さよなら卯月

 滑る、皮膚のうえの、血。廃墟にて。そこでひとり、静かに暮らしていた、罪のないバケモノの、からだのなかを通っていたもの。赤。(あ、ぼくらとおんなじだ)という呟きを、唾とともに飲み込んで、なまえもしらないバケモノの、つめたい手をとる。爪が、長い。指は太く、短いのに。崩れたビルの陰に咲いていた、野花を摘んで、ネムが、横たわるバケモノの、顔の傍らにそっと置く。しらないバケモノだけれど、かなしい。ネムはつぶやく。ぼくは、ネムのようにはっきりと、かなしい、と感じているのかが、じぶんでもよくわかっていなくて、同調も、反論もできずに、眠っているだけの穏やかさを湛える、バケモノを、じっと観察していた。もうれつな、雨、風、雷のあとの、拍子抜けするほどの静寂が訪れた、夜の、ネムの工房の近くで、歪みは発生し、廃墟には、不可抗力で飛ばされた。でも、このバケモノのことは、うわさではしっていて、うわさよりも、実物はもっと、かわいいな、と思った。早送りをしているみたいに、雲は流れ、すきまから覗く夜空には、白い粒の星が瞬いて、なんだか、束の間の平和、などという幻想に囚われた気分でいる。ネムの、すすり泣く声だけが、廃墟に響いている。

さよなら卯月

さよなら卯月

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-05-01

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