ヒモ美学

 ママが経営しているスナックの常連客に、四十代前後でいつもスーツを着、黒縁眼鏡をかけた「ツネヒコさん」というおじさんがいる。ツネヒコさんは一見、身なりの整ったジェントルマンだが、じつは無職のヒモなのだそうだ。ヒモとは、女のひとに貢いでもらう男のひとのことを指すらしい。小学校四年生のわたしには新鮮な言葉だった。ついつい学校でそんなことを言いふらしていると、放課後、職員室に呼びだされ四、五人の先生に囲まれて説教をくらってしまった。そこでわたしは、ヒモとはだめな男を指すのだ、金輪際そんなひとと付き合わないように、と徹底的に教えこまれた。
「ねえ、おじさんはだめなひと?」
 わたしはママのお手伝いをしながら、ツネヒコさんに聞いた。
「え? ううん、おじさんはだめなひとなんかじゃないよ」
 ツネヒコさんは心外だ、というふうにかぶりをふり、ビールを飲み干した。
「おじさんは、チャレンジャーなんだ」
 わたしが首をひねると、
「いくつまでこうやって無職で女の子から貢いでもらえるのか、挑戦中なんだよ」
 おじさんは得意そうに言い、
「カッケーだろう?」
 と、しばらくしてつけくわえた。
「おとなの男のひとは、みんなそんなことをしているの?」
「そりゃあ、していないやつのほうが多いさ。圧倒的に。ヒモの才能があるやつなんて、ほんの一握りなんだから。おれはねえ、モテるんだよ、異常に。ものすごく異常に、ね。みんなモテないもんだから、おれに嫉妬しているだけなんだ」
「でも、女のひとが悲しむんじゃない? おじさんなんかにたくさんお金あげて」
「悲しくなんてないさ。愛情だけじゃもの足りないから、お金を渡してくれるんだよ。おれに、絶対にそばにいてね、っていうのを暗に示しているわけだ。あたいはツネヒコの虜よ~、行かないでねえ~」
 思いのほか、きれいな歌声。こぶしもきいている。
 なるほど、それはたしかにカッケーな、と、わたしは妙に納得した。

 それから十五年の月日がたち、わたしは会社帰りの住宅街の一角で、たまたま、ツネヒコさんとけばけばしい化粧の女のひとが言い争っているのを、見た。ふたりの争いはどんどん白熱していき――最終的にツネヒコさんは思いきり突き飛ばされて、アパートの三階から落っこちてしまった。女のひとはなおも高揚しているようで、手すりに身を乗りだした体勢で「あんたみたいなやつにやる金なんぞ、びた一文あるものかい!」と叫んでいた。わたしは急いで救急車を呼んだ。
 ツネヒコさんは打撲と骨折で全治三ヶ月だそうだ。打ちどころが悪けりゃ死んじゃってたかも。
 そのくせわたしがお見舞いにいくと、
「ねえ、真奈美ちゃん、おれ、みじめでしょ? かわいそうでしょ? 入院費ぐらい、出してくれないかなあ。真奈美ちゃんはかわいいから、なんなら付き合ってあげてもいいよ」
 開口一番に、そう抜かすのだ。
 ツネヒコさんはこれからも挑戦をつづけるつもりなのだろうか。でも、むかしの強気なやりかたとは打って変わって、同情を引こうといういまのスタイルは、見ていてかなり情けない。だけど……うん、それでも、チャレンジ精神を失っていないところはバカバカしくもすばらしい。きっと、ツネヒコさんなりの――はたからみればくだらない――美学なのだろう。今後もこのひとはそれを貫くんだろうな、うん、こうなったらとことん貫いたまま死んでほしいな。
 人生、ヒモひとすじ。
 うんうん、たしかにそれはカッケーな、と、わたしは思いながら、病院をあとにした。

ヒモ美学

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更新日
登録日
2012-11-28

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