぇ、と僕は空気を吐くように返事をして、詳しいねと返した。
 「この間実物見てきたし」
 と、友人は悪びれる様子もなく、僕のマックシェイクを啜る。
 「ていうか、こんな朝早くからマックシェイクかよ」
 「全部飲んでもいいよ」
 友人と間接キスというのも、少し気分が悪かった。
 「早くしないと溶けちゃうよ」
 不意に、僕は南極に行った前の住人を思い出した。
 「そうそう、この部屋の前の住人さぁ」
 と言おうと思って友人の方を見ると、友人はもうペンギンの置物に夢中だった。
 「てかさ、この部屋冬寒そうだよね」
 全然噛み合わないまま、お互いがお互いの言葉をぶつけ合う。そうこうしているうちに、遠くの方で犬が吠えまくっていた。きっと誰かが縄張りを踏み荒らしたに違いない。
 僕がキムチ鍋にするから何入れると聞くと、靴下とか言い出す。
 意味なんかない。そうそう、意味なんかない。僕だって、気付いたら生きてたんだしあいつも多分、気付いたら生きてたんだし。
 なかなか過酷なことだ。

 友人は結局、僕のマックシェイクを飲み干し、棚からお菓子をふんだくって帰っていった。
 僕はその日の夜、部屋を片付けながら、消えたアトランティス大陸のことを唐突に思い出す。チョロチョロと、遠くで水が溜まっていく音を聞きながら、光り輝く古代文明の都市を想像する。
 もしかしたら前の住人は、それを探しに行ったのかもしれない。南極の氷が、なんていうのは建前だったのかもしれないし、本当のことを言ったのに誰かにねじ曲げられたのかもしれない。
 何れにしても絵空事だ。
 遠くの方で水の流れる音が聞こえる。
 僕は水色の中で遠くの方を眺めるペンギンに目をやった。ペンギンは身動きひとつせず、日が登る方をじっと見つめていた。

部屋が水没したのは、一昨日のことだった。
 風呂の水を出しっぱなしにした結果、浴槽から水が溢れ出し、見るも無惨な状態になってしまった。

 出窓のところにおいてあったペンギンの置物も、机の上にあったライトスタンドも、財布もテレビも、まるで足が生えたみたいに踊り狂っていた。僕はといえば、ベットの上で気づいた時にはパニックになってしまって、あっぷあっぷしてる間に水は天井付近まで達し、危うく窒息するところだったけれど、間一髪、素潜りして排水管の栓を抜き、蛇口の水道を閉めてことなきを得た。

 真夜中にそんなことに気がついて、水がようやく引いていったのが明け方だった。
 ペンギンはまた命が吹き込魔れたように部屋の中を飛び回り、ライトスタンドも財布もテレビも、無重力の中で踊るように駆け回っていたのだけれど、水が引いた後は、ノアの大洪水の後みたいに、荒れ果てた部屋が気怠そうに水滴をピチャピチャと落とすばかりだった。

 そんなこんなで、僕は引っ越しを決意した。そもそもこれは、施工不良だし、大家さんに頼んでも舐められてしまって、全く相手にもされなかったので、いっそこっちからお暇しようということにした。
 僕には世の中のことがよくわからない。
 おそらく過失は僕の方にあったのかもしれないけれど、何はともあれ出て行くことにした。

 ライトスタンドも、テレビも見つかったが、大半が壊れていた。使えそうもない。財布の中身も水浸しお札は乾かし、カードも全て抜き取り、乾かした。

 でも肝心の、ペンギンの置物だけは、どこを探しても見つからなかった。
 思えばあれは、何年も前に父がくれたものだった。
 小学生の時に僕が遠足で行った水族館で、父へのお土産に買ったものだった。
 本当は僕が欲しくて買ったのだけれど、後で父に何か言われるのも嫌だったから、あえて父にあげた。
 それをなぜか、父は察したらしくて、僕が家を出るときに、一緒に持たせてくれた。
 「それ、一緒に持ってけよ」
 手渡されたペンギンの置物は、少し埃を被っていた。
 思えば僕はその遠足で、熱中症になったのだと、その時に思い出した。頭が割れるように痛く、それから吐き気と眩暈、思い出すのも嫌になってくるような、辛い遠足の思い出が、どことなく蘇ってきて、すぐ、僕は浮かない顔をして、
 「いや、要らない」
 と一言、父に突き返した。
 いいからいいからと、カッコつけた父のプライドを傷つけるのも、何だか申し訳なく、仕方なく持って行くことにした。

 僕の手のひらくらいの、ペンギンの置物。手ぬぐいで軽く拭き、出窓のちょっとしたスペースに、置いておくことにした。

 そのペンギンが、見つからない。探しても探しても、どこにもない。
 窓の隙間の、ちょっとしたスペースから、逃げ出してしまったのか、シンクの奥の、排水口の中に、吸い込まれてしまったのか、誰かが持ち去ったのか、まあいいか、と一瞬肩を落とした後で、ふと、そのままあのペンギンが、公共の場に逃げ出して、コロコロ転がっていって、誰かがそれを、知らないで踏んづけて、大怪我をしたらどうしようと、だんだん僕は青くなっていった。
 道路の真ん中でコロコロ転がって、車に踏んづけられて、自分が壊れるなら、まだしも、相手の車を傷つけたらどうしようとか、色んなしょうもないような不安がモワモワとしてきて、僕は何はともあれ、父に連絡をとってみることにした。

 「どうした」
 「いやね、ペンギンが、逃げ出しちゃったんですよ」
 父は、鼻で笑うでもなく、妙に暗い声で
 「いよいよ頭がいかれたか」
 と言った。
 「いや、僕はいたって、真面目な気持ちです」
 「ペンギンって、あの置物?」
 はい、と僕は力なく返事した。部屋が僕の過失で水没したとは、どうしてもいえなかった。
 「置物が何で逃げ出すんだよ」
 「あのペンギン、生きてたんだよ」
 自分で言っておいて、鼻から笑いそうになってしまった。
 へぇ、と父は満更でもないような様子だった。
 呪いの人形、ロボット、宇宙人、色々逃げ道を考えても、どれもこれも、全部嘘くさく、真実から、どんどん遠ざかっていって、やがて切り裂きジャックみたいに、藪の中に紛れて行くけど、僕のモヤモヤは、全然回復しないままだった。
 「ところで、何ですけど」
 「ん?」
 「もしそのペンギンが、誰かを傷つけたら、それは僕も、罪に問われるんでしょうか」
 父は冷静に、それはないだろと呟いた。
 「誰のものかなんて、誰にもわからないし」
 「僕のこの、どうしようもない不安と焦燥感は、いつ取れるんですかね」
 「もうそろそろいいか、夕飯のおかず買ってこなくちゃなんだ」
 一大事なんです、と言おうと思ったところで、電話は切れた。

 その日の晩、僕は荷物をまとめながら、消えたペンギンの足跡みたいなものが、何処かに残っていないか、探してみたけれど、そもそも置物だし、歩くわけないかと、深呼吸し、新しい部屋の間取りを想像しながら、ゆっくり目を閉じた。

ペンギンの行方

ペンギンの行方

  • 小説
  • 短編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-06-13

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