忌避と甘露。

北屋敷の坊ちゃんが私の家の呼び鈴を押した。横窓から玄関を覗けば、まだ頬赤い可憐な坊ちゃんがただ笑顔で立っている。
「何用だ。」
「今日は、兄様と旅に出たいのです。」
「場所は?」
「三社池の近くにございます、あの密林です。」
「近所じゃないか。お前、それは散歩というのだろう。」
坊ちゃんは目を丸くして言った。
「違うのです。兄様も彼処へお出かけしたことはございませんでしょう?」
どうせ仕事も物書きもしないでしょうから、と付け加えようとして坊ちゃんは黙った。私の気を使ってのことなのだろう。
「暇だがな。日が暮れるまでには帰ってこなければならぬ。爺様の葬儀があるからな。」
「亡くなられたのでしたね。僕も葬儀には何か持ってゆきましょう。」
「よいよい。子供がそんな気を遣うな。そんな事をする金があるなら菓子でも買え。死人の世話は大人がする。子供は時々会ってやればよい。私が死んだらお前もそうしておくれ。」
「兄様はまだ死なないでしょう?」
「知らぬ。ほら、行くぞ。」

薬師堂の横の獣道を進むと林へと抜ける。坊ちゃんは笑って歌って時々黙りながら私の前を進んだ。
照葉樹の横へと貪欲に伸びた森へと変わる。岩は鮮やかな深緑の苔に覆われ、苔の表面には昼間の小雨が輝いていた。
「兄様は三社池の方へと来ていないでしょう。」
「あぁ、昔行ったが覚えてないから行ってないのと同じだ。第一、ここに照葉樹林がある事も覚えてなかった。」
「とても美しい場所なのですよ。」
不思議な場所であった。
太陽が見えなくなるほど照葉樹が生い茂り、小川のせせらぎまで現れた。なのに鳥も蜥蜴も、蝉も魚も現れる気配はなかった。だから私達もこの森に拒まれているように感じられた。
「ほら、彼処の岩をご覧なさい。あの岩の向こう側に三社池と湿地がございます。」
岩は小さく見える。ここまで一時間ほど、険しい渓谷を覗けばまだ少し時間がかかるようだった。
「爺様はどうして亡くなられたのでしょう。」
「老衰だ。最も病気であってもこのご時世じゃ帰還兵で病院は飽和状態だから例え血を吐いて死んでも老衰ということになろう。」
「なにか最後に言われていましたか。」
「……何も。」
咲き誇る花の可憐にも遠く及ばぬ青顔だったのは覚えている。横に置かれた花々が残虐にさえ見えた。
夏に逝くのが本望だ。
数年前にはそう書き記していたから、未練はなかったと思う。きっと。
「老いも死も案外残酷でね。最後の三年は寝たきりになったし、晩年は一昨日以外は目も口も開けなかった。」
私もいずれそうなると、言いかけて言えなくなった。大人が冗談で言っていたのを毎日苦笑していたが、今となってはそれが本当に現実として現れそうで恐ろしかった。
「世界には二つのものが存在していて
一つは物理的世界。私達が住んでいる現世。
2つは私達の視界だ。
私は前者を信じている。だから、あの世もない。神もいない。死んだらそれまでだ。
だが死んでも世界は回る。爺様が亡くなってわかることだった。」
「私はそうは思いませんよ。」
坊ちゃんはそれ以上何も言わなかった。

岩はかなりでかでかとしていて、まるまる太った化物の様に見えるから「大食岩」というのだと坊っちゃんが教えてくれた。
その岩を袴で攀じ登り、渓谷を見下ろしては冷や汗を流した。
岩を超えると岩から降りて、その向こう側へ降り立った。
「ほら良い景色でしょう。」
言葉にならない景色だった。
「美しい。」その5文字では到底足りぬ程。
湿地の間には小川が流れ、地面は凹凸があり小さな丘がいくつも形成されていた。その上には微かに光を伴う綿毛を飛ばすたんぽぽが咲いている。
「この奥地に三社池がございます。
でも今から行けば日もくれます。ここは夜もまぁ奇麗なのですが致し方ないでしょう。またここへ行きましょう。明日も兄様の呼び鈴を押します。」
「そうか。」
水面は僅かな日光と辺り一面のたんぽぽの光を反射して輝いていた。
「僕は後者を信じますよ。僕の視界、世界には兄様がいつでも想像することができます。兄様が例え亡くなっても、兄様は私の脳裏で生き続けられるのです。ほら涙をふいて。爺様だってそうですよ。詭弁かもしれませんが、少しは世界に優しさだって必要なのです。
兄様、ゆきましょう。」

その時、ふと目が覚めた。
私は東京上野駅のホームにジャケット姿で立っていた。
辺りは夕に染まりつつある。
遠い夢路の果にいた気がする。
はて、あの子の名は何であったか。
激しい警笛が構内を包んだ。
通過の汽車が高速で侵入した。
私はその煙を吸い込むと、むせ込んで意識遠く、冷たいコンクリートに倒れていった。

忌避と甘露。

忌避と甘露。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-04-16

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