日々



 気安く行けない場所にある世界の風景を、こうして目にすることができる。しかも、一世紀以上の時代を跨いで。コロナ禍という状況の難しさを乗り越えて。
 こう記すだけでも、コンスタブル氏の風景画を見る有難さに胸を打たれる。収蔵する側からの提供を断られた作品もあったのだ。様々な展示が予定延期され、また中止される中、テート美術館、そして三菱一号美術館の学芸員の方々が実現に漕ぎ着けてくれたことに一来場者として感謝するばかりである。
 風景画の良さは何だろう、と考えるには現在当たり前になっている技術を取り除き、それがない時代に在る者として想像してみるのも一つである。すなわち、どこまでも写実に描かれる景色に流れる水の色、繁る樹々の年月、風と共に去る雲に残り続ける青い空、その下で生きるもの(人に家畜、あるいは自由な鳥)、そしてそれを描いた画家。まるで写真みたい、という感想は決して単純なものにならない。きっとこうだったんだという確信を鑑賞する側に抱かせる難しさは、カメラが模倣した人の眼の精緻な機能を念頭に置けばすぐに知れる。キャンバスの選択から全てが始まり、心に残るイメージの実現に向けた過程が描く側の内心の発露として形になっていく。その格闘の痕跡が微塵も残らない、必然の結晶が放つ輝きと暗がりに過ぎる時間は、こちらの鼓動となって伝わる。荷馬車に揺られた経験はない。でも、「私は分かる」と言ってみたい。憧れは、「過去」の「異国」の風景というキャッチフレーズに予め与えられたものではない。世界中を繋ぐネットワークに慣れ親しんだ今の私たちは、このフレーズにそれ程惹かれない心の鈍さを獲得している。私も例外ではない。
 コンスタブル氏によって描かれた命は、耳に障るこのフレーズの嘘臭さを否定せず、額縁の内側で展開する。私自身は、晩年の写実に成り切らない想像的な風景から受ける「ピクチャレスク」のドラマチックな印象を好むが、氏の風景画の魅力を語るなら『フラットフォードの製粉所』を挙げざるを得ない。構図を正確に取り、極めて写実に人も木々も川も地も、そして広がる天と雲を描いたこの一枚にある動的印象は、まるでアニメーションのようだと感じた。
 アニメーションとして成り立つ世界は、こちら側を知らない。だから一切揺るがない。観られていようがいまいが関係ない。彼らは彼らでしっかりと生きている。生きて、もがいて、泣いて、笑っている。作られているのだから、という言葉から向こう側に滲み出ていきそうな虚偽の自慢がない。作り手が見たものをそのまま写し取ったのでもない。
 その枠に収まるように、どこまでも、どこまでも噛み合わされた構成要素が与える適度な軋みは嘘を超えた嘘になる。それが独特な命らしさとしてこちらに写る。向こうの世界の、生活の証となる。
 そこに加えて、コンスタブル氏の描く雲の様子が、世界の幼さを人の感情として呼び起こす。定型の無さが移り変わる様子に、降らない雨と遮られた光が地に在るものの動きと連動して、その一瞬を演出する。探究とともに計算された画家の確信はその情動を手招いて、天上の形にする。さらには、と記すのが相応しいだろう海の様子としての波に、照り返す眩しさが素晴らしい『ウォータールー橋の開通式』は、ターナー氏との逸話を含めて紹介すべき二枚目として私がここに記すべきだと考える。
 風景画、と耳にすれば絵画の定番のように聞こえるかもしれない。だからこそ、その評価の確立に多大な寄与をもたらしたといっても過言ではない、コンスタブル氏の偉業が際立つ。今や当たり前になった思想と同じく、風景画への高い評価が当たり前で無かった時代があった。その過去への眼差しなしに、氏の作品への真価は下せない。
 既にある、風景画というステージにしっかりと残っている氏の手仕事に重なるように観続ける幸せは、記憶と共に日々の糧になる。そして、そこから得られる人の感情がコンスタブル氏に筆を取らせる動機となったのだ。
 強きものは、こんなに近くにある。
 私はそう確信する。

日々

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  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-04-18

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