河の無い輪廻

 湧き出た不快が、澱のように私の肚の底へ溜まる。
 未知の不均衡に直面すると、肚は澱を生む。既知の均衡が崩れると、澱は舞い上がる。均衡を保とうとすれば、澱はひたひたと底へ鎮まりこそするものの、消えて無くなるということは無い。澱が舞わぬようにと、できれば消えて欲しいと、今日まで暮らして来たのだが。
 銀灰色のラップトップの前で、箸にも棒にもかからぬ提灯記事を下へ下へスクロールしていた私は、注意散漫であった。視界を度々遮り意識を逸らす、美やら正義やらのポップアップ広告が焦燥を駆り立てたからだ。崇め奉られた少女がこちらに微笑を向けていたり、貧苦を救おうなどとのたまっていたり、自分を長方形だと信じて疑わぬ枠が、さも完璧に事を語る様に不快を禁じえない。澱が舞いそうになる。きぃっ。とどうにも我慢ならなくなった私は、ばたっと乱暴にカバーを閉じた。尻を前へ、背中を下へずるずる、椅子の背にもたれかかる。
 ふと、床を見ると、掻いた垢のような埃や綿毛様のものが散らかっている。
 澱が、肚を舞った。
 吹かれた灰のような肚の澱を何とか鎮めようと、私は席を立った。
 喧しい掃除機で、机と椅子が捌けられ露わとなった床の塵芥を跡形もなく蹂躙する。四つ足となり、食い入るような視線を方々へ配り、湿って毛羽立った襤褸布を仇討ちのように擦り付けた。塵や埃がすっかり消えると、わざとらしい化粧板のフローリングが映えた。澱が底へ沈んでいく。整然と並行する目地は贋の木目を正当化しようとしていた。
 正しくない場所に捌けていた、茶色に塗装されたパイン材と黒のアイアンで作られた古風な机を、私はがに股になって持ち上げた。早く正しい場所へ。焦る私はしかし机上の物を落とさぬよう、御座った蟹が摺り足で前進をするかの如く、窓際の定位置へ机を運んだ。いたわるように床へ机の足をつける。息もつかず、黒く錆止めが施された机の四つ足を、フローリングの真っ直ぐ走る目地へ合わせる。濃く翳った溝を踏むことは許されぬ。円と直線が接するのは点のみとならねば。細い円柱の足先を慎重に動かした。仰々しい革張りの椅子は、背もたれが机の辺に対して60度となるように設置した。
 ふぅ、と干物のように椅子へ体をもたげた。沈み始めた澱を更に落ち着かせるため、整えられた部屋をぐるりと見渡す。
 起伏に富んだ白のビニールクロスで閉じ込められた八帖のワンルームには、入口から窓への直線を挟むようにして、家具を配置してある。窓を左手に見る正面の壁にはパイン材を焦げ茶に塗装したベッド、オークの化粧板が貼られたナイトテーブル、書棚が順に右手へ向かう。私の座る横には、木枠にはまった革張りのソファが目地に沿って配置してある。整然とした家具を見て、安堵した。澱も沈み終わろうとしている。刹那、脅迫的な観念に私は襲われた。
 床を拭くためにかがんだ時、体がベッドフレームへ触れたかもしれない。
 掃除機の吸い口がソファへ当たったかもしれない。
 あああっ。と狂乱の際において間近のベッドへ寄ると、枕と反対側の方へ立った。真上から球を的へ当てるように、フローリングへ向かって生える四角い木の足へじっと視線を落とす。目地へ沿ったベッドの足を確認するや否や、足早に部屋の中央へ小股で五歩。ナイトテーブルとソファへも正面から斜め下へ視線を向かわせ──安堵した。均衡は崩れていなかった。書棚は念のため、目地へもう一度合わせ直した。入口へ向かい、引き戸へ背を向ける。定規で書いたような自室を見渡すと、肚を遊泳していた澱はすっかり底へ沈んだ。丁度大げさなオフィスチェアが、座れ、とこちらを向いていたので、私はそれに応じることにした。弛緩しきった四肢を投げ出し、沈み込むように安楽した解放感が、この厄介な性癖の記憶を思い起こさせた。
 
 記憶する最初の強迫観念は七歳の時である。まな板と包丁が衝撃する音。花かつおと煮干しの出汁が香る夕飯前。蛍光灯で黒い合皮がぬらぬらと光るランドセルへ、幼い私は翌日に必要な教科書を詰めていた。厚紙に書かれた時間割を穴があくほど見つめ、国語、音楽、理科、社会と授業が進むなら、逆の時間割で下から教科書を積み上げていく。母の呼ぶ声がすると、クワズイモの葉の様な蓋を乱暴に閉め、夕餉の席へついた。食った食ったとスキップで自室へ戻る。ランドセルへ駆け寄り、教科書を床にぶちまけた。時間割通りに入っていないと思ったからだ。社会、理科、音楽、国語と、もう一度教科書を、大きく開く黒い口の中へ積み上げた。それでもそわそわと落ち着かない。結局、翌日起きてからと、登校前と、二度同じことを繰り返した。卒業まで続いた。
 九歳になり、自由帳に円や三角形や四角形を描く遊びに夢中になった。もっと綺麗に、もっと正しい図形を描こうと脅迫的にのめり込んだ。授業は疎かになった。カツカツ、とチョークが黒板を擦る音を尻目に、自由帳へ円を描いた。どうしてあの円にならないんだろう。なんで線はガタガタなんだろう。悶々とする私は、鐘の音でやっと放課を知るのだった。
「ね、さっきのやってみてよ」
 鳴り終わった鐘の余韻が響いていた。よく肥えた隣席の友人が、その柔和な表情をこちらに向けていた。私がぐるぐるしゃっしゃ、と自由帳へ図形を描いていたのが、ずっと気になっていたらしい。体格に似合わぬ敏捷な動きで、私の机へ手を載せた彼は、綺麗な図形だったとはしゃいだ。机がきしんだ。得意げになった私は、自由帳の綴じを向こうにすると、真っ白なページを開いて、さも自然のように気取った手つきで、鉛筆を握った。2Bの黒鉛を、見開きの半分にぐるりと滑らせると、友人は驚嘆した。
「すっげ。天才か」
 彼は、彼が正しいと感じる円を描いた私を褒め称えた。その時、恣意的で曖昧な勘違いが水を吸うちり紙のように私の胸中へ広がるのを感じた。無邪気で過大な賞賛に、茹で上がった蝦のような私の顔が火を吹いたのは、自意識が肥大化を始めた証左であった。居心地の悪い思いであった。それを悟られまいと、近寄ってみると本当の円じゃ無いんだよっ、と声を絞り出した。上擦る声は彼を困ったような顔にさせた。遊びはこの日でやめた。
 
 肚の中、葡萄酒の底、杜撰だな。したり顔で結びの一句を頭の中に組み上げ、私はオフィスチェアを前後させた。ぐしし。いい比喩だ。ふと、ワインが飲みたくなったので、ワインを買いにワイソ屋さんへ出掛けることにした。ワインのンがソと誤植された庇が道へせり出していたので、私はその店をワイソ屋さんと呼んでいる。店へ入ったことはない。前を通っただけだ。しかし、ワイソと書かれた庇が赤色だったし、扉のガラスの奥に深緑の壜のようなものが見えたので、やはり洋酒、とりわけワインの専門店であるということは大方予想できた。おあつらえ向きじゃないか。すっくと席を立つ。背もたれは六十度。白磁のようなシーツが、レースカーテンで柔らかくなった午後の陽光で映えていた。こんな休日は屋上で飲むのも良いかも知らん、と思って、建付けの悪い玄関扉に澱が舞いそうになって、外へ一歩。
 エレベーターへ続く、幹線道路の反対側に面する玄関フロアを歩く。廊下は祭りを遠くに見る境内のような、独特の寂しさで満ちていた。目下の街並みも住宅やマンションばかりで静寂している。この、美学を語らずといった風景が私は好きだった。晴れているのにいつもより薄暗い様な気もしたが、まあ気のせいだろうと、昇降口の前に立ち、逆三角の釦をびすっと押した。歪な三角だった。
 貼り付けの姿見で前髪をいじっていると、天上から階を告げる無機質な女声にビクッと跳ねた。背後の扉が開かれ、こんな小心では生きていかれないなと自嘲した。濃灰色のタイルがポツポツと橙色に照らされる廊下を抜け、エントランスへ至る。さも厳重そうにガラス戸を閉じているが、千客万来な裏口のせいで尻隠さずなのが可笑しかった。ガラス戸を抜け、外へ出た私は眩しい陽光に包まれる、と思ったが通りの歩道は薄暗かった。やはり、何かがおかしい。少し傾いた、穏やかな春先の太陽を描く空は、青と光の二色という単純そのものであったが、薄墨を混ぜたとでも言おうか、どことなく翳りを帯びていた。小さな澱が生まれた。しかし、気にしていては先に進めない。コウカガクスモッグチュウイホーと口ずさみ、通りへ出た。
 歩道と車道が一列ずつある道を、長屋のように間断なく挟みこむ建物の群。花屋、道、道、道、建築事務所、道と、チラチラ目線を上げながら、レンガ調の白い歩道の目地を、目で追うように歩く。よく来る通りではあるが、正しさや美しさを誇示する建物が現れる街並みをあまり見たくはない。積年の澱が溜まった肚は容易なことでは不快を生まず、見慣れた不均衡は模様替えした家具の違和感が時間とともに腑に落ちるように澱を反応させることは無かったが、未知の不均衡へなるべく出会わぬよう、小心者は下を向くのが常である。
 自宅から最初の大通りの交差点が近づいたので、あ、もうワイソ屋さんだな、と思った。ワイソ屋さんは、煉瓦造りのビルの一階で、くすんだ赤い庇を路上に張り出させている。街へ越してきた時、澱を生みながらびくびくと通りを歩いていた私は、赤く目立つ庇に目を止められた。それがワイソ屋さん。庇を赤で無いと認識したとき、肚は澱を生んだが、不思議なもので、ワイソという字面は、ワインという字面の誤りであるにも関わらず、私の澱を増やすことはなかった。これまでも、新聞やウェブの提灯記事で、誤植を目にしたときに澱は生まれなかったから、やはり文字そのものには反応せぬのか、そもそも間違いというものに反応せぬのか、謎は深まるばかりだ、うぅむ。と思考しながら歩いていると件の店の前だった。
 ワイソ屋は、紛うことなきワイン屋であった。
 硝子窓の付いた凝ったアンティークの木製扉を開くと、手前、艶のある木造りのカウンターにワインボトルが数本置いてあった。右手は整然と並べられた大量のワインボトルの壁で、ボトルのひとつひとつにラベルがかかっており、値段やら産地やらが几帳面そうに書かれていた。店の中途で折れるカウンターは奥へと伸び、背の高いアルミの椅子が三つ、並行するように並んでいた。ははん、ここでちょい飲みができるんだなと、私は合点した。しかし今日は外。晴れやかなる日は屋上で。とワインボトルの壁から赤ワインを一つ手に取り、これなんかいいなーと思っていると、へいらっしゃいッという威勢の良い声がした。途端に自意識過剰、パリッとベストを着こなして、艶のある髪を撫でつけた白い歯の壮年の男を想像、わー目合わせらんないなー緊張するなーしかしワインショップに合わない声だったなーと、一瞬で脳の彼方へ思考を飛ばし、声のするほうを見ると、板前が立っていた。
 板前は笑顔だった。文字通り、にっとしていた。にっと光る歯は真っ白で、パリッと着こなした割烹着に良く映えていた。パリッと決まった角刈りを、ステレオタイプのねじり鉢巻きが飾り立てていた。ねじり鉢巻きは、彼の断固たる決意を表していた。
「お客さッ、今日は何にしやしょッ」 
 何にしやしょお? ワインショップなんだから、もう少し他の言い方は無いのだろうか。と思う。服や格好は店の様式なのであれば百歩譲るにしても、口調くらいは格式高くあってほしい。やっぱりベストを着ろ。そもそも、今日はと言うことは、私は前にこの店に来たことがあるのだろうか。いやない。前を通っただけだ。赤ワインのボトルを握る手が離れない。声を出せずに板前の顔を凝視していると、何を勘違いしたのか板前は、さっすがお客さっ、と囃し立てた。
「やっぱりお目がお高いッ。それは当店の逸品物でしてねッ。他ではお目にかかれない、この世に二つとないッ、ア、紛うことなき正真正銘の赤ワインなんですァ。えぇっ? ねだん? あぁ、お代のことか。そんなもんはいらねッ。とっととそれ持って、帰りやがれェ、馬鹿垂れがァ。」
 けぇれ、けぇれとレコードの針が飛んだようにまくし立てるので、結局何も言うことができず、板前を呆然と見たまま二、三歩下がり、背中で扉を開いた。捨てられた子犬のように歩道に立つと、厳かに閉まる凝ったアンティークの木製扉は、てやんでぇ、こちとら生粋の江戸っ子なんでぃという板前の言葉を閉じ込めた。ワイソと書かれた薄紅色の庇が妙に腑に落ちた。しばらく扉の前で放心していると、途端に手で持ったワインボトルに申し訳ないような気持ちにさせられた。硝子窓を見ると、板前がこちらを向いてまだ何か言いたそうに怒っていたので、やっぱり家に戻ろうと思った。
 家路は薄暗かった。手に持ったワインは少しぬるかった。剣幕に気圧され、勢い持ってきてしまったが、本当にタダでよかったのだろうか。何か悪いものでもとボトルを見ると、壜の口へはりついた包みが、異物の混入を否定していた。そういえば板前が、正真正銘と言っていたが、私の肚は。
 ふと、うぇひっという豚を絞ったような声が聞こえた。笑われた、と見上げると、社長かなんかの矍鑠とした初老が、焦点の定まらない瞳に薄ら笑いを浮かべて通り過ぎて行った。老いてなお盛んとした見た目に反する足取りは、少々気味の悪いものであった。妙な人もいるもんだと歩みを進めると、通り過ぎるOL風の女、茶色いランドセルを背負った小学生、仰々しいケースを背負った金毛と身軽そうなロン毛の二人組など、往来を行く人々は、皆一様に薄ら笑いを浮かべていた。この顔は、世界史の教科書で見た、阿片窟の辮髪のような。気味が悪い。家を出た時より、すっかり薄暗くなった通りに澱を増やし、逃げる様に歩いた。
 自宅マンションの裏口まで戻った。十五までしか釦の無いエレベーターでは屋上へ行く事ができない。不要な立ち入りを禁ずるためなのか、では何故この螺旋階段は開け放たれているのだろうかなどと詮無き事を考えながら、裏口横の禽獣の檻のように囲われた階段を上がった。目下の景色に、太い幹線道路が見えた。空はいよいよ暗くなりつつあった。肚の澱がじわじわと増えるのを感じながら、この感覚が最初に芽生えた日のことを思い出していた。あれは丁度、あの幹線道路のような広い道、そう、高速道路を走る車中だったか。
 
 離れた地元へ続く明朝の高速道路。皆で一斉に成人を祝う会場への道中、出身と年が同じ、大学ではじめて知り合った友人の黒いセダンに私は乗せてもらっていた。旅の始まりに感じる特有の高揚と、古い友人達との再会への心地の良い緊張を、私は流れる車窓から見出していた。制限速度の表示は円を模し、出口を示す看板は己が長方形であるということに疑いを持っていなかった。
 はたと暗がりに橙色の私が映る。どうやらトンネルに入ったらしい。じっと自分の顔を見つめていると、前髪が気になった。手櫛で納得させると、揺れるピアスが気に入らない。シャツに皺が残っているような気がする。ネクタイの柄が合っていない。あああっ。と追い立てられるような焦燥に駆られ、友人へこれらの不安をぶちまけた。歯に衣着せぬ彼にしては珍しく、うんとか悪くないとか銀のほうが似合うとか、鼻筋の通った細面を正面へ向けたまま、憂鬱そうに縦へ振っていた。しかし私がサンバイザーに申し訳程度に付けられた鏡で、前髪を気にしだすと、
「お前って自意識過剰だよな」
 といつもの率直な口調に戻った。ぶくっと、肚に何かが湧いた。少し粘性のある、半透明の液体だった。車窓は明るさを取り戻していた。それは悪口なのかと私は問う。彼は一瞬だけ怪訝な表情をこちらへ向けると、すぐに正面へ向き直り、彼のその直言居士を表出させたような、元の切れ長な目の顔に戻って、性格の話だよと笑みを浮かべた。
「人の目を気にしすぎっていうか、自分を良く見せよう良く見せようってすんじゃん。難しい言葉使いたがるし。完璧主義者?」
 それだ。私の人生におけるすべての行動が、その言葉で説明できた。あー、確かにそうかもと、気の無い風を装った私の小心でさえ、彼は見抜いていたのかもしれない。自意識過剰による完璧主義。聞きなれない言葉を反芻し、ぼやけた己の輪郭がはっきりと形を持ったことを自覚した。これらが不快であると、最初こそ思わなかった。むしろそれは、一辺倒な砂利の中から白い石を見つけた時のような、特異性を発見した時に感じるあの無邪気な喜びであった。この時の私はまだ、この日が、不快に苛まれる暗澹たる日々の始まりであることを知らなかった。
 
 暗澹はこの空だ。螺旋階段を登りきり、淀み切った己の肚を抱えながら見上げた空は、いよいよ漆黒となろうとしていた。夜にはまだ時間が早すぎる。ワインを買いに行ってから、一時間も経っていない。暗く晴れた空は、日が落ちて翳っていくというよりもむしろ、溜めた水へ墨を継ぎ足していくように変化していた。混凝土が隆起しているところへ腰を下ろす。程度の好いローチェアのような出っ張りに安楽したが、肚の不快は拍動のようにぶくっ、ぶくっと量を増していた。肚へ次々と生まれる不快を紛らわそうと、ぬるい葡萄酒を何度も呷った。こんなはずでは無かった。澱は肚を埋め尽くさんとしている。空はもう真っ黒である。
 ついに、澱が肚いっぱいになって、溢れそうになって、胃の中のワインを戻した。吐いたワインは赤かった。おかしい、おかしい。口元に垂れる酸っぱい液体を拭った。見上げた視界の端にくっきりと黒い、屋上の終端が見えた。もしや。
 ボトルを放り投げ、鉄柵へ走った。駆け足で蹴る混凝土も漆を塗ったような黒であったが、不思議と道は分かった。澱が、撹拌されるように腹を舞っている。口の中が酸味で気持ち悪い。形状のみとなった柵の上辺に手をかけ、絶句した。
 墨をこぼしたような街が広がっていた。空は暗澹と垂れ込め、真砂のような星も広がらなければ、ぶ厚い暗雲に覆われてもいない。ただ黒であった。マンションや住宅は、はっきりとした輪郭によって形を保っているが、穿たれた窓や無機質な壁は全て色を失していた。変わり果てた街。饐えた葡萄とアルコールの臭い。私は赤い液体をもう一度吐いた。液体は街に消えた。遠く背後から、パチパチと爆ぜるような音が聞こえるが、振り向くことができない。振り向きたくない。
 肚の澱がぼとぼと溢れる。不快でたまらない。気が違ってしまったのか、と柵を乗り越えそうな格好で憔悴していると、不意に、足を掴まれた。ぐるりと放り出されるような感覚のあと、頭頂部が下になった。落ちる。そう直感した目線の先に柵があって、その奥に、上空で燃える炎と人影を見たようで、視界が瞬時に切り替わって、扉、柵、パイプ、扉、柵、パイプ。落ちるジェットコースターを思い出して、声を上げたかったが、ごッ、という硬い音を皮切りに、その後の視界はすべて闇。
 
 白、真っ白。光、苦痛。意識を取り戻した私は、突然の閃光に目を閉じ、逃れるように顔を手で覆った。ああっ。意味が分からない。地に足がつく感覚はある。
 目を守る暗い世界でよたよたしていると、生々しい浮遊感と、高速で過ぎ去る玄関扉を思い出した。絶叫した。恐怖に目を抑えたままで転げまわった。着ている服が湿るような感覚。長々と暴れ回り、疲れを感じて蹲ると、少し落ち着き、冷静さが戻った。
 ここは、死んだ後の世界か。
 と直感し、死んでも疲れるのかと鼻で笑った。
 鼻で笑うと少し元気が出たので、目を覆った手を地につけ、片膝ずつ、ゆっくり立ち上がった。額へ手のひらを移し、感覚的におそらく太陽光であろう上からの照射を避ける。足元へ頭を向け、薄く目を開く。朧げな背の高い芝が生えている。じっとしていると、目を開ける苦痛が少しずつ和らいだ。はっきりと芝が見えるようになって、辺りを見渡した。
 そこは一面の緑野であった。藍色の空と緑の平野が地の果てまで続いていた。優しく慈しむような風が吹くと、芝は均衡を保って一斉になびいた。燦然と照りつける太陽は、生きている時に感じたことの無い光だった。
 私は全てを想起した。
 空の藍は藍であり、緑野の緑は緑としてそこにあった。皆が正しいと思っているものに対する私の歯がゆさは、やはり正しい感情であった。私を私たらしめた枠組みは浅薄なものであった。また、私が正しいと信じていた世界は、眼前に広がる景色と一切の齟齬なく、同一であった。嬉しくなった。
 皆に教えねば。しかし、どうやって。
 ふと、遠くへ白く堅牢な建物が見えた。あそこへ行けば。
 淀みのない、透明な液体が肚を満たしていた。

河の無い輪廻

河の無い輪廻

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-04-17

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